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2018年9月

2018年9月30日 (日)

古都ヒヴァの朝(2)

朝の散歩のつづき


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ボチボチと人が出始めた。この通りはあとで職人通りというのだと知った。中には染色や織物、木工製品などの小さな工房がいろいろある。

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その前の広場で発掘でもしているのだろうか。

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人が三々五々やって来て掃除を始めた。共同で当たり前のようにやっている。確かに砂埃はあるがゴミは落ちていない。

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遠くに有名な未完成のミナレットが見えた。

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こういう意匠を凝らしたドアは好い。これは序の口で、はるかに精巧で凝ったものをたくさん見た。

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ついにミナレットに日が射してきた。夜明けである。

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ミナレットの様子が初めてはっきりわかる。

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モスクにも日が射してきた。

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おまわりさんもパトロール開始である。

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朝の散歩の帰りにホテルを撮っている写真があった。木のドアが出入り口でフロントがあり、それを抜けると小さな中庭へ出る。

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左手と正面が宿泊の各部屋。正面上のテラスから撮ったのが前回の一枚目。

前日の行程について

11時に成田発・・・の予定が一時間近く遅れた。九時間半のフライト。時差四時間なので、本当は現地時間4時半には到着し、国内便に乗り換えるはずだったのだが。

タシケントに着いたのは5時半、国際線と国内線の場所がちょっと離れていて、バスでそちらへ向かうのだが、すでに国内便の出発時間は過ぎつつある。手続きを大慌てでする。なんと出発便をわれわれのために遅らせて待たせているという。

乗っていたのがウズベキスタン航空の飛行機で、これは国営である。もちろん国内便も同じ。だからこんな無理が通るのだろう。

そのままヒヴァの近くの空港のあるウルゲンチに飛ぶのかと思ったら、ヌクスという空港を経由するのだという。地図で見るとヌクスはウルゲンチよりずっと西北にある。無理矢理日本にたとえると、成田(タシケント)に到着して国内線に乗り換え、福岡(ヌクス)経由で関空(ウルゲンチ)へ着いたようなものである。そして大阪(ウルゲンチ)から京都(ヒヴァ)のホテルに到着したという感じであろうか。だいぶ違うけど。

ヌクスは自治州のカラカルパクスタンの州都。カラカルパキスタンは半独立国のような存在で、いまはウズベキスタンに帰属しているが、将来はわからないという。資源が豊富な砂漠地帯で、人口が極めて少ない。住民の多くはモンゴル系である。

だからヌクスでぞろぞろと降りていったのは朝青龍のようなおっさんおばさんたちで、大声でど迫力の人びとだった。飛行機が遅れたのに腹を立てたりされなくてよかった。

こうして第一日目は丸一日かけて大移動をしたのである。でも一日目だから元気で、着いてからビールを飲む余裕もあったのである。この散歩の朝はつまり二日目ということになる。

古都ヒヴァの朝(1)

ウズベキスタンの一泊目と二泊目は首都タシケントの西1000キロの古都ヒヴァである。そのヒヴァまでの長い道中については後で記すとして、とにかく前夜はホテルに夜の10時半到着、私たちいつもの三人は、ホテル横の野外レストランがまだ開いていたのでそこでビールを飲んでしばし歓談、ようやく寝についた。


早朝五時に目覚める。シャワーを浴びてサッパリしたところで薄明るくなった六時頃、ヒヴァの散歩に出掛ける。

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ホテルのテラスから眺めたヒヴァの朝。

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このキーバックというのが泊まったホテルの名前。正面の様子は昼間撮ったものがあるのでそのときに掲載する。左手に高い塔があるのでそちらへ行ってみる。外はさわやかというか、少し肌寒いくらい。昼夜の寒暖差が大きいのだ。

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こういう日干し煉瓦の建物ばかりなのである。中央アジアに来たなあという気がする。

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小さなモスクの前にあるのは墓だろうと思う。

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こんなのがあるから間違いないだろう。とにかくこの時点ではなにも説明を聞いていないからただ眺めているだけ。

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このタイル貼りの建物と塔(ミナレットという)はセットである。

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この階段から塔の中に入り、上まで上がれる。中は急で暗いそうだ。

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建物の正面から撮影。この建物はメドレセの一つ。メドレセとは神学校である。

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これはあとで知ったがメドレセで学んだ神学生の暮らした部屋らしい。

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正面の塔の左手から来て曲がり、少し歩いて振り返ったところ。高い塔が目印になるので迷わずに済む。まだ夜は明けていない。

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こんなのがあるけれど結局なんだかわからなかった。

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日干し煉瓦で出来ていることがよくわかる。砂漠の土は微粒子なのでそれを練ってしきりをつけて干して固めれば一丁上がりである。

このあとさらに散歩は続く。

2018年9月29日 (土)

ウズベキスタンの旅・はじめに

 ウズベキスタンについてはネットやガイドブックを見れば誰でも分かることだが、今回の旅で楽しみにしていたのはここがシルクロードの中継点であることで、その痕跡を見ることが出来ると期待していた。サマルカンドやタシケントという地名はたいていの人が一度は聞いたことがあるだろう。テレビでも中央アジアはたびたび紹介されている。文化文明の交流点であり、民族の交流点であり、幾多の王朝が栄枯盛衰を繰り返している。ロマンを感じるではないか。

 ウズベキスタンは二重内陸国である。二重内陸国というのは自分の国から海へ出るのに最低二つの国を通らないとならない国のことで、世界にはこのウズベキスタンとヨーロッパのリヒテンシュタインのたった二ヶ国しかないのだそうである。知らなかった。

 カスピ海の東にアラル海という世界第四位の大きさの湖があった。その湖に注ぎ込み、その水源となっているのがアムダリア川という川である。東方のパミール高原から発し、1500キロ以上の長さで流れ下り、ウズベキスタンやトルクメニスタンの人たちの生命と生活を支えている。ところがいまはアラル海はほとんど干上がってしまい、十分の一ほどの小さな塩湖として残っているばかりである。理由はさまざまあるが綿花をはじめ、さまざまな作物の灌漑のためにソビエト時代に運河を四通八達させた影響が大きいといわれている。

 そういうところであるから水は貴重品であり、同時に水質は極めて悪い。だから旅行者は生水は飲めない。現地ガイドのジーナさんも、私でも生水は飲みません、というほどである。歯磨きの際の口すすぎも決して水道水でするな、と注意された。

Dsc_8441 現地ガイドのジーナさん、金髪の美人

 最終日にタシケントで日本人墓地に行った。ここも訪ねたかったところである。叔父(父の弟)がこの方面に抑留されたと聞いていて、その苛酷さの話を少しだけ聞いていたからである。考えれば当時はミネラルウオーターなどはないのであるから生水を飲むしかなかったわけで、そのために体調不良になった人も多かったことだろうと思う。それで日本に帰ることができなかった人もいるに違いない。

では次回から旅の流れに沿って写真で紹介していく。

2018年9月28日 (金)

無事帰ってきました

 中央アジア、ウズベキスタンの旅から本日無事帰って参りました。いまはほぼ本調子に戻りつつありますが、今回の旅では意気地の無いことに一日ダウンして寝ていました。かなりタイトな旅なのに、調子に乗っていつものように無茶飲みしたのが祟って腹に来てしまったのです。

 幸い特効薬正露丸のお蔭で、翌日からは移動と見学は支障なく行うことが出来ましたが、楽しみにしていた食事とお酒はとことん節制したものにならざるを得ませんでした。ふだんなら人の倍食べるのに、人の三分の一いや四分の一だけで我慢しました。なにしろ水の極めて不自由な国ですから、トイレも必要に応じてすぐというわけにはいかないのです。車での長時間移動中には青空トイレの覚悟も必要です。私より高齢の人も多いのに、一度も誰も青空トイレを使用することになりませんでした。私を除いてみんなタフです。

 本日は成田に帰着後、直接名古屋に帰らず、弟の家に一休みしています。今晩は弟と土産話をするつもりです。そして体調を見て問題なければ、出来れば明日朝早くに帰ろうかと思っています。どうも天気が崩れるらしいので。

 向こうにいるあいだは全く日本のニュースに接することがありませんでした。唯一添乗員が「千葉県で大雨が降ったらしい」と教えてくれただけです。 

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 写真はサマルカンドのレギスタン広場の夜景です。では明日からしばらくウズベキスタンのお粗末なお話を報告することにします。お粗末な、というのは、二三日もうろうとしていて撮った写真の場所が混乱してからです。なにしろ似たような場所ばかりだったので、そのときわかっているつもりでも、しっかりメモしていないともう思い出せません。なんとか無い記憶をしぼり出して見ましょうか。

さすがにタネ切れ

 旅に出る前に、旅行中のブログを切らさないよう掲載日時指定でせっせと書き込んだけれど、さすがにネタ切れしたので本日はなし。

 実は何ごともなければ本日帰国している予定なのであるが、成田に着くので晩は千葉の弟のところで一泊して、旅の報告などして酒を酌み交わし、明日帰宅することにしている。

 旅の報告は、だから明日帰宅後に写真などを整理してからになる。

 この「さすがにネタ切れ」でようやくすべての日が埋まった。(笑)

2018年9月27日 (木)

町山智浩『「最前線の映画」を読む』(インターナショナル新書)

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 この本に取りあげられている映画は二十本。この本を購入したときには一本も観ていなかった。読み始めたらあまりに詳細で、しかもネタばらしどころではない、その映画のすべてが明らかにされていて、これではこの本を読んでから映画を観たらそれに強く影響されてしまいかねない。

 というわけであわてて本を閉じ、せっせと取りあげられている映画を観ることにした。

 現在まで観た映画は以下の五本。

『ブレードランナー2049』
『エイリアン・コヴェナント』
『ベイビー・ドライバー』
『ダンケルク』
『ワンダー・ウーマン』

 ほかに録画してあるのが二、三本あるが、待ちきれずにこの五本について書かれたところだけ読んだ。参った。ここまで詳細に深く映画を観る人にはかなわない。同じものを観ながら、これほど違うレベルで観る人がいるのだ。完全に脱帽である。

『ベイビー・ドライバー』と『ワンダー・ウーマン』はこの本で取りあげていなければ録画もしなかったし観ることもなかっただろう。観てびっくりした。特に『ベイビー・ドライバー』は必見である。見逃さなくてよかった。

つぎに観る予定は

『哭声/コクソン』
『ラ・ラ・ランド』
『LOGAN/ローガン』

旅から帰ったら楽しむことにしよう。観てからこの本を参照するのが楽しみだ。とにかく凄い本だ。

2018年9月26日 (水)

井上靖・司馬遼太郎『西域をゆく』(文春文庫)

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 西域は「せいいき」と読むのか、「さいいき」と読むのか。河西回廊は「かせいかいろう」か「かさいかいろう」か。「せいいき」でも「さいいき」でもどちらでもいいそうだが、「さいいき」のほうがなじみがある。井上、司馬両氏ともそちらをとる。なるほど。両氏は「かせいかいろう」をとる。ところがATOKでは「かせいかいろう」では変換しないで「かさいかいろう」で河西回廊と変換される。昔は私も「かさいかいろう」だったが、識者の多くが「かせいかいろう」というのでいまはそちらを使う。こういうことは些細なことのようであるが、きちんと自分なりの読み方を決めておかないとややこしい。

司馬 その「西域」への憧れというのは、日本人が文化づいたとき、つまり遣唐使を出したころからのものだろうと思います。かれらが長安の都を見て、びっくりしたときのショックが、そのまま現代のわれわれに受け継がれているのかな。

 私が初めて行った外国は中国で、訪ねたのは西安と北京。シルクロードの出発点の長安を幻視し、北京では万里の長城を見た。司馬遼太郎のいう憧れが根底にあった。

井上 血が読んでいるという感じは、たしかにありますね。

司馬 それから「西域」への感心というのは、一方では違う世界への強烈な好奇心にもよるでしょうね。
 
井上 そうですね。それは日本人に独特のものだと思います。われわれ小説家ばかりでなく、明治以来の学者にもありますね。
 むろん中国学者が研究するのは、不思議ではないわけですが、白鳥庫吉、桑原隲蔵、藤田豊八といった西域関係の大学者が、たくさん出ている。あんな行けないようなところに、どうして関心を持ったのか、まったく不思議ですね。

司馬 そのころの中国人は、ほとんど西域に興味をもっていませんからね。
 だいたい中国人というのは、ずっと昔から宋も明も清も、それから辛亥革命の後も、いわば編年的に「西域」というものを捉えていたのではないでしょうか。そうすると、先ほどの唐の長安時代は例外として、それ以外は西域といっても「辺境」と考えていたわけでしょう。ところが日本人というのは、唐の時代の遣唐使以後、そこで切れているので、ものすごく西域に強い関心を持っている。われわれの方が長安人に近いのかも知れませんね。

ウルムチの第一夜を過ごした後を回想して

司馬 あの夜は、なかなかよかったですね。

井上 よかったですね。ウルムチへ降りて、その第一夜を過ごすだけですが、まだ何も見ていない。あしたからは、見たり、考えたりすることは、ふんだんにあるな--という旅行は、ほかではありませんね。--これから、イリにも、トルファンにも、ホータンにも行くんだ、どんな人たちが、どんなふうに住んでいるか--そういうことを見られますね。いい夜でした。あれほど、いろんな思いが入っている夜は、あまりないですね。しかも木立に取り巻かれた迎賓館ですから、非常に静かな夜でした。

 なんということのないこのやりとりが、とても好い。旅のときめきはこのようなものだろう。特に海外へ行ったときはそうだ。 

 解説を平山郁夫が書いている。最後に、この本を今後も西域を語る書として、最も感動的な名著として伝えられると信じている、と結んでいる。ちょっとオーバーだけれど、戦後日本人がようやく西域に入ることが許されるようになった時代の、目の当たりにした西域の姿が彷彿とするという点ではその評価の通りであろう。

 私が子どもたちを連れて敦煌へ行き、周辺も含めて回ったころは、観光客もまだ多くなかったし、まして中国人の観光客などほとんどいなかった。いまは鳴沙山の観光用の駱駝が乗りつぶされるほどの人出だという。ゆっくり見物できた莫高窟はいまはどうなっていることか。中国人には憧れなどないのだろうと思うし、なんで日本人が憧れるのかもわからないだろう。

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月25日 (火)

『悠々として急げ 開高健対談集』(日本交通公社)

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 世の中には人生のテーマに出会い、それに淫するほどのめり込んで生きているしあわせな人たちがいる。虫に、それも世界の蚤に夢中の人、米粒に文字を何十文字も書くことに全力を傾注する人、日本中の温泉という温泉を制覇するために走り回る人、さまざまなそういうしあわせな人たちとの対談集である。

 生きがいとはそういうものかと思う。損得を離れた自分だけの世界をさまよいながら幸福であること。生きがいとか幸福というものは不思議なものだ。つまり人間というのは不思議な生き物ということだ。損得に淫することでは生きがいや幸福は得られないと私は思うが、現に多くの人が損得に夢中になっていて、しかもしあわせだというならそれは結構なことである。

 開高健についてはたびたび書いてきた。彼の夫人は詩人の牧洋子。若いとき彼女の人生相談をカーラジオでときどき聞いた。同人誌『えんぴつ』の同人として出会って結婚した。開高健の終生の友人を自称する谷沢永一(「えんぴつ」主催者)に言わせれば、牧洋子はソクラテスにとってのクサンチッペ以上の悪妻である。開高健がほとんど自宅にいることがなく世界を放浪し、身の危険を顧みずにアフリカやベトナムを従軍して歩いたのは、放浪癖のゆえだけではない。ひとり娘の道子は開高健の死後、暫くして自殺している。

 作家の多くと同じように彼には躁鬱症の気があり、鬱の時にはなにも手につかなかったようだ。この対談では躁の気が感じられる。ほかの対談集では、躁であるから対談ができるのだと語っている。 

 対談それぞれが面白いのだが、その最後の対談が、『ケンとタケシ』の対談なのが面白い(開高健は正しくは「かいこうたけし」と読むが、私は「かいこうけん」と読み慣らしている。本人はどちらでもかまわないと思っているからのこの趣向であろう)。躁であるからこその、やや自虐的で露悪的な部分が多分にあって興味深いが、それはそれとして、中国について語っているところが特に面白くて記憶に残ったので紹介する。

「・・・中国について言えば、俺が行ったのは一九六〇年だから五○年代末期の三年飢饉(毛沢東の大躍進政策の結果の人災)の尻尾の部分にあたるわけで、人民は飢えで塗炭の苦しみにのたうちまわっていたらしい。それを我々は何一つ教えられることもなく、悟らされることもないもんだから、毎晩、毎晩、底知れぬ礼節の民と乾杯、乾杯ばかりやっていた。ところが後で日本に帰っていろんなものを読んでみると、どえらい危機だった。飢えていた。我々がホテルで毎晩お腹一杯になって芽台酒の乾杯をやっていたのは、数百人か数十人か、その人たちの空っぽの胃袋を集めただけ、我々が飽和していたわけだ。それを彼等は何一つとして知らせようとしなかった。悟らせまいとするその組織の技術がうまかったものだから、ボケーッとしたままで日本に帰された。そして我々を歓待してくれた当時の要人たち、周楊にしても老舎にしてもその後行方不明。全然どうなったのかさっぱりわからない。その人たちと私が一緒に酒飲んだときの横顔、まなざし、目の煌き、額の輝き、そういうことはありありと私には残っている。小説家というのは、馬鹿な愚かしい種族だけれど、忘れることが出来ないという特技を持っているんで、それだけで生きているようなところがある。けれど彼等はその後杳として行方知れず。どうなったのかさっぱりわからない。その種はもうすでに当時まかれていたわけで、我々の乾杯の背後に黒い影が聳えていた。それから俺はソビエトにも行ったし、東ヨーロッパにも行ったけれど、以後社会主義国の招待旅行には絶対に行くまいと決心して今日に至る」

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月24日 (月)

司馬遼太郎&井上ひさし『対談 国家・宗教・日本人』(講談社)

 読みごたえのある本をなんとか一ページずつ読み進めているとくたびれてきて、軽くて読みやすい本が読みたくなる。そういうときには対談本が好い。そう思っていつもは手にしない場所の棚にあったこの本を取り出して読んだ。再読である。思えは二人とも故人である。故人ではあるが、読んでいる私にとって本の中では生きている。

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 『国家・宗教・日本人』と題されているが、まず日本の宗教について論ずることで、この対談があった頃に騒動になっていたオウム真理教を話題とし、西洋的な唯一絶対神というものの特性とアジアの、特に日本人の思う宗教の認識の違いを浮き彫りにしていく。確かに日本人には唯一絶対の神というのは理解が困難かも知れない。

オウム真理教は宗教とはいえない、と二人は断ずる。宗教集団が周辺の一般人と壁を造り、その壁を高くしていくのは宗教とは違うものだと言う。布教をして勧誘しながら世の中と断絶していくのが宗教かと云えば、確かに違う。さらに現世利益をとなえる宗教にも二人は懐疑的である。自分の思い通りにならない悩み多きこの現世の終わった後、つまり来世に救いがあるというのが宗教というものの本筋だとの考えのようである。そういえば三大宗教はおおむねそのようである。

 本当に来世があるのかどうか、そんなことは誰にも分からない。分からないなら「ない」と決め込んでしまうより最期のときに「来世があるかも知れない、救われるかも知れない」と思いながら死ぬ方が良いだろう。生きている内に解脱して超能力を得ようというようなものが宗教とはとてもいえないのは当然である。

 二人は作家であり、「言葉」については鋭い感性を持ち、おかしな言葉遣いには嫌悪感を示す。言葉に潔癖であることは文章を書く上の最低必要な素養だろう。私はそれが足りないから、高島俊男師の本などを読むのであり、山本夏彦、團伊玖磨を初めとする、言葉にこだわる人の文章が好きなのである。

 書き言葉としてほぼ完成していた日本語も、話し言葉は西洋に比べて未成熟であったとは多くの先学の語るところだが、ようやく明治も終わる頃からそれなりに弁論に使えるものになってきたはずなのに、近頃その日本語が劣化していることを二人は大いに嘆く。その最たるものが政治家の言葉の劣化であることは指摘の通りで、この対談の行われた二十年以上前にして叱り、いまならさらに劣化したと慨嘆することだろう。

 テレビを「一億総白痴化」の装置と喝破した大宅壮一を引き合いに出すまでもなく、マスコミの日本人愚民化はますます猛威をふるっている。マスコミは意図して愚問かを進めていると云うよりも、そもそも大衆は愚かだという前提で、愚かな人向けにレベルを下げ続けているのだろう。インタビューも多分まともな答えのものは取りあげず、誰もがこいつは自分よりばかだ、と思えるようなものを選んで報じているかの如くである。だからインタビューの場面を見るとつい目を背け耳をふさぎたくなる。

 日本に比べて、欧米のインタビューに答える市民の語りの理知的なことに感心するのは私だけではないだろう。しかし日本人だってまともに答えることの出来る人もたくさんいるはずある。賢い答えを報じると、ふつうの人が劣等感を感じるのをマスコミは心配しているのだろうか。まことに心優しいことである。

閑話休題

 こうしてさまざまに語り合っていることから、さらに日本人はいまどのような人たちであり、どの点に問題があり、どうであって欲しいのか、という彼等なりに思うところへ展開していく。それぞれに楽観的だったり悲観的だったりしながら、それでもあるべきものを求めるのは、日本人として日本が好きであるからであり、愛しているからだと感じる。希望を持っているのである。すべてが良くなることなど望んでも無理である。少しでも希望があることを善しとするのは実は強い心の持ち主だけが出来ることなのかも知れない。

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月23日 (日)

梅原猛『笑いの構造 感情分析の試み』(角川選書)

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 梅原猛に出会ったのは『隠された十字架-法隆寺論-』という本が最初である。初版発行は昭和47年で、暫くあとにベストセラーになった。こういう本がベストセラーになるのも珍しく思って購入して読んだ。面白いことは面白いが、中身が濃い上に私にこれを本当に理解するだけの素養がなかったので、ただ読み通しただけに終わった。

 実はこの『笑いの構造』を読み終わったので、『隠された十字架』を読み直し始めている。なんとなく初めて読んだときのちょっとした興奮のようなものを思いだした。その当時も少しは分かっていたのかも知れない。もちろんそうでなければ読了も出来なかっただろう。その気分のまま梅原猛をさらに読みたくて買ったのがこの『笑いの構造』だった。

 この『笑いの構造』は梅原猛の若いころの論文を集めた論文集である。最も古いのが『闇のパトス-不安と絶望-』で昭和26年に雑誌に掲載された。のちに彼の全集の第一巻がこの表題となっている記念すべき論文だ。

 梅原猛は仙台で学生だった父母のもとに生まれ、父母それぞれの両親、実家が結婚に総反対をしたために私生児として戸籍に記録されている。母が早くに亡くなり、二歳になる前に知多の伯父(父の兄、梅原家の本家)夫婦に引き取られて養育される。養父母が実の父母ではないことを知ったのはだいぶ後のようだ(自伝にそう書いている)。旧制第八高校(現在の名古屋大学教養部)を卒業し、京都大学の文学部で哲学を専攻する。

 大学でハイデッカーなどの実存哲学にのめり込んだ。そこで強い虚無感に陥り、そこから脱するきっかけがギリシャ哲学のヘラクレイトスとの出会いで、さらに虚無思想から脱出するために挑んだのが「笑い」についての哲学的研究である。そして「笑い」から「感情」全般についての思索が展開されていく。その思索の跡がこの『笑いの構造』という本である。

 三部に分かれていて、第三部が『闇のパトス』と、ヘラクレイトスについての論文である。『闇のパトス』は何度も読んでいるが、論文と云うよりもキルケゴールのような詩的な独白型の文章で、比喩が多い。その分勝手読みできるところもある。第三部が一番古い論文である。

 『笑いの構造』は第一部に収められていて、梅原猛自身の「笑い」の研究から、さらに過去の哲学者の「笑い」についての著作の批判を展開している。

 第二部では「笑い」から「感情」全般へ展開していく。たくさんの宿題を自らに抱え込んで行く様子が読み取れるが、実はその後それを深化させることなく、日本の古代研究と仏教にテーマが映っていった。その第一弾が『隠された十字架』なのであって、別でありながらつながっているのである。

 正直言ってこの本はいまだによく理解できないところがたくさんある。自分の理解力のなさに哀しい思いがするが、しかし読み直すと前に分からなかったところがわずかに分かったりすることがあって、それがささやかな救いである。

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月22日 (土)

老舎の寓話(2)

開高健の語る老舎の話のつづき。

「1950年代のいつかに、彼は日中文化交流団の団長になって、中国の作家や知識人をひきいて日本に来ました。そのとき通訳を務めた中国人から、私香港で聞いたんですが、その人が革命後の中国の知識人の生活はどうでしょうかということを折に触れて老舎に聞くのですが、老舎は一言も答えない。それでもう老舎は駄目になったんじゃないかと思っていたところが、あるとき飯を食べていると、それまでひたすら黙りこくっていた老舎が、重慶だか成都だかにある何百年と火を絶やさない大衆料理のことを話し始めたそうです」

「日本式に言えば四畳半一間くらいの大きな鉄の釜に、毎日どんどん火をくべて暖めている。次から次と野菜やら肉やら豚の頭やらを放り込んでいく。それを近在の張三李四が集まってきて、柄杓ですくってお椀にとって食べる。そのお椀の数で金を払う。その鉄鍋のぐあいはどうであるか、張三李四はどんな話をしているか、箸はどんなに垢染みているか、その店の光線の具合はどうであるかというようなことを、微に入り細を穿って老舎は三時間ぶっつづけにしゃべり続けた。それをしゃべり終わると、またフッと黙って、部屋に帰っていったというんですね。その話が私の頭にこびりついて離れないんです」

「その後の老舎は、文化大革命のときに、紅衛兵の子どもたちに殴り殺されたという説がある。それを嫌って、窓から飛び降りて自殺したという説もある。また北京を流れる河に、屈原じゃないが飛び込んで、死んだという説もある。いずれにせよ、不自然死を遂げているらしいんです」

 蛇足だが、いま読んでいる『北京随筆』という本の著者の奥野信太郎も老舎と交遊があったという。これからそんな話が読めるかも知れない。

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月21日 (金)

老舎の寓話(1)

 ラブレーを翻訳した渡辺一夫と開高健の対談で、老舎が話題になっていた。老舎は中国の作家である。ノーベル賞の候補になったが本人が死去してしまったので取りやめになったという話があるが、確認されていない。

 老舎は文化大革命の初期に死んだ。溺死体で発見されたらしい。自殺とも謀殺されたともいうが、いまだに真相は明らかではない。当時、インテリは紅衛兵などに凄まじい迫害を受けた。殺されたり不具となったり、発狂した人がたくさんいる。知識人であるという理由で心身を破壊されることが公然と行われた。ブルジョワや知識人は右派であり、右派であることは反革命であり、反革命は悪であるから打倒することが正義であると狂信した者たちが蛮行をほしいままにしたのである。老舎はその犠牲となった。そのことが対談で語られている。

 そそのかした者がいたから、という理由は理由として、そそのかされても蛮行を行わなかったものもいたが、蛮行を行わないのは反革命者だといわれて標的にされた。やむをえず保身のために迫害に加担したものもたくさんいた。わざわざ嘘をでっち上げて敵を葬ることも日常茶飯事だったという恐ろしい時代である。迫害した者が次には迫害されることが繰り返された。

 文化大革命の実態を知って、私はそそのかされてもそれに惑わされない知性を身につけることがなにより肝要だと心に決した。自分の信念に殉じて迫害を受けるか、迫害する側に加わって生き延びるかという判断をどうするか、ずっと考え続けてきた。その場にならなければ分からないことではあるが、出来れば節は曲げたくない。その勇気が欲しいと心から思っている。だからといって生き延びるために節を曲げたひとを非難することはしたくないとも思っている。それぞれ自分の問題である。

 開高健は1960年に老舎に会っているという。

開高健「もうちょっと悲痛な話をしますとね。『駱駝祥子(ロートンヤンツー)』という名作を書いた老舎という作家がおりますね。私は1960年に会っているんです。そのとき彼は、日本人民との団結のために握手をするといった、派手なおつゆたっぷりのことを一言も言わないで、そのころ彼が育てていた菊の花の鉢植えを見せてくれました。眼光慧眼しかも寡黙だったですよ」

 このあとに、この寡黙な老舎があるとき突然ぶっつづけに三時間話し続けたという話を紹介している。それは次回に。

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月20日 (木)

佐々泉太郎『洛陽の怪僧 薛懐義と武則天の物語』(東洋出版)

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 中国歴代王朝唯一の女帝・則天武后(武則天)はこの本の最初にちらりと、そして最後の章に出てくるだけである。主人公の馮小宝はその武則天に出会って薛懐義の名を賜るが、ほとんどが小宝として物語は語られていく。小宝とは坊や、とか小僧という意味で、そもそもが名前らしい名前がなかったという生い立ちなのだが、実は魂魄が二つあるという特殊な少年だった。

 魂魄が二つある人間などいないし、あってはならないのだが、最初に魂魄を司る神の手違いで司馬遷の魂魄がこの少年に重なってしまったといういきさつが、天界の話として語られていく。ところがその司馬遷についてはちらりとしか触れられず、そもそも小宝の中の司馬遷の魂魄が小宝にどのような影響を与えているのかもさっぱり分からない。ただあるというだけのようである。もう少しなにかが顕現すれば面白いだろうに。存在しても何にも関係ないなら魂魄そのものが人間にとって何の意味も無いことになる。

 そのへんの話があらすじのように進んでいくので、あれよあれよという間に本筋に入ってしまう。本筋もやはり展開が早まったり詳しかったりと読むペースが掴みにくい。うっかりすると著者の筆に置いて行かれてしまうのだ。読む人のことなどあまり考えていないようである。もう少し読み手のことを考え、説明を詳しくすればかなり映像的になって、面白い伝奇小説になったかも知れないが、どうも生煮えの料理を食べた心地がする。

 アニメのためのあらすじを簡単に小説に書き直した体(てい)である。だからこれをもとにアニメをつくったら、案外それなりのものが出来るかも知れない。題名から期待したのにちょっと期待はずれだった。描かれている時代から狄人傑(てきじんけつ)が登場するのがご愛敬である。唐の時代の名判事といわれ、中国の大岡越前のような存在だ。いや、大岡越前が日本の狄人傑か。

 あのアンディ・ラウが狄人傑として主演した映画『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』のディー判事とは狄人傑のことである。狄人傑の狄は中国読みでディーである。この映画には当然則天武后が登場している。

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月19日 (水)

安売り競争で自滅する

 昨日のブログで、開高健が日本酒について、

「まっとうな原料で、まっとうな水で、まっとうな麹で、まっとうに造っていけば、いい酒が出来ることはわかりきっている」

と語ったことを紹介したが、そのことで思いだしたことがある。

 下手の横好きで、子供の時から写真を撮ってきた。ベスタ版という変則フィルムで撮ったもの、ブローニー版のフィルムを使ったセミ判の写真、ヤシカの35ミリ版、そして大学に入ってからミノルタの一眼レフでの写真、それらのフィルムネガはすべて保存していて、ベスタ版は別にして、ほとんどデジタル化してある。

 学生時代には寮に同好会があり、引き伸ばし機があったので、自分で現像や引き延ばしもした。いちおう化学屋の端くれなので、現像用の薬品などは自分で購入して調合した。一番大事な温度管理が当時は難しかったのはつらかったが、それらは現像時間などの調整で何とかした。自己満足ではあるが、それなりの写真が撮れた。

 カメラと装置と、フィルムと薬品と適正なフィルム現像、引き延ばしと現像定着水洗を行えば、(自分にとって)いい写真が撮れることはわかっている。そしてそのネガがちゃんとしていれば、それをいろいろと加工できて調整も可能である。それなのに・・・である。

 デジタルカメラを使うようになるまでの何十年間、写真を撮るとDPE屋に現像とプリントを依頼してきた。カラーは手間もかかるし自分で現像するのが難しいので依頼することになる。出来上がりが自分のイメージと違うことがほとんどだ。もちろんそれほどの腕でもカメラでもないから、人に自慢できるほどのものでないのは分かっているが、でもこの程度には最低撮れているはず、という経験上の推測があるが、それが納得のいくもので仕上がることがほとんどない。

 依頼する店によって違いがあることがわかってきた。ひどい店だと、焼き増しのために二回目を頼むと最初の時と同じ写真だろうか?と首をかしげるほど違う仕上がりである。あまりにひどい仕上がりが多いので、最後にはプロも頼むような、ふつうの店の倍近い値段のラボに頼むようになった。不満足ながらだいぶマシな仕上がりになる。しかしそのラボも価格競争の中で依頼する人が減ったのか、プロ専用になって一般用の依頼を受けなくなってしまった。

 DPE屋がどれほどひどいか。機械任せで、しかもピント調節もこまめにしていないからピントが甘い。薬品はけちるから使用回数の限度をはるかに超えて使用しているらしく、液がくたびれ果てているから粒子が粗い。液が新しいときと、くたびれたときとで仕上がりがまるで違うので、頼むたびに仕上がりが変わるのは当然なのだ。

 それが本当にわかったのは、この世にフィルムスキャナーというものが出て、まだ高かったけれどすぐに購入して、フィルムをデジタル化してパソコンに取り込み、プリントアウトしてみたときだ。DPE屋のものとは同じ写真とは思えないほどちゃんと撮れているではないか。まだそれほどの高画質でスキャンできないスキャナーでも歴然と違いがわかった。それに無理に高画質に取り込もうとすると、当時のものはなにしろとてつもなく時間を食うのである。

 大量のネガを整理し、それをスキャンしてファイル化したが、新しいスキャナーがでるとその高性能さでフィルムからの情報がよりたくさん取り込めるようになる。そうするとそれを購入して取り込み直す。その繰り返しを四台のスキャナーで行ってきた。正直くたびれ果てたけれど、私の宝物の一つであるファイルが残されている。

 しかし激しい怒りを感じることがある。それはフィルムそのものが損なわれてしまっているものが何本かあることだ。少々のネガ傷くらいならいまは修正も可能だが、フィルムの現像後の水洗が不十分なために薬品が残り、そのことでフィルムが台無しになっているものがあるのだ。自分で水洗し直してみたけれど、わずかにマシになっただけでもう取り返しがつかない。ある時期に集中しているから、特定のいい加減なDPE屋の仕業だろう。

 そのネガに映っているのは子どもたちの幼いときの写真である。どこのDPE屋か知らないけれど呪われろ!と思うけれど、そんなところはすでにつぶれてないだろう。

 まっとうに仕事をすればちゃんとしたものが出来るのは分かっているのである。それが出来なかったDPE屋のほとんどは街から消滅した。デジタル化が理由だと彼等は言うだろう。デジタル化を推進したのは彼等なのである。彼等自身が自分の仕事を喪失させるようにしたのである。みなが安さを望んだのだ、安くしなければ客も来ないし生き残れなかったのだ、というだろう。言い訳である。客は安さにあきれ果て、安いから仕上がりに文句も言えなかった。

 いまデジタル写真は高画質で誰が撮ってもきれいな写真が撮れる。有難いことである。しかし写真は時間を切り取り、時間を定着させるものでもある。それを損なわれた恨みは忘れがたい。それをいい加減な仕事で損なうような人たちは退場が必然なのだ。

(本日から旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月18日 (火)

試し撮り(2)

試し撮りがてらの散歩が続く。


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なんの樹だろう。枝が奇妙にねじくれている。

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つり荷の下に入るな・・・。なるほど。こんなことが書いてあるのだ。

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活きている田なのか休耕田なのか。これでは刈り取りも出来まい。

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水を張ったところにこんな穂が出た稲が。田植えの苗の束をここに放置しておいたものだろうか。

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風に吹き寄せられた赤いサルスベリの花。

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田んぼが埋め立てられている。どんどん水田がなくなっていく。

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折り返し点のスポーツセンターに到着。

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中庭には銅像がある。

いろいろ撮ってみたけれど、とにかくレンズが重いし、一脚も持っていかなければならない。それにここまでの望遠は必要ないだろうと判断。望遠が不足ならもう少し近寄るだけだ。

結論。望遠ズームは持参しない。でも写真は面白い。

試し撮り(1)

旅行の時のカメラにはいつも高倍率ズームのレンズを装着していく。たいていの用に足りるので重宝しているが、どうもこのごろ不調である。動作音に異音がして、しかもAFの応答が遅い。横着をして修理に出さずにいたので、いまさら間に合わない。そこで低倍率ズームのレンズを装着していくことにしているのだが、望遠側が不足である。


フィルムカメラ用の望遠ズームがあるのでそれを持参するかどうか迷っている。70~300ミリのレンズなのだが、重いしVRレンズ(手ぶれ防止)ではない。私のカメラはニコンのDXタイプなので、このレンズは105~450ミリとなる。

持参するかどうかを決めるために散歩がてら試し撮りに出掛けた。ブレ防止のために一脚を持参する。一脚でも結構役に立つ。むかし手ぶれ防止のない時代にはよく持参した。

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ダリアだろうか?

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名前がわからない。

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芋の葉っぱも見ようでは美しい。

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彼岸花が咲き始めた。

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それらしく開いたのを一枚。

どうももう少し絞った方が良かったみたいだ。

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これは鶏頭だろう(と思う)。

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まだ熟していない柿。そういえば今年の柿はまだか。

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こちらはツバキの実か。

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なんという花だろう。

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手入れのよい植木。庭があるから植木も植えられる。

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畑の隅にくたびれた案山子が。

続・日本酒

 これは四十年以上前の対談での話なので、いまは違うと思う(思いたい)。『悠々として急げ 開高健の対談集』から。

開高  私は酒造家の組合で二度ほど講演したことがあるんです。私は日本酒を愛していますからね。なぜ愛しているかというと、世界に二つしかない。あっためて飲んで美質が出てくる酒というのは中国の紹興酒と日本酒だけなんです。だから、この酒を貴重にしたいと思って、全篇ことごとく日本酒を罵るという講演をしたんです。ところがみなさんケロッとしている。当然のことをいわれただけという顔をしていましてね。あとで話し合うと、いちいちお説ごもっともだとおっしゃるんです。それでいて、じぁあどうするかという考えはだれも言わなかった。だから、やっぱり夢にひたっているという感じ。勉強心がないんです。私はお酒を造る人というのは人類の発生以来、芸術家じゃないかと思うんですよ。だけれども、そんな志、気迫、風格というものを持った人にほとんど出くわさないですね。

石本 おっしゃる通りあぐらをかいているんです。酒というものはある程度のものが出来るともう十年間は大丈夫だという。戦前の酒屋さんを例にとってみますと、中央品評会で優等賞を取りますと、早くいえば、次の日から精白を下げます。いちおう賞を取ってしまうと、もう売れ行きは心配ない。二年や三年精白を悪くしても惰性で売れるんです。それでおまんま食って、自分でレッテル貼って、責任持って出したんですから。

開高 まっとうな原料で、まっとうな水で、まっとうな麹で、まっとうに造っていけば、いい酒が出来ることはわかりきっているとみんな言う。ではそれをやるかといえばこんな酒を造ったって、お客がついてこないんじゃないかとかなんとか、勝手なことを言う。しかし人間の舌というのはじっとしていないです。いっぺんうまいものを覚えるとなかなかもとへ戻れないし、もっともっと先を求めていくところがあるんです。そういうことを考えていくと、少々高くなってもうま口の、飲んで飲み飽きない酒を造れば、結果としては儲けになるんじゃないか、と私なんか言いたいです。ベタ口の酒だと、私はもう二杯目のおちょこ飲む気がしなくなる。

石本 女子供にまで飲ませようとしたのが失敗のもとなんです。甘くしなければ飲まないでしょう。

開高 アホですからね。(笑)

 ちょっと危なくなってきたのでこれくらいにする。あくまで四十年以上前の話である。いまはうま口のわかる女性も数多い。そして美味い酒だけが売れる。それに子供はいまは飲ませてもらえない。

 しかし誰かがこの酒は美味い、などと書いて評判になるとわれもわれもと味もわからないのに奪い合ってプレミアがつくのもこの世の習いだ。人の評判で飲んでいる。評判の酒を飲むことを自慢するために飲んでいる。心しなければ。

2018年9月17日 (月)

おためごかし

 樹木希林さんが亡くなった。七十五歳は今の時代では若死にだろう。全身にガンが転移していると以前に公表されていたから、この日が近々やってくると本人も承知していたようだが、それにしてもそれを平然と受け止めて、彼女なりの自分の生き方を貫いたと思う。

 彼女を知る人たちはみなその彼女の死を悼み、彼女に対して賛辞を惜しまないようだ。彼女とドラマや映画で関わった人たちは特にそのようで、その演技を見たこちらにも素直に共感できる。

 ただ、彼女にインタビューをしたというアナウンサーなどに、ちょっと違和感を感じさせた人がいた。彼女は自分を飾らない。誰に対しても、聞かれればありのままに自分の生活や考え、生き方を語る。そのインタビューを一度ならず見たことがある。彼女の生き方考え方に、聴き手はさかんに頷き、感心して見せているが、実は全く理解していないなあと思うことがしばしばあった。 

 そういう聴き手の一人が、過去のインタビューの様子を放映しながら彼女の素晴らしさを語っていた。私にはおためごかしに見えた。

旅の仕度

 なにかをしなければならないときほどそれ以外のことが面白くなって、大事なことを後回しにしたりする。試験の前に読む本や観る映画の面白さは格別だ。

 もうすぐ中央アジアへの旅に出る。その仕度をしなければならない。頭ではいろいろ考えているのだけれど、実際の本格的な仕度が始まっていない。それでも必要と思われるものは少しずつ用意をしている。両替が不自由らしいので、銀行でドルの用意をした。有料トイレなどのための小額のドルも必要らしいので細かい金も用意した。

 あとはカメラと洗面具と着替えその他少々があれば準備オーケーのはずなのだが、キャリーバッグに詰めるのが面倒だ。詰めるのは無理矢理でも、取り出すことを考えて詰めなければならない。一番苦手な作業なのでつい先延ばしになってしまう。ティッシュとウェットティシューの用意も必須だそうだ。

 旅行中のブログをなるべく空白にしたくないので、読んだ本のことなどを日時指定で書く作業も進めているが、そうそう先まで埋めるのはなかなか大変である。いつまで埋められるか。

 全く知識もなじみもない場所へ行くので、多少は調べておこうと思ってガイドブックを読み始めたが、地名や人名になじみがないから頭に入らない。実際に現地へ行ってから読み直した方が早そうだ。ただ、あこがれのシルクロードの中継地へ行くというワクワク感はある。いったいどういうものを見て感じてくることが出来るのだろうか。なんだかこの旅行が弾みになって、つぎつぎに出掛けたくなるような予感と高揚感を感じている。

 昨晩は本を読んだりゲームをしたりしていたら眠気がどこかへ飛んでしまい、ほとんど徹夜してしまった。明るくなってからほんの少しだけしか寝ていないのにあまり眠くない。朝の風がさわやかに感じられる。秋の風を感じるが、昼間は30℃を超えるという。今日は敬老の日で世の中が休日だというのは、毎日が日曜日の身にとっても不思議に居心地が好い。

2018年9月16日 (日)

石徹白の白山中居神社(5)長走りの滝

長走りの滝に向かう。神社から細くて荒れているが舗装された道を行けば1キロ足らずのところにある。二、三百メートル手前になんとか車を置くスペースもあるのだが、藪中の道なき道を経由したのですべて歩きとなった。


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行けども行けども滝が見当たらないと思ったころ、川へ降りる小さな道に標識が立っていた。

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ふたたびこんな道を下りていく。こちらは訪ねる人もときどきあるのか、多少は整備されていて歩きやすい。それにしても滝のあるところには必ず登り降りがある。高低差があるから滝が生ずるのであるから仕方がない。

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道から長走りの滝の落下口が見えた。

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これが長走りの滝。白く泡をかんでいるが、落下型ではなく、日光の竜頭の滝のように急勾配を下るタイプの滝である。

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流れ下る水。

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さらに流れて

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こんなものも流れた。上が根元のようで、ここで突き刺さるように倒立したものらしい。

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水は清く、淵になったところになにか居そうな気配がする。

満足して帰路につく。帰り道は道路に戻るまでは階段だが、その後は下りであるから楽である。これで白山中居神社散策は終わり。

2018年9月15日 (土)

日本酒

 蒸留酒よりも醸造酒が好きである。お酒がおいしいと本当に思うようになったのは三十歳くらいからで、それまではうまいまずいよりも、酔うことのほうが目的で飲んでいたような気がする。それにそれほどいい酒を飲むほどふところも豊かではなかった。ただ、酒は相手によって美味かったり不味かったりするものだ、ということだけは感じていた。それはいまも変わらない。

 いまは公言すると顰蹙を買うが、私は中学生くらいから正月などで祖父(母方)の家に叔父達が集うと、父が下戸だったので、父の代わりに席に座ってお酒を飲んだ。祖父も叔父達もみな斗酒なお辞せずの酒飲みだったので、お相伴するのは大人並みに扱われているようで晴れがましいものだった。もちろん本物の酒飲み達は子供の酒の量については弁えているから、面白がって酩酊させるようなことはなかった。ただ酒は美味いものらしいと思い、大人になったら最後まで一緒に飲みたいものだと思った。

 生まれて初めて酒で粗相をしたのは大学一年生の時である。まだ未成年ではあるが、当時は大学生ともなれば酒の飲み方を知らなければならないとばかりに、いろいろ飲む機会があった。ある日、下宿で友人と風呂上がりに冷や酒を酌み交わした。大人の飲み方をしたのは生まれて初めてである。風呂上がりに冷や酒が格別旨く感じられ、スイスイと飲めた。友人はそれほど強くないので二合か三合でダウンし、残りを私が独りで飲んだ。あっという間に一升瓶が空になった。夜中にエライ目に遭った。飲みすぎたらどうなるか、酒飲みなら経験のある人は多いだろう。

 その酒は甘口の秋田の酒だった。その後その酒だけは苦手になった。トラウマになったのである。それに酒が身体になじむにしたがって甘口の酒はおいしいと感じられなくなった。必ず悪酔いする。

 開高健の対談集『悠々として急げ』という本を読んでいる。このなかに新潟の「越乃寒梅」の蔵元、石本酒造の社長との対談があって、開高健が甘口の酒を酷評しているくだりがあるので紹介する。

「日本酒がべたべたと甘くてねちっこくて蜂蜜の安物みたいな酒になっちゃった。おちょこを上げると飯台までついて上がりそうな鳥モチみたいな酒になってしまった。それで、十数年前になりますけれど、ちょうど仕込みのころに灘へ行きまして、いわゆる大手メーカーの重役さんと話し合ったことがあるんです。灘の酒の味というものが有名で伝統になっているんだけれど、一体なにがこれを作ったかという話になりましてね。そうしたら、播州の米、西宮の水、もう一つ瀬戸内の小魚。小味のする、引き締まったアコウとか、オコゼとかいろいろあります。この三つがあいまって灘の酒の味を決定したんだという言い方をしている。しかし、重役さん、いまのあなた方の造るお酒は鳥モチみたいなべたべたとイヤらしい甘口で、なにか別れきれない、あくどい女みたいな感じがする。これはちょっとやりきれないんじゃありませんか、こういうものを造っていて恥ずかしくないんですかというような露骨なことを聞くと、恥ずかしいと言うんです。しかし自分の求めている理想の酒を出すと客がついてこないとも言う。それは客を見くびった言い方じゃないんでしょうかというと、こんな大きな企業になってみると冒険ができないという逃れ方をする。冒険じゃなくてご先祖様の味に帰るというだけの話しじゃないんですかというと、黙ってしまいましたけれどね。そのとき、勉強になったのは、甘口、辛口という評言があるが本当に好い酒のことをうま口というんだ、つまり飲んで飲み飽きない酒のことなんですね。それともう一つ淡麗という言葉を教えられまして、この二つだけ覚えて帰ってきたんですけれども、淡麗な日本酒というのになかなか出くわせないのが、我々飲みすけの悩みですな」

 蔵開きで飲む汲み立ての原酒はうまい。どうしてそれをあんなにまずくしてしまうのか、というような酒ばかりだが、さすがにまずい酒は売れなくなり、そんな酒を造っていた不勉強な酒蔵はたいていつぶれていって、美味い酒をこだわって造っているところが生き残っているのは幸いである。

 そのことについてはつづきを次回に。

石徹白の白山中居神社(4)宮川沿いに遡上する

車をおいた鳥居の前の地図によれば、白山中居神社前の宮川に沿って上流に歩く道があるようだ。


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神社から下って川を渡り、それらしい脇道を捜したが標識もない。

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どうもこの藪に残る踏み跡らしきものが遊歩道のようだ。行けるところまで行ってみようと歩き出す。暫くその道なき道を歩くのでおつきあい戴きたい。

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写真では分かりにくいが、道の真ん中を水が流れている。腐りかけた切り株に脚をかけてようやくまたぎ越える。川を左手に見ながら向こうから歩いてきたのだ。

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神社から見た小さな滝はこの流れが下ったもののようだ。

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こんな道だか道でないのか分からないところを踏み入っていく。

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木の階段は踏み場がえぐれてしまっている上にところどころ木も崩れていて歩きにくい。だんだん不安になる。

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登ったり下りたりしている内にふたたび川のそばまでやってくる。右手の大岩はなにかの神石のようだ(注連縄の朽ちたものがかかっていたような痕跡が見られた)が、なにも標識がないので分からない。

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川からまた上る。どうやらここから上の道路に戻るようだ。

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踏み段に杉の枯れ枝が積もって単なる坂になっていて、滑るから危ない。近頃は誰も歩く人がいないのだろう。

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登り続けると、小さな水力発電所の横を通ってようやく開けたところに出る。距離的には500mもないはずだが、私としてはずいぶん頑張った。

ここからさらに道路を進めば「長走りの滝」に行けるはずである。

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2018年9月14日 (金)

石徹白の白山中居神社(3)

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さらに高台にある、屋根に囲われた本殿。

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本殿の後ろには鬱蒼とした樹木があって、神韻を感じる。
実際はもう少し暗い。

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本殿の後ろには大木が覆い被さるように聳える。

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よく見ると美事な彫り物が施されている。

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境内に転がっている石はどう見ても自然石だが、不思議な形をしている。なにかが封じ込められているかのようだ。

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横のお堂の中に丸い石が置かれている。なんだろう。

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境内随一のご神木が倒れて、その中から出てきた玉の石だそうである。不思議なことである。

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この坂を登っていくと、浄安杉という大杉がある。一昨年大汗をかきながら登った。ここから300メートルというからすぐだと思ったら登るほどに坂は急になり、木の根を踏みながら登る。山道の100メートルは、舗装された平らな道の300メートル~500メートルに相当する気がする。

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入り口の看板。

この白山中居神社からさらに登ること数キロのところに石徹白の大杉という巨木があるが、この浄安杉はそれに次ぐ巨木である。

どうして浄安杉というなであるのかが看板に詳しく記されている。

昔、中居神社の別当寺に円周寺という寺があった。
宝暦十年(1760)四月に円周寺の住職となった人で浄安という人があったが、当時は白山禅頂を目指す信者が引きもきらず、円周寺はこの人たちのために一夜の宿を貸していた。円周寺で一夜を過ごした人たちは翌朝若干の金子をおいていくのが例(ためし)であった。こうした金がしまいには袋いっぱいとなったので、保管に困った浄安は夕暗迫る頃神社の裏山にある一本の杉の根元に穴を掘って埋めた。埋め終わった浄安が坂を下りていると杉の梢より「浄安、鋤は」と烏が鳴いたので、浄安は鋤を忘れたことに気がついた。それよりこの杉を浄安杉と呼ぶようになったと云う。

浄安杉 樹高32m 周囲 12m

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これが一昨年に見た浄安杉。

2018年9月13日 (木)

石徹白の白山中居神社(2)

 巨大な杉並木のあいだを抜け階段を下りると川が流れている。宮川である。大日岳(1709m)を源流とする朝日添川と芦倉山を源流とする保川がこの神社の上手の北側で合流した川で、合流地点は滝のような急流となっている。通称「長走りの滝」という(あとで見に行く)。

Dsc_7451 宮川の上流方向

 この宮川は神社の少し下手で石徹白川に合流し、さらにその石徹白川は九頭竜(くずりゅう)川に注ぎ込む。長良川沿いの国道156号線を北上して峠を越えて石徹白に来たのだが、長良川は太平洋に、この九頭竜川は日本海に注いでいるのだ。

Dsc_7452 宮川の下流方向

 地図で見てみると、この石徹白の北の大日岳の麓はひるがの高原、ここには珍しい国道脇の分水嶺がある。長良川沿いに国道156号線を行けば、ひるがの高原へ、さらに東へ向かえば荘川を通り高山へ、左に曲がって北上すれば御母衣湖を通って白川郷を通り富山へ至る。

Dsc_7459 小さな滝、長走りの滝てはない

 そして石徹白の南側の毘沙門岳の南には九頭竜川そして九頭竜ダムがある。この九頭竜川沿いの道へ行くのは郡上白鳥から油坂峠を越えていくしかない。その道は越前大野、勝山、永平寺から福井に至る。その道も景色が良くて好きな道だ。

 九頭竜という名前の響きが好いではないか。確か、映画『座頭市と用心棒』で、岸田森が九頭竜という暗殺者の役を演じていて、その映画を見たときには九頭竜が川の名前とは知らずに、いいネーミングだと感心した記憶がある。岸田森は異相の俳優で、樹木希林の最初の旦那である。

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川を渡り、神社への石段を登る。

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拝殿が見える。

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右奥が本殿である。

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本殿階段下の狛犬。

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ここは白山登山の南側の登り口の一つなのである。実際には神社左手の道を北上し、石徹白の大杉という十二人抱えといわれる巨木の横を登って行くようである。その大杉まででも石段を四百段か五百段上らねばならない。巨木は見てみたいので、いつか見に行こうとは思っているのだが。

神社本殿については次回。

2018年9月12日 (水)

石徹白の白山中居神社(1)

 白山(2702m)は、富士山、立山ともに古来日本三霊山に数えられており、白山信仰は著名な山岳信仰の対象として古い歴史を持ち、全国の白山神社の数は2700社を超えるという。そのうちの525社が岐阜県にある。先日訪ねた郡上白鳥の長滝白山神社もその主要な神社の一つである。

Dsc_7443 白山中居神社鳥居

 今回はさらに山の上にある、陸の孤島といわれる石徹白(いとしろ)の白山中居(はくさんちゅうきょ)神社を訪ねた。祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、白山信仰の開祖である越前の泰澄(たいちょう・8世紀初め頃)が社殿を修復して社域を拡げたと記録にあるというから、それ以前からこの神社はここにあったのである。

Dsc_7447 大杉の参道を逝くと木の間に神社が見えてきた

 ここには一昨年、長老と兄貴分の人と三人で立ち寄っている。スキー場のウイングヒルズを見下ろす、「満天の湯」の前の宿に宿泊した。そこから近いのである。満天の湯は標高1000mを超える。国道156号線から阿弥陀ヶ滝方向に道を逸れて山を一気に登り、さらに峠を下った奥深い山村が石徹白である。今回は郡上白鳥の銘酒を送って欲しいというその兄貴分の人の用事を兼ねての訪問である。

Dsc_7448 振り返るとこんな道

 幸い天気もまずまず(9/11)、神社とその周辺を散策したので何回かに分けて報告する。

まさかの中国製

「ニューサイトしらべぇ」が東京オリンピックの公式Tシャツが、日本製でなくまさかの中国製だったと報じた。さらにピンバッジの中国製だったという。ただ、同時に調べたタオルやネットストラップは日本製だったらしい。

 記事はせっかく日本で開催されるのだから出来れば国産で統一して欲しかったが、さまざまな事情があるのだろうと結んでいる。ただ中国製であるから批判するというばかりでないところが救いだ。

 ピンバッジについてはよく知らないが、Tシャツについては日本で大量に生産するのは困難なのであろうとは想像できる。北陸の合成繊維製品を除けば、日本国内の繊維産業はすでにほとんど壊滅的な状況である。Tシャツなら綿かT/C(綿とポリエステル)素材であろう。

 戦後日本が経済的に復興を成し遂げ、アメリカへの製品の輸出が急増した。1970年前後、アメリカはその時点での主要輸入品だった繊維製品について日本に対して強硬な規制を打ち出し、政府間で交渉の結果日本が大幅に譲歩し、自主規制を余儀なくされた。それは名目上アメリカの繊維産業を護るということだったが、そういう保護で産業が護られた例しはない。逆にこのことで日本の繊維産業は衰退の道を歩むことになった。

 その10年後、今度はアメリカは自動車を中心に官民あげて日本製品排斥を行った。日本は大幅に譲歩させられたことはある年齢以上の人なら記憶されているだろう。その前例の成功の記憶こそトランプの貿易摩擦発動の原点ではないかと思う。

 日米繊維交渉で、特に綿製品の五年間の輸出停止に追い込まれた後、アメリカの繊維製品はアメリカ製に戻ったのか。そんなことはなくて、韓国や中国が日本のかわりに輸出しただけである。産業保護を名目にしているが、アメリカは日本の急成長が面白くないから叩いただけに見える。今回の米中貿易戦争もそういうことだろう。だから中国が日本のように妥協譲歩しない限り終わりはない。そして面子を重んじる中国が譲ることは考えにくい。下手な譲り方をしたら政権が批判されてしまう。よほどのマイナスが生じて、国民あげて譲歩して欲しいという機運が生じない限り習近平も譲れない。

 すでに五十年前から日本の繊維産業は衰退への道をたどった。人件費の比率の高い産業であるために、繊維産業は先進国からつぎつぎに後進国にその座を譲っていくというのは歴史的な流れではあるものの、日本の場合はそれ以上の外的要因があった。日本政府は日本の繊維産業を見捨てたのである。だから時代の趨勢としての衰退ならまだダメージはゆるやかだっただろうに、対処が困難な急激な衰退は多くの会社を苦しめることになった。

 過去日本を支えた綿紡績会社はほとんど国内の工場を閉鎖した。繊維産業は裾野の広い産業である。紡績、製織、編み立て、染色、加工、縫製の行程に関わる会社もほとんどが廃業・倒産に追い込まれた。産地そのものが消滅してしまったのである。いま、すべて日本製の天然繊維の繊維製品など、極めて限られているし高価であるのは当然である。家内工業製品みたいなものなのである。

 東京オリンピックの公式Tシャツが国産ではないことをもし問題視するのなら、日本の繊維産業の歴史を多少は知った上で批判して欲しい。奉職中、繊維産業の生産工場を得意先としていたので、その衰退を目の当たりにしてきたのでこんなことを書いた。

2018年9月11日 (火)

気にし過ぎか

 NHKBSニュース、特に海外のニュースをよく見る。海外ニュースでは、同じニュースを国によって違う視点から報道しているのを見ることになるので、その国がどういう国か多少分かる気がする。中国やロシアはやはり私から見れば他の国とは異質な価値観の国なのだと感じたりする。そういうニュースを見続けていればその国の人はそのような価値観に影響されないわけはない。

 韓国は日本で思うより慰安婦問題ばかりを言っているわけではない(当たり前だが)し、日本のことばかり言っているわけでもないことも分かる。そういう意味では日本は韓国が日本のことばかり気にしている、と思い込んでいるところがあって、じつは日本の方が韓国を気にし過ぎているのかも知れない。

 同じ海外ニュースでも、海外の報じたものをそのまま伝えているものと、NHKがセレクトしてまとめたものがあって、セレクトしてまとめたものの方が分かりやすいけれど、じつはそれぞれの国のニュースを報じる優先順位まで感じ取りたいと思えば、そのまま放映したものの方が良いのかも知れない。

 ただその場合は、通訳の人がその国のニュースを日本語に替えて語っているのだが、その中にちょっと気になる人がいて耳障りである。声がネチャついていると言ったら却って分かりにくいだろうか。プロであるから日本語としては問題ない。声質、発声に違和感を感じるのである。たいていは特に気にならないが、二三人の人が耳障りなのである。みな女性である。

 気にしだすとニュースそのものよりもその声が気になってニュースに集中できない。能力のある通訳者には限りがあるから、そういう声の人でも選ぶしかなかったのだろうか、などと思うけれど、私が気にし過ぎで、たいていの人は何とも感じていないのかも知れない。通訳はアナウンサーとは違うから、声質やしゃべり方まで厳選されていないといえばそれまでだが、それにしても気になる。

 ところで、地上波のNHKのニュースが民放を真似ているのかバラエティ化しているのに比べて、NHKBSのニュースははるかにシンプルでありがたい。ニュースはこれでいいのである。スポーツや芸能や生活百科お役立ちのお知らせは別枠でやってくれ!  見なければいいのだけれどニュースは知りたい。その部分だけ消すのも面倒なのだ。

 そういえばBSニュースのアナウンサーの木下瑠音さんは超美人だと思う。美人過ぎて、夜、突然出遭ったらこわいだろうと思うくらいに美人だ。

器を替える

 山形県の新庄に嫁いだ叔母(父の妹)には学生時代に大変世話になった。たびたび泊まりに行っては小遣いをもらった。子供が四人いるが、後妻なのですべて先妻の子供であり、私とは血のつながりはないけれど、ふつうに従兄弟として親しくしていた。

 その叔母も父より少し早く亡くなってしまった。それから久しいが、その叔母の形見として鍋をもらった。金の取っ手のついた片手鍋で、打ち出しの重い鍋である。愛用の鍋がすでに揃っていて、その鍋は棚の奥にしまわれたままになっていた。

 シチューやカレー、麺類を茹でるための少し大型の鍋がくたびれてきた。底が薄いので火の通りがよいのだが、強火で炒めるときなど焦げやすくなってきた。思い立って叔母の鍋を引っ張り出した。使わないから蓋も鍋もなんとなくくすんでいる。磨き粉で表面を磨いたら光沢が少し戻って見栄えがよくなった。大汗をかいた。

 底が厚いからやや熱くなるのに時間がかかるが、あとの温度変化がゆるやかなので火加減が楽である。金の取っ手なので頑丈であるけれど、鍋の取っ手をもつときは鍋つかみかタオルが必要である。面倒だけれどプロっぽくてちょっと好い。

 食器棚に独り暮らしには不要なほどいろいろな食器が所狭しと並んでいる。これでも思い切りの良いどん姫がずいぶん処分してくれたのである。来客があればそれらを活用するのだが、めったにあることではない。活用しないどころではなく、横着をしてだんだん使用する器が限定されている。違う料理なのにいつも同じ器を使い、そもそもそぐわない器をそのまま気にせず使用していた。

 叔母の鍋を磨き立てている内に、どうも物というのは使わないと可哀想だという気持になってきた。使わないと物の怪(もののけ)になってしまうかもしれない。そう思って料理に合うように極力違う器を使うようにすることにした。どうせ一人分だからあとで洗う手間がそれほど増えるわけではない。

 酒の器ももらったり集めたりでいろいろと揃っている。これもその日の気分で替えるようにしはじめた。多少は気持ちがにぎやかに感じられないことはない。

 これも老化を遅らせるささやかな手立てかも知れない。

2018年9月10日 (月)

物持ちが良すぎても

 家にいても下着をこまめに替える。汗かきなので身体を動かすとすぐ汗をかく。汗臭いのは嫌いである。寝ていて夜中に目覚めたときに汗ばんでいるのに気がついて着替えることもある。さっぱりするとまた入眠しやすい。シャツだけではない。歳とともに蛇口がきっちり閉まりにくくなっているのが不快である。パッキンを替えるというわけにはいかないのが残念である。

 以前より神経質になって着替えが頻繁になっているが、洗濯はどうせ洗濯機がしてくれるのでたいした手間ではない。汗のままの下着でいると、いわゆる加齢臭がしてくるおそれもある。子どもたちによれば、いまのところ気になるほどではないらしいのは幸いである。体臭の多くは身体に棲みついた雑菌のせいだという。こまめに下着を替えていれば多少は雑菌の定着を防げるはずだ。

 洗濯すると衣類はしだいに痩せてくる。いまの布地はとても丈夫なのでいくら洗っても破れるほどのことはない。そのかわり、何年も経った下着はずいぶん薄くて、たたむとその違いが歴然と分かる。捨てようかどうしようかと思いながら、また着用し、洗濯する。

 このごろは、わざわざそのような下着を海外旅行に持参することがある。かさばらないから有難いのである。さらに使用後にゴミ箱に捨ててしまっても惜しくないのである。そうするとトランクにささやかながらスペースが空くので、多少の土産が入るようになる。物持ちが良すぎてもみすぼらしい気持になっていけないが、こうすれば一石二鳥なのである。何かあったときにそんな下着を見られるのはいささか恥ずかしいが、見せる機会はまずないので大丈夫。

あと何年

 先週車検は無事終了したのだが、ブレーキ周辺に錆が出始めているという。冬場の融雪剤によるものらしい。冬の東北や北陸をたびたび走るので融雪剤まみれになることが多い。このままではブレーキの効きが悪くなるおそれがあるとのことなので一部部品を交換することになったのだが、その部品の在庫がないので後日修理することになっていた。

 昨日部品が準備できたというので今朝もう一度ディーラーに行く。一日かかるらしい。帰りと終わったあとの迎えを新しい担当の人に頼むことになっているので楽である。向こうも代車を用意せずに済む。クレームというわけにはいかない部品らしいから、また金がかかるが、だいぶ割引してもらえるし、定期点検のセットも契約して割引券ももらってそれも使えるので、多少は安くなる。

 タイヤとブレーキは万全でなければならない。息子に聞いたら、この車はだいじにに乗れば20万キロ乗れないことはないという。それならいまのペースであと7年は乗れるのである。そのときは75歳。車を処分し、今度は列車旅を楽しむことになる。列車旅を楽しめるほど元気であれば好いのだが。

2018年9月 9日 (日)

『つれづれのまゝに』

 祖母(母の母)が和歌をノートの書き残していた。『つれづれのまゝに』と表紙に題して、昭和五十四年と書かれている。昭和54年から、歌が詠めなくなるまでの創作集である。もしかしたらそれ以前のノートもあったのかも知れないが、母を通して渡されたのはこの一冊のみである。

 行書体、旧仮名遣いまじりでところどころ読み取れない。読み取れないのはこちらに崩し字を読む力がないためである。同じ字がほかの歌に出てきているところを探し出し、それらを引き比べてようやく読み取ったりしている。一ページに十首、昭和64年、つまり平成元年の二十首が最後である。数ページを残してほぼノートは歌で埋め尽くされている。この歳に祖父が亡くなった。そのころから祖母は認知症気味になり、介護士を頼みながら私の両親が世話をした。その当時は介護のシステムも介護保険もなかったから大変だったようだ。

 私は明治生まれのその祖父母が大好きで、遅くとも幼稚園時代から小学生までは、春休み、夏休み、冬休みといえばほとんど祖父母の家にいた。そのあとも祖父母の家はわが家と全く同じ居心地の良いところだった。祖父母は絵に描いたような明治生まれであり、厳格で、しつけも厳しく、子供に対しても容赦がない。だから私の弟や妹、そして従兄弟たちはみな恐がっていた。

 私だけ可愛がられて特別扱いされたわけではない。だけれどいくら叱られてもあまりこわいと感じなかったのは、相性が良かったからだろう。離れていたし忙しかったので、晩年はめったに訪ねなかったことを本当に残念で申し訳なかったことだと思っている。

 祖父は日清戦争の終わった年、明治28年(1895年)生まれ、祖母は明治40年(1907年)生まれのはずである。私が生まれたときは祖母はまだ42歳だったから、私の手を引いて歩いていると、遅くできた子供と思われるのをうれしがっていたと母から聞いたことがある。祖父と祖母が年が離れているのは、祖父が女学校の若い教師として生徒だった祖母を見初めたという、教師と生徒の間柄だったからである。

 祖父は謹厳かつ頑固であるが、無鉄砲なところもある。なんと祖母が卒業してすぐに祖母の家へ独りで乗り込んで求婚した。祖母の実家の両親は驚いたらしいが、それ以上に驚いたのは祖母だった。別につき合ってもいないし個人的に声をかけられたこともない、彼女にとってはただ、先生の一人であったのだから。

 それでも嫌いではなかったのだろう、すぐに結婚して母が生まれたから私にとって若いおばあちゃんになったのだ。祖母は成績優秀で、英語と数学が得意だった。ミステリーが大好きで、祖父母の家にはミステリーの雑誌や本が山のようにあった。ときには英語のミステリーの本を読んでいたらしいから本格的なのである。また生け花の名取でもあり、免状や手書きの生け花の本を見せられたこともある。だから庭にはいつもたくさんの花を植え、手入れをしてそれを活けていた。

 いつの頃からか、その祖母が和歌を詠んで書き留めているらしいことはうすうす知っていたが、実見したことはなかった。母が自分の手元に残った祖母の遺品の中から、私にそのノートを託したのは母が寝たきりになる少し前のことである。それをきちんと読みそうなのは私だけだと思ったのであろう。

 それをいまワープロで少しずつ写している。いつ全部写し終わるか分からないが、祖母の目から見た世界がしだいに見えてきてさまざまなことを考えさせられている。祖母から見た私はどんな人間だったのだろうか。それがなにより気になる。

 祖母の歌から祖父に対する愛が切々と伝わってくる。これほど愛していたのかとうらやましい気もする。

昭和64年(ノート最後の年)の最初の歌

 永遠の別れ云ひえで逝きし人恋ひし

     深きえにしの君にてありしを

眼前の光景

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 根が生えたように終日座椅子に座り込んでいる私の目の前に見えているものである。楽屋を見せるようで気が引けるが、テレビ側からこちらを撮るよりはマシである。座椅子の回りは恐ろしいほど雑然としていて、起ち上がるたびに突っかけて崩れたりする。出したらしまう、と子どもたちに言い続けてきたけれど、自分が出来ないのだから子どもたちも推して知るべしである。

 上の写真はソフトを使って拡大プリントをしたもの。左は確か木曽御岳で撮ったもの、真ん中は下北半島仏ヶ浦、右が積丹半島で撮ったもの、その下は黄昏時のバリ島である。

 左の食器棚の磁器は母の形見の香炉で、香も残してくれたのでときどき焚く。右手にBDなどの上に並んでいるのは梟たち。旅先で目にとまるとぽつりぽつりと買い集めている内に、いまは四五十たまっている。

 テレビは大好きであるが、最近はCMが耐えられないので、民放はほとんど見ない。NHKのニュースやBSのドキュメントや旅番組、歴史物、それとWOWOWのドラマと映画のみ観る。

 書くネタがないので目の前のものについて紹介した。お目汚しで申し訳ない。

2018年9月 8日 (土)

ひとは勝手なことをいうが

 ひとは勝手なことを言うもので、気にしていたらきりがない。Aが言うことをなるほどと思って従うとBは違うことをいう。なんとか折り合いをつければCはそうではないこうだ、などと言う。

 言われたとおりにしてなにか不都合があったとしても責任をとるのは自分であり、困って周りを見まわしてもみなそっぽを向く。

 だからひとが何を言おうが知ったことではない、という生き方をするのが一番良いかといえば、必ずしもそうではない。自分が気のつかないことというのはいろいろあるものだ。ときには人の言うことに耳を傾ける必要もある。

 何が言いたいのか・・・。トランプ大統領のことである。

 ひとがさまざまなことを言うからといって、それに振り回されていては大統領は務まらないのは当然だが、ひとの言うことに従えというのではない、ひとの言葉に耳を傾けたらどうだと言いたいのである。

 政権内部にまで批判が頻発しているということは、自分に何か問題があるのではないか、それを知るために耳を傾けてみたらどうかと思うのだが、ますます意固地になるばかりである。

 そういうのを独善的というのだが、独善的な人間が強権を行使したらろくなことはない。思い込みを修正して人は成長するのだが、このトランプというひとは三十年以上前から多分自己修正などということをしたことがないようだ。

 ひとの意見に耳を傾け、自分を見直し、ときに自己修正をするのは知性と強さを必要とすることである。それをしないで独善的に生きるひとは一見強いように見えるけれど、実は自分を見直す知性も修正する勇気もない弱い人間なのではないかと思う。

 トランプは実はおびえているのではないか。だから強がっているのではないか。追い詰められるような事態になったときに案外脆いような気がする。

 トランプを支持する白人達が、内心ではアメリカ合衆国の非ヒスパニック系の白人が過半数を割りつつあることにおびえているのだという。そのあがきがトランプの強がりとシンクロしているのかも知れない。彼等も自分の本当の姿が見えていないのかもしれない。現実に直面する勇気がないのだろう。

 こういう人間が強権を行使できていることは、世界にとっては迷惑な話なのだが、それを直接阻止できるのはアメリカ人だけなのである。どこの国も同様だが、いろいろ問題のあるひとがいたとしても、もう少しマシな人たちが多い国だと思っていたのに。

欠席する

 高校の同期会の案内が来た。初めてのことである。多分ずっと続いているのだろうが、昨年、幹事をしている友人にバッタリ会って消息を伝えたので案内が来たものと思われる。それとは別に、同窓会は卒業して何年目かの最初の会に一度出席した。あまり居心地のよい同窓会ではなかった。そのあとも続いているのかどうか知らないが、引っ越しをして連絡をせずであり、そちらはそれ以来音沙汰はない。

 高校時代にはあまり良い思い出がない。といって悪い思い出があるというほどのこともない。中学生の途中まではけっこう人付き合いもよく、明るい性格の方だったが、高校になってからはずいぶん内向的になり、文化系の部活の仲間と暗い話しをするくらいで友達らしい友達もあまりいなかった。その友達も風変わりの人間ばかりだった。屈折していたのである。

 大学になってから自分を社交的で積極的な人間に意識して変えたことは以前このブログに書いた。意識して行えば、他人から見た性格は変えられるのである。自分で実験して証明済みである。だから高校生の時の級友と、大学以後の友人や会社の人の私のイメージは全く違う人間のはずである。

 そのことが理由というのもあって、高校時代の楽しい思い出をなつかしく語り合うということが出来そうもない。彼等に当時の自分を演じてみせるのも、いまの自分を見せるのもなんだか気が重い。出席すれば必ず後悔するだろう。なにしろ会いたい友人などほとんどいない。面白いことに消息不明リストに、私の数少ない仲良くしていた級友たちの名前が並んでいたのには笑ってしまった。

 そういうわけで、昨夕「欠席」の返事を送った。

2018年9月 7日 (金)

同じことの繰り返し

 韓国の調査会社の調査結果によると、文在寅大統領の支持率はついに50%を切って49%になったという。北朝鮮との関係改善の努力については国民の多くが評価しているようだが、経済の先行き不安が次第に高じてきているのに、それに対する実効的な対策が見られないことが不支持につながっているようである。

 その支持低落下に歯止めをかけるためというばかりではないだろうが、文在寅政権は福祉対策強化を打ち出したそうだ。しかし経済の立て直しの具体案もないままで福祉対策をするというが、その財源をどうするのだ、と批判が相次いでいるという。貧すれば鈍する、との言葉通り持ち直しは危うそうで、このまま低落が続く恐れも出てきた。

 ところで、朴槿恵前大統領に対して懲役25年の刑が執行されそうである。さらにその前の大統領の李明博には懲役20年だそうである。李明博もあまりのことに自嘲的な苦笑いを浮かべていたと報じられた。

 この国はいったいいつまで同じことを繰り返すのだろう。もちろん理由があって罪に問われているのであろうが、そのようなことが起きないための方策はとれないのだろうか。それでも大統領になりたいと名乗りを上げる人間が現れることに驚きを感じる。自分だけは別だと確信しているのだろう。

 確信しているから前政権を激しく非難し、罪に問い、自分の正当性を声高に主張することで国民の支持を受ける。そうして政権が交代すればまた同じことが起きるのである。そういうことを繰り返す韓国の国民性について、さまざまな評論を読んで来た。そうかも知れないと思うことも多かったけれど、さて、当の韓国の国民自身はそんな自分たちをどう思っているのだろうか。なんだか変だなあというくらいは感じているのだろうか。

 またロウソク革命で悪い大統領を倒し、正しい大統領を担ぎ上げるのだろう。まことに正義の国であり、国民である。

シャーキーズ・マシーン

 アメリカの俳優のバート・レイノルズが82歳で亡くなった。バート・レイノルズといえば真っ先に思い浮かぶのは、『シャーキーズ。マシーン』(1981年)という映画である。これはウィリアム。ディールというひとの同名の小説が原作で、この原作を読んでその強烈な印象が頭に残っている内に映画化されたのでよく覚えている。疾走感のある映画だった。敵に捕らわれて拷問を受けるシーンは読者であり観客であるこちらまで痛みを感じるほどだった。タイムリミットのある情況の中での主人公の焦燥感が特に記憶に残っている。

 ウィリアム・ディールといえば、『真実の行方』(1996年)という映画の原作者でもある。これはリチャード・ギアとエドワード・ノートンの共演で、ラストの驚愕は忘れられない。この映画でエドワード・ノートンを初めて観た。これから名優になると確信した。

 口ひげのバート・レイノルズの出演した映画はたくさん観ているが、追悼の意味で見直すことにしよう。コレクションに録画はあっただろうか。追悼で放映してくれると嬉しいのだが。

杞憂だろうか

 アメリカ商務省が発表した7月の通関ベースの貿易統計によれば、対中国貿易の赤字が前月比10%増の368億ドルと過去最大となった。この数値からトランプ大統領はますます強く赤字削減を迫る見通しだという。対日本の赤字も自動車関連の輸入が増えるなどして増加しており、自動車の追加関税の可能性が高まっている。

 ここまでアメリカが貿易赤字を問題視しているのに、なぜさらに増加するのだろうと不思議に思ったけれど、ニュースの説明になるほど当然のことだと納得した。アメリカの需要が旺盛であることもあるが、関税が上がる前の駆け込み需要が赤字増大につながったのだろうという。

 日本だって消費税が上がる前に駆け込みで需要が増大するのと同じことである。同じものがあとで高くなる、それも25%も高くなると思えば、先に買っておくのは当たり前なのだ。

 輸入が過去最大に増大しているのに、輸出は1%減少したという。赤字が増えるのは当然で、次はアメリカのものを買え、と言い出すだろう。アメリカは自分が相手に勝って初めて平等だ、というのがトランプの価値観のようである。それがまかり通るなら支持者はますます応援するだろう。

 関税が実施されていけば、駆け込み需要の反動が来る。当然貿易赤字は激減するかも知れない。ちょうど選挙の時だけ赤字が急減すれば、トランプは胸を張って、自分の施策が奏功したから貿易赤字が減ったと成果を強調するだろう。もちろんそのあとどうなろうとなにも考えていないだろう。

 中間選挙の投票率は低いのだそうだ。そうなるとコアな支持者だけが声を掛け合って投票所に行くわけで、共和党が善戦し、それはトランプのお蔭という神話が真実のように語られるだろう。なにしろアメリカは景気がよいのであるからトランプには逆風が吹かない。

 アメリカの好景気はいつまで続くのか。アメリカの好景気は日本にとって、そして中国やヨーロッパにとっても経済的にはいいことなのではあるが、いままで世界がかろうじて築き上げてきた理性的な秩序は、トランプによって取り返しがつかないほどぼろぼろになってしまうような気がする。自己都合が衣の下に覗いていたとはいえ、その秩序を作り上げ維持してきたのはアメリカである。そのアメリカがそれを破壊しつつある。日本の繁栄はその秩序が維持されるからこそのものである。

 日本は天災つづきで本当に苦労が絶えないが、トランプが近い将来それ以上の人災をもたらすような気がするのは杞憂だろうか。

2018年9月 6日 (木)

さっぱりした

 今晩から五日ほど雨が降りつづくという。重い重い腰を上げて床屋に出掛けた。私としては思い切り短くしてもらった。ぐるりを刈り上げ、一番長いところでも2~3センチほどにした。ようやく決心したのだから、あとはまな板の鯉である。頭頂部の毛髪がなんとなく収まりがつかないが、いまに慣れるだろう。いままではなけなしの髪をオールバックにしていたのだがもうない。

 となり駅の先にある格安床屋なので、行きは電車で、帰りは約30分間ほど風に髪をなぶらせながら歩いて帰った。行きも歩いてもいいのだが、なにしろ私は汗かきなので、床屋も嫌がるだろうと気を遣っているのである。

 汗をかきついでにスーパーで雨天立て籠もり用の食糧の買い出しをして、トイレ掃除をして、風呂で汗を流し、風呂場の掃除をした。

 さっぱりした。晩のビールがうまいだろう。

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ここまでさっぱりはしていない。

もう一度戻って見直す

 何度引用したか分からないが

   ふるさとへ 回る六部は 気の弱り

という句が好きで、さまざまなことを連想する。

 気が弱っていることもあるが、歳とともにふるさとを回顧することが多くなり、ときにはふるさとに戻るのはむかしからのひとのならいのようだ。私は「ふるさとは遠きにありて思うもの」という考えに賛同するし、父母もすでにいないのでふるさとをもう訪ねない。別にある理由があって訪ねたくない気持もある。

 本屋に行くと興味を引かれる本が目にとまる。余裕があれば購入する。余裕がなくてもつい本にせがまれるような気がして購入してしまう。そうしていつか読もうと思いながら読み切れないで積まれている本がたまっていく。若いときのような集中力が歳とともに衰え、しかも持続しないし、なにより酷使が祟ったのか眼がすぐくたびれてしまう。

 エンターテインメントタイプの小説は映画を観るように一気に読み進めないと興が削がれる。むかしからそういう読み方をしてきたので一気読みの気力がないと本に手が出ない。だからこのごろはそう言う系統の本は、読んだら面白いのが分かっていながらつい後回しになってしまう。

 代わりに少しずつ読み進めて、読み進めるごとに本を置いて考えるような読み方の出来る本を手にすることが多い。これだと並行して何冊でも読み進められるので、なかなか読了しないものの反芻を楽しむことが出来る。若いときにはあまり出来なかった読み方だ。

 もちろん新しい本もあるが、たいていはいままで一度目を通した、本棚に並んでいる本が多い。本棚には小説以外の評論や歴史、人文科学系の本の方が多く並んでいる。小説は多くを処分してしまった。あの大好きな池波正太郎ですら半分以上を処分してしまったのである。ほかは推して知るべし。

 そのような本も一度は目を通している。読み飛ばしてどこまで読めていたのか分からないが、そのときはそれなりになにかを感じ、考えたことだろうと思うが、ザル頭はほとんどそれを記憶に留めていない。

 それらの一度読んだ本はそれでも私にとってのふるさとかも知れない。その本をじっくり読み直すことで、かすかに残る過去の感触を楽しみながらものを考える。過去と現在が気持の中に混在する。これはふるさとへ回帰することに似ていると思う。

 いま空間を、時間軸も含めて感じることを意識して楽しむことにしている。旅で神社仏閣やその他の歴史的な旧跡を訪ねるのもその楽しみのひとつだ。過去と現在が同時に感じられる場所、時間の厚みを感じることの練習をしている気がする。

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「なにごとのおはしますかは知らねども
        かたじけなさに涙こぼるる」

という西行の歌に私なりの勝手な解釈をつけて世の中をもう一度見直すことを楽しみたいと思っている。そういう意味で、すべてが自分にとってのふるさとなのかも知れない。

2018年9月 5日 (水)

出掛ける

 昨日の台風は凄かった。今日になってテレビで報じている被害の様子は、想像をはるかに超えていた。大阪が関空を始め、ものすごいことになっていた。愛知県でも一人亡くなっている。存じ上げないが同じ町内である。あの風雨の中が如何に危険だったかをあらためて思い知る。無くなった方にお悔やみと被害に遭われた方にお見舞いを申し上げたい。本当に災難はいつどこにあるか分からない。

 昨日は、強風でマンション内の中庭の樹が可哀想なほど強烈に揺さぶられていた。それでもなかなか持ちこたえるものだなあと感心していたら、今朝になってベランダから眺めたら、植え込みの一本が倒れているらしいのが見えた。

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 上からなので分かりにくいが根もとから抜けかけている。

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 今日は資源ゴミを出す日なので、たまっているビールや酒の空き缶や空き瓶を出す。台風が通り過ぎたあとでよかった。次回は不在の予定なのでいま出さないとたまりすぎる。よくもまあこんなに毎日せっせと空き缶を排出するものだとわれながら感心する。

 毎月月初めに雑用を片付けに名古屋に出掛ける。銀行に寄ったりするのだが、ついでに本屋や電気製品の量販店をうろつく。車検があったり、後半に旅行に出掛けるので今月は散財が出来ない。しかし散財ができないとなると、無性にいろいろなものが欲しくなるのはどうしたことかと思う。歳とともに物欲が衰えていて、あるものでいいや、とふだんはあきらめているのだが、それが俄然欲望が昂進するのである。それなりの収入があったとき、衝動買いをするのは、手元に限られた金しか無いときであった。たいてい後悔する。衝動買いしたものは手に入れたよろこびがあまり持続しない。

 それをよくよく思いだして、本日は眺めるだけにした。よく思いとどまった、と帰ってから自分を褒めているところである。ただ、我慢すると必ずいつか反動が来るのは減量のリバウンドと一緒で、ちょっと恐ろしい。

床屋ぎらい

 自分では若いころの頭髪の量の三分の一くらいになったかなあと思っていたが、洗面所の鏡をしげしげと見ると、どうも十分の一くらいのようである。ふだんは自分の髪を自分で直接見ることは出来ないから、希望的妄想で毛髪の量を増加させている。これは顔の造りについても同様である。それだから案外落ちこまずに済んでいるのかも知れない。それにいまさらモテようとは思わないし(モテる方が嬉しいのはこの歳でも変わらないが)、哀しいかなほとんどモテた経験が無いことでようやく諦めがつきつつある。

 そんな風に残り少なくなった髪も、土台が生きているので伸びるのである。放っておけばむさ苦しくなる。いっそ剃り上げてしまえばと思わないことはないがその踏ん切りはつかないし、それでも土台が生きている限りまた伸びるであろう。土台が死んでも髪はしばらく伸びるものだというからしぶといのである。しぶといなら全員しぶとく生き延びて欲しかったものだが、失われたものは戻らない。

 床屋は昔から嫌いである。いつも一日延ばしに先送りし続けてしまう。実際に床屋の椅子に坐ってしまえば床屋のお兄ちゃん任せで楽なものだし、洗髪もひげそりもひとにやってもらえて快適である。たいてい次はもっと早く来ようなどと思うのだが、励行しことはない。その髪や襟足まわりがむさ苦しくなってきていてもう潮時である。今日あたり行こうかなと決心したときにはもう夕刻だったり、雨が降り出したりする。

 そろそろ遠い遠い床屋に出掛けなければ。

2018年9月 4日 (火)

なに用あっての外出か

 朝から強い風が吹いている。強い台風、強い台風と警告があっても、実際にはたいしたことがないことが多いが、今回は本物である。名古屋市のやや北側のわが家でも強い風がうなりを上げ続けている。ベランダのガラス戸越しに見る外の様子は尋常ではない。幸い中庭を挟んで南側には別の棟があるので、南風の直撃を受けないのであるが、それでも凄まじい。まだ二時過ぎだから、これからまだまだこの強風は続くと思われる。

 ベランダにあったものを、昨夕のうちにすべて室内に取り込んでおいたのは正解であった。不用意に風で飛ばしてしまったら、誰に迷惑がかかるか分からない。網戸が風で少しずつ移動するのも不思議な光景だ。いまさら網戸を外して取り込むほどのこともないとはおもうが・・・。

 ただ外の猛烈な風と雨を眺めているだけなのにいつまでも眺めていられる。ふだん経験の無いものを目の当たりにすることはそれなりに興味深いことである。もちろん自分に被害がないことが前提であるが。

 ニュースで三重県の男性が外で転倒して病院に担ぎ込まれたとか、名古屋市で女性が自転車に乗っていて風にあおられて転倒し、やはり病院に担ぎ込まれたとか報じていた。よほどの用事があったのかも知れないが、この風の中を出掛けるというのは分別がなさ過ぎる。名古屋周辺はJRを始め昼頃から運航を停止している。主要駅の改札で、駅員に食い下がっている女性の様子が映し出されていた。食い下がったらなんとかなるとでも思っているのだろうか。身動きが取れなくなって困ってしまってうろたえているのだろうが、それにしても今日のこの事態はすでに誰もが承知していることで、見苦しい。

 外は断続的な雨がついに横なぐりの大雨となって風とあいまってすごいことになり始めた。夕方までこれが続くのだろう。停電などにならなければよいが。

豆は善くない

 海外では豆を入れた料理の種類が多い。使われる豆の種類も日本よりずっと多い。豆は身体に善いそうである。豆は植物の卵みたいなものだから、大事な栄養もたっぷり入っているに違いない。

 私は豆が好きである。子供が好まないこともあるという豆の炊き込み御飯も、子供の時から大好きだった。枝豆空豆ピーナッツ大豆に小豆隠元豆に絹さやサヤエンドウ、トウモロコシ(これは豆か?)、まだまだカシューナッツにアーモンド、と思いついただけでもたくさんある。

 糖尿病なので甘い物は控えなければならないのだが、甘納豆は狂的に好きである。目の前にあったら食べ尽くすまで食べてしまう。恐ろしい食べ物である。店頭で見たら顔を背けて早足で通り過ぎることにしている。

 千葉県生まれなので、子どもの頃はピーナッツは八百屋や農家から直接泥付き鞘付きのものを枝ごと買って、自分で殻からだして炒って食べた。冷まさないとシナッとしていてうまくない。やったことのない人にはわからないだろう。ピーナッツも鮮度が命で、新しいものほど美味い。食べ出すととまらないが、いまはピーナッツもけっこういい値段なので、自ずと自重せざるをえない。中国産は三分の一ほどの値段だが食べ続けるのは心配だ。どんな農薬が残留しているか分からないからである。

 最近はバラエティミックスという、少し大きいプラスチックケースに入ったスナックがお気に入りである。ピーナッツ、空豆の炙ったもの(揚げてあるのだろうか)、アーモンド、ドライバナナのスライス、干しぶどう、もう一つがなんというのか分からない豆などがたっぷりと入っている。この量であまり高くない。ほとんど海外産の原料である。

 これをコーヒーを飲みながら、本を読みながら、テレビを観ながら、ゲームをしながらぼつりぼつりと食べるのだが、気がつくとなくなっている。恐ろしいことにたくさん食べたあとでビールを飲んだりするとしばらくして胃が膨れてきて苦しくなってくる。水分を吸って腹の中で膨張しているのである。

 食べ続けると体重も一気に増える。スーパーのレジでいつの間にか買い物のなかに紛れ込んでいるのである。逃れることの出来ない蠱惑的な恐ろしい食べ物である。いまこのブログを書きながらそれをつまんでいるのである。豆は善くない。やめなければ・・・。

2018年9月 3日 (月)

狗肉すら見当たらない

 ニフティのネットニュースに「・・・メラニア夫人が大激怒?」という見出しの記事があった。夫であるトランプがポルノ女優と不倫し、口止め料を払っていたことをトランプ本人が認めたのであるから、「大激怒」しても当然だろうなあとふつうの人なら思うところで、どんなふうに「大激怒」して見せたのか、それが知りたいと思うのは凡人の性(さが)である。

 記事にはスキャンダルが暴露された経緯や、トランプの釈明の一部、さらにマスコミや野党民主党の狙いやトランプ弾劾の可能性について書かれている。メラニア夫人がアルメニア、つまり外国出身としては史上二人目の大統領夫人であることも知った。記事には「彼女の気持ちはどうであろうか?」とあるにはあるのである。さりながら、「大激怒」のかけらも記載が無い。無いのにこの表題である。

 最後に「そんな苦労人が、不倫、それもポルノ女優とのあいだで生じたこのスキャンダルを、はたして許すことが出来るだろうか」と結んでいる。

 羊頭狗肉というけれど、これではその狗肉すら無い記事である。この記事の提供元は「まいじつ」という「週間実話」という週刊誌の発行元の会社であった。なるほど、さもあらん。これでまいじつ提供とある記事は次から飛ばして読むことが出来る。

 メラニア夫人がどう思っているのか想像してみたけれど、当然のことながら全く想像出来なかった。本人を知らないからであるとはいえ、想像力が貧困だなあ。取材皆無でこんな記事が書ける「まいじつ」に負けているなあ。

目覚めのコーヒー

 睡眠のリズムが乱れていたので、眠くなくても九時過ぎには寝部屋に布団を敷いて横になる。そこで本を読んだり数独パズルをしているうちに眠くなれば良質な睡眠に陥ることが出来るのだが、いつまでも眠くならなかったり、考えごとを始めるといけない。放っておくと明るくなるまで起きていることになる。そうなるのがイヤなのでどうしても眠れないときは医師処方の睡眠薬を飲む。もともとそういう薬に耐性がないので、眠れることは眠れるのだが、翌朝の目覚めがあまり善いとはいえない。

 眠れないことがつらいのかといえば、ちょっと違う。寝不足だと翌日の頭の働きがちょっと鈍くなってしまうような気がするのがイヤなのである。「寝不足である」と自覚することそのことになんだか囚われてしまう。寝不足は良くないという強い思い込みが自分を不調にさせているので、翌日寝不足でも、やりたいことがあればけっこう快調に過ごすことが出来ることが多い。

 寝なければ、という思いがさらに眠れない状態を作っていることを分かっているつもりなのだが、そこから脱することが出来ない。寝不足なら翌日たいてい昼寝をしている。本当に眠りが必要なら身体は勝手にそれに対処してくれる。昔は「眠れない」などという人がいると、「眠れなければ眠くなるまで起きていれば良いし、その時間にいろいろ出来て良いではないか」、などと暴言を吐いていた。本当にそう思っていたし、そう開き直ると楽にならないことはない。

 だから体調が悪くなければ眠れないときは、最近は睡眠薬は控え、いろいろと枕元に拡げて遊んでいる。気持ちの持ち様でうまく囚われから逃れることが出来ると気持ちの良い朝が迎えられる。

 気持ちの良い朝には以前は中国のお茶を飲んだ。朝はウーロン茶やジャスミンティーを飲む。紅茶を飲むこともある。紅茶とコーヒーなら紅茶を必ず飲む方だったのに、この何年かでコーヒーを飲むことが多くなった。安いインスタントから少し値段の高いインスタントに、それがコーヒー豆を挽いてもらったり自分で挽いて飲むようになり、その豆もだんだん値段の高い方へシフトしてきている。

 どん姫に電熱式の一杯用のサイホンをもらったので、インスタント時代よりもはるかに香り高いコーヒーを飲めるようになった。そのコーヒーの味が目覚めの善し悪しで著しく違う。どうも眠りにこだわるのはそのコーヒーの味の違いにこだわっているからかも知れない。自分の味の感度はさほどではないと承知している。それが違って感じるのは、ある意味で不思議なことである。

 幸い今朝のコーヒーはおいしかった。

2018年9月 2日 (日)

イワシを煮る

 スーパーにイワシが売られていた。小ぶりだが15匹ほどがワンパックで100円。即二パック購入する。大好きだし安いから逡巡はない。

 イワシをさばくのは簡単である。エラと胸びれのあたりを掴んではらわたごと引き出せば良い。あとは指を下腹まで突っ込んで残ったワタを取り除く。一匹さばくのに二三十秒だろう。腹の中などを良く水洗いし、ほうろうの鍋に水と酒を入れて煮立て、イワシを並べて砂糖と醤油、あとで生姜を薄切りにして加えてしばらく煮ればあっという間に出来上がりである。

 夏だし、一人で食べるのに二三日楽しむから少し濃いめの味付けで煮詰め気味にしておく。これで日持ちがする。問題はさばいたあとのはらわたなどである。これを二重三重にビニールの袋に入れて一袋ずつ空気を抜いて縛り、臭いがもれないようにする。すぐゴミを出すのなら良いが、ゴミ袋に余裕があってしばらく家のなかにあるようならこれを怠るとエライ目に遭う。

 スーパーのレジなどで、水気のものや生ものを入れてくれるあの薄い袋をいつも何枚かこのためにとってある。さあ今夜はイワシの煮付けが酒の肴のメインである。本当は腹開きして、骨も取り除いて天ぷらにすると旨いのだが、ちょっと体重が増加気味なので、少し油ものは控えることにしている。天ぷらにすると一気に食べてしまうので、危ないのである。そうしたかったなあ。

車検

 本日は二度目(丸五年経った)の車検の日。ディーラーに行かなければならない。前の担当者はわが家まで取りに来て、終わると持って来てくれたけれど、最近担当が代わり、新担当者にはまだ会っていないのでそこまで頼めない。代車を用意しますという。別に車で走り回る用事はないのだけれど、ディーラーまでは歩いて行き来したくなる距離ではない。送り迎えしてもらえないなら、帰ってこれないから仕様がないのである。

 それにしてもまた金がかかる。年金暮らしにはつらいことだが、車で長距離を走るのが趣味だから、車の整備は万全にしておきたい。定期点検もきちんと欠かさず行っている。さあ、出掛けることにしようか。五年でいまのところ85000キロほど走行した。むかしから見たらずいぶん走っていないが、たいていみな驚く。

2018年9月 1日 (土)

美しさと静けさと哀しみと

 NHKの新日本風土記という番組が好きである(以前にも書いた)。2014年の再放送で、越中・八尾(やつお)のオワラ風の盆をテーマにしていたのを録画して、今日観た。まさにいまがその時期(九月一日から三日)なのだ。先日観た郡上踊りがテーマだった番組の印象と似ていながら、ずっと哀調のある踊りにしみじみとした感慨を覚えた。

Dsc_3626 これは郡上踊り。

 飛騨の山々の北と南にこのような踊りがあるということに不思議な気がするが、何か理由があるのだろうか。郡上は何遍いったか数え切れないほどなのに、八尾にはまだ一度も行ったことがない。地道で峠を越えて荘川から御母衣湖を通り、五箇山から城端という富山県側から金沢に到る道の途中に八尾への標識が出るから、場所は良く承知している。

 もともと提灯などのロウソクの灯りのなかで町踊り、そして夜踊りを踊るのであるから、オレンジ色の光の中で薄暗かったはずである。いまも踊りの時は煌々と照らしたりしていない。その灯りにほのかに照らされる踊り手たち、特に若い女性たちは編み笠で顔を隠しているのにとても美しい。そして三味線と胡弓の音と歌われる唄はともに美しくしかも哀調を帯びて、惻々と胸に迫るものがある。

 美しいとはどういうものか。むかし、まだ大人になる少し前に、朝日新聞の日曜版(正月用の特別版だったかも知れない)に写真付き記名記事があって、日本の美について語られている文章を読んで感銘を受けた。写真は和服の女性の足元を撮ったものだった。文章の中に、蹴出しからちらりと見える赤い色の美しさついての記述があったからであろう。文章は日本の歴史と日本人の感性について書かれていて素晴らしかったのである。

 そしてそのすぐあとくらいに正月の番組で、沖縄の踊りを観た。にぎやかなものではなくて、まことに所作のゆっくりとした踊りであった。衣装はかなり豪勢なものだったから宮廷の踊りなのかも知れない。その足元が映された。つま先が前へ出そうでてない。そのゆっくりゆっくりしたつま先を見ていたら、突然先の新聞の記事を思いだしたのである。美しいとはどういうものか、そのとき確かに全身が震えるほど感じたのである。

 その文章を書いたのは、わたしの生涯にわたって影響を与え続けてくれている森本哲郎だった。

 美しさと静かさ、そして哀しみに感じる心を越中八尾のアワラ風の盆の唄と踊りを見ていて思いだした。実際に現場で見たら何倍震えるだろうか。行く機会はあるのだろうか。

サマータイム

 面倒くさいのは嫌いである。面倒くさいのが好きな人は何か理由があるのだろうけれど、変わっていると思う。海外へ行くと時差があって、時計を変更しなければならないのが面倒だ。しかしこれは如何ともしがたいから受け入れる。そうでないと却って面倒になるのだから仕方がない。大きな国だとアメリカのように国内で時差が設けられていてややこしい。

 ところがアメリカよりも大きな中国には時差がない。すべて北京時間である。私のような横着者には大変ありがたい。敦煌へ行ったとき、朝六時に朝食が食べたいと頼んだら、ホテルのひとに嫌がられた。当然である。実感としては早朝の四時頃に朝飯が食いたいといったのに近い。真っ暗であった。そのかわり、夜はなかなか暮れない。

 EUがサマータイムを廃止する方向で検討中だと報じられていた。やはり面倒なのだろうなあと思う。メリットよりも面倒の方が大きいのであろうと想像する。いっそのこと中国のようにEU全体で時差をなくしたら面倒がなくていい。ところが日本では酷暑とオリンピックとを考慮してサマータイムを導入しようと検討しているという。おお、なんということであろう。

 さまざまな識者がそれに異を唱えている。やはりサマータイムによるメリットよりも弊害が多いということだと思う。弊害とは何か、つまり面倒くさいということだろう。EUまでサマータイムをなくす方向だというのは何よりである。日本のサマータイム導入に反対する人も力付くことだろう。私はサマータイム導入によって何が良いのかほとんど理解できていないし、面倒なことは人一倍嫌いであるからありがたい。

 朝早く起きる方がいいなら早起きすれば良いだけのことである。四時起きがつらいからサマータイムでそれを六時だと錯覚させても同じことではないか。学校や会社が始まるのを早くすれば良いのであって、世の中すべての時間をずらす必要はないだろう。私の考えは浅はかなのだろうか。

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