もう一度戻って見直す
何度引用したか分からないが
ふるさとへ 回る六部は 気の弱り
という句が好きで、さまざまなことを連想する。
気が弱っていることもあるが、歳とともにふるさとを回顧することが多くなり、ときにはふるさとに戻るのはむかしからのひとのならいのようだ。私は「ふるさとは遠きにありて思うもの」という考えに賛同するし、父母もすでにいないのでふるさとをもう訪ねない。別にある理由があって訪ねたくない気持もある。
本屋に行くと興味を引かれる本が目にとまる。余裕があれば購入する。余裕がなくてもつい本にせがまれるような気がして購入してしまう。そうしていつか読もうと思いながら読み切れないで積まれている本がたまっていく。若いときのような集中力が歳とともに衰え、しかも持続しないし、なにより酷使が祟ったのか眼がすぐくたびれてしまう。
エンターテインメントタイプの小説は映画を観るように一気に読み進めないと興が削がれる。むかしからそういう読み方をしてきたので一気読みの気力がないと本に手が出ない。だからこのごろはそう言う系統の本は、読んだら面白いのが分かっていながらつい後回しになってしまう。
代わりに少しずつ読み進めて、読み進めるごとに本を置いて考えるような読み方の出来る本を手にすることが多い。これだと並行して何冊でも読み進められるので、なかなか読了しないものの反芻を楽しむことが出来る。若いときにはあまり出来なかった読み方だ。
もちろん新しい本もあるが、たいていはいままで一度目を通した、本棚に並んでいる本が多い。本棚には小説以外の評論や歴史、人文科学系の本の方が多く並んでいる。小説は多くを処分してしまった。あの大好きな池波正太郎ですら半分以上を処分してしまったのである。ほかは推して知るべし。
そのような本も一度は目を通している。読み飛ばしてどこまで読めていたのか分からないが、そのときはそれなりになにかを感じ、考えたことだろうと思うが、ザル頭はほとんどそれを記憶に留めていない。
それらの一度読んだ本はそれでも私にとってのふるさとかも知れない。その本をじっくり読み直すことで、かすかに残る過去の感触を楽しみながらものを考える。過去と現在が気持の中に混在する。これはふるさとへ回帰することに似ていると思う。
いま空間を、時間軸も含めて感じることを意識して楽しむことにしている。旅で神社仏閣やその他の歴史的な旧跡を訪ねるのもその楽しみのひとつだ。過去と現在が同時に感じられる場所、時間の厚みを感じることの練習をしている気がする。
「なにごとのおはしますかは知らねども
かたじけなさに涙こぼるる」
という西行の歌に私なりの勝手な解釈をつけて世の中をもう一度見直すことを楽しみたいと思っている。そういう意味で、すべてが自分にとってのふるさとなのかも知れない。
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 何をやっているんだか(2026.09.10)
- これからまた降る?(2026.09.09)
- 線状降水帯の中(2026.09.08)
- 雨が恨めしい(2026.09.08)
- 縁(えにし)(2026.09.07)



コメント