英語
寝付けない夜のために枕元に本が積んである。睡眠薬は極力飲まないようにしているのでこれが睡眠導入剤である。小説本は置かない。面白すぎると却って眠れなくなる。
いま拾い読みをしているのは周作人の『日本談義集』である。周作人は魯迅の弟、魯迅の本名は周樹人である。共に日本留学の経験があり日本のことに詳しいが、親日家としては周作人の方がはるかに日本を愛していた。
親日家にはしばしば自分の利得のために親日であることがあるが、日本の問題点をよく知り嫌な部分も含めて親日である親日家こそ親日家だとすれば、この周作人は筆頭に名前を挙げて良いだろう。何しろ頑として親日の旗を降ろさずにいたために戦後不遇の生活を送ることになるほどまでに日本に殉じたのだから。そのことでは兄の魯迅とも仲違いをしたことがある。その周作人を知る日本人がいまは少ないのは悲しむべきことである。
この『日本談義集』では親しい日本の知人達の話などは楽しいが、歯に衣を着せぬ言葉で日本を非難もしている。そして返す刀で中国の現状を憂えてもいる。中国を憂えるがゆえに日本を引き合いに出しているというところももちろんある。反面教師として語りたいのにわが国はどうしてこんな体たらくなのだ、という義憤にあふれているのである。そこに語られているのは何十年も前の日本であり中国なのだが、まさに現代の日本であり中国でもあることに驚く。
その中の文章を(私が)意図的につぎはぎして以下にお目にかける。
革命家が文学革命を主張して、文人は国語改造の責任を分担させられることになったが、新文体(ここでは口語体の文章のこと)を作り出すことは出来ても新名詞(新しい言葉のこと)をこしらえる力は知れているので、その大半は新聞人の仕事ということになる。ところが世の新聞人は、教育家と同様、大抵みな低能気味であって、したがって成績は余りかんばしくなく、ときには虫酸の走るような俗悪ぶりさえ発揮する。
われわれの東隣の文明先進国たる日本も、この点にかけては、たいした進歩を示していない。十七、八年前の文学上の自然主義という名称などは、道学者の反対のお蔭で俗化し、後にはほとんど野合の代名詞にまでなって、ここ数年に至りようやくすたれるありさまだ。
一方、英語の音訳だけの新名詞がにわかに幅を利かせ始めている。立派に使える自国語がありながら英語が唯一の正統でなければならぬとは、実に不可解な話で、英文は修得したが頭はしどろもどろであるとか、教育は受けたが一向に教養がつかぬといった日本のためしは、前車の轍としてよくよく注意せねばなるまい。
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