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2018年4月

2018年4月30日 (月)

映画寸評(10)

『GANZ:0』2016年日本映画。
監督・さとうけいいち、三次元映像のアニメ映画。

 先般観た『ルドルフとイッパイアッテナ』も三次元映像のアニメ映画だった。三次元映像のアニメはあまり好みではなかった。実写に近い映像になる分だけ、現実との違いを却って意識してしまうからだ。つまりリアルに近いから却って嘘くさくなるのだ。『ルドルフとイッパイアッテナ』の場合はキャラクターをデフォルメすることでその弊を免れていた。

 しかしこの『GANZ:0』は表情などリアルそのもの。実写とほとんど変わらない。CGアニメはここまで進化したのだ。ついにリアルを突き抜けた思いがする。そもそもの話がリアルを突き抜けているので、内容と映像がマッチして違和感がなかった。

 『GANZ』は実写で映像化されている。突然敵との闘いを強いられる、という設定は、イギリス映画『VRミッション:25』と同じだ。そちらは相手がテロリストだったけれど、こちらは異形の者、異世界の者たちだ。状況が理解できずに闘いに臨めば虫けらのように死んでしまう不条理な世界だ。

 ただ、これらに共通しているのは、死んでも生き返る可能性があるということだ。現実には死んだ人間は生き返ることはない。しかし一度死んでも生き返るといいなあという願望はある。それが叶うのである。やはりゲームの世界ということか。不可能な願望が叶うのであるから、不条理な殺戮の世界を描きながら実は夢を描いているという見立てもあり得る。出来は悪くない。

映画『封神伝奇バトル・オブ・ゴッド』2016年中国・香港映画。
監督ホアン・コイ、出演ジェット・リー、ファン・ビンビン、レオン・カーフェイ、ホアン・シャオミン他。

 中国の伝奇小説『封神演義』をベースにした映画である。殷周革命を背景に仙人や妖魔たちや人間が入り乱れて戦う。殷の最後の王であった紂王(レオン・カーフェイ)が妲己(だっき・正体は九尾の狐・ファン・ビンビン)に操られて暴虐な政治を行い、世は乱れていた。紂王を倒すべく、周の軍師・姜子牙(きょうしが・ジェット・リー)は戦いを挑む。

 仙人や妖魔や神様が人の姿を借りて入り乱れて戦う話なのであって面白いはずなのである。映像もすばらしい。CGの出来も良い。それなのにところどころ寝てしまった。『封神演義』の物語世界はかなり複雑で入り乱れており、それを描ききることは困難で、ストーリーが圧縮されるのは仕方がない。しかし無意味に冗漫な部分が散見され、全体の緊張感が損なわれているのだ。これは豪華スターを揃えすぎて見せ場を無理につくっているからか。

 確かに原作にもコミカルな部分があるけれど、映画はそれが強調されすぎてふざけているように見える。110分の映画なのに長く感じる。しかも物語は完結しないのである。続編はどんな題の映画なのだろう。実際につくられたのだろうか。収まりのつかない映画であった。

『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録愛蔵版Ⅱ』(朝日新聞社)

 月刊誌の体裁の本であり、本文は主に三段に組まれている。300頁あまりだが、内容も濃いので読みでがある。過去に読んだ司馬遼太郎の歴史随筆や対談が念頭にあるから、読んだことのある話も多いけれど、彼の世界観の一端をあらためて知ることで、考えることも多かった。
「昭和になってからの官僚、軍人で国家に責任を持った者はほとんどいません。愛国、愛国といいながら、結局は自分の出世だけでした」

 こんな言葉を読み、いまの官僚達の体たらくを見れば、深く頷かざるを得ない。

 これは以下の言葉に続いて語られたものである。

「十九世紀になってイギリスやフランスは中国を知るようになり、その官僚制度にほれぼれしてしまいます。秀才を登用する制度だと評価を受けた。すばらしい文明だということで、イギリスもフランスもそれなりにまねしている。そして日本もまねてしまいます。しかもなぜかストレートにまねてしまいました。

 あれほど科挙の弊害から免れてきていた(*)のですが、明治になって高等文官試験ができ、戦後は国家公務員上級職試験ですか、これは科挙ですね。

 海軍、陸軍大学校も科挙の試験ですね。受かった人が順調に偉くなって、大将になる。成績が悪くても少将くらいにはなれる。そうして東条英機になれる。

 薩長藩閥がそろそろ寿命がきたころに、試験制度の官僚制をつくった。そして自分たちの後継者をつくった。中国的なマンダリン(大官)ができあがり、彼らが国家をメチャクチャにしてしまいました。」

 このあとに冒頭の言葉が続く。

 彼が科挙になぞらえる制度は、戦前も戦後もそしていまもあまり変わっていないと言うのだ。では何をどうしたらいいというのか、それを考えるために歴史を繙くことが必要なのだということだろう。まずどうしてこうなったのかを知るために。

*中国から受け入れなかったもの、宦官、纏足、科挙。

2018年4月29日 (日)

受け入れ準備

 連休に子どもたち(といっても二人とも三十過ぎだが)が帰って来るので、その準備をしなければ・・・と思いながら、思うだけでボンヤリしていた。さすがに今日は部屋の片付け、掃除、シーツなどの洗濯、布団干しなどを始めた。天気が良いのでありがたい。

 一気にやろうとすると、ふだんが怠けているのでなかなかつらい。朝から始めてほんの少しだけ済んだところで一息入れている。明日までかかりそうであるが、やってくるのは明後日なのでたぶん間に合うのだ。

 食材の準備もしなければならないが、まず何を作るか考えなければならない。何しろふだんは独り暮らしだからあり合わせの二三品でこと足りるが、彼らは若いからよく食べる。ふだんの三倍では済まないのだ。メニューを考え、それに見合った食材を買い出しして、いつもはすいている冷蔵庫に補充しなければならない。料理を作りながら、その料理を食べ、酒を飲みながら子どもたちと話もしたいから忙しいのだ。段取りを考えておくことはとても大事なのである。

 酒も用意する必要がある。旅先で調達した酒のストックがない。全部飲んでしまった。新潟の舟口菊水でも買ってくることにしようか。

私には面白くない

 私が本格的な小説を初めて読んだのは、夏休みに街の図書館で読んだ吉川英治の『水滸伝』だった。そのあと小学校中学校を通じて吉川英治の本を濫読した。テレビで『神州天馬峡』や『笛吹童子』を夢中で観ていたから、吉川英治には思い入れがあったけれど、『水滸伝』は全く別物の大人の小説という感じがした。『宮本武蔵』を読んだのはだいぶ後である。

 『鳴門秘帖』は高校生になってから、『宮本武蔵』のあとくらいに読んだような気がする。すこぶる面白かった。

 NHKの金曜時代劇の新しいシリーズは『鳴門秘帖』である。とても楽しみにしていた。主役の法月玄之丞を山本耕史が演じている。このNHKの金曜時代劇、『居眠り磐音』シリーズで山本耕史が磐音を演じて良い味を出していたから、期待していたのである。

 第一回を観て、なんだこれは、原作を馬鹿にしているのか、と思った。しかしまてまて一回だけでは分からない。というわけで昨日第二回を観たのであるが・・・。第一回よりひどいのである。ナレーション役らしい講談の講釈師がアップでストーリーを紹介するのだが、全体をぶちこわすために語っているとしか思えない。山本耕史の前髪もうるさくて見た目が甚だしく悪い。

 何よりヒロインの千絵を演じている女優が私の嫌いな人だ。この演技では千絵の置かれた辛さや哀しさが全く分からないで、自分自身を持たないただ馬鹿な女性にしか見えないし、そもそも隠密という仕事の非人間性や、主人公の苦悩が全く伝わってこない。脚本も台詞もひどいのである。朝、録画していた第二回を観始めたら、腹が立って停止し、即消去した。こんなひどいドラマは久しぶりだ。

 これは私の原作に対する思い入れが強いことによる偏見であろうと思う。面白いと思っている人もいるだろうから、ここまで言うのは申し訳ないと思う。思うけれど、私には面白くないのである。

(追)
 昨日終了したWOWOWの『闇の同伴者 編集者の条件』全五回は大変面白かった。主演の松下奈緒は、初めて見たときはあまり好感が持てなかったけれど、次第に好きになった女優である。このドラマでも好演していた。これには前作のシリーズがあり、そこでも松下奈緒と古田新太が主演していた。ややダークな色調の映像も好い。原作が優れているのだろうが、脚本も良いのだろう。無駄な台詞がない。古田新太は蘊蓄を語る饒舌な役柄を演じているが、台詞は極めて聞き取りやすく、それが無理なくストーリー展開につながっている。NHKの『鳴門秘帖』とは雲泥の差であると感じた。

2018年4月28日 (土)

たった一日

 海外旅行に出掛けるときはパソコンを持参しないので、その間はパソコンを開かない。しかし家に独りでいるときはブログを書いたり他の方のブログを見たりネットニュースを見るために、何度も開く。気がつくとそのために思った以上に時間を割いている気がして、それにちょっと面白くないこともあったから、ためしにたった一日だけでも開かないでいた。パソコン世界との距離を見直してみるのも好いかと思った。

 さいわい昨日はテレビで半島の南北会談の様子を一日映していたからそちらを眺めたり、本を読んだり、映画を見たりで、それほど強くパソコンを開きたいという気持にはならなかった。ただ、半島の今後について、そして日本について当然さまざまな想像をするのだが、それがブログの文章言葉で考えていることに気がついて自分で笑ってしまった。

 金正恩がどこまで本気か分からないけれど、劇的な展開はいままでの想像を超えていた。このまま休戦協定が終戦協定になり、平和条約を結び、分断されていた朝鮮が南北統一に向かうのなら、とりあえずめでたいことだと、素直に受け取りたい。

 ただ、金正恩がいままで国内に向けてい言い続けていたことと、今回の行動が矛盾しているのではないかと気になる。北朝鮮の軍部などはこの成り行きを認めているのだろうか。北朝鮮国民は納得しているのだろうか。おかしいではないか、と思わないのだろうか。すでに権力を完全に掌握しているから大丈夫ということだろうか。

 南北統一の先にいままでのことの清算を求める向きがある可能性はあるだろうし、その清算が自分に向かうのを恐れる向きもあるだろう。みんな仲良くというわけにも行くまい、などと心配しているのである。

 南北統一となれば、在韓米軍は存在意味がなくなって撤退することになるのだろうか。THAADの配備などは、本音は中国やロシア向けだとしても北朝鮮向けとしての大義名分を失うから取りやめになるだろう。

 では在日米軍はどうなるのだろうか。アメリカは、もう東アジアの脅威は少なくなったとして韓国に続いて日本から撤退することになるのか、逆に韓国の分まで日本で配備強化をすることになるのか。

 まだこれから先は長いけれど、ベルリンの壁崩壊、そしてソビエト連邦崩壊までの劇的な流れを目の当たりにしたことを思うと、今回も同じように急激に展開していくのかも知れない。それにしてもこの展開の早さは、すでに年初から、またはもっと前から仕組まれていたのではないか、などと勘ぐりたくなる気もする。

 とはいえ、本当にたった一日のことで、そんな風に変わってしまうと思っていいのかどうか、まだ半信半疑でいる。

2018年4月26日 (木)

映画寸評(9)

 読書に集中しにくいので映画を見始めたら止まらなくなった。一日二三本観ている。録りためてある映画が多いからいくらでもあるが、たぶんもうすぐ飽きるだろう。

『バイオレンス・マックス』2016年カナダ映画。
監督アラン・デロシェール、出演ギヨーム・ルメ=ティヴィエルシュ、アントワーヌ・デロシェール他。

 映画に出てくる少年少女はどうしてこんな風に自己中心的で親を怨んだり、そのあげくに非行に走るのだろう。そんな映画ばかり観ているということか。もちろんそんなバカ息子バカ娘でも我が子だから可愛いし護らねばならぬ、というわけでドラマが展開するのだから、良い子では話が始まらないわけであるが。

 刑務所に服役中のマックス(ギヨーム・ルメ=ティヴィエルシュ・名前が長い!)が脱獄する。悪の組織に関わった息子を救うためである。息子は母親の死の責任は父であるマックスにあるとして父を憎んでいる。その悪の組織のリーダーはマックスと同じ刑務所に入所し、彼にある依頼をしていた。息子を助け出すため、マックスは息子やその組織とともに行動する。

 ある秘密研究施設で開発された新型の合成麻薬の製法を入手するというのが彼らに課せられた仕事で、二重三重に仕掛けられた防御を破らなければならない。なんとか施設の侵入に成功したとき、思わぬ齟齬が生じる。恐るべき強敵がマックスを襲う。マックスの獅子奮迅の活躍で敵を倒し、大団円となる。カナダ映画としてはなかなか良くできていた。

 知識があり、才能があるのにバカな息子という憎たらしい役柄を演じていた編み上げ頭の少年が好演していた。

『エクス・マキナ』2014年イギリス映画。
監督アレックス・ガーランド、ドーナル・グリーソン、アリシア・ヴィカンダー他。

 面白い。エクスとはファイル、マキナとはマシーンのことだろう。

 大手IT企業に勤めるケイレブ(ドーナル・グリーソン)は抽選で社長の別荘に招待される。そこで出会ったのはサイバーテクノロジーで人間そっくりに作られ、高度なAIで人間と変わらない思考と感情を持つ女性ロボット・エヴァ(Ava)だった。

 ケイレブは社長から命題を出される。彼女を真に人間と感じることができれば合格である。ところが彼女の姿は内部の機械構造が半分見えるように作られており、どう見てもロボットでしかないが、その顔は極めて美しい。

 こうして彼女とケイレブのやりとりが始まり、次第にそのやりとりがあり得ない方向に向かっていく。

 人間とは何か、自分は本当に人間か。人は外観によって認識が変わるのだということをぞっとするほど根底的に見せつけられる。冒頭以外、ケイレブ、エヴァ、社長、そしてもの言わぬキョウコという女性の四人しか登場しない。その会話はしばしば形而上学的であるが難しいものではない。伏線に次ぐ伏線で、楽しめる。

 ラストは衝撃。ある予測をすると好い意味で裏切られる。ヒントを出すと興を削ぐのでいいたいけれど我慢する。

清潔好き

 夜半、風の音で目が醒めて眠れなくなった。昨夜は早めに就寝したのでそれほど寝足らないわけでもない。ちょっと本を読み散らしたり、それに飽きてボンヤリ考えごとをしたりした。

 して善いことと、して悪いことがあって、その境目は分かりにくい。あるときは見過ごされ、あるときは非難される。

 いまはそのして悪いことを告発することが流行している。それはして悪いことが目に余るほど多いからなのだろうとも思うし、流行しているから我も我もと言い立てているようでもある。いままでがあまりにいい加減だったということかと思ったりもする。

 世の中はほどほどがなくて、一度走り出すと行き過ぎる。一部の芸人が素人や若いタレントをいじるのは、見ていて気持ちの好いものではないし私は嫌いだけれど、それを面白がる人もいるからそれが通用していたのに、そんなことまでセクハラなどといわれかねないようになってきた気がする。

 そういうときに非難を始めるのは、嫌っていた人ではなく、たいてい笑って面白がっていた人であるのは不思議だ。

 世の中がいままでより少しうるさくなったことを素早く読んで対応しないと、やり玉に挙げられるてぼろぼろにされかねない。ちょいワル親父などと気取っていたのが、セクハラ親父に呼び替えられかねない。

 世の中の箍(たが)が少し緩んでいるから、それをただそうという自然の成り行きであるならけっこうなことである。ときに遡って血祭りに上げられる輩もあるだろうけれど、それは世の習いで仕方がない。世の中を清潔に保つためである。

 日本人はもともと世界の中でも清潔好きな国民だといわれる。無臭、無菌抗菌を謳い文句とする製品が巷にあふれている。

 心配なのは人間はそもそも生き物であって、無味無臭無菌を限度を超えて求めると、自然の摂理に反して虚弱化するだろうことだ。そもそも生きていれば新陳代謝があるのだから無臭などはあり得ない。人間は体内に無数の善玉悪玉の菌を抱えているという。自然界も無数の菌で満たされている。見えないだけである。無菌に慣らされれば、わずかな雑菌にも抵抗力を失って、たちまち侵される身体になりかねない。

 男女の駆け引きもますます難しいことになってきたかも知れない。押しの一手、などというのが場合によってセクハラになりかねないとなると、押されないと一歩が踏み出せない女性などは困るかも知れない、などと要らぬことを考えた。もともと押せない男はすでにあぶれていて久しいけれど、ますます押しにくくなって、男女の仲はさらに遠くなりそうな気がする。

 清潔な世界なのである。独身はますます増えて少子化はますます進むだろう。

 こうなれば人類を、とくに日本を救うために、女性に奮起してもらわなければならぬようである。男は女性に選ばれるのをおとなしく待つ時代が来ている。

 妄想していたら、なんだかおかしな結論に至った。

2018年4月25日 (水)

映画寸評(8)

 「ソルジャー」という言葉の入った映画を二本続けて観た。二月頃に続けてWOWOWで放映されたものだ。「ソルジャー」といえば、そのままずばり『ソルジャー』という題名の映画が思い出される。大好きなカート・ラッセル主演のSF映画で、何度でも観たくなるお気に入りの映画である。もう一本あって、それはヴァンダム主演の『ユニバーサル・ソルジャー』という映画だ。敵役が『ロッキー3』でアポロを殴り殺したドルフ・ラングレンだった。今回観た映画の一本にはそのヴァンダムが出演している。

『ソルジャー・アイランド』2012年アメリカ・ロシア映画
監督マキシム・コロスティシェフスキー、出演クリスチャン・スレイター、ショーン・ビーン他。

 出だしのアフガニスタンが舞台のシーンは、それなりに緊張感もあって後半を期待させてくれたのだが・・・。命令を無視して戦友を救出して戦闘行為をしたことを咎められて不名誉除隊となった大尉(クリスチャン・スレイター)はある依頼を受ける。

 ここから五人の大金持ちを兵士として鍛えてある島へ同行し、その島を牛耳って島の住民の反発を受けて逆に島民を虐殺している集団との戦闘を行うというミッションを引き受けることになる。もちろん金持ちたちを守らなければならない。このあり得ない設定はそれなりに理由づけられているけれど、納得のいくものではない。その金持ちたちにもそれに参加するに当たってそれぞれ思惑があり、その作戦は上陸直前から破綻してしまう。

 あり得ない設定ではあるが、登場人物それぞれが一癖も二癖もあってそれを主人公の気持ちになって見ているとそれなりに感情移入していく。二度観たい映画ではないけれど、見て時間の無駄だというほどではなかった。

 クリスチャン・スレーターはいろいろな映画で見ているけれど、やはり忘れられないのは『薔薇の名前』でショーン・コネリーと共演した姿だ。この人もニコラス・ケイジと同じく、あまり出る映画にこだわらないタイプのようだ。

『サバイバル・ソルジャー』2013年アメリカ映画
監督ロブ・メルツァー、出演アダム・ブロディ、ジャン=クロード・ヴァン・ダム他。

 はじめにいっておくと、これはサバイバル映画ではない。映画が始まって数分、録画した映画が間違っているのかと思った。ある広告会社の中の日常が描かれているのだが、その台詞は下ネタばかりで、どれひとつとってもセクハラばかり、福田元財務相事務次官のレベルをはるかに超えて下劣なのである。あっけにとられていると、やがてヴァン・ダムが登場、ようやく映画を間違えていないことが判明する。

 企業研修のために彼が社員たちを島に引率し、鍛え上げるという設定なのであるが、あとは支離滅裂ハチャメチャな展開となっていく。理性を保った者たった四人、他は妄想の王国の住人となる。あたかもあの『地獄の黙示録』でカーツ大佐(マーロン・ブランド)が築き上げた幻の王国のようである。

 女性も含めて放送禁止用語が機関銃のように炸裂しまくるこの映画、こういうドタバタコメディは嫌いなのだけれど、あまりにも突き抜けてバカバカしいので遂に最後まで見てしまった。字幕には×ばかりだけれど、ちゃんと分かるのである。それにしてもヴァン・ダムは最近悪役をやったりして変わったなあと思っていたが、ここまでやるか、よくこんな映画に出たなあ。

インスタントトマトポタージュ

 スープのCMで、トマトポタージュというのを美味しそうに飲んでいるのを見て、そんなのがあることを知った。早速買って飲んでみた。コーンポタージュやコンソメスープも好いけれど、これも悪くない。でもちょっともの足らない気もする。

 ベランダの鉢にパセリが繁茂している。それをつまんで刻んで入れてみる。そこにタバスコを振り入れ、さらにレモン汁を入れてみる。ボンヤリしていた味がクリアになったようでけっこういける。

 晩は飲むから主食はとらないし、一日一度は麺類を食するので、御飯を食べるのが一日一度だけである。だから味噌汁を作っても食べ残すことが多い。インスタントの味噌汁は手軽だが、味噌汁は具だくさんが好きなので、気にいらない。

 そういうわけで、いまこのインスタントトマトポタージュを楽しんでいる。スーパーの棚を見ると、さまざまなスープ類が並んでいるのでさらにいろいろ試そうかと思っている。

 料理は食べてくれる人がいないと、なかなか手間をかける気にならないものだ。だから簡単な食材が増えてきたことは独り暮らしには便利でありがたい。それだけ需要があるのだろう。

2018年4月24日 (火)

映画寸評(7)

『ルドルフとイッパイアッテナ』2016年日本・アニメ映画
監督・湯山邦彦、榊原幹典、(声)ルドルフ(井上真央)、イッパイアッテナ(鈴木亮平)、ブッチー(矢嶋智人)、デビル(古田新太)他。

 飼い猫の黒い子猫ルドルフは、ひょんなことから飛び込んだトラックに乗ってはるか離れた東京の下町に迷い込んでしまう。そこで出会った虎猫イッパイアッテナに助けられ、一緒に暮らすようになる。その暮らし方はルドルフにとっては初めて目にするものばかり。そこでさまざまなことを学んでいく。

 イッパイアッテナは豊富な知識を持ち、叡智も兼ね備えた猫である。人間に対して時に応じて態度を変え、さまざまな名前をつけられて毅然と暮らしている。イッパイアッテナと彼を呼ぶのはルドルフだけである。ルドルフが問われて名を名乗ったあとに、「あなたは」と問われて「イッパイアッテナ」と答えたことからルドルフは彼をイッパイアッテナという名前だと思ったのである。彼は名前がイッパイあるといったのだ。

 ルドルフはやはり飼い主がなつかしい。なんとか飼い主の元に戻りたいのだが、そもそも彼がどこから来たのかルドルフにも分からないから帰りようがないのである。

 ある日、夏休み中の職員室で彼らを可愛がっているクマ先生の見ている甲子園野球のチーム紹介で岐阜が映し出される。まさにルドルフが日々眺めていた景色であった。彼が岐阜から来たことが明らかになる。

 いろいろ経緯があってなんとか岐阜に帰るための方策が立つのだが・・・。いろいろな試練があり、仲間との絆もさらに深まり、宿敵だった猛犬のデビルとも友達となったとき、ルドルフは猫として大きく成長していた。

 大変楽しいアニメだった。これはもう一度観ても良いと思う映画だ。BDに録画したものを普通なら即消去して次の映画を録画するところだが、娘のどん姫に見せたいからとって置くことにした。

気にしていたニュースを見て

 韓国GMは韓国政府の支援要請と労組側への譲歩交渉期限を今月20日としていたが、労組側が多少の妥協を見せたため、23日に期限が延長されていた。昨日、期限ぎりぎりの午後5時直前に労組側がさらに譲歩したため、暫定合意に漕ぎつけたそうだ。これで法定再建手続き(破綻して撤退の可能性が大)への危機が当面回避されたという。

 こんなところに落ち着くだろうと思ってはいたが、もしかしたら本当に破綻するのかと思ったりして注目していた。しかしさらなる進展(本当の合意)はしばらく先になりそうだ。とはいえ数多くの中小下請け納入業者はすでに破綻する会社が出始めていて、この状況の持続に耐えられるかどうか心配されているという。自動車産業は裾野が広い。それに解決が遅れるほど新型車種の韓国工場への投入の可能性が低下するという。すでに韓国工場から中国工場への振り替えの話が進展しているともいうが、まさかGM側のブラフではあるまい。

 労使が合意されれば採算がいまより改善されることは間違いないだろうが、いまのグローバル世界で競争するだけの生産性を確保できるかどうか危ういようだ。これが一企業の問題にとどまらないことも心配の種だろう。

 しかし日本の企業もさまざまな試練を乗り越えて鍛えられ、乗り越えたものだけが強くなって生きのびた。試練があるからこそ強くなるということもある。韓国の企業もその試練に直面しているということだろう。強くなるとそれに慢心して保身に走ったり、手抜きが始まったり、甚だしいときは不祥事を起こして危機に陥って・・・という繰り返しで企業も浮き沈みしていくもののようである。

 リタイアしたから他人事で、眺めている。

2018年4月23日 (月)

映画寸評(6)

『リベンジ・オブ・ザ・グリーンドラゴン』2014年アメリカ・香港映画
監督・アンドリュー・ラウ、アンドリュー・ロウ、出演ジャスティン・チョン、ケヴィン・ウー他。

 舞台はニューヨークのチャイナタウン。そこの裏世界の縄張りをいくつかのグループが奪い合いながらそれなりのバランスの中で共存していた。そこにある振興のグループが歯止めのない暴力によって台頭して来る。

 主人公はまだ暴力団とも呼べないような小学生の少年。彼は仲良しの友人が彼らのグループに加わったことで次第にその一員として行動するようになる。リーダーは仲間の一員であることを示すためにさまざまなことを彼らに強要する。

 彼らの暴力は歯止めがない。見ていて救いのない気持になる。実際に裏社会というのはこういうものだとすれば、まことに恐ろしい。以前観た香港映画では、こういう抗争事件での凄まじし暴力が描かれていたが、それを少年が行うことが一層凄惨さを感じさせる。

 後半では少年は成長し青年に近い年齢になっている。ラストにカタルシスを発散させてくれそうなシーンがあるが、その結末は・・・。

 かなりきつい映画である。 

『ウェズリー・スナイプス シールド・フォース 監獄要塞』2017年アメリカ映画。
監督ジョン・ストックウェル、出演ウェズリー・スナイプス、アン・ヘッシュ他。

 状況設定がうまく説明できないが、人工知能によって完璧に管理されているはずの秘密要塞との連絡が途絶え、そこへウェズリー・スナイプスが率いる特殊部隊員たちが原因究明と復旧のために派遣される。その秘密要塞に詰めていたのは彼らの精強な仲間でもあった。

 その要塞の中でその精強な仲間たちの死体が次々に発見される。やがてそこにいるはずのない男が生きて発見される。完璧なはずの要塞にどうして侵入できたのか。彼は呼ばれたのだという。しかし何が起きたのか分からないと言い張る。

 警報が鳴り、やがて彼らは要塞に閉じこめられてしまったことを知る。人工知能の暴走によるものではないかと気付いた彼らは必死で復旧に努めるのだが・・・。

 彼らの抱える、決して知られたくない秘密がどういうわけか明らかにされ、そのことが人工知能の暴走の原因であることが分かったとき、彼らを恐怖が襲うという話であるが、最初はともかく後半はあまりこわくない。

 大好きなウェズリー・スナイプスだけれど、今回はちょっと動きが今ひとつだし、彼らしい活躍が見られないのが残念であった。彼はやはり単純明快な信念を持って脳天気にアクションをこなす方が似合っている。期待したのに。

囚われる

 誰でもあることに囚われるとそのことしか考えられなくなってしまうことがある。囚われた外側のことが見えなくなるのである。そしてそこから自力では出られなくなっているのが精神疾患の人なのではないかなどと考えている。

 では何に囚われているのか。結局は自分自身なのではないか。囚われている人は囚われることでとても苦しい思いをしている。他人のこと、自分の世界以外のこと、は見る余裕がなくなっている。それは多分に性格に関わる気がする。

 人は自分が最も大事であって、その大事な自分が攻撃を受けていると思ったり、自分の価値が不当に貶めたりするとそのことに傷つく。その思いは自分に囚われやすい性格の人ほど強いのではないか。もちろん受けた傷がある限度を超えればもともとの囚われやすさとは関わらずに、その深い傷の記憶そのものが囚われやすさを生み出すことになるだろう。いわゆるトラウマである。

 理由が明らかで囚われている人は、その理由を乗り越えることで傷を癒やすという積極的な治療と、安静、つまり刺激を極力与えないことで自己治癒力による治療を目指す消極的なものがあるようだ。積極的な治療は劇的な効果があるときもあるけれど、悪化の可能性も高く、リスクが大きいという。ときに傷をえぐってしまうからだろう。

 しかし多くの精神疾患者はそういう原因が明らかではない。それは他人にとっては取るに足らない程度のことなのに、しかし本人にとっては大きな精神的ダメージがあったのではないか、として精神科の医師や心理療法士は見えない犯人捜しをしたりすることもある。

 どちらにしても、話が戻るようだが、囚われやすい人が囚われる。そして囚われやすさとは多分に性格なのではないか。自分のことばかり考える性格の人がその自分自身に囚われるのではないか。では精神疾患とは何か、などと考えている。

 たまたま知人に病の人がいて、そこから感じたことを書いた。性格がひとつの要因なら治療とは何か、などと思ったりしている。

 現代はすべて病には器質的な理由があって、それを治療すれば治るまたは改善するとされており、実際にその対症療法である薬に高い効果があることは承知している。実際、重症の患者は向精神薬によって世界中で激減しているのである。それでも発症の根本原因が明らかになっているようではない。

 性格も器質的なものから来るのだろうか。そしてこれから解析されていくのだろうか。精神の働きについてこれからなにが明らかにされていくのだろうか。見えないものを明らかにするのは困難で、山のように仮説が呈示されているが、それが次第に確固たるものになっているように見えない。素人で何も知らない私にはときに精神医学は砂上の楼閣に見えてしまうことがある。

 無知による妄言を書いたかも知れない。苦しんでいる人、治療に努力されている人などに他意はないので、もし不快であれば申し訳ない。

2018年4月22日 (日)

三度目の正直か?

 北朝鮮が今年に入ってにわかに積極的な外交に転じ、たちまち韓国やアメリカの首脳会談が行われることになった。すでに中国の習近平主席とは会談を済ませている。

 私の記憶では、この事態の急変について予測した北朝鮮の専門家はいなかった。しかし彼らは恥ずかしげも無くみな後付けでその理由を縷々述べている。いままでも北朝鮮情勢を報じる場で活躍が続いたが、これからも彼らの出番が続くことになりそうだ。

 北朝鮮が妥協する態度を示していることが信用できると感じるかどうか、ひとにより違うだろう。「過去にも約束を裏切ったことがあるから、二度あることは三度ある、と思う人もいれば、情勢から見て今回こそは信じられる、つまり三度目の正直だ、と見る見方もあるだろう(by 宮家邦彦)」。どちらもあり得るから、どちらが正しいかというのは現時点では分からない。

 いまの情況を、日本は蚊帳の外に置かれている、と自嘲的に言う向きがある。いくらトランプと親しそうにしても所詮安倍さんなんてそんなものだと言いたげである。しかし宮家氏も言っていたけれど、日本は朝鮮戦争の当事国ではない。いま北朝鮮が求めているのは、現状の北朝鮮を認めた上での朝鮮戦争の終結とアメリカとの平和条約の締結、そして経済封鎖解除である。いま日本は当然蚊帳の外である。日本が役割を示すのは最後の場面と言うことになるだろう。

 ただしそのときは日本のお金が求められるだろうことは想像に難くない。北朝鮮再建に必要なお金を韓国一国が背負うことは難しそうであり、それを日本に頼ってくるのは過去の経験で予想される。南北分断はアメリカとソ連によるものだが、そもそもは日本が悪いのだ、と言うのが半島の人々の認識らしいから当然の要求として求めてくるだろう。決してお願いしますとは言わないはずだ。日本国民は日本が蚊帳の外かどうか、そのときに思い知ることになるだろうと思う。 

 北朝鮮が核放棄をする可能性は低いと思う。それよりは南北統一の方が可能性があるような気もする。金正恩は安全が保証されればそれを受け入れるような気がする。状況によってはどこか安全なところに保護されることを望むだろう。もしそのまま半島にいれば、何しろ歴代の大統領を次々に牢屋に入れる国である。拘束されればまず命はないことぐらい分かっているはずだ。

 そういう意味ではこれから歴史の転換点が見られるかも知れないわけで、これからの南北首脳会談や、米朝首脳会談はとても興味深い。いろいろな意見を見聞きすることになるだろう。結果が出るまでは言った者勝ちである。どんなこともある得るのだから、それらを楽しみに拝聴しようと思っている。

 いまのところ、私は北朝鮮は中国化、つまり体制を維持しつつ経済のみ自由化に舵を切るような気がしているが。

丸三年

 先日事故から丸三年が経ったセウォル号事故のドキュメントを見た。丸三年経ってようやく明らかになったこともあるし、まだ明らかでないこともたくさんあるし、永遠に明らかにならないことはそれ以上にあるのだろう。

 この事故での船長以下乗組員の無責任さ、そして海洋警察の不手際が告発され、あとで法で裁かれた。ほとんどの人が助けられた可能性があるのに助けられなかった責任が問われたのである。助けられなかったというよりも、「助けなかった」ことを数々の証言や当時の映像が語っている。思えば当時の朴槿恵大統領政権が国民からの信頼を失墜したのもこれがきっかけだったようにも思う。

 だから韓国は・・・などというつもりはない。そういう言葉はいつでも自分自身に返ってくる言葉で、日本で同じことが起こらないと誰が言えるだろう。人はそれぞれの役割に応じた責任があるけれど、いまは責任の自覚に欠ける人がずいぶん多いように感じる。不思議なことに他者の責任を激しく非難する人ほど自分の責任には鈍感ではないか、などと思う。このドキュメントでも命がけで人を助けた人は黙して語らず、三年経ってようやく取材に応じたと報じていた。

 自分だったらどうするのか、そのことを自分に問う。英雄的な行動はできないかも知れないけれど、せめて危機は常にあることを念頭に置くことはできる。危機にあるときに他者の責任を問うてばかりいても助からない。

 ドキュメントでは船員たちより早く携帯から事故を連絡した少年の、そのやりとりの記録が公開されていた。そのときの海洋警察の担当者は情況を理解しようとせず、少年が乗組員だと思い込んで少年が答えようのない質問を無意味に繰り返して時間を空費していた。相手の話を聞き、そして理解しようという当たり前のことができない、パニックになっていたのはその少年ではなく海洋警察の担当者だった。少年は亡くなっている。

 それでもそのやりとりで危機を察知して現場へ駆けつけた船があった。漁船監視船の船長である。彼が40キロあまりの距離を急行し、現地に着いたとき、回りにはたくさんの船が集まっていた。ところがセウォル号に人影があるのに誰も救助しようとしていない。それは当時の映像でも見たことのある不思議な光景だった。救助が始まったのは、急行したその小さな漁船監視船がそのままセウォル号に横付けして乗客を乗せ始めたのを見てからだった。

 次から次に船から人が出てきた。その様子は漁船監視船の船長のヘルメットに据え付けられたカメラの映像に捉えられていた。最後の最後に助けられた少年が船内の様子を克明に語っている。九死に一生を得たこの少年もこの監視船の船長が助けている。

 現場に急行した海洋警察の船は、いち早く乗組員たち(だけ)を助けた。しかし誰一人船内に乗り込んで救助をしようとしたものはなかった。乗客の中には自分が逃げることよりも傾く船内で必死で救助を続けた人がいて、このドキュメントの中で船内の様子を語ったあと、その人は心の中から絞り出すように「あれは虐殺だった」とぽつりと言った。いまも助けられなかった人の姿を夢に見るという。

 たまたまそのあと『相棒』というドラマの劇場版『相棒Ⅳ』を見た。戦争中南洋の島で取り残された少年が生きのびて、大人になってようやく帰国したとき、すでに自分は死んだことになっていることを知る。彼は二重に自分を捨てた国に復讐するためにテロリストになるという話だ。ここではいち早く民間人を残して軍隊が引き揚げていく姿が描かれていた。

 軍隊がいち早く民間人を残して逃げたのは満州でも朝鮮半島でも同様である。本土決戦に備えるという名目はあっても、民間人を守るべき軍隊が、民間人を見殺しにしたことは厳然たる事実である。そのときに逃げた兵士達は責任を感じたか。それを命じた軍部の責任者は責任を感じたか。その責任を問われたか。

 五木寛之もそのとき平壌にいて、逃げ惑い、ようやく帰国できたという経験をしている。彼が自ら「デラシネ(根無し草)」を名乗るのはそういう背景がある。

 原発事故の責任問題も同様だろう。なぜ事故が起こった原発と無事だった原発があるのか、事故発生後の避難指示は適切だったのか、開示すべき情報は開示されていたのか、それらの責任は本当に問われたのか。

 これらは違う話だけれどたぶん違う話ではないように思う。いま安倍政権はあまりにお粗末な姿を国民の前にさらしている。それを嬉々として断罪しようとする野党がいる。慰安婦問題で誤報を三十年も放置した朝日新聞は正義をとなえて政府を攻撃している。

 世の中というのはそんなもので、しかたのないものなのだろうか。テロリストが生まれるのはそういうときではないのかと恐ろしい気持になる。

2018年4月21日 (土)

葉室麟『玄鳥さりて』(新潮社)

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 玄鳥とは燕のことである。

 人が人をかけがえのないものとして思い続けること、それに身命を賭すこともいとわない思いがあることを、物語として語る。同時に人は、ああはなりたくないと思うような人間にいつの間にかなってしまうものでもあることを語る。

 財務省のエリート官僚も入省したときはそれなりに国のために働くつもりであっただろう。それが人によってはあの体たらくになってしまうのである。

 葉室麟の小説では歴史小説もあり、剣の強い人間が出るいわゆるチャンバラもの、そして芸術家や詩人、女性が主人公のものがあって、それぞれに面白いけれど、やはり剣での闘いがあるものが読みやすく面白い。

 ある意味でこの小説は、三浦圭吾という少年が次第に成長していく姿を描いていくビルドゥングスロマンである。その彼を陰で支え続ける剣の達人、樋口六郎兵衛との関係が次第にねじれていきながらも、そこに生き続ける限りないやさしさが二人を救っていく。どうして圭吾は守られ続けるのか、そのことは最後の方で明らかにされる。 

 葉室麟の作り上げた世界を心から楽しむことができる。今回は強さだけではなく、人の弱さも描かれている。

時代が大きく変わるかも知れない

 中国の一帯一路構想は巨額の経済支援の約束を後ろ盾に着々と進んでいるようだ。しばしば中国にばかり有利な展開になって現地で反感を買うこともあると報じられるが、途上国にとっては背に腹は替えられない事情もあるのだろう。ただ、私としてはその中国のやり方に傲慢なものを感じて、日本が一帯一路に加わることには賛成しかねる気持でいた。

 今回イギリスを含めてのEUと日本がFPA(経済連携協定)で合意した。これで世界のGDPの三分の一の経済圏が成立する。日本はすでにTPPをほぼ成立することに成功している。そのTPPにはイギリスが参加の意欲を示している。このことはアメリカや中国が一方的に貿易や経済を主導することに抵抗する一つの勢力ができることを意味する。各個撃破を狙うアメリカや中国に、数で対抗する準備を調えているということだと思う。

 いまアメリカは機会の平等ではなく、結果の平等を正義として強引な貿易戦争を仕掛けている。アメリカ車が日本であまり売れないのは日本のせいだと決めつけているが、ドイツ車がいくらでも売れていることをトランプ大統領はご存じないようだ。アメリカの自動車会社は日本で車を売るための努力がたらないのではないか。

 いろいろなことでアメリカと同様にせよ、そうでなければ障壁である、とトランプ大統領は吠えているようである。これは明らかに暴論である。反対のことを日本が言ったらどうなるか。アメリカはあまりにも利己主義的に見える。

 どこの国も自国を最優先にするのは当然だが、そこにはおのずから限度があり、節度も必要で、それをある程度守っていたからアメリカは信頼されていた。アメリカがその歯止めをなくせば、そんなアメリカといままでのようにつき合うべきかどうか、どこの国も考えはじめるだろう。

 最近、日本も中国との関係を見直す必要があるような気がしてきた。もちろん中国との関係は中国の覇権主義的な傾向を考慮して慎重にしなければならないけれど、経済面から言えば、アメリカよりも中国の方がましだ、という事態が来るかも知れない。

 アメリカの衰退はまだ先のことだという。しかしトランプ大統領が衰退に舵を切りつつあるような気配もある。彼を支持するアメリカ人が想像以上に多いことはアメリカの本質を露呈させているのかも知れない。

 どうやら日本もアジア回帰に舵を切るためのターニングポイントが近いのかも知れない。もちろんそんな方向に進む前に中国も変調を来さないとはいえない。しかしあらゆる事態を想定して選択肢を拡げる時代になりそうな気がする。一帯一路構想への参加も含めてのことである。

 私がどうするこうするという話ではないし、そうすべきだと主張しているわけではないが、そういうこともあり得ると認識しておくべきかな、と感じ始めた。つまり経済、そして軍事の力関係からアメリカ一辺倒でも仕方がないのかな、と思っていたのをそれではまずいのではないか、と思い始めたということである。ちょっと遅いか。

2018年4月20日 (金)

明日には情報があるだろうか

 韓国GMが撤退も視野に入れて韓国政府には支援を、そして労組には妥協を求め、その結論を出す期限を本日の20日としており、その打ち合わせが午後から始まったというニュースのみ報じられたが、結果がどうなったのかまだ情報がない。

 決裂してしまえば少なくとも3万人の雇用が失われる可能性があるとされているが、労組側は強気のままだと伝えられている。彼らの交渉に対する二枚腰三枚越しの粘り強さは日本人には真似できないものがあり、いままでも破綻ぎりぎりでようやく妥協するのを見て来たので、今回もそんなことになる可能性もある。

  とはいえすでにGMを主力納入先とする下請け会社が次々に破綻に追い込まれており、その傷はかなり深いようだ。主力車種の韓国での生産をGM本社がすでに見限って、中国生産に振り替える方向だという話も一部報じられている。すでに韓国GMの各工場の稼働率は採算ラインを大幅に割っていて回復の見込みはあまりないと言うから、このまま最悪の事態に突入するかも知れない。

 このことの是非を言うつもりはないし、韓国の労組に対して非難するのは韓国のマスコミに任せたいが、今回の労組の強気の背景は何か、そのことの意味を考えている。会社がなくなるかもしれないのに妥協しないというのは不思議だからだ。日本のように「我が社」という感覚があまりないからなのだろうか。

 最悪の場合、組合は従業員にどのような責任をとるつもりなのだろうかと心配しているのである。彼らは路頭に迷うことになるし、韓国の失業率は好景気なはずなのに信じられないほど高い。再就職もままならないだろう。

 明日にはその結果が報じられるだろうか。もしかすると期限が先延ばしされたのかも知れない。だからいまだに報道がないのかもしれない。

誰に対する批判か

 人はしばしば同じことを全く違う受け取り方をする。それはどちらが正しい、となかなか簡単にいえるものではない。ときには全く違う意見に耳を傾けることで自分の考えが鍛え直されることもある。それぞれにどうしてそう考えるに至ったか、その人なりの生き方の中に理由があり、正しいか正しくないかとは別に、その違いに面白さが感じられることもある。

 だから何が嫌いだといって判断を「白か黒か」に単純化する手合いだ。いわゆるレッテル貼りをする人々である。しばしば人はその方が楽だからそうなるし、自分もそうなりかけることもあるけれど、自制するように心がけているつもりだ。

 ブログにいただくコメントも短い言葉で書き込むからどうしてもその傾向が出やすい。そのとき批判に対する単なる反論にならないように注意して返事を書いている。しかしあまりに自分が書いていることと違う意味のコメントをいただくとそれに対する返事は感情的な文章になってしまう。読み返してみて、まずいと思って書き直すことが多い。ときには二度も三度も書き直している。

 以前も書いたけれど、私のブログは延々と続く私自身の自己紹介である。匿名で自己紹介というのはおかしな話だけれど、何しろ迷惑メールや迷惑コメントの類が少なくないので防衛のためである。友人知人はもちろん私のブログであることは承知している。友人の中には、いつも会っていたときよりも私の近況が良く分かるし、考えも分かるね、と言ってくれる人もいる。

 とはいえ、その自己紹介を読んでいるのに、あり得ない受け取り方をされればそれなりに反論するのは当然である。 

「…弁解をすれば、そのサイトにはいろいろな人の書き込みがあり、それに対する反論がblog主への反論(反論というより批判だろうか?by OKCHAN)ととられる場合がこれまでもあったのだが、」

私の反論に対しての説明だろうか、そのコメントを書いた方が自分のブログに書き込んでいた文章だ。

 私のブログに書き込まれたコメントを私のブログに対するものと見做すのは当然であって、他の方のコメントについての批判であればその旨明記していただきたいものだ。誤解されたと感じることは、精神的に苦痛である。自分はその程度にしか受け取られない文章を書いているのか、と自己嫌悪におちいるのだ。ブログをやめたくなるほどである。

「弁解をすれば」という言葉にいささかの救いはあるけれど。

初めて大阪城に行く

大阪で友人達と会食した。夕方の待ち合わせだったのでその前に大阪城に行った。大阪の会社に38年間奉職して大阪に住んだことはないけれど大阪には数え切れないほど行ったのに、大阪城に行くのは初めてである。


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名古屋から近鉄で鶴橋に、そこからJRで森ノ宮へ行き、大阪城公園に入る。ごらんのように天気は快晴、ウイークデイなのに人がとても多い。話し声を聞いているとほとんど外国人である。日本人は二割くらいではないか。大阪は海外からの観光客に人気があるようだ。

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天守閣方向に向かうと階段があり、ツツジがちょうど見頃であった。

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どうも花の写真は上手く撮れない。花の写真も・・・というべきか。

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豊国神社に立ち寄る。

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豊臣秀吉にちょっと挨拶して天守閣に向かう。

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ツツジの向こうに天守閣が見えた。

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なかなか壮観である。ここも外国人ばかり。中に入るのに行列ができていた。行列に並ぶのは苦手である。待ち合わせ時間のこともあり、登るのはやめた。

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真田幸村もいた。一緒に写真が撮れる。

冷えたワインを提供している出店があった。一杯500円。木陰のベンチに座り、ワインを飲んで汗が引くのを待った。風がさわやかで気持ちが好い。大阪城公園は緑が多くていいところであった。


2018年4月19日 (木)

映画寸評(5)

『リターン・トゥ・アース 宇宙に囚われた1027日』2014年カナダ映画
監督エリック・ピコリ、出演ジャン=ニコラ・ヴェロー、ジュエリー・ペロー他。

 ほとんど金をかけずに宇宙ものの映画をつくって、それが一応成功している。カナダ映画は外れのことが多いと散々言ってきたが、何しろ尺が短いのでつい選んでしまう。この映画も突っ込みどころが満載だけれど、途中でやめるほどひどくなかった。この映画は英語でなく、フランス語で会話がすすむ。この映画の登場人物はフランス語圏のケベック州の飛行士たちらしい。

 すでに人類は火星にも足跡を残している時代、長期宇宙旅行に備えてその実験のために1000日の予定で宇宙ステーションに滞在をすることになったカナダ人の男二人女二人の乗組員が順調に任務をこなすなか、彼らは木星の衛星の観測によってある画期的な発見をする。ところがその後しばらくして、地球との交信が突然途絶えてしまう。

 地球で何が起きたのか。そして彼らが宇宙から地球上に見たものは。やがてリーダーがパニックになり、彼らは帰還船を失ってしまう。アホかいな。

 絶望に囚われた宇宙ステーションにロシアの宇宙船がやってくる。そして彼らに再び帰還の希望が生ずる。しかし彼等はある選択を迫られる。彼らはどう決断し行動するのか。それがこの映画の見所である。映画では彼らの運命は明確に示されない。宇宙ものが好きで暇なら観てもいいかも知れない。ただし登場人物(すべて)の動作ののろさにかなり腹が立つことに覚悟が必要。もっとてきぱきしろよ!どうもカナダ人は動作がのろい気がする。それは以前トロントの空港で経験した実感に合致する。

『ザ・スクワッド』2015年フランス・イギリス合作映画。
監督パンジャマン・ロシュ、出演ジャン・レノ、カテリーナ・ムリーノ他。

 ジャン・レノは暴走刑事ものがよく似合う。パリ警察の暴走刑事達を率いる警視役を嬉々として演じている。お年のせいかアクションにスピード感と切れがないけれど、気持ちいいくらいパワフルである。こんな無茶なことを続けていればおとがめがあるのは当然で、ある男の誤認逮捕からやがて彼の率いる部隊は解散されそうになる。

 しかしそれは誤認逮捕ではなかった。それに気付いた彼らは強盗集団が狙う銀行に急行するのだが・・・。そこでかけがえのない仲間の一人を失うことになる。警告通り彼は謹慎どころか逮捕、チームは解散となる。死んだ仲間というのは実は署長の妻であり、彼の愛する人でもあった。

 彼の腹心の部下が単独で勝手に捜査を進め、二重に仕組まれた強盗集団の目的が明らかになる。署長をようやく説き伏せて捜査というより仇討ちが始まる。あとはひたすら追っかけたり殴ったり撃ったりの連続である。不死身のジャン・レノを見る痛快さを楽しめる。ドンパチ好き向き。

『ストームブレイカーズ 妖魔大作戦』2015年中国映画
監督ジョシュア・イ・シャオシン、出演パイクー、ヤン・ズーシャン他。

 開始五分で観るのをやめた。西遊記の面々の妖怪退治話らしいが、あまりにもふざけすぎていて、観るに値しない。時間の無駄である。こんなのを中国の人は喜ぶのだろうか。信じられない。

『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録』(朝日新聞社)

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 叔父夫婦が(私の)母方の祖父母と同居していたことがある。叔母は本好きで、世界文学全集も揃えていたので借りて読んだりした。中学生の頃のことで、ちょうどそのころ山岡荘八の『徳川家康』(全26巻)が刊行中で、それも予約配本されていたから出る順に読ませてもらった。時代小説ではなく、歴史小説というものの面白さをそれで覚えた。

 それまでは柴田錬三郎や五味康佑、南條範夫などの時代小説を濫読していたが、歴史小説の面白さに目覚めたので、海音寺潮五郎などを読むようになった。司馬遼太郎に一目置くように、私にとっては海音寺潮五郎は一段高いレベルで敬愛する作家である。といってもそれほど数多く読んでいるわけではないから知ったかぶりするわけにはいかない。

 今回読んだ『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録』にはさまざまな人物が取りあげられているが、その中に海音寺潮五郎が登場する。司馬遼太郎は薩摩生まれの海音寺潮五郎と交流があって、大先輩として敬愛していた。饒舌な司馬遼太郎も海音寺潮五郎と対すると無口になったという。

 いま大河ドラマで西郷隆盛が取りあげられているが、海音寺潮五郎だったらどう評するだろうか興味がある。私が初めて海音寺潮五郎を読んだのは『二本の銀杏』という小説で、薩摩藩のお由羅の方騒動を描いたものだった。五十年以上前に読んだけれど、忘れやすい私にしては珍しく、いまでも覚えているのである。

 他にもさまざまな人が取りあげられていて、それほど知らないから興味のない人もあるし、思い入れのある人もいて、それぞれについて自分の感じたことを書きたい気もするが、機会があったらにする。

2018年4月18日 (水)

映画寸評(4)

『ザ・マシーン』2013年イギリス映画。
監督カラドッグ・ジェームズ、出演ケイティ・ロッツ、トビー・スティーヴンス他。

 台湾をめぐって中国とアメリカは戦争状態に入っている。戦死した、または瀕死の兵士の身体を再生強化し、強力な兵士にするための研究が行われている。そんな仕事はしたくないのだが、ある理由があってそこで働く天才的科学者がいる。彼にはどうしてもやり遂げたいことがあった。

 脳の再生プログラミングを研究して行き詰まったとき、一人の女性研究者に出会い、彼女のユニークな発想と能力を知り、助手にする。彼女は自分がどんな仕事をすることになるのか知らない。

 研究所に入って体験する異様な体験の数々。そして博士の苦悩も知ることになる。研究はその非人間性をますます顕わにし、研究材料にされている兵士たち、すなわちサイボーグであり、アンドロイドたちは自分の存在について疑念を抱き出す。

 軍はそれらの兆候を知り、それらをコントロールしようとする。そんな矢先に助手の女性が中国からの暗殺者に殺されてしまう。しかし博士はある目的からから彼女の了解を得て彼女の脳の神経回路などを全てコピーしてあった。こうして彼女の頭脳と強力な身体を持った最強の存在が生み出される。『ザ・マシーン』である。

 彼女が次第に知性を貯え、人間と同じように感情を持ち始め、サイボーグやアンドロイドと関わりを持ち、成長していく。軍にとっては期待通りの最強マシーンのはずだったが、それは期待以上の存在に変貌していく。

 人間の頭脳を機械は越えられるのか。コンピューターが感情を持ち、学習能力も備えて進化していくとどうなるのか、それは近い将来大きな問題となるだろう。この映画はそれをテーマにしているが、カルト映画らしい軽さもあるから深刻に考えるまもなく物語はなるようになっていく。

 ところで彼女の原体である女性は突然中国のスパイらしき男に殺されるのだが、それが軍の仕掛けた謀略だと私には思えたがそれは説明されていないようである。彼女が死なないと『ザ・マシーン』は誕生しない(死ななくても作ることは論理的に可能なのだが、博士は彼女が死ななければ彼女を作り出そうとはしなかっただろう)から必然性を持たせたのだろうが、最後に軍は『ザ・マシーン』に殺戮衝動を植え込むためにそのスパイを殺させるあたり、軍の仕業だったように思う。スパイは彼女を殺すくらいなら博士を殺すはずだからである。

『マン・ダウン 戦士の約束』2015年アメリカ映画。
監督ディート・モンティエル、出演シャイア・ラブーフ、ジェイ・コートニー、ゲイリー・オールドマン他。

 暗闇の廃墟のような建物の前で銃を手にして身震いし、激しい息をついているひげ面の男がいる。彼はほのかに灯りのもれるその建物に侵入し、やがてかがみ込む。そこには少年が眠り込んでいる。男は少年を抱きしめて、「お父さんだ、助けに来た」とささやく。

 物語は三つの時制を並行して進む。一つは妻子がありながら友人に誘われて海兵隊に入隊し、兵士として鍛え上げられ、やがて戦場に立って戦闘を続けていく物語。それを回想としてゲーリー・オールドマン扮する軍の男が聞き取っていく。やがてこの戦いの中である事件があり、この男にはトラウマがあるらしいことが分かってくる。

 もう一つは彼が戦争から帰り、最愛の妻子と再会できたのに鬱屈した日々を送る姿である。帰国を心から喜べない理由は、彼が従軍中に受けたPTSDによるものだけではないことがほのめかされる。

 そしてもう一つでは、世界は第三次世界大戦でもあったかのような荒廃した姿をしており、彼は誰とも知らない敵と戦っている。彼の目的はさらわれた息子を探し出すことである。最初の、暗闇でひげ面の男が立ち尽くすのはこの世界である。

 この全ての主人公(もちろん同じ男なのだから)をシャイア・ラブーフが演じている。最初のひげ面では彼だと分からなかった。その他の時制では地で出ているから見分けることができる。シャイア・ラブーフといえば『トランスフォーマー』での彼を思い出すが、全くそんな軽さも明るさも見られない映画になっている。

 映画がすすむに従って全ての物語が収斂していく。いったい戦場でなにがあったのか、そして彼は何を抱えているのか、それが見えたとき、悲劇が明らかになっていく。ちょっと精神的に堪えるこわい映画である。そのことは最後のテロップに説明されている。

 『マン・ダウン』は彼が息子と交わしたある意味を表すための二人だけの合い言葉であるが、最後に本来の意味をもって強烈に響いてくる。

葉室麟『雨と詩人と落花と』(徳間書店)

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 九州・日田(天領)の漢学者・広瀬淡窓といえば当時(江戸後期)の知識人では知らぬ人がいないほどの著名人だった。体があまり丈夫ではなかったので遠出の旅ができず、ほとんど九州を出ていないけれど、全国から彼を慕って訪ねてくるので、交友の人脈はとても広かった。朱子学を修めながら、国学者のように硬直した思想を持たず、身分の違いなども意に介さず、誰にも温和に接したという。人格者だったのである。

 この本はその広瀬淡窓の弟の、やはり儒者で漢詩人の広瀬旭荘とその妻・松子の物語である。淡窓と旭荘は兄弟ながら歳が25歳も離れており、旭荘は後に淡窓の開いた私塾、咸宜園(かんぎえん)を継ぐと共に養子になっている。広瀬旭荘は兄と違い、激情家で理非曲直や面子にこだわる。ときに妻に手を上げ、ために最初の妻は実家へ逃げ帰ってしまう。松子は二度目の妻である。

 感情のコントロールが苦手な旭荘だったが、自らを偽ることのない男で、間違いは素直に認める。感情の量が人並み外れているためにあふれ出てしまうけれど、心根はやさしい男であることを松子はよく理解し、彼を支え続ける。

 時代は変わりだしていた。幕末に向けての胎動が彼の運命を翻弄する。大塩平八郎、高野長英、緒方洪庵など、さまざまな人々が彼の眼前を去来する。緒方洪庵とは終生の友であった。

 旭荘は漢詩人であるから、この本には漢詩がたくさん出てくる。中国の著名な詩もあるし、淡窓の詩や、旭荘自らの詩が紹介されている。私は詩に疎いけれど、漢詩のリズムは好きである。もう少しその詩想に感応できればどれほど心を打つことだろうと思うけれど、不勉強と無能力は悔いてもどうしようもない。それでも幾分かは感じるものもある。

 題名の『雨と詩人と落花と』は、旭荘の詩の中の一節である。そしてその詩こそ松子の胸の中の旭荘の心根を思わせるものでもあった。詩を通して心を伝え合う、それはそれなりの素養が必要なことであり、明治の初めまでは知識人にとって当たり前のことであった。それ以前とそれ以後では日本人が全く違う日本人になってしまった、というのはたしか山本夏彦がどこかに書いていたと思うが、こころからその通りだと思う。

 漢詩と夫婦愛と、その二つがテーマのこの本は葉室麟の一つの到達点だと帯にあるけれど、そうかも知れない。闘争的フェミニストならこんな男は極悪人としか見ないかも知れないが、これは夫婦愛の一つのかたちであり、松子が自分の生涯をしあわせだと感じることができたことを素直に認めたいと思う。ものごとを現代の価値観で見るのは主義者の悪い癖である。

2018年4月17日 (火)

思うばかり

 昨年末に葉室麟が亡くなった。彼の本は書店で目につけば購入するようにしてきたから、たいていの本は手元にある。いつかそれを抱えて長期の湯治に行き、また読み直すのを楽しみにしている。

 未読の本が数冊残っており、それを繙いて味わいながら読み進めている。一度に読むのはもったいないから、あいだに別の本を入れて読む。それも今月中には全て読了してしまうだろう。不思議なことに書店の店頭で目にしながら購入しなかった本もある。題名のせいか不思議に手が出ない本というのもあるのだ。

 時代小説を読んでいると、続けて読みたくなったりして別の作家の未読既読の時代小説を引っ張り出して横に積んだりする。同じ系統の本ばかりを読み続けるような、そんなことをすれば却って飽きが来て興が削がれることが分かっているのに・・・。なにしろ気が多いのだ。

 たまたま興味を引いたことについて司馬遼太郎が書いていたことを思いだして『街道を行く』を開いてみるが、読み出すときりがない。このシリーズは旅に出るときなどにその地方の部分を読み返したりするのが特に楽しい。ボンヤリそんなことを思っていたら週刊朝日の増刊で『司馬遼太郎が語る日本』という雑誌形式の未公開講演録全六巻が目についた。ざっと読み飛ばしたまま押し入れにほうり込んでいたのを少し前に引っ張り出して積んでおいたのだ。

 あらためて読み始める。いったい自分は何を読んでいたのかと思うほどほとんど記憶になくて、あらためて司馬遼太郎の歴史観や価値観にひたって楽しむ。これは単行本などを読み飽きたときの合間に読むのに都合が良い、とやはり手元に積み上げる。

 こうしてたちまち身の回りに本の山ができる。読む気があるけれど、読み始めるまでの気持の集中にちょっと手間がかかるものだし、読むのにそれなりの時間がかかる。集中してしまえば回りの全ては消え去り、物音は聞こえず時間の経過も忘れて没頭している。若いころはその集中がいくらでも持続可能だったけれど、最近はさすがに二時間くらいが限度となった。眼がかすんだり、肩が凝ったりして我に返ってしまう。

 だから積み上げた本を読了するのは思っているほどはかどらない。思うばかりが先立つ自分に焦れている。楽しいことなのにどうしてずっと続けられないのか、自分の衰えを知らされることに腹が立つ。本に囲まれてこんなにしあわせなのにどうしたことだろう。

柚月裕子『狂犬の眼』(角川書店)

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 本屋大賞にノミネートされた『盤上の向日葵』の著者の新作であり、小説野性時代に連載されていたものを大幅加筆修正したものだ。『孤狼の血』(役所広司主演で映画化される)という作品を継承した物語になっている。どちらも読んでとても面白かった。振り返るとこの著者の本を他にも何冊か読んでいる(『慈雨』、『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』等々)。

 柚月裕子という人は名前の通り女性なのだろうか? どうも間違いなく女性のようである。このようなハードな男の世界を、男の血のたぎりを描くことができるのは男だけかと思っていたが、そうではないようだ。学生時代を山形に過ごし、東北に思い入れのある私としては、著者が岩手県出身で山形在住と知ったこともなんとなく嬉しいことである。

 物語の舞台は広島、映画『仁義なき戦い』に似た世界が語られている。時代設定は平成二年ころになっているから、もちろん『仁義なき戦い』よりもずっと後であるが。私もこの映画のシリーズはほとんど劇場で観たし、だいぶ後にビデオ屋でもう一度全て観直したので、イメージが強く残されている。Wikipediaで彼女の項目を見たら、やはり『仁義なき戦い』シリーズのファンだと書かれているではないか。

 やくざを嫌悪し、そのためにやくざ映画を嫌う人は多いが、現実の暴力団としてのやくざは大嫌いだし関わりになることなど決してないように願うけれど、やくざ映画は極限状態での男の生き方をドラマとして楽しむ分には面白い。ある意味で時代劇やSFと同じ、現実にない世界を楽しむという楽しみ方である。

 主人公は警察官でありながら、男と男として、あるやくざの男と対峙し、互いに惹かれあっていく。その主人公の見ている世界が描かれ、そのやくざが組織の論理ではなく、仁義というものを貫くことで生じる事件の顛末が描かれていく。

 正義というものがこれほど世の常識と違う世界であっても、そこには共感や感動があり得るということをあらためて知る。やくざ映画を観た観客は、映画館を出たときに肩で風を切るように歩いてしまうという。そんな気分にちょっとなる。

2018年4月16日 (月)

自分で見た数字が報道されていない?

 韓国の中央日報とハンギョレ新聞が、今月14日(土)の国会議事堂前の安倍政権退陣要求集会を報じていた。共に国会議事堂前の道路を埋め尽くすほどで参加者は三万人だと伝えている。

 確かにテレビのニュースで見たときも、いつもの数十人の集会よりははるかに多いことは感じていたが、三万人とはとても思えないので、日本のメディアはどう伝えているのかネットを遡って見てみた。日刊スポーツはこのことを繰り返し繰り返し報じている。もちろん朝日新聞や毎日新聞なども報じていて、全て参加者は三万人以上と報じている。

 よくよくそれらのニュースを読んでみれば、全て主催者発表によれば、と書かれている。むかし、デモが行われると新聞には主催者発表によればという数字と、当局発表によればという数字が併記されていた。たいてい数倍からはなはだしいときは一桁違った。世の中はそういうものだと教えられたものだ。

 韓国の新聞が主催者発表しか報じないのは理解できないことはないが、日本の新聞はどうして当局の発表を報じないのだろう。当局が発表しないからだと思いたい。発表があったのに報じないのなら問題だが、まさかそんなことはないだろう。それならマスコミは主催者の数字をそのまま報じていることになる。

 各社とも当然記者がその現場で取材しているはずである。問題は目で見た概算と主催者の発表が同じくらいだったかどうかということである。違うのに主催者発表だけを報じているのなら、大本営発表を垂れ流した時代とどこが違うのか。たぶん記者の目で見たものと主催者(共産党である)がほぼ同じと感じたのであろうが、それでも記者の見た目を報じて欲しいと強く思った。

 こうして主催者発表の数字のみが報じられて、それが事実として国内で、そして韓国にさらに世界で報じられているのである。

 韓国民は韓国に妥協しない安倍首相の悪口を散々マスコミで刷り込まれているから、朴槿恵元大統領のように市民運動の盛り上がりで退陣に追い込まれるのではないかと期待しているかも知れない。だから「2015年安保法制反対闘争以来最大」の集会であり、夜にはキャンドルデモが行われたと書かれている(ハンギョレ新聞)。ただしこちらは参加者500人とされている。主催は九条の会の澤地久枝氏であるから、私にとってその数字は共産党のものよりは信じられる。

 いまはまだまだだがこれからさらに盛り上がり、国会周辺を埋め尽くすデモが起こることをマスコミや野党は夢見ているのであろう。それが民主主義だと彼らは信じているらしい。直接民主主義が繰り返されれば世の中がどうなるのか、私は懐疑的である。代議員制の民主主義は少なくとも責任者が存在するが、直接制にはしばしば責任者が存在しない。風向きで雲散霧消することもあることを知っているからだ。

 私はシュプレヒコールのようなものが寒気がするほど嫌いで、煽動されるのは死んでも御免蒙りたい。ああいう集会で政治的スローガンをラップ調で歌いながら踊る姿を見ると虫酸が走る。今回もそうして盛り上がっているようであった。

 ところでいったい本当の参加者はどのくらいだったのか?

楽しみに目的は要らない

 前にも書いたけれど、私は毎年手帳を新調して読書記録帳にしている。むかしはある会社からいただく手帳を使っていたが、十数年前からはすこし大きめの皮の手帳に替えた。手帳はすでに三十冊を超えている。それ以前にも書き散らした手帳があるのでその数は五十冊以上だ。

 読んだ本の著者名と書名を読了した日付の欄に記し、むかしはそこに感想を短く書き残していた。書いておかないといつ何を読んだのか忘れてしまうからだし、読んで感じたことなどしばらく経つと忘れてしまうからそれを残したいと思ったのだ。

 だが次第に読後の感想を書くのが面倒になってきた。仕事も忙しい。何より感想を書くために読んでいるような転倒した気持になってきた。そこであるときから感想を記すことをやめた。だからずいぶん前からその手帳には著者名と書名だけが書き残されている。年間二百冊前後の本を読み散らかすから、手帳はそれなりの自分の記録になっている。

 リタイアしたら時間もたっぷりできた。読み散らすのではなく、読んだ本について多少は頭で反芻することにした。そうしてメモのようなものをまたときどき書き残すようになった。一年ほどしてブログというものを教えられ、人のブログを読み、それが自分にもできることを知った。七八年前のことだ。そこで頭に浮かぶうたかたのようなものを、消え去る前に書き残すことが面白いことを知った。

 書きたいことは次々に浮かぶ。ニュースを見ても本を読んでも映画を観ても旅をしても浮かぶ。それを少しでも掬い取ってブログに書き残してきた。ただ同じ私が考えたことだから、自分では新しいことを考えたつもりでも、他の人が読めば、酔っ払いの繰り言のように同じことばかり書かれているかも知れない。

 書いているうちにずるずると頭の中から言葉が出て来て、書いたあとで、自分はこんなことを感じたり考えたりしていたのかと他人の目で読んで驚くこともある。それもまた楽しい。

 ところが最近ブログを書くために本を読んでいるような気がすることがある。以前手帳に感想を書き記すのが面倒になったときの気持に近い。自分では意識しないうちにブログにノルマのようなものを感じたのか。すこし疲れてきたのかも知れない。感想文を書かされるのがいやさに本が嫌いになる子どものようになったら本末転倒である。

 今は何も考えずに本を読む楽しみに没頭することにしようと考えている。楽しみに目的は必要ない。ブログもそのはずだったのに。

2018年4月15日 (日)

映画寸評(3)

映画『ニューヨーク 2014』2013年アメリカ。
監督アレクサンダー・イエレン、出演クレイグ・シェイファー、デニス・ヘイスパート他。

 ケネディ空港の様子が映し出される。到着便から降りた女性が手続きに出てくるが具合が悪そうな様子を見せている。彼女はトイレに駆けこみ嘔吐するが、やがて痙攣がはじまり・・・。

 突然巨大な狼に似た獣が人々を襲う。あっという間に空港内は凄惨な状態になり、警察では対処できないため、軍隊が出動する事態となる。おそるおそる中をのぞきこむと、そこにはその獣が何十体もうろついていた。咬まれた人間は次々に人狼になっていくのだ。

 催眠ガスによって事態はようやく終息する。人狼となった人々はもとの人間に戻っている。原因はなんなのか、そして対処法はあるのか。やがてこれがウイルスによるものらしいことが判明するが、一番最初の罹患者は誰でどうしてそうなったのかが、対策の手がかりになると判断され、その捜査が始まるのだが。

 ところがこのウイルスを軍事目的に利用しようとする軍の暴走が始まる。対策を講じようと努力する人々と、軍の戦いが始まり、隔離されていた人々が再び人狼となってマンハッタンへ走り出す。パンデミックとなれば人類の破滅である。はたして人類の未来は守れるのか。

 黒人のアメリカ大統領のあまりの無能ぶりにあっけにとられるところがあるが、まあ観て面白くないこともない。他にも突っ込みどころ満載だが、こういう映画はそんなことに目くじらを立てていては楽しめないからよしとしよう。

『VR ミッション:25』2016年イギリス映画。
監督チャールズ・バーカー、出演マックス・ディーコン、モーフィールド・クラーク他。

 ゲームのランキングの高い者たちに次々に招待状が届く。ヴァーチャル・リアリティの体験が出来るというのである。25階建てのビルに集められた男女は不思議なプロテクターとヘルメットを支給される。そしてそれを装着すると現実が変貌する。

 彼らはそのビルに潜むテロリストたちを掃蕩することを求められる。面白がるも者、気味悪がる者、逃げ出そうとする者。やがて装着したヘルメットは決して外せないことを彼らは知ることになる。

 ゲームのはずがあまりにリアルな戦闘、そして被弾すると激しい苦痛が襲う。一度はプロテクターが守るが、二度目は死の苦しみが襲う。限られた数の蘇生薬が与えられて、それで復活するが、遅れると本当に死んでしまうことが分かったとき、彼らはどうしたか。

 このゲームのカラクリはラストに多少分かった気にさせるが、その目的は最後まで判然としない。誰が生き残るのか。生き残る能力があるのは誰なのか。意外な人物が犠牲的精神を発揮したりする。しかしこんなゲームには参加したくないものである。

 イギリスのカルト映画らしく、ダークな中にヴァーチャル世界のリアリティがけっこうあって、現実とバーチャルリアリティのどちらが本物か分からなくなってくる。そもそも彼らゲーマーにとっては現実はそんなものなのかも知れない。

 夢は現(うつつ)、現(うつつ)は幻(まぼろし) by江戸川乱歩。

 出来はまあまあというところか。

村山早紀『百貨の魔法』(ポプラ社)

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 前回読んだこの著者の『桜風堂ものがたり』は面白かった。その本は2017年の本屋大賞候補、そして今度読んだこの本は2018年の本屋大賞候補であるが、惜しくも賞を逸している。今年は辻村深月の『かがみの孤城』が受賞したと報じられたところである。

 そういえば今年の本屋大賞にノミネートされた作品10作品のうち、この『百貨の魔法』、小川糸『キラキラ共和国』、今村昌弘『屍人荘の殺人』、柚月裕子『盤上の向日葵』の四冊を読んでいることに驚く。ノミネートされていることを承知で読んだのはこの『百貨の魔法』だけだけれど。

 前作の『桜風堂ものがたり』の出だしは今回の『百貨の魔法』の舞台である星野百貨店内の銀河堂書店が舞台だった。今回はとことん星野百貨店が舞台であり、そこに努める人々、そしてお客たちの人生が語られていく。

 地方都市の風早市にある星野百貨店は戦後すぐに建てられた老舗だが、老朽化が進み経営も危ういと噂されている。長い歴史の中でこの百貨店には不思議な話がいくつもあり、それらがオムニバス形式でそれぞれの話の主人公の人生との関わりの中で語られていく。

 そこに関連していくのが新しくコンシェルジュとして採用された芹沢結子という女性である。不思議な魅力をたたえた彼女がどういう人物であるのか、物語がすすむと共に明らかになっていき、だんだん物語に引き込まれていき、いつの間にか暖かいものが読んでいるこちらに湧いてくる。

 百貨店には独特の匂いがある。子どもの頃、母に連れられて年に一度か二度、東京の三越や高島屋などに行った。そのときの匂いがこの本を読んでいて思い出された。あこがれを伴う不思議な気持でおもちゃ売り場などを歩いたし、屋上の遊園地に行ったし、食堂で食事をした。そのときの気持ちがまさにこの本に書いてある。

 全てが善い人ばかりの物語だけれど、少しも不自然ではない。人は善い人に良い影響を受け、善い人になるものなのだ。

 この本は大人の童話で、前半は著者があまりにも百貨店に思い入れを書き込みすぎているような気がして重い感じがした。しかし途中から芹沢結子のキャラクターが膨らみだし、一気に後半を読むことが出来た。読後感はたいへん良好である。中身の濃い、読み出のある童話なので、途中で投げ出すようなもったいないことはしないように。

2018年4月14日 (土)

映画寸評(2)

『X-DAY 黙示録』2016年アメリカ映画。
監督ジョエル・ノヴォア、出演ジャクソン・ハースト、ヘザー・マコーム他。

 月食の日に地下から魔物が大挙して地上に現れて人間を襲う、という物語であるが、この事態は映画の中では繰り返し起こっていることで、そのたびに百万単位の人が命を落とす。月食だから必ずこの事態が起こるわけではなく、その兆候が必ずある。そして人類は無力なままではなく、それに対する備えをしている。魔物が現れる場所はある程度想定されるからである。

 というところまではなんとなく設定として理解したのであるが、そもそも月食のあいだだけ魔物は活動し、月食が終わると引き揚げるというのである。それならせいぜい二、三時間のことであろうと思うのだが、なんと昼間も含めて延々と魔物は活躍する。昼間に月食が起こることはあり得ない。地球が月と太陽の間に入ることで月食が起こるわけで、夜の側で月食が見えるとき、地球の昼の側ではそもそも月は見えるはずがない。それが見えるのである。月食と日食がごちゃ混ぜのようである。しかも魔物に対抗したり対策に動く軍隊などがあまりにも愚かである。これでは人類が滅亡しないのが不思議だ。

 というわけでカルト映画にしてもあまりに設定がむちゃくちゃである。そんなことはどうでもいい人向き。

『スタンドオフ(2016)』2016年カナダ映画。
監督アダム・アレカ、出演トーマス・ジェーン、ローレンス・フィッシュバーン他。

 カナダ映画は絶望的にお粗末な映画が多いが、この映画は良く出来ている。何しろローレンス・フィッシュバーンである。両親を事故で失った少女が叔父に連れられて墓参りにやってくる。近くの墓地で金持ちと思われる家族の葬儀が行われている。少女はカメラが趣味で一眼レフのカメラをいつも抱えている。叔父に「葬式の写真は撮るな」と注意されていたのだが、ついそちらにカメラを向ける。そのとき銃声がして墓地にいた人々が次々に射殺される。そして現れた覆面の男が棺を入れる穴に次々に死体を放りこみ始末をしていく。そのとき男が覆面をとり、少女は思わずカメラを向けてシャッターを切る。そこへ叔父が少女捜しにやってくる。

 これが出だしのシーンで、あとは少女が逃げこんだ一軒家での住人の男と殺し屋の息詰まる攻防戦が延々と続く。殺し屋がフィッシュバーンである。住人は元軍人で子どもを事故で死なせ、妻に去られて独り暮らし。生に絶望している。

 これは面白い。結末がどうなるか全く予想がつかないのである。拾い物の映画であった。お薦め。

『インビジブル・エネミー』2015年イギリス映画。
監督ニック・ギレスビー、出演ルパート・エヴァンス、スチーブ・ギャリー他。

 典型的な不条理映画。つまり意味不明で解釈不能の映画である。観た人が勝手に自己流に解釈するしかないが、釈然としないものが残るだろう。

 林の中を兵士が駈けていく。女性兵士と出会った二人は仲間のところへ向かうのだが、そもそもだれが敵なのか良く理解していない様子である。ようやく仲間たちと合流するが、リーダーは黒い袋で顔を隠して赤い服を着た二人の人物をロープで繋いで連れており、捕虜なのだという。

 農場のようなところで敵に襲撃されるのだがその姿は見えたり見えなかったりして、しかもその姿は異様である。一人が負傷してしまうが、やむなく置いてきぼりにして逃走する(あとで登場する)。そして彼らは草地に放置されている装甲車に逃げこむ。これで安全になったのだが、装甲車の中は狭く、しかも動かない。閉じこめられた中での意味不明のやりとり、そもそも敵が誰でどんな目的で闘っているのか。

 不条理映画は嫌いではないが、ちょっとくたびれる映画であった。くたびれても自分なりに答えを見つけられれば救いがあるが、残念ながら私には答えは見つけられなかった。解釈に挑戦したい人はどうぞ。

五木寛之『デラシネの時代』(角川新書)

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 デラシネは根無し草と訳されたりするが、この本の帯には漂流者にデラシネとルビが振られている。著者がさまざまな思いを込めてデラシネという言葉を使っているので、一義的に日本語にはなりにくいかも知れない。

 デラシネとは故郷喪失者と云うことでもある。それは本人の意志によるものもあるだろうし、ときには理不尽な力によってデラシネになることもあるだろう。特に現代は世界でデラシネとなった人々(ここでは難民)があふれ出している。

 日本ではデラシネという生き方を評価しないところがある。農耕民族として定住して共同体的生活を送ることを基本としてきたことからであろう。しかし著者は日本にもデラシネの生活をしている人々が数多くいたのだという。そしてその人々の存在こそが各地の情報伝達や文化の波及に寄与してきたのだという。ところが明治政府が進めた国家神道を中心にした中央集権国家への組み替えの中で、そのデラシネの人々の交通路が遮断され、流れが喪失してしまった。そして人々は都市へ集中していく。いまその時代のデラシネの人々は民俗学の中で語られるばかりである。

 思えば都市へ移り住んだ人々もデラシネである。私が思い出すのは、故郷へ久しぶりに帰り、故郷の祭を見学者として眺めたときのことである。小学生中学生時代の級友が、祭の主導者として活き活きと輝いていた。私は傍観者である。寅さんのようにすぐに祭に参加することなど思いも及ばない。ああ、私は故郷を捨てたのだなあ、と心から思った。

 もうそのことを悔やんだり悲しんだりすることはやめよう。デラシネであることを積極的に受け入れて生きよう、そう著者は呼びかけているのである。それはある面で孤独な生き方であるかも知れない。しかしその不安で孤独な生き方を肯定的に捉えて生きる生き方もあるぞ、という。

 五木寛之が朝鮮半島からの引き揚げ者として舐めた辛惨を原点として、現在までの数多くの経験と深い思索から到達した境地が語られている。そして私もそこに語られていることばの多くに強く共感したのである。

2018年4月13日 (金)

同じことが違う評価になる

 日本製空気バルブに対して韓国が日本一国だけに反ダンピング関税を課しているのは違法だとWTOが判定し、韓国に是正を求めたというNHKの朝のニュースを見た。時事通信でも同様の報道がなされている。

 ところが韓国中央日報では「韓国が日本に判定勝ち」と報じている。では日本の報道は間違いなのだろうか。

 日本製だけに一方的に関税をかけており、その根拠となる韓国の業者の被害についても明確でないから是正せよ、というWTOの判定なのであるから、「韓国の判定勝ち」というのは不可思議な報道である。

 中央日報の記事をよくよく読んでみれば、日本の提訴に対する韓国の反論13カ条について10カ条は韓国の言い分を認めた、ということが判定勝ちの根拠らしい。しかし結果的に韓国に対して価格圧迫の根拠が薄いと判定されたことが、記事の最後にそっと書かれている。日本の報道の通りなのである。

 これを読んだ韓国の人は、理不尽な日本の提訴に対して韓国は勝利した、と受け取るであろう。そしてもし韓国政府がWTOの是正要求を受け入れたら、日本の圧力に屈服したと騒ぐのではないか。そうしたら困るのは韓国政府であろう。

 このときに韓国政府が事実をきちんと説明すればいいけれど、こういう報道が先にあるとなかなか国民は納得できないだろうなあ、と心配になる。そう考えるのはあくまで日本の報道を私がそのまま受け取ってのことだが、さすがに日本の報道が事実と違っているとは思えない。NHKも時事通信も白を黒とは言わないだろう。

 ところで韓国の造船業界は新規受注にわいている。直近では中国を抜いて世界一の受注量である。韓国の造船業の衰勢は著しかったからこれで持ち直すと喜んでいるわけであるが、その背景に国家が造船業界を資金保証するという国際的なルール違反をしていることが分かっており、日本はこの点についてつい最近WTOに提訴したところである。日本は造船業界が苦境にあってもルール違反はせず厳しい淘汰を経てようやく復活してきたところで、この韓国のやり方は狡いと主張しているのである。

 その裁定が出たとしてもまた全く違う報道をすることになるのであろう。しかし文在寅政権は大盤振る舞いを続けているけれど、大丈夫なのだろうか。そんなことを続けているとトランプ大統領の餌食になるぞ。

統計は信用できるか?

 敬意を持っていつも拝見している人のブログで以下のような文章に出会った。一部の抜粋なので誤解しかねないけれど、引用したそのあとに、批判されているかも知れない一人としてあえて異論を申し上げる。

こうした数字が重要なのだ。中には「中国の統計数字は信頼できない」と知った風なことをいう人が多いが、それは教えてもらわなくても結構。しかし、その「信頼できないとする数字から真実の欠片を見つけることができるかどうか」がその人の能力を決めるのだ。 そんなことをいう人には「不確かで限られた」数百年の徴税記録から真実のかけらを見出したピケティを見習え!と言いたくなる。

 私は統計を必ずしも信用していない。データとしての数字は信用できるけれど、しばしばその数字を扱う人間が信用できないことがあるからだ。だからここで言われているような「中国の統計数字は信頼できない」と知った風にブログに書いたこともある。

 しかし信用できないということと、統計数字が間違っている、と断定することには大きな違いがある。疑わしいけれど事実であるかも知れないと同時に思うことも出来るのである。間違っているという断定は根拠を示さなければならないことくらいは承知しているつもりである。

 すでにソ連時代のGDPの統計数字などがずいぶんと事実と反するものだったことが明らかにされている。それは数字を扱った人間が作った統計だったからである。李克強指数と呼ばれる言葉もあるではないか。

 そして中国では「大躍進」の時代に間違った統計数字の積み重ねによってどんなことが起きたのか、歴史が教えている。統計では豊作なのに、一千万とも二千万とも言う人々が餓死した。そのことが毛沢東の失脚につながり、それを巻き返すために文化大革命が始まった。

 しからば同じことがあるかも知れないと疑うのは当然であろう。ただし、その経験から中国が統計にはそういう恣意的なものが入らないように注意していると云うこともあるかも知れない。それは私には分からない。中国の統計数字がそのまま事実であると鵜呑みにしないだけのことである。

 それにピケティを引き合いに出されても、残念ながら当方にはその能力もエネルギーもないので見習いようがない。

2018年4月12日 (木)

映画寸評(1)

『アバンダント 太平洋ディザスター119日』2015年ニュージーランド映画。監督ジョン・レイング、出演ドミニク・バーセル、ピーター・ヒィーニー他。

 実話を映画化したもの。ニュージーランドからトンガに二週間の予定で出航した双翼型のヨットが転覆し、乗り組んでいた四人が助け合い、ときにはいがみ合いながら生きのび、ついに119日目に助かるという話である。この映画で特に感じたのは人には危機に弱い人間と、信念を持ってぶれない人間がいると云うことであり、それでも弱い人間を責めても仕方がないと云うことである。そのことで全員が危機に陥るかも知れないが、それは仕方がないことだと受け入れることが出来るだろうか。救出されてからのマスコミの態度についても世の中そんなものだろうな、という気がする。
極限情況での人間の葛藤を知るためにも観る値打ちあり。

『リバイアサンX 深海からの襲来』2016年イギリス映画。
 監督スチュワート・スパーク、出演アンナ・ドーソン、ミケイラ・ロンデン他。

 深海と言っても五、六百メートルであるが、そこまで潜れる潜水服が開発され、強く希望した女性がその潜水服を着用して深海に潜る。そして彼女が深海で遭遇したものは・・・。辛くも助かった彼女は自分の着用した潜水服に付着した卵のようなものをひそかに持ち去る。そして自分が遭遇したものについてかたくなに語ることを拒む。やがてその卵がかえると共に彼女は次第に異常を来していく。その後はひたすらスプラッターシーンの連続である。

 映画の出来はお粗末だけれど最後まで観ることは出来た。何しろ特撮とはとてもいえない安直な化け物がぐねぐねするばかりである。誰がどう見ても大蛸でしかなく、西洋人の蛸に対する恐怖を感じる。ただし、ラストの海岸に打ち上げられた無数の卵のシーンはシュールでちょっといい。よほど暇な人向き。

『スペシャルID  特殊身分』2013年香港・中国合作映画。
 監督クラレンス・フォク、出演ドニー・イェン、アンディ・オン他。

 香港の潜入捜査官(ドニー・イェン)は疑いをもたれだした気配を感じてそろそろ潜入捜査を切り上げたいと希望していた。そんなとき最後の任務として南海市の新興ギャングのリーダーの捜査を命じられる。同時にボスからもそのリーダーへの接触を命じられる。彼はそのリーダーを助けたことがあり、兄弟分となっていた。しかし全てのことにうさんくささを感じていたのだが、その予感どおり、彼には危機が迫っていた。それをどうやって切り抜けるのか。ノンストップの戦いが始まる。

 ドニー・イェンのアクションシーンは定評がある。好きな俳優だが、それがこんなちょっとふざけた役柄を演じるとイメージが壊れてしまう。そう、香港テイストのおふざけ(これがあるからジャッキー・チェンは好きになれないのだ)と、延々と続く格闘シーンがいささか鼻につく。いくらタフでもこれだけダメージを受けてさらに闘うことなど人間には不可能だ。リアルな格闘であるほど嘘くさくなってしまうのである。もしドニー・イェンファンなら観ない方がいい。こんな潜入捜査官なんているはずがないし。

起動時間

 昔の蛍光灯は点灯してから安定するまでちょっと時間がかかった。反応が遅いと「蛍光灯」と呼ばれてからかわれたものだ。テレビも初期の頃はスイッチを入れてから画面が出るまでしばらくかかった。どんどん改良されてタイムラグがなくなって、電気器具はつければすぐ使えるようになった。

 ところが最近のパソコン(テレビもその傾向あり)はスイッチを入れてから作業に入るまでに内部でいろいろな仕事をしているらしく、すぐ使えないことが多い。無理に作業を始めようとすると却って動作が遅くなって無駄な時間を費やすことになりかねない。これは機能が大きくなったことで起きていることだとは承知しているが、面倒なことである。私は気が短いのだ。

 読書や映画鑑賞は、勢いに乗ると次から次に楽しめるものだ。ところがしばらく間があくと、なかなかその勢いがつかない。むかしはすぐに起動したのにいまは起動に時間がかかるのだ。これは私の機能が大きくなりすぎたからだろうか。そんなことは残念ながら無いのであって、単に装置が劣化して勢いがつきにくくなっただけのことである。

 映画やドラマを録画しながら暇を見ては消化しているけれど、それが追いつかなくなって久しい。ようやくスイッチが入り出して最近立て続けに映画鑑賞を楽しんでいる。勢いがつくとたちまち10本ほどの映画を観ていた。極端なのである。長い作品は疲れるので、観ているのは比較的に尺の短いカルト映画が中心となっている。勢いが持続すればもうすこし長いものも観ることになるだろう。

 次回のブログには観た映画に寸評を入れて羅列してみたいと思う。

突然の訃報

「ムギのブログ」でいつも拝見していたムギ君が突然あの世に旅立ったという。ムギパパムギママの悲しみはいかばかりだろうか。

 これでブログは打ち切り、コメントも受け付けないようなので、ここで哀悼の意を表することにする。

2018年4月11日 (水)

ITの普及と監視社会

 録画していたNHKBSのドイツのドキュメント番組を観た。2017年に作成されたビッグデータと監視社会に関するもので、もちろん監視カメラの急増についても論じられている。

 先日中国江南地区への小旅行で強く記憶に残ったのが監視カメラの多さであった。これは中国ばかりではなく、世界中で、そしてもちろん日本でも同じように急増しているし、その性能も格段に向上している。

 このドキュメントで主に取りあげられていたのが、アメリカ・シカゴの予防的監視である。あらゆるビッグデータを関連させ、個人の交友関係や事件との関係などが網羅され、そこから抽出した評価に基づき、犯罪を起こしやすいと見做した人を特定し、本人に通告した上で監視を強化しているのだ。

 問題はそのデータの抽出がITによって自動的に行われていることである。そもそもが白か黒かで判断するITと、ファジイな現実の人間とは一致しないことが起こりえる。一日あたり三人弱が殺されるというシカゴで、指定危険人物の400人の一人に認定された若者が、当局の通告に驚愕し、ぼやいている姿が描かれていた。

 問題はそこに間違いがあっても訂正できないということだという。データは、つまり情報は変更できない(そもそもそういうものである)。全てが関連しているので、変更したらきりがないことになって収拾がつかないため、変更ができないことになっているようである。一度ブラックリストに載せられたら社会的に大きな制約を受けてしまう。

 中国のIT化はめざましい。それは国家の要請でもある。ITによる統制や監視は共産党政府にとっては望ましいものだろうとは誰にも想像できることである。しかしそのIT化の利便性は中国の国民にひろく受け入れられている。それは昨年の雲南省のような地方でも感じられたことである。ほとんどの人がスマホを使いこなし、ほとんど現金を持たずに買い物をし、身分保障も、ときには罰金の支払いも、シェアサイクルもスマホ一つで出来るのである。

 いまさらスマホのない世界に戻ることなど中国の人々には考えられないことであろう。こうしてあらゆる情報がスマホを通してビッグデータとして集積されていく。友人と「目をつけられたら過去に遡ってどこで何をしていたかほとんど時系列で明らかにされるだろうなあ」と話し合ったものである。もちろん監視カメラの映像も連動してのことである。いまは顔認証というシステムがあるから、特定されてたちまち映像が拾えるのだ。

 ドキュメントではアメリカの例ではあるが、映像的に描かれていた。まるでドラマのようである。

 そういえば中国ではファーウエイなどの中国製のスマホが圧倒的なシェアを誇り、サムスンなどはほぼ消滅しつつある。当然だろう。ビッグデータの取り入れ口に他国製の装置など使うことは望ましいことではない。サムスンの中国でのスマホの凋落はそのへんにも理由があるのではないか。アリペイもいまは国家の支配下にある。

 ITを使いこなさないと社会的に生きにくい社会が到来している。日本ではまだまだその点が遅れているが、それは社会の生産性からいえばマイナスに違いない。違いないけれど、なんだかついて行けない気がしている。ついていかないままなんとか暮らしていければありがたいが、さてどうなのであろうか。

金の卵を産む鶏

 韓国サムスンは史上空前の売り上げと利益を計上したようである。そのせいかどうかウオン高が続いている。輸出比率の高い韓国にとってウオン高は負担だろう。そのサムソンがマスコミや文在寅政権の攻撃対象になっているという。「サムスンバッシング」というそうだ。朴槿恵元大統領との関係でサムスン電子副会長が起訴され収監され、ようやく釈放されたけれど無罪放免というわけではない。さらに病臥中の会長は李明博元大統領との関係で検察が調査中だ。

 サムスンが好調であるのはサムスン電子が好調であるからで、サムスングループ全体で見れば系列の上場会社16社のうち、サムスン電子の営業利益の割合は90%。もし半導体事情に陰りが出ればグループ全体が危機に陥りかねない。たとえばトップシェアを誇っていた中国でのスマホのシェアはついに1%を切り、壊滅的な状況だ。

 韓国の財閥企業が強いのは、トップダウンで迅速にしかも巨額の投資が可能なシステムだからだ。そのトップががんじがらめにされればその長所が生かせない。

 文在寅政権は労働組合に親和的なようだ。韓国GMの危機に当たり、GM側は撤退をちらつかせて労働組合と韓国政府に対し妥協と救済を求めているが進展が見られない。政府は補助するつもりも組合に問題解決を呼びかけようとする気もないようだ。サムスンには組合がない。組合を作る動きを阻止し続けて、それに成功しているかららしいが、それが文在寅政権には面白くないのであろうか。

 外から見ればサムスンは韓国の金の卵を産む鶏のように見える。その金の卵を産む鶏をよってたかっていじめようとしているようにも見える。鶏が不調になって金の卵を産まなくなったらどうしようというのだろうか。すでに造船や自動車という金の卵を産む鶏はくたびれ果てて卵をあまり産まなくなっている。カンフル剤を打って延命させているが、回復の見込みは暗いようだ。

 財閥企業はトップ一族が利益を独り占めして配分が不十分であるというのがマスコミや文在寅政権の考えであろう。それは事実でもあるが、市民運動的な正義感から「バッシング」を繰り返しても是正されるとは思えない。却って利益そのものを損なって、配分するものが小さくなれば元も子もないのである。

 市民運動で朴槿恵大統領を打倒した成功体験から、そういうことを考慮出来なくなってしまったのが韓国という国らしい。

2018年4月10日 (火)

日高義樹『米朝「偶発」戦争』(PHP)

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 著者の日高義樹氏はNHKの海外支局を歴任後、いまはハドソン研究所の主席研究員を務める。アメリカを始め人脈が豊富なようで、その情報はディープなものである。そのために、書かれている本の内容は、どこまで本当なのか?と思わないことはない。そんな裏話は簡単に公開して良いものなのか?と疑問に思ったりするからである。

 この本では結論として、アメリカが自国の意志として北朝鮮を軍事的に攻撃することはあり得ない、アメリカにとって軍事攻撃することになんの利点もないからだ、と断言している。多分そうなのだろう。そうでなければとっくの昔に攻撃しているはずだからだ。

 ただし、「偶発」戦争はあり得る、というのがこの本のポイントだろう。米軍の軍事能力は想像以上に劣化が進んでいるという。沖縄などでの米軍ヘリのトラブルの続発を見ればそれが分かるであろう。

 しかも人的損耗を避けるために自動化した偵察機などによる行動が急増している。そして攻撃能力のあるその偵察機が過剰反応するトラブルがしばしば起きているというのである。

 北朝鮮にはその事態を考慮する能力が無い。過剰反応する自動システムに対して過剰な刺激を与えたとき、「偶発」的な戦闘が発生するおそれは大きいというのである。長い緊張状態が続いている中の「偶発」的な戦闘が戦争に発展しないとは言えないのである。

 トランプ大統領の言動を見れば分かるように、アメリカ自身が一部でシステム障害を起こしつつある懸念がある。そのとき、「偶発」的な事態が「壊滅」的な事態にならないとは限らないことは、歴史が教えている。

 日本はそのときの事態に対して防衛システムを強化しているが、ほとんど蟷螂の斧だと著者は言う。帯にあるように東京に飛んでくる北朝鮮のミサイルに対して対応する時間はわずか15分なのだという。「偶発」戦による北朝鮮の暴発行動の被害は食い止めるのが困難なのである。「偶発」による戦争はないにこしたことはないし、そう願うしかない。そういう危うい情況にあることは恐ろしいことである。

 ところで、トランプ大統領が米朝会談でどんな約束をするのか、日本にとってはとんでもない約束をしてしまうおそれがおおいにある。そもそもトランプ大統領にとって韓国や日本のことなどあまり考慮に入っていないことは明らかで、いままでの大統領以上であろう。そもそも他国のことなど本音ではどこの国の長も考慮などしない。ただ、アメリカは理念による建前で物を言っているところに救いがあった。しかしトランプにそんな理念など欠片もなさそうである。過去のアメリカが理念で建前を語ってきたことを馬鹿なことだったと思っているようでさえある。

 しからば日本はどうするか。望むと望まぬとにかかわらず、自国防衛が必須であると著者は結論づけるのである。たぶんそういう事態に進展することだろうと私も思う。

佐伯泰英『剣と十字架』(双葉文庫)

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 相変わらず佐伯泰英は次々に新作を書き続けているようだ。店頭の平棚を見れば毎月二冊、三冊と新しい本が並んでいる。一時期シリーズを数種類読み続けていたけれど、ついて行けないので、最後は『居眠り磐音』シリーズのみに絞った。それも遂に完結してやれやれと思っていたら、磐音の息子、坂崎空也のシリーズ『空也十番勝負』のシリーズが始まってしまった。これは第三番の勝負である。

 薩摩へ武者修行のために単身で潜入し、示現流の一派と遺恨を残すことになった空也は、五島列島に身を潜める。そしてそこで異常な異人剣士と死闘をする、というのがストーリーだが、そこには隠れキリシタンや五島列島の当時の風物などが描かれていて飽きない。しかも江戸の直心影流道場、尚武館のなつかしい面々の消息も描かれていて、旧知の消息を知る思いがする。

 空也は恐るべき剣士に成長しつつある。そうなると相手はそれに匹敵する強敵を配しなければならない。なかなか作者も大変である。空也は次にどこに向かうのだろうか。

2018年4月 9日 (月)

二度手間

 昨日、どん姫が四国土産を携えてやって来た。四国と言えば穏やかな熊君の実家のあるところである。ふたりで行ってきたのだという。手際がいいというかてきぱきしているというか。頑固親父風のお父さんと優しいお母さんだったよ、とどん姫はのたまった。

 土産はうどんと葡萄饅頭。葡萄饅頭は話には聞いて知っていたが口にするのは初めてである。葡萄の粒くらいの餡が串に刺してある。餅はない、餡だけである。甘い。とにかく甘い。

 うどんは有名な店のものらしく、山越(やまごえ)うどんという。どん姫は店でそのうどんを食べてきたそうだ。せっかくだから晩は鶏の水炊きをしてあの「空」でイッパイやり、締めにうどんを入れて食した。たいした量を飲まなかったのになんだか妙に酩酊してしまった。

 固定資産税の納付案内が来ている。そういう時期なのだ。間もなく自動車税の納付案内もあるだろう。年金生活者には堪える時期だ。朝、早速固定資産税を一括納付する。こういうものはすぐ済ませることにしている。

 来月が誕生月で、免許更新の案内が来ている。その足で免許の更新に指定の警察署に出掛ける。前回の更新は事故を起こしたので、平針(ひらばり)の自動車試験場まで行かなければならなかった。遠いのである。名鉄と地下鉄を乗り継いで、講習を受けて帰ると一日仕事である。今回はもよりの警察署だからそれほど時間を食わないはずだったが、五年以内に事故を起こした人は今回も二時間の講習を受講せよという。うるさいことだが自業自得のことなので仕方がない。

 ところがなんとその講習は出掛けた先の警察署では受けられず、平針へ行くか、そこよりは近い指定の場所であらためて講習を受けるように、ということである。平針は遠すぎるから行きたくない。指定場所の講習を受けられる曜日は決まっていて、今日ではない。なんだこれは!二度手間はないかと腹を立てて更新案内の葉書をよくよくみれば、講習は指定場所で受講すると書いてあるのである。これなら最初から平針に行けば一日で済んだのに。

 車がつぶれて、なかのわたしが無傷だったことに、見た人みなが驚いたほどの事故だったのである。それは大変幸運なことなのであるから、こういう煩わしさはそれを忘れないように、とのありがたいペナルティなのだと考えることにしよう。それ以来とにかくスピードは(あまり)出さないようにしていることは間違いない。

畑尾一知『新聞社崩壊』(新潮新書)

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 著者はもと朝日新聞販売局部長。新聞の衰退と劣化が論じられて久しいが、劣化についての評価はともかく、購読者の減少による衰退は統計的に間違いの無い事実であるようだ。この本はいままでの新聞に対する批判を目的としたものとは少々毛色が変わっていて、新聞社の経営に関わる統計数字と、そこから推定されるいままでの経緯、そして将来の予測を分析したものである。

 新聞の購読者数は継続的に、そして新聞社の経営にとって深刻な状態にまで減少している(近年はとくに朝日新聞の減少が顕著である)。新聞を読まずにネットニュースを見ることで情報を得る人が増えていることが理由として挙げられる。とくに若者は新聞を読まなくなっている。ところがいま新聞を購読しなくなっているのは若者ばかりではない。高齢者を除いて新聞離れは世代を問わず増えているのだ。

 著者はその理由として新聞代が高いことを挙げている。新聞代は大手三社(読売、朝日、毎日)が同時に値上げし、中小はそれに追随する。そこには独占禁止法は適用されないという日本独特のシステムがある。競争原理が働きにくいことにより、経営への厳しさがたらないのかも知れない。

 現代人は情報に多額の金を使っている。むかしよりはるかに多様になった情報入手先として新聞の位置づけをどう考えるのか。過去の体験からの視点だけで現実を見誤るとこの衰勢は止めようがないであろう。そんなことはとうに気がついているはずなのに、抜本的な対策が採られていないことは新聞の販売業者の現状に表れているのかも知れない。

 日本では新聞のほとんどが各戸配達による販売であり、店頭販売はごくわずかである。その販売店が危機に瀕しはじめている。しばしば暴露される押し紙、チラシ広告の減少、配達員の人手不足などが販売店の負担となっている。

 押し紙というのは、実際の購読者数と販売店に新聞社から送られる新聞の数の差のことである。千部を販売している販売店に千二百部が送られてくるなどと言うことが普通に行われている。この押し紙について裁判が行われた事例がこの本で取りあげられている。ところが販売店側が敗訴しているのである。押し紙は新聞社が自己の優位性にたっての強要であるとは認定されない事情が明らかにされている。

 著者による現在の大手新聞の分析では、読売、(意外なことに)朝日はまだ経営的には苦しくない。毎日、産経は利益率が極めて低い。しかしそう遠くない将来を現在の延長線上に推定していいのか、と著者は問う。情況は加速し激変するのだ。

 ではデジタル新聞に活路を見出せば良いのか。それについてはニューヨークタイムスなどの例が挙げられ、活路にはならないことを明らかにしている。

 最後に情報ソースとしての新聞の役割を著者なりにどう考えているのか語っている。情報の展示の仕方についての新聞の意味が、そして重要性があらためて感じられ、得心した。止めている新聞を再び取ろうかなと思ったくらいである。

 ラジオやテレビの出現により、新聞は一番先に情報を伝える方法ではなくなっている。すでに新聞の新は色あせている。新聞は消え去ることはないだろうが、衰退は劣化を招く。われわれが得る情報が劣化することにつながるかも知れない。何しろテレビやネットのニュースの情報元はしばしば新聞なのであるから。

2018年4月 8日 (日)

養老孟司『半分生きて、半分死んでいる』(PHP新書)

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 世のなかはこうであるべきだ、こうでなければならない、と本人の考える理想を語っている文章をしばしば見る。そこでは正論が語られているから反論の仕様がない。おっしゃるとおりですね、と頷くしかない。天声人語などもこのパターンが多かった気がする。ずいぶんしばらく朝日新聞を読んでいないから最近は変わったのだろうか。

 ところで考えてみるとそう書いている人は読む人に語りかけているわけである。しかし読者は普通その主張に沿って世の中を変えていくべき立場にはない。安倍首相でもないし、官僚でもないし、政治家でもない人ばかりであろう。筆者はその正論についてひろく国民の賛同を仰ぎ、一丸となって世の中を変える力につなげようとでもしているらしい。

 そういう正論を読まされるといささかうんざりする。私のブログにも当初はその傾向があったらしく、息子にちらりと皮肉を言われて目が醒めた。しかし注意してもうっかりすることがないではない。

 養老孟司の文章を読んで感心するのは、そういう正論を決して書かないことだ。語り下ろしが多いから、そういうことを言わない人なのだろう。

 書いてあることをよくよく考えるとずいぶん深い考えの基に語られていることに気がつく。彼が語るのは決して一般論ではない。それは彼が虫の研究を趣味であり生きがいとしているからだろうと思う。生物を研究するには分類が必要である。分類しないとその虫がなんという種類のなんという名前の虫か人に説明できない。

 その分類こそが一般論であろうか。足が六本ある虫を昆虫という、という類の話である。しかしいま現に目の前の虫はそういう一般論とは別に個別の生命ある存在としてそこに居る。

 それを統合して自然と関わることで、人間社会というものを見直し、思索し続けた上で出て来た言葉が養老孟司の言葉なのである。世界を認識する方法がとことん洗練され、科学的になった現代社会は、どうも少し変なのではないか、間違っていはしないか、と疑うことも必要ではないか、というのが彼の思いではないだろうか。科学的に社会を見ることで、人間そのものを見失っていないか、と言いたいのだと愚考する。

 ではどこがどうおかしくて、何をどうすればいいのか言ってみろ、と誰かが養老孟司に問えば「そう感じたからそう言っているだけで、そう思わない人のことなど知らない」と答えるばかりであろう。すぐ答えを相手から聞こうとする態度こそ、彼が最も毛嫌いすることだから。

 世の中にはなんにでもマニュアルがあると錯覚している人間が多すぎる。すこしは自分の首の上にあるものを使ってみてはどうか、と私も言いたくなる。二言目には教えてもらわなかったから知らない、などと恥ずかしげも無く言う若者にうんざりする。私はしばしばうんざりするのである。いまは若者ばかりでなく、大の大人も年寄りさえも同じようなことを言う。

 今回読んだこの本は彼の本の中では格段に読みやすい。読みやすいというのは、ものを考えるためのテーマが明快に呈示されているからである。そこから何を考えるか、それは読者の仕事である。     
 社会は言葉で出来ている。言葉は現実ではない。しかし思索は言葉を使わなければ出来ない。言葉の発達と脳の発達は互いに関連しているはずだ。その言葉は現実を抽象化してしまう。そのことをうっかり忘れていると、言葉に人間は縛られてしまう。言霊(ことだま)などと言われるように、言葉には魔力がある。自然があり、生命があり、人間が居て社会がある。

 この本を読んで、それらのことをもう一度認識し直すことでこの世界の見え方が変わるのではないかとちらりと思った。といって、だからどうなのかというほどのこともない。世の中はそもそも私には変えられない。変わるのは私である。

英語

 寝付けない夜のために枕元に本が積んである。睡眠薬は極力飲まないようにしているのでこれが睡眠導入剤である。小説本は置かない。面白すぎると却って眠れなくなる。

 いま拾い読みをしているのは周作人の『日本談義集』である。周作人は魯迅の弟、魯迅の本名は周樹人である。共に日本留学の経験があり日本のことに詳しいが、親日家としては周作人の方がはるかに日本を愛していた。

 親日家にはしばしば自分の利得のために親日であることがあるが、日本の問題点をよく知り嫌な部分も含めて親日である親日家こそ親日家だとすれば、この周作人は筆頭に名前を挙げて良いだろう。何しろ頑として親日の旗を降ろさずにいたために戦後不遇の生活を送ることになるほどまでに日本に殉じたのだから。そのことでは兄の魯迅とも仲違いをしたことがある。その周作人を知る日本人がいまは少ないのは悲しむべきことである。

 この『日本談義集』では親しい日本の知人達の話などは楽しいが、歯に衣を着せぬ言葉で日本を非難もしている。そして返す刀で中国の現状を憂えてもいる。中国を憂えるがゆえに日本を引き合いに出しているというところももちろんある。反面教師として語りたいのにわが国はどうしてこんな体たらくなのだ、という義憤にあふれているのである。そこに語られているのは何十年も前の日本であり中国なのだが、まさに現代の日本であり中国でもあることに驚く。

 その中の文章を(私が)意図的につぎはぎして以下にお目にかける。

 革命家が文学革命を主張して、文人は国語改造の責任を分担させられることになったが、新文体(ここでは口語体の文章のこと)を作り出すことは出来ても新名詞(新しい言葉のこと)をこしらえる力は知れているので、その大半は新聞人の仕事ということになる。ところが世の新聞人は、教育家と同様、大抵みな低能気味であって、したがって成績は余りかんばしくなく、ときには虫酸の走るような俗悪ぶりさえ発揮する。

 われわれの東隣の文明先進国たる日本も、この点にかけては、たいした進歩を示していない。十七、八年前の文学上の自然主義という名称などは、道学者の反対のお蔭で俗化し、後にはほとんど野合の代名詞にまでなって、ここ数年に至りようやくすたれるありさまだ。

 一方、英語の音訳だけの新名詞がにわかに幅を利かせ始めている。立派に使える自国語がありながら英語が唯一の正統でなければならぬとは、実に不可解な話で、英文は修得したが頭はしどろもどろであるとか、教育は受けたが一向に教養がつかぬといった日本のためしは、前車の轍としてよくよく注意せねばなるまい。

 面白いでしょう?

2018年4月 7日 (土)

不器用な人

 世の中にはうらやましいほど器用な人もいれば私のように不器用な人もいる。器用さと生きやすさは多少は関係あると思うが、たいした違いも無くそれなりに生きられるから世のなかはありがたい。

 先日所用で名古屋駅前に出掛け、その足でゲートタワー内の本屋に立ち寄った。お目当ての本がとくにあったわけではないが、気がついたらいつものような両手にいっぱい本を抱えてレジの前に立っていた。

 読むよりも買う本の方が多い。読まない本は無駄ではないかと思う人が普通だろう。確かにそうである。私は読むことも好きだけれど、本を買いそろえることにも大きな喜びを感じているらしい。それなりの快感があり、しかもあまり後悔しないのだからそれで良いのである。部屋の空間を占拠している本の山を前にして、食べきれないほどのご馳走を前によだれを垂らしている餓鬼と同じ顔をしているのかも知れない。どれから食べようかな、というわけである。

 抱えている本をレジの若い男性に手渡す。彼が思っていたよりも多くて重かったのだろう、取り落としそうになる。大丈夫かな、と感じる。本の扱いやカードの確認、お金の収受全てがなんとなく危なっかしいのである。ああ、新人君かあ、と思った。本人はなんとか手際よくやろうとするからますます危なっかしい。

「紙袋にお入れしてもよろしいですか?」、「お願いします」これは彼だけではなくてよく聞かれることだけれど、断る人がいるからこう聞くのか、それともそもそも意味がない言葉なのか。これだけの本をバラでどうやって持ち帰るというのか?しかしこれは彼が非難されるべきことではない。

 紙袋を二重にする。それもたどたどしい。そして本を収めようとするのだけれど、バランス良く入れられないらしく狭いレジのスペースで本を入れたり出したりしている。やがて・・・

 紙袋はレジの床に落下し、中の本が散らばった。

 たいていの本はほとんど損傷がなかったけれど、一冊、葉室麟の本は表紙の一部が破れてしまった。「すみませんすみません」と彼は言い、「交換します」。まあ当然であろう。別の場所の画面を覗きに行き、「良かった。在庫がありました」。この本は新刊で平棚に山積みだったから在庫がないはずはない。そもそも売れ筋の本を知らないというのも書店員としてはいかがなことかと思うけれど、新人君だから仕方がないか。

 しかしそれほど離れていないところの棚にある本を取りに行ったはずなのに待てど暮らせど帰ってこない。五分ほどボンヤリ待っているとようやく「ありましたありました」と嬉しそうに帰ってきた。

 待っている間に隣のレジの女性が苦笑いしながら私に軽く頭を下げたので、気の短い私も笑い返していて、ちっとも腹は立っていない。心の中でがんばれよ、といいながらレジを後にした。しかし本のことをほとんど知らなそうな上にあの不器用さだと、これからかなり苦労するだろうなあと他人事ながら同情した。

映画『伊豆の踊子(1974)』

 監督・西河克己、出演・山口百恵、三浦友和、佐藤友美、中山仁、一宮あつ子、石川さゆり他。

 もうすぐ還暦を迎える妹が私にとってはまだ少女時代のままであるように、山口百恵は百恵ちゃんのままである。妹は学年が山口百恵と同じで、少女時代、多少似ていないことはないと思っていた。残念ながらそう思っていたのは私だけだけれど。

 以前にも書いたけれど、この百恵ちゃんの『伊豆の踊子』が観たくて、しかし映画館の前には女の子ばかりが列んでいるので妹に一緒に行ってもらった。期待以上に好い映画であった。

 先日、WOWOWで放映されたので本当に久しぶりに観たけれど、素直に好い映画だと再確認した。山口百恵の、媚びない少女の魅力はやはり彼女だけのものだと思う。そして三浦友和の整った顔立ちとさわやかさは別格で、これは誰もかなわない。二人の初々しさが物語とぴたりと重なって出来の好い映画になっている。

 もう一つどうしても気になっていることがあった。この映画に石川さゆりがでているのである。そのことは最初に見たときから知っていた。病に伏せっていて、ついに死んでしまうのであるが、踊り子との関係が、友達であることのみ記憶していて今ひとつよく分からなくなっていた。

 今回その設定が良く呑みこめた。たぶん知らずに映画を観ていたら、多くの人が石川さゆりだと気がつかないだろう。女郎屋の暗い物置のようなところに伏せって苦しげに眉をしかめているばかりであるから。そして彼女をようやく探し出して見舞うことが出来た踊り子は、そのあとに友達(石川さゆり)がはかなく死んでしまったことを知らない。

 まだ世間というもののほんの入り口を知っただけの少女が、旅先で出会い、同行することになったさわやかな一高生にほのかな思慕を抱き、やがて別れるという物語は、まだ世間知らずの少女の素直な心のように思いの外明るいのである。しかしそのすぐ先にはどんな将来が控えているのかがさまざまな描写の中に暗示されている。そういう経験がやがて一つの灯火として踊り子を支えていくであろうことも暗示されている。

 踊り子の兄役である中山仁、その妻の佐藤友美、その妻の母である一宮あつ子その他が踊り子たちの巡業の面々であるが、みな素晴らしい。とくに中山仁は、いろいろなものを呑み込んで鬱屈しているはずなのに、情に厚く筋の通った好漢を演じ、そこに悲しみをにじませて見せるなど、名演であった。

 原作同様それほど深味のある物語ではないけれど、世の中は一皮めくればどういう仕組みになっているかを覗かせる、案外鋭い映画でもあったのだ。変に社会正義ぶった訴えが強調されていないことも好感が持てる。この映画を列んで観ていた少女たちにそれがどれほど理解され、記憶として残されているだろうか。無意識にでも残っていれば幸いである。

2018年4月 6日 (金)

タイヤ交換に行く

 週末に西の方へ出掛けようかと考えていたが、安上がりな宿を探してでかけているとは云え、家に居るよりは当然散財となる。金は使えばなくなる。すこし控えることも考えなければと思う。しかも週末は天気が悪そうだ。

 そうこうしていたら冬タイヤを交換する予約日が6日になり、西への旅は先延ばしにすることになった。だから本日はタイヤ交換所(リースタイヤをお願いしているところで、15年以上のつき合いであり値打ちで頼めている)の金沢へ日帰り往復。金沢に泊まり、若い友人と飲むことも考えたけれど、そうそういつまでもつき合わせても申し訳ないと思い、日帰りにした。

 金沢も東京から新幹線で行けるようになって客が増え、定宿の駅前ホテルも急には取れない。ホテルがどんどん増えているらしいから、間もなくまた安く気軽に泊まれるようになることだろう。そのことも日帰りにした理由である。

 金沢の魚はおいしいけれど、むかしほど美味いものに執着がなくなってきた。とくに美味しいものを選んで食べなくても、さいわい何を食べてもそこそこ旨いと感じられるたちなので、それで良いのである。刺身なども一種類二、三切れで十分である。いまは食べ放題の看板に少しも心が動かない。食べ散らかしている人たちを見るとつい怒りを感じるばかりである。食べ物は大事にしなければならないといまごろになって感じているのだからずいぶん気がつくのが遅い。

 雨でなければ東海北陸道を途中で降りて御母衣湖のそばを通り、庄川桜の様子でも見たいところだが、雨では致し方がない。それにまだ咲くのはすこし先だろうか。咲いていればいたで人出も多いのがわずらわしい。なかなか注文がうるさいと自分でも思う。

最上川船下り

最上川の船下りを初めて体験した。


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こんな舟に乗る。中にはこたつがしつらえられているが、当日は快晴で日差しが注ぎ、温室のなかにいるみたいで暑いくらい、窓を開けて川風が入るのが心地よかった。ただ、風に乗って花粉が飛んでくるのか涙と鼻水、くしゃみが止まらず往生した。

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乗船場に戸沢藩の船番所の門が建っている。本当の船番所があったのはここではない。ナビでそこへ行こうと思ったら、最上川の河原の方へ案内しようとする。しかし雪の山が遮っていて行くことが出来ない。いまは行けないのか。あきらめる。

ここは古口といい、周辺一帯は戸沢村。主流の最上川に角川(つのがわ)という支流が注ぎ込んでいる場所である。この角川を遡った場所が私の父の生家のあったところで、むかしは雪が深く、冬は陸の孤島だった。今年もしばしば大雪で名前の出た大蔵村はそのすぐ近くである。湯治場で有名な肘折温泉も近い。

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舟が出たばかりなので周辺を散策する。最上川は今年の大雪がにわかな暖かい日に溶けて増水している。

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満々と水をたたえる最上川に観光船が浮かぶ。モーター付きである。

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五月雨ではないが雪どけ水を集めて早し最上川である。

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正岡子規の句

   朝霧や 船頭うたふ 最上川

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唄っていたのはこの最上川舟歌であろう。これは中国文。英文のもある。学生時代、講座の大学院生がこの最上川舟歌が得意で、宴会のたびに聞かせてもらった。正調の最上川舟歌は素晴らしい。今回の観光船の案内の人の舟唄も絶品であった。聞けば全国大会で優勝をしたことがあるという。

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舟に乗り込む。一番最初に乗り込んだ。このあと席はほとんど埋まるほどになった。人気があるのである。

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雪どけ水が山から滝になって落ちる。このような滝が次々に見える。

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たくさんあって撮っているときりがないのである。

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帰り舟。いまは下りだけの片道運航しかしていない。だから帰り舟は空舟で、客が居ないからスピードも速い。帰りは路線バスで戻るのである。

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また滝。いまごろだけ見られるものが多い。

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仙人堂という神社。この右手の鳥居は大石から刳り抜いて作った珍しいものだという。芭蕉はここを参拝したそうだ。

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船下りのハイライト、白糸の滝。確かに美しい。この滝は常に落下している。ここから降り口の草薙はすぐである。

芭蕉はさらに下流の清川で下船している。あの清河八郎の生まれ育ったところである。ちなみに乗船したのもずっと上流の本合海(もとあいかい)だったらしい。

船旅は十数キロを一時間足らずで下る。行って良かった。これから客が増えてごった返すことだろう。体験を逡巡していたのは来るたびに客の多そうなことにおそれをなしていたからである。しかし舟は多そうだから、客が多ければそれに対応しそうで心配なさそうであった。

これで東北小旅行は終わり。

2018年4月 5日 (木)

膝に活を入れる

 マンションの五階に住んでいる。原則としてエレベーターを使わないようにしている。最近、階段を登るとき膝が痛い。激しく痛むというより神経に障る痛みで、無理をするとガクッと力が抜けてしまうので危ない。

 しかしそれを恐れていてはこのまま固定化しそうであるから、逆療法をすることにした。一日三回以上登り降りすること、さらに大股早足の散歩で汗をかくことを心がけている。多少汗をかいたので体重がちょっと減った。さらに膝の痛みを押さえ込んで無理に登り降りしているうちに痛みを感じにくい歩き方が分かってきた。

 いまも痛さは消えていないが、こわごわ歩いていたときよりも思いきって歩く方が痛まないようである。膝と精神に活を入れて大胆に歩くようにしている。なんとか治ると良いのだけれど。

 以下花粉症についても同様に、逆療法でどんどん風の中を歩く。眼のかゆみはあるしくしゃみは出るけれど、こころなしか軽くなった気がする。こちらは花粉がピークを過ぎたのかも知れない。

鳴子峡(2)

鳴子峡のドライブインから遠望した国道の橋に行く。


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こんな風に反対側から見る。遊歩道もなんとなく見分けることが出来る。

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このトンネルは陸羽東線のもの。紅葉のシーズンには列車によってこの鉄橋で緩行し、景色を眺めて写真を撮ることが出来るようだ。

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トンネルをアップしてみた。しばらく待ったが、残念ながら列車の通る気配はない。

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眼下の渓流をのぞきこむ。

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なかなかの絶景。この川が山を下り、国道47号線に沿って江合川として下っていき、最後は旧北上川に合流する。

ここから十キロほどで分水嶺がある。その近くには芭蕉が泊まって句を詠んだ封人の家がある。その先は出羽の国、つまり山形県なのだ。

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右上から本流が下り、下から支流が合流し、左上に流れ下っている。見飽きない絶景だった。ようやく雨があがる。

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帰り道の路上にこんなものが落ちていた。車から捨てたのであろう。こういうことをするから煙草のみが嫌われるのだ。ほんの一握りの人がする行為が全体を暮らしにくくさせる。

2018年4月 4日 (水)

繰り返し読めば分かるようになるか?

 読書百遍、意自ずから通ず、という。解らない文章でも百回読めば解るようになるのだろうか。解らない文章を百回読んだことがないから、本当に解るようになるかどうか私には分からない。

 そのことに関連しているかどうか分からないが、最近読んだことのある本の読み直しを楽しんでいる。どうして楽しいかといえば、以前読んだときに分からなかったことが読み直すと分かったりするからである。それは繰り返し読んだから分かるようになったというよりも、読み直しまでの長い年月の間にさまざまな本を読んだことで、理解するための手がかりが増えているからだと思う。

 本をたくさん読むことの意味はそこにあるのかも知れない。ザル頭が読んだとはいえ多少はなにかが残っているもので、それぞれが頭の中で次第に関連して、やがて見えなかったもの、分からなかったものがすこしだけ見えたり分かったりする。

 それを積み重ねていけば、お粗末な私の理解力も多少は向上していくのだと思いたい。

 しかしそうやって棚にある本をとっかえひっかえ再読していると、目の前に積み上げられたまだ未読の本が少しも消化されないことになってしまう。そのへんの加減がまことに難しい。無限に時間があるわけではない。逆に残り時間は歴然と少なくなっているのである。しかも脳力の方は次第に劣化している。

 いまはただ若いときに浪費した自分の時間をもったいないことだったなあ、などと思い返しているが、取り返しはつかないのだ。これからを大事にするしかないのである。

 そういえば少し前にHiroshiさんのブログに『中国農民調査』という本の名前が出てきた。懐かしい。中国で出版され、話題になり、ベストセラーになってマスコミにも取りあげられたのに突然発禁処分となった本である。

 翻訳されて間もない頃、私も手に入れてわけも分からずに流し読みしたまま棚に飾ってある。久しぶりに手にして読み始めたら面白い。どうして丁寧に読まなかったのだろう。現代の中国の農村問題の理解にはとても有用な本で、それはひいてはいまの中国そのものを知るための一つの手がかりでもある。ネットニュースを山ほど読むよりずっとものを考える材料にあふれている。ああ、時間と集中力が欲しい。両方足らないのが哀しい。

鳴子峡(1)

この日の天気予報は全国版も地方版も晴れ、それも快晴だといっていた。それなのに中山平温泉は夜明け前から雨、ときどき止むけれど晴れ間などどこにもない。


ここから二キロたらずのところにある鳴子峡まで散策予定なのになんたることかと天を怨んでいたら、11時過ぎにようやく晴れ間が覗きだした。これならちょうど昼飯を出先で食べるのに都合の良い時間だ。

歩いてしばらくしたらまた小雨が降り出した。

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日帰り温泉「しんとろの湯」の前の源泉口を通り過ぎるころには本格的な雨。

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鬼そばとはどんなそばか?道路から逸れてずっと下り坂になっているその降り口にここから500メートルとあった。そしてかなり下った頃にこの「すぐそこ」の看板を見る。すぐそことあれはすぐそこに違いない。

しかしまだまだ下る。

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ようやく到着。真ん中がそば屋「藤治郎」。ラドン温泉との間を折れると・・・何と十人あまりの人が列んでいる。まだ開いていないのだろうか。次々に車でやってくる人がいる。左奥の駐車場はすでに満杯である。店内を覗くと店内にもたくさんの待ち人用の椅子があってそこにも人がひしめいている。食べている人もいる。十分ほど待っていたが、食べ終えて出てきたのは二人だけである。

これでは一時間くらい待たなければ食べることは出来そうもない。たぶん有名な店なのであろう。しかも当日は日曜日であった。待つのはとことん嫌いな性分である。列を離れて再び坂を上りはじめた。腹の立つことに雨はさらに本降りになっていく。

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この松林の先に鳴子峡のドライブインがある。しかしたぶんまだ休業中であろう。

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ドライブインの大きな駐車場への道を歩く。雪が溶けて水たまりになっている。

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思った通りまだドライブインは雪の中で冬眠中。左手の奥から鳴子峡を眺めに行く。アベックが先にいて写真をだらだら撮っていた。

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展望場所からの景色。下に渓流が流れていて散策路があるが、いまは雪だらけで降りることは出来ない。向こうの橋は国道。あとであちら側にも行く予定。紅葉のときなら絶景の場所である。

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この橋の上から一度景色を見てみたいと思いながらまだ果たせていない。

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このドライブインが開くのは四月下旬なのであった。予想通りだから腹は立たない。

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左手前のベンチでしばらく休憩する。

2018年4月 3日 (火)

長谷川慶太郎『大局を読む 日本の難題』(徳間書店)

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 いつもよりすこし長いスパンで世の動向を予測する。いつものように、長谷川慶太郎の日本のこれからについての予測は全体とすれば比較的に楽観的である。

 まず東京オリンピック後に日本には景気低迷が訪れるだろうという。これは必然であろうと私も思う。本格的な高齢化社会の到来、人手不足、住宅需要はとくに冷え込むのは明らかだ。そしてひき続くデフレによる将来不安からの需要の低迷により、自民党政権に危機がやってくるという。景気低迷は時の政府の責任と見做されるからだ。といっても誰かが抜本的に景気を立て直すことが出来ることではない。社会福祉費の増大がそこを直撃するのは避けようがない。いわゆる2025年問題(団塊の世代が全て後期高齢者となる)があるからだ。

 マイナス金利は銀行の収益をどんどん減らし続け、店舗はどんどん減り、当然大幅なリストラが行われ、銀行は斜陽産業になるだろうという。自動車業界はEV化の波に乗れるかどうかで帰趨が決まる。ただしこの点については長谷川慶太郎は日本が勝ち残るだろうと予言する。EV化は電池の性能にその命運がかかっている。その点で日本は後れをとらないというのである。  

 一番気になる朝鮮半島については、北朝鮮はなんの脅威でもないから気にする必要は無いと断言する。そして韓国にはほとんど期待できないとみているようだ。とくに文在寅大統領の政策は韓国経済を再び興隆させることはあり得ず、日本にも中国にも本気で相手にされない状態になるとみているようだ。

 アメリカは世界と関わり続ければ引き続き好調が期待できるとみているようで、アメリカ第一主義を進めて孤立していけば衰退するかも知れないが、長谷川慶太郎はアメリカは世界に積極的に関わり続けるはずと見越しているようだ。しかしトランプ大統領はそうするだろうか。

 イギリスはEU離脱後にTPPに参加する意向であるという。初めて聞いたことだが、それはイギリスにとってもTPP11にもメリットのある話だろう。

 中国は国営ゾンビ企業のリストラに踏み込まないかぎり、いつかは経済の限界を迎えてしまうという。国営企業にメスを入れるのは共産党自体に激しい痛みを伴うのである。可能だろうか。それはすこし先のことになるだろうが、中国がイノベーションに成功して壁を乗り越えるのはかなり困難ではないかと見ているようだ。自由競争と自由な情報交換のない世界でイノベーションは出来ないと断言している。

 この本は二月に書かれているから、いまの北朝鮮の突然の融和策は織り込まれていない。しかしどちらにしても長谷川慶太郎の予測が大きく変わることはないだろう。彼の予測を指標にして、中期的な視点で世の中の動きを見ていくのをいつも楽しみにしている。何しろ私には自分でとうこうできる話ではないから、高みの見物なのである。

あがる

 先月、中国から帰ってすぐに娘のどん姫がやって来た。土産話を聞きに来てくれたのだ。翌日、帰りにいつものように名古屋まで車で送ったのだが、そこで「報告することがあります」と改まって言うではないか。

 まさか、と思ったが、そのまさかであった。彼氏が出来て、結婚を前提につき合っているという。その彼氏を今度連れて来て会わせるという。

 そして昨日、二人でやって来て神妙に挨拶した。剣道と柔道をずっとやって来たという彼氏はがっちりしている。どん姫は、穏やかな熊みたいだ、と言っていたが、まさにその通りの風貌の男であった。

 こういうときにどういう話をしたらいいのか戸惑う。向こうは意気込んでいるけれど、こちらは何しろ照れくさいのである。なんだか私の方があがってしまった気がする。長居をせずに早めに切り上げてくれたのは、向こうも気を遣うのに疲れたのであろうか。

 結局、一緒になることを承諾したことになったようだ。何しろ土産に蓬莱泉の純米大吟醸「空」の一升瓶を持って来るのだもの、駄目だと言えないではないか。しかしどん姫もなかなかやるなあ。私の弱点をよく分かっている。

 昨晩はホタルイカなどを肴にその「空」を美味しく戴いた。酔うほどになんだか気持ちのせいか複雑な味がした。

2018年4月 2日 (月)

やたらに激怒したり号泣する

 ネットニュースを見ていると、このごろやたらに激怒したり号泣したという見出しを見る。中身を見るとつまらないことで拍子抜けする。激怒したとされた人も、号泣したとされる人もびっくりしたことだろう。

 こういう記事を書く人は人目を引く文章を書こうとして言葉が極端にインフレになっているようだ。こうなると本当に激怒したことと、ちょっと腹を立ててきつい言葉をいったこととの区別のつけようがなくなってしまう。私など四六時中激怒し、号泣していることにされそうだが、残念ながら(幸いなことに)誰も相手にしてくれないから、そういう目に遭うことはない。

 日本では大のおとなはやたらに激怒したり号泣したりしないものだった。お隣の国ではやたらに激怒したり号泣するらしいけれど、日本では大人げないこととされてきた。しかし最近は言葉のエスカレートと共に感情のコントロールが出来ない大人が増えている気がする。幼児化しているのだろう。高齢になると子どもに返るという。年寄りの大声で激怒している姿を目にすることも増えた。これも幼児化だろう。日本は高齢化社会になるとともに幼児化しているのか。ニュースの記者はたぶん幼児化しているのだろう。

 自分も幼児化するのだろうか。なんとか激怒や号泣はおさめておきたいものである。アンチエイジングとは外面だけではなく、精神の老化(すなわち幼児化)を食い止めることこそ肝要ではないかと愚考している。

大好き、鳴子温泉

 鳴子温泉は、いわゆる温泉郷で、東から川渡(かわたび)温泉、東鳴子温泉、鳴子温泉、鬼首(おにこうべ)温泉、中山平温泉などの温泉の総称である。

 子どものときに家族で鳴子温泉に泊まり、学生時代に川渡温泉に泊まり、そのあとも何年かに一度訪れている。2010年に定年退社して真っ先にやって来たのが川渡温泉の湯治宿で、一週間ほど湯治しながらボンヤリしていた。そのあとも年に二度三度来ている。

 泊まったことのある宿は、川渡温泉に三軒、東鳴子温泉に二軒、鳴子温泉に三軒、中山平温泉に二軒あり、全て複数回利用している。深山幽谷と言うほどの景色でもなく、鬼首温泉の間欠泉や紅葉で有名な鳴子峡を除けば見るほどのところもないけれど、とにかく私にとっては居心地がいいのである。

 日本全国いろいろ温泉に行った。ふたたびみたび訪ねたくなる温泉はいくつかあるけれど、いまのところ一番のお気に入りは鳴子温泉である。何しろ自宅から鳴子温泉まで800キロ近くあるというのに、思い立つとすぐ予約を入れてやってくるのであるから、それだけ好きなのである。たぶん人それぞれに好みはあるから、どんな温泉にもファンはいることだろう。

 温泉は最低三泊以上しなければならないと思っている。だから時間が自由になって初めて温泉を堪能できる。それなのにひと晩ずつあちこち訪ね歩くなど、もったいない。出来れば半月ひと月居たいけれど、さすがにそこまでゆっくりしたことはない。

Dsc_6018 中山平温泉のなかやま山荘

 先日も三泊四日で中山平温泉に泊まった。ここの湯は濃厚である。宿によって源泉も違い湯も大きく違う。今回の宿はウナギの湯で、アルカリ性が強いのか、ことのほか湯につかると肌がヌルヌルする。たぶん長期滞在すれば、肌が綺麗になることは間違いない。

Dsc_6017 部屋からの景色、左下が浴場

 この宿に初めて泊まったときは震災の少し後で、地震の影響から源泉に異常を来たし、青い泥が混じって泥温泉のようになっていた。二日目頃には配管のポンプがやられて、近くの日帰り温泉施設に送り迎えしてもらってそちらに入浴した。さいわい翌日には復旧したので事なきを得た。いまはもちろん定常に戻っている。そのころは大広間の食事場所で、順番にカラオケを歌わされた。断ることも出来るけれど、他の客が嬉しそうに催促するのでつき合った。

 いまはそういうことはやっていないようだ。何しろ客のほとんどが後期高齢者とその付き添いで、老人ホームみたいな雰囲気だった。前期高齢者の私は若輩者であるからみなさんに敬意を表し、風呂でもきちんと挨拶をさせてもらった。

2018年4月 1日 (日)

岩出山・有備館(3)

有備館の建物の中に入る。


Dsc_5972

まだ新しい上に開け放してあるので明るく気持ちが良い。

Dsc_5973

下の間を通り、中の間から上の間の方を見る。欄間はシンプル。

Dsc_5975

床の間と違い棚。

Dsc_5977

上の間から床の間を背にして振り返る。

Dsc_5978

庭園側を見る。

Dsc_5979

この廊下でしばらく庭園をボンヤリと見て過ごす。殿様になった気分である。こういう時間が何より好き。

Dsc_5983

違い棚とその上の天袋。単純だけれど美しい。

Dsc_5984

天袋の引き手。

Dsc_5986

こういうところに意匠を凝らすのがしゃれている。

Dsc_5987

透かし彫りも美しい。

Dsc_5989

こういう贅沢こそ文化というものだろう。

Dsc_5990

鴨居のあちこちに打ち付けてあった。

実は建物内に入ったのは今回が初めてである。昨年は出来たてで、中に人がたくさん居て上がる気がせず、庭園だけを見た。

これで有備館は終わり。中山平温泉の宿に戻る。

岩出山・有備館(2)

中に入る。入り口の左手が有備館。


Dsc_5922

右側が主屋で左が付属屋。主屋が倒壊し、付属屋は損壊だけだった。五年かけて再建された。藁葺き。

Dsc_5927

主屋の縁側。建物はあとで中を見せてもらうことにする。まず庭園を左回りでぐるりと廻る。

Dsc_5929

立派な木が取り囲み、影を成す。夏なら涼しいだろう。

Dsc_5935

好天に緑が映える。

Dsc_5937

小さな社が祀られている。その生け垣の向こうが先ほど散策した道になっている。

Dsc_5942

兼六園のように広い庭園ではないが、ここの風景が好きであり、このごろは年に一度は訪ねる。

Dsc_5949

対岸側から有備館を眺める。

Dsc_5954

池の中には小島がいくつかしつらえられている。

Dsc_5965

梅だろうか。まだ咲き始めたところのようである。

Dsc_5970

木の影がシルエットになって良い雰囲気である。苔も美しい。コントラストが強いので、まことに写真が撮りにくい。

このあと建物の中を見せてもらう。

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