王輝『文化大革命の真実 天津大動乱』(5)
なぜこのようなこと(文化大革命)が起こったのか。また可能だったのか。橋爪大三郎はこう書いている。
「ふつうこれを、毛沢東のカリスマで説明する。たしかに毛沢東は中国共産党の指導者として、カリスマ的な権威を持っていた。けれども、共産党の指導者がカリスマ的な権威を備えているのは、ソ連でも東欧でもキューバでも北朝鮮でもベトナムでも共通なのに、文化大革命が起こったのは中国だけだ。それに、毛沢東の指示に基づく大衆反乱、という文化大革命のイメージは、その実態をとらえ損なっている。実際には党中央は文化大革命の最中も機能し続け、文革の闘争は共産党の内部で、上部の指示にもとづいて行われた。王輝氏はこの実態を本書で、つぶさに具体的に証言し、詳しく分析・考察している。この結果、文化大革命の謎は、中国共産党がなぜ毛沢東の指導のもと、党内でこうした政治闘争を進めなければならなかったか、という疑問に深められる」
「毛沢東がなぜ、文化大革命を発動したのか、よくわからない部分が多い」
「ロシア革命は、都市型の反乱で始まり、ツァーの軍隊が革命側に寝返って赤軍となる経過をたどった。ロシア共産党は、赤軍に対して、抜きがたい不信感があった。軍は常に監視と粛清の対象だった。いっぽう中国革命は、農村を根拠地とする武装農民軍が、都市を包囲し解放するという順序をたどった。中国革命の指導者は、軍人でもあり、中国共産党と紅軍(人民解放軍)はもともと一体のものだった。毛沢東は軍を信頼し、掌握し、軍を背景に党内の政治闘争をたたかおうとした。これが文化大革命の基本構図である」
「本書では、反右派闘争や四清運動を、文化大革命の先駆形態であるとする。いずれの場合も党内の政治闘争で、党幹部が公然と批判された。批判された幹部は、自己批判書を書いた。批判された側が自己批判する(間違っていたと認める)なら、批判した側が正しかったことになる。文化大革命でも何回も繰り返されるのは、このプロセスである。秘密の粛清とは違った、公然の自己批判。文化大革命は、スターリズムと異なった社会技術にもとづく運動だ」
ここからが肝心である。
「毛沢東の創意は、党幹部を批判するきっかけとして、学生・労働者大衆を利用するという思いつきだ。抗日戦争と中国革命を戦い抜いた毛沢東にとって、学生・労働者大衆などオモチャのようなものである。彼等は、現実の利害を持たず、新中国で毛沢東思想の教育を受け、毛沢東とは異なる路線を考えている党幹部を打倒し自己批判を迫るのに、恰好の道具であった。毛沢東は始めから、紅衛兵をまとまった組織にするつもりも、革命の主役にするつもりもなかった。ゆえに、紅衛兵組織は乱立し、流血の抗争を繰り返し、用済みになって都市戸籍を奪われ、農山村や辺地に追いやられることになった。これを「上山(シャンシャン)下郷(シアンシアン)」という。(日本では誤って「下放」というが、これは党幹部の場合に用いる言葉で、紅衛兵の場合には用いない)」
この項続く。


おはようございます
先日は私の拙い文章を見ていただきありがとうございます。
文化大革命を考えてみれば、所詮は”文化大破壊”だったと思います。ここで辛うじて残っていた中国人の美点がすべて崩壊し、空白になっていた中国人の精神に今度は鄧小平が改革開放で拝金主義を押し込んでしまったため、今のある意味どうしようもない、モラルのかけらもない中国人ができてしまったのだと思います。これはおそらくかの国の将来に暗い影を落とすことは確実でしょう。
では、
shinzei拝
投稿: shinzei | 2018年8月17日 (金) 06時42分
shinzei様
文化大革命は多くの中国人にとって加害者であり、被害者であるという災厄を生みましたが、それが現在の経済発展への糸口になった面も否定できません。
教条主義からの脱却はあのような災厄を経ないとなかなか困難だったのではないかと思います。
それが精神性や道義ををおろそかにする拝金主義を生んだ面があるのは確かですが、少なくとも貧困から多くの人が脱却できたことは事実です。
以前は中国の地方へ行くと有名な寺や道院、そして文物が文化大革命で毀損されていたのを見ましたが、いまはどんどん綺麗になっています。
ただし、昔の面影は全くなくなっているのは驚くほどです。
日本とは考え方が違うようです。
投稿: OKCHAN | 2018年8月17日 (金) 09時45分
>昔の面影は全くなくなっているのは驚くほどです。日本とは考え方が違うようです。
私も再建?されテーマパーク化された中国の古鎮や建物を見て、「昔の面影は全くなくなっている」と感じた口ですが、以前五重の塔が台風で倒壊し、その再建に当たった棟梁の言葉を思いだし、果たしてそうなのか? との疑問を持ちました。それはそれを担当した棟梁さんが
『心配することはありません、100年経てばまた元に戻ります』
と述べられたことで、ハッと気づかされたことがあるからです。
我々は古色蒼然たる古鎮、名刹の復活を期待します。しかしそれはもしかすると保存用のプラスチックで包埋された解剖標品みたいなものかもしれないと。如何でしょうか?
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投稿: Hiroshi | 2018年8月17日 (金) 21時05分
Hiroshi様
古色蒼然とした建物も、最初に建てられたときはきらびやかだったのかも知れません。
それは時間という衣をまとって古色蒼然としているのだと思います。
時間とは歴史ですから、それをまとった状態で復元するのが日本であり、きらびやかなものに復元するのが中国である、と考えれば、Hiroshi様のいうことも一理ありますが、中国の復元はそもそも当初のものとは似ても似つかぬものから出発しているとしか思えないものがしばしば見受けられる気がします。
その棟梁が「100年たてばまた元に戻ります」というのは、多分自分がきちんと復元しているから大丈夫、という意味であろうと思いますが、はたしてその棟梁のような自負をもって復元しているものがどれほどあるのか、100年たたなくても分かるような気がします。
プラスチックで蔽われた解剖標本みたいなもの、という見方は私にはできませんが、それは私が日本的な復元を価値あるものと見る見方に囚われているからでしょうか。
私は古色蒼然としたものに、時間を経た歴史を同時に感じるということに価値を感じます。
投稿: OKCHAN | 2018年8月18日 (土) 06時51分