王輝『文化大革命の真実 天津大動乱』(2)
本書の舞台となった天津市について監修の橋爪大三郎の解説から引用する。
「天津は、北京に向かう物流の要衝として古くから栄えた。渤海湾に面した港湾都市・塘沽(タンクー)から、海河という河川が天津までのびており、そこで物資を積み替えて陸路北京に向かう。北京を抑える戦略的拠点である。西欧列強が参入すると、天津は発展を早め、数々の戦争や条約調印の舞台ともなった。その戦略的重要性から、上海と同様に租界が置かれ、イギリス租界、フランス租界、イタリア租界、日本租界など、市の中心部には当時の欧風建物が多く残っている。商業に加えて、工業も発達しており、多くの国営工場があった。北京にはほとんど工場がなく政治的都市であるのと、対照的である。北京までおよそ百五十キロの距離だが、天津の地元の人びとの言葉は訛りが強くて、早口でまくし立てられると、聞き取れない。人びとの性格は、穏やかで人なつこく、北京や上海のようなギスギスしたところがない。最近は緑化も進んで、中国で最も美しい町と評判になっている」
「天津は、その戦略的重要性から、直轄市となっている。(中略)直轄市は、省と同等の地位を持つ地方行政単位で、全国に北京市、上海市、天津市の三つしかなかった。後に重慶市が、四川省から分かれて四番目の直轄市となった。したがって、天津市といっても、一般の市(省の下のレベル)とは異なり、その上の省レベルのランクであることに注意しなければならない。天津市政府や党委員会の幹部は、地方幹部といっても、党中央から見れば、それに次ぐランクなのである」
「天津は昔から、北京に対して対抗意識のようなものを持っている。そのため、すぐ北京に右へならえという体質ではない。文化大革命の際にも、この体質と、温和な気質があいまって、熾烈な武闘にはならなかった。天津の人びとにはさいわいなことであったが、中国全土が天津のようだったわけではない」
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