森博嗣『集中力はいらない』(SB新書)
私はむかしから人生の要諦はコンセントレイションだと考えてきた。集中力こそ私がさまざまな困難を乗り越えるときに私を助けたものである。私はそれほど能力が無いのを自覚している。繰り返しそれを思い知らされ続けたからだ。しかしそれでも人生にはそのときの自分の能力を超えた課題をクリアしなければならないことはある。そのときに火事場の馬鹿力のように私を助けたのは集中力だ。
そしてその集中力を常に意識しているからこそたぶん人よりも集中力があると自負もしている。ただし集中しているときはエネルギーもたくさん使うからあまり持続させることができない。疲れるのである。集中が持続する人はよい仕事をするし、その結果としてさらに高いレベルに自分を引き揚げることもできると私は考えている。だから歳とともにこのごろその集中力が落ちていることを感じると、とても哀しいのである。
そんな私が書店の店頭でこの本を見つけたのである。「なにっ!」と思うわけである。そのときこの本を無視しないところが物好きといえばいえるか。森博嗣といえば推理作家として知っている。息子が一時期よく読んでいて、「読む?」と聞かれたけれど、どの本もみな分厚いので断った。息子が読むくらいだから面白いに違いないのだけれど、下手にはまったら他の本が読めなくなる。同様に手を出すのを控えているのは東野圭吾だ。
略歴などを見ると、森博嗣は愛知県生まれの工学系の大学の先生が本業だったらしいが、途中で作家が本業になり、著作も驚くほど多い。一日一時間執筆し、二週間程度で本を一冊書き上げるのだそうだ。内田樹老師と同様、地頭(じあたま)が良いのだろう。うらやましいことである。それなのに「集中力はいらない」とはなんたることか。集中しないでそんなことが出来るはずはなかろう、と思うではないか。
「とらわれ」、「こだわり」は内田樹老師のいう武道の「居付き」である。頭や体の働きを著しく損なってしまう。そのことは現実世界を見ていればよく分かる。なにかにこだわっている人、なにかにとらわれている人の硬直した言動は自分ばかりではなく、社会すら損なうことが多い。ある野党の人の顔がいくつか浮かんだが、これは私の考え方によるものだから置くとして、「とらわれ」「こだわり」は私の嫌うところであり、知的な人ほどそのことをよく知っている。知的であるかどうかを測るときにこのことを基準にしていい。
前置きが長すぎたが、つまりこの本の「集中力はいらない」ということばはそのような「とらわれ」「こだわり」は頭の働きを阻害するだけであると云うことが言いたいのだと私は受け取った。同時に著者は集中力が特段優れているからそもそも集中しようと思わずにひとりでにそれが出来ている人なのだと思った。だから執筆も10分くらいしか続かず、こま切れで一日合わせて一時間しかできないという。それはそれだけ集中すれば疲れるだろう。とはいえ10分で少なくとも原稿用紙数枚を書くというのだから集中していないわけがなかろうと私などは考えるのである。
ものを考えるとき、さまざまのなことを並行して考える方が、ひとつのことだけ考えるより答えを導き出せることはしばしば経験することである。それを著者は分散思考とよぶ。私は本がたくさん読めるときは数冊同時並行して読んでいる。エンターテインメントなら一冊を一気に読むこともあるが、たいてい並行して何冊も読み、飽きたら別の本を読んでいると、結局ずいぶんたくさん読んでいる。そして全く関係ない分野の本同士が不思議に関連して共鳴したりするときの快感はめったにないことながら至福のときでもある。
そういうこともあるから、あるひとつに集中しないこと、集中を最高に大事なことと言い立てる「集中力信仰」に反論したいという著者の言い分は了解する。しかし、帯にあるような「だらだらするからうまくいく!」という経験は私にはあまり覚えがない。やはり「集中力はいる」と私は言い続けるだろう。
« 言わないけれど言っている | トップページ | 追い詰める »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 『パイプのけむり』(2024.09.13)
- 戦争に当てる光(2024.09.06)
- ことばと文字(2024.09.05)
- 気持ちに波風が立つような(2024.09.02)
- 致命的欠陥(2024.09.01)
コメント