養老孟司『半分生きて、半分死んでいる』(PHP新書)
世のなかはこうであるべきだ、こうでなければならない、と本人の考える理想を語っている文章をしばしば見る。そこでは正論が語られているから反論の仕様がない。おっしゃるとおりですね、と頷くしかない。天声人語などもこのパターンが多かった気がする。ずいぶんしばらく朝日新聞を読んでいないから最近は変わったのだろうか。
ところで考えてみるとそう書いている人は読む人に語りかけているわけである。しかし読者は普通その主張に沿って世の中を変えていくべき立場にはない。安倍首相でもないし、官僚でもないし、政治家でもない人ばかりであろう。筆者はその正論についてひろく国民の賛同を仰ぎ、一丸となって世の中を変える力につなげようとでもしているらしい。
そういう正論を読まされるといささかうんざりする。私のブログにも当初はその傾向があったらしく、息子にちらりと皮肉を言われて目が醒めた。しかし注意してもうっかりすることがないではない。
養老孟司の文章を読んで感心するのは、そういう正論を決して書かないことだ。語り下ろしが多いから、そういうことを言わない人なのだろう。
書いてあることをよくよく考えるとずいぶん深い考えの基に語られていることに気がつく。彼が語るのは決して一般論ではない。それは彼が虫の研究を趣味であり生きがいとしているからだろうと思う。生物を研究するには分類が必要である。分類しないとその虫がなんという種類のなんという名前の虫か人に説明できない。
その分類こそが一般論であろうか。足が六本ある虫を昆虫という、という類の話である。しかしいま現に目の前の虫はそういう一般論とは別に個別の生命ある存在としてそこに居る。
それを統合して自然と関わることで、人間社会というものを見直し、思索し続けた上で出て来た言葉が養老孟司の言葉なのである。世界を認識する方法がとことん洗練され、科学的になった現代社会は、どうも少し変なのではないか、間違っていはしないか、と疑うことも必要ではないか、というのが彼の思いではないだろうか。科学的に社会を見ることで、人間そのものを見失っていないか、と言いたいのだと愚考する。
ではどこがどうおかしくて、何をどうすればいいのか言ってみろ、と誰かが養老孟司に問えば「そう感じたからそう言っているだけで、そう思わない人のことなど知らない」と答えるばかりであろう。すぐ答えを相手から聞こうとする態度こそ、彼が最も毛嫌いすることだから。
世の中にはなんにでもマニュアルがあると錯覚している人間が多すぎる。すこしは自分の首の上にあるものを使ってみてはどうか、と私も言いたくなる。二言目には教えてもらわなかったから知らない、などと恥ずかしげも無く言う若者にうんざりする。私はしばしばうんざりするのである。いまは若者ばかりでなく、大の大人も年寄りさえも同じようなことを言う。
今回読んだこの本は彼の本の中では格段に読みやすい。読みやすいというのは、ものを考えるためのテーマが明快に呈示されているからである。そこから何を考えるか、それは読者の仕事である。
社会は言葉で出来ている。言葉は現実ではない。しかし思索は言葉を使わなければ出来ない。言葉の発達と脳の発達は互いに関連しているはずだ。その言葉は現実を抽象化してしまう。そのことをうっかり忘れていると、言葉に人間は縛られてしまう。言霊(ことだま)などと言われるように、言葉には魔力がある。自然があり、生命があり、人間が居て社会がある。
この本を読んで、それらのことをもう一度認識し直すことでこの世界の見え方が変わるのではないかとちらりと思った。といって、だからどうなのかというほどのこともない。世の中はそもそも私には変えられない。変わるのは私である。
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