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2018年10月

2018年10月31日 (水)

尾山神社

尾山神社には前田利家と芳春院(まつ)が祀られている。


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入り口の門が変わっていて、洋風なところもあるのが特徴である。

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逆光でわかりにくいが、上階には色ガラスが使われている。

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立派な神社なのである。

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ここの狛犬は脚長で、ドーベルマンのようである。

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前田利家の銅像がどう撮っても上手く撮れないのでシルエットのままにした。

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芳春院の像が彫られた石碑。けっこう大きい。

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こんなのをみると嬉しくなる。ゼンマイであろう。

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こんな金色のカエルもいる。

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全体はこうなっている。ハスの茎を登るカエルと降りるカエルがあいさつしているのも面白い。

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帰りがけに階段の下からもう一度門を撮る。実は別の神社に立ち寄っていて、裏から入ったので逆光になっていたのである。

ここからわざと遠回りの右回りでもう一度金沢市内をバスの車窓から眺めながら駅に向かう。これで一日フリー券を無駄なく使ったことになる。

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記念に金沢駅を撮影する。

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本当にこんなでかいものをよく作ったものだ。

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これで金沢は終わり。本当はこのまま名古屋へ十分帰れるのだが、もう一泊して金沢の魚が食べたかったし、帰りに白川郷などにゆっくり立ち寄りたかったのである。その晩の店ががっかりだったことはもう書いた(「大丈夫か、金沢」)。

韓国徴用工賠償判決

  韓国司法は正義の名のもとに国と国との約束を反故にした。約束と正義のどちらに重きを置くのかの判断は難しいところである。しかし正義はときに片方だけにあって、その正義はしばしば功利に左右される。韓国の正義はときに感情であり、無限責任に時代を超えて展開してしまう面がある。それでは国と国とはまともな関係を持つことが出来ないから、そのために条約という名の約束で一つの区切りを付ける。

 それを全否定するかの如き今回の韓国最高裁の判決は国際的な常識に反する。しかしながら今回は最高裁の判決の話しであって、韓国政府がどのように対応するのかはこれからのことである。ここで韓国政府が最高裁の判決を支持してそれに従うなら、条約違反として日本政府は毅然たる対応をせざるを得ないだろう。ただ、そのことを承知で韓国政府が判決支持に動く可能性は高い。もともと市民活動家の集団で成り立っている政権であり、バックグラウンドは感情を優先した市民である。

 日本は反発しても一時的で、どうせどこかで妥協してくると韓国側は見越している気がする。いままでずっと日本政府はそういう対応をしてきたし、韓国はそれを学習してきた。

 しかしここで妥協すれば日本は無限に韓国に譲歩することになるのは明らかだ。それでも良いという日本人はいままでもこれからも少なからずいるだろうけれど、いまは踏みとどまるべきだと思う。善意はあの国には届かない。それに、一時的な損得(韓国に進出した日本企業の韓国内のさまざまな資産保全)を考慮を優先するべきでもない。

「自己責任」とはまさにこういうときにいう言葉だろう。韓国というリスクを承知で投資してきたのであり、それを失うことも考慮すべきだったのであり、いまがまさにそのときだと覚悟するときだろう。

 韓国政府が今回の判決に対してどのような対応をとるのかまだ明らかではない。それによって日本政府の、将来を考えた対応を期待している。場合によっては経済不調に陥りつつある韓国の命脈に関わる対応も必要ではないか。それしか韓国に事態の意味をわかってもらうことは出来ない気がする。これは上から目線の話しではなく、約束というものの意味を理解してもらわないと関係が成り立たないということを韓国に、韓国民に知ってもらうためである。

 多分同じようなことをブログで書いている人が多いと思うけれど、書かずにいられないので書いた。

2018年10月30日 (火)

泉鏡花記念館から東茶屋街に

泉鏡花と室生犀星は金沢出身の著名作家として知られる。金沢に暮らしていたときから泉鏡花記念館の場所は承知していたけれど、歩いて10分足らずなのに入館したことがなかった。泉鏡花の作品は『高野聖』くらいしか読んだことがなくて、なじみが薄いこともあるが、本当は彼の書くような幻想的な小説は好きなので、たまたまその気にならなかったというだけである。


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記念館の門。どうも不思議な形に歪んでいるように見えるのだが。

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邸内の父子像。多分は羽織の大人の方が鏡花だと思うが、写真等で知っている鏡花のイメージとちがう気がする。細身でなで肩でなんとなく玉三郎をイメージしているからか。実際に小柄で細身だったようだが。

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記念館入り口。館内は撮影禁止。自分で思った以上にじっくりと観てしまった。作品を読んでみたくなった。

ここから東茶屋街まで五分ほどである。

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浅野川を渡る。対岸の左奥が東茶屋街。むかしはこの浅野川で加賀友禅をさらしたという。糊を洗い落とすのである。水質が悪化してしまったが、浄化の努力が実って、いまはだいぶ水もきれいになっている。

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東茶屋街の入り口。鍵の手になっている。ここのベンガラ色の板壁が特徴的である。

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おなじみの通り。写真で見るよりも人出は多かった。ここも外国人の方が日本人より多い。

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通りの左右で日差しが全く違うので片側ずつ撮る。

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目の細かい格子戸が風情がある。夜ならなおさらで、接待で二度ほど茶屋にあがったことがある。今は昔である。

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筋違いの道をうろつく。こういう黒板壁の通りもなんだかなつかしい。

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浅野川の河原に降りてみる。青鷺がいた。

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セイタカアワダチ草の向こうに渡ってきた橋を見る。橋の向こう、左岸に沿って主計町の茶屋街がある。

このあと左回りのバスで尾山神社に行くことにする。

紙工作をする

 朝起きたら左肩に激痛が走る。あのつらい五十肩の再発か。こういうときに無理をしたら良くないのは経験済みである。なるべく左手を使わないように、腕を高く上げないようにしながら朝の仕度をする。私は左利きなので困ることもあり、うっかりするので注意する。

 幸い痛みは少しずつ和らいできた。ひどくならずにおさまりそうだ。完全におさまって数日したら今度は動かさないといけない。それを怠ると固まってしまう。今度はそれをほぐすのがつらいことになる。しばらく要注意である。

 今日は頼んでいた『奥野信太郎随想集』の七巻セットが配達される予定の日だ。インターフォンがずいぶん前から調子が悪くて、つながったり切れたりしている。接触が悪くなっているようで、ときどき確かめて何とかしていたのだが、最近在宅しているのに気がつがずに配達の人に迷惑をかけた。そこでワイヤレスのインターフォンを頼んであるが、在庫がなくて金曜日にならないと手に入らない。

 玄関をわずかに開けてある。これなら在宅であることがわかるからインターフォンがつながらなくてもドアを叩くなりして知らせてくれるだろう。ただ、映画などを夢中で観ていたりするとそれにも気がつかないおそれがある。というわけでCDをかけながら巨大(デカ)プリントソフトで写真を拡大プリントしている。もちろん今回のウズベキスタンの写真がメインだ。

 A4で縦3枚横3枚に分割プリントしてそれを貼り合わせていく。のりしろもちゃんとプリントされているから、それを考えて重なるところを確認して貼り合わせる。不器用な私だからぴたりとズレなしに貼るのは難しい。それでも全体としてみれば細部はあまり気にならなくなるものだ。ようやく三枚だけ完成した。

 ひとつだけ五所川原の立佞武多(たちねぶた)の写真だけ縦5枚横5枚の大きなものを作りたいと思ってプリントしてみた。ただ、3×3でも苦労しているので、まだ貼り合わせていない。

 このプリントは写真用紙でなくてかなわない。普通紙にプリントしても十分見栄えがするのである。

 本はまだ来ない。

恢恢

 伝えたいことをイメージ化して語るとわかりやすいと思うけれど、わかっているのは当人だけで、相手には却ってわかりにくくなってしまうこともある。しかしそのようにしか語れないこともある。

 「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉がある。好きな言葉だ。『老子』に出ているそうだ。天が人間の是非曲直を正すために張り巡らした網は、目がとても粗いが、悪事や悪人を取り逃すことはないという意味である。「恢恢」は広くて大きいことをいう。

 一神教の世界では絶対神が人びとを常に見ているから、他人は知らず、神には人の悪事はお見通しである。中国では天が見ていて漏れがないようである。天の張り巡らした網は粗いけれど、必要に応じて密に変わるのであろう。伸縮自在の網だろうと思う。ところで日本はそれを見ているのは絶対神でも天でもなくて、他人であり自分である。

 日本では他人に知られなければ悪事は露見しないかのようであるが、実は自分自身がそれを知っている。その自分がそれでもかまわないと見切ってしまえば、神も天もないからあとは正すものがなくなってしまう。恥を知らぬ人間はそういう意味では救われない。天の網は悪人を漏らさないが、それは悪人を救う網でもあるのではないか。神も天も持たないか、あるいは失った悪人は救われることがないと思うとおそろしい。

 考えているのはそのこととは別で、自分のザル頭のザルのことである。私のザルの目も「恢恢」である。しかも残念ながら伸縮自在ではないから、取り込んだ知識や想念はみな漏れ落ちてしまう。哀しいことである。ところが嬉しいことに、それでも網の目に引っかかるものがないことはない。その引っかかったものを手がかりにものを考える力がわずかながらつかないこともない。

 そのイメージは、大きなザルの目に引っかかったものがつぎに通過するものを堰き止め堰き止めして、結果的に網の目が密になったかのようである。台風で流れて来たゴミが川を堰き止めてあふれるが如しか。ザルに引っかかっているのが本当のゴミでないことを願うが。

 だから本を読み考え、情報を集めて考えることが全くのムダでもないのだ。「恢恢」のザルのままではなく、その粗い目に、いつのまにかまつわりつくものが生じてきている。ザルの目がほんの一部とはいえ密になっていることを信じてその粗雑なザル頭を働かせている。歳をとっても勉強することの意味と楽しみを、そんな風に考えている。

2018年10月29日 (月)

金沢城

兼六園の石川門側の出入り口に戻り、今度は金沢城を散策する。金沢に暮らしていたときは散歩コースだったからなつかしい。


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石川門口の櫓。青空に白壁が映えてまぶしい。

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石川門の裏側にある荀子の言葉の石碑。お気に入りで、いつも肝に銘じさせてもらうのだが、気がつく人はほとんどいない。

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五十間長屋。横長なので、どうしても手前が広々してしまう。

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この橋を渡って門をくぐり、回り込んで裏側へ行くと、五十間長屋の入り口があり、中を見学できる。金沢城見学は無料だが、唯一この五十間長屋の中は有料。確認したらここも65歳以上は無料であった。

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菱櫓の上階に登る。菱櫓はその名の通り、微妙に菱形になっている。だから工事は極めてデリケートなものとなったらしい。

五十間長屋の再建は大変な作業だった。このなかに入るとその難しさを詳しく展示物で説明している。

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五十間長屋の中。中は土足厳禁。木組みだけで、釘は全く使われていない。

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五十間長屋から見下ろす。向こうの長い建物は休憩所。最近新しく建て替えられたそうだ。

私は歩き疲れるとここでいつも休憩した。この建物の前には横長の池があって、それを見るのが楽しみだったが、埋められてしまったそうだ。

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三十間長屋なども見てから、大手門口へ向かう。私が住んでいたのは近江町に近いところだから、当時は黒門口から出入りすることが多かった。今回は泉鏡花記念館に立ち寄ってから東茶屋街に行くつもりなので大手門から出る。

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大手門口。この横の堀では春に桜を楽しめる。

歩き疲れたので軽い昼食を摂って一休みして泉鏡花記念館に向かう。

感動した

 私は底が浅いからしばしば感動する。気持の底はくすぐられると感動するものである。

 浜松のジャズフェスティバルに誘われて、さほどの知識もないままにヤマハホールのちょっと好い席でジャズのライブを聴かせてもらった。私の感動の底が二つほど抜けて、最後には涙がこぼれていた。心が震えるということを久しぶりに体感した。

 適当に聞いたら途中で席を立とうなどと考えていたけれど、最後のセッションでは身体が前のめりになっていた。感動して不覚にも涙が出ていた。ふだんの私なら、そんな自分をバカではないかと叱咤するところだが、その私が感動で震えているのだからどうしようもない。

 私は音楽が苦手で、小学校の縦笛さえまともに吹くことが出来なかった。高校のとき、さして親しくもない友人が、「俺はジャズが好きだからその道に進みたい」などと真剣に私に言うのでびっくりした。ジャズってなんだと思いながら、彼の剣幕になんだか強く感じるものがあったのをいまでも覚えている。

 彼は多分父親が黒人だったのだと思う。スポーツは群を抜いて能力が高く、成績も悪くなかったけれど、ちょっと屈折していた。私は脳天気だから彼のその屈折をちっとも理解できず、彼の優れた能力を、そのまま「いいなあ!」と口にしたのである。ジャズにはそのときの思いが常につきまとう。

 今回のフェスティバルに誘ってくれた友人もジャズに造詣が深いわけではなく、私が行くなら一緒に行こうということだったらしいが、彼も感動していた。私たちよりも聞かせたい友人がいないことはないのだが、今回は行って(つまり自分が体験して)よかったと心から思う。

 フェスティバルが終わってから、浜松駅近くの店で飲みながらいろいろ話した。二人ともテンションが高くてなかなか切り上げることが出来なかった。楽しかった。

 本当にありがとう。

2018年10月28日 (日)

同期する?

 家の中に電池で動かしているものがいろいろあるが、どうしたわけかつぎつぎに、というより一斉に電池切れを起こしている。壁の掛け時計、これは単二電池を使用していて、予備がないから買いに行かなければならない、冷蔵庫で使用している脱臭装置、こちらはエネループの電池が使えるので交換して充電すれば良い、体重計、こちらは単一電池を使用で予備があるから交換した、テレビのリモコンの応答が悪くなっていて、これはやはり単三だからエネループの電池を交換した、旅行に持っていくひげそりもしばらく交換していなかったからパワーが落ちている、これも単三なので交換して充電する。

 比較的に短期間に交換の必要なひげそりや脱臭器は交換時期が重なるのはわかるが、体重計などは五年以上持つし、掛け時計も三年は持つから、それらがほぼ同時期に電池切れを起こすのは偶然にしても出来すぎである。それぞれの機器が互いに相談し合って一斉に「腹減った」と叫んでいる心地がする。

 本などを読んでいると思わぬ引用があって、それがたまたま読んでいる全くジャンルのちがう別の本だったりすることは結構あっていまはあまり驚かない。私には見えない関連がこの世には実は張り巡らされていて、どこかに触るとどこか別のところでかすかに鈴が鳴るような気がする。世界は互いに関連しているのである。ふだんはその当たり前のことに気がついていないが、ときどきそっとそれを感じさせる兆候というものはあるものだ。そして意外と自分が無意識にその見えない関連をたどった本の読み方をしていたりするのは不思議だ。

 それに気がついたからどうということはないが、なんだか世界の秘密の一端を覗いた気がして面白い。

今日は浜松へ行く

 今日は(私から見て)若い友人から誘われて、いま行われている浜松ジャズウイークのヤマハジャズフェスティバルを聞きに行く。ネットで調べると、浜松ジャズウイークは今回が第27回らしい。ジャズが好いなあと本当に感じだしたのは最近のことで、音楽を音楽のまま感じることが多少できるようになってからである。

 ジャズのライブを聴いたのはこれまで二度ほどしかない。やはり生は身体で感じることが出来るから楽しいけれど、積極的に聞きに行くほどのことはなかった。それがデジタル音楽を聴き始めたら、そのライブに近い音を聴くことが出来て、繰り返し聴くうちにその好さを実感するようになった。

 そのことをブログに書いたからお誘いをいただいたのであろう。

 特にジャズピアノがお気に入りで、今回は大林武司という人のピアノ演奏が聴けるのが楽しみだ。ほかに八代亜紀のボーカルのステージもある。

 年季の入ったジャズファンとは全くレヘルがちがう感度だろうけれど、私にとっての新しい楽しみを楽しみたいと思っている。それに、終わったあとにその友人と会食するのがそれ以上に楽しみなのである。

2018年10月27日 (土)

兼六園

上越市の鵜の浜温泉を出て寄り道をしながら金沢に入ったのは三時前。なじみの駅前のビジネスホテルにチェックインして写真をパソコンに取り込む。飲みに出るには早いし、観光地を訪ねるには遅いので、シャワーを浴びて一眠りする。


リフレッシュして、暗くなった金沢駅周辺をうろつく。観光客が多い。ほとんど外国人だ。貸し自転車で走り回る観光客もいる。新幹線が開通してから金沢を歩くのは初めてで、一段とにぎやかさが増していることに驚く。定年前の八年あまり金沢に単身赴任していたので、ここは自分の住んでいた街としての思いがある。位置関係もよくわかっている。

ちょっと高級そうなのに炉ばたと名の付く店があったので入ってみる。酒も魚もおいしいが、値段もいい。焼き方のお兄さんが、柄本兄弟の弟にそっくり。みていると焼き方が絶妙でほれぼれする。ついいろいろ頼んでしまう。酒もいろいろ頼んだが、やはり白山の大吟醸が絶品だった。この調子だと宿代よりも飲み代の方がはるかに高くなりそうなのでそこそこにする。しかし勘定は予想より安いではないか。

これがあったから翌日の晩の店のひどさにうんざりしたのである(23日の「大丈夫か、金沢」参照)。

さて翌朝は車をホテルに置いたままにして、まず金沢をバスでひとまわりしてみる。一日フリー切符なら500円で乗り放題である。そのあと石川門と兼六園のある停車場で降りて、まず兼六園に向かう。

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住んでいたのが武蔵が辻の交差点近く、近江町の市場の目の前だったので、よく金沢城と兼六園を散歩した。

この石川門側の兼六園の入り口はなつかしい。春の夜、左手のお茶屋さんの二階から夜桜を眺めるのはちょっと贅沢な遊びである。

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入園料の300円を払おうとしたら、「おいくつですか」と尋ねられた。65歳以上は無料なのである。免許証を見せて、ただで入れてもらう。なんだか嬉しいようなそうでもないような気分である。

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おなじみの場所から定番の写真を撮る。紅葉は始まったところだけれどそれが却って美しく感じた。

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ススキと紅葉を一緒に写し込んでみる。なかなか好い。

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実は観光客がひしめいていたのである。中国語、韓国語、ラテン系の言葉や英語が入り交じり、日本人が珍しいくらいである。よほど金沢は世界に有名になったのだなあと感心する。

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日本武尊(ヤマトタケルノミコト)もびっくりしながら見下ろしている。

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雪吊りはまだ先だ。

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手入れが行き届いているから苔も美しい。

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逆光に紅葉が映える。

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こんな茶室も兼六園らしくて好いではないか。

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こういう小景が日本の庭園らしくて癒やされる。

園内をぐるりと回って石川門口に戻り、次は金沢城を歩く。天気がよくて汗ばむほどである。シャッポをかぶってくるのを忘れた。日に焼けそうである。

上越市立水族博物館と魚津埋没林博物館

上越の水族館は、以前訪ねたことがある。直江津水族館だった気がするから、まだ直江津市や高田市が統合される前だったのだろう。大昔である。水族館らしい好い水族館だったという記憶がある。屋上から海を眺め、遙かな佐渡を眺めた。そのときはそのあとに直江津から小木に渡った。


ネットで調べると9時開館となっていた。水族館の名前が変わっている。泊まっている鵜の浜からなら30分あまりでいける。しかし当日は日曜日であるから子供連れで賑わうことが予想される。早めに出て駐車場に入る。開館15分くらい前だが、駐車場はそれほど混んでいない。ところが入り口の前には長蛇の列である。

たくさんの若い係員がでて整理をしている。建物はガラス張りになっていて、建物の中にもたくさんの係員が準備をしているのが見える。準備万端のようである。つぎつぎに車がやって来ては行列が伸びていく。待ちくたびれた子どもたちの喚き声が大きくなる。係員たちが長い行列を見ては顔を見合わせている。少し早めに開けたいけれど彼女彼等にはその権限はないのだろうと察せられる。

定刻きっちりに扉が開く。チケットをすでに持っている人はそのままゲートから入り、持っていない人は売り場にふたたび列ばなければならない。

建物がすっかり新装改築されていた。なんだか現代アートの美術館みたいだ。

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メインの大水槽は一階から三階までさまざまな高さで鑑賞できる。写真はイワシの群れ。

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鯛がなんだなんだというように近づいてきた。

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カメラを向けていたらメンテナンス係のダイバーが寄ってきて手を振った。

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個別の水槽で見たオオカミ魚。左側の魚である。いかにもという顔をしている。

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最近の水族館はクラゲの展示が増えている。ライトあっぷによってとてもきれいである。それにしても不思議な生き物である。

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ペンギン舎の中に入れる。「しゃがんだり、触ったりしないで下さい」と係員が注意を繰り返している。足元をウロチョロされると、しゃがんで撫でてやりたくなるのはよくわかる。

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そのノタノタしていたペンギンがこうして水に飛び込むと凄いスピードで泳ぎ出してびっくりするし感心する。ノタノタしていては魚は捕れないのだ。

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気持ちよさそうに泳ぐペンギンたち。これをあとで下から眺めることも出来る。

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これが下からの写真だが、ペンギンだかなんだかわからない。

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屋上には上がれないようである。三階の水槽越しに海を眺める。佐渡はこの右手方向のはずだが、そちらは開けていないので見ることが出来なかった。

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イルカショーの準備中。子どもたちがたくさん待っているようである。ショーは見飽きているのでパス。

一階から三階までを案内にしたがってウロウロしたが、そこら中にペンギンのマークがあって、方向音痴の私にはどこがどこやらよくわからない。なにしろ出口、という案内がないのである。

きれいな建物で良く管理されていて素晴らしいのだが、個別水槽がむかしからみたら減ってしまった気がする。つまり魚を個別に眺めることが少なくなり、大水槽にまとめて入っている状態になっている。大水槽とペンギンが主力で、子どもたちには楽しいだろう。私は昔の水族館がなつかしい。

このあと魚津まで高速に乗らずにのんびり8号線を走る。糸魚川から親知らずを越える道は8号線で走ってこそ、その懸絶の景色を楽しめるのである。

富山県の、特に魚津から黒部あたりまでの赤信号ヒット率は、私の経験では国内で群を抜いて高い。13回赤信号が連続したのが私の記録である。今回は4回が二度とだいぶマシであった。富山県に行くときは赤信号を楽しむつもりで行くといい。

魚津の埋没林に行くのは四度目か五度目である。目的は海中の埋没林の展示である。それ以外の蜃気楼の説明は何度も見るほどのことはない。

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これは水中にある。暗い部屋の中で一人で観ているとざわざわしてくるのが楽しい。太古の時代がここに封じ込められている。

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楽しいなあ。誰もここを見に来ないのはどうしてだろう。

海水では本来木材は徐々に腐食するのだそうだが、この展示水槽は海面下で、下面は仕切られておらず実際の海と通じていて、しかも下から真水が湧き出しているのである。冷たい真水が湧き出していることにより腐食が進まない。実際の埋没林をそのまま再現してあるのだ。暗くしてあるのは藻が繁殖しないためで、それも本当の姿を見せてくれている。私は海の底にいるのだ。

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白日の下にさらせばこの通り。夢から醒めてしまう。

このあと今晩の目的地の金沢に向かう。

2018年10月26日 (金)

私は前向きに見る

 安倍首相が中国を訪問し、李克強首相などと会談して共同記者会見を行った。今回の訪問は、米中の関係悪化のなかで、日本との関係修復が必要だと判断した中国の要請によるものだと想像されるが、それでも日中関係が多少とも改善されるのであれば悪いことではないのではないかと私は前向きに考える。

 あの官制反日暴動から六年、日本人の中国に対する嫌悪感はなかなか薄れることはないようで、いまだに韓国に対してよりも中国に対してのほうが嫌いな人が多いようである。ただ、中国の反日は損得や国の都合によるもので、情況によってころりと変わることは今回のことでもよくわかる。だからこそ中国の方が信用ができず、嫌いだというのもよくわかる。しかしそれだけ理解しやすいともいえる。理解しやすい方が私は好きである。

 それよりも感情的で修復の難しそうな韓国の方が私にはよほど苦手である。もちろんどこの国や組織に対しても、好きな人、嫌いな人、どちらでもない人がいるもので、その割合が全体的にどちらに傾いているかでその時点での好き嫌いが判断されるわけだが、日本が好きな人が好きと公言できないほどに感情的な国は私は嫌いである。日本を好きだというと、マスコミやネットなどに取りあげられて袋だたきに遭い、社会的に抹殺されてしまいかねない韓国に恐ろしさを感じている。

 しばしば韓国の実際のことを知る人は、韓国の人は日本人が思っているほど日本が嫌いではないですよ、というのだが、そのようには伝わってこないし、いちいち日本人の気持ちを逆なですることばかりを仕掛けてくる国にしか見えない。それはやり過ぎだからやめろという声が大きくならないのは、そうすることがその国の意思であるとしか見えないのは当然だ。

 だからといって中国に迎合する必要はさらさら無いので、信用できないなら安易に信用しなければ良いだけのことである。中国もまさか日本がいままでのことをころりと忘れて、全面的に信用してくるとも思っていないだろう。

 李克強首相は、首相という肩書きで№2でありながら習近平に干されていた。なんだか毛沢東時代の周恩来のようだが、残念ながら周恩来の人望もカリスマもない。李克強には李克強なりの中国経済に対する考えがあり、世界のなかの中国のあり方についての考えがあっても、習近平はそれに対して一顧だにしなかった。しかしここへ来てのトランプ大統領の対中国強硬策に対して、習近平はなすすべを持たない。もともと毛沢東同様思想家的な独裁主義者だから、経済音痴である。経済通ではないのだ。

 安倍晋三と李克強はかなり以前からの旧知である。いま習近平は李克強のお手並み拝見というところであろう。それで日中関係が多少とも改善し、経済的にプラスの結果を出せば願ったりである。中国が経済的に失速し破綻すれば習近平政権はその責任を問われて政権があやうくなりかねないのだから、李克強に多少の点数稼ぎをさせてもかまわないと判断していると思われる。

 中国が一息つくこととひきかえに日本がなにを見返りとして得ることができるのか、たとえば尖閣問題が沈静化することも成果だろう。それを日本は中国の立場を考慮して日本国内向けに大っぴらにいうことはできないとしても、かまわないではないか。実があれば良いのである。中国はそれをいわれないための何らかの見かけ上の成果も用意するはずである。ただ、軍部は習近平の意に反して暴走する可能性はある。ことが起こったら軍部の暴走が政権の意思なのか見極める必要があるだろう。

 日中関係の宥和はヨーロッパの中国への厳しい見方を多少は緩和する働きも期待できる。そもそもは中国との関係強化による経済的恩恵を喉から手が出るほど欲しがっているのはヨーロッパ側でもあるのだから。トランプの独走を、つまりアメリカの都合だけのちゃぶ台返しを食い止めるには、アメリカ以外の国が総力であたる必要がある。その点において中国もヨーロッパも日本も同じ立場ともいえる。

 ただ、アメリカだけに都合の良いことは許さないように、中国だけが好い目をするようなことは誰も望まない。そのことをきちんと釘を刺せるかどうか。困難だけれどそれしか現在の世界の閉塞状況からの出口はないような気がするのだが。先走った観念論を語ってしまった。一つの夢である。

心が震える

 奥野信太郎師の『藝文おりおり草』(東洋文庫)といういう本を読み始めている。巻頭に置かれているのが『北京時代の洪北江』という文章である。洪北江は清後期の詩人で、もともとは江南の人。早めに就寝したら夜中に目が醒めてしまい、この本のこの文章を読んだ。

 洪北江については全く知らないから彼の詩を目にしたこともない。しかし著者の文章を読むことで洪北江が生きた時代の北京、彼の見た北京の風物、ふるさとに対する懐旧の念が惻々と胸に迫ってきた。こんなことは久しぶりである。洪北江が見たであろう、そして感じたであろうことを奥野信太郎師の目を通して私も感じたのである。

 それは師の『随筆北京』をじっくりと読んで、師の見た戦前の北京の風物、においや音にわずかながらも心が同調する回路が出来たからであろうか。それに、数回だけとはいえ私も実際に北京を訪ねて、まだ残っていた下町を歩いた経験があるから、師の語る北京を感じる手がかりを多少は持っている。だから私は自分自身の記憶をベースに、師の目と意識を通した洪北江の見た北京を見たし感じたのである。二百年以上前の洪北江の見た北京を感じたのである。

 文章を通して、わずかとはいえ時間と空間を超えて何ものかに感応することが出来たことに心が震えた。本物の本の読み手は、常にこのような体験をしているのだろうか。私もさらにふたたびみたびこのような体験がありえるのだろうか。そのために少しでも高みによじ登らなければならないだろう。本の力は凄い。

2018年10月25日 (木)

写真好き

 眼鏡をかけてカメラをぶら下げていれば日本人だと思われた時代があったようだが、いまは世界中どこの観光地に行っても観光客は写真を撮りまくっていて、それは日本人に限らない。このごろ特に思うのは、高級そうな、いいカメラを持って闊歩している女性の増えたことだ。

 誰もが、写真が、そしてカメラが好きなのだ。ただ優先順位が国により人によってちがったから、以前は日本人が特にカメラ好きに見えたけれど、いまはみなが簡単に写真が撮れるようになった。

 ところであの自撮り棒はときにいささか迷惑なものだが、あんな風に自分の写真を撮りまくるというのはどういう気持なのだろう。そう疑問に思うのは、私自身は証拠写真のように、行った先と自分と観光地を同一画面に撮るということに少しも興味が無いからだ。それにしても写真を撮ることに夢中で周りの見えない人もしばしばいて迷惑だし、そういう人に限って人の写界に無神経に入ってくる。鈍感な人は悪意がないと分かっていてもちょっと腹立たしい。

 写真は自分だけのためではなくて、人に見せるためのものでもある。自分が行ったところを写真にして人に見せることは、嬉しくないことはない。見せられた方はみせた人の期待の何分の一か、感心してくれる。あまり大量だとときに迷惑なのは自分でもわかっているつもりでもそれを忘れる。

 写真を撮ることに夢中で、撮った写真を見ないとどこに行ったのか分からなかったりしたらちょっと危ない。写真を撮りに行っただけになってしまって、なにしに行ったのか分からないのでは本末転倒だ。だから旅に行っても写真を撮らない人もいる。筋が通っているけれど、人はすぐ忘れるもので、写真がそれを思い出す手がかりになることもあるし、画面を少し大きくすると思わぬものが写し込まれていて、面白いこともあるからやめられない。

 カメラに写真を撮らされることのないように気をつけて写真を楽しむことにしている。ちょっと手間でも大伸ばしするとさらに楽しめるもので、デカプリントというソフトを使って新聞紙大や、ときに等身大に延ばして遊んでいる。手間なのは、分割プリントして貼り合わせていくのが不器用な私には手間だということで、工作が好きな人ならその手間も楽しめる。

赤城神社

周大兄と会食して歓談した翌日は新潟県の上越市泊まりの予定だったが、天気予報を見ると新潟県は昼過ぎまで雨である。時間をつぶすために高速を使わずに大間々から赤城越えして沼田から17号線を北上することにした。朝のラッシュを避けるために九時過ぎにゆっくり出発したが、考えたらこの日は土曜日で、ラッシュはないし、観光地には早く出掛けた方がよかったことにあとで気がついた。


まず目指したのは赤城の大沼。ナビでは赤城山・大沼がでないので、赤城神社で検索したらヒットした。ナビは小沼を通る県道16号(狭くて急)ではなく、少し遠回りのずっと西側の県道4号線を案内する。そちらの方が走りやすいのでそれに従う。本当は県道16号線沿いの赤城神社も好い佇まいなのであるがパスする。

赤城山は関東平野の北端にそそり立つ。だから平地から最高点の1500メートル近い峠まで一気に駆け上ることになる。1000メートル地点までは紅葉は始まったばかりだが、1200メートルを超えたあたりから紅葉が見頃になっている。

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大沼の赤城神社に到着。案の定駐車場はほぼ満杯。それでもなんとか駐めることが出来た。

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沼の岸辺の木々の紅葉が見頃になっている。

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対岸の山の上を雲が通り過ぎるので、日の明るさがまだらである。

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赤城神社の赤色もひところよりは派手さが減じて落ち着いた色になってきた。

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向こうに見えるのは鈴ヶ岳か。

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この紅葉を見にたくさんのひとが訪れている。鮮やかではないがいい色合いである。

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赤城神社は地続きだが、南側は橋でわたる。橋の向こうは駐車場。ここへ駐車したがこちらは狭い。北側に広い駐車場がある。トイレもそちらにある。

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ところどころの赤がアクセントになって美しい。紅葉の見頃は短いのである。

このあと北側へ抜けて一気に山を下る。ナビは老神方向へ案内せずに、ずっと西側、田んぼのなかを走る道を案内する。沼田市街を通ると渋滞するので、沼田から月夜野までの一区間だけ関越自動車道を走る。

月夜野から17号線に入り、三国峠を越えることにする。この辺り、湯宿から猿ヶ京など温泉場が続く。湯宿にも猿ヶ京にも泊まったことがある。猿ヶ京には両親と娘のどん姫を連れて、数組しか泊めないというちょっとしゃれた宿に泊まった。

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猿ヶ京の赤谷湖。猿ヶ京温泉は祖父母が叔父達に連れられて良く泊まりに行っていた。

このあとが大変であった。三国峠を越え、越後湯沢を通り、石内を左に折れて国道353号線を走ったのだが国道とは名ばかりの山道で、やたらに右折や左折の多い峠越えの連続であった。折しも天気予報通りの雨。ときどき強く降る。

最近はそういう峠越えを楽しむようになっているとはいえ雨の道は気を遣う。峠道をいくつも越えたころ、353号線から253号線に乗り継ぎ、さらにわけのわからない県道をいくつも乗り継いでついに日本海にいたる。ようやく雨が上がってきた。

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久しぶりの日本海。

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だんだん空が明るくなる。翌日は晴の予報である。今日の宿は上越市の鵜の浜温泉。塩水の湯である。早めだが宿に入る。

旅について

 どうして日常生活を離れて、面倒でしかも金もかかる旅に出かけるのだろう。日常生活の方が面倒でわずらわしいというわけではない。よく考えれば、日常生活の方が安楽である。たしかに日常生活には常に些細なことを片付けなければならないということはある。しかし旅に出たところでそれらのことはついて回るし、それを放り出して出掛けた分、帰って来ればそれらは倍加して目の前にある。

 変化を求める気持が旅をそそのかすのだろうか。男が出掛けたくなる気持にはそういうところはある。いまは女性も同様か。昔は「女は港、男は船よ」などと言ったりしたが、いま旅先では女性の方がずっと多い。男も女も船になったかの如しである。

 若い人たちが自分探しの旅に出かけるなどという。自分探しというからには、自分を見失っていることが前提なのだろうか。どうも見失うほどの自分などそもそもないように見える。ないものを捜して旅をして、見つけるのは自分の国であり、ふるさとであり、家族である。つまり出掛ける前に自分の寄って立っていた場所である。自分探しとは、言い古されている通り「青い鳥」探しなのだろう。

 最近ウズベキスタンに行き、そのあと国内の特になじみの場所を歩き回って、自分の寄って立つ拠点を確認するというよりも、そういう拠点を見失ってしまっている自分を発見した。自分が見失われていると感じた。だから自分を捜しにまた旅に出る、などというつもりはない。そもそも寄って立つところを失っているのなら、どこにいても同じであり、日常も旅も同じである。五木寛之ではないが、自分はデラシネなのだという感を持ち始めている。

 旅といえば、私が戻るのは森本哲郎師である。世界中を旅して歩き、思索を深めた師には、『旅』と付く本が数多くある。私が迷ったときに戻る原点である。若いときに自分を見失いかけたとき師の『生きがいへの旅』という本に出会って救われた。いま棚から『文明の旅』という本を引きだして読み始めている。この本はいま文明の栄えている国やところのことばかりが書かれているのではない。遙かな昔に栄えた場所での師の思索が主に書かれているのである。

 ウズベキスタンでこのような思索をするべきであった。そうしたら自分を見失っている、などというたわごとを思わずにすんだかも知れない。

2018年10月24日 (水)

川中島古戦場

この日の晩は北関東の周大兄と会食予定だったが、時間があるので松代に寄ることにした。9月のマーチャン様の長野行の記事に触発されたのである。一度行った松代にはなんとなく好い記憶があるのだ。


その前にすぐ近くの川中島古戦場に立ち寄った。ここも五年ほど前に来ているので二度目である。古戦場も松代も、前回は電車とバスで回った。そのときは松本の友人を訪ねたついでであり、事故で車をおシャカにしてしまい、息子からしばらく運転を自粛するようにさとされていたのである。

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相変わらず信玄と謙信は戦っている。

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信玄が軍配で防いでいる。

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正面から見るとこんな図なのだが、床几に腰が落ちていて、これでは上から振りかぶった謙信の太刀を防げるとは思えない。

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馬も謙信もこんな形相で馬上から力任せに太刀を振り下ろしているのである。塚原卜伝ではあるまいし、片手で防げるわけがない。

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古戦場は広い公園になっていて、博物館もある。公園には佐久間象山の銅像が建っていた。

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左手に持っているのは刀かと思ったら遠眼鏡(望遠鏡)であった。佐久間象山についてはほんの少ししか知らないが、興味のある人物である。やや倨傲なところがあったなどといわれるが、賢すぎて回りが馬鹿に見えたのかもしれない。なんとなく清河八郎に共通するものがある気がしている。

本当に賢い人は回りとうまくやるものだが、それは平時のことであって、風雲急な時代にはものの見えない者たちに苛立って感情的になるのは仕方がないことなのではないのだろうか。

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立派な博物館。立ち寄りたい気もするが、松代へ急ぎたいのでパスした。

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公園から信州の山々を遠望する。色づいているのは桜。日差しが暑いくらいだが風はさわやか。好い季節である。やがて足早に冬がやってくる。

このあと松代の真田宝物館に向かったが、ナビは変な道を案内して狭い道をウロウロさせられた。一度歩いているので見当を付けることが出来たが、そうでなければもっと迷ったことだろう。どうもこのナビとは相性が悪い。相性の悪いものがいくつもあるから、たぶん私が悪いのだろう。

満艦飾

 たった五泊六日の旅だったのに、昨夕帰宅してから洗濯したら部屋の中が満艦飾となった。夕方であるし、夜には雨が降る可能性があるとの天気予報なので、洗濯したものを部屋干ししたのである。

 長期の旅行では一番の問題が着替えである。若いときなら良いが、歳とともに下着が汚れやすくなるし、もともと汗かきのところに今回は意識的に歩き回るようにしたので、こまめに着替えた。車だから余裕を持って着替えを用意できるのはありがたい。もっと長期の時はコインランドリーを利用すればいい。

 帰ってからどこを歩いたのか思い返してみると、戸隠、川中島古戦場、松代、赤城山、上越水族館、魚津埋没林博物館、金沢(金沢城と兼六園など)、白川郷を歩いている。どこも初めてではない。初めての場所を訪ねる楽しみもあるが、二度目や何度も行っているところで新しい発見や、以前との印象の違いから自分の変化を感じたりするのはそれはそれで楽しい。

 その報告をのんびり書いているうちに現実の時間はどんどん進んでいる。いつ追いつくのだろう。

 録画したドラマや映画がたまっている。それも消化したいし、読みたい本もいろいろある。それなのにまた出掛けたい気持ちが抑えきれない。まだまだ元気があるということか、それとも残り時間を考えて焦っているのか。少し気持ちを落ち着かせないといけないなあ、などと思っているのだが。

最近、新疆ウイグル自治区で多数(百万人ともいう)が収容所に入れられて再教育を受けているというニュースが報じられていたが、いくら何でも百万人はオーバーな、とも思い、しかし中国の習近平政権ならやりかねないとも思っていた。

けさBBCのニュースを見ていたら、どうも報じられている収容所の話しは明かな事実であることを知った。驚くべきことだし、恐ろしいことである。まさしくオーウェルの『1984年』の世界が現実になっている。

いつかは新疆ウイグル自治区に脚を伸ばしてシルクロードをなぞりたいと思っていたけれど、夢と化したことを実感している。すでにそこはエキゾチックな西域でも何でもない、情報がとことん管理された異常な世界のようだ。

このニュースを朝日新聞はどう報じているのだろうかとちらりと思った。チベット問題にしてもあまり報じてこなかった朝日新聞だからウイグルの話しも当たり障りのない範囲でしか報じないことであろう。めんどうだから検証するつもりはないけれど。人権、人権と騒ぎまくって市民運動を煽りながら、人権が損なわれていることを報じないのなら、ジャーナリズムの自殺であろう。

中国は国家のため、現体制を維持するためにこのようなことを行っているのだろう。国家のために国民を戦争に送り込んでしまった日本をあれだけ非難してきた朝日新聞が、中国のいまの行動を強く非難しないのは矛盾である。二枚舌である。

それとも失われた信用をいまこそ取り戻そうと、真剣にこの問題を取りあげるだろうか。中国の拠点を失うことをなにより恐れて見て見ぬふりを続けるのなら救いようがない。そんな会社なら早晩消滅するだろう。朝日新聞の記者は、命がけで報道したBBCの記者を見習ってスクープでもしたらどうか。社命で危ないところへ行くなといわれているからと、それにしたがっているときか。

戸隠・鏡池

ブログではまだ旅が続いているが、本人は昨日午後に五泊六日の旅を終えて帰宅した。旅はくせになる。帰って早々また出掛けたくなっているが、これではフーテンの寅さんである。少しクールダウンして落ち着かないと原資が尽きてしまう。


それはさておき、戸隠の鏡池である。

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まさに鏡池。戸隠の山々と手前の湖畔の樹木が水面に鏡のように映っている。

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夕方なので薄暗くなり始めているのが残念である。その上山には雲がかかってなかなか退かない。

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なかなか迫力のある山容が眺められる。戸隠神社からはこのようにすっきりと見ることが出来なかった。

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夕闇が迫っているのに紅葉が鮮やかに見えている。

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湖面からうっすらと霞がかかり始めた。

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期待に反して山の雲はますます濃くなってきた。

鏡池は車でしか行けない。天気の良いとき、それも光線の具合も良いときにここでじっくり写真を撮ったらさぞかし好い写真が撮れるに違いない。今回は残念であった。

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もう一枚撮って、今晩の宿に向かった。

2018年10月23日 (火)

大丈夫か、金沢

少し飛ばして昨晩のことを先に書く。


 金沢二泊目の晩に飲みにいった店であまり面白くないことがあったので、少し悪口を言う。
 前の晩のことがあったので、ホテルの近くのちょっと高級そうな焼き肉店で軽く食べて飲もうと思っていたのだが、その店は今日も開いていない。仕方がないから多少リーズナブルで金沢の魚が食べられる店に入ろうと思って選んだ店ががっかりだった。
 看板で金沢の魚を食べられるとうたっているのに、おすすめのメニューは地鶏の料理が筆頭である。地酒のリストを見ると前日の晩に近いけれど多少は種類があって、我慢すればいけるかも知れないと腰を据えた。
 刺身は種類もないし、高いのでパス。ボリュームよりも酒をおいしく飲むものをつまみに頼む。若い店員が地鶏の串焼き盛り合わせが特におすすめですという。金沢で地鶏もなんだけれど、店のおすすめならいただいても良いかと頼んでみた。
 なんとこれが三串で1000円というヤキトリで、しかもじっくりと焼いているからパサパサである。安いブロイラーの胸肉を焼いたってこんなにパサパサにならない。肉と肉のあいだに浮いている白いものは冷凍肉の証拠である。たとえ病人食にしてもひどすぎる。これがおすすめのメニューの筆頭である。
 ここの店の焼き方は肉の焼き方の基本がわかっていない。焦がさないようにじっくりと返しながら焼いたのであろう。肉を焼くときは強火で、焦げる手前のぎりぎりのところで一度だけかえして焼く。そうしてうま味と水分をなかに残さなければならない。それを水分もうま味もすべてじっくり焼くことで飛ばしてしまったのだ。これでは焼き魚を頼む気になれない。パサパサの焼き魚がでてくることだろう。ど素人である。
 幸いあとで頼んだ蟹味噌がボリュームたっぷりで大満足。地酒を飲むのに最高である。私はカウンターで独り酒。若い店員たちが団体の注文に忙しく走り回る。カウンターには私一人で、歳のいったおじいさんが、刺身を絶妙に捌くのを眺めていた。しばらくしたらそのおじいさんも消えて私一人である。
 黒姫の大吟醸をグラスで飲んで、潮時と思って大声をかけて店員を呼び、勘定を頼む。自分の目算よりだいぶ高いが、こういう店ではしばしばあることで、黙って一万円札を出す。レジでもたもたしていて、いつまでたってもおつりがもらえない。店長らしき男がやって来て、ようやく清算が済む。
 ちょっと不愉快な思いを抱えながらも酩酊の気分でホテルに帰り、明細を見てびっくりした。なんとあの地鶏を二人前頼んだことになっている。
 ほとんど素人集団の店であった。早晩つぶれるだろう。そういう店を選んで入った自分の不明を恥じる。日頃外で飲むことがなくなって八年以上、勘が鈍ったのであるが、どうも金沢に対する印象を著しく損なってしまった気がする。観光客に害がおよんでいなければ良いが。

戸隠神社・奥社(3)

奥社のすぐ横に九頭竜神社がある。


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九頭竜社由緒書き。

戸隠神社は、宝光社、中社、奥社の三社だが、この九頭竜社と火之御子社を加えて五社を総称することもある。今回は火之御子社は立ち寄らなかった。

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二つの神社に挨拶して山を下る。

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膝をがたつかせながら階段を下り、ようやく坂の部分に至る。思ったより坂も勾配があったのだ。

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よく見れば根元に木の実がどっさりと置かれている。トチの実のようである。狸か狐の仕業か。ごんぎつねの話を思い出した。

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木の間から戸隠の山が見下ろしている。

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ところどころの美しい紅葉が疲れた脚を慰めてくれる。

このあと時間がまだあったので、鏡池に向かう。

2018年10月22日 (月)

戸隠神社・奥社(2)

戸隠神社・奥社への杉並木の道を歩く。


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少しだけ登り坂になってきた。

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それでも横の鬱蒼とした藪を眺めたり、

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杉の根方を眺めたり、

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根っこを眺めて面白がったり、

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なんて書いてあるのか読めそうで読めなくて首をかしげたり、

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横手の景色を眺めながら登るうちに坂はどんどんきつくなり、

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坂道が階段になり、しかしこの辺はまだ楽で、

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だんだんまともな石段になっていった。それでもこの辺りの段差はたいしたことはない。さらに段差が大きくなり始めると写真を撮る余裕がなくなって息があがってくる。

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やれ嬉しや、唐獅子のお出迎えである。私のような日頃の運動不足のにんげんが息を切らせながらでもようよう登れる程度であることが、こういう神社の有難いところであろう。御利益を感じるにはちょうど好い。

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奥社に到着。念願達成である。参拝して彼方を眺めれば、紅葉の樹のあいだから戸隠の山々がちらりと覗いている。あの山の上で戸隠の忍者が修行したのであろう。日本の仙人もいたかもしれない。

戸隠神社・奥社(1)

いよいよ今回の主な目的地、奥社到達に挑戦。


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奥社は少し高いところにあるからだろうか、紅葉が進んで見頃である。

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奥社への入り口である鳥居をくぐる。

鳥居横の地図によれば、ここから中間点の随神門まで1キロ、その随神門から奥社まで1キロとある。前回は随神門まで来たところで兄貴分の人がギブアップし、私もくたびれていたので引き返したのである。

随神門まで15分、随神門から奥社まで25分とある。後半の半分は坂道と階段なので、時間がかかるのだ。

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前半はこんな道をのんびり歩く。わずかな上り勾配だが、どうということはない。

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木漏れ日のさすなか、こんな小さな祠があったり、

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きれいな紅葉が見られたりして快調に歩ける。

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実はこんなふうに、とてもひとが多いのである。人気があるのだろうが、しばしば中国語も聞こえる。中国の人もお参りするのだろうか。

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中間点の随神門に到着。この辺りから杉の巨木の並木となる。

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だんだん神韻を感じてくる。見た目ではわからないが、しだいに勾配が大きくなっていく。

さて、はたして奥社にたどり着けるのか。

2018年10月21日 (日)

戸隠神社・中社

戸隠神社・宝光社参拝のあと少し坂を登り、戸隠神社・中社に参拝する。ここもたくさんの人出で賑わっている。周辺の駐車場もほぼ満杯だ。少し離れたところの駐車場にようやく車を置くことが出来た。


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駐車場から見上げると少し色づいていた。

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横手から中社の社を見る。

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正面から。二礼二拍手一礼する。もちろん賽銭箱にお賽銭を入れたが、そもそもお賽銭というのは仏教の言い方ではないだろうか。神式ではなんというのだろう。とはいえ、そもそも戸隠神社は神仏混淆だったから区別はないのだろう。

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社の横には滝というにはささやかだが清水が流れ落ちている。水を汲んでいる人がいた。水質検査だろうか。

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ここの狛犬は変わっている。これは右側だが、左側も同様。特に手前の方は犬でも獅子でもなく、ちょっと猿顔に見える。

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ご神木の一つ。境内にはご神木がたくさんある。

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このようにとても太いのである。なにか感じられただろうか。

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このそば屋は大勢の人が待っていた。私の後ろにも行列が列んでいたのである。有名なのだろう。

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正面から戸隠神社・中社の鳥居を撮る。

このすぐ近くの民宿に今晩の宿をとっているのだがどこだかよくわからない。少し歩き回って発見した。ひらがなで大きな看板が掛かっていたのだが、読み方を間違えていたので分からなかったのである。

確認したので安心し、奥社へ向かう。

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途中で山塊を見る。戸隠山の一部だろうか、別の山だろうか。

戸隠神社・宝光社

二三年前に、長老と兄貴分の人と戸隠に来たことがある。そのときに戸隠神社の奥社まで歩かずに途中で引き返していたのが心残りであった。今回一人で戸隠神社の宝光社、中社、そして奥社の三社すべてをお参りすることにした。


まず宝光社。

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駐車場に車を置いて鳥居をくぐる。紅葉の時期でもあってどこも満車だが、少し高台の方まで行ってようやく車を置くことが出来た。

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宝光社由来。

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ちょいと立ち寄るつもりだったのに見上げるような階段が続く。さすがに一気には登れず、二度ほど休憩した。これでは奥社までエネルギーが持つだろうか。

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ようやくお社に到着。

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彫り物が素晴らしい。あまり社に向けて写真を撮るものではないらしいが、神宝を撮るわけではないから許してもらう。

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社の後ろには山が迫る。紅葉は始まったところか。

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境内から見下ろす。右手が登ってきた階段。

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帰り道は女坂から降りる。登りをこの坂にして、下りを階段にすれば良かった。

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登り口の近くにいろいろ奉納されている。それぞれにさまざまなひとの思いが込められているのだろう。

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駐車場近くのこのそば屋で戸隠そばを食す。とてもうまかった。このそば屋は古くから宿坊も兼ねており、内田康夫の『戸隠伝説殺人事件』に名前を変えてでてくる。

つぎに中社に向かう。こちらも駐車場は満杯。だいぶ離れたところにようやく置くことが出来た。

2018年10月20日 (土)

久闊を叙す

 一昨日からふらふらと車で歩き回っている。昨晩は久しぶりに周大兄と会食した。前回、東北からの帰りにこの北関東に立ち寄ったのは夏前のことだった。周大兄は大病を患い闘病中であったから、前回はアルコールが飲めなかった。その後治療が奏功して、多少なら飲めるようになったというので、今回はアルコールを口にしていた。

 ウズベキスタンの旅の話を面白がり、行きたいなあ、と言っていたが、同時に、体力が必要だからなあ、とも言って口惜しそうだった。病気が完治して体力を取り戻すことを心から願わずにいられない。周大兄は中国に語学留学をしたこともあるので多少中国語が話せる。中国にいつか一緒に行けると好いのだけれど。

 いつもの店で飲んだけれど、折から広島と巨人の試合が放映されている。巨人ファンの多いところである。敗勢が濃くなると、みなからため息がもれる。アンチ巨人の私としてはひそかに広島にエールを送っていたが、それを大っぴらに口に出来ない雰囲気である。お店の美人三姉妹(一人は姉妹のお母さんだが)も周大兄の病気のことを知っているので、久しぶりに元気な周大兄を見たようだ。

 ホテルでの待ち合わせに奥様が車で送ってきた。あまり飲ませないで欲しい気持を強く感じたので、早めに切り上げた。

 一昨日は戸隠に泊まり、戸隠三社などを歩いた。その報告は後日に。

奥野信太郎『随筆北京』(東洋文庫)

 中国学の碩学である奥野信太郎先生が昭和11年から13年に北京に滞在したときのことを書いた随筆である。この時期は昭和史のことを知っている人ならわかるだろうが、まさに盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まったころである。この随筆集の中にもそのときの緊張した北京の様子が詳しく語られている。

 この本を読むと北京を五感で感じることが出来る。もちろん著者は外国人だから、外国人として北京を歩いているのだが、北京を、そして中国を歴史という時間の幕も含めて全身全霊で感じ取ることにおいて、中国人と変わらないかそれ以上の感性を発揮しているように思う。

 旧仮名遣いでしかもルビがほとんど振られていないから、しばしば意味が読み取れなかったり、読みが分からないことがある。

 しかし、そもそも現地の中国独特のものごとを、ことごとく日本語で伝えることなど出来ないのであり、読めないままに読むという読み方で好いのではないかと思って読み進めた。もちろん漢和辞典で調べる必要があるものについては辞書を引く。それはこちらが浅学である場合で、知らないはずがないとされているらしいところなのだが、辞書を引いていると読むリズムを著しく損なうので最小限にとどめた。

 この本はその時代の北京の空気、臭いや音、人びとのざわめき、季節の移り変わりを感じさせてくれる。大小さまざまな四合院が立ち並ぶ胡同(プードン・フートン)のまがりくねった路地が目に浮かぶ。 いまの中国は別にして、中国が好きで中国に関する本を読み続けてきた私にとって、この本はこれから宝物としてたびたび繙くことになる本になりそうだ。

 しかしいくら学者とはいえ、どうしてここまで詳しく中国の風物風俗を知ることが出来るのだろう。それはほとんど想像を絶するディープさなのである。先生はかなり女好きであり、女性を手がかりにさまざまなことを知るという手法を駆使したのではないかと勘ぐりたくなる。

 解説を村松暎氏が書いている。先生が女好きだったということを明確にほのめかして(変な言い方だが)いるので先のコメントを書いたのである。村松暎氏も中国についての碩学で、何冊か私の書棚に列んでいる。村松稍風という小説家の息子であり、あの村松友視のおじにあたる。

 この解説で奥野信太郎という学者がどういう学者であったのか、かなり詳しく知ることが出来る。そして、だからこういう随筆が書けたのだということもわかる。この人は論文よりも随筆が多い人なので、これから少し捜して読んでみようかと思っている。とりあえず同じ東洋文庫にある『藝文おりおり草』は手に入れた。読むのが楽しみである。そちらは現代仮名遣いにあらためられている。内田百閒の随筆もそうだけれど、旧仮名遣いはそのまま読む方がおもむきがあって好いのだけれど仕方がない。

2018年10月19日 (金)

タシケント・チョルスバザールと地下鉄

タシケント最大のバザール(市場)のチョルスバザールに行く。


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バザールの巨大なドームが見えてきた。

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ハミウリ。とても甘くておいしい。ウリ類はあまり好きではないが、これは文句なしにうまい。

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携帯を耳に当てながら歩く男の左手に無造作に握られている札束。貨幣価値が低いから、これだけあってもそれほどの金額ではないのだろう。

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ずっと向こうまで奥行きがある。ここは土産物売り場というより地元の人が食材を買いに来る場所である。

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おばさん、暇そう。

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このおじさんは何を売っているのかな?

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苦み走った男性がレバーを売っているのであった。

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肉売り場を見るのが好きである。臓物もいろいろぶら下げられている。うまそう。

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これはなんの脚だろう。まさか豚ではないはずなのだが。イスラムでは豚は食べない。

このあと同行のF君がトイレに行ったきり行方不明となる。ようやく携帯で連絡が取れてジーナさんが迎えに行き、再会することが出来た。彼にしては珍しいことである。

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タシケントの地下鉄に乗る。

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1970年代、ソビエトから導入されたもの。

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役によって装飾が全く異なる。ガイドブックには地下鉄の駅で写真を撮るのは不可であり、見つかるとカメラごと没収されるとあったが、今年の春から解禁されたのだそうだ。

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そのあと独立公園に立ち寄る。いま工事中なので中には入れない。門の飾りはコウノトリ。

これで実はウズベキスタンの旅は終わりである。

このあと食事をして飛行場に向かい、約八時間で成田に着いた。とにかくくたびれた。

それにしても女性陣はみな元気である。女性陣はひたすら土産を買いまくる。土産物を買うエネルギーは旅のエネルギーらしい。私などほとんど土産を買わなかった。それでは駄目なのである。

長々と旅の話におつきあい戴いて本当にありがとうございました。

タシケント・ナヴォイ・オペラ・バレー劇場と日本庭園など

タシケントというと必ず紹介されるのが日本人墓地とナヴォイ・オペラ・バレー劇場だ。


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この劇場は抑留されていた日本人と現地の人達が協力して建てたもの。1946年頃建てられた。あの1966年のタシケントの大地震では多くの建物が瓦解したが、この劇場はびくともしなかった。

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この噴水の噴出口は綿花の果実をもとにデザインされている。なるほど。

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立派な建物である。

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横へ回ると奥行きがあることがわかる。

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プレートには日本人が協力して建てたことがちゃんと記録されている。

北京空港も半分は日本の支援で建てられたのだが、そのことが書かれたプレートは半年ほどでいつの間にか撤去された。そういう国とはずいぶん違う。ウズベキスタンの方がふつうなのだが。

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タシケントは緑が多い。もちろん雨は非常に少ないから、緑を維持するために大変な努力をしている。

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日本庭園の入り口。ヤポンというのは日本のことである。私は日差し避けにシャッポをかぶっていたので国籍不明に見えるらしく、現地のおじさんたち四、五人がなにやら話しかけてきた。どこから来たのかと訊かれたらしいので「ヤポン」と答えた。

するとどっと盛り上がった笑い声が。日本人だと見当を付けたおじさんが自慢そうにしていた。

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庭園は広々している。木陰は風が渡り涼しい。

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孔雀がいる。

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コウノトリだっているのだ。

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庭園をあとにする。

バラクハーン・メドレセというところに行く。

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もうメドレセには食傷してきた。しかもサマルカンドの感激的な青のタイルを見たので、この程度ではただボンヤリと眺めるだけである。

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16世紀に建てられたものだそうだ。

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美しくないことはないのだが。

このあとバザールに行き、そのあと地下鉄に乗る。

2018年10月18日 (木)

タシケント・日本人墓地と国立歴史博物館

早朝五時半にサマルカンドのホテルを出発。ウズベキスタンの高速鉄道でサマルカンドから首都タシケントに向かう。行程約二時間ほど。カメラをバッグにしまい込んでいたので、列車の写真はない。停車時間が短いので慌ただしい。


砂漠とオアシス周辺の農村が交互に窓外を過ぎる。途中で雨雲らしきものを見る。ほんの一二分のあいだ、窓に雨滴がかかったがそれきりであった。ウズベキスタンの雨を初めて見た。

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八時半過ぎにタシケント駅に到着。どんよりと曇っている。写真はタシケント駅。

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駅前の景色。ごった返している。タシケントは人口300万人以上。ウズベキスタンの総人口の一割がタシケントに暮らす。朝晩は車の渋滞が見られるそうだ。

駅から郊外の日本人墓地に向かう。ここも是非訪ねたかった場所だ。父の弟はこの辺に抑留され、私が生まれたころにようやく日本に帰ることが出来た。

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ここが日本人墓地のあるイスラムの共同墓地。

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日本人墓地。墓碑銘は摩滅して読み難いが名前と出身地が彫り込まれている。

線香が用意されていて、もちろん私も線香を手向けた。どんな思いで異国の地に眠っているのだろうか。万感胸に迫る。

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広い墓地にはたくさんの墓標が列ぶ。生前の肖像が彫り込まれているのは最近のはやりだそうだ。ウズベキスタンはすべて土葬。前にも書いたがそもそも火葬場というものがない。

このあと歴史博物館に向かう。

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道路は広い。朝の渋滞は終わったようだ。タシケントはサマルカンド以上に緑が豊かだ。

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歴史博物館入り口。ソビエト時代に建てられたのだろうか。
子どもたちが見学に来ていて騒がしかったが、校長先生と覚しきおばさんが厳しくたしなめ、全員が揃ってわれわれに丁重な挨拶をした。われわれもジーナさんに教えてもらった通りに答礼した。とても気持ちが良い。写真はぶれてしまったので省く。

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発掘されたネアンデルタール人の頭蓋骨。子供のものらしい。

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その頭蓋骨から復元したネアンデルタール人。

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こんな風な状態で骨が埋まっていたという。

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ウズベキスタンの南東部はインドに近いので、仏教が盛んだった時代があった。

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ヨーロッパ的なものも遺されていたのだ。

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まさしくシルクロードは文明の交流のルートだったことがわかる。

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おなじみ、チムールの勇姿。

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ソビエト領時代の1966年4月26日、この時計の時間にタシケントを直下型の大地震が襲い、壊滅的な被害を受ける。その後復興をとげていまの近代的な街並みが出来たそうだ。

このあとナヴォイ・オペラ・バレー劇場へ向かう。ここも日本人が関わった場所である。

サマルカンド・夕方のレギスタン広場

前夜、ライトアップされた絶景に感激したレギスタン広場にもう一度向かう。ツアーの予定では中に入らないのだが、ジーナさんのいる現地旅行会社のサービスで、中も見学する。このことはアンケートに強調しておいて下さい、とジーナさんは笑いながら言う。


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おお、レギスタン広場。正面がティラカリ・メドレセ、左手がウルグベク・メドレセ、右がシェルドル・メドレセ。メドレセは神学校。ウルグベクはチムールの孫である。

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正面をややアップで。

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ガイドのジーナさんを撮らせてもらう。みんなはジーナさんと一緒の写真を撮りたがるが、私は彼女だけで撮りたい。彼女は直射日光かではサングラスをかけているのだが、その顔もすてきである。

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右側のシェル無土・メドレセのアーチに偶像崇拝を許さないはずのイスラムに例外的に動物と顔が描かれている。

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宗教を超えた権力を誇示したのだというけれど、私は顔のあるものが好きだ。200スム札にこの絵が使われている。

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ドームの中。ここもキンキラキン。

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これが美しく美事なことは認めるが、天国がこんな世界ならあまりありがたいと思わない。

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巨大な万華鏡を覗いているような心地がする。

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みんな歩き疲れて座り込んでいる。いろんな国の人がいる。昨年までは観光客の数ではフランスとドイツが一位を争っていたそうだ。今年は8月までの集計で、日本人が一番多いのだそうだ。本当に日本人によく出会う。

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日が傾き、メドレセがシルエットになる。

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この塔は自重で左に傾いているのである。

私もくたびれたのであの人たちと一緒に階段に腰掛けて空を見上げていた。

明日は早朝タシケントに高速鉄道で向かう。ホテル出発5時半である。そして一日タシケントを回ったら晩には日本に帰る。最後の強行軍が待っている。

2018年10月17日 (水)

サマルカンド・シヨブバザール

ビビハニムモスクからシヨブバザールは近い。


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バザールの入り口。

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奥行きがあってとても広い。

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ドライフルーツが量り売りで売っている。原則1キログラム単位、そして通貨は現地通貨のスムで支払う。一部、ジーナさんの知り合いが500グラム単位、ドルでの支払いを受けてくれた。お菓子類もみな計り売りである。そういえば私の子どものころは日本もそうだった。

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葡萄各種、プラム、杏、プルーン等々いろいろな果物が乾して売られている。とにかく乾燥地帯だから乾すのは得意なのだ。

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乾していない果物も売られている。奥行きの広さがわかるだろうか。

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パン売りのおばさんは舟を漕いでいる。盗まれてもわからないだろうが、ここにはそういう人はいないのだ。

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お父さんと一緒にお買い物。

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隅の方では衣類も売られている。

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陳列ケースに楽しい人形が飾られていた。

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二階のテラスでお茶を飲み、軽食を摂る人びと。われわれもこれからチャイハネでティータイムである。

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こんなお迎えがあって、

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こんな屋根の下でお茶を飲む。風が通ると涼しい。

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横にはこんなスペースも。ちょっと横になれる。

このあと、あの夜景を見たレギスタン広場に行く。ちょっとくたびれた。

うまく説明できないが

 私は自分勝手である。自己中心的である。人はたいてい自己中心的なもので、そのことに全く気がついていない人が多い。私はそれを自覚しているだけ多少は救いがある、などと開き直っている。

 甘えが過ぎると嫌われるが、それを恐れすぎると人と関われなくなる。その兼ね合いが人間関係の要諦で、私はそもそも面倒なことが嫌いだから、人と関わることは苦手である。その面倒をあえて踏みこえることで友人が友人として長く続いている。そのことは先輩諸氏に教えられた。だからどんどん友人に会いに行く。

 誰でも面倒なことは嫌いだからなかなか訪ねてくれないけれど、訪ねてくる人間を嫌う人はあまりいないから、その面倒を私が引き受ける。

 もう不特定多数の人とあえて関わろうとは思わないし、小学校、中学校、高校の同窓会のお誘いはあるけれど、日頃のつき合いがほとんどないのに新たなおつきあいを始めたいとは思わないので、すべてお断りすることに最近は決めている。それは何回か参加して、面倒くささの方が先立つことに気がついたからで、不思議なことに、消息不明の人間ほど会いたかったりする。自分はそういう人間なのだと自嘲したりする。

 人恋しさが人一倍強い分、私は人嫌いなのだとこのごろ実感して面白く思っている。この辺の気持はうまく説明できない。

2018年10月16日 (火)

サマルカンド・ビビハニムモスク

チムールが中央アジア最大のモスクを建てようと計画したのがこのビビハニムモスクだそうだ。しかし大きすぎて工事は難航し、チムールの督励によってようやく死の一年前にできあがった。


ところができあがってそれほど経たないうちに天井から煉瓦の落下する事故が頻発、礼拝に訪れるひとがいなくなったという。いまでも中には入れないことはないが、命がけで見て下さい、とジーナさんが言った。私たちはもちろん命をかけるつもりはなかったので中には入らず。

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外観は立派で美しい。

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入り口。

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中庭に向かう。

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これが巨大モスク。

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ミナレットは修復されたものか。これも登れないことはないが真っ暗で狭く、階段も危ないとのこと。

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これは横の廟の入り口。中庭に面している。

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ここは白が基調。多分新しく修復乃至全く作り替えたものと思われる。

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この石の台はコーランを置くもの。世界に四冊しかないというコーランの原本の一冊がこの台に置かれていた。いまはタシケントの博物館に収蔵されている。

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新しく作られた話であろうが、この石の台の下をくぐり抜けた女性は子宝に恵まれるのだそうだ。今しもくぐり抜けて左側から顔を出した女性が見える。木陰のベンチに座ってみていたらつぎつぎに女性がチャレンジしていた。中には若い男たちもいた。

このあと歩いて十分足らずのバザール(市場)を見に行く。

もっと良いと期待していたのに

 昨日は定期検診日。出がけに空を見上げるとどんよりして不穏な雲行きである。しかし昨晩、そして早朝の天気予報では午前は曇りだが午後には晴れるという。それなら傘は不要と判断した。

 病院に向かって歩き始めることしばし、ぽつりぽつりと降り始めた。あわてて走るほどのことはない。どうせ長い診察が終わるころには晴れているはずと思ったのに、帰りは本降りではないものの衣服が濡れるほどの雨になった。

 天気予報はめずらしく、はっきり外れである。男心と秋の空、とも、女心と秋の空、ともいうように、秋の天気は変わりやすいようだ。それにしても男も女も心が変わりやすいのなら、つまり人間というものは心が変わるものだということになる。自分を振り返ってみれば、確かにずいぶん心が変わり続けてきた思いがある。そしてそれを自覚していないわけではなく、そのことが心にトゲになっていることも多々ある。他人のせいには出来ないことも多いのだ。

 ウエイトコントロールは意識せずに目標をクリアして、いままでで一番体重は減っている。血液検査があるから朝は絶食している。いつになく空腹である。いつもは一食や二食抜いてもどうということはないのだが。多分血糖値その他すべて良い結果に違いない。

 優しい女医先生は検査結果を見ながら「順調ですね、良く節制しています」とのご託宣である。しかしHbA1Cは6.3と微妙である。これは旅行の最中ほとんど薬を飲まなかったことによるのかもしれない。先生にはウズベキスタンに行くことは伝えてあったので、A4にプリントした旅の写真数枚を見てもらった。「好いですねえ」と本当にうらやましそうにいわれてこちらもちょっと好い気分。

 さあ、これでしばらくは節制していた酒が自由に飲める。というわけで本日は大阪まで遠征して兄貴分の人と会い、そのあと友人と酒盛りをするのだ。

2018年10月15日 (月)

サマルカンド・グリエミール廟

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圧巻のサマルカンド、グリ・エミール廟。グリ・エミールというのは支配者という意味だという。ここはチムールと息子達の墓である。

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全景図。逆光で上手く撮れない。

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入り口の門。

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異世界へ入る心地がする。

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技巧を凝らしたドーム。

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この曲面だらけのタイルは造るのがほとんど不可能なほど難しいらしい。そうだろうと思う。青空に負けない濃い青のタイルが美しい。

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横に立つミナレットはどう見ても傾いているように見えるのだが。

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チムールの肖像。

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ドーム内部。金箔で蔽われている。

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圧倒されてただ眺める。

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このあと昼食。これはサマルカンドのパン。おいしいことで有名だが、体調もいまいちでそれほどに感じなかった。これを同席の女性がみなのためにナイフで切り分けようとしたらジーナさんに注意された。卓上のパンは手でちぎって分けるのが礼儀だそうだ。

感情が優先する国だから

 慰安婦問題を日本ばかりではなくて世界にむかって騒ぎ立てる韓国に辟易している日本人は多いことだろう。日本人でそのことを当然だと思っているのは、朝日新聞社と自分は日本人だと思っていない日本人ばかりと思う。

 近頃の韓国は、マスコミと反日を商売にしている一部市民運動家ばかりではなく、大統領府まで一緒になって日本に嫌がらせを仕掛けているように見える。そのことは韓国にとって国益に反するように思えるが、彼等の言い分が韓国内のみならず、世界でもまかり通りつつあるようにも見えて不愉快である。世間というのは、嫌がらせを受けている側にも問題があるのだろうと思うものである。

 それにしても韓国の慰安婦問題の言い立てを見ていると、今まさに日本の男たちが韓国の女性たちを手込めにしているかのようである。それなのに韓国の女性たちが観光で大挙して日本を訪れているのは不思議である。どういう精神構造をしているのだろう。日本の男がこわくないのか。

 テレビを観ていると専門家や消息通が、韓国は稚拙で感情が先走り、国益を考えたりしないのだ、とおっしゃっている。では日本はどうすればいいのか、と訊きたいけれど、どうもそういう国なのだから仕方がないと諦めて、そのつもりでつき合うしかないのだと言いたげである。
 
 一番近い隣国(見かけ上はロシアの方が近いけれど、あれらの島はそもそも日本領である)でもあり、つき合わないというわけにも行かないが、嫌がらせに対してじっと黙っているばかりの状態に耐えているのだから、政治家も経済界もつき合いを必要最小限にしてもらいたいものだと思いたくなる(実は徴用工問題などもあり、三菱重工など、韓国に進出している各企業は撤収を進めているともいうが当然だろう)。このままでは韓国は北朝鮮主導で統一されるのではないか。それが文在寅の秘めたる願いかも知れない。文在寅は金正恩の首席報道官だというアメリカメディアの論評は絶妙なジョークのようで、実は真実を突いているのではないか。

2018年10月14日 (日)

アフラシャブの丘からサマルカンド市内へ

 アフラシャブの丘の上には何世紀ものあいだ、サマルカンドの街がひろがり、シルクロードの要衝の地として栄えてきた。ジンギスカンの大軍がこの地を攻略にやって来たとき、サマルカンドの市民はここに立て籠もり、徹底抗戦した。激怒したジンギスカンは街への水脈をたち、サマルカンドは飢餓で地獄と化した。ついにサマルカンドが陥落すると、住民は女子供も含めてことごとく虐殺され、街は城壁も含めて徹底的に破壊され尽くした。


Dsc_8275 この丘の上に街があった。

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 水脈を立たれたためにこの街は再建されることがなく、ようやくチムール朝によって現在の場所に都市建設が行われて復活したのである。写真は延々と続く旧サマルカンドの破壊された城壁などの跡。どれほどの大きさの街だったのか想像を絶する。

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このような景色が延々と続く。モンゴル軍の破壊のすさまじさを知る。いまだに蒙古を恐れることは甚だしい。日本でも元寇の役の記憶の残るところでは同様であった。ただし、モンゴル軍は抵抗しなかった都市には宥和策を採り、優遇した。だから抵抗したところは少ないといわれる。サマルカンドに対する処遇は、そういう意味で見せしめだったのかも知れない。

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途中にある市場。左の建物の奥がそうらしい。休日には車と人であふれるという。

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なんとなく活気を感じる。

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市内に入る。サマルカンドはウズベキスタン第2の都市で、50万人以上が暮らす。車も多い。しかし世界中で見る日本車の姿をまったく見ない。例外的に各都市部の小型の乗り合いバスの多くはいすゞ製で、タシケントに組み立て工場があるそうだ。

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バレーの劇場。ソビエト時代以来バレーはさかんで、いまもバレーの学校や教室がたくさんある。

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車も多くて朝晩は渋滞するそうだ。

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緑が豊かな印象を受ける。街路樹の下部が白いのは中国と一緒。虫除けと夜目立つための両方の目的で塗られている。

自分の都合

 明日15日の月曜日がかかりつけの病院での定期検診日。いつものように検診日前は節制してウエイトコントロールをするのだが、今回はウズベキスタンで体調不良になったことから、体重が最初から目標値におさまっているので、過食過飲を控えるだけにしている。

 とはいえどこかに出掛けると嬉しくなってつい飲みすぎるし、そこで人に会えばなおのことである。それまで我慢して、15日を過ぎたらどこかへ出掛けよう、友人と飲もうといろいろ考えていて、三つほどの予定を立てた。最初に大阪の友人に会うことにして連絡したのだが、この友人は結構忙しくていつも返事が遅い。私はせっかちなので連絡が来ればなるべくすぐに返事をする。だから返事もすぐくるのが当然だと思うので返事が遅いとイライラする。これは自分の都合である。別の計画もあるから計画を変更しようかと思っている矢先にようやく返事が来る。

 そこで大阪に行くことが決まったのだが、ついでに兄貴分の人のところにも立ち寄ろうかどうしようかと迷っている。ウズベキスタン旅行の友人達との反省会もしたいけれど、それは少し先にすることにした。今度は奈良を散策がてらまた行けばいいのである。

 そうなると周大兄に会いに行くことを考える。せわしいけれど、来週末にでも北関東に出掛けることにしようかと考える。いまちょうど日光や鳴子の紅葉が見頃らしい。しかしのぞみの宿がいまから取れるだろうかと心配になる。週末は特に難しいことだろう。

 テレビで続けて金沢を歩く番組を観たので、いま金沢と能登あたりに出掛けたい気持もあり、そちらを優先したい気持になってもいる。

 旅から帰ってから、多少ひきこもりみたいな生活を続けていた。そうなると出掛けたい気持がどんどん膨らんで抑えようがなくなっている。来週からバタバタと動きまわることにする。

 そしてそのあとにはどこかの温泉に湯治に出かけ、格安の宿にしばらく滞在して読書三昧をしたいと夢想している。やはり東北になるだろうか。冬仕度前の東北も良いだろうなあ。今月初めに息子と娘がそれぞれやって来た。ふたりに会っていろいろ安心して、なんだか気持がサッパリとしているのだ。

その後いろいろと調整して、来週の予定がほぼ定まった。

2018年10月13日 (土)

サマルカンド・シャーヒジンダ廟(2)

シャーヒジンダ廟の内部をまとめて紹介する。とにかく美しい。大変な技術と長い時間をかけて造られたものだそうだ。


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石棺の上には紙幣が置かれている。礼拝に来た人がおいたのだろう。

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これは金箔が貼られている。

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あまりの美事さに見とれてしまう。

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こういうものに資力を傾ける気持ちがよくわからないのは、そもそも自分にその資力がないからなのだろうか。なにをよろこびとするか、ずいぶん違うものである。

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こういう風景の方になんとなく親しみを感じるのは、人が暮らしている気配があるからだろう。

廟をあとにしてサマルカンド市内へ向かう。次回は帰りの車窓の景色とアフラシャブの丘について。

サマルカンド・シャーヒジンダ廟(1)

いよいよ青のサマルカンドを歩く。


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シャーヒズンダ廟はサマルカンドの郊外、アブラシャブの丘(次回か次々回に紹介)の南にある霊廟群。ここでついに青のサマルカンドに出会う。

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入り口の門をくぐると天井に見える不思議な飾り。説明があったのだが聞きそびれた。それは、

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門の外側でこの少年に袖を引かれたから。母親と二人の写真を撮ってくれ、と身振りで示された。母親に良いのか、と日本語で尋ねたら、にっこりしてポーズをとってくれた。

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有名なしあわせの階段。登りながら段数を数え、上りと下りが同じならしあわせになれるという。どの段から数えてどの段で終わりなのかがよくわからないから、自分で勝手に決めて数える。上りも下りも同じ36段であった。

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王族や貴族などの霊廟が立ち並ぶ。市街に見立てているのだそうだ。真夜中には亡霊たちが徘徊するのかも知れない。

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ウズベキスタンの人や海外の観光客で混んでいる。霊廟の中は次回に。

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一番大きな霊廟の青いタイル。この青はラピスラズリをふんだんに使用したもの。いまはそのラピスラズリはほとんど採り尽くされて、なくなってしまった。だから同じものは作れない。

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イスラムは偶像崇拝をしないから、すべて幾何学模様である。例外が稀にある。午後それを見る。

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中門。

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中門から来た方向を振り返る。

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修復中の建物も見られる。

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霊廟であるからすべてお墓なのである。いまは新たにここへ墓を作ることは禁止されている。

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というわけで周辺にこのように新しい墓が作られている。ここに墓を作るのが死後のしあわせなのだというが、理解できない。

次回は霊廟内部その他。

2018年10月12日 (金)

シャフリサーブスからサマルカンドへ

時系列が前後するが、シャフリサーブスからサマルカンドへのバスの移動の車窓の景色を紹介する。


乗り物に乗ると寝ることが多い私だが、今回の移動中は飛行機以外はほとんど寝ることなく車窓からの景気をじっと眺めていた。大柄な私は飛行機では窓側と真ん中の席は避けるようにしている。私の身体を見るとたいてい要望はかなう。だから席はいつも通路側であり、景色も見えないから本を読むか寝るかすることになる。

しかしバスではまず真っ先に一番うしろの右側を確保する。窓の開かないバスでも、この席だけは窓が開くことが多い。右側を選ぶのは海外ではたいてい車は右側通行だからだ。今回も窓は開くのだが、風で砂が飛んでくることも多いので閉めたまま撮ることが多かった。道路もたいてい中央以外は砂がかぶっている。砂漠なのである。人間が砂をどけなければすぐに砂で埋もれてしまう。ウズベキスタンの砂漠地帯は苛酷なところなのである。

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シャフリサーブスをあとにする。砂の山は昔の城壁跡。破壊されたものだろう。

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これが一新されたシャフリサーブスの街並み。

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農家があるところには多少の緑もある。水も確保できるのだろう。

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葡萄を干す小屋だろうか。

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しだいに緑がなくなるが人家はまだ点在している。だんだん住みにくくなっていくのだろう。これからウズベキスタンは国全体が水の確保が困難になっていくのではないか。アムダリア川はいつまで大地をうるおし続けるだろうか。パミール高原の源流は大丈夫なのか。かなり危うい気がする。畑に肥料や農薬をまくので、それがどんどん濃縮されて環流し、水質は悪化し続けているという。水道水が飲めないのは当然なのだ。

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夕方である。家畜を連れて家へ帰る。

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遠方かすかにパミール高原の端っこが見えてきた。霞んでいるのは水蒸気ではなくて細かい砂が浮遊しているから。

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少年が手を振る。本当に子どもたちはみな手を振る。どこまで帰るのだろうか。

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これは墓地。ウズベキスタンは土葬。そもそも火葬場がない国である。

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人家も人の姿もない砂漠が拡がる。

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いかにも砂漠、という砂漠。隊商はこういうところを歩いたのである。

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岩山が見え始めた。こういうところは水があるのだろう。

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パミール高原の端っこの山であろう。山には樹がない。

このあと暗くなって、ようやくサマルカンドに到着。レギスタン広場の夜景を見てサマルカンドに宿泊したのである。翌日は念願のラピスラズリの青のサマルカンドを見る。

2018年10月11日 (木)

サマルカンド・レギスタン広場の夜景

チムール生誕の地、シャフリサーブスをバスに乗って出発し、三時間かけてサマルカンドに到着。夕食後、ライトアップされているレギスタン広場を見に行く。


サマルカンドへ向かう車窓から見た砂漠の景色は時間的に前後するが次回に報告する。

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全景。とにかく美しい。幻想的である。アラビアンナイトの世界を幻視する。説明は不要なので写真を列挙する。

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翌日夕刻もう一度ここへ来て中を拝観する。

サマルカンドに期待通りの景色を見て、興奮してホテルに帰る。

シャフリサーブス(2)アク・サライ宮殿

シャフリサーブスのハイライト、アク・サライ宮殿まで歩く。


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巨大な門が見えてきた。

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この塔と門はウズベキスタンで最も高い。チムールはそれだけ巨大なものを造ろうとしたのである。それは誰のためか。最愛の后のためのものだったという。それに関して伝説がある。

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左右の門はアーチ式に天井がつながっていたがいまは破壊されて別々になっている。その天井の上には美女の泳ぐプールがあったそうだ。奴隷たちがロープで汲み上げた水を引き揚げたというから大変なことだったようだ。

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門や塔は青いタイルで蔽われていたが、いまはその一部がわずかに残るのみ。

伝説というのは、この塔や門を造るために呼ばれた技術者が絶世の美女である后に恋してしまい、その后に『これは難工事であって完成は不可能に近い。それを命がけで成功させるので、代わりに完成したら口づけを許して欲しい』と耳打ちする。

愛するチムールを裏切ることになるけれど、チムールの願いである建物の完成もさせなければならないと后の心は乱れる。チムールは外征のために留守がちである。その留守のあいだに塔と門の工事は完成し、技術者の懇請に負けて后は口づけを許してしまう。

帰ってきたチムールはそのことを知り、技術者を殺し、后を塔の最上部から投げ落としたという。しかし、最近は技術者も許され、后と添い遂げたという話に変わってきているようだ。

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チムールの像。後ろから。

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前から。タシケントのチムールの遺骸からソビエトの学者が復元した絵をもとにしたものだそうだ。とても大きい。

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庭園はよく手入れされていて美しい。

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道路の向こうに見える市街は新しいものだ。

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面白いモニュメントも飾られている。そろそろ日も傾きだした。これから三時間かけていよいよ憧れの地、サマルカンドへ向かう。

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子供が振り返って手を振る。さらばシャフリサーブス。

次回はサマルカンド、レギスタン広場の夜景。絶景である。

2018年10月10日 (水)

シャフリサーブス(1)

うっかりして今朝は二つ同時にブログをアップしてしまった。決めているわけではないが、いまは一日二つくらいずつ更新している。その都度書くというよりも事前に思いついたときに不定期に書いて、朝と午後に時間指定で調整しているのだが、その指定を間違えてしまったのだ。


というわけで午後の分として本日三つ目を書いておくことにする。中央アジアについてはよく知らなかった。もともと世界史が苦手で、特にカタカナの地名や人名はこのザル頭には全くとどまることがない。しかしシルクロードへの憧れはある。

いままではそのシルクロードへの興味も新疆ウイグル地区まででとどまっていたが、今回Yさんの提案でウズベキスタンへ踏み込むことになったのである。

チムール王朝といえば巨大な版図を築いた帝国である。そのチムールの生まれたところがこの日訪れたシャフリサーブスなのである。ウズベキスタン最大の大きさの宮殿がある。そのアク・サライ宮殿は次回に報告するが、その前に、ドルッサオ建築群とドルティロヴァット建築群に立ち寄ったのでそれを報告する。どちらもモスクとその周辺に貴族達の建物が建ち並んでいたらしいが、すべて後の王朝によって破却されている。

チムールに直接ちなんだものを破却すると呪われるという伝説があり、それを恐れてチムールの墓などは遺されているのだが、それ以外は破壊されたのだという。

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いろいろな国の観光客がやってくる。

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くたびれて座り込む人もいる。

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モスクの礼拝時間が示されている。一日五回。季節によって変わる。

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私もこの巨大なプラタナスの木陰で一休みした。

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お墓の石棺。実際の遺体はこの数メートル下に埋葬される。チムールはここに眠りたかったらしいが、実際はタシケントに埋葬された。

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不思議な回廊。

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くぐり抜けると時空を超えてしまう気がする。

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これらもすべてタイルで蔽われていたのだという。そのままなら美事なものだっただろう。

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チムールの家族や先生の墓。さらに別々にモスクがあり、その内装、特に天井は万華鏡を見るようである。

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一部タイル貼りの柱が遺されている。六角形でしかも立体的な青のマジョリカタイルの色が鮮やかである。

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もともとの豪華なモスクを彷彿とさせる。

シャフリサーブスの街は、政府によって二年前に全面的に改装された。古い街並みはすべて撤去され、道路は整備され、広い庭園が造られ、緑豊かな街に生まれ変わった。それが良いことなのか悪いことなのかいまはわからない。

ジーナさんは、綺麗になったけれどちょっと風情がなくなりました、と言った。

無題

 やらなければならないことはたいてい面倒でやりたくないことが多い。先送りしてもやらずに済むようになることがないものは優先的に片付ける。片付けたあとの気持にささやかではあるが満足感もある。やらずにいればずっと気持も片付かずに不快なものだ。そんなことは最初から知っていたけれど、この歳になってようやく自然にそれが出来るようになった。遅ればせながら少し生き方が楽になった。

 やりたいことはやっていて楽しいのだから少々後回しでも問題ない。やりたいことがいつの間にかやらなければならないことになったりする。そういうときはやらずに先送りする。無理をするとやりたいことがちっとも面白くないことになったりするから、やりたい気持がたまるまで放っておく。結構時間がかかることも多いが待つしかない。

 楽しみはさまざまあるのだけれど、愉しさの度合いや楽しいと思う時間の長さが、歳とともに小さく、そして短くなってきたのは哀しいことだ。蓄積された経験が感動を縮小させる。感情の皮も肥厚して鈍感になってしまった。精神に柔軟性を失い、だんだん無機物に近づいているような気もするが、それが歳をとるということだとあきらめている。楽しみに理屈を付けるのは老化のせいだろう。理屈で楽しもうと思っても、楽しみというのはそういうものではない。

 新しいものに感動するよりも、静かに自然を眺めてボンヤリしたり、なにも考えずに音楽を聴いていることがむかしよりも気持ちが好いと感じるようになった。もちろんそんなときでも想念は駆け巡っていて、思ってもいなかったことが浮かび上がったりする。

 最近デジタル音楽を囓りはじめ、いままであまり聞くことがなかったジャズやクラシックを楽しむようになった。そんな風に、いままでしていなかったことで始めたいものがほかにもないわけではない。まだ多少だが色気は残っているので、ありがたいことだと思っている。

ブハラからチムール生誕の地シャフリサーブスへ

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ブハラではホテルの部屋にいただけ。


この日はブハラから四時間かけてチムール生誕の地シャフリサーブスへ行く。遺跡を訪ねたあと、ついに憧れの地・青の都サマルカンドへ向かう。シャフリサーブスからサマルカンドまで車で三時間だからほとんど移動である。

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お世話になったホテルを見上げる。

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ホテル前の広場。ブハラの空気を吸い込む。今日も快晴。

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バスの最後部右端の定席に座り、ずっと外を眺め続ける。多くの人はガイドのジーナさんの説明を子守歌にうつらうつらしている。砂漠とちょっとした集落が交互に窓外を過ぎていく。

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放牧されている牛。そういえばほとんど羊の肉を食べていない。牛肉か、ときどき鶏肉の料理である。鶏ではなくて家鴨かも知れない。

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ところどころにタマリンドの花が咲いている。タマリンドは砂漠の中でも多少は水に出会えそうな場所にあるようだ。

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いかにもソビエト時代に造られたと覚しき建物。

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天然ガスの採掘工場。ウズベキスタンは地下資源が豊富で、天然ガス、石油、金、ウランなどが採れる。みな不思議と砂漠地帯にあるようだ。

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遠くに排ガスを燃している炎が見える。

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二時間走ってトイレ休憩。私は今日は大丈夫。

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綿花を収穫する人たち。ウズベキスタンではいまでもほとんど手摘みだそうだ。

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子どもたちが手を振る。ほとんどの子供が手を振る。人なつっこい。

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そろそろシャフリサーブスの街だ。ウズベキスタンは小学校が四年間、中学校が五年間で、合わせて九年間の義務教育である。私は教育内容から考えて、その方が合理的な気がする。基本的に公用語はウズベク語とロシア語。学校ではもちろん両方を教えるが、ロシア語の教師が減ってウズベク語が主体になってきているそうだ。中学生はほとんど制服着用である。

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昼食。ヒヴァの薄いパンとちがってこちらは厚みのあるパン。前菜は小皿にいろいろなものが盛られていて、めいめいで取り分けて食べる。メインディッシュやスープはもちろん一人ずつでてくる。最後に必ずお茶が供される。発酵茶ではなく、ほうじ茶みたいなお茶だ。

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さあ、いよいよシャフリサーブスのモスクが見えてきた。

2018年10月 9日 (火)

加地伸行『マスコミ偽善者列伝』(飛鳥新社)

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 加地先生の本は『論語全訳註』と『漢文法基礎』を含めてたぶん二三冊所持していると思う。特に先生の『漢文法基礎』はこれ一冊で漢文とはなにか、その全体が理解できる(はずである)。漢文とは日本語であることも納得できるし、文法が苦手な人も、多くの文例を引用したやさしく詳しい説明で理解できる。常に脇に置いている、私にとっての名著である。

 そう、加地先生は中国の文学や哲学を専門とした大阪大学の名誉教授なのである。その先生がこんな題名の本を上梓するのであるからなにごとかと思いつつ、面白そうだと思わないでいられようか。

 冒頭にあのソバージュの美人(いうまでもなく皮肉である)の浜矩子女史がやり玉に挙げられていて一読痛快きわまりない。以下つぎつぎに新聞やテレビなどで見聞きして先生が立腹されたことが取りあげられ、なぜ立腹したのか説明が書かれ、最後に漢文の一文が引用されている。この漢文はときに少々難解だが、味わい深いものがある。

 私には先生こそがまともだと思うけれど、批判する人から見ればかなり偏向した老人のたわごとに読めるだろう。日頃私が感じていることを取りあげて酷評してくれている。あまりに共感することが多すぎて不思議なほどだが、多分こんな風に思っている世の人は多いのかもしれないと思い至った。先生や私がおかしいのではなくて、マスコミの方がおかしいのだとあらためて感じた次第である。

 この本を面白いと感じる人の多いことを願うけれど、そのためにはまず読んでもらわなければならない。腹を立てて放り投げる人もいるかもしれないが、世のなかはいろいろいても良いのである。

ブハラの朝

夜明け前からトイレとベッドを往復して、眠るどころではなかった。うっすらと白んできたのでベランダへ出る。


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ブハラの夜明けである。

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日が差し始めた。

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モスクが見えてきた。

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住宅街が拡がる。ブハラはヒヴァよりずっと大きな街だ。

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ホテルの前には大型観光バスが駐車場からあふれるように列んでいる。

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人が動き始める。それをこちらはぼんやり見ている。

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高いのはテレビ塔か。

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歯を磨きながら歩く人。

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ようやく車も動き出した。

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なんの建物だろうか。

この日はブハラ市内観光の予定だが、出掛けるのは無理である。同室のF君は元気でうらやましい。

昼ころまでトイレとベッドの往復をして、気持ちが悪いのでシャワーを浴びる。寝ていたら寒気がしてきた。熱が出ているらしい。それでも昼過ぎには腹は治まった。晩には民族舞踊ショーを見ながらの食事があるので行きたいけれど、あきらめた。

総勢30人の今回のツアーで、観光にでられなかった人が4~5人、夜のショーを見られなかった人13人だったそうだ。みな討ち死にしていたのだ。討ち死にしていたのはほとんど男性で、女性は多少不調でも食事をしておしゃべりしていたという。男は意気地が無い、そして女は強い。

舞踊ショーは美人揃いだったらしい、残念。ただし、夕食があまりにお粗末でみな腹を立てていた。

ブハラは結局朝のベランダからの写真しかない。

幸い翌日はなんとか復活。移動日なので復活しないと置いて行かれるか、自腹で日本に帰るしかないので必死である。さてどうなることやら。

2018年10月 8日 (月)

本を読み込む

 一冊の本をただ読むのではなく、読み込んだといえるほど深く読むと、いままで見えなかったものが少し見えたりすることがある。歯ごたえのある本は飛ばし読みするとほとんど上滑りして中身が理解できないから、当然読み込むことになる。歯ごたえのある本が読めるようになったのはある程度の歳になってからで、もっと若いときから意識してそういう本を読み、読み込む習慣を付けていればもう少し自分もマシな人間になっていたのにと残念に思うこともあるが、いまさら詮ないことである。

 同じ本や映画を評論している文章を読むと、その読み込みのレベルの差を思い知らされて哀しい気持がする。文章が公の場に公開されるような人だからそれは専門家の文章であり当然ではあるのだが。少しずつ積み重ねていつかは少し高みに至るだろうとひそかに思っていても、その読み込みのレベルの懸隔は大きくて、いつかは、というそのいつがこのままでは百年後でも届かない。どのみち間に合わず、もし時間があっても多分届かないことだろう。

 そんなことを思うのも、実は自分はもっと賢いのではないかというひそかな思い込みがあるからで、それがなければ最初からあきらめてさばさばしているはずである。しかしそのひそかな思いがあればこそ、歯が立たないのを承知で分不相応の難しい本を読むエネルギーが生ずる。いまわからないけれど、いつかわかると思うから本棚にそういう本が並ぶのである。本当に読み込める本の数には限りがあるけれど、その限度をはるかに超えて列ぶその本を無駄だとは思わない。私の思いがそこに列んでいるのだ。

ヒヴァ城内を歩く(4)

ヒヴァ城内見物もこれが最後。


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真ん中、奥の丸いのがバザール。

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バザールでは土産物を売っている。昔はシルクロードを往く隊商の人たちが駱駝と一緒にここを宿にして泊まったところだそうだ。

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メドレセ(神学校)中庭にて。

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これは別のメドレセ。中庭には必ず井戸があった。いくつもメドレセがあるし、似ているのでもうどこがどこだかわからないし、歩きくたびれたし、暑いしで、頭がぼうっとしている。

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段数は知れているけれど、結構段差の大きい階段がそこら中にあるし、

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こんな石畳の道路を歩きつづけるのは案外くたびれる。実はこのとき多少体調が悪くなっていたことをあとで知る。

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東門の方へ先導するガイドのジーナさん。この東門辺りには奴隷市場があったという。

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不思議なジュマ・モスク。世界でも最古に近いモスクだという。柱はすべて木製。古いものは千年以上のものもある。

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インドの王様から寄贈されたものもある。

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下部には駱駝の毛がクッションとしてしかれていたのだという。駱駝の毛は虫がよらないのだそうだ。つまり柱はじかに礎石に乗っているわけではなかったらしい。

ほかにもたくさんモスクやメドレセその他を見て写真も撮ったけれど、ヒヴァは切りがないのでこれくらいにしておく。

このあとバスで空港のあるウルゲンチに向かう。所要時間40~50分。この日は国内線で次の目的地、ブハラに入って泊まる。ふつうはバスで6時間くらいかけて移動するという観光コースが多いが、飛行機で半日時間が稼げる。

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さらばヒヴァのイスラーム・ホジャのミナレット。

この晩、ブハラのホテルに入ったのは午後11時頃。疲労困憊。そして夜中の三時頃突然飛び起きる。激しい下痢。それから何度もトイレにしゃがみこむことになった。

続く。

2018年10月 7日 (日)

どちらが正しいという問題を越えている

 韓国海軍の国際観艦式に日本の海上自衛艦艇の参加が取りやめとなった。韓国政府から公式に海上自衛艦の艦旗を掲げないように要請されたためであり、日本側からすればおよそ受け入れがたい要請であったことから参加を取りやめたものである。

 日本が受け入れがたいことは韓国側もよくよく承知のことで、日本からすれば参加しないでくれと言われたに等しいのだが、韓国側とすれば日本の艦旗である旭日旗を掲げて海上自衛隊の艦艇が参加することは、韓国の国民感情もあり、いまさら要請を取り下げることが出来ない情況のようだ。

 過去には特に問題とならずに旭日旗を艦旗として掲げて海上自衛隊艦艇が韓国の港に寄港したことは何度もあるので、韓国海軍としてはこういう騒ぎになることは本意でなかったようだが、マスコミが騒ぎ立て、韓国世論が盛り上がってしまったということのようだ。これはどちらが正しいという問題ではなく、当然妥協点を見出すことは困難だ。これはどうやら文在寅政権にとってまずい事態ではなく、望んでいた事態なのかも知れない。日本が勝手に参加辞退をしたと言い立てれば済むことである。

 韓国と日本の分断を狙う勢力にとって願ってもない結果であり、これから海上自衛隊の艦艇は韓国の港に寄港できなくなった。そうなると万一朝鮮半島で有事の事態となっても日本は半島にいる日本人救出のために海上自衛隊の艦艇を派遣することが明確に不可能になったのである。韓国にいる日本人は文字通り自己責任で脱出の方策を考えておかなければならない。

 もちろんこのような事態になったのは慰安婦問題などの韓国の反日的な世論の盛り上がりが背景にあるわけだが、そのことで一言だけ言っておきたいことがある。韓国の主張によれば、未成年の少女を含めて十万とも二十万ともいう朝鮮女性が従軍慰安婦にされたと云うことである。その真偽はともかく、それを主張するなら、そのときの韓国の男たちはなにをしていたのかということだ。自分の妻が、娘が、妹や姉たちが日本軍に慰安婦として徴用されたときに韓国の男たちはなんの抵抗もせずに口を開けてぼんやり見ていたのだろうか。寡聞にして日本軍に抵抗して怪我をしたり殺されたりしたという話をひとつも聞いたことがないのはいかにも不思議である。

 私には従軍慰安婦の非を鳴らす韓国の男共の無恥をこそ強く感じてしまうのである。女性たちが連れ去られたというなら、そのときにそれを見ていた男たちには○玉は付いていなかったのだろうか。

 韓国の経済が今後低落していくという報道が、日本ではなく韓国のマスコミでさかんに報じられている。いまのところ韓国は輸出が引き続き好調で、そこまで悪いとはいえないようにも思えるが、さまざまな指標が低落を予兆させているらしい。実際に低落が顕在化したときにはなかなか歯止めがきかないものだ。そのためにアメリカや日本とのスワップを再開すべしという韓国の経済学者のコメントが出始めている。
 数年前に日韓のスワップが打ち切られたときの韓国の無礼な対応を覚えている人も多いだろう。日韓のスワップでは日本にはほとんど必要性もメリットもなく、韓国のみにとって有用であることは互いに承知していることであり、実際に韓国の経済危機の時には日韓のスワップがあったことで日本が韓国の信用保証をしたことになって韓国は助かったのであるが、そんなことは韓国の国民は知らされていない。日韓のスワップが打ち切られたときには、韓国は身の程知らずに快哉を叫んでいた。
 慰安婦問題や今回の艦旗の問題は日韓の離反につながっていくが、そもそも日本は半島に関与して大きな損失を蒙ったことはあっても利益になったことがないのは歴史の示す通りである。これらのことが韓国にとって必要なはずのスワップ再開を困難にすることは、日本にとって幸いなことだとつい思ってしまう。韓国とはあまり関わらない方が得策だろう。それを韓国側から仕掛けてくれているのはありがたいことだと思えば良い。日本だって楽ではないのだから。

ヒヴァ城内を歩く(3)

宮殿の中に小さな展示館がある。タイルの壁は美しいし豪華だし見応えがあるのだが、見飽きてしまう。タイルでは歴史をあまり感じることが出来ないのである。展示館の方が面白い。


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どんな物語が描かれているのだろうか。

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タイルは思ったよりも厚みがあるのだ。これを焼くのに木材を使用したと思うが、そのころは木がたくさんあったのだろう。

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こんなユーモラスな小品を見るのは楽しい。

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ハサミなどの金属製品を作る工房が再現されていた。これは等身大の人形。

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これは謁見の時に王様が座った銀の椅子。

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こういう部屋で暮らすことが豪勢な生活と感じられるのだろうか。私には理解不能である。

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こんな刀剣で本当に戦ったのだろうか。日本刀と比べるとちゃちに見えてしまう。

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この日ロバでコンサートなどが行われるのだそうだ。昔は公開処刑なども行われた場所だという。

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井戸が涸れたので埋めた跡。建物の中庭には必ず井戸があり、井戸がなければ建物は建てなかったのだという。

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礼拝と観光にやって来たと覚しき人たち。

ヒヴァ観光はもう少し続く。ずいぶん歩き回っていささかくたびれてきている。

2018年10月 6日 (土)

遠藤展子『藤沢周平 遺された手帳』(文藝春秋)

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 著者の遠藤展子さんは藤沢周平の一人娘。実母(藤沢周平の最初の妻)は彼女が幼いときにガンで亡くなっている。現在藤沢周平の作品の著作権などの管理を行っている。

 この本は藤沢周平の遺した手帳やノートをもとにして藤沢周平が作家として世に出て専業作家になるあたりまでの、作家としての苦闘の半生が語られている。それは同時に著者の誕生からの自分の父の物語であり、自分自身の、そして家族の物語でもある。

 藤沢周平は山形・庄内の生まれで、何度も書いたが私の父のふるさと、最上郡からは遠くない。大学の四年間を山形で過ごし、身内も新庄などにいたからなじみのある場所で、月山を望むあの周辺は何度訪れたかわからない。私自身の生まれ故郷の九十九里周辺よりも山形の方が私にとってふるさとの思いが強いのである。だから藤沢周平の描く海坂藩の情景には思い入れがある。しかしこの本では庄内はすこししか出てこない。

 父の書いたノートに自分自身のことが書かれているというのはどういう気持なのだろうか。私の父は日記などを全く書き残していないので想像するしかないが、自分の記憶とはずいぶん違うものがそこにあるような気がする。忘れてしまったり、自分の中で変形されてしまった過去が別の人の記録としてそこに遺されていて、その違いの意味に気付かされるというのは悪くない気がする。正直うらやましい。

 私も愛読してきた作品が、題名も含めて改稿推敲を重ねていく様子に、プロの作家の仕事の厳しさを教えられる。どんな仕事も仕事とするからにはその道のプロである。それで報酬を得るのだから甘えは許されるものではないが、藤沢周平の自己に対する厳しさは人一倍だったようである。

 著者は文筆を本業とする人ではないから、多少おぼつかないところもあるが、おおむねその思いは伝わってくる。藤沢周平に思い入れのある人ならこの本は読む値打ちがあるだろう。

ヒヴァ城内を歩く(2)

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ヒヴァの城壁。奥の四角の高い塔は見張り台。あそこが夕陽を眺める場所。

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シルクロード全図。東のはて、日本も描かれている。カスピ海の東、いろいろ道が交錯しているあたりがウズベキスタンの諸都市である。

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タショ・ハウリ宮殿。王様の謁見場所。

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右端にある階段。この上段で僧侶(というのかな?)がコーランを詠唱する。

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美事な装飾タイルについて説明するガイドのジーナさん。

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つなぎ目がわからないほど精巧に組み合わされている。

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このように必ずペルシャ文字が記されているのだが、読めないからわからない。

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ここはハーレム。側妾たちはここに暮らす。暑いときはテラスで休むという。第一夫人から第四夫人までの正妻はもっと立派な建物が個別にあてがわれている。

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犯罪者などが閉じこめられて拷問されたり処刑を待った場所。一番うしろの若者が添乗員のK君。今回のツアーは30人という多数で、二十代のK君にとって初めての多人数の引率であり、彼よりも旅慣れている人が多いのでなかなか苦労していた。一生懸命すぎて却ってから回りしていた。なかなか大変である。

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おなじみとなったカルタ・ミナレット。未完成で、本当はもっとずっと高い塔になるはずだった。

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タイルが美しい。中は階段が崩れかけていて登れないのだそうだ。

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カラフルな服装の地元の人。

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これは観光でやって来た人だと思う。

ヒヴァの観光はもうちょっと続きます。

ところで貨幣価値ですが、ウズベキスタンの貨幣はスムといい、約1ドル8000スムくらい。変動が大きく、滞在中も7500~8500スムくらいの幅で動いていた。ロシアとの経済的な結びつきが大きいので、どうしてもその影響を受けるため、大変なのだそうだ。

ビールは約20000スム、ワインがグラスでやはり2000スム、ボトルだと100000~150000スム、石榴ジュースや杏のジュースは15000スムくらい。コーラは10000~15000スムである。有料トイレは1000スム。慣れてくるとちょっと金銭感覚がおかしくなってケチになっていく。

変動が大きいし、一度両替すると元に戻せないので、一度に10~20ドルほど両替して、なくなったらまた替えるようにしたほうが良い。汚れたり傷んだドルは拒否されるので、ピン札を持参するべし。バザールやスーパーではスムしか使えないことが多いが、水やビールしか買わないのでほとんど金はかからない。

2018年10月 5日 (金)

街頭インタヴュー

 事件や災害の時に現場に記者が赴いて市民にマイクを向けているのをテレビで見るが、まともな質問をしているのを見ることは稀である。記者自身がテレビに出ることに舞い上がってしまって、見苦しい様を見ることも多い。

 そんな記者の質問に自分だったらどう答えるだろうか、と思いながら見ているが、多分腹を立ててかなりきつい返事をしそうである。そもそも答える人の立場に立った質問をしていることが少ない。ただ質問をすることだけに夢中になっていて、答えまで自分がしゃべってしまってからマイクを向けていたりする。そうなれば、はい、とか、いいえ、という言葉しか返ってこないのは当然で、話が先へ進まない。甚だしいのになると、災害で立ち往生している人に「状況はどうなっていますか?」などと質問したりしている。状況を調べて報じるのは自分たちの役目だろう、などと突っ込みを入れたくなる。ただの馬鹿である。聞かれた人にしたら、それが一番知りたいのは自分だといいたいはずだ。

 それにしても実況中継とはいえそんなばかな質問をそのまま放送しているのだから、テレビ局も馬鹿なところである。もちろんそれを見ている私も馬鹿である。テレビ局はどうせ視聴者など馬鹿だと思っているのだろう。だから馬鹿な記者を臆面も無く使うのだろう。街頭のインタヴューを見るのは大嫌いである。 

 ウズベキスタンの旅の話ばかり書いていたら少し飽きてきた。書いている方がそうだから読む方もそうだろう。まだまだ続くけれど、旅の話は一日一回にすることにして、別の話を挟むことにした。
 今晩広島から息子がやってくる。なにか名古屋で用事があるのであろう、詳しいことは知らない。今日明日の食事と酒の用意をしなければ。
 先日旅から帰って早々、どん姫が泊まりがけで帰って来た。ウズベキスタンの旅の話と写真のスライドショーに解説を入れて見せていたら夜遅くなってしまった。久しぶりに身体を揉んでもらったら、肩はそれほど凝っていないけれど内臓が少しくたびれているようだといって、腰の周辺を念入りに揉んでくれた。やはり疲労していたのだろう。結婚してからずいぶんいろいろなことをてきぱきするようになった。
 嫌になったらいつでも帰っておいで、と馬鹿親父はそんな娘に向かって言うのである。そんなことを言われたら意地でも帰ってこないだろう。計算づくではない、本音なのだが。
 今はやりの言葉で言えば「どん姫ロス」で心身が不調になったが、これは父親がただ娘を結婚で手放したというだけではなく、小学生の低学年から男手ひとつで育ててきたその思いがこもっているのであって、母親が子供を手放すという心理も大いに働いていたのであることを旅で寝込んだときに気がついた。育てているときは半分母親の役割もしていたのである。二人分の喪失感があったのだ。

ヒヴァの職人街

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ヒヴァの職人街を覗く。写真は手書きの絵皿。

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見習の若い職人が先輩から木の細工を教えられていた。

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一本の木から彫りだしていく木工細工。これは本立て。釘なし。コーランなどを置く。何通りにも変形する。やって見せてくれるけれど、さっぱりわからない。

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シルクロードであるからシルク製品もある。そういえば畑で桑の木を見た。染色は草木染め。

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ゴミが捨ててあるわけではない。石榴の皮が干してあるのである。これも染料にするのであろう。

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シルクのカーペットと、ウールのカーペットがある。値段はさまざま。大きく精巧なものは仕上げるのに何ヶ月もかかるという。

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こんなのも売っていた。

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これは売り物かどうか知らない。そもそも海はなく、湖は干上がってほとんど魚を見ないところである。それなのに魚の飾りなので面白いと思ったのである。

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扉も造っている。

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こういう凝った扉を見るのが好きである。こんな扉を注文して日本に送らせた人もいるというのでびっくり。

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これはなんでしょう。

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これはパンを焼く窯。このなかに先ほどの枯れ枝を入れて燃やし、それを消して熱くなった内壁にパンを貼り付けて焼くのである。枯れ枝は綿花を採ったあとの枝。焼いているところを見たかったのだが、残念。

2018年10月 4日 (木)

ヒヴァ城内を歩く(1)

この日は朝から一日ヒヴァ城内の観光である。

メドレセ、モスク、ミナレット、宮殿を次から次に回る。メドレセというのは神学校、ミナレットは塔、モスクは礼拝の場所である。ここはチムールの孫であるウルズベクにちなんだ建物が多いようだが、とにかくどれもタイルと日干し煉瓦で出来ているので、すぐにどれがどれだかわからなくなる。それぞれに特徴のある模様があるというのだが、幾何学模様ばかりなので区別がつかないのである。

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これがウルズベク。王様というよりも、詩人、哲学者、天文學者として有名なのだそうだ。最後は親族に暗殺されてしまう。

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メドレセ(神学校)の壁。

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タイルの模様は出来上がりを考えて焼いており、それがぴたりと合っているのは素晴らしい。柄付きをマジョルカ、凹凸のあるのがテラコッタ、細かいピースを組み合わせるのがモザイクタイル。このタイルはマジョルカである。

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この井戸はしあわせの井戸で、恋人どおし二人で汲み上げてその水を飲むと願いが叶うという。現地の人らしき人が飲んでいたが、絶対にまねしてはいけない、とジーナさんに注意される。

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これがモスクの天井だったか宮殿の天井だったか記憶にない。多分モスク。

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こういう建物の内装は、できあがるのに何年もかかったというけれど、当然だろう。

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ただ呆然と見上げるのみ。

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周辺の模様は埋め込まれたタイル。これはゾロアスター教(拝火教)の名残で、似ているけれどいろいろあって、それぞれに意味があるそうだ。

このあと職人町に行く。

ヒヴァの夕陽など

カラ回りでいささか疲れて古都ヒヴァに帰る。


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おなじみのヒヴァの西門。日が傾きだした。

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見馴れ始めたミナレットに当たる陽も傾く。みやげ物屋は日陰となる。

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人形売り場の少年はカメラを向けると、はにかみながら人形を手にしてこちらを向いたけれど、日陰なのが残念。

これから夕陽を見るのだという。

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このチャイハネ(喫茶店)でお茶を飲み、時間待ちをする。お茶は二階で、夕陽は三階、というより屋上から眺める。

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向こうの塔からが一番景色が好いそうだが、1000スム必要。といってもだいたい8000スムで1ドルだから知れているのである。有料トイレが1000スムである。金よりも塔に登るのがしんどいのである。

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一般市民の住む家々。

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日が落ちてきた。

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城壁に夕陽が落ちて塔の人々がシルエットになる。

このあと楽しい夕食。

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レストランにて。

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パン。ヒヴァのパンはこのように厚みがない。おいしいと評判のサマルカンドのパンは厚い。この模様を付けるスタンプのような物があちこちで売られている。針が植え付けられていて、最初なんの道具かわからなかった。残念ながら写真を撮り損なった。

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レストランにはビールサーバーがあり、ワインがある。ウズベキスタンのイスラムはゆるいのだ。観光客だけではなく、市民も酒を飲む人は少なくない。これはソビエト領であったためとのこと。その前はとても厳格だったそうだ。

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帰り道。ミナレットの横に月が昇る。

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レストランでしっかり飲んだのに部屋でまた飲む。この晩飲みすぎたのが後々祟る。

明日はヒヴァ城内の見物である。

2018年10月 3日 (水)

トプラク・カラ

パオでゆっくりと食事をしてアヤズ・カラの疲れをとり、トプラク・カラへ向かう。カラ回り第二段である。トプラク・カラはアヤズ・カラよりも古いものらしい。ガイドブックによれば、紀元前一世紀から紀元後五世紀のホレズム帝国のシャー・ウシュ朝の首都の跡とのこと。


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車窓にカラが見えてきた。

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トプラク・カラは高さが25メートルなので、アヤズ・カラよりずっと楽である。ただ、道が狭く急なので注意が必要。

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もうすぐである。

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こういう風にゾロゾロとみんなで登って行く。

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日干し煉瓦は風化し、だんだん砂に帰っていく。

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ゾロアスター教の神殿跡。

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上から眺める。この棒のようなものが突き出しているのがゾロアスター教のあったところの特徴。

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全体の風景。

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住居跡。どんな人たちがどんな暮らしをしていたのだろう。

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壁の端まで行ってみる。城壁らしきものの痕跡が見える。城外に住んでいた人たちはその壁の内外で暮らしていたのであろう。

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カラの城壁跡。

はっきりと確認されているものだけで50以上、推定で1000カ所くらいからがあるともいわれている。多くが朽ち果て、砂になって行きつつある。

楼蘭などの砂漠に埋もれた遺跡も同様なのだろうか。そういうところへ気軽にくることが出来ることのしあわせを感じる。

ぶ厚い時間を堪能してヒヴァへ帰る。

パオで食事

ようやく丘から降りて昼食場所のパオに向かう。


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パオの内部。外から見るよりずっと広い。

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天井を見上げる。煙り採りの穴はない。ここは煮炊きしないからか、パオはそもそも穴がないのか、ここしか入らなかったからわからない。

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入り口から外を見る。向こうは砂漠。車椅子に乗ってやって来た観光客もいるのだ。

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ウズベキスタンはいつでも大っぴらにビールが飲める。なにしろ少ないけれど都市部にはコンビニがあり、そこでは割安でビールもワインも買うことが出来る。ビールには10%と表示されていた。まさか。ちょっと独特のフルーティな香りがある。10%の割りには酔わない。

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あらかじめ頼んでおくとパオに泊まることができる。夜は星空がきれいだろう。

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駱駝にも乗れる。ただし、ガイドのジーナさんは「予定にありません!」ときっぱり。

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目の前は、見わたすかぎりはるか彼方まで砂漠。

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星条旗柄のおばちゃんはアメリカ人か。動物好きなのだろうけれど、そんなに近づくと危ないよ。

食事のあとは20~30キロ離れたトプラク・カラへ向かう。

2018年10月 2日 (火)

アヤズ・カラ(2)

息も絶え絶えにようやく丘の上に至る。多少は散歩などで脚を衰えないようにしていたつもりだが、情けない。大丈夫なのだろうかと見ていた八十前のおばさんおじさんたちもゆっくりだが登り切り、登ってからも平然としている。負けている。


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丘の上は平らになっていて、もとはぐるりを城壁が囲んでいた。写真はその一部。

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古にはどのような姿をしていたのだろうか。

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崩れ残っている場所から想像するしかない。

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下の小さなカラ(都城跡)を見下ろす。この先はほとんど崖である。強い風が吹いていて、帽子が飛ばされないように注意が必要。汗ばんだ身体には気持ちが好い。強い日差しの対策として帽子とサングラスが必要といわれている。私はサングラスを持っていないし掛けるつもりもない(サングラスをかけると按摩さんに見えてしまう)。また、砂埃用にマスクを着用している人もいる。

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砂漠の中なのである。しかし昔は辺り一帯は緑に覆われていたのだ。ここが放棄されたのは川が干上がったか、川の流れが変わったためか。

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アップにしてみる。ここは中には入れないそうだ。

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城壁に穴があるのはあそこから弓を射るためだろうという。日本のような弓ではなく、引き金型だからこれで良いのだ。

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城壁内部には通路が通っていたことがわかる。

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砂で埋もれつつあるが、こんな風になっている。

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こういう砂を踏みながら丘を降りる。駐車場のそばにパオのレストランとトイレがあるのでそこへ戻る。パオでの昼食である。

アヤズ・カラ(1)

 アヤズ・カラは6~7世紀頃の都城の跡。高さが60メートルの丘の上にある。丘の上のカラは住民の住んでいた場所ではなく、敵が攻めてきたときの避難のための城壁に囲まれた場所だったようだ。住民は平地に暮らしていた。


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アヤズ・カラ遠景。

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中景。あの山に登る。

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丘の上に登る。手前の都城は中には入れない。あとで上から眺める。

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こういう砂の道を延々と上っていく。傾斜の緩やかなところはまだいいが、砂の道はふつうの道の倍以上くたびれる。

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こんな道を上るのである。

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途中から下を見下ろす。

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やれ嬉しや、やっと上に着いた。城内に入る。

城内と上からの景色は次回。

2018年10月 1日 (月)

カラ(都城跡)への車窓から

カラはまだこの地方がイスラム化する以前、紀元前から紀元五六世紀頃までの昔の都市群の跡である。古代ホレズム文化の時代という。一説によれば1000以上あるというが、ある程度はっきりしているのは五十ほどのようである。まだちゃんとした調査発掘がなされていないのである。いまは砂漠だが、その当時はアムダリア川の支流が網の目のように流れて緑野豊かな場所だったらしい。


そのカラにはヒヴァから100~150キロほどあるので二時間以上バスで走る。カラがある地帯は砂漠地帯で、カラカオパクスタンに属する。ウズベキスタンは12の州に別れていて、州境を越えるたびに簡単な検問がある。特にカラカオパクスタンは自治州であり、半独立国のような存在なので、その検問は少し厳しい。

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街を出るあたりで撮ったもの。

緑のあるところとないところがあり、水のあるなしで景色がまるで違う。

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砂防のためだろうか、畑の周りにはこのようなポプラの並んでいるところが多い。

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わかりにくいが、ポプラの向こうの畑では綿花の収穫をしている。

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一面の綿花畑。

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アムダリア川を渡る。大河である。

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本来はこの辺まで水があるが、いまは灌漑用で大量の水が消費されている時期なので、川底の見えているところもある。

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こういう畑がずっと拡がっている。すでに収穫を終えているようだ。

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たまたま列車を見ることが出来た。ソビエト時代の遺産である。

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そこら中に咲いているタマリンド。色物があまりないのでとても美しく感じられる。

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メインの運河。満々としている。もちろんアムダリア川から引いたもの。これが畑まで配水されるのだが、最後まで行き届かずに涸れているところも多く見た。

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これは帰り道で見た景色。集合住宅も多い。ソビエト時代のものだろう。

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ヒヴァに戻ってからの車窓から。日が傾いている。

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こちらは仕事帰りか。

次回はようやくカラの写真を。

古都ヒヴァを出発する

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 ヒヴァは二重の城壁に囲まれている。外側の壁は全長6キロの大きなもので、そのなかに市街が拡がっていた。しかしいま、外城壁はほとんど破壊されてしまって、わずかしか残っていない。内城壁の内部には宮殿と神殿、そしてメドレセ(神学校)があって、一般市民は住めなかったが、いまはみやげ物屋やレストラン、一部のホテルもなかにある。私たちのホテルも城内にある。ただし車は城内には入れないから、外から歩いて中に入る。出掛けるときは城門の外まででてから車に乗る。

Dsc_7683 城内の地図・読めない

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 東西南北に門があるが、一番大きくて神聖なのが西門であり、西門前に大きな駐車場がある。この日は城内観光ではなく、北方の古いカラという都城跡(いくつもある)を見て歩く予定。カラまわりである。

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Dsc_7676 冬は寒いので帽子は必須らしい

ホテルから西門に歩いて行く。メインのみんなが通る道なのでみやげ物屋が露天を拡げている。

Dsc_7680 西門へ向かう

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途中に客寄せ用として駱駝がいる。うっかり近づくと大量のよだれを吹きかけられるので要注意。

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西門の外へ出る。

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西門の左手に続く城壁。我々はこの城壁内に泊まっているのだ。

ここからバスに乗り、北上して空港のあるウルゲンチを通ってさらにアムダリア川を越え、砂漠の中をカラに向かう。

その車窓の景色は次回に。

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