まさに宋の時代のことである
引き続き陸游の『入蜀記』の話。彼が長江を遡って赴任先の蜀に向かったのは、南宋の時代である。宋は北方民族の遼に圧迫され続けたが、遼はその後、金に滅ぼされ、その金は宋の皇帝、徽宗、そして次の皇帝欽宗を襲い北へ連れ去ってしまう。宋は汴京(べんけい・いまの開封)から臨安(杭州)に都を移して存続したがそれが南宋である。のち金もチンギスハンの起こした蒙古族に滅ぼされ、ついに南宋も滅びて元になるのは御承知の通り。
宋はその北方民族と、ときに宥和(ほとんど屈服だが)、ときに抗戦を繰り返していた。有名な岳飛はその戦いに活躍したことで、中国人にとって最も英雄視される人物である。しかも末路が悲劇であることもその英雄性を高めている。彼を死に追いやったのは宥和派の秦檜(しんかい)という人物で、中国の庶民からは裏切り者として悪名が高い。西湖のほとりにある岳飛廟には秦檜夫婦の石像が置かれているが、唾が吐きかけられるのはもちろん、小便までかけられるありさまで、あまりのことにいまは周りを鉄柵で囲ってある。
陸游がその秦檜の孫と建康(南京)で出あったくだりがある。前回いったように名前が何通りもあることに留意。
夕刻、侍郎の秦伯和を訪問する。伯和は名を塤(けん)といい、もとの宰相の益公檜(かい・注に後述)の孫である。立派な座敷に通される。広大華麗な建物で、前は大きな池に臨み、池の向こうはすぐに御書閣である。おそらく下賜された邸宅であろう。
注にいわく
益公檜 秦檜、あざなは会之のこと。宋、江寧の人。1090-1153。靖康の間、御史中丞となり、二帝の北遷に従って金に行き、抑留されたが、のち国に帰り、金との和議をとなえて、主戦派の忠臣岳飛らを殺したので、後世、姦臣として蔑まれている。ここに益公というのは、益国候に封ぜられたことがあるからである。檜の孫の秦伯和、塤は陸游が進士科の予備試験、鎖庁試をうけたときの競争相手で、陸游が一位、秦塤が二位であったが、秦檜はこの結果を見て立腹し、翌紹興二十四年(1154)礼部で行われた本試験では、陸游を落第させた。しかし陸游は秦塤その人に対しては、すでに秦檜が没して十余年を経ており、特に恨みを抱いていなかったのかもしれない。このあとにも秦塤の厚意をうけている。
陸游の人となり、その時代が多少は分かっていただけただろうか。
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おはようございます
先日は私の拙いブログを見ていただきありがとうございます。
岳飛といえば『岳飛伝』が面白いですね。
忠義に尽くし、主戦論を唱えた岳飛は日本人のテイストに会う英雄だと思います。
では、
shinzei拝
投稿: shinzei | 2018年2月 1日 (木) 06時25分
shinzei様
北方謙三の『岳飛伝』は『水滸伝か』からの流れで書かれていますね。
そういえば『水滸伝』も宋の時代の話です。
南宋は臨安(杭州)を都としました。
杭州に行くと岳飛像をあちこちで目にします。
岳飛は日本の義経のような悲劇の英雄として中国人の心に定着しているようです。
私は杭州が大好きで、もう五回以上行きました。
三月にもちょっとだけ立ち寄る予定です。
投稿: OKCHAN | 2018年2月 1日 (木) 08時20分
秦檜については日本ではかなり自由な評価がなされているようですが、
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まだ中国では姦臣として蔑まれているようですね。 実はこの件について中国の歴史教科書で、1004年の「澶淵の盟」そのものの評価について学生に議論させている進歩的な教科書があり、驚くとともにその件について中国の大学で日本語と歴史を教えている人(日本人)に聞いたことがあります。しかし、その方の話だと、まだ彼は「姦臣」。「澶淵の盟」そのものも<屈辱的>という正答が決まっているということでした。
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確かにエスタブリッシュの解釈はまさにそうでした。
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…しかし、思うのですが、こうした問いかけが中国で生じ始めるということ自体に、再評価というか、それまでの定説を覆す「芽」が潜んでいると考えます。もし中国の歴史学が「科学」であるのなら当然そうでしょう。反証可能性と言いますか、科学が科学であるための条件とでもいうのでしょうか、
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投稿: Hiroshi | 2018年2月 1日 (木) 08時21分
Hiroshi様
戦前と戦後で足利尊氏の評価が大きく変わったようなものでしょうか。
吉良上野介が悪役と位置づけられているように、誰かを称揚すれば誰かが悪役に位置づけられるようです。
語り伝えられたものの評価を変えるのは容易ではないということでしょう。
真実は一面的ではありませんが、お話やドラマでの繰り返しの刷り込みの影響はなかなか拭いがたいでしょう。
日本に対する思い込みも少しは改善すると好いですね。
投稿: OKCHAN | 2018年2月 1日 (木) 09時12分