恢恢
伝えたいことをイメージ化して語るとわかりやすいと思うけれど、わかっているのは当人だけで、相手には却ってわかりにくくなってしまうこともある。しかしそのようにしか語れないこともある。
「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉がある。好きな言葉だ。『老子』に出ているそうだ。天が人間の是非曲直を正すために張り巡らした網は、目がとても粗いが、悪事や悪人を取り逃すことはないという意味である。「恢恢」は広くて大きいことをいう。
一神教の世界では絶対神が人びとを常に見ているから、他人は知らず、神には人の悪事はお見通しである。中国では天が見ていて漏れがないようである。天の張り巡らした網は粗いけれど、必要に応じて密に変わるのであろう。伸縮自在の網だろうと思う。ところで日本はそれを見ているのは絶対神でも天でもなくて、他人であり自分である。
日本では他人に知られなければ悪事は露見しないかのようであるが、実は自分自身がそれを知っている。その自分がそれでもかまわないと見切ってしまえば、神も天もないからあとは正すものがなくなってしまう。恥を知らぬ人間はそういう意味では救われない。天の網は悪人を漏らさないが、それは悪人を救う網でもあるのではないか。神も天も持たないか、あるいは失った悪人は救われることがないと思うとおそろしい。
考えているのはそのこととは別で、自分のザル頭のザルのことである。私のザルの目も「恢恢」である。しかも残念ながら伸縮自在ではないから、取り込んだ知識や想念はみな漏れ落ちてしまう。哀しいことである。ところが嬉しいことに、それでも網の目に引っかかるものがないことはない。その引っかかったものを手がかりにものを考える力がわずかながらつかないこともない。
そのイメージは、大きなザルの目に引っかかったものがつぎに通過するものを堰き止め堰き止めして、結果的に網の目が密になったかのようである。台風で流れて来たゴミが川を堰き止めてあふれるが如しか。ザルに引っかかっているのが本当のゴミでないことを願うが。
だから本を読み考え、情報を集めて考えることが全くのムダでもないのだ。「恢恢」のザルのままではなく、その粗い目に、いつのまにかまつわりつくものが生じてきている。ザルの目がほんの一部とはいえ密になっていることを信じてその粗雑なザル頭を働かせている。歳をとっても勉強することの意味と楽しみを、そんな風に考えている。


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