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2018年7月

2018年7月31日 (火)

姨捨(おばすて)

宿泊した上山田温泉から近いので、日本三大車窓絶景といわれる姨捨駅に行ってみた。


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駅前にて、長老と兄貴分の人。この駅は無人駅だと思って、勝手に改札を抜けて下界を見下ろせる反対側のホームへ行ってみる(あとで駅員がいることを知った)。

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千曲市と棚田。

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千曲市と千曲川。

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月夜に棚田を見れば田毎(たごと)の月を見ることが出来る時期もある。もう稲が育ちすぎたか。

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地図によれば、ここから聖高原に抜ける道があるようだ。

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急坂を登っていくと、聖(ひじり)高原に至る。聖湖でヘラブナ釣りをする人。風はさわやかだが日差しは強烈。ここから麻績(おみ)に抜ける。

前日、坂城(さかき)の「鉄の展示館」(人間国宝の刀匠・宮入行平一門の作品が展示されている)を見学。兄貴分の人は日本刀が好きで、とても詳しい。そのあと坂木宿(坂城は昔坂城でそのあとずっと坂木、明治以後ふたたび坂城となった)「ふるさと歴史館」を見に行く。ここは信州村上氏の関連の資料が展示されている。個人所蔵だったがいまは坂城の町に寄贈されたそうだ。村上氏は上杉側について、武田と上杉の攻防に深く関係していた。あの村上水軍の発祥の地が、信州とは知らなかった。

広瀬隆『カストロとゲバラ』(インターナショナル新書)

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 自分がどこにいるのか知るために、そして目的地を目指すためには地図が必要である。その地図を見るために重要なことは現在地の表示である。観光地などの地図に現在地のあいまいなものがしばしばあって、驚くし腹も立つ。

 自分がどこに立って世界を見ているのか、そのことを常に意識していないと、他のひととの見方の違いについて感情的になる。どの方向から世界を見ているのか、それによって世界は全く違う様相を見せる。

 三年前にキューバに行った。たった十日足らずの旅だったし、ガイド付きのツアー旅だからほんとうのキューバを見て来たとはいいきれないけれど、見るべきものは見たつもりだし、ささやかながらキューバについて知識を仕入れていった。

 学生時代に観たオマー・シャリフ主演の映画『ゲバラ!(原題『Che!』)』で、キューバ革命についてはかなり強い思い入れがある。そのキューバのイメージがそのまま凍結されて現代までつづいているのは、キューバにとって幸せでもあり、とても不幸なことでもあった。アメリカの理不尽な経済封鎖により、何十年も貧しいままであるからだ。

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 貧しいことは不幸せであるかも知れないけれど、そのことによって貧富の差がほとんどない社会が維持されている希有な国でもある。皆が貧しいから貧しさに対する恨みが少ないといえるしそのことの原因はキューバ政府ではなく、アメリカにあると国民皆が承知しているから、その恨みはアメリカに向けられている。

 貧しい国ほど独裁者は御殿のような家に暮らしている。ところがキューバでは権力者が清貧を貫いているのは驚くべきことだ。これはゲバラの精神が生きているからである。

 この本ではキューバの国の立場からキューバの歴史、キューバ革命の必然性、その後のアメリカのキューバに対する行動、そしてキューバ危機、さらにソ連とアメリカに翻弄されながら孤高を保ち続けたキューバという国について書かれている。アメリカに亡命したキューバ人も数多い。彼らの立場から見れば全く違う世界観があることだろう。

 中南米に対してアメリカがなにをしてきたのか、そのことを本で読んだことがある。中南米の多くの国ではアメリカは憎まれている。それには明らかな原因があって、そのことについてこの本にも詳細に書かれている。日本人の多くが知らないことで、アメリカに幻滅するかも知れない。

 今中国がアフリカなどの独裁者の国に支援して支配的に関与していると非難されているが、ほとんど同じことをアメリカは中南米で行ってきたのであり、そのことでアメリカの財閥や権力者が肥え太ってきたことは歴史的な事実でもある。なぜアルゼンチン生まれのゲバラがキューバ革命に参加したのか、そしてなぜボリビアで死んだのか、そのこともすべて関連のあることである。

 著者の視点はキューバにある。だからキューバについて知らないと違和感があるかも知れないが、無理に抵抗せずに全体を読み通してあらためて考え直してみて欲しい。世界の見え方が大きく変わるかも知れない。中身が濃いとはいえ新書だから読み通すのはそれほど大変ではない。是非読んで欲しい本である。

 私が現地で知らされたキューバ人が嫌う国として、アメリカ、韓国の名がしばしば上がっていた。最近は進出著しい中国にもいささか反感を持っているようだ。私が日本人だからリップサービスであろうけれど、日本に対しては好感をもっているようだ。実はゲバラは日本贔屓であり、日本を手本にしてキューバを工業化し、再興しようと考えていた。日本にも複数回訪れているのだ。そのことが巷間に結びついているのかも知れない。キューバが訪問しやすくなって最も急増しているのが日本人観光客である。ちょっと遠いけれどいまならキューバの好いところを見ることが可能だろうから一度行ってみることをおすすめしたい。自分の現在地を確かめてみて欲しい。

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2018年7月30日 (月)

安達太良山

長老が二日目の宿を福島県の岳温泉にとったので、宿に入る前に安達太良山に行こうということになった。この周辺には来たことがない。安達太良山にはロープウエイがあるというが、どこが登り口なのかもよく分からない。ナビの検索もどうも明確でない。手持ちの地図を頼りに走ったら、さいわい迷わずにロープウエイ駅に着いた。


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ロープウエイの上の駅に着いたが木ばかりで見晴らしは全くきかない。安達太良山登山口方向に少し登ると開けたところがあり、「これがほんとの空です」という木標が立っている。高村光太郎の『智恵子抄』の、「都会にはほんとうの空がない」という智恵子のことばを下敷きにしたものである。智恵子のふるさとからは安達太良山が見えたらしい。

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安達太良山山頂方向は雲がかかってよく見えない。かすかに安達太良山の特徴である乳首のような突起がのぞいた。

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兄貴分の人が岩に乗っておっかなびっくり下界を見下ろして写真を撮っている。

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下界の二本松の街の方向。右下にロープウエイのゴンドラが見えている。

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もう一度山頂方向を振り返るが、逆光の上に雲があって残念な写真になった。この場所は1300メートルくらいか。気温25℃くらいで、下界よりは涼しい。

麻宮(まみや)ゆり子『碧と花電車の街』(双葉社)

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 名古屋を知らない人でも楽しめると思うが、名古屋の大須界隈を知る人ならこの本は格別楽しめるだろう。私は東京なら浅草が大好きである。いまでも年に一度は行く。そして大須界隈は名古屋にあって、まさに小型の浅草界隈であり、以前はほとんど月に一度はうろついた。浅草に浅草寺があり、仲見世があるように、大須には大須観音があり、万松寺通りがあり、大須観音通りがあり、仁王門通りがあり、さらにアメ横まであるのである。レトロさと猥雑さと人混みとが人なつっこく、妙になつかしい場所で、ウロウロしたくなるのである。

 この物語では昭和20年生まれの主人公の少女・碧が、13歳~18歳の多感な時期に大須の街に暮らして体験するさまざまなことが記されている。それは彼女と彼女の回りの大人たちの話であると同時に、その時代の世相をリアルタイムに語っているのである。まさに急激に変化しつつあったその時代は、私にとってもなつかしいものである。あの映画『三丁目の夕陽』の舞台が名古屋の大須であると言えば分かりやすいだろうか。

 彼女とある人との別れの場面では、不覚にも涙があふれてとまらなかった。正直言って文章になじむのに最初は少し手間取った。しかし描かれている世界にはまり込むといままでになく集中した。この本を読んだら同じところであなたも泣くと思う。読み終わってみれば読んでよかったなあと思う本であった。

 エピローグでは大人になった彼女が登場する。なつかしい人たちとの再会が我がことのように嬉しい。そして彼女の成長を心から喜ぶ人たちに親近感を覚える。こんなふうに成長できた彼女は本当に幸せ者であるが、よく考えると昔はこれが当たり前だったような気がする。

2018年7月29日 (日)

吾妻小富士

ずいぶん久しぶりに吾妻スカイラインを走った。学生時代(大昔)、大学の寮にバイクツーリングのグルーブがあって、私は写真班としてときどき同行させてもらった。私はバイクに乗れないので、いちばん大きめのバイクに乗る先輩の後ろに乗せてもらうのである。


その先輩のバイクでも吾妻スカイラインの急坂を、私を後ろに乗せて登るのは大変らしく、ほかのバイクに遅れがちになる。先輩は舌打ちしてから「おりろ」などと怒鳴ったが、そんなところで下ろされてはかなわない。むかしから私は大きくて重かったのだ。先輩のことばはもちろん冗談だが、なつかしい思い出である。白黒で写真を撮り、それを自分で現像し、寮のボロ引き伸ばし機で焼いた。その写真をスクラップブックに貼り、キャプションをつけて寮で回覧した。そのスクラップはいまでも私のなつかしい宝物として残されている。

吾妻小富士前で休憩。私だけ吾妻小富士に登る。

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それほど急な階段ではないが、石がゴロゴロしているのでとても歩きにくい。ここは二三度登っているので、一気に登れることは分かっている。

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上から見下ろす。高いところはとても気持ちが好い。ほかの二人はちゃんと登っているかどうか下で見ていたそうだ。私は目立つのでどこにいるかよく分かったと言っていた。

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吾妻小富士の火口の淵に立ち、噴火口をのぞきこむ。きれいな形をしている。周囲をぐるりと回れるけれど、今回は勘弁してやった。

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吾妻の山々の一部が見える。

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いまも活発に噴気をあげているところもある。直射日光は暑いが、山頂は涼しい風が吹いていて快適だ。その風に硫化水素の臭気が混じる。

蔵王・お釜

今朝の名古屋は昨夜の台風の吹き戻しの風が吹いているものの、台風一過の青空である。台風は南へ逸れたので三重や奈良などに大雨大風を残したが、こちらは心配したほどのことはなく済んだ。


旅行の話に戻る。

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蔵王のお釜を見に行く。ここには何度も来ている。初めて来たのは大学一年生のときだから、ほぼ五十年前になる。そのときはワンゲルのサブリーダーだった先輩に、新入部員歓迎登山の一行に加えてもらったのだ。新入部員は訓練のために余分な重量にしたリュックを担がされていたが、私は入部はしないと先輩に言っていたので軽装が許された。

土曜日の朝、山形県側、ロープウエイ乗り場のダリア園前から登山を開始し、途中大学のヒュッテに一泊しての蔵王連峰縦走行だった。あの頃は体力があったから、山歩きがつらいなどとは全く思わず楽しかった。

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刈田岳山頂に近いレストハウス前に車を置き、お釜を見に行く。学生時代の縦走は四月末だったから雪が残っていて、馬の背の急坂をシートで滑り降りた。

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展望台からお釜を見下ろす。雲が出て来た。いつもならずっと下まで歩いて下りるのだが、長老も兄貴分の人もここでいいという。風がひんやりしてとても気持ちが好い。レストハウスで見た気温は21℃だった。猛暑の中、生き返る心地がする。

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刈田岳山頂にある蔵王権現神社奥の宮。誰も登ろうとしない。それに雲がどんどん湧いてきて見晴らしも悪そうだ。

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雲がたちまちお釜を蔽う。うまく見ることができて幸いであった。

2018年7月28日 (土)

秋保大滝

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宮城県仙台の西に秋保温泉がある。ここもいまは仙台市内、秋葉区である。この温泉の近くに秋保大滝があるから寄ろうと兄貴分の人が言ったので立ち寄った。途中標識をひとつ見逃してしまって少しウロウロした。見逃すような標識ではないので、話に夢中になっていたのかも知れない。


大きな駐車場の横に秋保神社があり、その横手すぐ奥の高台から秋保大滝が見下ろせる。

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秋保神社。

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秋保大滝は高さが55メートルというからかなり大きい。

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姿の良い滝らしい滝である。上部の岩がなかなか見応えがある。

この見晴台から0.8キロ歩けば滝壺まで行けるそうだが、かなり高低差がありそうだ。いつもならさっさと行く長老がやめておくというので私もやめた。もちろん一人で来たとしても行かない。この暑さで下りた道をふたたび登ってくることを思うと行く気にならないのである。

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神社には絵馬がたくさん掛かっている。字が読めないほど古いものもそのまま掛けてあるのがなんとなく好い。

ウロウロしたので夕刻になり、この日はそのまま作並温泉の宿に向かった。

日常がまた始まる

 昨夕刻、十歳年上の長老、五歳年上の兄貴分の人との三人旅を終えて帰宅した。年齢は多少離れているが、長老が一番元気であるし、兄貴分の人が何ごとにも積極的でしかもうるさ型なので、外見はほとんど同じくらいの年齢の老人グループに見えたかもしれない。

 私は、今回は運転手に徹して、金銭的な面も含めてすっかり長老と兄貴分の人に世話になってしまった。しかし鈍感で気の利かない私もそれなりに気は遣ったので、いささか疲れないことはなかった。疲れたのは、日頃が清貧閑居して暮らしているから、それとのギャップが大きい、少し贅沢な日々であったことも影響しているのかも知れない。

 とはいえ、世界観が近いし知識がとても豊富な二人なので、話をしていても何がいいたいのか即座に分かり、なにか言っても撃てば打てば響くように答えが返ってくる。特に兄貴分の人は日本の歴史にとても詳しく、記憶力も良いので、地名に関連した歴史の蘊蓄が滔々と語られて飽きることがない。実に楽しい、中身の濃い時間を過ごすことが出来た。

 昨年は兄貴分の人が体調を崩し気味で、三人旅はなかった。再開は大変嬉しい。長老もご機嫌で、「また声をかける」といってくれたのでそれに期待する。また甘えることになるが、気を遣われるのがなにより嫌いな二人なので、それで良いのだ。だから気を遣わないように(遣っているように見えないように)気をつければ良いのである。

 今回は蔵王、吾妻、安達太良と山巡りをした。もちろんほとんど車で見晴らしの良いところに行き、眺めるばかりで大して歩いているわけではない。とにかく涼しく快適で、下界の猛暑から離れることが出来たのは幸いであった。帰ってみれば台風が来るという。それで少し涼しくなればよいのだが。

2018年7月27日 (金)

映画『インフェルノ(2016)』2016年アメリカ

監督ロン・ハワード、出演トム・ハンクス、フェリシティ・ジョーンズ、オマール・シー、ベン・フォスター、イルファーン・カーンほか。

 ダン・ブラウン原作のシリーズ三作目。主人公ラングトン教授役のトム・ハンクスははまり役である。私はどういうわけかトム・ハンクスがあまり好きではなかったのだが、このシリーズを見るようになってだんだん好きになった。

 前作の『ダヴィンチ・コード』、『天使と悪魔』と同様、ラングトン教授は秒刻みで走り回って人類の危機を救う。救われる人類の方はラングトン教授が必死で救ってくれていることを知らないのである。振り返ればたった一日のことである。危ういことであった。

 今回の趣向は、ラングトンが怪我をして意識不明となり、目覚めたときには自分がどういう状況なのか分からないばかりか、記憶が定かでないのである。あまりに優れた頭脳だから簡単に解決させないためにハンディをつけた形である。

 目覚めたのはイタリアのフィレンツェの病院、そこへ女暗殺者が襲ってくる。女医とふたりで辛くも危機を脱した彼は、わけが分からないながら事態の分析を始めるとともに、薄紙を剥ぐように記憶を取り戻し始める。彼に迫る敵はひとつではなさそうである。しかもなぜ彼は追われているのか途中まで分からない。

 やがてラングトンはつぎつぎにヒントを発見していく。ノンストップスリラーの王道を行く息をつかせぬ展開は(どうも常套句の羅列で気が引ける)爽快である。ラストは例によって危機一髪。意外な人が悪役で、意外な人が味方であったりする。ここでは悪役は人類のためと確信してその破滅を企むという狂信者である。実際にそういう人間が少なからずいるだろうと思うとおそろしい。そもそもそう言う人間はそれを解決するヒントなど残したりしないだろうしなあ。

 とにかく面白い。

シンシアリー『韓国人による罪韓論』(扶桑社新書)

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 シンシアリーは韓国の人。歯医者だったらしいが、韓国の問題点を匿名で文章にしているうちに、韓国にいると身の危険が及ぶおそれがあると感じて、昨年くらいから日本に在住しているようだ。

 この人のシリーズは書店の店頭で新しいものが目につけば購入して読んでいる。日本語で書かれていて、日本でだけ出版しているが、累計では55万部というから人気があるわけである。いわゆる嫌韓本と分類されるかも知れないが、私はそういうふうには受け取っていない。以前も書いたが、韓国の多くの人の視野狭窄を憂え、韓国の将来に対して心配していることが読むと良く分かるのである。もしかすると反日を叫ぶことで自分が愛国的だと信じる韓国人よりも、著者はずっと韓国が好きであるし、愛しているに違いない。

 文在寅大統領がひそかに狙っているのは在韓米軍の撤退であり、北朝鮮主導の韓半島統一であるとの見立ては、さすがに荒唐無稽だと思われるかも知れないが、私は彼が大統領になる遙か前からそのような目的と信念の人であるらしいという文章を読んだことがあるので、それをいちがいに否定しない。いまのままだとあと五年後、ないしは十年後には文在寅のこころざしが達成される可能性は十分有ると思う。

 日本人から見て理解しにくい彼の言動は、そのような意志をひそかに持っているという視点から見ると整合性があるのである。この本にはそれを裏付けるさまざまな情報が盛り込まれているので参考になる。

 著者は特に政財界と通じている人ではないし、ジャーナリストのような特別なニュースソースを持つ人でもない。戦後の韓国と日本の公開されている情報を丹念に読み込み、現在進行しているさまざまなニュースと照らし合わせて自分の頭で考えたことを書いているのである。つまり誰にでも出来ることでもあるが、なかなかここまで説得力のあるものは書くのは難しい。

 繰り返すが、著者が韓国に強い思いがあるからこそのこのような本の出版なのである。それを前提に読めば、ただの嫌韓本として投げ出すことにはならないはずだ。慰安婦問題についても言及しているが、日本のマスコミなどよりもはるかに冷静で見識があるものだと思う。

 こういう人が韓国に暮らすことが出来ずに日本に暮らさざるを得ず、日本が好きであることを公言するには日本にいないといけないことは韓国の不幸ではないだろうか。

2018年7月26日 (木)

長滝白山神社(2)

ちょうど最も日差しの強い昼過ぎなのでくらくらする。


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大きな拝殿。

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拝殿内部。

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このように天井がとても高い。この天井まで人垣だけで登るとは信じられない。

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本殿。

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長滝寺はさらに少しだけ登ったところにあり、その階段の下の池にはハスの花が咲き残っていた。

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帰り道、宿坊跡のひとつの前に年数を経たお地蔵様が炎熱に耐えていた。

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その前にはさまざまな百合が元気よく咲いている。

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白山長滝駅方向へ戻る。

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無人駅の白山長滝駅。以前長良川鉄道でここまで来て、帰りの列車を待っていたら、地元の人に話しかけられて四方山話をしたことを思い出した。本数が少ないから、たっぷり話す時間があったのだ。

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この先はもう一駅先の北濃駅までしかない。本来はさらに北上して越美北線とつなげ、福井までつなぐ計画だったが、頓挫した。長良川鉄道は本来越美南線だったのだ。

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駐車場にセミが転がっていた。長い地中生活を終え、空を飛び回って命を燃焼させつくしたのであろうか。

これで長良川沿いのドライブは終わり。本当はこの先の阿弥陀ヶ滝を見て、湯の平温泉の日帰り湯に入るつもりだったが、頭がくらくらしてきたし、北濃から高鷲のあいだが通行止め(多分土砂崩れだろう)だというのでここで引き返したのである。

長滝白山神社(1)

長滝白山神社は郡上市白鳥町長滝にある神社で、白山信仰の美濃の国側の中心的神社である。明治以前は白山中宮長滝寺と称していたが、神仏分離により長滝白山神社と長滝寺とに分離されたが、いまも同一境内にある。


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右手が長良川鉄道。石柱は神社と寺それぞれのもの。

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ここで行われる祭礼は六日祭(別名花奪い祭)など。一月六日のこの祭では延年の舞の最中に拝殿天井につるされた花輪を人垣の山を作ってよじ登り、奪い合う。勇壮なものであり、毎年テレビで紹介される。

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案内図。僧坊や参拝者のための宿泊施設がたくさんあったようだ。

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これも宿坊のひとつのようだ。日差しが強烈である。

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滝泉院とある。

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奥の方に宝暦義民碑があるが、義民というからには命を賭してなにごとかをなしたのであろう。どういう事件があったのだろうか。調べてみると郡上一揆のことのようである。Wikipediaには郡上一揆の顛末が詳しく記されている。興味のある方は参照して欲しい。

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護摩壇。護摩を焚き祈りを捧げた場所のようだ。

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横手には萼紫陽花が咲いている。

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ここにも神様用の橋がある。これなら渡れないことはないがやめておく。

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この会談を登り切れば拝殿である。

つづく

2018年7月25日 (水)

映画『忍びの国』2017年日本映画

監督・中村義洋、出演・大野智、石原さとみ、鈴木亮平、伊勢谷友介ほか。

 2008年出版の和田竜の同名の時代小説を原作としているはずである。その本を読んだことは間違いないのだが、この映画を観て原作を思い出さないのである。それよりも、こんな話だったっけ?という思いしかしないのである。

 私はグループで歌ったり踊ったりする少年や青年やいい歳をしたおじさんたちのグループが嫌いである。そのなかでも特に嵐が嫌いである。誰が嫌いというより全員が嫌いである。ファンには申し訳ないが、どうして人気があるのか理解できない。特に嫌いなグループがあるくらいだから、それほど嫌いでないグルーもいないではないが、そのことは置いておく。本人を直接知っているわけではないから、見た目だけの私の好き嫌いであることはもちろんである。

 この映画は観たい映画のひとつのはずなのに、大野智が主演であることから録画をためらい、それでも録画して、ようやく観ることにした。小説を読んで抱く主人公の無門についてのイメージが大野智に重なるとはとても思えないが、配役は映画制作者の勝手である。飄々としいるという人柄をコミカルな人物だと勘違いして演出するのも勝手である。忍者とは生命を軽んじるものであることをデフォルメして表現するのも勝手である。

 忍者というものの非人間性をいままでのテレビドラマや映画は重く暗鬱に描いてきた。この映画はそれを全く逆に軽くコミカルに描いたのである。しかしその逆の手法にこそ忍者の非人間性がさらに強調されて、ラストの無感情の無門の、初めて知った哀しみの感情を表現するのでなければ、物語はぶちこわしである。

 描こうとした気配はあったが、結局最後までおちゃらけが解けることはなかった。大野智にそれを演ずることを求めることはもともと不可能だし、求めても無理だと承知して求めもしなかったのであろう。

 石原さとみと伊勢谷友介は存在感があって良かった。鈴木亮平は頑張りすぎた。この人は一生懸命すぎて少しやり過ぎることがある。

キャベツが歯にしみる

 冷蔵庫に入れっぱなしのキャベツの玉が冷たくて可哀想な気がしたので外に出しておいた。キャベツを刻んでドレッシング(最近はイタリアンドレッシングか、ゆずドレッシングである)であえて食べようとして、冷たくないので刻んだキャベツを冷凍庫に入れたら出すのを忘れていた。

 さいわい、次の食事のときに思い出した。刻んだキャベツが全体で塊のようになっている。ドレッシングを振りかけて扇風機の前に置いて待つことしばし、箸でようやくほぐしてつまめるようになった。

 食べられないことはないが、凍ったキャベツが歯にしみる。

2018年7月24日 (火)

映画『蝉しぐれ』2005年・日本映画

監督・黒土三男、出演・市川染五郎、木村佳乃、緒形拳、原田美枝子、今田耕司、ふかわりょう、田村亮、大滝秀治、加藤武、柄本明ほか多数。

 いうまでもなく庄内の海坂藩を舞台にした藤沢周平の長編時代小説を原作としている。ずいぶん前に録画したのにずっと観るのをためらっていたのだが、ようやく観た。ためらっていたのは観たらがっかりするだろうと思っていたからで、その自分の勘が正しかったことを知ることになった。

 この映画は第29回の日本アカデミーの優秀作品賞、優秀監督賞、優秀脚本賞、優秀主演男優賞、優秀主演女優賞、その他を席巻した。それなら日本アカデミー賞とはなんだ!私の感想とは全く相容れない。(主演を除いて)素晴らしい俳優がぞろぞろ出ていればアカデミー賞なのか。以下に私の評価を書く。酷評である。

 映されている景色はたしかに素晴らしいのだが、映像の鮮明度が低く、眠ったようである。これは録画したときのテレビ局の問題か?ほかの映画ではそんなことはないから、そうではないはずだ。とにかく画質が悪い。そして台詞が不明瞭で聞き取りにくい。背景の音や音楽と台詞の音量がアンバランスなのだ。日本映画、それも時代劇にはしばしばこの傾向がある。洋画ではまずないことなので、本質的な問題があるのだろうか。

 主演が市川染五郎であることが根本的にミスキャストだ。主人公の牧文四郎は、父が汚名で切腹して艱難辛苦した人物である。その牧文四郎があのような、にやけた顔をしているはずがないではないか。藤沢周平ファンならそう思うだろうと私は考えるがどうだろうか。市川染五郎は『阿修羅城の瞳』という映画でいい演技をしていた。さいわい、にやけたキャラクターにぴったりの役柄だったのだ。ついでだが、その映画の宮沢りえはとても美しかった。

 さらに、牧文四郎の親友たち、与之助と逸平を今田耕司とふかわりょうが演じていたが、なにを考えてこんな配役をしたのだろう。お福様の役も木村佳乃では私は不満だがこれは賛否あると思う。

 この小説はNHKで7回シリーズとしてドラマ化されている。こちらの牧文四郎は内野聖陽、お福様は水野真紀が演じていた。比べるのが無惨なほど映画の二人よりこちらの役どころの収まり方も演技も優れていた。内野聖陽にはじっと堪え忍ぶ男の強さと内面の燃える炎が見て取れ、水野真紀には品があった。そのドラマでは省略せざるを得ない部分を省略しながら、ストーリーのわかりやすさははるかに優っていた。だからテンポも好いし、見る側の感情移入もしやすかったのである。映画ではシーンに無用に長い部分がしばしばあって、イライラさせられる。しまりがないのである。

 テレビドラマの脚本は映画の監督をした黒土三男らしい。しかし演出は彼ではない。その違いもテンポに関わっているかも知れない。

 むやみに登場人物を数多く入れすぎて、原作を読んでいない人にはこの映画ではその登場人物が登場する意味が分からないと感じたことだろう。それぞれの人物にその背景があるが、それを描いていたらきりがないのである。思い入れだけで登場させても混乱するばかりだ。それでなくてもそれでせわしないのに、妙なところでテンポがゆっくりしすぎているからイライラしてしまうのである。

 久しぶりに映画を観て腹が立った(久しぶりでもないか)。私にとって予感どおりの駄作であった。

内田樹編『人口減少社会の未来学』(文藝春秋)

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 内田樹老師らが人口減少社会の未来についての評論を依頼して集められた論考集である。この論考集に対して玉石混淆という評価をするのは、いささか上から目線の気配があって気が引けるが、目からウロコの膝を打つもののなかに、なにか言いたいのか良く分からない、というかテーマとはあまり関係が無さそうなことをただ場を借りて書き殴っているとしか思えないものも混じっていて面白い。ふだんそれなりの人も時に失調することがあるらしい。書くことがなければことわればいいのに・・・。誰のことか読めば分かる。

 少子高齢化について最近このブログで何回か書いてきた。正直言うと、最後の方で書いていることの中にすでに読み始めていたこの本の受け売りが混じっている。それは全くの受け売りではなく、思っていたことを的確に表現されていたことに同感してのことであると言い訳しておく。

 さまざまな分野の人が、その分野の視点から少子化社会の原因とそれのもたらすもの、そして社会はそれにどう対応していくべきかを提言している。その分析の中にはこちらが常識としていたものをを覆すものもあって読みごたえがある。

 たとえば沖縄を別にして、人口が多少なりとも増えたり微減にとどまっているのは大都市圏だという統計的事実がある。それは若者が大都市圏に集中している、地方から流入しているからだと説明されるのが普通だ。たしかにそうなのだが、出生率のみに注目すると、大都市ほど出生率が低いのである。どういうことか。大都市に集まった若者は地方よりも子どもを産まなくなるのである。結果的に高齢者の増加は、実は大都市ほど著しいのである。

 地方は絶対数として高齢者が増加しているのではなく、若者の出生率は都市よりも歴然と高い。つまり地方の方が子どもを産みやすいという現実があり、適正に対策を講じている地方都市は逆に出生数が増える兆しがある。都会からUターン、Jターン、Iターンしている若者は子どもを産み育てる意欲のある場合が多く、都市に流入する若者は子どもをあまり生まなくなるということの意味をもう少し深く考察する必要がありそうだ。日本の経済史、それに関連する政治史について人口問題を統計的に解析することで論ずるのは藻谷浩介氏である。いつものように冴えている。

 少子化を生物学的な現象として解析した池田清彦氏の論考は時間のスパンが壮大で、あのNHKの『人類誕生』シリーズのことを重ね合わせて面白かった。

 その他的(まと)をわざわざ別のところにおいて結果的に少子化未来を論じているもの、海外との比較で論ずるものなど多種あって賛同したり、多少イラついたりしながらいろいろと考えさせられた。

 少子化について思い込まされていることを、取り払うことが出来るかも知れない。是非一読をお勧めする。

2018年7月23日 (月)

検診結果のことなど

 現在、千葉の弟の家にいる。明日から久しぶりに長老と兄貴分の人との三人旅に行くためである。明日朝二人は大阪から新幹線を乗り継いで福島県の郡山へやってくる。私は千葉から車で郡山へ向かい、二人と合流する。名古屋から直接郡山へ向かうつもりでいたら、兄貴分の人に中継を入れるように言われたのだ。それに弟のところへ立ち寄る用事がないわけではなかった。

 連日猛暑がつづいている。ほとんど涼しい部屋にいるのだから猛暑を直接浴びているわけではないが、なんとなく疲れる。夜もずっと暑いのと、冷房の影響もあるのかも知れない。だからブログも多少だれ気味のような気もするが、サボると次が億劫になるので習慣にしていることは継続に努めることにしている。

 明日の朝からは三人旅なので、ブログはあまり書くことが出来ない。兄貴分の人は三人で楽しむときはそれに集中せよ、といって私がパソコンを開いてゆっくりブログを書いていることをあまり喜ばないのである。そういう人であるし、私ももっともだと思うので、その間のブログについては多少埋め草の記事を事前に書いてある。公開時間を指定してあるから、帰って今回の旅の報告の記事を書くまで途切れないようにしておいた。ただしその間にいただくコメントへのお返しは出来ず、帰ってからになるのであしからず。

 皆さんのブログを見ても、暑いせいか更新の頻度が低下している。そしてアクセス数も減少している。減少しているのはこちらの内容の問題もあるかも知れない。もともと公開している日記としての備忘録的意味合いと、本の読みっぱなし、映画の見っぱなし、旅の行きっぱなしでは、その間にさまざま感じたこと考えたことが消えてしまうのが惜しい気がして、それを文章に残そうとしたのがブログをしている目的である。だから大かたは自分のためにしていて、それが私の消息を知ることになるから面白いといってくれる人もないではないので、それも目的となっている。

 ところで今日は定期検診日。約一週間の節酒節制の結果は如何に(検診の目的は違うはずだが、いまは私にとってその節制が大事な目的になっている気がする)。

 血圧、空腹時血糖値、ヘモグロビンA1c、肝臓の数値はすべて正常値。節制の効果が出ている(ずいぶん泥縄式だったが)。女医さんがまた替わった。今度の女医さんは明るくフレンドリーな人。これからよろしくー、などと言われてしまった。

 これから弟と飲み会である。一週間ぶりだから美味いぞー。

洲原神社(3)

右が拝殿、左奥が本殿。


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振り返る。左奥が社務所。巫女さんがいたのを初めて見た。
正面が鶴形山。この山の上に大御前神社跡と奥御前神社跡がある。洲原神社の奥の院に当たるが、いまは社殿はないようである。山頂までゆっくり登って一時間だそうだが、その元気はないし、いまは膝が痛い。

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木の燈籠と鶴形山の岩場をアップで撮ってみる。

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楼門と杉や檜の巨木を反対側から撮る。

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ここはブッポウソウの繁殖地だった。

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ブッポウソウは夏鳥で、毎年五月に飛来し、九月頃南方へ飛び立っていく。体は鳩よりやや大きく、頭部は黒褐色、背腹は青緑色、嘴と脚が紅色、翼を拡げると白い斑点のある美しい姿の鳥だそうだ。

天然記念物に指定された頃はこの神社周辺に定着していたが、交通往来が激しいため、いまでは近くの鶴形山自然林に営巣しているとみられる。

最後にもう一度神様の橋。

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これで洲原神社はおしまい。

2018年7月22日 (日)

映画『ファンタスティックビーストと魔法使いの旅』2016年イギリス

監督デヴィット・イェーツ、出演エディ・レッドメイン、キャサリン・ウォーターストーン、ジョン・ヴォイト、ロン・バールマン、コリン・ファレル、ジョニー・デップほか。

 悪役側に豪華な出演者を配し、奇想天外な魔法界の動物がつぎつぎに登場してまことに楽しいファンタジーに仕上がっているのだが・・・。いちおう完結したハリー・ポッターシリーズの、これは新しいシリーズとして始まったらしい魔法世界ものの映画である。時代はハリー・ポッターの時代をさかのぼり、1926年の設定である。舞台はニューヨーク。

 主人公のニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)はあまりにも人騒がせな魔法界のドリトル先生である。この映画をこれから観る人の楽しみを奪わないためにストーリーは書かないことにする(ややこしいからめんどうくさいし)。

 狂信的な母親が子供たちに宗教的な生き方を強い、さらに魔女の存在を信じてその抹殺を唱える運動をする。回りの人間達に冷笑されながらも、その宣伝活動に子供たちを使う。これはスティーヴン・キングの『キャリー』の物語にでてくるキャリーの母親そのものではないか。超能力、ある意味では魔女を恐れる心がそのような狂信を生むのだともいえるし、自分の子供にそのような兆しを感じ取ったことの恐怖の裏返しがそのような狂信を生むのだということもできる。

 その彼女の子供の一人が実は恐ろしい存在であることが後に分かる。その存在の引き起こす事件と、スキャマンダーがひそかにアメリカに持ち込んだ魔法動物が引き起こす騒動がごちゃ混ぜになって、大事件に発展していくのである。しかもそこには陰謀を企む人物(コリン・ファレルやジョニー・デップが楽しそうに演じている)がいたりする。

 ファンタスティック・ビーストたちは文句なしに楽しい。興行的にも成功した映画らしいが、はたしてシリーズ続編もハリー・ポッターシリーズのように上手くいくかどうか。私は少々懐疑的である。

洲原神社(2)

洲原神社は岐阜県美濃市北部にあり、奈良時代に越前の名僧泰澄大師によって創建されたと伝えられ、社殿はこの地方としては稀なほど壮麗である。古来農桑の神として尊崇され、江戸時代から洲原講の組織があって各地からの参詣があった。(神社の説明のチラシを抜粋)。


楼門をくぐると正面が拝殿である。

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左上には奉納された木剣の額がある。

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拝殿の注連縄。正面向こうが本殿である。

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拝殿の中には大きな古い絵馬がいくつか架けられている。これは木剣と天狗、そして烏天狗の面。ここで剣の悟りを開いたのか。それとも悟りを開くことを祈願したのか。

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本殿前。

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賽銭を投じ、二礼二拍手してお願い事をした。自分のことではない。

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75年ぶりに白山大神をお迎えし、神事を行ったあと白山に「神送り」をしたことが記事になっていた。

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ここの狛犬は好い姿をしている。

もう一回だけ洲原神社を書きます。

2018年7月21日 (土)

びっくりした

 午後三時頃、汗ばんだので洗面台で顔を洗い、鏡を見てびっくりした。左眼の白目の半分以上が出血で真っ赤になっている。下瞼をめくると白目の下部に血が溜まっているのがみえる。痛くはないし、ものの見え方も変わらない。しかしこんなことは初めての経験である。しばらく安静にしていよう、などと最初は思ったが、手遅れで取り返しがつかなくなるのも心配だ。それに今日は土曜日で、明日は日曜日、今日ならかかりつけの病院は救急を受け付けるが、明日は休みだ。

 いつもなら病院まで20分ほど歩くけれど、今日は緊急なので車で行くことにした。救急外来の窓口で事情を説明し、問診票に記入する。何人か待ち人がいたけれどあまり待たずに診察室に案内される。

 医師は眼をざっと診て、「多分表面の毛細血管が切れたことによる内出血でしょう、なにかで目をこすりませんでしたか?」と訊かれる。思い当たることがないではない。左眼には以前から多少の違和感があるのでしょっちゅう眼を洗うことにしていて、そのたびにタオルで拭く。それで眼を傷つけたのだろうか。

「痛みも見え方にも問題ないなら様子を見ていて大丈夫でしょう。多分引いていくと思いますよ」とのご託宣であった。出血が引かないようなら月曜日に再度眼科でちゃんと検査をして下さいと言われて診察は終了した。

 そう言ってくれればいちおう安心なのである。お蔭で不安な土日を過ごさずに済んだ。今日明日は眼を休めてじっとしておくことにしよう。それにしてもびっくりした。

(追)今朝起きて眼を見てみた。痛くもないし見え方も尋常であるが、赤目のままである。血が引くのはまだかかるのか。

洲原神社(1)

しばらく車を動かしていないので、少しドライブに出掛けることにした。一宮インターで高速に乗り、東海北陸道に乗り換え、美濃インターで降りる。ここから長良川沿いに国道156号線を北上する。美しい長良川の水色を眺めながら走るこの道は大好きな道で、何度走ったか分からないほどだ。


最初に停車するのは洲原神社。この神社は何度来ても好い。長良川のすぐそばにあり、鶴形山を背にした景色が素晴らしいし、神社らしい神社でしかも人がいない。

長良川鉄道の洲原駅の近くの、156号線に面した駐車場に車を停めて横断歩道を渡り、長良川の方へ下りる道をたどればすぐに神社に至る。駐車場の横におとり鮎を扱う小さな店があるのだが・・・。

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断水のためしばらくおやすみするそうだ。実はこの辺りも猛暑の前に大雨が降って被害が出た。そのために長良川の水色(すいしょく)はいつもと違う。

向こうに見える横断歩道を渡る。その奥が洲原神社。

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洲原神社に到る道。右手奥は長良川。

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鳥居の前から。左は神様の渡る橋。橋の向こう、左手に坂を登れば境内だが、右手の杉の巨木のある方が正面の山門である。そして右側が長良川。

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神様用の橋。人間は渡ってはいけないし、そもそも渡れない。先に川を見る。

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左手から長良川が流れ下る。右手に注連縄のかかった小さな島があり、ぐるりを水が囲んでいる。

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小島の淵。長良川の水はふだんならもっと澄んだエメラルドグリーンだったり青空ならブルーの色をしている。まだ濁っているのだ。

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山門。ここでは楼門と呼ぶらしい。正面から入り、拝殿に向かう。

つづく。

少子高齢化

 寿命が延びれば高齢の人が増えるのは当たり前である。少子高齢化が問題なのは、労働人口に対して働かない高齢者の割合が高くなるからであるのはいうまでもない。死ぬ人に見合った数だけでも生まれていれば問題にならないのであるから、問題の本質は少子化であって高齢化ではない。

 実際、長いスパンで考えればいまの日本の団塊の世代を主にした多数の高齢者は、間違いなくあと30年もすれば大半がこの世からいなくなるのである。そのときにはアンバランスの問題は自然解消する。その最大30年をどうしのぐか考えればいい。30年の問題を永遠の問題と考えると、不要な対策を講じすぎて30年後にまた問題を残す。想像力の欠如が日本の負の特技だから心配だ。

 少子化はそれよりもずっと深刻で本質的な問題だとようやく世の中は気がつきだしたようだ。もちろん私もようやくそうらしいと感じだしたので、同様である。なにしろ個人が子供を産むか産まないかを国家が決めるわけにはいかないのである。あの何でも国家が決めているような北朝鮮や中国ですらなかなか意のままにならないのである。

 もし女性たちが急にせっせと子どもを産み始めたとしても、その結果が労働力につながるのは早くても20年後である。しかもすでに少子化は進行しているのだから、これから子どもを産む女性の数が(少なくともこれから20年のあいだは)毎年減り続けることはすでに確定した事実で変えようがない。

 それにしても若い女性が急にせっせと子供を産む気になるための方法があるわけではないから、事態は深刻だ。子供を安心して産める社会にならないと女性は子どもを産むのをためらうというが、しばらくは(とうぶんは)そのような状況になりそうもないようにみえる。

 しかし子供を安心して産める社会が女性を子どもを産む気にさせる、というのは本当なのだろうか。子どもがどんどん生まれている国ではそういう社会が実現されているのか。反対に、豊かで暮らし易い先進国ほど出生率が減っているのはどうしてか。不思議なことである。豊かな社会ほど不安が大きいのかも知れない。

 子供を育てるのは大変である。大変だけれどよろこびもある。その大変だと思う気持ちとよろこびとを秤にかけて、大変だと思う気持ちが大きくなっているのがいまの日本なのかも知れない。安心の問題よりも、子供を持つよろこびの実感が想像できなくなってしまった社会が少子化をもたらしているのではないか。

 それに社会が、少なくとも親が、若い女性に子どもを産むのは当たり前のことだというように刷り込むことをやめてしまっている。当たり前のことと思い込むことで子どもを産み育てるという困難を乗り越える力となっていたのに、それを刷り込まずに不安だけが語られ続ければその気が失せる。私だって同様である。

 生殖して子どもを産むというのは種を保存するという生物に刷り込まれた本能であろう。人間が生命を持つ動物であり、自然の存在であるのに、社会が豊かになるほど自然を遠ざけ遠ざかり、自然の存在であることを見失い、個体の安楽だけを求めることが可能になったことで人間は種の存続を忘却し始めている。

 それを憂えるというよりは、豊かさというのはそういうものなのかも知れない、などと悲観的な気分でいる。とはいえ、少子高齢化は想定外の問題ではなく、想定が明確な問題である。その想定される事態になにをどういう優先順位の元に対策を講じるのかを考えることは可能であろう。

 とはいえ、私のようにどうしてこうなってしまったかを論じていてもなにも始まらない。少子高齢化対策を語る論者に聞くべきものがあるかどうかは、この点にある。どうしてこうなったかを滔々と語ることに終始していたらそれに耳を傾けるのは時間の無駄である。聞くまでもない。つまりこの私のブログは読む値打ちがない?それなら哀しいことである。

2018年7月20日 (金)

映画『ゴッド・オブ・ウォー 導かれし勇者たち』2010年イギリス・ドイツ

監督クリストファー・スミス、出演ショーン・ビーン、エディ・レッドメイン、ジョン・リンチほか。

 黒死病(ペスト)が蔓延し、原因も分からずなすすべもなく人は死んでいき、魔女狩りが行われていた中世の頃の物語である。中世というと、日本の中世同様、人々には魔物や鬼が実在すると信じられていたとされているが、それは現代の人から見てそう見えるということなのか、実際にそうだったのか。信じていれば実在していたことになるということか。

 その時代を描いた映画といえば、日本なら夢枕獏原作の映画『陰陽師』があるし、西洋ならウンベルト・エーコ原作の『薔薇の名前』を原作とした同名の映画がある。『薔薇の名前』の主人公役はショーン・コネリー、従者の少年をまだ若かったクリスチャン・スレイターが演じていた。山上の古い修道院とそこにある禁書を蔵した巨大な図書館を舞台にして、宗教論、異端審問などをテーマにしたこの映画は傑作だと思う。

 今回見たこの映画の暗鬱で猥雑感のあるイメージの映像は『薔薇の名前』のイメージに重なる。あの『ジャンヌダルク』でもそうだった。ここでいう猥雑感とは非衛生的な清潔さのかけらもない世界のことである。グチャグチャしているのである。少し前の香港映画にはこの猥雑感があふれていた。それが逆に生命感につながりエネルギッシュでもあったが、中世映画にはその生命感は感じられない。キリスト教という宗教のせいかもしれない。

 黒死病の蔓延で次々にひとが死んでいくイギリス地方の、ある修道院にウルリク(ショーン・ビーン)と云う男に率いられた騎士団がやってくる。大司教の命により、黒死病が全く発生していないという村の調査にやってきたのだ。湿地を抜けた先にあるというその村への案内を青年修道士のオズマンド(エディ・レッドメイン)が買って出る。

 ウルリクたちの目的は本当は違うものであった。そして案内を買って出たオズマンドにもその村へ行く目的があった。村へ向かう旅は想像以上に苛酷なものとなり、途中で山賊に襲われたり魔女狩りに関わって危険に遭遇したりするうちに、オズマンドは次第に騎士団の目的に疑念を抱く。

 ようやく村へ辿り着いた一行は、案に相違して村を挙げての歓迎攻めにあう。その歓迎攻めの席から抜け出したオズマンドがひそかに目にしたものは・・・。そして騎士団一行が本来の目的を果たす前に村民たちが先手を打つ。

 魔女とはなにか。魔女は本当に存在するのか。なぜその村に黒死病の患者がいないのか。

 村から生きのびたのはオズマンドのみ、そしてそのオズマンドはどのような人物に変貌したのか。ラストが淡々としていながらとても恐ろしい。エディ・レッドメインの好演である。このあと『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を観たのだが、この『ハリー・ポッター』からつながるシリーズの主演がエディ・レッドメインであった。見た顔だなあと思ったのは当たり前であった。

池内紀『ことばの哲学 関口存男のこと』(青土社)

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 関口存男(つぎお)はドイツ語学者で明治27年(1894年)生まれ、昭和33年(1958年)に64歳で死んでいる。著者の池内紀はドイツ文学者。ドイツ文学者だからドイツ語学に詳しいというわけにはいかないらしい。野球が得意と行っても外野がピッチャーも出来るというわけにはいかないのと同様だという。

 この本は関口存男の評伝である。ドイツ語学者の評伝を書くならその著作も紹介することになる。ドイツ語の文法に関する本を書いた学者の評伝ならその内容にも言及しなければならないはずだ。もちろん文法に関する著書の説明は詳しく書かれているのだが、この本にはほとんどドイツ語は使用されていない。池内紀はそれを自らに禁じたようだ。それで語学者の評伝を書き上げ、それを私のような者が読めるのは池内紀の手柄である。並みの人間に出来ることではない。

 恥ずかしながら私も大学で二年間第二外国語としてドイツ語を履修した。履修したけれど全く身につかなかった。ただ、ドイツ語の論文を検索することに必要だったので、専攻の化学用語だけはかろうじて覚えた。そうでなければ卒業できなかったからである。卒業とほぼ同時にその知識は雲散霧消した。どうして単位が取れたのかいまだに分からない。ドイツ語のことを思い出すといまだに悪夢を見る。

 その私から見ればはるか彼方、雲の高みの存在であるドイツ語の碩学が、どれほどの勉強をしたのか、それを知らされて身の縮む思いがする。語学の学習は中途半端では決して成果の出ないものなのだということを思い知らされる。

 そのドイツ語をとことん突き詰めて考えぬいた先にあったものはなんだったのか。ことばというものとはなにかという究極の問いである。もうその問いの世界は語学ではなく、哲学、言語論理学の世界なのであった。

 対比するに同時代を生きたオーストラリア生まれのヴィトゲンシュタインがたびたび引用されている。最も難解な哲学の本と言われる彼の『論理哲学論考』は別名『言語哲学論考』なのである。その対比の示すところはヴィトゲンシュタインと関口存男が同じ認識の高みに到達していたといっても過言でないことを教える。

 この『論理哲学論考』については若いころ森本哲郎師の本でたびたびであい、自分でも読んでみようと本を開いたら冒頭から歯が立たずに本を閉じることになった。日本語に訳されているのに全く解らないのである。

 ものごとを身を削るようにして突き詰めていくとどのような地平に達するのか、それが池内紀の筆でドラマチックに語られていく。なにをなしたかの内容は分からなくても、人間はここまでのことを考えぬくことが出来るという素晴らしさを知り、感動する。そして同時にその人間が極めて人間臭い喜怒哀楽と感情を持っているという当たり前のことも妙に感動を誘う。

 戦前の法政大学でのドイツ語教師時代に一時同僚だった内田百閒との確執も描かれている。法政大学の学内紛争により、馘首されて大学を離れることになった内田百閒のこだわりが後々までどのように続いたのか、それもひとつのドラマのようである。読者が内田百閒といえば耳をそばだてることを池内紀はよく承知している。狂言回しに内田百閒を描くのも、彼が内田百閒も関口存男も好きであるからにほかならないからだろう。

 池内紀の書いた本だからこそ出会った関口存男という存在だった。しかしその関口存男は彼がこうして紹介しなければ、これからも知る人のほとんどないままで終わるだろう。そしてこの本を読む人もそれほどいないだろうと思うと、池内紀ともども残念な思いがする。

2018年7月19日 (木)

ことばに信がないのに・・・

 政治家のことばに信がないと良く批判される。それは政治家のことばには信があるべきであるという思いがあるからだろう。信などなくてもかまわない、信などそもそもあるはずがない、と思っていたら、ことばに信がないと知らされたときに批判したり怒ったりするはずがないのである。そういう意味で政治家ほど嘘をついてはいけないと思われているわけである。

 それなのに同時に政治家ほど嘘つきはいないとも思われているのが面白い。だから嘘をついてはいけないという建前があるのにボロを出したりすると、とことん叩かれことになるのは日頃のニュースを見ていれば良く分かる。与党や政権や役人の嘘を暴くことに夢中になるマスコミや野党は、だからその建前を信じて見せているわけである。

 もちろん犯罪行為は論外であるが、枝葉末節のあばき立てがしばしばうんざりするのはその建前の嘘くささを感じるからだろう。

 嘘をつかない人はめったにいない。めったにいないけれどいないことはないのである。平然と嘘をつかずに生きている人(嘘をついて生きる人ではない)を知っている。その人は正直に生きるという信念を持っていて、他人の嘘にもきわめて厳格に怒りを向けた。「善い人」で「強い人」ではあるが、つき合いにくい人でもある。却って楽な生き方にもみえたりした。

 人はしばしば嘘をつく。現実の自分より、あるべき自分を語ることは自然なことだと私は思う。そのことで生ずるギャップを埋めるべく、嘘は自分をあるべき姿へ近づける努力のエネルギーになることもあるのである。自分に嘘をつくのもそういうエネルギーを供給するためであることは多い。

 これらのことは日本に特有のことなのだろうか。アメリカでは違うのだろうか。

 トランプ大統領のことばに信はない。なにしろさっき言ったことを平然と翻して恬淡としている。約束したことをひっくり返すことになんの痛痒も感じない人間にみえる。まともな人間の出来ることではない。

 トランプ大統領が、ヘルシンキでプーチン大統領と会談したあとの記者会見でロシア疑惑に関して言ったことをマスコミが批判し、民主党はもちろん与党である共和党の議員達までが強く批判した。それに驚いたのか、トランプ大統領は「言い間違いだった」と言って訂正した。それが報じられたあとの世論調査を知って驚いた。トランプ大統領の支持率も不支持率もほとんど変わらないのである。 

 これだけそのことばに信のないことが明らかになったのに支持率が変わらないというのは、アメリカではことばの信など何の意味も無いと考える人が少なからずいるということを現しているのだろうか。なんだかアメリカという国が分からなくなった。ことばの信をなくすことに鈍感な国とみなされても平気な国は、世界から信頼を失う。いくら強固なシステムに支えられているとはいえ、あまりに傾いてしまってはそのシステムの復元力でも元に戻せないのではないかと心配になる。

 世界がアメリカをもう優先的には相手にしないで生きる道を模索し始めていることを感じていないのだろうか。すでにアメリカが一番である時代が続いて長いのに、アメリカが一番であることを取り戻すとはどういう感覚なのだろう。これ以上なにを奪い取ろうというのだろう。その愚かさはトランプ大統領のことばの信のなさに如実に表れているのかも知れない。その言動でトランプ大統領は自国を貶めているのに、その支持率が変わらない。愚かなのは大統領だけか。

北原亞以子『脇役 慶次郎覚書』(新潮文庫)

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 『慶次郎縁側日記』シリーズに登場する人物達が主人公である短編集である。縁側日記では脇役だが、この短編集ではその脇役の視点から物語が語られる。語られる、というのはこの短編集がそれぞれの人物の独白的なスタイルで書かれているからだ。

 森口慶次郎本人、義理の息子の晃之助の岡っ引きである辰吉、(蝮の)吉次、慶次郎が寮番をしている別荘の同居人である飯炊きの佐七、晃之助の嫁である皐月、番小屋の太兵衛、辰吉の下っ引きである弥五、同心の島中賢吾、の内面が描かれることで、縁側日記の登場人物達のイメージが立体的になっていく。

『慶次郎縁側日記』で最も魅力的な人物は誰かと問われれば、多くの人が「吉次」と答えるであろう。(尋常ではないほど)くせがあり、しつこくて人から忌み嫌われ畏れられているこの男がたまらなく魅力的に感じられてしまうのは不思議なほどである。

 この本の巻末の解説を奥田瑛二が書いている。本を読まずに、高橋英樹が慶次郎を演じたテレビドラマでだけこの物語を知っている人も多いだろう。そのドラマで吉次を演じていたのが奥田瑛二である。彼が吉次を演ずるに当たってどのようなキャラクターとして演じようとしたのか書かれていて面白い。そこからなぜ吉次が魅力的なのかそのこともなんとなく分かるのである。

2018年7月18日 (水)

映画『ザ・シューター 孤高のテロリスト』2013年デンマーク

監督アネット・K・オルセン、出演トリーヌ・ディルホム、キム・ボドゥニアほか。

 社会悪に対するテロは正義か?これはテロではないが、チャールズ・ブロンソン主演の『狼よさらば』という映画を思い出す。街のチンピラたちとのいざこざをきっかけにして逆恨みされて妻子が彼らに襲われた男の復讐譚(そういえば『マッドマックス』も同じである)だが、復讐が次第に野放しにされている社会悪への制裁という、正義の個人的行使の様相を呈していく。これには『ロサンゼルス』、『スーパー・マグナム』以下、だんだんエスカレートしていく続編が作られていて、次第に彼の怒りに共感して感情移入してしまう。それは自分の怒りの代わりに彼が悪に制裁を加えることで得られるカタルシスが快感なのであり、ある意味で危険なことでもある。

 とはいえこういう映画や物語を楽しむことで人は怒りのエネルギーを発散させるという働きもあり、結果的に現実の怒りの行使を抑制する働きもあるのかも知れない。人は正義の確信があるとはいえ、なかなか実際に法を犯すことは出来ないものだ。しかし人間にはさまざまな人がいて、中には発散するよりも、内圧を高めて実行に移す場合もあるのが恐ろしい。

 環境保護を謳っていたデンマークの新首相が、経済的な面とアメリカの圧力もあり、グリーンランドなどの原油生産拠点を推進していこうとする。国民の中には反対意見も多いが、環境に問題は無いようにすると言明する。しかしその計画に何らかの情報隠蔽があるのではないかと追求する女性ジャーナリストのミア(トリーヌ・ディルホム)。

 そんなときその計画に関係する人物が狙撃を受ける。弾は逸れるが、それは抗議のための警告だったからだ。そしてその狙撃犯からミアに連絡が入る。自分の持っている情報を渡すので発表して欲しいというのだ。渡された情報には計画による環境汚染のおそれについての詳細なデータが含まれていた。しかしその情報は政府によって一蹴されてしまう。

 そしてテロリストは本格的に始動する。

 社によりミアに課された使命と彼女に対する政府のさまざまな圧力、そして孤独なテロリスト、ラスムス(キム・ボドゥニア)の行動が交互に描かれていき、ついに正義の銃弾は放たれる。

 彼女は個人的に優先させなければならない大事な用事を抱えていた。そのことは冒頭から明らかにされているのだが、社会的使命、会社の命令などが彼女の最も大事なことから彼女を遠ざけていくという焦燥感が、彼女のジレンマとして常につきまとう。上手い設定である。

 デンマークという国は特異な国で、ある意味では日本に似ているところもあると思っている。私個人としても、アンデルセンやキルケゴールを産んだ国としてヨーロッパで最も興味のある国で、いつか行きたいと思いながら果たせずに終わるようだ。そのデンマークのドラマや映画はおおむね出来が良くて面白い。この映画も大作ではないが見応えのある好い映画だった。

近藤大介『未来の中国年表』(講談社現代新書)

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 これからの中国がどうなるのかという予測を、人口問題という視点から解析していく。中国は「一人っ子政策」という方法で少子化を実験的強制的に行った国である。そんな政策をとらなくても先進国はほとんど例外なく少子化しているが、鄧小平たちが「一人っ子政策」を強行したときにはそんなことは想像もしなかったことだろう。人口は放置すれば必ず過剰に増えてしまうものだと思っていたに違いない。

 もちろん強制的に少子化を断行したのは中国の人口が凄まじい勢いで増えていたからである。その人口増のおかけで国民は皆貧しかった。人口をコントロールすることで経済発展の恩恵を国民全体に行き渡らせられたら良い、と夢想していたに違いない。しかしその先に少子高齢化が待ち受けているとは思いも及ばなかったようだ。

 もちろん鄧小平はある程度のところで「一人っ子政策」をやめるつもりだっであろうと思う。ところが彼はその前に死んだ。「一人っ子政策」の推進のための管理部署がある。そして中国は、管理するところには強大な利権が生ずる。どうも少子化の弊害が出て来そうだと多くの人が感じ始めた頃、繰り返し「一人っ子政策」見直しの論議が起こされたが、利権にたかる黒い頭のネズミたちはそれを潰し続けてきた。そもそも子どもを産む産まないを国家が管理するなどということはあり得ない暴挙なのだが、それがまかり通ってきたし、いまもまかり通っているのが中国という国なのである。

 そうしてこのままでは大変なことになることが明らかになって、ようやく子供は二人まで作って良いということが公認された。では公認されて二人目の子どもがどんどん生まれたのか?中国の出生率は劇的に改善されたのか?統計値についてはこの本を読んでもらいたいが、出生率はほとんど変わらないのである。いや、二人目を産んでいる人はたしかに激増している、はずである。証拠もある。なにしろいままで二人目というのは少数民族以外は原則いなかったのだから。それなのに出生率が変わらないと云うことは・・・つまり若い夫婦はますます子供を産まなくなっているのである。

 中国の人口が減少に転じる年は十数年先とみられていたが、このままでは数年先にそのときが来るかも知れない。そして少子高齢化の巨大な津波が日本に遅れて中国にもやってくる。

 この本は、中国経済についての現状分析と人口問題を絡ませながら近未来の中国を未来年表の形で予測していくのである。はたして中国の未来は習近平が謳うようにバラ色なのだろうか。

 知っていることも切り口を替えてみると面白い。そういう意味で大変面白い本である。人口問題は非常に深刻な問題であることもよく分かる。そしてその問題はまさに日本の目の前に待ち受けている問題なのである。その深刻さをどこまでみな分かっているのだろうか。気がついてももう遅いけど。

2018年7月17日 (火)

映画『エイリアン:コヴェナント』2017年アメリカ・イギリス映画

監督リドリー・スコット、出演マイケル・ファスベンダー、キャサリン・ウォーター、ビリー・クラダップ、ダニー・マクブライト、デミアン・ビチルほか。

 2012年の『プロメテウス』(リドリー・スコット監督)に続く物語であり、全体としてはあの『エイリアン』の前日談の位置づけとなる。傑作『エイリアン』は同じくリドリー・スコット監督による1979年の映画である(ずいぶん昔のことだったのだ)。あの映画を観たときは衝撃的だった。そして『プロメテウス』も傑作だと思う。しかしこの『エイリアン:コヴェナント』についてはそこまで高く評価する気になれない。

 映画として面白くなかったわけではない。未知の惑星に降り立った乗組員たちの不用意さ、危機に対する鈍感さが往年のテレビドラマ『宇宙家族ロビンソン』並みで、いくら何でもひどすぎる、と思ったのである。ラスト近くでも、嵐の中を母船をあまり地上近くまで降下させると船体破壊を起こす可能性が高いと母船のAIが警告しているのに、調査隊を救助するために危険を冒し、無茶をして、しかも船体破壊は起きない。それなら警告はなんだったのか。

 無理を通せば道理が引っ込むなら道理など意味が無くなってしまう。AIは間違った判断をしていたのか。こういう三流ドラマ的なご都合主義がチラリとでも見えるとぶちこわしになるものだ。

 この映画ではエイリアンは脇役で、アンドロイドが主役だ。AIがとことん進み、AIつまりアンドロイド(母船のAIとは関係が無い)自らが判断して創造を始めたらどんな行動を起こすことになるのか、それは人間の想像を超えるものになるというのがこの映画のテーマのように思う。

 余談だが、NHKで『欲望の時代の哲学 マックス・ガブリエル日本を行く』という番組で、ヨーロッパの人々が、特にドイツ人が(日本人には思いもよらないほど)人型ロボットに対して、拒否感を持っているということを知って驚いた。マックス・ガブリエルはドイツの人である。その感覚はこの『エイリアン:コヴェナント』という映画のアンドロイドの描き方にも表れているのかも知れない。これはもともとの『エイリアン』のアッシュというアンドロイドの描き方にも現れていた。

 人間は、アンドロイドが人に似てくれば似てくるほど非人間的なものと感じるものらしい。たしかにそうかも知れない。しかし日本人は『鉄腕アトム』を持っている。あの手塚治虫の世界観を子供のときに刷り込まれている。その違いが案外大きいのかも知れない。

 その非人間的アンドロイドがエイリアンをどう関わっていくのか。リドリー・スコットらしい極めて悲観的な、絶望的な世界がそこに表現されている。AIが進化し、感情を持ち、自分で判断し、創造を始めたらどんな世界を招来するのか。人間はすでに役割を負え、滅びるべきものと成り果てたのか。未来の人類はその答えを識るだろう。さいわい私はその事態に直面することはないが。

想像力のことなど

 NHKスペシャル『人類誕生』の第三集は、『ホモ・サピエンス ついに日本へ!』というタイトルだった。この番組はとても面白い。人類の発祥はアフリカ大陸であることが科学的に確定しているという。しかし人類が誕生してからアフリカ大陸以外の地に拡散していくまでには数百万年の時間がかかっている。やがてネアンデルタール人はヨーロッパ各地に散らばり生息したが、後にホモ・サピエンスに繁栄を譲ることになった。さらにそのホモサピエンスがユーラシア大陸の東の果てにいたり、ついに日本に上陸するに至る話しが今回の第三集である。

 ホモ・サピエンスがネアンデルタール人に優っていたのは想像力と助け合う力だったという。このことは前回に詳しく説明されていた。体力的な強靱さではネアンデルタール人のほうが優れていたのに、ホモ・サピエンスが勝ち残ったのはそれが理由だという。ネアンデルタール人の遺跡はヨーロッパ各地にあり、石器も使用していたことが分かっており、言語も使用していたらしいと推定されている。必ずしも劣っていたわけではないのである。

 助け合う力と想像力が優れているからホモ・サピエンスであるわれわれがいまの繁栄を謳歌できているのだとしたら、いまの世界はどうなってしまったのだ、などと思う。想像力の基本は、たとえば料理なら、段取りがあり、それに沿って事前に食材や調味料を準備し、使用する調理器具を用意して、火加減、調理時間、味付けをしていく。いままでに作った料理の記憶も必要である。案外複雑な知力を必要とする。想像力が弱ければ料理はうまく出来ない。

 ここから原発事故の話に飛ぶ。事故が起きたらどうなるのか、事故としてどういう原因が想定されるのか、その事故が起きないためにどういう対策が必要か、それらを考えるためには想像力が必要である。そんなことは起こるはずがない、というのは想像力の欠如であり、しかも過去に大震災の歴史的な実例があることを知りながらそれを否定するのは知性の欠如であろう。それを震災の予知は無理だった、などという言い訳をする。それで許されると思っているならそれも想像力の欠如によるものだろう。

 太平洋戦争のような戦争を引き起こしたら、いったい日本はどうなるのか、その当時だってちゃんと考えれば分からなかったはずはない。それも想像力の欠如以外のなにものでも無い。

 魚を乱獲した上に海を汚染しまくればどうなるのか、それが全く理解できない人たちがいる。そのことでつぎつぎに大衆魚が市場から消えていく。これも想像力の欠如である。

 ホモ・サピエンスはどうも経済至上主義という悪魔の前に、想像力という能力を差し出してしまったらしい。それによって繁栄したはずの能力を失ってホモ・サピエンスは生き残れるのだろうか。

 もう一つの助け合う力についても同様である。いまのトランプによる貿易戦争などまさにその正反対の反知性的能力といっていい。彼は仲間をだいじにする。だから助け合うために自分の権力を行使していると確信している。それはアメリカの白人だけのため、ごく限られた仲間だけのための助け合う力の行使で、実は人類全体の助け合う力を著しく損なっていることを想像することが出来ないのである。

 人類誕生の番組を観ながら、その人類はそろそろ終焉を迎えつつあるのではないか、などと悲観的なことを考えていた。

2018年7月16日 (月)

映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』2017年アメリカ映画

監督ルパート・サンダース、出演スカーレット・ヨハンセン、ピルー・アスベック、ビートたけし、ジュリエット・ビノシュほか。

 士郎正宗の『攻殻機動隊』を原作とするアニメは日本で何作か作られていて、どれも出来が良く面白い。それをアメリカで、しかも実写で作ったのだ。もともとこういう映画は大好きだから、評価は多少甘いかも知れないが、とても良く出来ているし面白かった。サイボーグである草薙素子を日本人ではないスカーレット・ヨハンセンが演ずることに批判もあったらしいが、全く違和感はなく批判するに値しない。

 いままでも攻殻機動隊の世界観は飛びすぎていて多少ついて行けないところがあった(SF好きの私としては口惜しいところだが)。今回も多少その傾向があったけれど、それでも十分楽しめた。世界観にはまりすぎるのも単純に楽しむ妨げになるのではないか、というのは負け惜しみであるが。

 科学が進み、人体がどんどん義体化して、しかも脳がネットに直接アクセスしてしまった世界とはどんな世界なのか。この映画で描かれている世界はあの名作『ブレードランナー』に世界に酷似している。意識的に似せているものと思われる。そういえば『ブレードランナー』のなかでも人体の部分がパーツとして商品として売買されていた。

 サイバー犯罪やテロ行為はますます高度化していて、それを取り締まる組織が主人公の属する部署であり、リーダーはおなじみの荒巻大介(ビートたけし)、相棒がバトー(ピルーアスベック)である。イメージ的にはアニメのイメージを損なうものではないが、ビートたけしの台詞の滑舌の悪さはやや気に障る。

 展開の早いアクションシーン、夜の都会の空間をめまぐるしく縦横に動きまわる映像は楽しめる。この映画では草薙素子の原点のようなものが挿入されていた。母親役に桃井かおりがでていた。

 理屈抜きで楽しめる。

北原亞以子『蜩 慶次郎縁側日記』(新潮文庫)

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 蜩の鳴き声というと映画『トトロ』を思い出す。妹のメイが迷子になり、姉の五月が必死で日盛りを、そしてやがて夕方の里山を捜し回るとき、哀しげに聞こえるのが蜩の鳴き声だ。蜩の鳴き声にははかなげな哀しさがある。

 慶次郎縁側日記は、主人公の森口慶次郎が元南町奉行所の同心でいまは楽隠居の身の上ということで、そこに持ち込まれたり彼の関係者が関わる事件の話しであるからある意味で少しひねった捕物帖である。捕物帖とは時代劇を舞台とした探偵小説ともいえる。たいてい短篇である。そこにはさまざまな人生があり、その人生の陥穽にはまりかけた人間のある「とらわれ」を主人公達が解きほぐして事件が解決する。

 まことに人はとらわれると周りが見えなくなり、自分が見えなくなる。そのとき手をさしのべるのが森口慶次郎である。快刀乱麻を断つような謎解きの物語ではなく、そんなやさしさの物語集で、この『蜩』にはそんな短篇が12編収められている。

 森口慶次郎が主に関わったものばかりではない。彼の入り婿で跡継ぎの現役の同心・森口晃之助が主に関わるもの、その岡っ引きである辰吉が関わるもの、北町の同心から十手をあずかっている(蝮の)吉次が関わったものなどが入り交じっていて、主人公がちらりとしか出てこないものも多い。

 しかし彼等の関係は森口慶次郎が核となっていることは間違いないのであって、その世間に対する態度や関わりは慶次郎の影響を強く受けているのである。だから登場人物達はシリーズを読み進めるほどに親和性が増してきて、実在の人物以上に私の心のなかに棲みついているのである。このあとに番外編として『慶次郎覚書 脇役』という短編集を読んでいる。文字通り縁側日記での脇役たちがそれぞれの短篇の中で主人公としてその内面をさらけ出している。読了したら紹介する。

2018年7月15日 (日)

映画『エンドレス・マーダー』2014年オーストラリア映画

監督ドルー・ブラウン、出演スティーヴ・マウザキス、レオン・ケインほか。

 オーストラリア映画は外れが多いが、あの『マッド・マックス』のような大当たりもあるから、ほとんど外ればかりのカナダ映画より期待できる。そしてこの『エンドレス・マーダー』は小品ながら見応えがある映画だった。

 凄腕の殺し屋のスティーヴン(スティーヴ・マウザキス)はパーシバル(レオン・ケイン)という男から自分を殺すように依頼される。それもいつ殺したのか分からないうちに殺して欲しいのだという。パーシバルは傷だらけの不思議な男である。奇妙な依頼に戸惑いながら引き受けたスティーヴンは別れ際にパーシバルに銃弾を見舞う。

 間違いなく殺したはずのパーシバルは病院に運び込まれ、奇跡的に生きのびる。自分の失敗に驚いたスティーヴンはふたたびみたびパーシバルをさまざまな方法で殺害するのだが、どういうわけかパーシバルは死なない。

 スティーヴンは殺し屋としての仕事の関係で問題を抱えるとともに、三年前に事故で愛妻を喪ったことで精神的にも問題を抱えている。この不思議な出来事が彼の精神的な不調によるもののようにも見えてくる。あり得ないことの連続だからだ。

 その不思議な縁からスティーヴンとパーシバルは奇妙な友人関係を結んでいく。やがてなぜパーシバルは死にたいのか、その本当の理由が明らかになるとともに、なぜスティーヴンはパーシバルを殺すことができないのかその驚愕の因果関係が明らかになり、ついに・・・・。

 途中からこの結末はなんとなく想像がついたけれど、それでも一気になだれ込むラストには息を呑む。たまにこういう映画があるからつい小品映画も観てしまうのだ。

眠れない

 今朝は七時前から30℃を超えていた。昨晩は早めに床についたがエアコンのタイマーが切れたと同時に目が醒めてしまった。眠れないので数独パズルを始めたらますます目が冴えてしまった(当たり前だけど)。無理矢理目を瞑ってとりとめないことを考えていたが却って眠気がなくなっていく。仕方がなく本を読んでいた。読み疲れた頃ようやく眠りにつくことが出来た。

 昨夜から来週月曜日まで休酒することにしているが、眠れないのは酒を飲んでいないからではない。窓を開け放っても朝のさわやかな空気はない。それでもエアコンのスイッチを入れるのはもう少し我慢して扇風機でしのぐことにする。エアコンに当たりすぎると水分の抜けが悪くなって体が重くなる。冷たい水を飲むのも少し控え目にしなければ体調が崩れる。年齢のせいか持病の糖尿病のせいか、尿の出がわるくなって体の水分率が上がるのを感じる。ひどいときは足にむくみが出てしまうが、いまのところそこまでのことはない。水分補給としてコーヒーやお茶を少しずつ飲む。

 体が少しずつ高い気温に慣れてきている気がする。天気予報の気温は部屋の中の気温であって、炎天下の気温はもっと高い。日盛りに外へ出るのは危険だ。不要の外出は控えて部屋でゴロゴロすることにする。怠け者の私には最も得意なことだが、しばしばうつらうつらしていて、そのことがどうも夜眠れない原因らしいことにいま気がついた。

2018年7月14日 (土)

映画『釣りキチ三平』2009年

監督・滝田洋二郎、出演・須賀健太、渡瀬恒彦、塚本高史、土屋太鳳、香椎由宇ほか。

 矢口高雄の漫画を原作とした実写映画。原作の漫画は私が学生時代に愛読していたからずいぶん古いけれど、自分なりのイメージはしっかりと記憶にある。そして主人公の三平三平(みひらさんぺい)役の須賀健太はそのイメージに全く違和感がないのが嬉しい。

 これを実写化するのは下手をすると陳腐になりかねないからずいぶん難しいはずだが、それなりの映画に仕上げているのは監督の滝田洋二郎の手柄だろう。この直前に滝田洋二郎は『おくりびと』でアカデミー賞の外国語映画賞を受賞しているからのっていたのだ。この人の作品は『陰陽師』、『壬生義士伝』、『阿修羅城の瞳』、『天地明察』などを観ているが、外れがない。

 この映画には都会と田舎、都市と自然、人間と自然との関わり、自然の奥深さが説教臭くならない範囲でやさしく描かれている。都会でストレスフルに生きることも人間の生きがいだが、自然に囲まれて厳しいけれども案外豊かに暮らせる里山の暮らしがときには疲れた都会人を癒やすものであることを教えてくれるのだ。こどもには都会と田舎の両方を経験させることがとても大事なことなのではないかとあらためて思う。

 三平の幼なじみとして土屋太鳳が出演しているが、ほぼ十年近く前のこの映画のときは十四五歳だろうか、とても可愛い。香椎由宇はあまり好みでない女優だがこの映画では三平の姉役で、鎧に蔽われたかたくなな気持を次第に和らげていく心の変化を見事に演じていて評価が変わった。さすがオダギリジョーのハートを掴んだ女性だけのことはある。彼女の役柄こそがこの映画のテーマを体現しているのであり、そこがお粗末ならこの映画はぶちこわしだったはずだ。

 雨が多かったので映画三昧だったし、そのあとも暑いので家にこもってたびたび映画を観ているが、それぞれについてブログに書いているとそれが次第に億劫になってくる。本の場合はその本を反芻して考える機会になるので良いのだが、映画は楽しめば良いので反芻の必要は普通無い。逆にブログを書くために映画を観るような気分になっては映画を観る気も削がれてしまう。というわけで、書きたいものだけ紹介している。

 ところで釣りキチのキチはキチ○○のキチで、ことば狩りを正義だと勘違いしているマスコミはこの題名を嫌うことだろう。鬱陶しいことである。ことば狩りについては前にも書いたのでここではこれ以上書かない。

橘玲『朝日ぎらい』(朝日新書)

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 前書きに著者が明記しているが、この本は朝日新聞を批判したり擁護する本ではない。副題にある「よりよい世界のためのリベラル進化論」がずっと良く内容を表している。しかしそれでは本は売れないだろう。リベラル、リベラルというが、リベラルとはなにか、そのことをとことん解析している。引用したり資料として使われる実験的なデータは社会心理学的なものが主である。

 この本をかみ砕いてまとめることは私の手に余る。正直に認めるとそこまで読み切れていないのである。とにかく面白いので十分理解しきれないままどんどん先へ読み進めてしまったのだ。良く理解できないのにどうして面白いのか。目からウロコの落ちる思いのする部分がたくさんあるからだ。思い込んでいたことを見直さざるをえないことに快感を感じさせてくれる本は、私にとって面白いのである。

 日本のリベラルがあまり多くの若者の支持を得ていない理由が明快に説明されていて、まずうならされる。世界が極右的になりつつあるように見えるのはなぜなのか、なぜ安倍政権が多くの若者に支持されているのか、そのことも全く新しい視点から見直すことが出来る。実は世界はリベラル化しているのだ。そして右傾化はその反動としてのバックラッシュであるという。

 とにかくいわれてみるとなるほどと思うことが次々にあって読み進めてしまうのである。全体をもう一度咀嚼し直してものの見方の道具のひとつとしてこの本の視点を自分のものにしたいものだと思う。そのためにはもう一度読み直してみる必要がありそうだ。

 ところで著者の本を読むのは初めてではないのだが、名前を「たちばなれい」と読んで、女性だと思い込んでいた。この本を読んで女性とはとても思えないことに気がつき、確認したら「たちばなあきら」と読むこと、男性であることを知った。恥ずかしい。

 あとがきに朝日新聞について辛口の一文がある。リベラルの旗手を自認する朝日新聞のダブルスタンダード批判である。問題は「ネトウヨ」の攻撃など、外部にあるのではなく、内部にあるのだという指摘は痛烈である。

2018年7月13日 (金)

北原亞以子『峠』(新潮文庫)

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 慶次郎縁側日記シリーズの一冊。もともとは短編小説『その夜の雪』が出発点となってシリーズになったものだと私は思う。それとも最初からシリーズ化を考えていたのだろうか。それほどこの第一作は重いのである。だからこの「この世の雪』は新潮文庫の同題名の短編集と『傷』というシリーズ第一巻目との両方に収録されている。

 祝言を間近に控えたひとり娘・八千代を不慮の理不尽な死で喪った(その顛末が『その夜の雪』という小説である)森口慶次郎は元同心で、同心時代はほとけの慶次郎と呼ばれる情理を弁えた男であった。そんな彼だから八千代と祝言するはずだった義理の息子・晃之助に家督を譲り、いまは商家の別荘の留守番という悠々自適の生活をしていても、さまざまな依頼が持ち込まれてくる。

 このシリーズは彼女が2013年で死去するまで続いたので最終巻まで十冊以上ある。たしか第五巻くらいまで読んだはずなのだが、だいぶ時間が経っているのでまた最初から読み直し、持っていない本はすべて買いそろえた。今回の『峠』はその第四巻に当たる。

 人気の女流の時代作家はおおむね面白い。平岩弓枝の『御宿かわせみ』シリーズ、澤田ふじ子の『公事宿御用書留帳』シリーズ、そしてこの『慶次郎縁側日記』シリーズは特に私のお気に入りである。私にとってのお気に入りとは、二度でも三度でも読むに値するし、棚から引きだしていつの間にか夢中で読んでしまう本だということである。

 そのお気に入りの新作が、『新・御宿かわせみ』以外はもう読めないのはまことに悲しいことである。北原亞以子は五年前に他界。澤田ふじ子はシリーズを終結させてしまった。北原亞以子は東京生まれだが、高校は千葉第二高等学校卒。つまり戦前の千葉高女であり、私の母の後輩に当たる。ひとまわり離れているのに私の母より早く旅だった。ずいぶん早い旅立ちだったのが惜しまれる。

 さまざまな人間が自分だけの人生を必死に、ときには怠惰に、ときには悪い方へ悪い方へと踏み迷いながら生きている。すでに後戻りが出来ない闇に落ちこんだ者、あやうく踏みとどまる者、ハッと気がつくと自分の周りにはたくさんの人生が大河のように流れていることが見える。それをそれとなく知らせるのが慶次郎たちなのである。人は自分しか見えていない。そして自分自身にがんじがらめに絡め取られている。回りを見ることでそのいましめから瞬間的だけれども逃れることが出来ることもある。

 勧善懲悪をこの作家はほとんど語らない。ハッピーエンドも描かない。その手前で筆が置かれてしまうので、読者は自分の想像の中で筆の置かれたその先を想像せざるをえないのである。巧みな余韻の残し方にほれぼれするけれど、それが不満の人もいるかもしれない。

 表題の『峠』はシリーズとしては珍しく中編となっている。

時間を巻き戻すことは出来ない

 東海地方も今週初めにようやく(とはいえ例年より早いが)梅雨が明け、窓を開ければシュワシュワとクマゼミの鳴き声がにぎやかに聞こえる。関東に暮らしていたときはクマゼミの鳴き声は聞いたことがなかったし、その姿も見たことがなかった。三十数年前に名古屋にやって来たころには、アブラゼミの中に少し混じる程度だったのにいまは逆となっている。間違いなく温暖化が進んでいるのが分かる。

 エアコンのスイッチを入れ始める目安の室温を少しずつあげるようにしている。最初は28℃くらいだったが、いまは30℃にしている。体が暑さに慣れてきているし、逆に外気温はどんどん上がりだしていて、今日から数日は36~38℃の猛暑日が続くだろうとの予報である。長時間外を歩くのは控えたほうが良さそうだ。無理をする必要のない身であり、ますます長くなる夏をしのぐためにもその方が良いだろう。

 トランプ大統領がNATOの会合で吠えているようだ。この人はとにかく金の話しばかりである。そういえば選挙中の演説のときに親指と人差し指で丸を作るポーズが頻繁に見られたことを思い出す。あれはまさに金を表しているのだと私には見えた。彼は世界をすべて損得で認識しているように見える。いままでアメリカが損をしてきたのだからみんなも金を払えとEU諸国に要求して、言うことを聞かなければ自動車に対する関税を上げると脅している。これはトランプを支持している多くのアメリカ人の実感でもあるらしい。

 五十年前、四十年前、世界はまだ貧しい国がほとんどで、アメリカだけが豊かだった。その貧しい国々からアメリカに金が湯水のように流れ込んでいた。世界はアメリカの豊かさにあこがれた。それはアメリカの誇りでもあっただろう。三十年ほど前からいくつかの国が次第に豊かになっていった。それはアメリカの富を不当に奪ったものだ、と怒れるアメリカ人たちは日本車などをたたきつぶしたりして日本バッシングをした。

 いま日本だけではなく韓国も中国もヨーロッパも、アメリカほどではないにしても豊かになった。それでも日本バッシングをしたアメリカ人の心性は全く変わっていないのかも知れない。トランプは30年前のその怒れるアメリカ人の感覚のままの人物のようである。アメリカの富を奪ったから日本もヨーロッパも中国も韓国も豊かになったのだ、という確信で世界を見ているようだ。

 世界は平準化する。偏った富は水が流れ下るようにアメリカから世界へ流れ下る。それを防ぐためにトランプは土手を築こうというのである。メキシコ国境に壁を造り、世界に対して関税という壁を作ってアメリカの富の流出を防ごうというのだ。それはまさにアメリカを停滞させることにつながる。経済は流通があるから成り立つ。流通を壁で阻害するのがどれほど愚かなことか、トランプには理解する能力が無いようだ。

 トランプにとって30年前のアメリカを取り戻すことこそが夢であり、国民に対する約束だと考えているようだ。時間を巻き戻すことは出来ない。しかし彼はそのできないことをやろうとしている。アメリカだけが富み、世界を貧しくすることこそが彼がめざしている世界だとすれば、そんなことを世界が受け入れるはずがない。愚かな男である。世界はやがてアメリカに臍を噛ませようと結束するだろう。

2018年7月12日 (木)

驕り・補足

 司法・立法・行政の三権分立という制度は大変良く出来たものであると信じる。他国で見聞きする政治的な問題はそのバランスを失ったことによるものか、またはそもそもバランスが最初から考慮されていないことによるもののような気がする。

 アメリカのトランプ大統領の暴走も、大統領の権限があまりに強いことに起因するのではないか。しかしながらアメリカにはそれを復元する巧妙なシステムが構築されているし、なによりメディアがそれなりの役割を果たしているという強みがある。経済がよほど毀損しなければ、なんとかなっていくのがアメリカという国だろう。貿易戦争でその経済がどれほど悪影響を受けるのか、それはこれから分かってくるだろう。

 韓国はやはり大統領制で、その大統領権限が強すぎることで立法も司法もそれに影響されすぎて歪んでいるように見える。しかもメディアはポプュリズムに支配されてそれを正義と考えているから、その弊害も大きいように見える。韓国経済はその影響をまともに受けてこれから厳しいことになるような気配である。

 トルコは建国の父アタチュルク以来、三権分立を守ってきた。それが国にとって、そして国民にとって最も良いことだと信じて憲法にも明記し、守ってきたのである。それがエルドアン大統領になり、憲法が改正され、大統領に強権が認められるようになった。そのような国がどのような推移をたどるのか、興味深い。泉下のアタチュルクはいまどのような思いでトルコを見ているのだろう。

 中国は一党独裁の国、行政が突出して強権の国である。司法も立法もその支配下にあり、それらの上に共産党があり、それを習近平が支配している。行政が突出しているシステムは必然的に腐敗を生む。行政執行者に強大な権限があり、利権が生ずる。そしてそれをチェックするはずの司法や立法は行政の下位にあるのであるから腐敗するのは当然である。だから習近平は司法の代わりに腐敗撲滅の役割を推進せざるをえないのである。そうでなければ国は内部から腐って崩壊してしまうことは長い中国の歴史が証明しているのである。

 いま安倍政権が危ういのは、行政が司法や立法よりもいささか突出しているからである。立法府が野党の無能によって正常に機能しなくなり、司法が政府の顔色をうかがう傾向がありはしないか。しからば行政のチェック機能が正常に働かない。その上マスメディアは政権や官僚からの情報を垂れ流すか、感情的な善悪論に終始している。

 どうしてこれほど官僚の不祥事が続出するのか明らかである。行政が突出しつつあることで官僚に強権が与えられ、または与えられていると錯覚し、腐敗が進行しているのである。安倍晋三本人の周囲がきな臭いのも必然である。腐敗の必然的な状況にあることの認識を欠いていると、個別の問題としてしかとらえることができない。

 安倍政権の驕りはすでに日本を蝕みかけているような気配であり、安倍政権自体が悪であるかどうかということを別にして、政権の持続はもうしない方が良く交替すべきだ、というのが私の見立てである。

 これは本論と別だが、この前の前に書いたブログの長谷川慶太郎『異形の大国を操る習近平の真意』についてけんこう館様とHiroshi様からコメントをいただいた。そのことで自分なりに考えたことをお返ししたのだが、わざわざコメントの欄を読まない人も多いと思う。公開しているコメントであるからこちらに引き写してもかまわないと判断し、転載する。

コメント
中国とは、のらりくらりで深入りしないほうが得策と思います。移民もシッカリ考えておかないと、気づいたら中国人ばかりということになったら日本の国柄が変わってしまいます。

投稿: けんこう館 | 2018年7月11日 (水) 13時17分

その本でも議論されているかもしれませんが、私は現代中国の最大の危機は「人口学的時限爆弾」だと思っています。
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中国史の中でも何度も起こりましたし、
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西欧史の中でも、最近だとイスラーム過激派の出現をそれで説明している人もいるくらいです。
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最近、この人口調節を推進したのが社会学者でも、経済学者でもないロケット科学者であったという本を読み、驚くと同時に「だからそのもつ危険性を認識できなかったのだ」と納得しました。
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投稿: Hiroshi | 2018年7月11日 (水) 13時32分

追伸:本を読んでいないのでどのような理由で長谷川氏が「一帯一路」に参加すべきと述べられているのかは知りませんが、私もこの人口動向から参加すべきだと思います。ただしTPPと天秤をかけつつ。この10年近く、何度も上海浦東空港に着陸した時、その変化に驚かされるものとしては特に。
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また、ほとんど日本では議論されていませんが「一帯一路」は歴史的に補完的というよりも競合的であったという事実も忘れてはならないでしょう。 それは中国の国力を削ぐ可能性もあります。より相補的なのはTPPかと。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/4921/trackback

投稿: Hiroshi | 2018年7月11日 (水) 13時55分

Hiroshi様
その件に関してはさまざまに論じられ始めていますが、近藤大介『未来の中国年表』(講談社現代新書)という本に詳しそうなので近々読むつもりです。
2049年の建国100周年を5億人の老人が祝うことになるというその惹句はまさにその状況を表すものだと思います。

投稿: OKCHAN | 2018年7月11日 (水) 13時55分

けんこう館様
中国との関係は好むと好まざると関係なしに深まって行かざるをえないと思います。
そのときに日本人のアイデンティティが損なわれるのか、日本に増えてくる中国人定住者が日本のアイデンティティを自分のものとして取り込んでいくのか、それが日本がこれからも生き易いか、それとも暮らしにくい国になるかを決めるかも知れませんね。
彼らは日本に来て初めて中国の本当の歴史を知ることになると思います。
というより学んで欲しいものだと願っています。

投稿: OKCHAN | 2018年7月12日 (木) 08時39分

Hiroshi様
中国はすでに社会主義国ではなく資本主義の国になりつつあると思います。
そのことがこの長谷川慶太郎の本の骨子です。
しかし共産党一党支配という羊頭狗肉の看板を下ろすわけにはいかないでしょう。
あれだけ大きな国を経営するには強権がどうしても必要なのかも知れません。
一帯一路を進めるには中国も厖大な資本投下が必要ですから、経済余力が失われると中国の国力を削ぐことになるというHiroshi様の指摘はその通りだろうと思います。
アメリカと中国の覇権主義に対抗するためにTPPはささやかな希望かも知れません。
イギリスもEU離脱に合わせてTPP参加を模索しているといいます。

投稿: OKCHAN | 2018年7月12日 (木) 08時47分

驕り

 自民党の参議院議員の定数是正案が参議院を通過した。IR法案とともに今国会会期中に成立の可能性が高いそうだ。それぞれの法案の必要性にはそれなりの理由があるのだろうが、私はいまのところ納得するに到ってはいない。アンケートを見ても、両法案に国民の多数が賛同しているという状態ではないように思う。

 少なくとも賛同するための納得のいく情報が提示されているとは思えない。もちろん日本は代議制の国であるから、賛否を決定するのは任された議員達である。その人達が適切に審議をしていると思えればその採決に従うことはやぶさかではないのだが、そう思えないのである。

 もちろんいままでも安倍政権はいくつもの法案を与党単独、あるいは一部野党のみを引き入れて採決に持ち込んで法案を成立させ続けてきたが、それなりになにを審議しているのかについて情報は伝わっていたし、審議にもそれなりに時間を費やしていた気がする。野党は審議不足を理由に反対したりしていたが、その法案そのものとは関係の無い質問を繰り返して時間を空費していたような印象が強い。

 安倍政権は悪の政権だから何でも反対、ほらこんなに悪いことをしている、と言い立てることに終始している野党は、国民の多くからそっぽを向かれて息切れし、いささか疲れているようだ。  

 定数変更法案やIR法案こそアピールの仕方で国民の反対を糾合するようことが出来そうなのに、いままでの空費の積み重ねが野党の無力感につながり、国民の支持も失い、肝心なときになんの役割も担わず、やすやすとこのような法案を通過させてしまう。

 これは安倍政権の驕りそのものであるとともに、野党の責任も重い。とはいえ国民はちゃんと見ているのである。このような驕りの政治は必ず国民から制裁を受ける。野党の無能を足元に踏みつけて勝ち誇り、やり過ぎたことのツケを必ず払うことになるような気がするし、そう思いたい。

 ただ、現状ではポスト安倍政権が野党になる可能性は絶無だろう。いっそのこと小泉進次郎に次期政権をゆだねても好いではないか、などと夢想する。フランスだってカナダだってあんなに若い人が国を率いているではないか。足らないものは皆で補えばいいのである。

 世界は大きく変わりつつある。激変しているといってよい。変わる世界に対応するために安倍首相はそれなりに頑張ってきたと私は評価している。変わる世界に対応することが出来ずに変わることをひたすら畏れ、変わることは悪だと喚き立てる野党はまさに頑迷固陋の保守そのものではないか。安倍晋三が一強であり続けるのは変革を畏れないからで、ほかにその勇気のあるものがないからではないのか。

 なぜ若者は野党を全く支持しないのか。若者は変革を求めるのである。固陋な老人たちに支配されている社会では彼らの立つ瀬が無いと考えるからだ。いまの野党はまさに既得権を持つ固陋な老人たちを弱者として守ることばかりに力を入れている。若者がどうしてそのような野党を支持するはずがあろうか。

 それならば変革を推進しそうな若い政治家に時代を託す英断を安倍首相はすべきではないか。しかし老人たちはそれに反対し、引きずり下ろそうとするだろうなあ。

南蛮漬け

 昨日午後、娘のどん姫がやって来たことをブログに書いたのだが、あまりにプライベートなことを書きすぎたかも知れないと思って夜中に削除した。自分のことならいいけれど、娘のことをあまりさらけ出すのはどうかと感じたのである。せっかく何人かの人に「いいね」をもらったのに申し訳ないことである。

 そのどん姫がやってくるのに合わせて、一昨日アジの南蛮漬けを作っておいた。ちょうど知多で小アジのあがる時期で、安い新鮮なものがスーパーに並ぶ。ところがアジが中ぶりなものばかりである。刺身用や塩焼き用にはややもの足らないが、煮付けにしたら美味しそうなサイズだ。

 ピーマン、玉葱、人参、鷹の爪を刻んで南蛮漬けのたれに漬け込んでおき、しばらくおいたあとにアジを唐揚げする。野菜を一度たれから引き揚げ、揚がったしりからアジをたれにほうり込む。ついでに残っていたナスを素揚げにしてそのたれに漬け、その上から引き揚げてあった野菜を戻してラップをし、漬かるのを待つ。

 たれの酢と醤油と味醂のバランスが今ひとつ不満があったし、アジが大きいのだから二度揚げすべきだった(頭と骨が思った以上に硬いままだった)かなと思うような出来だったが、どん姫はうまいと言った。

 八月はじめに泊まりでやってくるようなことを言っていたので、今度は酒を飲むためのメニューを考えよう。

 さばいたアジのワタを丁寧に密封してゴミ袋に入れていたのに臭ってきた。あわててマンションのゴミの集積所に捨てた。魚は好いけれど、夏はこれが問題である。コンポストでもあれば良い肥料になるのだろうけれど。

2018年7月11日 (水)

長谷川慶太郎『異形の大国を操る習近平の真意』(徳間書店)

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 日本とアメリカの将来(特に経済面)について極めて楽観的な見通しを述べ続ける長谷川慶太郎翁が、現在のトランプに振り回される世界と、虎視眈々と覇権を狙う中国の実情を分析した上で、いつものように楽観的見解を披瀝している。一体どうなってしまうのだろうかと心配している人間も、これを読めば元気が出ること請け合いである。

 楽観的なのはいつものことだが、いままでもその予測の多くが実証されてきた。とはいえ少し楽観的すぎる気もする。中国は恐るるに足らず、というのが楽観論の根拠といえるのだが、本当に恐るるに足らないのだろうか。それが心配である。

 中国の統治システムが腐敗を生むことは歴史的なもので、現在の一党独裁政治が変わらない限り腐敗の根は絶つことが出来ない。皇帝時代と全く変わっていないのだ。それは行政が突出して権利を有し、司法や立法がその行政のおまけとしてついている体制であるからだ。行政が利権を生み、それをチェックするための立法や司法に力が無いのであるから腐敗は必然なのである。だから中国では腐敗を行政が退治しなければならないという、異常なことが行われざるをえないし、それが権力闘争と極めて酷似した様相を呈してしまうのだ。

 さらに中国の経済体質を変えるためには過剰生産をやめなければならないが、過剰生産の主な原因は国有企業にあり、それを改廃しなければならないことは中国政府もよく分かっている。ところがその国有企業には大きな利権があり、その利権を握っているのは共産党であるから、なかなか抜本的に手をつけることが出来ない。しかもその過剰生産をしている国有企業には多くの人が働いており、改廃淘汰すれば必然的に失業者の大量発生につながってしまう。失業者は社会不安のタネである。中国政府のもっとも恐れるものでもあるのだ。

 もう一つ、中国には都市戸籍と農民戸籍という階級差がある。ところが農民戸籍を持つ農民工が都市部に出て働き、安価で大量の雇用を支えてきた。しかし戸籍の差によって賃金や社会補償に極めて大きな差があり、そのことが社会不安のタネになっている。いままでは農村に足場を持ち、都会に出稼ぎに出ている農民工だったが、世代交代が進み、農村に全く基盤のない農民工の若者が増えている。彼らの閉塞感はさらに社会不安のタネになっている。そこで中国政府は徐々にその戸籍の違いの解消をする方向で模索を始めている。

 多分遠からず都市戸籍と農民戸籍は統一されるだろう。しかしそのときこそそれぞれの格差についての不満が顕在化するとも言えるのである。いままでは戸籍の違いを理由に出来たが、これからは同じ戸籍なのに差があることが社会に対する怒りとなるかも知れない。

 社会不安を畏れる中国政府は国民の監視統制を強化せざるをえない。そのシステムの強化は凄まじいようである。ほとんどプライバシーというものは存在しなくなりそうな気配である。しかし特に違法なことをしないのなら便利な社会であり、別にかまわないではないかというのがいまの中国国民の大方のようではあるが。

 これから万一中国の経済が停滞または後退局面になったとき、はたしてどうなるのか、それを見越して長谷川慶太郎翁は「日本もアメリカも大丈夫」というのである。

2018年7月10日 (火)

曽野綾子『人間にとって病いとはなにか』(幻冬舎新書)

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 そもそも健康とはなにか。病気ではない状態のことのようである。しかしよくよく考えてみると、どこにも病気を抱えていない人間などいるのであろうか。健康とは実は理想的な、空想的なものなのではないかなどと思えてくる。よくよく健康な人というのが、実はよくよくしあわせな人と同様、イヤなものなのではないかなどと天邪鬼の私などは思ったりする。そういう人は病気を抱えている人や不幸せな人のことが理解できないことを、長い人生のなかで見せられてきたからだ。

 体や心が不調のときというのは誰にでもあるもので、そのときにどうすればいいのか、人は案外それに効果的なことをひとりでにするものだと著者はいう。体や心がそれを求めるので、それに素直に従うことで多くの場合は大事にならずに済むものである。しかし現代人はその自分の体や心の求める声を聞き取る能力が落ちているのかも知れない。雑音が多すぎてその声が届かなくなっているのではないか。

 自分の体や心がコントロールできるなどと思い上がっているのかも知れないが、そのために大きな躓(つまづ)きをしがちだ。人は一人一人違うもので、大きかったり小さかったり、若かったり年寄りだったり、強かったり弱かったり、美しかったりそれほどでもなかったりする。それを誇ったりうらやんだりするのは愚かなことだと知りながら、ついそれを忘れる。

 心は体と不即不離なものだから、体調の波で心は翻弄されるものだし、心がめげれば体調も影響される。それらとどう折り合いをつけて楽に生きていくのか、その考え方のヒントがこの本にいろいろと書かれている。それは、人生はときにつらいものだが、ときに楽しく素晴らしいものだと思うためのヒントでもある。加齢による体力の衰えや、不調をどう受け入れて前向きに考えていくのか参考にしたい。

音楽に酔う

 テキサスの州都、オースティンで2015年に開催されたビリー・ホリディ生誕100年記念のカサンドラ・ウィルソンのライブを見た。先日WOWOWの「オフビート&JAZZ」という番組で放映されたものだ。ビリー・ホリディの名前だけは知っている。しかしカサンドラ・ウィルソンという人は知らない。

 夕食、というより晩酌の酒を飲みながら聴く。素晴らしい。彼女の静かに語りかけるような低音の声に魅了される。バックの伴奏も過剰ではないアレンジを楽しんでいるし、小さなオーケストラも抑え気味のサポートをして調和している。大げさでなしに生まれて初めてジャズに心が震えた。

 気がついたら氷をたっぷり入れたグラスにジンを注ぎ、それを舐めながら音楽と酒に酔っていた。蒸留酒を飲むことはめったにないからめずらしいのだ。

 カサンドラ・ウィルソンのライブのあとに、番組のおまけとして上原ひろみが紹介されていた。娘のどん姫にジャズを聴くなら上原ひろみと綾戸智恵を聴いてみろと勧められて、e-onhyoからダウンロードした。その一つが上原ひろみとハープ奏者のセッションで、気にいっている。その共演するようになったいきさつと実際の演奏の様子を番組で見せてもらった。想像以上に強烈なその演奏の様子にもしびれた。

 この歳になってジャズがちょっとだけ感じられるようになるとは我ながら不思議な気持だ。先日来、ジャズと1980年代のロックを聴いているが、ロックは、特にハードロックは、どうしても肌に合わない。ジャズは聞き込むほどにこちらの壁を浸透してくるようだ。音楽を純粋に音として聴くことが少しだけできるようになった気がする。いままでは映像を連想して聴いていたのだ。

2018年7月 9日 (月)

訃報に思う

 加藤剛が先月亡くなっていたそうだ。今年初めにNHKの時代劇、東山紀之主演の『大岡越前』のスペシャルドラマに出演していたのを見て、病が篤そうだなと思っていた。

 加藤剛といえば『大岡越前』を30年演じた、などと報じていたけれど、私にとっての加藤剛は『忍ぶ川』の加藤剛であり、『三匹の侍』での加藤剛であり、『砂の器』での加藤剛である。

 どれも忘れられないけれど、特に橋本忍監督、栗原小巻共演の『忍ぶ川』という映画は私の青春時代に見た映画として忘れられない映画である。三浦哲郎原作のこの映画は、東北特有の暗い血を感じさせるストーリーが、じわじわとこちらの精神に浸潤してくるとともに、若い男女が直接肌を触れあうことで高まる体熱が、その血の宿命を乗り越えるのではないかと思わせる、ほのかな希望の光を感じさせるものであった。

 多分その血の宿命のようなものは太宰治に重なるもののように思う。残念ながらそこまで太宰治を読み込んでいないので分からないが、三浦哲郎にはしばらくはまったのでそんなことを思い出していた。『砂の器』のことになるとまたもう一つブログを書かなくてはならなくなるが、今日は少し余分に酒を飲み始めているのでいまはやめておく。

入道雲

 朝、少し長文のブログを書いたら疲れてしまった。少し弱めにかけたエアコンの効いたリビングで寝転がって音楽を聴いている。ガラス戸越しに見えるとなりの棟の上まで入道雲が立ち上がり、白く輝いている。戸を開ければ蝉の声も近くの幼稚園の園児たちの喚声も聞こえる。夏である。

 ゴロゴロしていないで本を読んだり映画を見ようかと思ったり、雨が続いたあとなのだから久しぶりに出掛けようかとも思うのだが、そう思いながらなにもしないというのは好いものだ。出掛けるとついなにかを買うから金がかかる。このところ少し散財が過ぎたから、しばらくじっとしておいた方がいいか。

 そういうときは頭の中に浮かぶさまざまなことも、形になる前に砕けて散ってしまう。再来週には定期検診があり、そのすぐあとに久しぶりに長老と兄貴分の人との三人での小旅行の予定がある。それまでに少し節制しておかなければならない。そうすれば晴れて美味しいものを食べて美味しい酒も飲めるのである。

 蔵王周辺が主体という大まかな予定は決まっているけれど、いつものように細かいことはそのときその場で決める。ふたりは大阪から新幹線で乗り継ぎでやってくる。私が東北まで車で長駆して拾うのである。だんだんわくわくしてくる。

 入道雲が次第に黒い雲に変わり始めた。まだ青空が見えているけれど、にわか雨でも降るのだろうか。

望月衣塑子&マーティン・ファクラー『権力と新聞の大問題』(集英社新書)

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 望月衣塑子女史は東京新聞の記者。記者会見での質問に答える政治家に食い下がって繰り返し問いかけることで知られる。菅官房長官特有のはぐらかしにめげず、仲間内からもいい加減にしろと言われるほど質問を繰り返したことで特に有名になった。マーティン・ファクラーはニューヨークタイムズの前東京支局長。

 本にラインを引いたり付箋を貼ったりすることはあまりしないのだが、気になるところがたくさんあり、付箋を貼りだしたら付箋だらけになった。この本は先般読んだ『崩壊 朝日新聞』に関連して、現役の新聞記者側の主張を知っておくべきだと考えて読んだのだが、その主張に賛同したり首をかしげたりしたことがたくさんの付箋添付となっている。

 ファクラーがいみじくも「ジャーナリストが心がけるべきことは、事前に結論を決めてしまってはいけないと言うことです。「これはこういうことだ」という見方をしたまま報道してしまうと、間違った結論に辿り着いてしまう危険があります。」と指摘している。朝日新聞が批判されるのは主にこの点にあるのではないか。

 与党政治家はマスメディアに不偏不党、つまり中立を求める。しかし中立など立場によって違う。マスメディアは記事が公正であることこそが肝心であるとのファクラーのことばは重要だ。

 望月衣塑子は、安倍政権は過去に例を見ないほどマスコミに強硬な態度を示し、同時に利用しようとしていると主張する。マスコミをコントロールしようとしているというのである。だから安倍政権は悪い政権だといいたいのであろうか。それに対し、ファクラーは、権力がマスコミをコントロールしようとするのはどこの国でも同じで、問題は安倍政権というよりもそれに易々とコントロールされているように見える日本のマスコミにこそ問題があるのだと見ている。アメリカでは多くのジャーナリストが政権のコントロールに立ち向かうが、日本にはそれがあまり見られないというのである。

 ファクラーは「アクセス・ジャーナリズムと調査報道」ということについて語る。「アクセスジャーナリズム」とは、権力に近い側に寄りそって取材し、情報を得ることである。その一方、「調査報道」とはメディア独自の調査を丹念に積み上げ、現場の取材を重ねることによってそのメディアなりに確信を得た事実を報道したり問題提起をすることである。  

 そこでファクラーが日本の新聞社の問題は記者クラブという存在にあるのではないかと指摘する。多くの国では記者クラブは弊害があるとしてすでになくなっているという。日本の記者クラブが仲良しクラブに堕し、政権のコントロールを唯々諾々と受け入れる原因になっているのではないかというのである。本来新聞と権力側の力関係は対等ではない。記者クラブは個別の力を集めることで権力に対抗するはずのものだったのに、仲良しでありながらそういう意味での結束はほとんど見られないというのだ。それなら記者クラブはマスコミとしては存在悪である。

 記者クラブによりアクセスジャーナリズムが肥大化し、調査報道がおろそかになっているのならば、まさに新聞は政権の餌食である。いまスクープが週刊誌のものになりつつあるのはそれを如実に示しているのではないか。

 ファクラーは東日本大震災による原発事故の翌日から東北を取材で走り回ったという。しかし日本の新聞記者は政府の指示に従い現地取材を自粛していた。調査報道を放棄していたのである。だから政府発表だけを垂れ流していた。メルトダウンが明らかなのに、政府がメルトダウンは起きていないというとそのまま伝えていたことを私も記憶している。望月衣塑子は、そのときそれはおかしいのではないかと記者クラブが経産省に抗議したというが、政府が隠すなら自分で調べるべきだろう。ちなみに、私の記憶では国民から事実を隠すことに主に活躍していたのは枝野氏であり、その後その印象を拭うような情報を知らない。だからあの人を信用しないのだ。

 ほかにもネットメディアとの関係、新聞社の将来あるべき姿など、詳しく語られている。

 ファクラーの指摘には頷くものも多かったが、朝日新聞の慰安婦問題の誤報について、吉田清治の件は別にして朝日新聞は謝罪すべきではなかったと主張していることには同意できない。それは慰安婦が存在していた事実を否定することにつながるからだというが、問題は軍隊による強制連行があったという報道の根拠が吉田清治の証言であるのだから、それが嘘であったことが明らかなら謝罪するのは当然だと思うからである。

 私が問題だと思うのは、朝日が誤報を掲載してしばらくしたあとに、吉田証言を確認するために済州島に調査に入った学者がそれが事実無根であることを確認して発表しているのに、朝日新聞は30年もその裏付け調査をしなかったという事実である。事前に結論を決めて報道をすると、それを否定するものが出てもそれを変更できなくなるという、ファクラーがジャーナリストとしてしてはいけないことを朝日新聞はしたのではなかったのか。慰安婦がいたことが事実だからというが、では朝鮮戦争のときにアメリカ軍用の慰安所はなかったのか、ベトナム戦争のときに慰安婦はいなかったのか、進駐軍のための慰安所はなかったのか。そのことで一般の女性の被害が多少なりとも減ったのではなかったのか。戦争は勇ましいものではなくて醜いものである。

 私は慰安婦をあっても仕方がない存在だなどと毛筋ほども思わないし、それを正当化するつもりもない。慰安婦問題の誤報について朝日新聞を非難するのは別の話である。

2018年7月 8日 (日)

濁流

 東海地方では、岐阜県北部に大雨が降りつづけて郡上市長滝はすでに1000ミリを超えている。郡上白鳥の北、長良川沿いにあるこの長滝には長滝白山神社があり、しばしば訪れる。この神社は正月六日に「花奪い祭」が行われ、テレビで毎年紹介される。拝殿の天井の花を人垣の山を作ってよじ登って奪い合う祭だ。この拝殿は大きく、天井はとても高い。いくつも掲げられている額はみな素晴らしい。

 長良川は清流である。並行する国道156号線を走るとその青く澄んだ水色にいつも息を呑むほどである。それが凄まじい濁流になって流れ落ちるように流れている。これから鮎のシーズンだが、鮎はどうしているのだろうか。

 長良川といえばまず思い浮かぶのが郡上八幡だが、この街を流れるのは支流の吉田川やさらにその支流の小駄良川、そして街内には豊かで清らかな脇水が流れている。すべて澄んで美しい。それがいまは濁った水となっていることだろう。有名な名水の宗祇水は小駄良川の横にある。

 下呂や高山は今日も大雨が降りつづいている。飛騨川に沿って国道41号線を北上して高山に向かうのだが、その飛騨川には巨大な岩がゴロゴロと転がっていて奇景である。どうしたらあんな岩石が流れ落ちるのだろうと思っていたが、この大雨の濁流を見ていると得心がいった。

 分水嶺を越えて高山に入る。高山を流れる宮川は、当然太平洋ではなく最後は日本海に流れ下る。その宮川も川幅いっぱいに濁流が流れていた。高山の景色が見たことのないものになっている。

 岐阜だけではない。全国あちこちを愛車で走り回ってきた。知っている地名を聞くと嬉しいものだ。自然のなせるわざで如何ともしがたいものの、そのなじみの場所が凄まじい雨で被害を受けているのを見るのは哀しい。

 ところでテレビの大雨情報を伝える現場の取材者がしばしばプロとは思われぬほどお粗末でいらだたしい。急にその役割を当てられたとはいえ、人にものを伝えるプロとしての心がまえがないのは如何なものか。NHKにしてそうであるから情けない。滑舌の問題ではない。口下手でも気持があれば伝わるものなのだ。自分だけで空回りしている無様さに腹が立つのである。

関市の氾濫場所の映像で、見馴れぬ白い帯状のものがあたり一面に散らばっていた。なにごとかと目を惹くものなのに「上流から流れてきたものが・・・」と繰り返すばかりでそれがなにか、ついにわからなかった。報道するならそれがなにかを調べて知らせよ!誰もがなんだろうと不審に思うものを分からぬままに報ずることを恥としないのか。分からぬなら分からぬと言えばいいのにそれすら言わぬのは、信じられないことである。

天変地異

 昨夜、千葉房総沖で地震があった。私の生まれ育ったのは九十九里に近いところなので、まさに昨日の地震で揺れた場所は私のよく知るグラウンドである。千葉県には弟や妹をはじめ身内もいるし、むかしの級友もいる。最大震度で5弱というから、被害が出るほどのことはなかったと思い、わざわざ連絡はしなかった。

 あの東日本大震災のときもたまたま九十九里に近いところにいた。立っていられないほどの揺れで、棚の本やらCDがばらばらと落ちた。あの辺りは十年に一度くらい大きな地震がある。三十年ほど前には、その当時の実家(その後父母と共に千葉の方に移転した)の瓦屋根が落ちて弟とブルーシートを掛けたこともある。

 今回の大雨で、岐阜の長良川水系の一部ではすでに降水量が1000ミリを超えたという。未曾有の大雨といい、なにやら自然が不穏である。これがなにかの大きな天変地異の予兆でなければいいがなあといささか不安になっている。

2018年7月 7日 (土)

大丈夫との返事だが

 息子が広島にいて、住んでいるあたりがテレビのニュースにちらりと映った。川があふれて道路に冠水している。昨晩メールで様子を尋ねたら、家は少し高台にあるから大丈夫だとの返事をもらった。

 とはいえ道路や近くの駅も水浸しに見えた。今日は雨も上がり始めているようだし、土日の二日で水は引くだろうが、いろいろ不便なことはあるだろうと心配である。昨年末に買ったロードスターは無事なのだろうか。まさか駐車場が低いところにあって水をかぶったりしていないだろうか。

 実際に被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げたいが、つい自分のこどものことが先に心配になる。申し訳ないことである。とはいえ何度も大丈夫か、と問うのもどうかと思って控えている。そういうのをうるさがる息子なのだ。

長谷川煕『崩壊 朝日新聞』(WAC)

 本文の最後を引用する。

「本書を通して見てきたことは、歴史の中で「大義」を見誤り、囃した結末は恐ろしいということである。「大義」好きの朝日新聞社は、やたらとすぐ「大義」を担ぎ出し、物事の誤断を繰り返し続けたことで、いま、世の中から仕返しされているのであろう。その紙面について眉に唾されるという形で。
 それを私は歴史からの復習、制裁と考える。」

 著者は優れた記事を書き続けた朝日新聞の著名な記者であった。定年退社後に書かれたこの本は、ある意味で愛するがゆえの痛憤の書と言えようか。慰安婦問題の誤報に端を発しているとはいえ、結果的に昭和史を朝日新聞という軸に照らして語る書となっている。いままで何冊か朝日新聞批判の本を読んできたが、それらの本とはまるでレベルの違う本だと思う。

 この本が著者の推察推論ばかりだという批判は可能である。しかしその推察推論に至る背景についての資料の引用は明示されており、批判するためには反証を用意するべきだろう。多分それも十分可能だ。だが私にはその推論推察とさまざまな史実が、すべてとは言わないが、整合しているものがあるように感じた。少なくとも昭和史について考える新しい切り口を提供されたと感じている。

 父は正義好き(絵に描いたような正義漢の教師であった)なので朝日新聞の世界観に調和していた。前にも書いたが私は朝日新聞で世の中を、そして世界を見て育った。それが首をかしげるようになったのは高校時代、中国の文化革命に関する朝日新聞の記事の違和感だった。

 当時は政治の時代(学生運動が盛んな時代)だったから高校時代にはすでにさまざまな情報を持つ級友もいて、中国の実際は朝日新聞の書くような国ではないといわれて信じられない思いがしたのだが、そのつもりで読み直すと、文化大革命礼賛、毛沢東礼賛の異様さが多少は見えるようになった。当時「宝石」や「現代」などの月刊誌を読み始めていたから、文化大革命が権力闘争であるという記事もたびたび目にしたが、朝日新聞は文化大革命を理想化して、それが権力闘争だなどという話しを真っ向から否定していた。

 そんなときに林彪の事件が起きた。林彪の失脚、死亡の情報をほかの新聞やメディアがすべて報じたのに、朝日新聞だけがいつまでも不明として報じなかったことをよく覚えている。文化大革命が権力闘争であることの証左であったからあえて報じなかったのだということが私にも分かった。

 その背景がこの本にも書かれている。朝日新聞の中国に対するスタンスが極めて偏向していることはおおよその人が感知していることであろうが、そのことがどれほど日本の民意を歪めたか。

 この本には取りあげたい話が山のように書かれているが、その中で特に強く記憶に残ったのは、ゾルゲ-尾崎秀実(ほつみ)事件に関する記述である。昭和史の裏面にこの尾崎秀実がどのように関わったのか、そして尾崎秀実と近衛文麿、さらに朝日新聞と尾崎秀実との関わりに関する記述は資料が限定されるのでどうしても推論を重ねるものではあるが、まるでミステリー小説を読むように面白いし、初めて得心する話しがたくさんあった。

 推論が多いから読む値打ちがないなどと断じずに、多くの人にとにかく最後までこの本を読んでみて欲しい。その上で自分の考えを修正したり補完したり、反論したりしてみて欲しいものである。近現代史について新しい視点を持てると思う。  

 朝日新聞の病はすでに膏肓に入って久しいようである。

2018年7月 6日 (金)

神格化

 オウム真理教の松本智津夫死刑囚の死刑が執行され、マスコミがいっせいにそれを取りあげていた。よほどの死刑廃止論者で無い限り、死刑執行は当然のことと捉えているものと思う。

 今後このような事件を防ぐためにももっと真相を話させるべきだった、などというコメントを聞いたけれど、真相を話す気があればとっくの昔に話しているはずで、今後時間をかけたからといって新たな情報が得られるなどと本気で思って言っているのだろうか。これも常套句の口パクであるように思う。

 ところで、死刑執行によって麻原彰晃(松本智津夫)が神格化するおそれがあると心配する向きもある。たしかにその可能性は否定できないだろう。だから警察は徹底して残る信者たちの動静を注視し、不穏な動きを取り締まるようにして欲しい。

 だが私が苛立つのは、そのことを語るマスコミのコメンテーターの口ぶりだ。本当に心配して語っている人はともかく、中にはなにか起きたらまたニュース種になって面白いな、と内心で思っているように見える人間がいることだ。彼は起きないことではなく起きることを願っている。それは一人ではない。それらが多くの人に伝わり、中にはそれならことを起こしてやろうではないかという動きを誘引する。私の妄想でなければ良いのだが、マスコミはしばしばマッチポンプである。

映画三昧(1)

 子どものときの夢は、自宅に映写機を備えて映画を観ることだった。だからブラウン管テレビの時代に私にとっては高価だった29インチやそのあとにはそれ以上のサイズのテレビを買い、ビデオより高画質のレーザーディスクを買い、AVアンプを買い、サラウンドで映画を観た。それでも画質には不満がある。それからDVDになり、液晶テレビになり、NHKの衛星放送でハイビジョンを観るようになり、ブルーレイディスクの映像に驚き、WOWOWと契約して衛星放送の画質を満喫するようになっていまはほぼ満足である。

 実はまだ4Kにしていない。いまのAQUOSの52インチの液晶が健在であり、まだ買い換える必要を感じていないのだ。息子が4Kを買ったという。だいぶ満足しているらしいが、それほどうらやましくない。4K放送が始まり、4K放送用のチューナーが着くようになり、2020年の東京オリンピックが終わったころにいまのAQUOSがくたびれてくるだろうから、そのあとでいいと思っている。なにしろ音を良くすると映像を補完して臨場感が増すのだ。

 とにかく子どものときの夢がひとつ叶ったのである。だから映画三昧してもいいのにひところより映画を観ない。時間がありすぎると却って観なくなるのは『芋粥』と同じだ。ない時間を工面してみる映画は楽しかったのに。

 そうしていつか観ようと録りためたコレクションがたまりにたまってしまった。そこで雨天が続いているのを機会に、ほかのことは放り出して映画を観ている。当たりあり外れありだけれど、立て続けに観ていると調子が出てくる。次回から久しぶりに観た映画の寸評をしてみる。その前にあまりにひどかった映画だけを先に紹介しておく。

『コンスピレーター 謀略 極限探偵A+』2013年香港映画。
 あまりに面白くないので最後まで観るに耐えず、途中でやめた。最後まで観たらもしかしたら面白いのかも知れないが、そこまで我慢する気にならなかったのだ。実はB+、C+と三作あって、すべて録画してあったのだが、第一作がこれではあとの方も知れていると思ってすべて消去した。映画には「掴み」があると思う。少なくとも最初の30分までにその映画に興味をもたせるなにかがないと続けて観る気にならない。三流でチープなカルト映画でもよほどの駄作で無い限り「掴み」が用意されているのにこの映画にはそれが無かったのだ。それにどうして香港映画というのはこんなに汚らしいのだろう。

『未来警察 Future-cops』2010年香港、台湾、中国映画
監督バリー・ウォン、出演アンディ・ラウ、バービー・スーほか。 アンディ・ラウはしばしばとんでもない映画に出る。この映画はSFコメディ仕立てなのだが、アンディ・ラウが一生懸命演じれば演じるほどシラケるという情けない映画。特撮に金をかけ、映像的には凄いとしかいいようがないのに、二番煎じ三番煎じなシーンばかりである。なにかのオマージュなら救われるが、そんなものはあまりなさそうだ。つまりさまざまなハリウッド映画などの特撮もののパクリ満載というところか。主人公の超人さと敵の超人さの力加減がメチャクチャである。結局超人どおしのただのカンフー闘争になってげんなりする。あまりにひどいので最後まで観た。アンディ・ラウの娘役の小生意気な少女が美人ではないのに可愛かったのだけが救いか。 

 雨が降りつづいている。日曜日くらいまでこの雨は続くという。さいわい私が住んでいる地域はいまのところそれほどひどい降り方ではない。土砂災害や浸水被害に遭われた方々には心よりお見舞いを申し上げる。それに田畑の被害もおそらく想像を超えているだろう。手塩にかけて育てた作物が失われるのはどれほど残念なことかと思う。

 長雨を考慮して食材を多少は買い置きしたつもりでも、やはり足らなくて困るものも出てくる。マンションに隣接してスーパーがあるので玄関から数分で行くことが出来るのだが、傘を差さなければならないし、なによりサンダルというわけにはいかないので靴を履かなければならない。足が濡れるのはあまり気にしないのだが、サンダルではエントランスのタイル床などで滑るのがこわい。靴を履くとなれば靴下もはかなければならない。傘を差すのも靴下や靴を履くのも面倒だ。

 横着で怠け者は雨だと食べるものに不自由する。不自由を理由にして食べるものを制限し、量を減らし、酒を減らして水ぶくれしている身体を少し絞ろうとしている。それでなくとも運動不足なのである。多少食べなくてもエネルギーはあまり必要ないのである。 

 雨の日には映画を観ることにしている。空腹を紛らわすのにもちょうど好い。日曜日までの一週間で20本以上観ようと映画を録画したディスクを積んであるが、楽勝でこなせそうである。ただ、あまりひどい映画にはいつも以上に腹が立ったりしている。

 映画の話は次回に書こうと思う。

2018年7月 5日 (木)

携帯が使えない

 夜中に強い雨音で目覚める。外の様子を見てみたい気もしたが、立ち上がるといつものようにそのあと寝そびれてしまうことが分かっているのでじっとしていた。

 さいわいそのあとすぐ眠りに戻ったけれど、十分寝たはずの朝、起きたら全身がぐったりするほどくたびれていた。起きる前に夢を見ていて、その中でもがき廻ったことがくっきりと思い出された。

 仕事があるのに父母の用事で見知らぬ人に会いに行かなければならないのである。すぐ済む用事のはずがなかなかその人に会えず、時間だけが経っていく。会社に連絡しようと思うのだがその機会がなかなか得られない上に、携帯電話が使えないのである。

 そのうえ会社の電話番号がどうしても思い出せない。そして登録してあるはずの電話番号簿がどうしても呼び出せない上に携帯を操作すると思ってもいない動作や表示をする。場面はさまざまに変化し続け、そこにたくさんの人が次々に現れる。先輩の人が現れて携帯の操作はこうすればいいのだ、といろいろ言うのだが、何を言っているのかどうしたらいいのか、ますます混乱して分からなくなっていく。

 まるで水底で目覚めて、はるか上の方の水面に必死で浮かび上がろうとするような気持のまま目覚めた。窒息からようやく免れたような全身疲労を伴う蘇生だった。

 体重が増えている。どうやら長く持病だった睡眠時無呼吸症候群が復活したのかも知れない。そういえば昨日も今日も睡眠は足りているはずなのにやたらに眠い。そんな状態なのに映画を立て続けに見ているので、頭の中の記憶が整理されずに混乱しているようである。

 会社の電話番号を思い出してみたらちゃんと覚えていた。もちろんとっくにリタイアしているので、会社に電話する必要はない。愛用のガラケー携帯も特に問題はない。

2018年7月 4日 (水)

サンマ

 日本のサンマの漁獲量が激減している。海流の流れるルートの変化や気候条件による要因もあるので、どうして激減しているのか確たる理由は分かっていないという。しかし公海上で中国や台湾がサンマを捕る量が激増していて、基準いつか聞き漏らしたが、昨年は24倍!になっていると報じられていた。

 日本はこのままでは資源が枯渇しかねないから、漁獲量の調整を関係各国に呼びかけているが、一番肝心の中国は聞く耳を持たないようで、早晩サンマは希少な魚になり果てる可能性がある。中国は「サンマはまだまだたくさんいるから対策をする必要などない」と主張しているそうであるが、その根拠はまだ獲れているからということのようだ。

 中国にすれば、日本はいままで獲りたい放題とり続けてきたではないか、中国は国民のために必要だから獲っているだけで、それを制限しようとすることには反対である、ということのようだ。

 身体の大きな動物は強くて敵がいない。だから過去さまざまな動物が巨大化してわが世の春を謳歌してきた。ただ、その分だけ大量の食物を必要とする。何らかの気候変動などにより、食物が取れにくくなると真っ先に死滅していくのはそのような大型の動物である。恐竜が絶滅した要因の一つはまさにそれである。

 エネルギーも含め、地球上のさまざまな資源を爆食し続けている人類だが、その中で特に中国という国が恐竜と同じような生き方をし続ければ、つぎつぎにいろいろなものの枯渇が加速していくかも知れない。世界がそれを調整して少しでも枯渇しないように手を打とうと呼びかけても、それを聞く耳持たずに撥ねのけるだけの力を中国は持っている。

 いままではアメリカだけが恐竜だったが、それに中国が加わったことで枯渇が加速し始めたようだ。たかがサンマだが、されどサンマであり、次になにを中国が食べ尽くすのか、なにしろ14億人の胃袋を持っている恐竜なのである。

 自然は再生する能力を持ち、日本人はその再生能力の範囲で自然から分けてもらうという考え方で長く暮らしてきた。中国には自然の再生の範囲での自然の恵みという思考がないのだろうか。それなら、再生を越えた収奪がますます行われていく。食いつくしたら次のものを探せばいいと思っているのだろうか。それなら人類はその恐竜と共に絶滅するだろう。悲観的に過ぎるだろうか。

中国の金融危機?

 中国の公的な金融分析にたずさわる学者達が、昨年までと今年に入ってからの各種の経済指標を比較解析して、中国が金融危機に陥りかねない兆候があると発表した。最悪の場合、中国発のリーマンショック級の世界的な経済危機もありうるという衝撃的なものだ。

 この発表はしばらく後に当局により削除されたそうだ。

 残念ながらその内容は一読してなるほど、というほど分かりやすいものではないので(これは私にそれだけの知識がないことと、なんとか読み解こうという努力をしないからだが)、ピーターが「狼が来るぞ」と言っているように聞こえた。

 ピーターは本当に狼を見たのか、狼が来た、という言葉に皆が立ち騒ぐことを期待して言っているのか私には判断がつかない。というよりもこれからどうなるか、という予測については、要因が多いから結果がどうなるのかは分からないのである。

 そもそもこういう発表が中国政府にとって不都合なものであるならば、当然学者達は処罰されるおそれがあるだろう。それを敢えて発表したことの意味をどう考えるのか。真実を伝えなければならないと彼らが考えたなどと単純に信じるほどこちらもお人好しではない。それにその発表が削除されたといっても、日本に伝わるほどののタイムラグがあるなら、ほとんど公表と同じであろう。 

 中国の経済指標が悪いとはあまり実感がなかった。たしかに中国の株価は今年に入ってかなり(20%程度か)下がっている。しかしアメリカとの貿易摩擦が本格化する前であるが貿易額の伸びは依然高水準である。

 そういう中での今回の中国の金融危機に対する警告の背景はなんなのだろうか。米中の貿易戦争に備えるための中国政府の引き締め政策の予告なのだろうか。今月、もうすぐアメリカは高関税の実施を強行する。中国は相当の危機感を持っていることの表れなのだろうか。

2018年7月 3日 (火)

古い地図

 父母と同居していた弟が、二所帯住宅を一軒の家に統合するために大幅な改築をしていて、ほぼ完成が近い。両親のところに私の蔵書をメインにしてかなりの本があったが、どうしてもとっておきたいものは当然だが私が引き取り、それ以外は自由に処分してもらった。

 文学全集の中にはとっておきたいものもあったが、きりがないので捨ててもらい、百科事典も捨てた。その小学館の原色百科事典は、揃えたとき以来それを開くのはほとんど私だけだったから、色あせて古びた今となっては飾りにもならず、場所ふさぎなだけなのである。

 その別冊として大判の日本地図と世界地図があるのだが、そのうちの日本地図だけを残してもらって引き取った。高さが四十センチ近くある重い本で、発行は昭和四十二年となっている。つまりその前の日本地図なのであり、いまでは貴重なものである。

 地図を見るのは好きだから、全国の代表的な市はどの県のどのあたりにあるのかおおよそ分かっていた。ところがこの何十年かに、どんどん統廃合や改名で見たことも聞いたこともないような市がたくさん出来たために、自分の知識がほとんど役に立たなくなった。

 なんだこの市は、と思うような市ばかりで浦島太郎の気分である。そこで昔の自分の古い知識の地名と新しい地名との突き合わせを楽しむためにこの古い地図を残したのである。子供たちの高校時代や中学時代の地図帳も少し残してあって、時系列に並べればその変遷をたどることが出来ないことはない。

 自分が旅で通過した場所をたどりながら地名の変化も調べると、案外時間と空間を同時に眺めることになるのではないか。そんなことを考えている。

貴重な晴れの日

 月初めにはまとめて雑用を処理するため、名古屋に出掛ける。昨日は多少夏バテ気味で外出する気にならず、一日中ほとんど映画やドラマを観ていた。明日からしばらく雨が続くとの予報なので、出掛けるなら今日しかないようである。

 録画した映画のコレクションがカラーボックスいっぱいになったのでざっと整理した。同じタイトルが数枚あった。すでに見た映画もある。特に残したいもの以外は初期化してしまうことにしているので、これもダブっていたのだろう。

 明日から雨だから、その間は気力体力の続く限り映画鑑賞をしようかと考えている。もちろんどう頑張っても一日三本が限度で、それ以上見ると頭が現実と映画を区別できなくなりかねない。それは半分冗談で半分は事実でもある。だから夢から醒めるためにときどき駄作のカルト映画も見る必要がある。そう思えば外れの映画も浮かばれるか。

 ここ数日ですでに七八本見たけれど、いままでのように一つひとつを取りあげて記録する気にならない。それをやっていると次の映画を観るパワーが阻喪する気がするのだ。本についても同様である。

 こんな脳天気なことを書いていては笑われたり人によっては腹を立てたりするだろうと思う。まことに非生産的なことで申し訳ない。人生の残り時間をやりたいことに使いたいだけで、やりたい気持になるだけ自分としては調子は悪くないのである。なにもする気にならなくなるのが一番恐ろしい。最近しばしばそうなるのである。

2018年7月 2日 (月)

最下位

 イギリス・オックスフォード大学の研究所の調査によると、日本の有力新聞の中で朝日新聞の信頼度が最下位だったそうだ。興味深いのは調査対象になった人々の日常利用するニュースメディアのうち、新聞については朝日新聞が最も多いと答えていることだ。だから偏った調査であるとも思われない。

 もちろん与党自民党などが朝日新聞について批判的なことばを繰り返していることも影響しているのだろう。とはいえ過去日本の世論に大きな影響力を及ぼしてきた朝日新聞の信頼が失われ始めていることがこの調査によって明らかになった。

 その朝日新聞の広報部は「調査の結果に特にコメントはないが、読者に信頼されるよう努めていく」とのみ語っているということだ。その調査結果はおかしい、と内心では思っていても、そういえないところがつらいところだ。

 いま長谷川煕『崩壊 朝日新聞』(改訂版)、望月衣塑子、マーティン・ファクラー『権力と新聞の大問題』、橘玲『朝日ぎらい』という本を読み始めたところだ。『崩壊 朝日新聞』のメインテーマはもちろん慰安婦問題誤報の顛末についての朝日新聞の対応批判である。著者は朝日新聞の元記者であり、この本を書くために朝日新聞を辞めた。内部の人たちについての詳しい取材、慰安婦報道からその報道批判の紹介、そしてそれに対して朝日新聞がどう答えたかあるいは無視したか、いったい慰安婦報道の根拠になった吉田証言を朝日新聞として韓国におもむき裏付け調査をしたのかしなかったのかが克明に綴られている。よく知られているように、吉田証言の裏付けを三十年間朝日新聞は一度もとっていないのである。いや、とろうとしなかったのである。

 権力の監視をするのがマスコミの役割だとすれば、その信頼度が低下することがどういうことか最も分かっているのが朝日新聞だろう。決まり文句でいえば、信頼を得るには長い時間と実績の積み上げが必要であり、お粗末なことをすれば信頼を失うのはあっという間である。

 信頼回復のためには信頼を失うに至った失敗を正面から見つめて反省しなければならないと思うのだが、どうも他者の謀略によって信頼が意図的に損なわれている、という認識でいるのではないかと勘ぐりたくなる反応がしばしば伝えられている。

 自らのまいた種で信頼を損なった新聞社がいくら権力を批判したところで、権力は痛痒を感じない。結果的に権力を利することになっていることを朝日新聞は自覚しているのだろうか。私などは安倍政権がこれほど安泰なのは、昔の社会党が自民党の安定に寄与してきたように、朝日新聞のお蔭ではないかなどと思い始めている。

 父が朝日新聞の愛読者で、私も朝日新聞で世の中のことを知り、成長してきた。その朝日新聞のお蔭で文化大革命やさまざまなことについて考えるようになった。書いてあることに首をかしげる記事を見て、初めて自分でそのことを調べさまざまな本を読んで考えることを教えてくれたのは朝日新聞である。だから朝日新聞には愛憎なかばするものがある。そんな人はずいぶん多いことだろう。

2018年7月 1日 (日)

音楽を聴く

 特別に音楽好きではないが、それなりに好きな音楽があってそれを聴いて楽しんでいる。特に昨年来ハイレゾのデジタル音源の音楽のクリアさを知ってお粗末ながらそれなりの機器を揃えて、いままでで一番音楽を聴く時間が多くなっている。音楽を聴く装置は上を見れば青天井で、雑誌には何百万円のものなどがぞろぞろと掲載されている。

 大音量で聴ける特別な部屋が準備できるわけではないから、マンションの隣人に迷惑をかけない程度の音量で鳴らせればいいので、環境と経済的な理由とがマッチした範囲でしか贅沢は出来ないのである。もともと持っているアンプやスピーカーを活かしながら音楽専用のコンポを一群と、AVのコンポの一群を三年ほどかけて構築した。たいした耳を持っているわけではないのでこれでおおむね満足している。

 デジタル音楽、それもハイレゾを聴き始めてから、いままで全く分からなかったジャズの良さが少し分かるようになったのは自分でも意外だった。ジャズはいい音で聴くほど分かりやすいようだ。酒を飲みながら聴く綾戸智恵などぐっとくる。

 NHKBSやWOWOWで音楽番組の放送がある。気にいったりなつかしいものはBD(ブルーレイディスク)に録画して観るが、新しい人はほとんど知らないので、どんな歌手なのかグループなのか分からないから聴くことはない。おおむねロック系は苦手である。雑誌で、衛星放送の音楽はデジタルでハイレゾの音質なのだと知った。

 AVアンプを音楽用に細かく設定して聴いてみるとなるほど全く違う。いままで映画を観るための設定のままで聴いていたのだから宝の持ち腐れだったわけである。ジャズクラブのライブならそのように、大きなステージのライブならそのように設定すると臨場感がまるで違う。機械は使いこなさないとその良さを活かせない。

 いまいろいろな音楽番組の録画のコレクションを始めた。映像を観るつもりがないことも多いので、ジャンルの範囲を拡げて試しに聴いてみて、いいと思ったものだけを残していくようにしている。朝聴いていたブライアン・ウィルソンはまあまあだったので残すことにした。この人は昔ビーチ・ボーイズのメンバーだった人だから古い。おじいちゃんばかりが集まった2016年のライブだが、聴きやすい。集めすぎるときりがないから、そこそこにするつもりだが。楽しみを楽しむ、音楽には楽しむということばが入っている。この歳になってそのことを初めて実感している。

耐性菌

 今朝のニュースで耐性菌の話しが取りあげられていた。抗生物質の出現で医学は飛躍的に進歩を遂げ、治すことが困難な病気が治るようになった。ところが抗生物質が過剰に使用されることで耐性菌が増え、将来その耐性菌によって数千万単位の死者が出るおそれがあるという。

 安易に抗生物質を使用しないようにしよう、という取り組みを進めている医師たちが紹介されていたが、耐性菌の蔓延にどこまで歯止めがかけられるのだろうか。食用の家畜の飼料にはビタミン剤と共に抗生物質を混ぜているという話も聞いている。閉じられた狭い空間で飼育すれば運動不足となり、どうしても病気にかかりやすくなるから必要なのだというが、いまも使われているのだろうか。それなら人間が直接服用しなくても、間接的に抗生物質を取り込み続けているのではないか。

 統計的な数値は知らないが、中国などでは一人あたりの抗生物質の消費量が信じられないほど多いという。それなら耐性菌は中国でこそいまに爆発的に蔓延するのではないか。そのような耐性菌が日本に持ち込まれる可能性はないのか。日本だけ抗生物質を控えていれば良いというわけではないだろう。人類が滅びるとしたらその一つの要因になるのかも知れない。

 ウイルスには抗生物質は効かない。そのことを説明しているのに抗生物質を処方してくれという患者は多いという。直接的に効果は無くても抗生物質の必要な余病もないとはいえないから医師はなかなか断りにくいようだ。念のためならいいか、というわけだ。

 抗生物質の濫用が問題だという実感は、耐性菌による病気が猖獗しないと得られないようだ。ある生物が滅びる理由のひとつが病によるものだったりする。遺伝子を調べてみると、ネアンデルタール人が滅びてホモサピエンスが生き残ったのも、その病に対する適応性の違いがあると明らかになってきている。もしかして遠くない将来に人類は耐性菌に適応して生きのびる新人類に世代交代するのかも知れない。

 ブライアン・ウィルソンのライブを聴きながら、リビングに転がって南風を浴びながら斜めにベランダの空を見上げている。南側に白い雲が次々に湧き上がり、風に吹き千切れた雲がつぎつぎに北側に流れていく。気温はすでに30℃を超えたが、風もあるし湿度が低いのでじっとしていればそれほど暑く感じない。

 夏だなあ。夏の日曜日だなあ。今日から七月なのだ。

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