明の滅亡前後について(2)
明朝(1368~1644)の政治が急激に腐敗したのは十五世紀のはじめ、、正徳帝が位について以来である。歴代の天子はほとんど無軌道か、そうでなければ幼弱無能なものばかりで、無知で横着で貪欲な宦官たちがこれにつけ込んで政権を掌握し、勝手放題をしていた。
十七世紀に入って、天啓帝の時代には滅亡の一歩手前まで来ていた。賢明な崇禎帝が立ってから改革に手を染めたけれど、手遅れであった。
農村は疲弊しきっていたのに、北方には満州族が辺境を窺っていたため、これに備える軍事費は年々増大する一方で、それは人民の肩に重税として重くのしかかっていた。そんななか米価は暴騰していっそう庶民を苦しめた。
崇禎元年(1628)陝西地方に大飢饉が起こり、これが以後二十五年間にわたって中国全土に繰り広げられた農民大暴動の導火線となった。
崇帝二年に崇禎帝に上疎された文章にこの消息を記したものがあるので、次回はそれを引用する。
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コメント
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おはようございます
先日は私の拙い中東論を見ていただきありがとうございます。
明国の凋落はすでに早くて正祖永楽帝のころからプログラミングされていたと思います。
確かに永楽帝は度重なる外征や鄭和の航海など明国の国威を大いに伸ばしましたが、すでに宦官の過剰な徴用や、永楽帝自身の資質など、のちに出てくる凋落の兆候は見えていました。
考えてみれば最盛期のころには滅亡の兆候が見える、というのが中国史を見る上でキーワードになるようです。
では、
shinzei拝
投稿: shinzei | 2018年2月26日 (月) 06時48分
shinzei様
上がれば下がるのはこの世の理で、ソ最盛期にこそその萌芽が生まれている、というのは歴史に限らないのかも知れませんね。
宋と同様、漢民族の王朝は案外脆弱だったといえます。
唐の時代は隆盛でしたが、そもそも李朝は隋朝の楊氏同様北方民族の血がかなり混じっていました。
投稿: OKCHAN | 2018年2月26日 (月) 07時19分
こうしたことを考えるときに人口動静は参考になるといつも思っています。http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/4396/trackback
上のURLの図でこの時代の人口を見ると確かに1億人くらいから8,000万くらいに低下していますが、そのほかの王朝転換期の大規模な激減に気を取られ、気づかない程度です。これは農民反乱による大混乱より清朝に政権を渡した方がマシだと思って一旦は清軍を引き入れた呉三桂の判断があったからではないかと? もっとも、この数字どの程度正確かはまた別問題ですが(笑)
それと崇禎帝のことが出ていますが確か彼は景山で首を吊った皇帝ですよね? 以前北京に行った時その情景を模した資料館だったかにいきました。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/3819/trackback
投稿: | 2018年2月26日 (月) 12時09分
Hiroshi様
崇禎帝はおっしゃるように明の最後の皇帝で、紫禁城の裏手の景山で縊死しています。
そのときに付き従ったのは宦官一人だといいますから哀れな末路でした。
呉三桂が鉄壁の山海関を自ら開いたのは、私怨によるものだという説があります。
私もその説に賛同している一人なので、人民のために呉三桂が思慮して開関したというのは賛同できません。
また人口減が他の王朝交代期より少ないのは、そもそも侵攻してきた満州族の兵数がとても少ないことが理由ではないかと思います。
少なければ殺す数も限られますから。
それに反乱軍の活動地域が限定されていたことと期間も短かったことも理由でしょうか。
そのかわり反乱軍が封じ込められた四川などの地域での徹底した殺戮ぶりは凄まじいものがあったようです。
『蜀碧』はそのことを伝えた文書です。
投稿: OKCHAN | 2018年2月26日 (月) 12時39分