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2018年5月24日 (木)

バカの壁

 数独パズルをしているが、いくら考えても何度チャレンジしても解けない問題というのがある。もちろん正解はあるので、解けないのは私の能力の問題である。しかしそういう問題にチャレンジを続けていると、突然新しい解法を見つけ出すことがある。なんだか目の前に立ちはだかっていた壁が取り払われたように出口が見えて、いままで解けなかった問題が解ける。だがそんな壁は次々に現れて、盛り上がった気持を阻喪させる。

 学ぶということはそういうことかといまさらながら思う。パズルからそんなことに気がつく自分を笑うけれど、チャレンジするから気がつくのであって、そのことに意味がある。

 子どもはしばしばどうして勉強なんてするの?と問う。そんなこと勉強してなんの役に立つの?と問う。これに真剣に答えようとする大人がいて嗤ってしまう。子どものこの質問はたいてい勉強が嫌だからしている質問で、答えなど求めていない。求めているような顔をしているのは困っている大人をからかっているだけである。

 それが分かっているから私はそんな質問など大人に投げかけたりはしなかった。しなかったと思う。だいぶ昔のことなので忘れた。それに昔の親や教師はそんなこちらの魂胆はお見通しで、怒られるのがおちだったろう。変なおためごかしはなかったのである。

 世の中は分からないことだらけである。分からないことが分かるようになるためには学ばなければならないし、学んだことから考えなければならない。そうすることで分からなかったことがほんの少し分かることもある。自分のバカの壁が少しだけ崩れて向こうが見える。しかしその向こうにもまた壁がある。

 どうして勉強しなければならないの?と問うことには、すでに学ばなくても十分分かっているではないか、という傲りがある。自分が何を知らないか、そのことが解っていないことがどれほど愚かなことか気がつかない。まあそれで本人がよければそれでかまわないようなものであるが。

 こんなこと勉強していったいどんな役に立つのか。たいてい生きていく上でほとんど直接的には役に立たない。大いに役に立つのは算数と国語の初歩くらいなものか。人生に一度でも役に立てばそれは極めて珍しいくらいなことである。知識などせいぜい他人に対して優越感を持つ材料くらいにしかならない。

 それでも学ぶのは自分のバカの壁を少しでも崩すためである。崩した先にまた新たな壁があり、それは果てしないが、壁が崩せることを知るだけでも学ぶ意味があるし、新たな壁を破るためには古い壁を壊し続けるという積み重ねが絶対に必要なのである。

 同じことをスイスイと理解している人を見ると私のバカの壁は他のひとよりも厚く頑丈らしく思えて、情けない気持がすることが多いけれど、知りたいと思うこと、分かりたいことがあるだけ生きている意味がある気がしている。

 これは自分を励ますために書いた。

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コメント

>どうして勉強なんてするの?

東大の先生が書いた、『「文系学部廃止」の衝撃』という本の中に、ためになる教育・学習には2つの次元があるとありました。1つは「目的遂行型」でもう1つは「価値創造型」。ただし、目的遂行型は「目的」が替われば役に立たない。特に今の時代はその「目的」が将来も成立するか誰にも分からない。一方の価値創造型はその教育・学習が新しい価値を創造できるかどうかも誰にも判らないと。

それに関して、思い出すのはS.ジョブズのスタンフォード大学の卒業式での「伝説のスピーチ」とよばれるものです。彼は上記の問について、明確に彼なりの解答を与えています。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=8&v=nb15bjoCf1k

すなわち、教育・学習が必ず将来自分の未来を支えてくれるという「信頼」が必要だと。たとえ今の時点では個々の教育のどれが役に立つのかは判らないが「信頼」が必要だと。曰く、

“You can’t connect dots looking forward --- So you have to trust dots somehow connect your future.”

このセンテンスが今でもリフレインします。

Hiroshi様
「勉強しろ、というのはお前のためになるから親心でいうのだ」、というのが常套句のようですが、「そんなこと私の勝手だろ、別に勉強せずに損をしてもかまわない、食うだけなら世の中なんとかなるから」と返されると親は返事に窮するようです。
そうやって開き直った子どもの面倒を親は一生見ることになりかねません。
人生の経済的損得を学ぶことと等価に考えると、子どもは学ぶことは労働と同じような労苦と考えることになるようです。
せっかく大学に入ったのだから遊んで暮らそう、という学生がだくさんいるといいます。
ようやくお仕着せでなく、自分の学びたいことが学べるようになったのに、もったいないですねえ。

おはようございます
私も子供の頃は理屈っぽかったせいかこうした「勉強して何になるのか?」という疑問を親や教員に発し煙たがれていました。
しかし、中年の入り口に立ってみて、日々の読書からつくづく「あれを学んでおけばよかった。これもそうだ」と後悔の毎日です・・・。
「後悔先に立たず」と言いますがまさにそうでしょう。
では、
shinzei拝

shinzei様
大人になると、仕事以外のことはやりたいことだけやれるようになるからしあわせですね。
その中で必要と思うことはいまからやれば良いと思います。
何ごとも遅すぎることはないでしょう。
自分の興味が意外な方向に向いたりして面白いです。
捉われすぎないことでしょうね。

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