どうしてうるさいのだろう
陽気が好いのでベランダを開け放ち、反対側の北の窓も開けると風が通って快適である。こんな気持ちの好い時期は短いのが残念だ。マンションのすぐ近くに幼稚園があり、ベランダに出れば建物とグラウンドを見下ろすことができる。ベランダ側を開けていると園児たちのかん高い歓声が良く聞こえる。
これがうるさいと感じる人もいるという。私も体調が悪いときなどに耳につくことがないではないが、よほどのことでなければうるさいとは思わない。それより先生がマイクを使うことがあって、そのときは少々うるさい。
子どものとき祖父母の家に良く泊まりに行った。小さな路地を挟んだ向かいがピアノの先生で、いつもピアノの音が聞こえていた。先生が弾いているときはまだいいが、生徒が弾くたどたどしい音はもどかしい思いがした。でも祖父母も私もうるさいとは思わなかった。祖父母は音楽にほとんど興味が無く、テレビで歌謡曲がかかってもたいてい消してしまう。唯一祖父は島倉千代子が好きで、そのときだけは消さなかった。
祖母は島倉千代子にヤキモチを焼いていた。二人はとても仲が良かったのである。たまたま中学生時代に祖父母の家でビートルズの来日のニュースを見た。ビートルズはやかましいものだ、と思い込んでいた祖父母、そしてその影響をまともに受けていた私は、そのとき初めてビートルズの曲を聴いた。「あんまりやかましくないな」と祖父が言い、祖母も私もうなずいた。
ビートルズがやかましいと思い込んでいたのは観客の喚声がやかましいためであったことを知った。それらのことを思い出すと、騒音とは何だろうと考えてしまう。
以前、わが家の上の階の住人の立てる物音が耳について気になって仕方がなかった。なにしろ戸の開け閉ての音や歩き回る音が切れ目なく続いていて、情緒不安定な人ではないか、などと想像していた。生活音は仕方がない、私だって物音を立てている。それなのに気になるのは自分の精神が不安定なのか、などと思ったりしていた。
一年ほど前に上の階の住人は転居し、しばらくあとに別の人が入居した。静かなときには同じように物音がする。ところがそれが全く気にならない。明らかな違いがあるのである。物音が連続しないのだ。歩き回る音がしてもそれは用事であり、済めばまたしばらく静かになる。扉の開け閉めの音も一度したらそれきりである。つまり当たり前の生活の音として理解可能なのである。そして以前の住人は、何をしているのかといぶかりたくなるような、理解できない物音の連続だったのだ。
音に囚われてくると、何か自分に悪意があって立てている物音ではないか、などと考えだす人もいるかもしれない。自分に囚われやすい人は、自分がわずかでも不快な気持になると、誰かの悪意だと感じてしまうのだろう。そうなるとそのことだけに神経が集中するからますますそれが増幅して感じられ、悪意も強く感じてしまうのだと思う。
日常にはさまざまな騒音があふれているのにそれが気にならず、特定の音だけが気になり出すのは危険な兆候かも知れない。そのためにこらえ性がなくなって思い込みが起こりやすい年寄りはだんだん耳が遠くなるようにできているのか、などとボンヤリ考えた。
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環境の許容範囲も個人差があり、なかなか難しいですね。
私の子供の頃、夜はほんとうに静かなところでしたが、今は隣の声・車の音などが聞こえるようになってきています。でも、豚や牛の糞の臭いがしない今のほうが、私は住みやすく思ってます。(笑)
投稿: けんこう館 | 2018年5月 1日 (火) 10時33分
けんこう館様
街中を歩いていても駅のホームでも電車に乗っていても、とにかくにぎやかです。
すでに当たり前の環境として慣れてしまいましたが、昔の人が聞いたらずいぶんうるさく感じることだろうと思います。
現代は沈黙の方が苦手な人が増えている気がします。
自分と向き合う沈黙の時間は大事な時間ですが、それが苦手な分だけ神経は外部にばかり向かってしまうのかも知れません。
投稿: OKCHAN | 2018年5月 1日 (火) 10時39分