陸游『入蜀記』(東洋文庫)
この本を読んでいることは以前言及したが、ようやく読了した。南宋時代の詩人の陸游が四川(蜀)の虁州(きしゅう・長江の白帝城のやや上流のあたり)へ家族と共に赴任したときの旅日記、つまり紀行文である。
ふるさとの山陰(紹興)を出発したのが五月十八日、虁州に到着したのが十月二十七日で、主に水運での五ヶ月あまりの旅である。そこには見聞したさまざまな景色や出会った人、そしてその地にまつわる歴史的な逸話や人などが書き記されている。詩人であるが旅日記には自分の詩はほとんど書き記していない。詩は詩で別に詩集としてまとめられているからである。
本文はたぶんこの240頁ほどの本の約半分で、残りは注である。本文には知っていて当然として、ずらずら事跡や人名が書き連ねられているが、哀しいかな私にはほとんど分からない。当然注が必要なのであり、注を丁寧に読んでいると本文の二倍も三倍も時間がかかる(字も小さい)。しかもその注に書かれている情報が多く、そこでまた知っていて当然として扱われていることがこちらは分からないことだらけだから身もだえする。
普通なら途中で投げ出すところなのだが、それでも少しずつではあるが読み進められたのは、分からないなりに面白いからであろう。
宋の時代のことは『水滸伝』や『岳飛伝』などで多少のイメージは持っている。宋は北方民族に圧迫されてついに南に追いやられ、臨安(今の杭州)に都を移した。著者の陸游はその南宋の時代の人である。私は杭州が大好きで、何度も訪ねているから親近感があるのだ。
この本の中では、しばしば欧陽脩のいわれのある場所を訪ねている。彼の残した石碑や建物が戦禍で朽ち果てていたり焼亡したりしている姿に陸游がどんな思いだったのか想像できる。
欧陽脩は陸游より少し前の時代の北宋の人で、解説によると、この紀行文と同じような場所をたどって同様の紀行文を残しているそうだ。硬骨の人であった欧陽脩は北方民族と宥和政策をとることに反対を唱え、皇帝にたびたび僻地に左遷されたのである。
そして陸游もまた抗戦派として北方民族と闘うことを主張したからたびたび左遷されている。ときに命を奪われる瀬戸際にも至っている。直接的ではないが、岳飛を殺した秦檜とも軋轢があったことは先般のブログに書いた。
解説に同時代の笵成大の『呉船録』『攬轡録(らんぴろく)』『驂鸞録(さんらんろく)』の紀行文と通じるものがあると記されている。これらは一冊にまとめてやはり東洋文庫に収められていて、ずいぶん昔に通読して面白かった記憶がある。笵成大と陸游は同僚だったこともあり、互いの紀行文をつき合わせたりしていたというから、私も読み返してみようか。
来月、杭州や紹興、蘇州に行く予定である。この『入蜀記』の前半はこれらの土地であるから、それをイメージしながら訪ねたら楽しかろうと思う。
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