尾山神社
尾山神社には前田利家と芳春院(まつ)が祀られている。
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尾山神社には前田利家と芳春院(まつ)が祀られている。
泉鏡花と室生犀星は金沢出身の著名作家として知られる。金沢に暮らしていたときから泉鏡花記念館の場所は承知していたけれど、歩いて10分足らずなのに入館したことがなかった。泉鏡花の作品は『高野聖』くらいしか読んだことがなくて、なじみが薄いこともあるが、本当は彼の書くような幻想的な小説は好きなので、たまたまその気にならなかったというだけである。
兼六園の石川門側の出入り口に戻り、今度は金沢城を散策する。金沢に暮らしていたときは散歩コースだったからなつかしい。
上越市の鵜の浜温泉を出て寄り道をしながら金沢に入ったのは三時前。なじみの駅前のビジネスホテルにチェックインして写真をパソコンに取り込む。飲みに出るには早いし、観光地を訪ねるには遅いので、シャワーを浴びて一眠りする。
上越の水族館は、以前訪ねたことがある。直江津水族館だった気がするから、まだ直江津市や高田市が統合される前だったのだろう。大昔である。水族館らしい好い水族館だったという記憶がある。屋上から海を眺め、遙かな佐渡を眺めた。そのときはそのあとに直江津から小木に渡った。
周大兄と会食して歓談した翌日は新潟県の上越市泊まりの予定だったが、天気予報を見ると新潟県は昼過ぎまで雨である。時間をつぶすために高速を使わずに大間々から赤城越えして沼田から17号線を北上することにした。朝のラッシュを避けるために九時過ぎにゆっくり出発したが、考えたらこの日は土曜日で、ラッシュはないし、観光地には早く出掛けた方がよかったことにあとで気がついた。
この日の晩は北関東の周大兄と会食予定だったが、時間があるので松代に寄ることにした。9月のマーチャン様の長野行の記事に触発されたのである。一度行った松代にはなんとなく好い記憶があるのだ。
ブログではまだ旅が続いているが、本人は昨日午後に五泊六日の旅を終えて帰宅した。旅はくせになる。帰って早々また出掛けたくなっているが、これではフーテンの寅さんである。少しクールダウンして落ち着かないと原資が尽きてしまう。
少し飛ばして昨晩のことを先に書く。
戸隠神社・奥社への杉並木の道を歩く。
いよいよ今回の主な目的地、奥社到達に挑戦。
戸隠神社・宝光社参拝のあと少し坂を登り、戸隠神社・中社に参拝する。ここもたくさんの人出で賑わっている。周辺の駐車場もほぼ満杯だ。少し離れたところの駐車場にようやく車を置くことが出来た。
二三年前に、長老と兄貴分の人と戸隠に来たことがある。そのときに戸隠神社の奥社まで歩かずに途中で引き返していたのが心残りであった。今回一人で戸隠神社の宝光社、中社、そして奥社の三社すべてをお参りすることにした。
タシケント最大のバザール(市場)のチョルスバザールに行く。
タシケントというと必ず紹介されるのが日本人墓地とナヴォイ・オペラ・バレー劇場だ。
早朝五時半にサマルカンドのホテルを出発。ウズベキスタンの高速鉄道でサマルカンドから首都タシケントに向かう。行程約二時間ほど。カメラをバッグにしまい込んでいたので、列車の写真はない。停車時間が短いので慌ただしい。
前夜、ライトアップされた絶景に感激したレギスタン広場にもう一度向かう。ツアーの予定では中に入らないのだが、ジーナさんのいる現地旅行会社のサービスで、中も見学する。このことはアンケートに強調しておいて下さい、とジーナさんは笑いながら言う。
ビビハニムモスクからシヨブバザールは近い。
チムールが中央アジア最大のモスクを建てようと計画したのがこのビビハニムモスクだそうだ。しかし大きすぎて工事は難航し、チムールの督励によってようやく死の一年前にできあがった。
圧巻のサマルカンド、グリ・エミール廟。グリ・エミールというのは支配者という意味だという。ここはチムールと息子達の墓である。
アフラシャブの丘の上には何世紀ものあいだ、サマルカンドの街がひろがり、シルクロードの要衝の地として栄えてきた。ジンギスカンの大軍がこの地を攻略にやって来たとき、サマルカンドの市民はここに立て籠もり、徹底抗戦した。激怒したジンギスカンは街への水脈をたち、サマルカンドは飢餓で地獄と化した。ついにサマルカンドが陥落すると、住民は女子供も含めてことごとく虐殺され、街は城壁も含めて徹底的に破壊され尽くした。
いよいよ青のサマルカンドを歩く。
時系列が前後するが、シャフリサーブスからサマルカンドへのバスの移動の車窓の景色を紹介する。
シャフリサーブスのハイライト、アク・サライ宮殿まで歩く。
うっかりして今朝は二つ同時にブログをアップしてしまった。決めているわけではないが、いまは一日二つくらいずつ更新している。その都度書くというよりも事前に思いついたときに不定期に書いて、朝と午後に時間指定で調整しているのだが、その指定を間違えてしまったのだ。
夜明け前からトイレとベッドを往復して、眠るどころではなかった。うっすらと白んできたのでベランダへ出る。
ヒヴァ城内見物もこれが最後。
宮殿の中に小さな展示館がある。タイルの壁は美しいし豪華だし見応えがあるのだが、見飽きてしまう。タイルでは歴史をあまり感じることが出来ないのである。展示館の方が面白い。
ヒヴァの城壁。奥の四角の高い塔は見張り台。あそこが夕陽を眺める場所。
この日は朝から一日ヒヴァ城内の観光である。
カラ回りでいささか疲れて古都ヒヴァに帰る。
パオでゆっくりと食事をしてアヤズ・カラの疲れをとり、トプラク・カラへ向かう。カラ回り第二段である。トプラク・カラはアヤズ・カラよりも古いものらしい。ガイドブックによれば、紀元前一世紀から紀元後五世紀のホレズム帝国のシャー・ウシュ朝の首都の跡とのこと。
ようやく丘から降りて昼食場所のパオに向かう。
息も絶え絶えにようやく丘の上に至る。多少は散歩などで脚を衰えないようにしていたつもりだが、情けない。大丈夫なのだろうかと見ていた八十前のおばさんおじさんたちもゆっくりだが登り切り、登ってからも平然としている。負けている。
カラはまだこの地方がイスラム化する以前、紀元前から紀元五六世紀頃までの昔の都市群の跡である。古代ホレズム文化の時代という。一説によれば1000以上あるというが、ある程度はっきりしているのは五十ほどのようである。まだちゃんとした調査発掘がなされていないのである。いまは砂漠だが、その当時はアムダリア川の支流が網の目のように流れて緑野豊かな場所だったらしい。
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