『つれづれのまゝに』
祖母(母の母)が和歌をノートの書き残していた。『つれづれのまゝに』と表紙に題して、昭和五十四年と書かれている。昭和54年から、歌が詠めなくなるまでの創作集である。もしかしたらそれ以前のノートもあったのかも知れないが、母を通して渡されたのはこの一冊のみである。
行書体、旧仮名遣いまじりでところどころ読み取れない。読み取れないのはこちらに崩し字を読む力がないためである。同じ字がほかの歌に出てきているところを探し出し、それらを引き比べてようやく読み取ったりしている。一ページに十首、昭和64年、つまり平成元年の二十首が最後である。数ページを残してほぼノートは歌で埋め尽くされている。この歳に祖父が亡くなった。そのころから祖母は認知症気味になり、介護士を頼みながら私の両親が世話をした。その当時は介護のシステムも介護保険もなかったから大変だったようだ。
私は明治生まれのその祖父母が大好きで、遅くとも幼稚園時代から小学生までは、春休み、夏休み、冬休みといえばほとんど祖父母の家にいた。そのあとも祖父母の家はわが家と全く同じ居心地の良いところだった。祖父母は絵に描いたような明治生まれであり、厳格で、しつけも厳しく、子供に対しても容赦がない。だから私の弟や妹、そして従兄弟たちはみな恐がっていた。
私だけ可愛がられて特別扱いされたわけではない。だけれどいくら叱られてもあまりこわいと感じなかったのは、相性が良かったからだろう。離れていたし忙しかったので、晩年はめったに訪ねなかったことを本当に残念で申し訳なかったことだと思っている。
祖父は日清戦争の終わった年、明治28年(1895年)生まれ、祖母は明治40年(1907年)生まれのはずである。私が生まれたときは祖母はまだ42歳だったから、私の手を引いて歩いていると、遅くできた子供と思われるのをうれしがっていたと母から聞いたことがある。祖父と祖母が年が離れているのは、祖父が女学校の若い教師として生徒だった祖母を見初めたという、教師と生徒の間柄だったからである。
祖父は謹厳かつ頑固であるが、無鉄砲なところもある。なんと祖母が卒業してすぐに祖母の家へ独りで乗り込んで求婚した。祖母の実家の両親は驚いたらしいが、それ以上に驚いたのは祖母だった。別につき合ってもいないし個人的に声をかけられたこともない、彼女にとってはただ、先生の一人であったのだから。
それでも嫌いではなかったのだろう、すぐに結婚して母が生まれたから私にとって若いおばあちゃんになったのだ。祖母は成績優秀で、英語と数学が得意だった。ミステリーが大好きで、祖父母の家にはミステリーの雑誌や本が山のようにあった。ときには英語のミステリーの本を読んでいたらしいから本格的なのである。また生け花の名取でもあり、免状や手書きの生け花の本を見せられたこともある。だから庭にはいつもたくさんの花を植え、手入れをしてそれを活けていた。
いつの頃からか、その祖母が和歌を詠んで書き留めているらしいことはうすうす知っていたが、実見したことはなかった。母が自分の手元に残った祖母の遺品の中から、私にそのノートを託したのは母が寝たきりになる少し前のことである。それをきちんと読みそうなのは私だけだと思ったのであろう。
それをいまワープロで少しずつ写している。いつ全部写し終わるか分からないが、祖母の目から見た世界がしだいに見えてきてさまざまなことを考えさせられている。祖母から見た私はどんな人間だったのだろうか。それがなにより気になる。
祖母の歌から祖父に対する愛が切々と伝わってくる。これほど愛していたのかとうらやましい気もする。
昭和64年(ノート最後の年)の最初の歌
永遠の別れ云ひえで逝きし人恋ひし
深きえにしの君にてありしを
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百年ほど前に素敵な恋をした人がいて、その結果自分がいる、
なにか大きな愛と時間の積み重ねを感じます。
素敵なおじい様、おばあ様だったのでしょうね。
ところで当方全快せり、また一杯やりましょう。お出で乞う。
投稿: 周さん | 2018年9月 9日 (日) 18時44分
周大兄様
全快のよし、お祝い申し上げます。
今月後半は中央アジアへ行ってきます。
帰ってきたら10月早々に大兄のご機嫌を伺いに行こうと思います。
しばしお待ち下さい。
酩酊しながらの土産話をしゃべらせてもらいます。
投稿: OKCHAN | 2018年9月 9日 (日) 22時02分