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2018年3月

2018年3月31日 (土)

楊海英『「中国」という神話』(文春新書)

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 副題が『習近平「偉大なる中華民族」のウソ』とあるように、ある意味では嫌中国本と言えるかも知れない。

 内モンゴル自治区、チベット自治区、新疆ウイグル自治区の三地区は、そもそもがいわゆる漢民族の土地ではない。内モンゴル自治区はモンゴル民族の土地であるし、チベット自治区はチベット民族の、そして新疆ウイグル自治区はウイグル民族の土地である。それぞれ本来はモンゴル、チベット、東トルキスタンという国家となっていて当然の場所である、というのが本書の原点である。

 この本ではそれぞれの地区の歴史の概略を述べながら、いかに中国がそれらの歴史をねじ曲げて、古来からの中国の領土であるというウソをついているかについて論じている。

 たとえばチンギス・ハンを中国の英雄であると公然と主張していることなどがやり玉に挙げられている。確かにチンギス・ハンが中国の英雄だとは私も思わない。しかし中国人は、少なくともいまの中国人はそれを信じ込んでいて、否定されれば不思議に思うほどになっているかも知れない。

 チベットについてはブラッド・ピット主演の映画『セブンイヤーズ・イン・チベット』をはじめ、幾多の本や映画でどれほどの理不尽なことが行われたかが知る人には知られている。そしてそれを知りながら世界は目を瞑っている。中国との利害関係を優先しているからだ。チベットでは民族の固有の文化と宗教がとことん迫害された。ほとんどのチベット仏教寺院が破壊されてしまい、僧侶は殺されたり拘束されたり還俗させられた。ウイグルではまさにいまそれが行われていると著者は言う。

 中国はそれを迷妄未開の民族を救っているのだと主張し続けてきた。あたかもそう信じ込んでいるようでもある。民族浄化思想ともいえるこの考え方は、ある意味でヒットラーのナチスに似ていないことはない。漢民族優位思想に基づく漢民族の移入政策は、極論を言えばいま日本で問題になっている優生保護法による断種などの措置に通じるものがある。

 シルクロードにあこがれた世代である私は、敦煌までは行ったけれど、その先にいつかは行きたいと思いながら果たせていない。しかしこの本を読むかぎり、新疆ウイグル自治区に今行くのは極めてリスクが高いことをあらためて知った。

 チベットに何度も行っている知人女性ですら、新疆ウイグル自治区に行くのはいまは危険すぎると云うほどである。どこでも平気な彼女が二の足を踏むのであるから余程のことである。実は少数民族の多い雲南でも稀にテロ事件が起こる。初めて雲南に行き、そのときに私が散策した昆明駅前で、その一年足らずあとに一般市民百名以上の人が斧や山刀で殺されたテロ事件があった。昆明の駅はそのあと別の場所に移動している。事件が理由の一つではないかと私は思っている。

 著者は内モンゴルの人であり、民族的な怨念を抱えているから、取りあげるさまざまな事例は主張に沿うものばかりになっていることは否めない。しかしそれらは不満のエネルギーとしてそれらの地域に溜まり続け、解消されていないらしく思われる。抑えられれば抑えられるほど内圧というのはたまるものである。

 たしかに中国にはそういう内圧の高い場所があると思う。そしてそういうところに行くにはそれを覚悟して出掛ける必要があるのかも知れない。だから却ってそれを見に行きたいという気持ちがないわけでもないけれど。

岩出山・有備館(1)

岩出山町は宮城県の玉造郡だったが、いまは大崎市の一部になっている。私がよく行く鳴子温泉のある鳴子町もいまは大崎市である。以前岩出山が伊達政宗の生地だと書いたが、間違いであった。伊達政宗は米沢の生まれであり、秀吉に移封されて、仙台に移るまでこの岩出山を根拠地とした。


伊達政宗が仙台に移ったあと、四男の伊達宗泰が伊達藩の支藩として岩出山を治め、その子孫がそのまま幕末まで支配した。

今回訪ねた有備館は岩出山伊達氏によって設けられた藩校である。そのあと庭園も造園された。有備館は東日本大震災により倒壊、ようやく一昨年に再建された。

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木の陰で見えにくいが、砂岩の台地の上に岩出山城があった。城跡が残されていて、伊達政宗の大きな像が立っている。以前見たので今回は山の上には登らなかった。何度も行くほどのところでもない。かわりにこの有備館はなんと四回目である。

今回初めて周辺をぐるりと散策してみた。

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右手が堀跡なのであろう。左手の生け垣の中が有備館の庭園。

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さらに進んで振り返ればこんな感じである。

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生け垣越しに中を覗く。建物が有備館。中も拝観できる。

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ぐるりと廻ると正門があり、拝観の入り口がある。ちょっと駅に立ち寄ってみる。

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オープンなプラットホーム。ここを走るのは陸羽東線。本来は宮城県の小牛田(こごた)から山形県の新庄までの線だが、たぶん仙台が始発になっているのではなかったか。さらに新庄から酒田まで陸羽西線が走っている。

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有備館の正門。見学者の入り口はこの右手にある。

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これが見学者の入り口。中はこのあとの回で紹介する。

2018年3月30日 (金)

ほんの一汗のことだったはずなのに

 ベランダの掃除をした。高の知れた広さのマンションのベランダだが、私の部屋のベランダは鍵の手の部分だけ他の部屋よりも広い。鉢植えが大小四つ置いてある。一つにはパセリが繁茂し、ひとつにはニラが今年の葉を茂らせている。残りの二つは昨年は友人からもらったプチトマトの苗を植えていたが、その枯れ枝がそのままである。

 その二つの鉢の土を全て篩にかけて根を除去した。ふるった土に緩効性の肥料をまぜ、鉢に戻す。一つには紫蘇の種を蒔いた。紫蘇はアブラムシがつきやすいので心配だが、そのときはそのときだ。もう一つには何を蒔こうか思案中。モロヘイヤでも試しに蒔こうか。父が大好きだった。
 
 段差のある排水溝も含めて全体を丁寧に掃き取り、排水口を掃除する。排水口の詰まりは不快なので、ここはこまめに掃除していたつもりだが、隣の家からわずかながらゴミの流入があるので、油断がならない。ベランダにはほとんど物を置かないようにしているが、完全になにもない状態にはなかなかならないものだ。

 洗濯ものを干す竿などがあるのでそのあたりでは立ち上がれないで苦手な中腰になる。ふだんと違う姿勢での作業をしたので腰が痛い。たいした作業でもないのに汗だくである。日ごろの横着によって身体がとことんなまっているのを実感する。

 シャワーを浴びてさっぱりする。ビールが飲みたい。しかし五時前は厳禁と決めている。こうして耐えたあとのビールはことのほか美味い。これで今晩もたぶん酒を飲んでしまうだろうなあ。

若い女性たちがいた

富岡製糸場というと、「ああ野麦峠」や「女工哀史」を思い浮かべてしまう。苛酷な労働が行われていたことは事実であったのだろう。しかしそこには苦しみのみがあったのだろうか。ときに人は困難の中でも笑ったり喜んだりもする。ましてや箸が転んでも笑うのが若い女性である。この製糸場が、そんな若い女性たちが肩を寄せ合っていた場所でもあったことを感じながら見学した。


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最初に見学するのが繭の貯蔵庫。巨大な倉庫がいくつもある。繭は燻蒸でもして虫は殺してあったのだろうか。そうでなければ孵化してしまう。それにしても長く置けば腐ってしまうから、それだけ大量の繭がどんどん絹糸として紡糸されていたと云うことなのだろう。

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ここが満杯になるとしたらすごい量である。

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ここが繭から糸を紡糸する場所。工場の真ん中に立っている。後ろ側も同じくらいある。昭和六十年代の初めまで稼動していたと云うから、かなり自動化した近代的な機械である。近代的と云うことはそれだけ高速化したと云うことで、高速化したということはそれだけ忙しいと云うことでもある。人は便利になればなるほど楽になるどころか忙しくなる。

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女工たちの寄宿舎。木造の建物は劣化が早い。いかにものたたずまいである。それでもここには若い女性たちのさざめきがあったはずである。

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診療所。

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病室。ここは畳敷だが、ベッドの部屋もある。

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別の寄宿舎を横から見る。こちらの方がすこし新しそうだ。

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横から覗くと洋裁室とか教室とかという看板が掛かっているから、教育も行われていたようだ。

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こういう何でもない場所に過去が浮かび上がって見えてしまう。

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社宅群の中の一軒。一番立派だったから工場長か誰かえらい人の家族が住んでいたものか。

全体が整備途中の様相であった。ある程度の料金を取って見学をさせるのであれば、もう少し工夫が要るであろう。この工場の様子では死んだものを見せている感じであり、実際に若い女性が実演する場所をわずかでも設けてあれば、はるかにリアリティがあって良いのに、などと思った。

2018年3月29日 (木)

思い出す

 トランプ大統領の関税強化の動きに、貿易戦争勃発だと世界が色めき立っている。その施策の目的も、選挙目当てだ、中国に対する経済攻撃だなどといろいろと取りざたされているが、いまの時点では憶測の域を出ない。どうなっていくのだろう。日本にとってどういう影響が出るのだろう。若い人たちが少しでも楽に生きられることが、彼らに寄食する私のような年金老人にとって大事なことであるから、彼らが苦労する事態にならないことを願うばかりである。

 先日世界遺産になった旧富岡製糸場を見学した。人は多かったけれど、一時ほどのことはないようで、おかげでゆっくりと見学することが出来た。中はとても広い。案内を頼めばわずかな料金で説明を聞きながら廻ることが出来る。それが四、五十分かかるというのだから、その広さが分かるであろう。富岡製糸場そのものの写真は一部を除いて次回にあらためて紹介するが、今回書きたいことは別にある。

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 私が大学を出て化学製品のメーカーに就職したのは昭和四十八年(1973年)で、この年は石油パニックやトイレットペーパー騒動のあった年である。世の中はものが手に入らなくなるという危惧から買いだめに走り、一部でパニック状況を呈していた。普通に手当てをしていれば問題ないものまで、何ヶ月分も買いだめしようとするから十分有るものまで不足したように見えてしまう。それがさらに買いだめを促進してしまった。

 営業に配属されてようやく世の中の仕組みが見えてきて、仕事にも慣れはじめたころにこのパニックに遭遇し、オーダーを受けきれないという事態の対応にてんてこ舞いした。こんなことは一過性のことだとわかっていても、納品先の工場の資材の方は材料の確保の責任があるから必死である。若僧(私である)が事情を説明してもなかなか聞きいれてくれるものではない。しばしば感情的な言葉も頂戴したが、そのときに先輩諸氏にどれほど助けられたことか。長年の営業による人間関係がどれほど信頼を伴うものであるか教えられた。思い出したのはそのことではない。

 さまざまな業種に私の奉職した会社の化学製品は使用されている。私が配属されたのは、繊維関係の工場を得意先とする部署であった。

 むかし、激しい日米の貿易戦争の発端は繊維産業が標的だった。よく報道される、アメリカによる自動車産業のバッシングより少し前のことである。しかし繊維については報道されることがない。それはなぜか。日本は全面的にアメリカに屈服し、自主規制によってほぼ完全に輸出を停止してしまったからだ。

 それではアメリカの繊維産業はそれほど日本のためにダメージを受けていたのか。すでにアメリカの繊維産業は斜陽であったから、繊維規制で事態は何も変わらなかったと云われている。結果的に日本の繊維産業だけがダメージを受けて日本中の繊維の産地が衰退に追い込まれた。日本が規制されていたときにそこに入りこんだのは韓国や中国の製品で、アメリカの繊維産業は回復することはなかった。

 つまり日本の繊維産業は、日本政府にアメリカとの取引の材料として見捨てられたのである。日本の繊維産業は重厚長大型の産業の陰で衰退していくことは必然ではあったが、突然の政府の規制によってソフトランディングをする間もなく、衰退を加速した。

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 私が繊維産業の分野の担当として北関東の両毛地帯や秩父、新潟などを走り回っていたのはそういう時代だった。産地の中小の工場が次々に廃業や倒産に追い込まれていった。そして産地そのものが維持存続が出来なくなっていったのを目の当たりにしたのである。

Dsc_5861 こういう場所を見ると昔訪問した得意先の工場を思い出してしまう。

 今回富岡製糸場を見学して思い出したのはそのことである。すでに高崎や前橋のシルク産業は中国の安価品に太刀打ちできずに消滅しかけていた。富岡も同様であっただろう。技術的なアドバンテージを活かすべく努力する工場もあったが、品質よりはコストダウンに重きを置く傾向があった。ある程度の規模を持つ企業は家内工業的な品質勝負など出来ないものなのだ。

 そんな思いで富岡製糸工場を見たのである。詳しい写真は次回に報告する。

膝が痛い

 階段を登るときに膝が痛い。以前は一時的に痛みがあることがあってもすぐに何ともなくなっていたが、定常的に痛みが続く。いまのところ我慢できるけれど、不快である。治るのだろうか。

 北への旅から昨夕帰宅した。中国旅行も含めて美食と美味い酒を歯止めなしに飲み食いしていたので体重が自分で決めているリミットを大幅に超えている。これが膝に負担になっているのであろう。もういい加減にしろ、と膝が言っているのである。

 十年くらい前からこの時期になると目のまわりが痒く、鼻がむずむずする。いわゆる花粉症の軽い症状が続いていたが、それほど苦痛に感じるほどのこともなかったので、深刻に考えることもなかった。ところが今年はかなりきつい。眼のかゆみはさらにひどくなるし、鼻水は出るし、くしゃみも止まらない。今回の旅行中、強い風が吹くととくに症状がきつかったから次のレベルの少し重い症状になったようだ。これはかなわない。いつ頃まで続くのだろう。

 昨晩は鰹の刺身などを肴に岩出山(伊達政宗の生地)の有備館(後日紹介)の近くの森泉という酒蔵で購入した生酒を飲んで、旅を反芻して酩酊した。今朝はさすがに多少の疲れが出て何もする気が起きず、ボンヤリしている。今日からすこし節酒と減量をしないといけないなあ、などと考えている。

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2018年3月28日 (水)

そういうこともあるかも知れない

 全く根拠のない妄想的な言説は論外として、私は資料をとことん読み、深く思索した上の飛躍的な仮説は、飛躍しすぎていることを理由にして否定をしたりしない。その飛躍の裏付けとして呈示されたものをとりあえずそのまま受け取って耳を傾ける。

 飛躍した仮説にはしばしば齟齬があり、誤謬がある。反対者はそれを突いてその仮説を否定する。それでつぶれるようなものなら社会的な評価もないまま幻の説として消え去るのみであろう。しかし、ときとしていままでの定説の方のほころびが顕わになることがある。そのとき仮説は輝く。ところがその定説のほころびが弥縫され、仮説の正しいかも知れない本質がみすみす握りつぶされることがあるという話を聞くことがある。具体的な話もいくつか知っているが、一方的になるおそれがあるし、差し障りもあるので書かない。

 私は基本的に「そういうこともあるかも知れない」というスタンスでものごとを受け止めることにしている。ときに荒唐無稽なものも頭ごなしに否定したりしない。陰謀説なども面白く拝聴したり読んだりする。いままでなかったことだからこれからもない、などと決めつけることもしない。

 逆に統計数値やグラフが網羅されたような本を読むのは最も苦手である。結局それを読み解いた上で書かれた文章で始めて意味を理解したりする。だから私にとってはその文章だけで十分だったりする。そもそも統計の数字とは何かということを考えだすと、頭がぐるぐる廻りだして、気が遠くなる。具体的なものを数字に置き換えることこそが私には越えがたい飛躍に感じられてしまうからである。科学的な思考が苦手なのである。私は理科系の学部の卒業なので、そういうことを言うと友人によく笑われる。 

 飛躍した仮説はものごとに違う観点から光を当てることがある。そのときその光を当てられたものが初めて私に意味をもたらしたりする。いままで全く興味も無く、理解も出来なかったことが初めて私のものの考えの材料として役割が与えられる。

 めったにないことだが、そういうものに巡り会うととても嬉しい。「そういうこともあるかも知れない」という姿勢を忘れないようにしようと思う。

 どうも肝心のことを遠回しに言いすぎて何を言いたいのか分からない文章になってしまった。大変申し訳ない。

口直しに上信越道の横川のパーキングで撮った妙義山系の山の一部を見ていただく。

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そう考えているからそう見えるのか

 今回の江南の旅で、中国の監視カメラの多さを実感した。いままでそんなことを感じたことがないので、急増しているのだろうと思うが、もともと多かったことにお前が気がつかなかっただけだといわれれば、今回感じたことを言っているだけなので反論の仕様がない。

 ヨーロッパ、とくにイギリスは中国よりも人口あたりにするとはるかに多いというご指摘をいただいた。統計数字上の事実なのであろう。知らなかった。想像だが、移民が増えれば犯罪も増えるという懸念からであろうか。本当のことは知らない。何らかの必要があるのだろう。

 しかし監視カメラは監視するためのものであるから、台数が増えることは監視社会に向かっているということが確かなことのように思われる。そして中国がイギリスよりも台数が少ないから中国は必ずしも監視社会ではないなどと言うことも一概に言えるものでもない。そもそも中国の統計値そのものに疑念を示す専門家も多々あるのであるから、私としては実感としてとても監視カメラが多いなあ、と感じたということを報告しただけである。

 そこから中国がさらにさらに監視社会になり、『1984年』のような世界に向かっているような気がしたのは私の思い込みかも知れないが、そういう思い込みがあるから監視カメラの増加をことさらに取りあげたわけではない。

 人が自分の思い込みに都合の良い情報だけを取りあげてその思い込みを補強しようとするのはしばしばあることで、なかなかその輪から抜け出せないのは哀しいことである。

 科学的にものごとを考えることでそのトートロジーから抜け出せるというけれど、科学的というのは再現性ということで、つまりは数学的ということだろう。数字を信頼する、統計を信頼するということを科学的というならば、まことに世の中はシンプルで分かりやすい。

 しかし社会的なこと、人間の行動はしばしばそういう数学的なものとなじまないことは、人文科学を科学とは云わないのではないかという論に象徴されている。人文科学にはしばしば再現性がないのである。私は私の感覚をとりあえずまず優先的に位置づけし、しかしそうではないのだという話にも耳を傾ける用意がある。ただ、自分の実感よりもまず統計を信じるということはあまりない。

 つまり私は科学的な人間ではないのであり、しばしば間違いも犯してきた。たぶんこれからも変わらないだろう。自分の感覚を大事にすることに変わりは無いのである。これは反知性主義なのだろうか?自分がそうだとはいままで気がつかなかった。

2018年3月27日 (火)

北へ

 先週末、北関東の周大人に久しぶりに会いに行くついでに、所用もあったので北へ車で走り、いつもの鳴子温泉に泊まり山形県へ足を伸ばし、新潟回りで帰ってきた。

 そういえば、以前周大人と飲んだ話をこのブログに書いたら、見知らぬ人から、「たかるのもいい加減にしろ」というような意味のコメントをもらってびっくりしたことがある。私は人にたかったことはないつもりだ。でも自分ではそのつもりがなくてもそう思われるような行動があったのか。

 どうもそのコメントの主は、周大人を自分の知っている周某という人だと思い込んでいるようであった。はっきりさせておくが、周大人は、中国大好き人間で、自費で中国に語学留学をするような人であり、周恩来に敬意を持っているから、私へのブログには周さんというニックネームを使っているだけである。本当の名前は周とは無関係である。それに私は周大兄と飲むときはおおむね割り勘である。友人であるから、たかったりたかられたりする間柄でもない。

 たぶんその人が思い込んでいる周某という人に確認もせずに勝手に決めつけて、私を驚かせてくれたのであろう。いまそのときの不快な気持ちをおもいだしてしまった。

 気を取り直すことにしよう。

 朝自宅を出て小牧インターから東名高速に乗る。はるかに白く御嶽山が見える。小牧ジャンクションから中央道に入る。内津峠を越えて岐阜県に入る。多治見への急坂を下り、北上する。長い恵那山トンネルを抜ければ長野県である。飯田を過ぎたあたりで右手には南アルプスの山々が見えてくる。北岳がどれで、どの山がなんという山だか知らないのが口惜しい。やがて左手には木曽駒ヶ岳が見えるはずだが、あいにく上の方は雲で隠れて見えない。そういえば去年どん姫とふたりで木曽駒ヶ岳のロープウエイを登ったなあ。寒かった。

 岡谷ジャンクションから長野道に入る。塩尻を過ぎれば左手に北アルプスの前山が見えてくる。奥の方の高い山々はまだ真っ白で、冬山の姿である。今年も上高地へハイキングに行こう。松本には友人もいる。姨捨のサービスエリアで盆地の景色をしばし眺め(写真を撮るのを忘れた)、更埴ジャンクションから上信越道に入る。

 しばらくすると浅間山の神々しい姿が見え隠れする。上は吹雪だろうか、白い雲がかかり、それが横に引きちぎられるようにたなびいている。やがて軽井沢。そして碓井トンネルを抜ければ奇怪な山々が次々に現れる。妙義山系の山々である。ここはいつ見てもドキドキわくわくする。それくらい不思議な景色を見ることが出来る。

 山を一気に下り、左に折れて関越道を北上する。しばし後に今度は右に折れて北関東道に入る。すぐに懐かしい赤城の山が左手に見えてくる。実はその前に、今回世界遺産登録してから初めて富岡製糸工場に立ち寄ったのだが、そのことは別に報告する。

 その日はそれで北関東に一泊し、美人三姉妹のお店で周大兄と歓談する。美人三姉妹と言っても実は一人はお母さんなのだが、見分けがつかないほど若々しいし美しいのでどう見ても三姉妹なのである。今回は事情があって周大兄は酒が飲めないので、ノンアルコールビールでおつきあいしてくれているが、本人も言う通り、酒がなくても楽しければ話に酔うのである。

 翌日は北関東道に再び乗り、岩船から東北道に入る。やがて日光の山々が遠望される。天気が良いと白く光る山がよく見えるのである。さらに北上すれば今度は那須高原の山々が視界に入る。去年は那須岳のロープウエイのすぐ下の山小屋のようなホテルに泊まった。また来て下さいと便りをいただいているので機会があればぜひ行きたいものだ。

 福島県に入るとやがて安達太良山が見えてくる。智恵子抄を思い出す。郡山を過ぎれば今度は吾妻山系の山々が迎えてくれる。吾妻小富士もくっきりと見えている。こんなに綺麗に見えたのは久しぶりだ。さらに北上し白石を過ぎれば今度は蔵王の前山が見え隠れする。もう宮城県である。山形道への村田ジャンクションをそのまま北上。山形方向にも行きたいけれど、今回はさらに北上するのである。

 東北道には不思議なことに(私が勝手に不思議に思っているだけである)ほとんどトンネルがない。そのかわり峠道がとても多い。峠を登りまた下る、の繰り返しである。それなのに燃費は平らの道を走るのと変わらないのは下りで挽回しているからなのだろうが、これも考えてみれば不思議なことである。  

 こうして山を眺めながらドライブ旅を楽しんだ。

 旅先の話はこのあと写真と共に何回かに分けて報告する予定である。

大江舜『団塊絶壁』(新潮新書)

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 団塊の世代というと昭和22年から24年生まれの人たちを言うようだ。私は昭和25年生まれなので含まれないらしい。別に含まれなくてもかまわないようなものなのだが、なんだかのけ者にされたようで口惜しいのは不思議なことだ。

 確かに私の中学時代の一学年のクラスは、23年生まれの人たちは10クラスもあったが、24年生まれでは9クラスになり、私のときには8クラスになった。とはいえ26年生まれは6クラスに減っていたから、25年生まれも団塊の尻尾といって良いと勝手に思っている。

 とはいえ、教師からは、お前たちは闘争心が足りない、先輩達とは全く違う甘ったれだ、とよく言われたから、たぶんハングリー精神や競争心が劣るのだろうと思う。そのことは大学に入って寮生活をしたときに、とても強く実感した。先輩諸氏のパワーは段違いに強烈であった。しかしその洗礼を受けて鍛えられたことも確かである。

 なんだかおろし金で磨られるような厳しい仕打ちを受けたから、新入寮生で寮にとどまるのは格別鈍感か根性のある人間だけだった。私は鈍感でしかも面倒くさがりだから最後まで残った。だから結果的に団塊の世代の精神は受け継いでいると思っているが、後輩に対してはかなり甘い。きついことはしたくないのである。

 それでも会社に入って年下の同僚に、ずいぶんきついことを言う、といわれて驚いたことがしばしばある。こんなことできついと思うとはなんたる軟弱、と感じたものだ。私の子どもたちは、私の洗礼を受けているから何処へ行ってもあまりめげないようで、多少は役に立っているのだろう。

 肝心の本の話であるが、団塊の世代が今後直面したり抱えるであろう問題点が列記されている。病気、老人ホーム、金銭、セックス、安楽死、葬式と墓、等々。身につまされる話がたくさん盛り込まれていてなんだか暗くなるが、なるようにしかならないものは致し方がない。悪あがきしたところでどうしようもないのである。

 ただ、これから起こりえることを知っておくことは、覚悟を決めるために必要なことであり、自分の最期を、つまり死までの見通しを多少は考えておくことは必要だろう。そのためにはこの本は役に立つ。誰もがたどる道なのだが、とくに団塊の世代は厳しい状況になることが予想されるようだ。

 自分たちはけっこう親の面倒を最後まで見た人が多いが、自分のときには子どもたちに面倒を見てもらうつもりがない人の方が多いようだ。私もそうである。そうなれば社会に面倒を見てもらうつもりだろうが、それが団塊の世代の宿命として数が多すぎて社会が引き受けかねるというのである。つまり野垂れ死にする可能性のある人たちがたくさん出るかも知れないよ、というのであるからそのつもりで覚悟しなければならないようである。

 仕方がないか。

2018年3月26日 (月)

文化大革命の要素の一断片

 いま『文化大革命の真実 天津大動乱』という本を読んでいる。大部の本なので読了にはしばらくかかると思われるが、とても面白い。以前にも書いたが、文化大革命は若いときから私のこだわっているテーマの一つである。いまの中国を知るためには知っておく必要のあることだと思っている。

 その中の文化大革命前夜の時期についての文章からその「左」傾化の様子が説明されており、まさに文化大革命の要素と思われることがまとめられているので以下に抜粋する。

 党内抗争においてはこうした「左」の伝統があり、いったん問題があるとされてしまうと弁明はできず、ただ罪を認めるしかない。さもなくば、それは党に徹底的に抵抗するということになってしまうのだ。非常に恐ろしいことだ。

 党内闘争にはさらにもう一つの特徴がある。それはほとんど全てのほとんど自己防衛のために行動するということだ。人は本能的に利益を求め、そして害を避けるように行動するものである。一方、共産党の党員としての行動は政治的価値に支配されており、いかなる反党、反革命的行為もすることができない。「左」傾思想の指導の下、これまでの党内闘争の経験から、人々は批判の対象となる者とはっきりと一線を画し、なおかつ積極的に彼らを公然と批判しなくてはならないということを知った。なぜならば、そうすることで初めて自己を守ることができるからだ。会議参加者はよく理解できない情況の中、それでも雲を掴むような公然とした指摘を行い、際限なく原則的政治路線の問題に格上げして批判を行わなくてはならないのである。正しいと言うか正しくないと言うかは認識上の問題であり、言うか言わないかは立場上の問題である。発言をせず態度で示さないことは許されない。

(中略)

 闘争が開始されると、人間関係に異常な緊張がもたらされ、自己を防衛し、他人を公然と批判することが人々の行動規範となるのだ。誰を責めることもできないと私(著者)は思う。「惟上是従(*)」という信念、「『左』であればあるほど革命的である」という情緒、自己防衛の行動、この三つに支配された情況で、皆「左」傾の洪水に流され、その流れに逆らうことなどできないのである。批判する際に、どの程度原則的政治路線の問題に格上げするかは人によって違うだろうが、しかし誰であれ一定程度はそうせざるを得ないのである。われわれの党における闘争哲学は、結局のところ、党内民主を全く欠き、極端に深刻な結果をもたらしてしまった。

(中略)

 全国で展開された四清(スーチン)運動(**)で、いったい何人の粛清されるべきでない基層幹部が粛清されてしまったか。それは分からない。

 私が考えるに、「文革」という大きな災禍はそれまでの党の政治運動の流れの単なる必然であり、これまでの政治運動における「左」の集大成であった。そしてまた、中国において長期に渡って存在してきた封建主義専制と「極左」が一時に発露したものであり、中華民族にとって貴重な反面教師的教材となったのである。

*惟上是従・・・上の者の命令に下の者が唯々諾々と従うこと

**四清運動・・・文化大革命に先立ち、社会主義教育運動の中で行われた運動で、もともとは労働点数、帳簿(勘定)、倉庫、財産の整理(これが四清)を行ったことに発する。その後社会主義教育運動の中で、政治・経済・組織・思想を清めることと規定されるにいたった。

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 今回の旅行中に同行者の一人(ちょっとしゃべりが過ぎて、ガイドの説明にかぶせて知ったかぶりをするのでうるさい人だった)が、「文化大革命についてどう思うか?」と尋ねた。ガイドは真顔でその人を見て首を振り、「知りません、生まれていませんでしたから」と答えた。後で「日本でなら、いくらでも政治の話をしましょうか。中国では言えることと言えないことがあります」と笑った。

 中国について詳しいそのおしゃべりの人は、知識はあるけれど中国のなんたるかが全く分かっていないようであった。いったい何を見ているのだろう。

江南の旅・豫園老街

豫園老街に向かいます。


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公園を抜けていくと、路上で楽しげに社交ダンスをしている人たちがいます。友達(男女問わず)を作れるので最適の楽しみだそうです。やはりひきこもらずに人に接することは好いことです。

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右手に豫園老街が見えてきました。

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老街への入り口です。今日も人が多そうです。財布は絶対に尻ポケットに入れてはいけません。

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アーケードを抜ければ別世界がそこにあります。

小籠包と言えば南翔饅頭店ですが、ガイドは別の店で食べてみることを薦めます。

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この店です。とくにお薦めは蟹味の小籠包。小ではなく大籠包でした。

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いちおう並んで入るのですが、油断していると割り込まれます。

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このあとようやく手に入れました。味は・・・正直言って南翔饅頭店の方が美味しいです。

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人が多いように見えますが、いつもよりこれでずっと少ないのです。すいていると言って良いくらいです。

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西施が人混みを見つめています。西施は中国四大美女の筆頭。歴史的にも一番古いし美人度も高いとされています

そういえば奥の細道の中の象潟で、芭蕉が詠んだ句

  象潟や雨に西施がねぶの花

とありますね。ねぶの花とはもちろん合歓の花のことです。

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ガイドの郭さんが持つ鯉のぼりについていくのもこれが最後です。このあと浦東空港までバスで走り、郭さんや運転手とお別れして機上の人となりました。

今回はたいしたトラブルもなく、毎日好天で、恵まれて濃厚な旅となりました。それにしても忙しい旅でした。

長々とおつきあい戴き、まことにありがとうございました。

次回からは文体を「ですます調」から「である調」に戻します。その方が書きやすいようです。

2018年3月25日 (日)

江南の旅・外灘からの眺め

今回は似たような写真が並びますがあしからず。


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こんな高層ビルが眼に入ります。

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あだ名があって、左から注射器、ねじ回し、そして栓抜きですが、栓抜きを横から見ているので名前の意味が分かりにくいかも知れません。ここから見るのを剣と言ったりもするそうです。この剣を日本人は森ビルと言ったりしますが、中国人はとても嫌がります。

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明珠タワーを入れて勢揃い。

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これは浦東側ではなくて、上海中心部側。屋根が金ピカなのが中国らしくて気にいりました。とはいえ日本でも浅草の隅田川越しに金ピカの・・・が見えますけれど。

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最初にいたのがだいぶ南側だったので、自由時間で精一杯北まで歩いてようやく時計塔を見ることが出来ました。ここまで行かないと外灘とはいいません。

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あの鏡玉(私が勝手に名付けました)が見えました。

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明珠タワーよさらば、

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時計塔、外灘よさらば、また来るよ!

名残を惜しんで、最後の見物場所の豫園商城へ行きます。

江南の旅・上海の周公館

大戦後すぐのころは、中国は蒋介石の国民党の時代でした。

その時代、周恩来が上海で共産党活動をするために拠点にしていた建物に行きました。

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通称を周公館といいます。周恩来がここに常駐していたのは二年あまりだったようですが、その後も共産党の拠点として利用されてきました。

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こんな通り沿いにあるのでバスは停車できません。でも古い街並みの雰囲気のある良いところです。

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ベッドと机の置かれた個室がいくつもある三階建てで、これは窓側の打ち合わせをする場所だったところのようです。

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二階から見えた庭に出てみました。

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片隅に周恩来の像がありました。われわれのよく知る周恩来よりも若いときのものでしょうか。

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別館です。こちらには古い写真などが展示されています。

毛沢東に関する本は何種類か読んでいますが、周恩来の本は読んでいません。『周恩来秘録上・下』という本を購入してあるのですが、まだ手がついていません。これを機会に読んでみようかと思いますが、年内に読めるかどうか。

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木蓮が咲きかけています。全部咲いたらきれいでしょう。

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おまけ。懐かしいトロリーバスです。いまはパンタグラフは下がっていますが・・・。

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上がって電線につながっているバスを見つけました。

このあと外灘に行き、昨日見たのとは逆に浦東側を見ます。

2018年3月24日 (土)

江南の旅・上海黃浦江浦東側から

上海の黃浦江(こうほこう)の浦東(ほとう)側から外灘(わいたん)を見に行きます。上海のシンボルである明珠タワーのある側です。


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明珠タワーの近くでバスを降りました。むかしから見るとやや薄汚れて輝きがなくなっているようです。それにしてもユニークな形をしています。

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土手を上がり、外灘を黃浦江越しに遠望します。

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夕方の光に外灘は佇んでいます。

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アップにすれば戦前からの古いビルが眼に入ります。

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遊覧船もナイトクルーズの準備に入っているようです。

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目を浦東側に戻して見上げれば、新しい高層ビル群が夕陽にきらめいています。

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もっと視野を広げればこの通り。それにしても上海でこんな青空を仰いだのは本当に久しぶりです。上海は一年見ないと、いや半年見ないと大きく様変わりしてしまいます。明らかに空気がきれいになっているのでしょう。ここまで短期間に大気汚染が解消できることは素晴らしいことです。

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外灘から見るとただの球形に見えているのですが、実はこのビルの一部なのでした。

このあと周恩来が国民党時代に上海にいたとき、拠点にしていた場所へ行きました。

江南の旅・上海へ

上海には何度目だろう。思い出すのも面倒なほど来ているから、なんとなくなつかしささえ感じます。


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高速道路を走るバスからの車窓風景です。

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上海紡のあとの字は、織という字の中国の簡体字です。

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上海はどんどん膨張しています。市域は百キロ×百五十キロと言うから、とんでもない広さです。人口もついに三千万人を超えて中国一だとガイドは言っていました。

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はるか彼方に上海のシンボル、明珠タワーが見えます。手前の低い建物はいまに取り壊されるでしょう。

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こういう低層の住宅は露地も狭くて車も入れません。いままでもどんどん取り壊されてきました。これからもどんどん取り壊されるでしょう。

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スクラップアンドビルドの宿命とは言え、そこには間違いなく生活があるのですが。

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こんなしゃれた建物には古い上海の香りがします。

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こんな風に建物は取り壊されて更地にされ、新しいマンションが建つのでしょう。

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相変わらず上海は交通渋滞です。割り込みの強引さは以前よりは穏やかとはいえ、とてもここで運転する自信はありません。

これから外灘(わいたん)・黃浦江(こうほこう)を浦東(ほとう・プードン)側から眺めに行きます。

2018年3月23日 (金)

江南の旅・太湖真珠と南禅寺

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突然写真をどうぞといわれてあわてて撮ったのでぶれてしまいました。太湖には淡水産のアコヤガイがいて、その中には真珠が入っています。日本のアコヤガイと違って核入れをしなくても真珠が出来ます。

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貝殻の中の玉が真珠です。たいていの貝には30~50個の真珠が出来ているそうです。凄いですねえ。でもきれいに丸いものは一割程度しかないそうで、それ以外はみな粉にして真珠クリームなどになります。

真珠製品や真珠クリームを勧められましたが、最初から買う気がありません。娘のどん姫に買ってもよいのですが、好みが分からないので、喜んでもらえるかどうか分かりませんし(買わない言い訳です)。

今回の旅ではこうした土産物を買う時間枠がいくつか設けられていました。紹興酒、真珠、シルク寝具、ラテックス(枕やマットレス)、お茶など。格安ツアーでは仕方のないことで、我慢するしかありません。紹興酒とお茶だけは当初から買うつもりでしたからおつきあいしました。

無錫市内の南禅寺へ向かいます。

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まだ旧正月の名残が残っています。

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シェア自転車です。色違いは会社の違いだそうです。遠くに南禅寺の塔が見えてきました。

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南禅寺のたたずまいは、京都の南禅寺とはまるで違って浅草寺のようです。いや、浅草寺というよりも名古屋の大須観音といったところでしょうか。

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寺のシンボルの妙光塔。この塔も何か魔物を封じているようですが、説明を良く聞いていなかったので分かりません。

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こういうレリーフが好きなのでつい撮ってしまいます。

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本堂に当たる大雄宝殿だけでなく周りにもいろいろな仏像が安置されています。こういうものを見るときは時計回りに見ていくのが作法なのだそうです。宝殿内ももちろん時計回りです。仏像の写真撮影は不可。

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道路を渡り、市の中心部方向を見ます。無錫も大都市になりました。確か人口800万とかいっていました。凄いですねえ。

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昼食のレストランに向かいます。

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これは無錫の城壁の一部が残ったものです。

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運河でのんびり釣り糸を垂れています。なかなか良い道具を使っている、と同行の釣り好きのF君が言っていました。

このあとはついに最終地である上海に向かいます。

江南の旅・無錫

暗くなって蘇州から無錫に到着。腹ぺこの状態で無錫料理をいただく。期待以上に美味でした。


今晩のオプションは運河のナイトクルーズ。

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これは食事のあと、ナイトクルーズに行く人を運河の船着き場に送ったときの無錫の夜景です。これを船から見たなら感激でしょう。私たちはホテルで二次会の酒盛りでした。

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無錫のホテルの部屋からの眺望です。今日も快晴。

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無錫といえば太湖。太湖の一部がこの蠡(れい)湖です。蠡湖の蠡は笵蠡の蠡です。無錫は呉の国でしたが、越の国に敗れ滅亡しました。呉の国に滅ぼすために笵蠡に送り込まれていた西施という絶世の美女は、呉越の戦いが終わったあと、本来の愛人である笵蠡と共にこの湖で休息したという伝説によって蠡湖と呼ばれているそうです。

太湖は琵琶湖の3.5倍だとガイドが説明しておりました。

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もうすぐ桃祭があるそうです。看板には夢を尋ねる桃花源とあります。

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こんなレリーフがありました。幼児を抱える妻に寄り添う夫、なかなか好いですね。

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桃が咲いています。

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太湖です。これはほんの一部で全体はとても広いのです。

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街の中心部から橋が架かっています。

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遊園地があります。昨日はずいぶん人出があったことでしょう。

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カモメに餌をやっている人がいます。

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この子はこちらを向いていたのでカメラを向けたのですが、こちらに気がついたのか、ぷいとそっぽを向きました。

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公園には小学生でしょうか、遠足にやって来ました。たくさんいてとてもにぎやかです。思わずほほえんでしまいます。

太湖といえば黿頭渚(げんとうしょ)公園という湖に突き出た半島の先が見所なのですが、今回は行きません。確かそこに『無錫旅情』の歌碑があったはずなのですが。

十数年前、仕事で無錫に来たときに金曜日だったので一日滞在を延ばして、自腹で宿泊してタクシーをチャーターして黿頭渚公園を散策しました。そのままタクシーで上海まで行きましたが、それほど高くなかった記憶があります。いまならとんでもないでしょう。

2018年3月22日 (木)

江南の旅・蘇州の木涜(もくとく)古鎮

耦園を見たあと駐車場まで歩いて撮った写真とそのあとの木涜古鎮の写真が連続していて区切りが分からなくなってしまいました。


たぶん以下の三枚は蘇州の下町の平江路かと思うが自信がありません。

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こんな狭い道をリヤカー付きの電動バイクで普通にとおります。

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観光地然としていないところが写欲をそそりますが、地元の人は嬉しくないでしょう。

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この車はどうやってここまで来たのでしょう。

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木涜古鎮に入りました。前の白髪頭の男性は友人のF君。

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こういうみやげ物屋やレストランは中国の観光地の定番で、昨秋に行った雲南省の麗江故城を思い出しました。

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羊や鶏肉、スパイスをたっぷり振りかけていましたからシシカバブですね。いい匂いです。

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運河にかかる石の橋の上から。もう日が暮れかけています。

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かすかに夕陽らしき空の赤さを見ました。

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石橋のライトアップがとてもすてきです。

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バスの駐車場のそばには観光船が係留されています。たぶん夜景が見られることでしょう。

これから蘇州から今晩泊まる無錫まで走らなければなりません。高速でも一時間以上かかります。腹が減ったあ!

江南の旅・蘇州の耦園(ぐうえん)

蘇州の名園といえば、拙政園や留園、蹌踉亭、獅子林などが有名だが、今回は耦園を訪ねました。どの庭園ももともとは個人所有のものです。その庭園を作り上げ、維持するためには巨額の金が必要でしたから、つまり大金持ちの庭園ということです。蘇州はそれだけ金が集まる場所でもあったわけです。とくに絹製品の産地でもありました。


そして蘇州は、中国古代の春秋時代に紹興が越の国の都であったと同様、呉の国の都のあったところだとされています。

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庭園を造ったのは清の雍正帝の時代の陸錦という人だそうで、そのときは渉園と名付けられていました。その後荒れ果ててしまい、清の光緒帝時代に瀋秉成という人が再建して名を耦園とあらためたそうです。その後も興廃を繰り返し、この看板のように2001年に政府が再整備して公開しています。

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この白塀の向こうが庭園です。前の運河は中にも引き込まれています。

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日が傾いた上に逆光で、庭の太湖石がよく見えません。

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変わったかたちのかたちと色をした太湖石です。

建物は折から日曜日だったためにごった返していて、写真を撮るどころではありません。時間も押しているのでガイドは急げ、急げとせかします。

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私は太湖石などよりも庭の片隅のこの石の方が深山の感じがあって好いと思います。貼り合わせたものだそうです。

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中庭の桃が咲き始めていました。

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応接室、特に親しい人と会うときの場所で、お茶よりもお酒を出して歓談することが多かったようです。

表側にもっと立派な応接室がありますが、そこは儀礼的な場所で、ほとんど主人がでていくことはなく、執事などがお茶を供した上で、主人は外出中であるといって追い返したそうです。

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前の運河に観光用の手こぎ舟が回ってきました。蘇州の運河巡りの舟はけっこう楽しいですが、今回は乗る機会がありませんでした。

このあと蘇州郊外の木涜古鎮を散策します。

2018年3月21日 (水)

江南の旅・京杭運河を見に行く

杭州といえば、古刹の霊隠寺や、銭塘江を眼下に見下ろす水滸伝にゆかりの深い六和塔など、訪ねて欲しい場所があるのですが、駆け足の旅だから寄ることが出来ないのは仕方がありません。


京杭運河を見に行きます。京杭運河といえば、あの隋の煬帝がもともとあった水路をつなげた大運河です。これによって随の国家財政が傾いたともいわれます。北京と杭州を南北に繋ぐこの運河が完成したのははるか時代を経てからのことです。

中国の川は西から東に流れます。西が高くて東が海ですから当然なのですが、地図をよくよく見ると網の目のように川を繋ぐように南北にも水が流れています。これが運河です。江南地方が栄えたのはこの水運によるものでした。

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京杭運河をまたぐ橋を渡ります。車を停められる場所がほとんどないために運転手は苦労していました。

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取り締まりを気にしながら、路上駐車を敢行して見ましたが、どうということはない景色で、残念ながら見るべきほどのものでもありませんでした。

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紹興路と看板にありますが、ここは杭州です。この写真の目的は、看板の上の監視カメラです。このような監視カメラは日本にもありますが、これがいたるところにあって、日本よりも二桁多いのではないかといわれています。中国はまさに監視社会になっているようです。

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古いアパートの外壁は生活感がいっぱいです。体裁を気にしないようです。していられないということかもしれません。

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杭州から蘇州に向かいます。高速道路の徳清のサービスエリアでトイレタイム。

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軽食をつまめるところやレストランやコンビニがあるのは日本と同じです。鶏の足やいろいろな部位の食べ物がとくに美味しそうでした。

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途中のこういう運河の方が運河らしくて好きです。こんな風にちょっとした工場などは運河で荷物を搬入したり搬出したりしています。

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農家の様子です。たいてい家の前に水が引き込んであって、池があるのですが、ここには残念ながらありません。都会に近い農家は都市部に野菜や果物を供給しやすいので比較的に豊かです。

今晩は無錫泊まりですが、途中の蘇州に立ち寄ります。ああ忙しい。

江南の旅・西湖

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西湖のそばに聳える雷峰塔。いまは西湖の観光バスの乗り入れが制限されていて、駐車場がこの雷峰塔のそばになっています。ガイドは、観光客を集めたいといいながら不便にしてどうするのか、とぼやいていましたが、駐車場から一キロ近く歩かないとなりません。約二十分かかります。ここにも電動カートがありますが、人が多すぎで乗る気になりません。

ところでこの西湖には何度も来ているのですが、雷峰塔側には来たことがありません。こんなに近くで見上げたのは初めてです。この塔は二十世紀の初めに倒壊してしまい、長らく再建されませんでしたが、二十世紀末にようやく再建されました。

雷峰塔といえば『白蛇伝』ですが、そのことは以前このブログに書きました。この塔に封じ込められた白蛇の精は倒壊と共に逃れ去ったのでしょうか。それならよいのですが・・・。

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遊覧船が見えてきました。

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西湖十景の一つ、花港観魚の入り口の前はこの人混みです。この日が日曜日だったからですが、五月頃はこんなものではありません。もっと凄まじい混み方です。

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数年前見たときはもっと可愛い鯉でしたが、だいぶ大きくなっています。何より西湖の水がとても綺麗になっています。藻が発生し、ひどく濁っていたので、だいぶ前から銭塘江の水を定期的に引き入れて浄化しているといいますので、その効果が出ているのでしょう。

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湖の中を縦断している蘇堤です。詩人の蘇東坡がここに役人として赴任しているときに作りました。もう一つ、白堤というのかあって、そちらは白楽天がやはり役人として赴任しているときに作りました。西湖は半人造湖です。もともと湿地帯だったものを整地して湖に作り替えたものだったはずです。白堤は大きな柳の木がならんでいて、枝が風に靡いて美しいのですが、今回は行きませんでした。

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向こうに見える島は人工湖です。上から見ると丸に十の字、あの薩摩藩のしるしと同じ形をしています。上から見ることは出来ませんが。柳が芽吹きだしています。五月になれば柳絮が飛ぶでしょう。

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湖面を遊覧船が行きます。

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丘の向こうに雷峰塔が見えます。あの向こうからぐるっと回ってきたのです。

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手こぎの遊覧船がいくつも浮かんでいます。

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こんな風にのんびり浮かんでいるのも楽しいのでしょうが・・・。

中国人は杭州が大好きです。西湖の形式あこがれています。老後をここで過ごすのが夢だといいます。でも宝くじでも当たらなければ、いまの杭州は不動産が高すぎて住むのは難しくなっています。

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集合場所にあった蘇東坡の像。東坡肉(トンポーロー)という豚の角煮の料理をご存知でしょう。字の通り、この蘇東坡があみ出した料理です。彼は食通でした。杭州ではその東坡肉を食べました。大きいけれど一切れだけでしたけれど。

西湖に来たのに湖畔の岳飛廟にも行かず、白堤にも行かず、博物館にも行かないなんて、なんたることかと思いますが、とにかく西湖を見せたでしょ、ということでこれで西湖は終わり。びっくりです。

2018年3月20日 (火)

江南の旅・紹興から杭州へ

翌朝、名残を惜しみながら紹興から杭州へ移動しました。とにかく忙しいのです。


途中の景色を紹介する前に、いつも拙ブログにコメントをいただくHiroshiさんから、紹興の夜景の写真を見て烏鎮(うちん)を連想されたというコメントをいただいたので、自分の烏鎮の写真を見直してみました。その中から一枚紹介します。

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例によってぶれていますので、ソフトレンズ風加工をしました。春の宵の雰囲気がでていますね。烏鎮は江南水郷八鎮の一つで、とても好いところです。機会があれば是非お出かけ下さい。

さて、バスは高速道路を杭州に向けて高速道路をひた走ります。

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このような三階建ての建物の集落があり、その間に小さな運河と農村があるという風景が続きます。本当は農村の風景が撮りたいのですが、そういうところはバスもスピードを出しているのでなかなか撮れません。しかもたいてい農家の前には小さな林があるのでよく見えないことも多く、ここだと思ったときには行きすぎてしまいます。

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杭州の郊外にやって来ました。ここもマンション群の林立が続きます。杭州は、初めて訪れたころ(二十年くらい前)は人口三百万くらいといっていましたが、いまはなんと一千万になったとのこと。信じられないほどの膨張です。

杭州はアリババをはじめ、情報関連産業の一大拠点になっています。同時に中国中のみならず、世界中から富が集中しています。これからますます拡大するでしょう。むかし臨安といって南宋の首都として栄えたときのように、再び繁栄の中心となっているのです。

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このように高層マンションがつぎつぎに建てられています。右奥も全て建設中のマンションです。場所によっては東京以上に高価な上海よりもさらに高い場所もあるそうです。

手前の塀は建設中の地下鉄の工事現場を遮蔽するための壁です。街がどんどん拡がっているのです。

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ここにも歩きスマホの人物がいます。地下鉄工事の資材が壁越しに見えます。手前の自転車はシェアサイクルで、スマホをかざすと解錠して使えます。一時間一元、日本円で二十円以下です。ただし、一度だけ保証金を積む必要があります。シェアサイクルやシェアバイクの会社は使用料よりもその保証金で採算が取れているともいいます。

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陽光に輝く銭塘江を渡ります。青空が見られるのは珍しいことですが、最近は晴れれば青空が見られるようになったらしく、間違いなく空気はきれいになっています。最後の日の上海でも素晴らしい青空でした。

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目的地の西湖に近づきました。この街路樹を見ると杭州に来たなあ、と思います。これで仕事で来た時を含めて確か七回目の杭州です。

次回は西湖のほとり、蘇堤などを歩きます。

江南の旅・紹興の夜

夜、紹興の郷土料理を食べたあと、オプションの輪タクに乗って老街(古い街)の見物をするツアーに行きました。他の日にもオプションはありましたが、私が参加したのはこれだけです。行って良かった。


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輪タクのある場所までバスで向かいます。その車窓の景色。

中国江南の空気が濃厚に感じられます。

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これが輪タクです。二人乗りで、私は現地ガイドの美人の謝さんと乗りました。むかしは百台くらいあったけれど、いまは十台しかなくなったそうです。シェアサイクルやシェアバイク(電動)が普及したので、わざわざ高い金を出して乗る人がいなくなったようです。

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さあ、出発進行! 中国は車両は右側通行のはずですが、おかまいなしです。こうして下町の方へ向かいます。

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こういう場所に来ると輪タクを停めて写真を撮らせてくれます。好い雰囲気でしょう。気温も最適で快適です。

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小さな石の橋の上から。

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橋のたもとにはこんな像があります。筆を持っているのは書聖といわれた王羲之です。扇売りのおばあさんが売れずに困って王羲之に買ってくれと懇願しますが、王羲之は持ち合わせがなく、持ち合わせている筆で、売り物の扇にさらさらと文字を書きました。

おばあさんはなんてことをするのだとびっくりしますが、王羲之ハコの扇を街に行って「王羲之が書を書いた扇だ、といえば買う人がいるはずだ」といいました。もちろん大変な高値で売れました。その故事を像にしたものです。この話には後日談があります。

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石碑にある王右軍というのは王羲之のことです。右軍という役職に就いていたことがあったのでこう呼ばれることがありました。

王羲之はこの地方に役人として赴任していたことがありました。この橋が役所から帰るときの彼の通り道だったのです。

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右の看板には「躱婆弄」という文字があります。王羲之はあの橋を通るたびにおばあさんに書をねだられるのに閉口して、遠回りしてこの狭い道を抜けておばあさんに会わないようにしたそうです。いい人だったのですね。

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いくら見ていても見飽きない夜景でした。

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飲み屋が多いようです。こんなところで親しい友人と一杯飲むのも楽しいでしょう。まことに紅灯の巷そのものです。

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おお、瓶入りの焼酎が売られているではありませんか。

先ほどの写真の上に見えた塔や、王羲之が住んでいた家も写真に撮ったのですが、暗いのでぶれてしまい、お見せするようなものと成りませんでした。

王羲之の旧居はいまはお寺になっています。どうしてお寺になっているのかというと、王羲之が寺に寄進したからで、それには哀しい話が絡んでいます。

王羲之と親しくしていた僧侶が訪ねてきて、歓談して去ったあと、王羲之が大事にしていた大きな真珠が見当たらなくなっていました。いくら探しても見当たらないため、王羲之はその僧侶を疑ったのです。

僧侶はそれを知って死んでしまいました。だいぶ立ってから可愛がっていた家鴨を料理するために腹を開いたところ、腹の中からその真珠が出てきました。王羲之がどれほど悔やんだことか。しかしもう取り返しがつきません。王羲之はそれから宝石を哀願することをぷっつりとやめ、自宅をその僧侶のいた寺に寄進したということです。

輪タクはほとんど幅すれすれの狭い道を疾走し、長い間走り回ってくれて大満足でした。とても面白かったですよ。お薦めです。

私は王羲之には思い入れがあり、「蘭亭序」という有名な書の写しを西安の碑林で求めて、ときどき開いて眺めて楽しんでいます。残念ながら王羲之の真筆は全て失われて残っていません。残されたものはみな臨書したものです。それには理由がありますが、それを説明していると、きりがありませんのでここまで。

そういえば蘭亭はこの紹興の郊外にあるのですが、今回は行きません。まことに残念なことです。


2018年3月19日 (月)

江南の旅・紹興で紹興酒を飲む

紹興酒の酒造会社に行きました。工場への道は道路工事中で、舌をかみそうなほどバスは揺れ、砂埃は立ち、日は暮れかけます。


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咸享(日本語読みでかんきょう、中国語読みでシェンホン)酒業という会社です。ガイドは日本語読みしか言いませんでしたから、どうして中国語読みを知っているかというと、あの『孔乙己(コンイーチー)』の中にでているからです。

語り手の少年が居酒屋の店員であり、その目から見た孔乙己というなけなしの日銭で飲みに来る、痩せて長身の落ちぶれた男の姿を語っているのです。その居酒屋の名前こそ咸享酒屋であります。漢和辞典で咸と享を調べてみると、咸はみなことごとく、享はもてなす、献上する、供えるとなっていました。なるほど。

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お酒を詰める酒壺が積まれていました。

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こんな風に見ると、けっこう絵になります。

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これは酒を詰めたもの。紹興酒は餅米と小麦などで二段発酵をさせて作る醸造酒です。これは第一段のもの。通気性のある紙で口を蔽い、その上を泥で封じています。壺に触ると熱いほどです。うっかり泥にさわって手を汚した人もいました。乾いてから倉庫に積み上げるということです。

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こんなにあってはさすがに飲みきれません。

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期間をおいて第二段発酵をさせます。野天で寝かせます。こちらの壺は蓮の葉とバナナの葉で封じます。蓮の葉の香りが長年の間に酒に移ります。素焼きの壺ですから、水分とアルコールがわずかですが洩れていき、年数を置くほど濃厚になりますが、アルコール度数はわずかに下がるそうです。

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野天に積んである壺。

紹興酒は、飲むためのものは三年以上おいたものだけで、一年や二年のものは料理などに使うそうです。あの独特の味と香りは仕込みの途中で漢方薬などを配合することで生まれます。

日本では戦後長く中国と国交がなかったので、紹興酒といえば台湾産でした。紹興酒は紹興の水で作らなければ独特の濃厚さがでないので、それをカバーするために氷砂糖などを加えて飲むことが一般化しましたが、それは本来の飲み方ではありません。

紹興でないところでは同じような作り方をした醸造酒を老酒(ラオチュウ)といいます。私は黄酒(ホワンチュウ)という言い方も教わったことがあります。いろいろなところで紹興酒(シャオシンチュウ)といっても通じないとき、ホワンチュウで通じました。

上海などのコンビニでは老酒として売っていました。

五年物と十年物の試飲をさせてもらいました。手作りが自慢の酒ですからとても美味しいものでしたが、五年物で百元、十年物では二百元と、いい値段でした。十年物はまろやかすぎて私は五年物のほうが好みです。荷物になるので五年物を一本だけ購入しました。

他に十五年物や二十年ものの化粧瓶のものもありましたが、贈答用でしょうね。

ちなみに毎日コンビニで購入して飲んでいた紹興酒は最低で十五元、最高でも二十六元でした。

江南の旅・紹興の八字橋

昔の紹興の下町の風景を見に行きました。


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表通りからこういう路地を歩いて、八字橋という場所へ向かっています。

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こんな風景を頭に浮かべていました。

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同行の人々とこんな道を行きます。

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地元の人がなんだなんだという顔でみていましたが、カメラを向けるとそっぽを向きました。

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もう夕刻です。日が傾いて、石畳に斜めに射しています。

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八字橋に尽きました。ここには三本の川が流れていたそうですが、いまは川は一本だけです。いま、橋の上へ行く石の階段を登っています。

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橋の上からの景色です。好い感じです。

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橋の先の方から見てみます。両側の階段を含めて八の字に見立てているわけです。

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橋の下の水の風景です。写真ほどには水はきれいではありませんが、水には癒やされます。

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軒先につるされているのは家鴨でしょうか。

おまけ

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路上に投げ捨ててあるようなものはなんだと思いますか。

右の車は宅急便。そう、これは宅急便の荷物です。ずうっと向こうまであって、皆で仕分けをしていました。間違いも起こりやすそうです。

このあと紹興酒の酒造会社に試飲に行きます。

2018年3月18日 (日)

江南の旅・紹興・魯迅故居

紹興と云えば魯迅の生まれ育ったところです。実家は裕福な家でしたが、魯迅の父の科挙の試験に際し、戸主の祖父が不正を働いたとされて投獄され、魯迅がまだ成人する前に一家は財産を失って没落します。


魯迅(本名、周樹人)は18歳で南京の師範学校に入るまでこの紹興で暮らしました。今回訪ねる魯迅故居は、だから人手に渡ったものです。

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見て下さい、この大変な人出。紹興と云えば中国人もここを必ず訪ねるのです。

ガイドの郭さんによれば、魯迅は中国において、日本の夏目漱石のような存在だといいます。文豪という意味ではそうでしょう。でも魯迅が残したものは、夏目漱石よりも大きいような気がします。

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魯迅はヘビースモーカーで、私はぜんそくで亡くなったと聞いていましたが、ガイドは肺結核で死んだといっていました。55歳で死んでいます。たぶん肺の病気であったことは間違いないようで、魯迅博物館には彼の肺のレントゲン写真がありました。

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魯迅の像の前の記念写真を後ろから撮らせてもらいました。

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紹興魯迅記念館。このなかに魯迅の事跡が詳しく展示されています。魯迅は日本に留学して医学を学んでいます。

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中に臭豆腐の店がありました。台湾の夜市で初めて食べたときは臭いにいささか抵抗がありましたが、いまは大好きです。

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魯迅故居の応接間。鯉のぼりを持っているのは紹興現地ガイドの謝さん。きれいな人でした。

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これはすぐとなりにある私塾、三味書屋の教室。右は先生の机で、棒のようなものが置かれていますが、怠けたり間違うとそれでたたかれたそうです。だいたい八名までの生徒を教え、授業料も高かったので、金持ちでしかも優秀な子どもしか通えませんでした。魯迅の素養はここで身につけたものです。

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奥の小さな机が魯迅の定席でした。

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孔乙己(コンイーチー)が茴香(ういきょう)豆を子どもにやるところ。魯迅の短篇、『孔乙己』を読んだ人なら分かるシーンです。ごくごく短いものですが、とても印象的なものです。

周大兄様、孔乙己ですよ! 孔乙己も飲んだくれるほどの金があれば良かったでしょうね。代わりに私が飲んだくれていました。

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孔乙己茴香豆・・・。ちょっと違うんだけどなあ。

*『孔乙己』は魯迅の最初の短編集『吶喊』に収められています。

江南の旅・紹興へ

寧波から紹興へ向かいます。高速道路を使って二時間の予定ですが、街中に入ってからの渋滞で実際には予定よりたいてい余分に時間がかかりました。いま大きな都市は人口の増加が甚だしく、当然自動車も急増しているので渋滞がひどいのです。


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高速道路の料金所。日本よりは無骨な感じです。このバスはETC仕様なので、比較的にスムースに通過できます。まだETCの普及は日本ほどではないようで、たくさんあるゲートの中で、ETCはひとつかふたつのところが多いようです。

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紹興の郊外に入りました。このように車線は広くて、何車線もあります。そして道路を作るときは反対しても強制退去ですから、あっという間に作ることができます。

道路が広いということは、当然信号も長くなります。そうでないと人が渡りきれません。これも渋滞の原因かも知れません。ただ、昔のように赤信号や信号のないところをゆったりと歩く人というのはほとんど見かけませんでした。

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街中に入るとこのように渋滞に次ぐ渋滞です。中国人はおおむねせっかちですから、イライラしていることだろうと思います。事故も日本とはけた違いに多いそうです。

以前は車優先だったけれど、いまは歩行者優先が徹底されてきたということですが、まだ勇気(度胸)優先が残っているとガイドが笑っていました。

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本当の中心部に来ると、このような街路樹の緑の豊かな場所が見られます。土地が広いということはゆとりです。

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こんな風に歩きスマホをしている人は中国にもたくさんいます。スマホの活用はたぶん日本よりも格段に進んでいます。若い人を中心にほとんど現金を持ち歩かずに全てスマホ決済をする人が普通になりつつあります。

そのためにスリなどの現金泥棒や偽札が激減しているといいますが本当でしょうか。そのかわりに現金を持っている可能性の高い観光客が狙われやすくなっているともいいます。

それと、この歩きスマホの人のうしろの、車の駐車の仕方に私は感心しました。きちんと枠の中に収まって駐車しています。むかしははみ出したり斜めだったりするのが当たり前でしたから。

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街角風景。よく見るとバイクの後ろに乗せられている子どもは後ろ向きです。日本ではこういう乗り方を見ません。

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こういう風に乗っています。ちなみにバイクは全部電動です。だから後ろから来ても音がしないので、狭い道だと突然現れた気がしてびっくりします。

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この乗り方はほとんどカンガルーです。ふところの下に子どもの顔が覗いているのが分かりますか。それと前面のカバーが綿入れみたいな形をしています。女性はたいていこれを装着していました。危なくないのでしょうか。あとで路上にあったのを触ってみましたが、ビニールコーティングがしてありました。雨でも大丈夫なようです。

さてこれから魯迅の生家に向かいます。

2018年3月17日 (土)

江南の旅・寧波の天童寺

中国禅宗五山の一つ、天童寺に来ました。ここは日本の道元禅師が修行した寺で、ここで印可を受け帰国後に曹洞宗を開きました。『正法眼蔵』は彼の書いたものですが、彼の留学の様子は『正法眼蔵随聞記』に書かれています。といっても読んだことがありませんから分かりません。ただ、道元禅師が鎌倉仏教の創始者の独りであることは承知しています。


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駐車場に着くと高台に立派な塔が立っているのが見えました。

ここから坂道を800メートルあまり上るそうで、20分以上かかるそうです。お年寄りが多いのでガイドは電動カートを薦めます。全員賛同してカートで上ります。往復10元は結果的にとても安いものでした。

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こんなカートで、中国ではそこら中の観光地で見ます。これは私営らしく、カートの利益を上げるためにわざわざ駐車場を近いところから遠くに移すことも普通に行われています。

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降りてからもまだまだ歩きます。石畳と階段が多いので、車いすの人はいけません。お年寄りが一人途中でギブアップしました。

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左の白い壁の裏側が寺の入り口です。わざわざ正面から見えないようにするのが中国流です。

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仏殿。線香が燃えていて煙がたちこめていました。

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散策コースは緑も多くて良い雰囲気です。途中に小さな塔などもありましたが、見るべきほどのものでもありません。あの大きな塔はさらに高いところにあり、見に行く時間もないし、ちょっとハードなので行かないということでした。

今日は午後紹興に行かなければならず、寧波は午前中で終わり、ガイドがせかすのでバスに戻ります。

道元の碑があるはずなのですが、見る間もありませんでした。

次は待ちに待った紹興です。

江南の旅・寧波・阿育王寺

阿育王寺(アショーカおうじ)はその名の通り、インドで仏教を広める役割をした阿育王が、中国にも仏舎利と共に使者を派遣したことに始まるといいます。

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「晋代古刹」とあります。この寺が創建されたのは東晋時代、つまり三国史の魏の時代の曹操の魏の国を簒奪した司馬氏によってたてられた晋の、その後半の東晋時代のことのようです。もともとの晋が北方民族に押されて東に国を移した時代です。

このあと北方民族の流入が激しくなり、五胡十六国といわれる、国がばらばらの存亡の激しい時代に入りますが、却って仏教が盛んになりました。中国の再統一はずっと後の隋の時代です。

あの敦煌の莫高窟もこの東晋から後、五胡十六国の時代のものがほとんどです。

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阿育王寺の入り口の門。ただしここは新しく建てられたものです。

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このように後ろに山が迫っています。

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屋根の上を撮るのが好きです。たいていおもしろいものが載っています。

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こんなレリーフがありました。分かりにくいですが、左側の、象に乗ってお釈迦様を攻撃しようとしているのは阿修羅のようです。顔が二つあります。

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本尊の置かれた天王殿。中は撮影禁止です。お釈迦様や羅漢さん、観音菩薩はキンキラキンです。とくに観音菩薩は日本の観音菩薩とは似ても似つきません。でっぷりとして、笑っています。

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これは法殿。手前の男性がガイドの郭さんです。日本が好きで、大阪に自分の中古マンションの部屋を持っているそうです。

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舎利殿の屋根の上。お釈迦様の骨が収められています。

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舎利殿です。天王殿、大雄宝殿、法殿はだいたいお寺の定番の建物で、舎利殿はお釈迦様の骨があるところにしか建っていません。

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線香とロウソクは長くて大きいほど御利益があるそうです。

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実は、入り口の門の前にこんなとてつもないものが立っています。柱にはお経が金文字で書かれています。いったい何を考えているのでしょうか。

左下隅に車いすの女性が見えますが、ツアーに同行した一人です。八十過ぎのご主人が介護しながらの旅です。年に五回も六回も二人で海外旅行をしているというから感心しました。バスの乗り降りは段差があるから大変で、運転手とガイドが手伝ってようやく乗れます。よく気がつく、いい運転手でした。

2018年3月16日 (金)

江南旅行・寧波の車窓風景

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私は、こういう車窓風景を見ているだけでわくわくして嬉しくて仕様がない。

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ふだんは乗り物に乗るとほとんど寝ています(もちろん自分で運転するときはほとんど寝ない)。でも中国に来るともったいなくて寝てなどいられません。何しろ楽しいのです。

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バスの車内。38人乗りにガイドと運転手を含めて16名だからゆったりして快適。すこし長い移動だと、ほとんどの人がうつらうつらしています。

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こんな文字が書かれたものをよく見かけますが、誰が読むのでしょうか。運転手が読んでいたら危ないと思います。

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いま向かっているの阿育王(アショーカおう)寺。山のふもとなので、少し気温が低いのでしょう、柳はようやく芽吹きだしたところです。

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こういう丸瓦の屋根を見ているだけで嬉しくなるのだからしあわせです。

江南旅行・寧波・天一閣

天一閣は月湖公園のすぐ横にありますが、入り口は反対側なので外壁をぐるりと廻ります。


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この右手、道路を渡ると月湖公園。この壁と建物は天一閣の隅のもので、一番かどになります。とても大きいのです。

天一閣というのは東洋最古の図書館だといいます。ちなみに世界最古はイタリアのフィレンツェにあるそうです。

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横の小さな濠を挟んで、白壁が見えました。壁にいろいろと文字が書かれています。その向こうの建物は瓦が崩れかけ、朽ちかけています。早晩取り払われてビルに変わるでしょう。

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南横の入り口ですが、いまは扉は閉じられており、観光用の入り口は別の処になっています。

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この絵を見ると、天一閣という図書館が二階建てで、壁をめぐらせて月湖に面していたことが分かります。

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天一閣の中庭に入るとこのような彫り物がありました。麒麟かと思いましたが、獬豸(かいち)という想像上の動物だそうです。獬豸は牛に似た神獣で、不正な人物を見分け、これをかむといいます。さいわいかまれませんでした。見分けられなかったらしいです。

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書庫の一部。中が公開されているのはこれだけです。もともとは七万冊以上あったのですが散佚し、一時数千冊になってしまったそうです。いまは再度集書してだいぶ増えているとのこと。

天一閣の書物はもともと個人(笵というお金持ち)の蒐書家が集めたものです。だから図書館というのはあたらないような気がします。ただし、いまは代々続いた書庫の保存が国家に託されて国家管理になっていますから、現在は図書館といって良いでしょう。

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この石像の真ん中が当主で本を集めた人。左手の立っているのが長男、右の女性が次男の嫁。いま遺産相続の話をしているそうです。長男は蔵書と建物のみを相続することにして、その他の莫大な資産は次男に譲りました。長男は本の散佚をおそれる父親の意思を受け継いだのです。その後家訓として本は代々一括して相続することになったそうです。

それにしても文化大革命でこのような金持ちの蔵書などは甚大な被害を受けましたが、よく残ったものだと思います。詳しいことは知りませんが、その価値を知る人が命がけで守ったのではないかと想像します。それはそれで一つのドラマがあったのでしょう。

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天一閣書庫の前の中庭。太湖石が苔むし、草が生えて良い雰囲気になっています。夏も涼しいでしょう。

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獅子に見立てた石だそうです。獅子なのに草を食べているみたいです。

本好きとしてはいろいろと感慨のある場所でした。

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入り口前から眺めた天一閣内の建物。手前は四角い池になっていて小さな魚が泳いでいます。

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市民が池の畔の亭で談笑していました。好い憩いの場所のようです。

次は寺巡りです。


2018年3月15日 (木)

江南の旅・寧波の月湖公園

寧波は上海の南、紹興の東側で杭州湾に面しています。古来からの重要な重要な港湾都市で、遣隋使や遣唐使はこの港から中国に入ることが多かったそうです。あのライトアップされた場所に近いところが上陸場所でした。後には倭寇の拠点にもなったため、日本からの上陸が禁止されたこともあるようです。


江南旅行のツアーはいろいろありますが、寧波まで来るコースはめったにありません。

Dsc_5268 この甬江(ようこう)が町の中を流れています。甬はこの地方の代名詞でもあります。

Dsc_5269 この寧波でも次々に高層マンションが建てられています。

Dsc_5274 街中には運河が四通八達していて、江南地区の特徴である水の豊かなところです。

Dsc_5276 市民の憩いの場所である月湖公園に行きました。入り口前の広場では、たくさんの人が音楽に合わせて踊っていました。踊る事自体も楽しいことですし、異性と出会う目的もあるそうです。

Dsc_5280 朝の斜めの日差しが公園の緑に映えます。

Dsc_5282 中国らしい亭も見られます。

Dsc_5283 対岸には古い建物が見え、その後ろには高層ビル群が並んでいます。

Dsc_5286 こういう方向から見れば、中国らしい好い風景です。中国の建物には柳が似合います。

Dsc_5290 遠くに石の橋が架かっているのが見えました。湖面が朝日にきらめきます。

ここから近いところに天一閣という昔の図書館があるそうで、これからそこへ向かいます。

江南旅行始まる

 今回のツアーに参加した主な目的は、紹興に行きたかったからです。紹興は中国古代の春秋時代、越の国の都だったと言われています。呉越の戦いについては呉越同舟、臥薪嘗胆など、いろいろな言葉が残されているから知っている人も多いでしょう。江南は呉と越のあった場所です。ちなみに、呉の都は今回やはり訪ねる蘇州です。

 そして紹興は魯迅のふるさとでもあります。日本とも縁の深いこの人は、たとえれば中国の夏目漱石なのだとガイドが言っていました。それらについては紹興の処で詳しく紹介しますが、本当の目的は本場で紹興酒が飲みたかったのです。やはり、と思われた方もおられるでしょう。

 今回のツアーは現地集合。成田から直行便で杭州へ飛び、杭州の空港で同行の方々と初めて会いました。総勢15名・・・のはずだったのですが、14名はすぐに集まったのに、待てど暮らせど15人目が現れません。何かトラブルがあって(荷物などに問題があった?)とめられているのだろうか、などとみなで話していましたが、三十分を遙かすぎても現れず。ガイドは空港の公安に問い合わせたり(普通何も教えてくれないものらしく、聞き出すのに苦労していました)、日本の旅行者に電話をかけたりしています。みなで苛立ったり心配したりしていますと、ガイドが、多分そもそも便に乗っていないであろうと断定し、出発することになりました。

 その日は杭州からすぐに寧波(にんぽう)に移動して寧波泊まりですし、遠回りして杭州湾海上大橋を渡るので、これ以上遅らせるわけにはいかないようでした。

 案の定、バスで走り出してしばらくした後、旅行会社からどうも搭乗しなかったようだと連絡がありました。その言い方から想像するに、当人から旅行会社に参加取りやめの連絡が無かったもののようです。連絡のできない事情があったのでしょうが、どんな事情なのでしょうか。連絡が無いのでそもそも誰にも分かりません。

 結局今回のグループは総勢14名ということになりました。バスとガイドはツアーを通して一緒で、紹興と無錫だけ現地ガイドが加わります。バスは38人乗り、だからゆったりと座れて快適です。私は一番うしろの右側を定席としました。右側通行の中国では景色を見るのに適しているし、一番後ろの席だけ窓が開くので写真が撮りやすいのです。

 杭州の空港から寧波には、まっすぐ行けば二時間あまりで行くことができますが、今回は杭州湾海上大橋を渡るので三時間以上かかります。この橋は名前の通り杭州湾をまたぐもので、全長36キロ、2008年に完成しました。中国はこのような巨大プロジェクトが大好きです。お金が動くことが好きな人がたくさんいるのでしょう。

 橋の上で写真を撮りましたが、見てもらうようなものは撮ることができませんでした。夕食後、寧波の外灘(わいたん)の夜景を見に行きましたので、その写真をまとめて掲載します。外灘といえば上海ですが、寧波の外灘も夜はライトアップされていてとてもきれいでした。

Dsc_5228 この前のブログと同じ建物ですが、このように次々に色が変わります。

Dsc_5237 こういう道を川沿いに散策できます。

Dsc_5238 いろいろな建物がライトアップを競っています。

Dsc_5246 川岸にはこんなレトロな建物もありました。いまは喫茶店のようです。

Dsc_5250 涼しい風(人によっては冷たい風)が吹き渡り、気持ちのいい散策でした。

Dsc_5263 街中へ戻ります。

寧波については次回の寧波観光のときにもう少し詳しく紹介します。

2018年3月14日 (水)

中国で思ったこと感じたこと

Dsc_5226 寧波にて

 初めに、みなさんから私の無事の帰着に対して温かいお言葉を戴いたことに心より感謝申し上げます。いただいたコメントには簡単ですがそれぞれご返事を書くつもりです。

 千葉(弟の家)から夕方ようやく自宅に帰ったのですが、片付けや洗濯で案外手間がかかり(ちかよ様から洗濯日和とのコメントを戴きましたが帰着したのが五時前だったので、いまは部屋の中に洗濯物が満艦飾です)、買い出し(もちろん晩に飲むための酒の肴です)、そして一風呂浴びていまこのブログを書き出したところです。いつものように、横にはビールがあります。

 さて、昨年は雲南省に一週間あまり行きまして、今回は江南を駆け足で廻って、いろいろ感じたことがありました。中国は広大で、人口も多いので、ほんのちょっと行っただけで全体を論じることなどできません。「群盲象を撫でる」の類ではありますが、実際に目にしたことでの感想です。

 とにかく中国は過剰です。人が過剰、車が過剰(都市部の渋滞はひどいものです)、建物が過剰(いまもマンション建設が次々に行われています)、そして何より人々の欲望が過剰です。これはガイドが言っていたことですが、あまりに欲望が過剰なために満足することができないという状態だそうです。「足るを知る」ということがまだ見えていないのでしょう。

 でも、今回実感したのは、空の青さと街のゴミの少ないことと、交通ルール遵守の改善でした。上海など、日本の都市より明らかにゴミは少なく、そして捨てる人もほとんど見ません。民度は明らかに急激に改善しています。

 もし数年前に中国に行って、中国は日本より遅れている、などと感じてそのままそう思い込んでいるとしたら、また今年行くと違う感想を持つだろうと思います。少なくとも江南地区、とくに上海では激変していることを実感しました。

 中国人はある意味で幼稚園児のような面がありました。周りへの斟酌が日本人よりできないことなどは相変わらずですが、それも少しずつ変わりはじめています。逆に日本人のお年寄りにその斟酌のできない人が増えていることの方が私には気になるくらいです。

 それとは別に、中国は極端な監視社会に変わりつつあります。街中の到る所に監視カメラが無数にあって、あらゆる方向を撮り続けています。赤信号を無視して渡っただけで、ときには特定されて注意を受けることがあるというから、徹底しています。高速道路の電子掲示板に違反車のナンバーが曝されています。

 具体的な訪問先の報告は写真を中心に明日の朝からはじめたいと思います。

*文体を「ですます調」にするとけっこう書きやすいことに気がつきました。コメントはいままでも「ですます調」で書いていました。

 これからどうしようかな。

おかげさまで無事帰国しました

 昨晩定刻通りの飛行機で上海から成田に帰国しました。いまは千葉の弟の家でボンヤリとしています。今日中に名古屋に帰る予定で、帰ってから写真を整理して、本格的な報告は明日からにするつもりです。

 今回は新しい靴が少し足に合っていないためか、足がむくんでしまったほかは体調も良く、連日お酒を楽しく飲んで中国の食事を美味しく戴きました。

 今回の旅行は、江南の寧波(ニンポウ)、紹興、杭州、蘇州、無錫、上海を四泊五日で回るという、とにかくせわしない旅で、しかも格安旅行ツアーですから土産物を買う時間がたくさん用意されている、と云うものでした。本来どの都市も連泊してじっくり見たいところばかりです。それを半日でポイントだけ走るように見て廻るのは、犬がおしっこをしてまわるような処がありましたが、これはこれで仕方がありません。

 総括的な印象を今日の夕方以降に名古屋に帰ってから簡単に報告するところからまず始めたいと思います。

 とりあえずおかげさまで無事帰国したことをご報告いたします。

2018年3月13日 (火)

再読の楽しみ

 営業という仕事をしていたのに、人の気持ちをくみ取ることがあまり得意ではない。なにしろ顔色を読むことが上手ではない。自分の見た目と思い込みが優先してしまう。人は、そもそも口ではそう言っていても実際に思っていることが違うことはしばしばあることで、それを読み取る能力が私は劣っているようだ。

 相手が読めないということは、見たまま、言われたままを鵜呑みにするのであるから、ある意味では人が好いのかも知れない。

 仕事に必要な、人を読むことすら出来なかったのであるから、本を読んでもどれだけのことを読み取れていたのだろう。ほとんどザルで水をすくっているようなものだと以前自嘲的に思ったことがある。

 むかし読んで捨てきれなかった本をときどき引っ張り出して再読する。引っ張り出すのは、大事なことが書かれている気がするのだが、それがよく分かっていない本が多い。

 全く読めていないし記憶にも残っていないはずなのに、なぜか頭の奥になにかが残っていて、それが読む助けをしてくれる。なにかが分かった気になると、見過ごしていたものが気になり出す。そうやって関連するものをあちこちから引っ張り出し、頭の中も机(ほとんどこたつの上)の周りも散らかり放題になる。

 それでなにかがはっきり見えてくるわけではないけれど、繰り返しているうちに前よりも自分の視野が少し開けた気がする一瞬がある。

 最近小説類があまり読めなくなっているが、それはこの一瞬の興奮の楽しみを味わうには小説が向いていないからかも知れない。エンターテインメントは映画も含めて以前ほど楽しめない。

 時間が限られているという思いが感じられるようになって、少しあせっているのかも知れない。あとこれだけの時間がある、というのと、もうこれしかないというのと、その二つの気持の狭間で一瞬の楽しみの方を追っているらしい。

 ただ、本の再読をしているのに新しい本をまた買ったりするから、本は増えるばかりである。なにしろ気になる本は手元においてすぐ引っ張り出したいのだから。それにしても小説類だけは今後買うのをもっと控えよう。いつかは読む、がもう読めない、に変わりつつあることにそろそろ気がつかなければ。

明の滅亡前後について(17)

 明の亡命政府は海上に逃れてしばらく生きのびた。日本に使者を送り、徳川家光に援軍を要請したという話や、鄭芝龍(海賊だったといわれる。いわゆる倭寇であろう)、鄭成功親子の話などそれなりの物語もある。鄭成功の母親は日本人であり、近松門左衛門の『国性爺合戦』で日本人にはよく知られているし、台湾に根拠を置いて駐留していたオランダと戦って追い出したり、もちろん清との戦いも続けたけれど局地戦にとどまった。

 史可法の関連部分は、魏宏運の『史可法』という文章を松枝茂夫が簡略にまとめたものを、一部割愛したり書き換えで引用した。

 清軍が抵抗らしい抵抗に遭わずに揚州まで来て、初めて激しい戦いになったことで、清軍が揚州の守備軍に激しい憎しみを抱いたことが、大殺戮につながったとその文章には記されているが、それに加えて、戦いがなかったことで軍のボルテージが過剰に高まっていたこともあるだろう。

 そもそも軍隊が動くとき輜重は最重要であるが、混乱のとき、また長駆遠征するときは、それよりも掠奪の方が手っ取り早いし、当時はそれが当然の行動であったろう。女連れではないから婦女の犠牲も伴うことになる。戦いが終わり世が治まれば、その犠牲の責任は敗者に課される。歴史の記述がしばしば敗者の残虐を残すのは古来からの常套手段である。

 歴史を知るごとに思うところも多くなる。今回は明末の歴史の一コマに関する本、『蜀碧』『嘉定屠城紀略』『揚州十日記』を読んだので、それを反芻するために長々と関連する歴史について書いてみた。

 同時に、いま実は江南地区を旅行中であり、予定では13日に帰国するので、その間のブログの埋め草としてまとめて書き残しておいたのだ。

 14日以降にはその江南旅行の写真を掲載するつもりである。ただし今回は四泊五日、費用がたったの五万円ちょっとというツアーへの参加なので、お仕着せの定番コースしか観ることができない。だから目新しいものはないと思うが、少し視点が前より変わっていれば見えないものが少し見えるようになっているかも知れない。それならば幸いである。

2018年3月12日 (月)

梅原猛『考える愉しさ 梅原猛対談集』(新潮社)

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 この本を読み始めたときに一部を紹介した。古典や歴史、哲学についての新しい目を開かせてもらった。

 この本を読んで考えることの愉しさをあらためて教えてもらったのだ。いったい長年何を読み、何を知り、何を考えてきたのだろう。ほとんど何も分からず、何も考えていなかったに等しいことを思い知らされた。

 この本は梅原猛の『隠された十字架』というベストセラーになった本を読んで思うところがあり、二冊目に買った本である。就職して間のないころであり、ずいぶん昔の話だ。一通り目を通したはずなのだが、忘れているのかそもそもその素晴らしさがほとんど読み取れなかったのか、多分その両方だったのだろう。

 読んだときにせめていまくらいの気持で読み取れていれば、そのあと古典や歴史をずいぶんと深く愉しむことが出来たのだろうと思うと口惜しい。長い長い無駄な時間を過ごしてしまったが、いまさら取り返しはつかない。多分その無駄な時間こそがこの本を読み取る力をつけさせてくれたのだと自分を慰めるしかない。

 日本各地をときどき旅する。車で走ることが多いので、あまり人の行かないところにも立ち寄ることができる。そこで断片的に目にしたものが心に引っかかっていることがある。古典や歴史の本を読んでいるとそれが突然意味のあるものとして登場する。無数のそのようなものが各地にあって、それらは長い時間の層の中に埋もれている。

 ひとつの手がかりを頭の中に位置づけすると、次から次にそれに新たなものがくっつき、関連し合ってなにかが見えてくることが稀にある。それこそが考える愉しみであり、考えるためには知識が必要なのだ。

 そのことをこの本を読んで思い知らされたということである。繰り返すが、いまごろ気がついたことに、まことに口惜しい思いをしている。まことに愚かなことであったが、これから少しは取り戻すことができるだろうか。それを愉しむとするか。まだ時間は多少残っているはずだ。

明の滅亡前後について(16)

 四月二十五日、清軍はついに揚州に対して総攻撃を開始した。清軍は大砲を撃ち込んできたが、史可法の軍は屈せず戦い、一人の逃亡者も投降者も出さなかった。史可法も自ら西門にあって督戦した。しかしついに城の西北部が爆破され、清軍が場内に突入してきた。

 史可法はもはやこれまでと、部下に別れを言うと自刎した。しかしとっさに側近が抱き止めたので死ぬことはかなわず、負傷したのみであった。首をさしのべて介錯を命じる史可法に対し、誰も刃を降ろさず、みなは史可法を抱えて城下を脱出しようとした。

『揚州十日記』には混乱の中でそのときの史可法の姿を目撃したと思われるくだりがある。そのあと、一行に清軍の直撃弾があたり、史可法はさいわい免れたが多くの死者が出た。そこへ清軍の兵たちが押し寄せてきた。

 史可法は「史可法ここに在り!」と叫び、自ら捕らえられた。

 豫王は史可法に、清軍の軍門に降って江南収拾の指揮を執ることを再三請うたが、もちろん史可法は応じない。豫王は泣く泣く史可法を斬に処した。

 この前後十日間にわたって、清軍が揚州場内に古今に類を見ないほどの血腥い大屠殺を展開したことは、『揚州十日記』に記されているとおりである。八十万の生命が奪われ、繁華の揚州は凄惨な生き地獄と化した。

 信州は揚州を屠ったあと、五月初めには長駆して無防備の長江北岸に達し、直ちに長江を渡り、鎮江を占領、九日には南京に入った。すでに福王、馬士英、阮大鋮たちはいち早く逃亡しており、残された文武百官は自ら薙髪(弁髪にすること)して清軍に降伏した。

 ここに福王の南京政府は滅亡した。

 このあと清軍は縦横無尽に江南江北地帯を暴れ回り、城をおとして廻ったが、果敢な抵抗をしたのは嘉定と江陰など二三の都市だけであった。嘉定の戦いの顛末は『嘉定屠城紀略』に詳述されている。

2018年3月11日 (日)

毛沢東と習近平

 毛沢東は、当初社会主義から共産主義への平和的移行について楽観的だった。急進的な手法を強引に推し進めたのもそのためだろう。しかし1960年代に入り、反修正主義闘争の時期に入ると、社会主義の未来は不確定なもので、前途に危険が満ちているという悲観論に傾いていた。まさに文化大革命前夜のころの心境であろう。

「政治思想の領域において、社会主義と資本主義のどちらが勝利し、どちらが敗北するかという闘争は、非常に長い時間をかけて初めて解決することである。数十年では不可能であり、100年から数百年の時間をかけてやっと解決するだろう。時間のことを言えば、短い時間で準備するよりは長い時間をかけて準備する方が良く、また、仕事のことを言えば、容易だと考えるよりも困難だと考えた方が良い」
「プロレタリア階級は政権を取ることもできるが、失うこともできる」
「一代や二代の者たちで解決する問題ではない」

 毛沢東がいまの中国の状況を見たらどう考えるだろう。すでに彼の目指した社会主義は破綻したのか。それとも長い長いその過程の一つのかたちなのか。

 習近平は毛沢東を目指しているという。毛沢東の衣鉢をつぐなら、一期や二期の政権では達成は不可能で、死ぬまで自分が政権を担うことで毛沢東の目指したものを推進しようというのだろうか。

 確かに腐敗は最も毛沢東の攻撃してやまないものだった。そして腐敗も修正主義も陰謀もないのに、無理矢理それをでっち上げて攻撃する社会情勢を生み出した。その出発点ともいえる天津地区における四清(スーチン)運動が、『文化大革命の真実 天津大暴動』の冒頭に詳述されている。著者の王輝はまさにその運動の推進者であったから、詳しいのは当然で、罪のない人が次々にやり玉に挙げられていくその恐ろしさは信じ難いほどである。そしてこれは文化大革命の前哨戦のそのまたほんの前哨戦に過ぎなかった。

 これから怖い物見たさの心持ちで読み進めることにする。

*「四清(スーチン)運動」
 1963年から66年にかけて、中国共産党が全国で展開した社会主義教育運動で、初期においては「労働点数・帳簿・倉庫・財産の管理」、後期においては都市・農村の「思想・政治・組織・経済の整理整頓」だった。四清運動では、さまざまな問題が階級闘争そのものだ、あるいは階級闘争が党内において反映されたものだと安易に断定され、多くの基層幹部が、誤って打倒されることになった。四清運動は、「文革」発動のための事実上の準備期間となった。
 本文中から
「最初に問題があると決めてしまい、その後に証拠探しのために調査をする。調査は一方的で偏った立場からの資料集めであり、そして原則的政治路線の問題に格上げするのだ」
 何やら今もその手法がまかり通っている気がする。

明の滅亡前後について(15)

 揚州防衛に当たっていたのは史可法とその麾下の部将以下二万の軍勢。史可法は周辺の部隊に来援を要請したが、各鎮の将軍達は応じなかった。包囲が始まったときに撃って出ることを主張したものもあったが、史可法は籠城を選んだ。しかし武器や糧秣の欠乏は深刻であった。

 豫王はいつもの手段で城内に使者を送り、投降を呼びかけた。使者には明の降将李遇春が選ばれ、彼は史可法に「公の忠義は中華の斉しく聞くところ。しかも朝廷に信ぜられずば、死すともなんの益かあらん、よろしく節を清朝に屈して名を成すにしかず」といった。史可法は大いに怒って、城の上から散々に罵り、矢を発してこれを射たので、李遇春はほうほうのていで逃げた。

 豫王はさらに土民に書面を持たせて、濠に入って謁見を求めさせた。すると史可法は兵卒に命じて縄梯子で降りて行かせ、その使者を書面ともども水の中に投げこませた。

 豫王はなんとしても史可法を生きたまま投降させようと、再び三度書を送ったけれど、史可法はそれを読まずにことごとく焼き捨てた。ここに豫王は史可法を下らせることはできないことを悟り、包囲をさらに縮めていった。場内は食糧の欠乏に陥っていたが、福王の南京政府は再三の要請に対して援助をすることはなかった。

 さらに揚州城内でも反乱の企図があった。史可法はそれを承知していたがどうすることもできない。すでに城と生死を共にする覚悟を決めていたのである。

2018年3月10日 (土)

文化大革命を囓る

 文化大革命は1966~1976年までつづき、1977年に終息した。私が高校生のときに始まったのである。そのころ、水滸伝、西遊記、三国志(原文を翻訳したものを読んだわけではない。それはずいぶんあとのことである)を読んでいて、中国に対してそれなりの思い入れがあったから、文化大革命について報じる新聞(朝日新聞・ずいぶん妙な記事もあった)を普通の人よりも丁寧に読んだつもりである。

 父は専門学校を卒業して中国に渡り、終戦後抑留をされたあとに帰るまで、約十年間をほとんど中国で暮らした。その多くが徴兵されての戦地暮らしかであったらしい。中国には愛憎なかばの思いがあったようであるが、断片的にしか中国時代のことを語らなかったので詳しいことは分からない。私のきき方が悪かったのであろう。それにそもそも父とは若いころ余り会話を交わさなかったことはたびたび書いている。

 大学に入って、専攻した化学よりも歴史に興味をもった。日本がなぜ戦争を始めたのか知りたいと思ったことがきっかけで、次第に過去に遡り、明治維新を一から読み直しているうちに中国に興味が移った。どうして中国は列強の蚕食を蒙ったのか。

 こうしてさらに中国史を眺めているうちについに中国古代まで興味が移っていた。中国古代には何でもある。多くの記録が失われたはずなのに、それでも膨大なものが残されている。たまたま教養課程で中国の古代史の講義を受けた。とはいっても二時間ほど受けただけでロックアウトによってほとんど休講。当時は学生運動の時代で、中央はすでに下火だったが地方は遅れていて、まだ燃えていたのだ。

 レポートに中国の神話をテーマに選んで思想、文化、神話を論じた。中国には神話がないなどという説もあるが、それは西洋的な意味の神話であって中国流の神話は断片的だがさまざまに残されているのだ。その流れで神仙譚や、志怪小説も大好きである。

 こうして実際の生活とは別に、中国の世界をときどき思い出してさまよった。その中で次第に現在の中国に焦点(最初に笑点!と変換されて思わず笑った。そちらが私には正しいかも知れない)が合ってくる。そうなると気になっていた文化大革命についてその意味をもう一度知りたいと思うようになった。

 いま文化大革命や、その前後のこと、そして毛沢東や周恩来について書かれた本をどれだけ持っているだろうか。本棚の横一列はたっぷりある。もちろん全て読んだわけではない。丁寧に読んだものもあり、読み飛ばしたもの、頁を開いただけのものなどさまざまだが、死ぬまでには完読したいと思っている。

『文化大革命の真実 天津大動乱』(ミネルヴァ書房)という、五年ほど前に日本で翻訳が出版された本を読み始めている。巻末の年表などを含めると約700頁の大冊で、一日10頁程度しか読み進んでいないので、多分全体を読んでからの紹介は夏頃になるだろう。読み終われば、だが。

 次回は、この本について、そして出だしの部分の毛沢東の言葉について、いまの習近平と関連させてすこし書き記しておきたいと思う。

明の滅亡前後について(14)

 内戦というのは・・・武漢にいた左良玉が君側の奸馬士英を討つと称して南京を目指して軍を進めたのである。長江沿いに進軍した左良玉の軍は、放火殺人掠奪を働きながらたちまちのうちに九江、安慶等の地を占領し、途中で左良玉は病死してしまったが、その子の左夢庚は前進を続け、南京に迫った。

 馬士英はあわてて黃得功らの軍を江北から南京付近に移動させ、あの阮大鋮(げんだいせい)らに指揮を任せた。さらに史可法らも呼び返そうとした。史可法は福王に上書して、清軍が迫りつつあるいま、江北を離れるわけにはいかないことを説いたが容れられず、やむなく南京に戻った。

 これにより江北地帯は清軍の前に無防備のまま曝されることになった。こうして清軍はなんの阻止も受けずに淮安、泗州等の地を占領した。淮安には劉沢清が鎮守していたはずだが、一戦も交えずに守備地を放棄している。清軍は毎日五十里(中国の一里は約500メートル)進んでも明の軍隊に遭遇することはなかった。

 史可法が南京に着いたころには左夢庚は黃得功らに敗れ、敗走して清軍に投降していた。馬士英は内戦が勝利のうちに終結したことを祝っていた。史可法はたびたびの馬士英の売国行為に憤激し、福王に上訴しようとしたが、そのときにはすでに清軍は淮河を渡って侵攻していた。

 福王は史可法に引き返して清軍を阻止するよう命じた。しかし、急遽史可法が駆けつけたときには各地はすでに清軍に占領されつつあった。

 初夏、清軍は淮河流域を占領したのちに揚州を包囲した。包囲は四月十七日から始まった。翌十八日には清軍の重囲のもとに孤立無援となった。豫王は、もはや揚州はすでにわが手に有ると思っていたのだが・・・。

2018年3月 9日 (金)

今日から江南

 昨晩は成田のホテルに泊まり、今朝から中国江南地方に出掛けている。杭州、寧波、蘇州、無錫、上海などを四泊五日で駆け足で廻る。ツアーだからお仕着せの旅である。日本は悪天候だが、江南は天気が良いらしいのはありがたい。

 海外旅行には原則としてパソコンは持ち歩かない。だからいつも拝見している多くの方のブログをその間は見ることができないのが残念である(私はスマホを持っていないで、いまだにガラケーである。だからスマホで拝見することもできない)。

 旅行期間中は、私のブログは事前に埋め草を書いておいたので見ることができます。ただし、いただいたコメントについては帰ってからとなりますのであしからず。

 このブログが公開されたころにはもう杭州に向けて飛んでいる最中のはず。では行ってきます。

明の滅亡前後について(13)

 弘光元年(1645)正月、史可法が清軍の南下を阻止しようと準備しているさなか、なんと最も信頼していた高傑が暗殺されてしまう。河南地区に連絡を取りにいって、ひそかに清軍に投降していた地区の将軍許定国に殺されてしまったのだ。

 高傑の死後、彼の部隊は勝手に徐州に撤退、そこで跡目相続を争って混乱状態となった。これを収めるために史可法は自ら出向かなければならなかった。この混乱をなんとか収めている間に、河南省一帯は清軍の占領下になってしまった。

 続いて二月、今度は黄得功が突然揚州を襲撃、高傑の部隊を併呑して勢力拡大を図った。史可法は徐州から急遽揚州に帰り、黃得功の暴走の制止に当たった。 

 そのころ、西安の李自成は、陝西を挟撃すべく迫る清軍にたいし、西安を放棄して湖北に撤退、そのために清軍は全力で江南に軍を集中することになった。

 三月、豫王ドドが総帥となり、虎牢関を出発。その他に二つの別働隊にも指示して三方向から要衝の帰徳を目指した。途中なんの抵抗にも遭わず、易々と帰徳を占領するにいたる。これで清軍の江南攻略が極めて有利になった。

 清軍は今度は二手に分かれ、一路は亳(はく)州(安徽省)から、一路は碭(とう)州(江蘇省)から徐州を目指した。その徐州を守備していた明の総兵官李成棟は部隊と共に戦わずして逃亡した。この李成棟はその後間もなく清軍に投降し、「嘉定屠城」の主役となる。

 こうして清軍は徐州を無血占領する。

 史可法は部隊を結集し、さらなる南下を阻止しようとしたのであるが・・・。この頃南京の福王政府内部に内戦が起こった。

2018年3月 8日 (木)

パクチードレッシング

 昔から野菜はあまり積極的に食べない。特に生のサラダは供されれば食べるけれど、自分で買って食べることは少ない。しかし栄養指導の先生や医師は葉っぱを食べろ、葉っぱを食べろと繰り返し言う。仕方がないので言いつけ通り、キャベツを刻んでドレッシングで食べる。いろいろドレッシングを試したけれど、イタリアンドレッシングが私のお気に入りである。

 弟のところへ行くと、弟の嫁さんがよく承知していてこれでもかと野菜責めにしてくれる。ちゃんと私用にイタリアンドレッシングも用意してくれている。おひたしや煮物もたっぷり野菜を使う。とてもありがたい。本当である。

 最近はスーパーにサラダ用に刻んだ野菜が売られていて、ワンパックにキャベツを主体に人参や玉葱のスライス、コーンなどが入っていて、量も多いししかも手頃な値段である。何しろいろいろな野菜を取り合わせて一人分を作るのは面倒だし無駄にもなりやすいのだ。気にいって、いまは週に四五回は食べる。

 だいぶ前だが、誰か女性のブログにパクチー入りのドレッシングの話が書かれていた。私はパクチーが大好き(香草類が好き)である。私の行きつけのスーパーにはパクチーがないのを残念に思っていたが、パクチーそのものはいまだにないものの、パクチー味のドレッシングが棚に並んでいるのをついに発見した。

 かけ過ぎるとちょっと極端な味になるので、私はイタリアンドレッシングと半々くらいにしてそのカット野菜とまぜている。我慢して食べていた葉っぱが、けっこう楽しみな味になってさらに食生活が改善されそうである。世の中便利になっているなあ。

明の滅亡前後について(12)

 高傑がまず揚州に行って殺人掠奪を行った。次いで劉沢清が淮上で騒ぎを起こし、混乱が続いた。史可法は四鎮間のいざこざを調停したが、その誠意ある態度にさしもの四鎮の者たちも次第に史可法の指示に服従するようになった。史可法は各部署への配置を決め、役割を分担させた。そして最も危険な地域は史可法自身が受け持った。

 しかし、いざこざはなくなったわけではなく、一番粗暴な高傑が仲間を襲撃したりしたこともある。その高傑に史可法は熱誠を以て君臣の大義を説き続けた。ついには高傑は最も勇敢な部将に変貌、抗清軍の主力となった。史可法が私心のない義の人であるかがならず者たちにも分かり、それに意気を感じたのである。高傑は徐州に進軍、清軍の南下に備えた。高傑の部隊の前進に続いて史可法たちも進軍した。

 しかし彼等の軍資金と兵粮は極度に欠乏、史可法は南京に繰り返して要請していたが、史可法に対して含むところのある馬士英は故意にこれに応えようとしなかった。

 十一月、山東に盤踞していた清軍が海州(江蘇省東海県)に進軍し、各地を占拠した。史可法は将軍らに命じてこれを邀撃して一部を奪還することに成功する。史可法はこの戦果を南京の福王に報告したが、馬士英は「手当と叙勲を狙った史可法の虚報である」とそれを頭から否定し、無視した。

 このままでは清軍のさらなる南下は必至であると説く史可法に、福王や馬士英は取り合わず、相変わらず酒食に沈湎し、人民の財物を取りあげ、民間からの美女狩りに熱中していた。

 その間にも清軍は南へ、そして西へと進軍を続けた。しかしその主力は李自成などの流賊を追うことに注入され、二手に分かれて片方は李自成を追って西安に進んだ。呉三桂(先にも述べたが、呉三桂は李自成に私怨がある)などの降将を主力とした西進軍は延安から西安に入り、西安を包囲した。

 もう一方は豫親王ドドを総帥として陝西省に進軍、同時にさらに一部が南下して江淮地区にも攻勢に出た。こうして孟津から黄河を渡り、徐州に迫った。これは重要拠点の徐州江淮地区の占領を企るとともに陝西攻略の側面援護も狙ったものだ。

 史可法は全力を糾合してこれに抵抗すべく奮戦した。

2018年3月 7日 (水)

水の街・郡上八幡

郡上八幡は長良川の横にあるが、街はその支流の吉田川、そしてさらにその支流の小駄良川や乙姫川に沿って作られている。街を歩けば水の流れにすぐ出会う。側溝には清らかな水がいつも流れている。水の街なのである。


Dsc_0044 側溝を流れる水。

Dsc_0056 小駄良川。

Dsc_0057 同じく小駄良川。

Dsc_0060 小駄良川の横に有名な宗祇水がある。名水百選に選ばれている。

Dsc_0058 宗祇水。

Dsc_0070 こちらはメインの吉田川。水の色が美しい。

Dsc_0071 これが街の中の水の景色の一つなのである。

Dsc_0072 この集団は中国人観光客。左手にはもっとたくさんいる。最近はこんな処まで観光にやってくるのだ。日本人が好いと思うところは中国人にも好いところなのであろう。

日本人は水を守ってきた。この郡上八幡は水をずっと守り続けてきたけれど、日本は一時期、守る精神を失っていた。しかしそれによって失うものが多すぎることに気がついて再び水を、そして自然を守ることを思い出しつつある。だから郡上八幡は魅力的なのだ。

中国人は自然を破壊するに急であるように見える。生きるためだと主張するだろうけれど、失うものの大きさをまだ自覚していないようだ。さいわい日本は自然の復元力が大きいけれど、中国はどうだろうか。復元不能になる前に日本のように気がつくことができるのだろうか。

郡上でそれに気がつけば幸いである。

明の滅亡前後について(11)

 崇禎十七年、李自成が北京に入り、崇禎帝は自殺した。明朝は事実上これで滅亡したが、それ以後南京が政治の中心になった。南京には万一に備えて北京とほぼ同じような官僚の政治機構があり、北京から逃げてきた官僚も多数いた。大混乱の中で彼らは新しい皇帝を確立する必要があった。

 皇帝候補者は二人いた。福王朱由崧(しゅゆしょう)と潞王朱常滂(しゅじょうぼう)であった。福王朱由崧は神宗皇帝の孫、福王常洵の子で、幼くして徳昌郡王に封ぜられていた。潞王朱常滂は神宗の甥である。血統からいえば福王朱由崧の方が格上であるが、貪欲、淫乱、親不孝、飲んだくれ、学問嫌いで知られていた。そこで官僚の中でも真面目な者たち、史可法、張愼言、路大器たちは福王擁立に反対し、潞王の擁立を主張した。

 ところが鳳陽総督馬士英は、自ら政権を掌握しようという野心から、福王の擁立を主張した。そしてひそかに腹心の阮大鋮(げんだいせい)を使嗾して、四鎮総兵官の劉沢清、高傑、黄得功、劉良佐と手を握り、こうした武力を後ろ盾にして強引に福王擁立の工作を進めたため、史可法たちは屈服した。

 こうして同年五月、福王が皇帝の位に就いた。馬士英はその功により、内閣大学士に上り、兵部尚書を兼ねた。その他の福王擁立派の面々も全て大出世をした。その直後、史可法は督鎮として揚州へ派遣された。馬士英の差し金である。これに対して心ある官僚達はこぞって反対し、南京の太学生数百人は連盟で勅命の撤回を要求した。馬士英を漢奸秦檜になぞらえるものもいた。

 馬士英が揚州に去った福王はますます堕落腐敗の一途をたどり、二ヶ月も経たぬうちに重要な地位は馬士英一派に独占された。

 まさに同じ頃、清軍は李自成を撃退して北京の主人となっていた。福王はそれにどう対応したのか。

 福王の南京政府には百万の兵力があった。さらに江淮四鎮には二三十万、加えて左良玉の三十六営が武漢にいて、八十万と号していた。これらの他にも地方兵があったのである。

 進軍してきた清軍の兵力はどうだったのか。十万しかいなかったのである。この清軍に対して、驚くべきことに南京政府は妥協投降を申し入れたのだ。使者に銀十万両、黄金一千両、緞絹一万疋を持参させて講和を申し入れたが受け入れられなかった。

 史可法の指揮下にあった四鎮の軍隊はすこぶる悪質で、軍隊というよりは強盗の群れに近かった。有象無象の集まりで、ほとんど訓練も受けておらず、略奪殺人は朝飯前、首領たちは地盤争いに熱中し、とくに富裕な揚州をわが手に収めようと虎視眈々と狙っていた。

 その揚州にはあの史可法がいる。

2018年3月 6日 (火)

郡上の変わり雛(6)

こちらは博覧館の展示雛ではなく、街角で見かけたもの。


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白酒どころではなく、ウイスキーで盛り上がる雛たち。

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手前の紙には、「お母さんは人使いが荒いの」とある。

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読んで字の如し。子どもって、たいていこう言う。

そして親はたいてい子どもがその気になる直前に「早く~しなさい」と言う。

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郡上は食品サンプルでも有名。歩いていたら、「サンプル王・岩瀬龍三の生家」と言う店の前を通った。

確か「サンプル工房」立派な食品サンプルの展示館があって、実際にサンプルを作る体験ができたはずである。

このあと、宗祇水や郡上の水を見に行く。

明の滅亡前後について(10)

 西安に行ったことのある人はあの城壁に登ったことであろう。街の中心部をぐるりと取り巻く城壁は周囲14キロ、三周すればマラソンコースと同じ距離がある巨大なものである。現存する城壁は明代に作られたものだ。唐の時代にはさらにこれよりずっと長大なものだったという。想像を絶する。

 中国の歴史のある街ならば、ほとんどが城壁に囲まれていた。しかし現代に入って道路交通の妨げになるためにほとんどが破壊されて、西安のように完全に残っているところはほとんどない。ヨーロッパも中国も街は城壁で囲むのが普通だった。その中国のさまざまな文化を導入してきた日本ではあるが、ほとんど城壁で街を囲むことはなかった。

 同様に中国のもので日本が受け入れなかったものに、宦官と纏足(てんそく)がある。宦官については、浅田次郎の『蒼穹の昴』に詳しい。本を読んだり、NHKでドラマ化したものを観た人は多いだろう。宦官という制度は現代的価値観からいえば非人道的だが、ヨーロッパでも、そして中東でもあって当然として存在してきたもので、日本がそれを真似しなかったのは幸いである。

 元朝から交替して明朝を設立した朱元璋(洪武帝)は、歴代の王朝が宦官によって弱体化したことに鑑み、宦官が政事に関与することを厳禁した。それでも宦官そのものをなくすことはせずに、数百人を残した。それだけ必要なものとされていたのである。

 そしてこの朱元璋の遺訓はたちまち空文化される。第三代の永楽帝は第二代の建文帝を滅ぼして帝位についたことで官僚達の反発を買い、官僚を信頼せずに宦官を徴用した。ここから再び宦官の専横が始まる。第五代の宣徳帝になって、司礼監という宦官による陰の内閣のシステムが制度化され、絶対権力者である皇帝と宦官の密着が強まって、官僚達よりも力を持つようになってしまう。

 この司礼監には「東廠」と呼ばれる情報機関があり、全国にスパイ組織を張り巡らせていた。こうしたシステムを悪用して知識人官僚を弾圧排除していったのである。

 第六代の正統帝時代の王振、第一代の正徳帝時代の劉瑾、第十六代天啓帝の時代の魏忠賢などの宦官は明王朝の国家基盤を覆すほどの専横を行った。この天啓帝のあとを継いだのが最後の皇帝である崇禎帝である。

 魏忠賢は皇帝以上の存在として猛威をふるい、それを批判抵抗する官僚達の粛清が行われて明王朝は一層弱体化した。魏忠賢の専横ぶりと天啓帝の無能ぶりは知るほどに信じられないほどのものて面白いが、ここでは詳述しない。しかし天啓帝が死去したために、崇禎帝によって魏忠賢は流刑を命じられて自殺した。

 崇禎帝は明王朝の崩壊をなんとか食い止めようと努力したようだが、すでに統治システムが破壊されていたために、全国で反乱軍による蜂起が続発する事態となり、その対処も適切性を欠いていたのである。それ以後のことはすでに書いた。

 このあとは満州軍、すなわち清軍の侵攻の経緯を簡単にまとめる。

2018年3月 5日 (月)

郡上の変わり雛(5)

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宴会する人形たち。中華料理らしい。飲茶か。紹興酒を飲んでいるのだろうか。混ざりたい。

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こちらでは麻雀大会が。

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ここでは囲碁大会が。ちょっと盤面が狭い。

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カラオケ大会か。楽しそうだなあ。

もう雛祭りは終わったけれど、遊び呆けてそれに気がついていないのか?

明の滅亡前後について(9)

 当時明の勇将呉三桂(1612~78)は精鋭を率いて山海関付近にあり、清軍と対峙していたが、彼は北京陥落の報を聞くと、清の摂政王ドルゴンに書を送って、朝廷のために恥を雪ぎたいから、どうか十万の援兵を貸して欲しいと嘆願した。しかしこれは、実は呉三桂の私怨によるものだといわれる。彼が北京に残していた愛妾陳円円を李自成軍に奪われたことに憤激してこのような売国行為に出たのだ。どうしても抜くことのできない山海関が自ら開くなど、ドルゴンは余りにもうまい話しすぎるたから、当初呉三桂の策略ではないかと疑っていたが、結局呉三桂の申し出を受け入れた。

 呉三桂を先導にたてた清軍はほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに北京まで進軍、たちまちにして北京を陥落させた(崇禎十七年・1644)。これにより、名実ともに清が明に取って代わったのである。

 内輪もめや施政の失敗などもあってわずか四十日で北京を追われた李自成は、山西をへて西安に帰り着いたが、清軍に追われて襄陽から武昌に退却し、翌年の初め、ついに湖北省の羅公山中で死んだ。

 一方、李自成と袂別した張献忠の行動は『蜀碧』に詳しいが、概要を書くと、崇禎九年湖北から安徽に入り、十年、明軍の反撃にあって敗退、十一年には明の兵部尚書楊嗣承及び左良玉の軍と戦い、また敗退、穀城に逃げ、明の総理軍務の熊文燦(ゆうぶんさん)に対し偽って降服を申し入れ、賄賂を贈ることで窮地を脱した。十三年、楊嗣承の裏をかいて四川に突入し、遊撃戦を展開して巫山、大昌をおとす。十四年計略でさらに襄陽をおとし、襄王を殺害した。楊嗣承は敗戦の責任をとり自殺。十四年、武昌をおとし、大西王と称した。十七年、再び四川に入って重慶を破り、成都に入って成都王を殺害し、帝位について国号を大西、年号を大順とあらため、成都を西京と称した。

 しかしこの頃から彼は自暴自棄におちいり、徹底的な破壊をはじめた。科挙をはじめるといつわり、知識分子を西羊宮に集めて殺した。成都の人民を中園に生き埋めにした。各衛軍九十八万を殺した。四将軍を派遣して、各府県を屠殺してまわらせた。またすべての財宝を錦江に投げこみ、堰を切ってこれを押し流し、一物も残らぬようにした。

*この張献忠の行動についてはいろいろと意見が分かれている。明らかに悪事が誇張されているけれど、全てが後世に捏造されたのか、それともほとんど事実なのか。その点についてはあとで機会があれば自分なりに考察してみたい。これは南京事件などについての見方にもつながる。

 ここまでが主に農民反乱軍についての歴史で、松枝茂夫の解説をもとにまとめている。このあとは、満州軍、つまり清軍の進軍経緯について続けるつもりだが、その前に次回は明末期の宮廷などの情勢について少しだけ言及する。明王朝の崩壊の内部要因についてである。

2018年3月 4日 (日)

郡上の変わり雛(4)

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郡上は水の街。長良川、そしてその支流の吉田川の清流が流れている。鮎もたくさんいる。

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料理人か。

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おままごとしているみたいな雛人形。郡上は蝋細工の食品サンプルでも有名なのだ。

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おまけとして、花道を行く弁慶。

明の滅亡前後について(8)

 十七年二月、李自成は四十万の兵を率いて西安を出発、山西省に入って、太原から北上して大同をへて居庸関を抜き、三月十七日早くも北京城を包囲した。十八日彰義門を守備していた宦官曹化淳がまず買収され、降服して門を開けたので、李自成の軍は外城に入った。その夜崇禎帝は諸皇子を逃れさせ、十五になる皇女が号泣してやまぬのを見て、「汝はなんでわが家に生まれたのか」といって涙ながらにこれを斬り、さらに自ら妃嬪数人を斬った。周皇后は自ら縊れて死んだ。十九日の早朝、帝は前殿に出て自ら鐘を鳴らして百官を集めようとしたが、一人の臣下も姿を見せなかった。そこで帝は宦官王承恩と手を携えて内苑に入り、万歳山(煤山)に登って縊死した。こうして二百七十八年の栄華を誇った明朝は滅んだ。

 しかし北京に無血入城した李自成軍の破局は早かった。

*万歳山は紫禁城の北にある景山のこと。もともとは紫禁城の人工池を作るために掘り上げた土を盛った人工の山といわれる。

2018年3月 3日 (土)

郡上の変わり雛(3)

空中にお雛様がいる。


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おお、こうしてジャンプの助走をしているのか。

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こちらは大滑降であろうか。風が強くて転倒者続出か?

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そんなところで見ていたら危ないよ。

明の滅亡前後について(7)

 一方、李自成と主導権争いをして敗れた張献忠は、李自成たちとたもとを分かち、安徽・湖北方面に移動、これ以後は李自成は酒として黄河流域に、張献忠は長江流域に独自の行動をとっていった。

 李自成は張献忠と比べて器量においてはるかに優っていたらしい。崇禎十三年、李自成は四川から河南に入ると挙人の李厳や、貢士の牛金星などの知識人を優遇し、その献策を容れて人民に対し、貴賤にかかわらず田を等しくすること、三年間徴税を免除することを約束した。その軍隊は仁義の士と称し、婦女を淫せず、無辜を殺さず、資材を掠めずというスローガンを掲げた。また郡中に白銀を私蔵することを厳禁した。これまで軍隊というものを強盗の群れとしか見ていなかった民衆が、李自成の軍隊には進んで酒食を提供して歓迎した。

 李自成は崇禎十四年一月、洛陽をおとしいれ、福王朱常洵(のちに南京で帝位についた弘文帝の父)を殺して、王府の米数万石、金十万両を人民に分け与えた。二月、開封を攻略して南下、自ら奉天倡義大元帥と号した。

 それから転じて陝西に入り、十月西安を占領、十七年正月、帝位について国を大順と号し、年号を承昌とあらためた。百官礼楽すべて唐の制度に従い、六尚書を置き、弘文館・文諭院等を設けた。その軍勢は歩兵四十万、馬兵六十万、あわせて百万と称していた。

2018年3月 2日 (金)

郡上の変わり雛(2)

雛祭りを前にちょっと楽しんで下さい。


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職人町のバケツに乗った人形。この辺りは郡上の職人町。見下ろしているのは・・・。

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おお!カーリング。

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必死でスイープする。結果は如何に。

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旅行ガイドの周りに集まる雛人形たち。てんでん勝手な方を向いているのは現実と同じ。

明の滅亡前後について(6)

 崇禎六年、王自用の死のあとに高迎祥が推されて反乱軍の首領となり、闖(ちん)王と称した。部下の部将の中で次第に頭角をあらわしたのが李自成と張献忠の二人である。

 李自成(1606~45)は陝西省脂県の出身で小さいときには土地の大地主に雇われて羊飼いをしていたが長じてからは銀川の駅卒となった。何度か法を犯して死刑を言い渡されたが、逃亡して豚殺しになり、その後馬賊の高迎祥のもとへ走った。勇敢で智謀に富み、騎射に巧みなところから、高迎祥の右腕となった。

 張献忠(1606~46)も李自成と同様陝西省延安県の生まれで、生まれ年も同じである。彼ははじめは北辺の守備隊の兵士だったが、罪を犯して斬罪に処せられるところを運良く許されて逃亡、崇禎三年、山塞の首領となり、のち王嘉風の部隊に合流した。  

 崇禎七年、十数万の農民軍は河南省で洪承疇の率いる明の大軍に包囲され、苦境に陥った。そこで翌年正月に闖王高迎祥麾下の各部隊の統領たちが滎陽(けいよう)に集まり、善後策を諮った。その結果、李自成の提案した積極策を採ることに決定し、四路に別れて攻勢に撃って出た。しかし戦いは反乱軍に不利のままで、明軍のために各個撃破されていき、高迎祥は捕らえられて磔刑に処せられた。そのためそのあとは李自成が推戴されて闖王を継いだ。

*闖王の闖とは馬が頭を出していることを形容する言葉で、馬上から天下を収める意味とされる。もともとは高迎祥から始まったが、のちには李自成の代名詞となった。

2018年3月 1日 (木)

郡上の変わり雛(1)

郡上八幡の博覧館には毎年変わり雛が展示されて楽しい。久しぶりに見に行った。


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勢揃い。これはほんの一部で、たくさんある。

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花蓮加油(花蓮ガンバレ)。台湾の花蓮の大地震に対する応援雛。

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ちょっと古いけれど、じぇじぇじぇの海女さん雛。

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大物を釣り上げつつあるお雛様もいる。

まだまだあるので何回かに分けて紹介する。

明の滅亡前後について(5)

 こうして飢餓に追い立てられた農民は、陝西の各地に蜂起した。折から給料の未払いを不満として軍隊も続々とこれら農民軍に合体した。継いで崇禎三年、財政窮乏に悩んだ政府が、年間六十万両を節約するために、駅站を減廃したので私欲を失った駅卒が、これまた暴動に加わるというようなことがあって、反乱はますます拡大した(流通の拠点を失うということは経済活動を著しく損なうことで、最も害が大きい)。

 明朝は三辺総督洪承疇(こうしょうちゅう・後にいち早く清に降服してその手先となり、大出世をした男)を派遣し、大軍勢を率いてこの討伐に当たらせた。反乱軍の首領王嘉胤は敗れて山西に死に、そのあとを継いだ王自用も戦死するなど、反乱軍の旗色は必ずしも良くなかった。しかし北辺の満州防衛に主力を注いでいた明朝は、これらの反乱の鎮圧を軽視して、徹底的に討伐をせず、甘く考えていた。そのため反乱軍はますます勢力を増大し、主力が山西に入ったとき、二十余万人と称するほどになっていた。  

*『蜀碧』を取りあげたとき、その叙(序に同じ)の冒頭を取りあげた。その一部を再掲する。

「『蜀碧』は、蜀を哭したものである。なにゆえ蜀を哭したというのか。楊嗣昌の罪を明らかにし、邵捷春の愚を憫(あわ)れみ、」

 ここでいう楊嗣昌や邵捷春というのは、まさに反乱軍の跳梁跋扈を知りながら全くそれに対処せず、無策に過ごして手遅れとなり、大虐殺を許すことになった明の将軍達である。共に最後は殺されたり自ら死ぬ羽目になっている。その愚かさの罪は大きい。

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