『グスコーブドリの傅記』
宮沢賢治のこの童話をむかし確かに読んだはずだ。自己犠牲の話であったことも覚えている。しかし今回読み直してみてこれほどの物語とは思っていなかった。
イーハトーブの大きな森に生まれたグスコーブドリは両親と妹のネリと幸せに暮らしていた。父親は木樵で、母親は小さな畑で作物を作り、グスコーブドリは妹と森で遊ぶ。
グスコーブドリが十歳の年、寒い夏がやってくる。作物はならず、人々は食べるものに苦労する。父の切った材木もなかなか売れない。そして何と翌年も同じように寒い夏がやってくる。食いつないでいた食べ物もついに底をつく。
父親が家を出て行く。そしてしばらくして母親も戸棚の穀物の粉を二人で食べなさいと言い残し、父親の後を追って家を出て森の奥に行ってしまう。
そのあと妹のネリは人さらいに連れ去られ、グスコーブドリの家はテグス工場にされてしまい、ブドリはそこで働かされることになる。それからさまざまな苦労をしながら彼を利用する者、彼を助ける者、さまざまな出会いと別れを経験して彼は大人になる。
彼は自分の人生を自分で切り開いていく。そしてついに一人前の火山局の技師となる。彼は火山局を誤解した男たちに暴行を受けてそれがニュースになり、それがきっかけで妹のネリに再会する。
まことに人生はあざなえる縄の如し。
彼はついに自分の生きてきた意味、自分のこの世での役割を知る。彼の自己犠牲によってイーハトーブは救われる。両親の行動こそ彼を生かすための自己犠牲であり、それによって生かされた彼も人々を生かすために昂然と、しかも迷いなく犠牲になる。
彼の転変たる人生を淡々と語りながら、自らの生を生きていく姿に、生きるとは何かを宮沢賢治は読者に語りかけるのだ。そうしてそういう幾多の自ら生きる人々がいてこそこの世の中は持続しているのだということを教えてくれる。
知識を持つことの大事さ、無知であることの罪、生きることの厳しさ、逆境にもねじくれない強い心の素晴らしさなどをこの物語から私は受け取ったけれど、もっともっといろいろなことがこの短い物語には盛り込まれている。
宮沢賢治はやはり凄い。
« パルス・マッサージャー | トップページ | 底をつく »
コメント