石井遊佳『百年泥』(新潮社)
先日読んだ若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』が芥川賞を受賞したことで、やはり受賞作というのは優れた作品に与えられるものなのだと再認識した。
書店で「芥川受賞作」と帯のついた本を見つけた。それが今回読んだ石井遊佳『百年泥』である。今回の芥川賞は二人が受賞している。この小説は奇妙な味わいの小説である。インド南部のチェンナイが舞台。ある企業の日本語教師としてやって来た主人公が目の当たりにした不思議なインドが語られる。
うかつなことに、出だしの部分からしばらく主人公が女性であると気がつかずに読んでいた。
彼女がインドへやって来た理由が語られる中で、彼女の特異な性格が浮き彫りにされる。彼女の見るこの世の中は普通の人とは少し違うようである。違うのは日本にいたからで、インドではその違いは違いともいえないものになる。そもそもインドは全く違う世界だからであり、日本の常識は通用せず、その特異さは千差万別、奥行きと広がりは全く見通せない。
だから彼女にとってインドは居心地がいいかと云えば、彼女は即座に否定するだろう。しかしあるがままにインドを見る彼女の視線を通して眺めるインドは、いささか信じられないものすら、インドならそんなこともあるよね、と納得させられる世界である。インドは何でも呑み込み、呑み込ませるのだ。
私がただ一人敬慕する姉貴分のひとはインドか好きで、もう六回以上行っている。インドは一度行くと病みつきになる人と二度と行くまいと思う人がいて、女性にインドに魅せられる人が多いという。巻末の著者略歴にインド在住とあるから、著者もその一人なのであろう。
生徒の一人、デーヴァラージという青年の強烈なキャラクターが物理的なパワーで迫ってくる。それが感じられれば主人公と同化してインドを感じることが出来るし、この小説を堪能することが出来るということだ。
この本には章立てがない。だから当然目次はない。話に切れ目がなく、独特のリズムに乗せられて、一気に読む本なのである。何しろ百三十頁足らずという短さであり、長編と云うより中編の小説なのである。
むかし読んだダン・シモンズの『カーリーの歌』という小説を思い出した。その小説もインド(カルカッタ・いまはコルカタ)が舞台で、その不思議な世界がこれでもかとばかりに語られている。記憶に残るのはグチャグチャネチャネチャしたイメージである。それが皮膚感として残る凄まじい小説で、忘れがたい。
こちらの『百年泥』は文字通り泥である。チェンナイは百年ぶりの洪水でアダイヤール川の堤防が決壊して濁流に襲われる。洪水が引いた朝、彼女の目にした泥の光景が物語のメインである。
この泥は人の意識の混沌という泥でもある。そこから人はさまざまな物をひきずり出す。ずるずると引き出されたものは当たり前のことなのだが、人によって違って見える。まさに主人公が目にしたものは彼女自身の混沌である。そしてそれこそが彼女のインドである。
繰り返すがこの小説はリズムに乗って一気に読むべし。インドだったら別に不思議でも何でもないと思って、奇妙なこともすべてそのまま受け入れながら読むべし。夢幻の時間を過ごすことが出来るだろう。
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