そういうこともあるかも知れない
全く根拠のない妄想的な言説は論外として、私は資料をとことん読み、深く思索した上の飛躍的な仮説は、飛躍しすぎていることを理由にして否定をしたりしない。その飛躍の裏付けとして呈示されたものをとりあえずそのまま受け取って耳を傾ける。
飛躍した仮説にはしばしば齟齬があり、誤謬がある。反対者はそれを突いてその仮説を否定する。それでつぶれるようなものなら社会的な評価もないまま幻の説として消え去るのみであろう。しかし、ときとしていままでの定説の方のほころびが顕わになることがある。そのとき仮説は輝く。ところがその定説のほころびが弥縫され、仮説の正しいかも知れない本質がみすみす握りつぶされることがあるという話を聞くことがある。具体的な話もいくつか知っているが、一方的になるおそれがあるし、差し障りもあるので書かない。
私は基本的に「そういうこともあるかも知れない」というスタンスでものごとを受け止めることにしている。ときに荒唐無稽なものも頭ごなしに否定したりしない。陰謀説なども面白く拝聴したり読んだりする。いままでなかったことだからこれからもない、などと決めつけることもしない。
逆に統計数値やグラフが網羅されたような本を読むのは最も苦手である。結局それを読み解いた上で書かれた文章で始めて意味を理解したりする。だから私にとってはその文章だけで十分だったりする。そもそも統計の数字とは何かということを考えだすと、頭がぐるぐる廻りだして、気が遠くなる。具体的なものを数字に置き換えることこそが私には越えがたい飛躍に感じられてしまうからである。科学的な思考が苦手なのである。私は理科系の学部の卒業なので、そういうことを言うと友人によく笑われる。
飛躍した仮説はものごとに違う観点から光を当てることがある。そのときその光を当てられたものが初めて私に意味をもたらしたりする。いままで全く興味も無く、理解も出来なかったことが初めて私のものの考えの材料として役割が与えられる。
めったにないことだが、そういうものに巡り会うととても嬉しい。「そういうこともあるかも知れない」という姿勢を忘れないようにしようと思う。
どうも肝心のことを遠回しに言いすぎて何を言いたいのか分からない文章になってしまった。大変申し訳ない。
口直しに上信越道の横川のパーキングで撮った妙義山系の山の一部を見ていただく。
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論理に矛盾がなく、データーに問題がなければどのような <荒唐無稽な仮説もOK> というふうに教育されましたし、基本自然科学の世界はそれで動いていると思っています。
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ただし、それに付け加えて 「反証可能性」を保証出来るかどうかが最重要だと思います。
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「反証可能性」とは、
同じ条件で、誰が検証しても結論(場合によっては否定もできる)が出る道筋を示すことです。 つまり「再試ができる」こと。 私が批判する言説の中にはこの「再試」ができない仕事があまりにも多すぎるということです。
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投稿: Hiroshi | 2018年3月29日 (木) 07時47分
Hiroshi様
おっしゃることに全面的に同意します。
人文科学にしばしば反証を認めない学界などの傾向があるような話を聞きます。
そのためにみすみす在野で不当に苦労している人がいるなどという話をしばしば聞きます。
だから人文科学は科学ではないなどと言われてしまうのだと思います。
私が梅原猛の飛躍する論理に一目置くのは、対談などで反証されるとそれに対する自説の根拠を説明した上で、相手の説をとり入れて修正していく姿が見えることです。
だから彼の理論は時代と共に大きく変化しています。
自分の仮説に居着かない(武道の言葉でしばしば内田樹が使います)ことが出来るのが科学的な生き方と言うことでしょうか。
投稿: OKCHAN | 2018年3月29日 (木) 08時06分