『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録愛蔵版Ⅴ』(朝日新聞社)
ロシアについて語り、防衛について、医学について、建築について、土佐について、芭蕉について、そして台湾について語る。
それぞれに関連する事柄を次々に呈示して見せ、そこから司馬遼太郎がなにを感じ、なにを考えたのか、それが語られているのである。しかし発せられることばは、知っていることをただ伝え、それについての感想を述べているのではない。
なにかが語られるとき、そのことに共感したり敬意を感じたりするのは、その伝えられた内容の濃度や量ではないのである。それらが語る人に取り込まれ、咀嚼され、その他の多くの事柄と関連づけられ、それを付け加えた上での世界観のもとに自分のことばとして発せられているから共感や敬意を感じるのである。
若いころは司馬遼太郎が語ったことばをそのままなるほど、と思うことが多かった。彼の世界観を基準に歴史を読み、歴史の遺構を尋ねて感慨をもったりした。しかし彼の本だけを読んでいるわけではない。ようやく司馬遼太郎と自分は違う人間であることに薄々気がついた。だから彼の語ることばに共感もするけれど、時に違う思いもようやくこの歳になって抱けるようになった。
違うことを知るには一度シンクロするという作業が必要なのかも知れない。そしてささやかで出来損ないではあるが、自分独自の世界観を再構築する。誰かに、そしてなにかに学ぶということはそういうことかと思う。
司馬遼太郎が講演して語ることばは彼が世界をどう捉えどう感じどう考えているかの表明である。つまり語られることによって語っているのは司馬遼太郎自身である。私流に言えば司馬遼太郎の自己紹介である。
以前私が、私のブログは私の自己紹介だと書いたら、自己主張ではないかと指摘されたことがある。私は自己紹介だと思い、その人は私の自己主張だと思っただけのことであるが、そのように受け取ったというのが私の受け取り方で、それについてここにそう書くのは、自分とはそう受け取る人間だということの表明にほかならない。
この巻では特に台湾についての部分にさまざまな思いがあった。台湾は好きな国で、五回ほど(もっとか)行った。その好きな国が中国によって不要(中国にとっては不要どころではないらしいが、私には中国の度量のなさしか感じない)な苦労をしているが、それにめげずに頑張っている。中国による不要な苦労をすることが、台湾の人々を覚醒させ続け、鍛え上げているはずだと思いたい。
日本と同様かそれ以上に天災の多い国でもある。互いに助け合うことで不遇を乗り切ってもらいたいものだと思う。そして司馬遼太郎が李登輝を敬することに強く共感する。それだけ偉大な人物だからこそ中国は彼を畏れているのだろう。そういう意味では中国も正直な国なのかも知れない。
次のⅥが最終巻である。何年かあとにまたもう一度読み直してみたい気もするがその機会があるかどうか。
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