遠野憧憬
見えないものを感じることがある。見えないけれど感じるのである。感じるかも知れないと思うと感じるのである。そういう気持はずいぶんむかし、子供のときからあったのだが、仕事中心に生活に追われているとそれを忘れていた。
それがリタイアしてから自分の気持ちの赴くままにあちこち訪ね歩くようになって、神社や寺などに立ち寄ることが増え、立ち寄るごとに俗塵が洗われていくらしく、昔の子供のときのような気持ちを想いだしてきた。以前にも書いたことがあるが、父がどちらかというとそういう感応力がある人だったので、私にも多少はその血が流れているのかも知れない。
昨晩放映されたNHKの『新日本風土記』で遠野が取りあげられていた。再放送なので以前に観たものかと思ったら初めてだった。遠野には一昨年の夏に行っている。そのときに感じたものが見事に番組の中で語られているように思った。
見えないものは存在しないなどと思うのは人間の浅はかさだろう。人は現在ただいまを生きているけれど、その自分には過去からのさまざまな事柄が絡みついている。そして多分その自分の記憶をはるかに超えて人びとの過去の歴史や思いが自分自身に、そして土地に張り付いている。
そのようなものがかすかにであるが感じられやすい場所というものがあり、遠野は特にそのような場所であろうと思っていたが、実際に訪ねてみると思った以上に実感できた。歳とともに子供に帰るというが、そういうものを取り戻せるというのはありがたいことだ。
遠野をまた今度ゆっくりと訪ねたいと強く思った。
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