« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »
岩出山町は宮城県の玉造郡だったが、いまは大崎市の一部になっている。私がよく行く鳴子温泉のある鳴子町もいまは大崎市である。以前岩出山が伊達政宗の生地だと書いたが、間違いであった。伊達政宗は米沢の生まれであり、秀吉に移封されて、仙台に移るまでこの岩出山を根拠地とした。
富岡製糸場というと、「ああ野麦峠」や「女工哀史」を思い浮かべてしまう。苛酷な労働が行われていたことは事実であったのだろう。しかしそこには苦しみのみがあったのだろうか。ときに人は困難の中でも笑ったり喜んだりもする。ましてや箸が転んでも笑うのが若い女性である。この製糸場が、そんな若い女性たちが肩を寄せ合っていた場所でもあったことを感じながら見学した。
豫園老街に向かいます。
今回は似たような写真が並びますがあしからず。
大戦後すぐのころは、中国は蒋介石の国民党の時代でした。
上海の黃浦江(こうほこう)の浦東(ほとう)側から外灘(わいたん)を見に行きます。上海のシンボルである明珠タワーのある側です。
上海には何度目だろう。思い出すのも面倒なほど来ているから、なんとなくなつかしささえ感じます。
暗くなって蘇州から無錫に到着。腹ぺこの状態で無錫料理をいただく。期待以上に美味でした。
耦園を見たあと駐車場まで歩いて撮った写真とそのあとの木涜古鎮の写真が連続していて区切りが分からなくなってしまいました。
蘇州の名園といえば、拙政園や留園、蹌踉亭、獅子林などが有名だが、今回は耦園を訪ねました。どの庭園ももともとは個人所有のものです。その庭園を作り上げ、維持するためには巨額の金が必要でしたから、つまり大金持ちの庭園ということです。蘇州はそれだけ金が集まる場所でもあったわけです。とくに絹製品の産地でもありました。
杭州といえば、古刹の霊隠寺や、銭塘江を眼下に見下ろす水滸伝にゆかりの深い六和塔など、訪ねて欲しい場所があるのですが、駆け足の旅だから寄ることが出来ないのは仕方がありません。
翌朝、名残を惜しみながら紹興から杭州へ移動しました。とにかく忙しいのです。
夜、紹興の郷土料理を食べたあと、オプションの輪タクに乗って老街(古い街)の見物をするツアーに行きました。他の日にもオプションはありましたが、私が参加したのはこれだけです。行って良かった。
紹興酒の酒造会社に行きました。工場への道は道路工事中で、舌をかみそうなほどバスは揺れ、砂埃は立ち、日は暮れかけます。
昔の紹興の下町の風景を見に行きました。
紹興と云えば魯迅の生まれ育ったところです。実家は裕福な家でしたが、魯迅の父の科挙の試験に際し、戸主の祖父が不正を働いたとされて投獄され、魯迅がまだ成人する前に一家は財産を失って没落します。
寧波から紹興へ向かいます。高速道路を使って二時間の予定ですが、街中に入ってからの渋滞で実際には予定よりたいてい余分に時間がかかりました。いま大きな都市は人口の増加が甚だしく、当然自動車も急増しているので渋滞がひどいのです。
中国禅宗五山の一つ、天童寺に来ました。ここは日本の道元禅師が修行した寺で、ここで印可を受け帰国後に曹洞宗を開きました。『正法眼蔵』は彼の書いたものですが、彼の留学の様子は『正法眼蔵随聞記』に書かれています。といっても読んだことがありませんから分かりません。ただ、道元禅師が鎌倉仏教の創始者の独りであることは承知しています。
阿育王寺(アショーカおうじ)はその名の通り、インドで仏教を広める役割をした阿育王が、中国にも仏舎利と共に使者を派遣したことに始まるといいます。
天一閣は月湖公園のすぐ横にありますが、入り口は反対側なので外壁をぐるりと廻ります。
寧波は上海の南、紹興の東側で杭州湾に面しています。古来からの重要な重要な港湾都市で、遣隋使や遣唐使はこの港から中国に入ることが多かったそうです。あのライトアップされた場所に近いところが上陸場所でした。後には倭寇の拠点にもなったため、日本からの上陸が禁止されたこともあるようです。
郡上八幡は長良川の横にあるが、街はその支流の吉田川、そしてさらにその支流の小駄良川や乙姫川に沿って作られている。街を歩けば水の流れにすぐ出会う。側溝には清らかな水がいつも流れている。水の街なのである。
最近のコメント