曽野綾子『夫の後始末』(講談社)
人はどうしていいか分からないことにしばしば直面する。こうすればこうなるだろうという自らの経験や、こういう場合にはこうするとこうなり、こうしないとこうなってしまうという見聞きした知見があることなら、それを思い出せば対処法もある選択肢から選べば良いという安心感がある。それすら知らないからうろたえるというのは大人ではない。
ある程度の知見を持ち合わせ、想像力を働かせることが出来れば乗り切れることは多いものである。賢い人は想像力をめいっぱい働かせて、不測の事態は必ずあるものだと覚悟してそれに備える。それは人生に対して臆病ということではなく、よく生きるための当たり前の備えであろう。
曽野綾子はそういう意味でさまざまの経験を活かし(なにしろ普通の人が経験できないような経験をあえて山のようにしていることは御承知の通りである)、想像力も人一倍働かせて生きている人だと思う。さいわいその生き方を文章にしてくれているからそれを参考にすることが出来る。彼女の経験は多少は私の記憶に残り、それは私の選択肢を選ぶときの参考にできるのである。
老いと死は人間に必ずやってくるもので、彼女もそれを覚悟しそれに備えていた。それは夫の三浦朱門が倒れ、次第に衰え、介護が必要になり、ついに黄泉路に旅立つということで現実となる。そのときどうするのか夫婦ですでに語り合っているし、彼女は生活を夫の介護に全面的に集中していく。
自宅介護を引き受けるということがどういうことか、実際にやったことのない人には決して分からない。たまたま母と同居していた弟夫婦が引き受けて、寝たきりになった母の自宅介護をした。私もその手伝いをしたので少しだけ分かっている。
この本にも書かれているが、自宅介護で一番大変なことは、排泄の処理である。人は生きていれば必ず排泄する。点滴で生きていても排泄がある。それを日々処理することを経験しないものに介護の実際は決して分からない。人にはできることとできないことがあって、できない人はできる人の苦労を感じることができないのは不思議なほどである。
曽野綾子は夫の三浦朱門の両親、そして実母を自宅介護して最期を看取っている。生半可の覚悟で出来ることではないのである。そして今度は自らの夫である。
この本では彼女たち夫婦が人生の最後の締めくくりをどうするか話し合ったこと、夫の不調、そして夫が倒れてから、その死を看取るまでの日々が淡々と語られている。それは誰にとっても人生の最期の迎え方の参考になるはずだ。
夫の死後、家の中の物を処分したあと、空間が一気に増えたその家の中で、彼女が感じた喪失感はたぶん彼女が想像していたものよりはるかに大きかったのだろうと思う。仁王立ちのように自立していたと思っていた彼女が、つっかえ棒を失ったように心がよろけている様子が見える。そのことに胸が熱くなった。互いがかけがえのない存在であったことを噛みしめる彼女は、夫もしあわせだっただろうと心から思うのである。こういう大人の夫婦の関係を心からうらやましく思った。
どうしていいか分からないことをどう受け止めて乗り越えるか。伴侶の死もその一つか。
« 内田樹『日本の覚醒のために 内田樹講演集』(晶文社) | トップページ | 映画『ある海辺の詩人 小さなヴェニスで』2011年イタリア・フランス »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 『パイプのけむり』(2024.09.13)
- 戦争に当てる光(2024.09.06)
- ことばと文字(2024.09.05)
- 気持ちに波風が立つような(2024.09.02)
- 致命的欠陥(2024.09.01)
コメント
« 内田樹『日本の覚醒のために 内田樹講演集』(晶文社) | トップページ | 映画『ある海辺の詩人 小さなヴェニスで』2011年イタリア・フランス »
おはようございます
この人よりも同時代の有吉佐和子さんの方が好きなのですが、この人も結構凄まじい人生を送っていますね。
彼女の文章にはそれがありありと見えます。
短命だった有吉佐和子さんと彼女が違うところは、彼女の方が様々な経験をしている分文章に深みがあるということでしょう。やはり経験が文章の肥やしになるといういい例ですね・・・。
では、
shinzei拝
投稿: shinzei | 2018年5月29日 (火) 06時30分
shinzei様
有吉佐和子の本は数冊しか読んでいませんから、比較して語るほど知りません。
曽野綾子は自分の実体験をベースにものを考えますから、とても分かりやすいと思いますが、どういうわけか左方面の人は毛嫌いする傾向があります。
たぶん全く読まずに批判しているか、思い込みを前提に読んでいるかではないかと思ったりしますが、そう思う私はたぶん左方面の人には正しく世の中を見ていないとおしかりを受けるのかも知れませんね。
投稿: OKCHAN | 2018年5月29日 (火) 09時33分
「無名碑」や「コルベ神父」、「誰がために愛するか」など昔、若い時に曽野綾子さんの本は沢山読んだことがあり、特に上記の本は心に残るものがありました。ただし最近は本からの印象がなく、むしろ政治的発言の方で印象に残っています。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/4709/trackback
本の内容と政治的立場は別物でしょう。政治的立場は異なっても「座右の銘」を頂いている方は沢山います。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/276/trackback
『…多面的な把握が必要と観念的にはいいながら、潜在意識のレベルでは、敵味方の判別しかできない。』 という野口さんの警句も自戒の言葉の1つです。
投稿: Hiroshi | 2018年5月29日 (火) 13時19分
Hiroshi様
観念という色眼鏡で見ていると白でなければ黒という見方になりがちですね。
そういう色分けはしないように気をつけたいと思っているのですが、逆にあることに共感したために色眼鏡で見られてしまうという経験をしたこともあって、それに反論したためにますます色づけされたりしました。
あまり極端な人は相手にしないに限ることを学びました。
投稿: OKCHAN | 2018年5月29日 (火) 14時33分