むかしはものをおもはざりけり
百人一首を覚えさせられた中で、かろうじていまでも記憶に残る歌がわずかにある。
「あひみての のちのこころに くらぶれば
むかしはものを おもはざりけり」
もその一つである。
調べると、これは藤原時平の息子、敦忠の詠んだ歌だそうだ。敦忠は琵琶の名手としても知られていたが、菅原道真の怨霊のたたりで死んだといわれているらしい。情を通じる前と、通じたあとの恋心の深さの違いを歌ったものだという歌意は承知しているつもりだ。観念の恋と肉欲を伴う恋との恋情の深さの違いを言っていると解釈するのも自然な捉え方だろうし、相手に対するかけがえがないという気持が、情を交わしたあとの方がはるかに具体的で強くなることを歌っているといいかえることも出来る。
以前読んだ本をときどき棚から引っ張り出して拾い読みする。本を借りずに購入するのは、こういう楽しみがあるからだ。そこにその本がなければ引っ張り出すことも出来ない。とりだした本を開いて思わず誘い込まれて深く頷くことも多い。
一度読んだはずの本や、歯が立たずに読みかけになったままで、いつか多少は知識が増えて賢くなったらもう一度挑戦しようと棚に戻された本が並んでいる。その本の内容と意味がときどき雷鳴に照らされたように、見えなかったものが見えたりすることがこのごろようやくある。
そのときに頭に浮かぶのが「むかしはものをおもはざりけり」という言葉なのである。もちろん私が「おもふ」のは恋情ではない。「考える」という意味の「おもふ」である。もちろん昔だって考えていなかったわけではない。「くらぶれば」「むかしはものをおもはざりけり」だったなあという実感である。
誰かが、還暦を過ぎて古希までの十年間は思いのほか実りの或るもので、古希になってそのことを強く実感する、と言っていた。
この言葉が強く心に響いた。なんだかやりたいこともやり尽くしたような気がして、生に対する執着を見失いかけている。欲望があまりないのである。欲望は生命力の源である。それが、「おもふ」こと、そして感じること、解ること、識ることによろこびを感じることを思い出した気がする。
「われおもふ ゆえにわれあり」か。
古希まであと二年、かなり遅れたけれど、まだ時間はある。楽しむことがのこされている。先人の余薫をかぐ楽しみを楽しむことにしようと気を取り直している。感じたことの断片の集まりこそ自分自身なのだと「おもふ」。
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古希になって1年の私ですが・・・、耳が痛い!!!。
>還暦から古希までの10年間は実りのあるもの・・・。
振り返ってみても・・・実りがあったかな~。
お陰様で、大きな困難もなく過ぎた10年でした。
気にしない・気にしないの楽天的人生を目指しています。
投稿: マーチャン | 2018年8月13日 (月) 06時34分
マーチャン様
これはたとえのようなもので、多分若いときほど実りがあるのだと思います。
それなら古希を過ぎようと喜寿を過ぎようと、日々を実りあるものにすることも出来るということで、過ぎたことを悔いても始まりません。
そう開き直って、日々を無駄にしないようにしようと思い直しています。
投稿: OKCHAN | 2018年8月13日 (月) 08時17分