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2018年5月 7日 (月)

言論批判

 かつて言論統制は権力者が行った。いまは、少なくとも日本では、自由にものを言うことができることになっている。しかし昨今の状況を見ていると、自分の意見を自由に語るとネットで必ず批判がある。そしてマスコミはそれを取りあげて尻馬に乗る。マスコミ自身が言っていることではない、世間の人がみなこう言っている、という取りあげ方である。

 自由にものが言えるのであれば、それを批判するのも自由ではないかと反論されれば、いかにもそうかとつい思いかねないが、よく考えれば、最初の意見は、あるものごとについての自分の考えの表明である。しかしそれを批判する人の意見は、しばしば批判している人の考えというよりも、語られた意見の言葉尻の是非についての意見であることが多い。

 たとえば、「そういう意見は男性上位、男性優位の思考からきているから問題だ」、といったものや「それを擁護するのは暴力を肯定するということか」というものや、「差別を肯定するのか」というのがしばしば批判として散見される。それが善悪に還元されて批判されていることが多いのである。

 確かに過去普通に見過ごされていたことも、現代の価値基準に照らしてみれば問題であるということは多い。さまざまな批判が積み重なってようやく世の中が変わっていくものであることも承知している。

 大向こう受けを狙って突拍子もないことを言ったり、わざわざ批判を呼び込むために偽悪的に語るものもいるし、本当に間違っているとしか思えないこと、根拠のないウソを言う者もいるから批判は大事である。

 しかし批判を浴びせられている意見というのが、しばしばものごとの見方を白か黒かの善悪の問題としてではなく、総合的に考えたことを語ることばであることがある。こういう見方もあるよ、という新しい切り口を呈示している場合にしばしば批判が寄せられる。ものごとを善悪としてばかり見る見方に囚われていると、「悪を肯定しているから私がそれを指摘し、たださなければならない」、という義憤に駆られて批判しているようだ。

 人は自分の意見を語っているようで、実は誰かの口まねをしているだけであることがある。私も語ることの多くはその傾向があることにときどき気がつく。それでも、なんとか自分でそのことを自分なりに考えた上で賛同して言うように心がけているつもりだ。  

 相手の言っていることを十分聞かずに、正義の名のもとに批判のための批判だけをしているものが目につくのである。それは自由に物を言う気持を萎えさせる。それがエスカレートしていけば、それは大衆による言論統制ではないか、などと心配になる。公序良俗を推進した果ての世界を描いた『図書館戦争』を連想するのは考えすぎか。

 批判が自由に物を言うことを封じ込めることにつながるような批判になってはならないと思うが、マスコミの過剰な自主規制にその気配を感じている。マスコミは正義の名のもとの批判をもっとも恐れているようである。

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コメント

「差別」と言う言葉で、言論封殺したり利権を得たりということも少なからずあったようです。
そろそろ、民族・国籍・同和などもう少し自由に話せる環境にしないと逆に差別が続く気がします。

けんこう館様
過剰な言葉の縛りは却って差別を強く意識させてしまうところがあるような気がします。
ハンディのある人にはハンディがあるからこそ強く生きている人と、ハンディを特権だと勘違いしている人とがいますね。
強く生きている人に出会うと感動します。
そのときに初めてハンディとは何かをこちらも実感します。
そういう経験をしたことがあります。

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