思うばかり
昨年末に葉室麟が亡くなった。彼の本は書店で目につけば購入するようにしてきたから、たいていの本は手元にある。いつかそれを抱えて長期の湯治に行き、また読み直すのを楽しみにしている。
未読の本が数冊残っており、それを繙いて味わいながら読み進めている。一度に読むのはもったいないから、あいだに別の本を入れて読む。それも今月中には全て読了してしまうだろう。不思議なことに書店の店頭で目にしながら購入しなかった本もある。題名のせいか不思議に手が出ない本というのもあるのだ。
時代小説を読んでいると、続けて読みたくなったりして別の作家の未読既読の時代小説を引っ張り出して横に積んだりする。同じ系統の本ばかりを読み続けるような、そんなことをすれば却って飽きが来て興が削がれることが分かっているのに・・・。なにしろ気が多いのだ。
たまたま興味を引いたことについて司馬遼太郎が書いていたことを思いだして『街道を行く』を開いてみるが、読み出すときりがない。このシリーズは旅に出るときなどにその地方の部分を読み返したりするのが特に楽しい。ボンヤリそんなことを思っていたら週刊朝日の増刊で『司馬遼太郎が語る日本』という雑誌形式の未公開講演録全六巻が目についた。ざっと読み飛ばしたまま押し入れにほうり込んでいたのを少し前に引っ張り出して積んでおいたのだ。
あらためて読み始める。いったい自分は何を読んでいたのかと思うほどほとんど記憶になくて、あらためて司馬遼太郎の歴史観や価値観にひたって楽しむ。これは単行本などを読み飽きたときの合間に読むのに都合が良い、とやはり手元に積み上げる。
こうしてたちまち身の回りに本の山ができる。読む気があるけれど、読み始めるまでの気持の集中にちょっと手間がかかるものだし、読むのにそれなりの時間がかかる。集中してしまえば回りの全ては消え去り、物音は聞こえず時間の経過も忘れて没頭している。若いころはその集中がいくらでも持続可能だったけれど、最近はさすがに二時間くらいが限度となった。眼がかすんだり、肩が凝ったりして我に返ってしまう。
だから積み上げた本を読了するのは思っているほどはかどらない。思うばかりが先立つ自分に焦れている。楽しいことなのにどうしてずっと続けられないのか、自分の衰えを知らされることに腹が立つ。本に囲まれてこんなにしあわせなのにどうしたことだろう。
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