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2018年2月10日 (土)

曽野綾子『人生の退き際』(小学館新書)

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 週刊ポストに連載中のコラム、『昼寝するお化け』の中から最近のものをまとめて加筆修正したもの、と巻末にある。『昼寝するお化け』はハードカバーになったものをシリーズとして揃えているが、最近は新書になったのだろうか。この連載もずいぶん長く続いている。

 新しいから夫君の三浦朱門の晩年やその死後のことが書かれている。三浦朱門がなくなったあとどうしているのだろうと思っていたけれど、曽野綾子は曽野綾子としていままでどおりに生きているようだ。彼女の母、そして三浦朱門の両親を自分の家で看取り、最後に夫を看取ったわけである。

 晩年の老人の世話をし続け、そして自宅で最期まで見届けるというのは並大抵のことではない。それを四人も看取ったというのだから、素直に頭が下がる。そのことだけでも彼女に一目置くべきである。しかし彼女はその苦労などほとんど語らないし、当たり前のこととして淡々としている。

 ここには、彼女がそれはどうか、と首をかしげた世の中のことなどもさまざまに語られている。彼女の価値観は今までにかなり私にも刷り込まれて(エッセーばかりを五十冊以上読んでいる)シンクロしやすくなっている。そうだそうだと頷くことが多い。それでも、なるほどそういえばそうだなあ、と新しいものの見方に気付かされる。自分が如何にミーハーであるか思い知らされるのである。

 彼女を毛嫌いするリベラリストは多いが、そのことこそが私がリベラリストに懐疑的になる理由でもある。リベラリストは自由にものを考えられずに固定観念でものを見ているのではないかと思うことがしばしばある。素直に、なるほどそういう考えもあるなあ、と思うことが苦手な人が多いようである。それはリベラルか?

 世のなかにはあってはならないことがしばしば起こるけれど、それを如何ともしがたいこともまたしばしばである。そこに人間の愚かさ浅ましさがあるのだけれど、その愚かさ浅ましさが自分にもあることを自覚しないと、すべて社会のせい他者のせいにするようになる。そのことを彼女は情け容赦もなく指摘することがあるので、リベラリストには不快なのだろう。

 御年八十六歳にしてこの文章である。この次に読んでいる石原慎太郎の文章がいささか老齢による劣化を感じさせるのとはあまりにも違う。精神の自由度の違いか、政治家という激務を経ると心身の劣化も早いのか。

 彼女の健在を喜びたい。そしてなるべく遅い幕引きを願う。

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