ちょっと寄り道
文化大革命の本からの引用を続けているが、ちょっとここで寄り道をしたい。奥野信太郎(1899-1968)という、慶応大学の教授の書いた『随筆北京』という本を読んでいる。戦前に書かれた本で、原文旧漢字のままなので少し読み難いけれど、当時の北京の様子が彷彿とされてまことに面白い。とにかく情緒が深く感じられるのはそれだけこの人が中国を愛していたからだろうと思う。
この本にはちょうど彼が北京滞在中に盧溝橋事件があって、戒厳令状態になり、日本人は大使館やその周辺などに籠城した緊迫した話などもあって興味深い。奥野先生、そんな中でも飄々としていたようで、見るべきものをしっかりと見ている。
特に紹介したいのは「女人剪影録」という文章の一節で、五四運動に言及している部分である。五四運動はベルサイユ条約の結果に不満を持った中国民衆運動で、直接的には日本の対華21ヶ条の要求であり、中国の反日運動の発火点と見ることが出来る運動である。北京の学生数千人が1919年5月4日、デモ行進を行い、それが暴徒化した日を記念している。
「新しい情熱が一つの通り魔のように世を脅かした日は、1919年5月4日ほど激しかったことはなかった。いわゆる世に知られている五四運動の日がそれである。顧みれば二十年前の昔のことである。その間支那は何をしてきたことであったろうか」
「五四運動の中心はいうまでもなく学生層であった。彼等が明日の太陽を夢見つつ、あらゆる因習に反抗して、流血の惨をすらも顧慮することなく、狂熱的に起ち上がった日であった。確かに「狂熱的」に雄叫びの声を上げて起ち上がったのであった。そのために時としてよき伝統すらも破滅せずんばやまずというような愚をすら演じかねないありさまであった。郷閭(きょうり、ふるさとのこと)に教鞭をとること数十年、すでに垂白の老校長が昨日までの尊崇からつき落とされて、旧套陳腐の代表者のように毒づかれ罵詈せられ、あるいは平和な家庭の慈悲深き両親に故意に反抗し出奔脱走をあえてして、数々の嘆きを見せた子女の例など、全国的には莫大の数に上ったのであった。この大颶風が大陸の南部を吹きまくった結果、もし新しい支那が誕生したのであったならば、それはその前提としての胎動であり得たかも知れなかった。惜しむべしその後四運動の背後に青年の純情を利用して、己のために計らんとする旧軍閥の、あるいは党人の私闘が潜んでいたために、その運動によって新しいものが建設されるよりは伝統の破壊の方がむしろ多いくらいだといってもよかった。しかし一面この熱狂的なほとんど知性の指示をすら欠如した運動によってよき伝統さえ安易に失われるほど、支那の生活が因習のために内部崩壊の過程を踏みつつあったということを白日下に暴露したものともいえるのであって、その後この運動の残存した、いわば燠になった情熱の火を、さらに掻き立て、煽り立て、次第に国内統一とか民族意識の覚醒という名称のもとに、熾烈な抗日意識にまで漕ぎつけたのが党人の為政方針であったともいえる」
*原文を現代仮名遣いなどに、一部書き改めている。
なんだか文化大革命の様相に似ているものを感じないだろうか。
« 来年分かる | トップページ | チベット 夢の配達人 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- レム『ソラリスの陽のもとに』(2024.10.13)
- 最近の読書(2024.10.07)
- 検閲(2024.09.25)
- 『パイプのけむり』(2024.09.13)
- 戦争に当てる光(2024.09.06)
コメント