器を替える
山形県の新庄に嫁いだ叔母(父の妹)には学生時代に大変世話になった。たびたび泊まりに行っては小遣いをもらった。子供が四人いるが、後妻なのですべて先妻の子供であり、私とは血のつながりはないけれど、ふつうに従兄弟として親しくしていた。
その叔母も父より少し早く亡くなってしまった。それから久しいが、その叔母の形見として鍋をもらった。金の取っ手のついた片手鍋で、打ち出しの重い鍋である。愛用の鍋がすでに揃っていて、その鍋は棚の奥にしまわれたままになっていた。
シチューやカレー、麺類を茹でるための少し大型の鍋がくたびれてきた。底が薄いので火の通りがよいのだが、強火で炒めるときなど焦げやすくなってきた。思い立って叔母の鍋を引っ張り出した。使わないから蓋も鍋もなんとなくくすんでいる。磨き粉で表面を磨いたら光沢が少し戻って見栄えがよくなった。大汗をかいた。
底が厚いからやや熱くなるのに時間がかかるが、あとの温度変化がゆるやかなので火加減が楽である。金の取っ手なので頑丈であるけれど、鍋の取っ手をもつときは鍋つかみかタオルが必要である。面倒だけれどプロっぽくてちょっと好い。
食器棚に独り暮らしには不要なほどいろいろな食器が所狭しと並んでいる。これでも思い切りの良いどん姫がずいぶん処分してくれたのである。来客があればそれらを活用するのだが、めったにあることではない。活用しないどころではなく、横着をしてだんだん使用する器が限定されている。違う料理なのにいつも同じ器を使い、そもそもそぐわない器をそのまま気にせず使用していた。
叔母の鍋を磨き立てている内に、どうも物というのは使わないと可哀想だという気持になってきた。使わないと物の怪(もののけ)になってしまうかもしれない。そう思って料理に合うように極力違う器を使うようにすることにした。どうせ一人分だからあとで洗う手間がそれほど増えるわけではない。
酒の器ももらったり集めたりでいろいろと揃っている。これもその日の気分で替えるようにしはじめた。多少は気持ちがにぎやかに感じられないことはない。
これも老化を遅らせるささやかな手立てかも知れない。
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