彭遵泗(ほうじゅんし)『蜀碧』(東洋文庫)松枝茂夫訳
明朝が滅び、清朝に代わったときの話であるが、これは小説ではなく実話である。およそ人間がなすことと思われないような残虐なことが蜀(四川)で行われた。
叙にいわく
「『蜀碧』は、蜀を哭したものである。なにゆえ蜀を哭したというのか。楊嗣昌の罪を明らかにし、邵捷春の愚を憫(あわ)れみ、地下の忠魂列魄を弔わんとするものだからである。(中略)
流賊張献忠は三たび蜀に侵入し、各地に殺戮を行い、血は流れて川となった。蜀の禍いはここに極まった。このとき、士人より庶民にいたるまで、節を守って死んだものはあげて数えることができない。閨中の婦女で、あるいはみずから火を放って家とともに焼け失せ、はたまた賊を罵って殺されたものも、また数限りなかった。
(中略)
ああ、蜀は賊に恨みを受け怒りを買ういわれはいささかもなかった。しかるにかくまで残忍非道を蒙るとは、一体これは天のくだしたものであろうか。本書の読者は、必ずや嘆息して涙の落ちるのを禁じ得ないであろう。(後略)」
彭端淑(著者の兄らしい)記す
つまりこの本は反乱軍の張献忠が蜀で行った残虐非道な殺戮の記録なのである。
ところで張献忠について私の持つ簡単な人名辞典を引いてみると、
「1606~46 中国、明末の大農民反乱の指導者。延安県(陝西省)の人。1630年米脂県の農民反乱を指導し、陝西農民反乱の首領王嘉胤の部隊に合流。’33年高迎祥を首領としたその部将の李自成と連合作戦をとったが、張献忠が戦線を分裂させたため高迎祥は戦死。以後は独自の行動をとり、’40年明の将軍左良玉に敗れ、湖南・江西・四川へと進み、’44年成都をおとして帝位につき、国号を大西とした。この勝利は厳正な軍紀、租税三年免除のスローガン、佃農・奴婢の地主支配からの解放、女性解放のためといわれる。しかし李自成との統一戦線はくめず、中小地主の力を反清運動へ動員できず、結局地主軍と清軍に敗れた。
とされていて、参考文献としてこの『蜀碧』と私が次に読み始めている『嘉定屠城紀略』をあげている。
『蜀碧』で語られている残虐な張献忠と、人名辞典の張献忠が同じ人物とは到底思えない。ちなみに李自成といえば・・・と詳しく語り出すときりがない。歴史を学んだ人なら知らない人はないだろう、北京を陥落させ、明朝を直接滅ぼしたのはこの李自成である。結果的に清の先触れ部隊の役割を担った漢民族にとっての逆賊である。
この本の内容の具体的な引用は控える。前半は淡々とした戦闘記録であるが、後半は死、死、死、殺人と死体損壊の話が続く。文章だからいいが、映像では見るに耐えないだろう。死者の数は数十万とも数百万とも推察される。
訳者の松枝茂夫は著名な中国文学者であるが、この『蜀碧』は魯迅の文章から知ったという。あとがきに魯迅の文章がいくつかあげられてるので、その中から一つ引用してこの本の内容を推察してもらう。
「張献忠の性癖はことに変わっていて、労役に服せず年貢を納めないものを殺すと共に、労役に服し年貢を納めたものも殺した。自分に抵抗したものを殺すと共に、自分に降参したものをも殺した。」 (魯迅『灯下漫筆』から)
多分現在の中国共産党にとっては、張献忠は農民反乱軍の頭目として正義の人と評価されているのであろう。私の人名辞典も若い時に買ったものだから、その視点で書かれているに違いない。
ところでそのことを踏まえると南京事件はどうなのか。正反対の結論が同時に現れそうである。歴史とはかようなものであるか、とあらためて感じた。
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