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2019年1月

2019年1月31日 (木)

驚きのあまり開いた口が・・・

 複数の韓国メディアが伝えるところによると、「韓国軍は日本のさらなる挑発の際のマニュアル計画を立てた」そうだ。それによると、日本の哨戒機が低空飛行をして威嚇してきたら、(1)哨戒機を発進させ、(2)武装ヘリコプターで対応し、(3)警報レベルを引き上げることにするのだという。場合によっては現場の判断で武力行使も除外しないともいう。

 これはもちろん日本が敵国であると見做しての計画に見える。そもそも最初に日本の偵察機をレーダーで威嚇したのは韓国の駆逐艦だと思うが、いつの間にか日本が威嚇したことになり、さらに威嚇に対抗するための武力行使まで現場に任せかねないとは驚きである。なんだか日本がまた偵察機を飛ばすのを心待ちにしているようにも見えてしまうのは思い過ごしか。

 そういえば韓国軍は毎年、竹島で防衛訓練を大々的に実施している。誰から防衛するのか。誰が攻撃するというのか。もちろん日本からしかあり得ないわけだが、日本人にしたら韓国が竹島を占拠していることは理不尽だと思っているにしても、ほとんどの日本国民は武力をもって取り戻すなどと毛筋ほども考えていない。

 それなのに韓国は日本におびえているのだろうか。おびえているかどうかは別にして、日本が仮想敵国だと思っている勢力が厳然と存在していることは間違いなく、今回の哨戒機のレーダー照射問題をチャンスと捉えて、日本を公然と仮想敵国に昇格させようという狙いがあるらしく思われる。

 朝日新聞デジタルによれば、ソウル市議会の与野党議員の一部が、日本の戦犯企業の謝罪がないこと、裁判による賠償命令に応じないことを問題として、「当該戦犯企業の生産した製品について、ソウル市の小中高校や教育機関による購入を制限する」条例案を市議会に提出したそうだ。もちろん上程されたという段階だから、議決されるかどうかわからないが、これにも驚いて開いた口がふさがらない。

 そもそも戦犯とはなにか。あたかも日本と韓国が戦争をしたかのようだが、もちろんあの国と戦争などしてはいないのである。韓国と戦争をしたのは北朝鮮であり、中国である。本当におかしな話だと思う。

 現在のソウル市長は文在寅以上に親北朝鮮のガチガチであるから、日本を敵国として確信しているようで、この議案が提出されるより前の昨年秋に「市や公立学校で使っている日本製品を韓国製品に変更できないか検討する考えである」と公言しているのである。

 日本が韓国との関係を穏便に収めようと思う以上に韓国がエスカレートしてしまえば、日本は自動的に韓国に対して報復的な行動に出ざるを得なくなる。そうこうしているうちに、日韓は完全に離反の路をたどることになりかねない。これこそ文在寅やソウル市長のひそかに狙っていることらしいとわたしは思っている。

 経済的には日本は韓国に対して大幅輸出超過だから、韓国との離反は日本にとって損だ、と経済界は見ているけれど、そんなもの、こうして韓国からどんどん日本製品の使用規制が進めば一緒であろう。その覚悟で対処案を考慮せざるを得なくなりそうだ。

 こうなると半島有事の際のために韓国とは仲良くしなければ、などというのはたわごとにしか見えない。日本企業は早く撤収をしたほうが良さそうだし、たぶんすでに密かに撤収を進めているだろう。そうして韓国との縁が薄くなれば、半島の統一のコストを日本が引き受けるという想定そのものも無視できるようになる。それはいま韓国から日本企業が引き揚げる経済的なマイナスよりもはるかに大きなプラスではないか、などと乱暴なことを考えてしまう。それほどうんざりするニュースだ。

照れくさいけれど嬉しい

 日曜日に新酒会に行ったおりに、友人知人にそのお酒をお裾分けするため、密栓した汲み立てのお酒を酒蔵から送ってもらった。この十年くらい、毎年していることである。

 昨日の朝、自分宛ての分が到着、そのあと昼頃から続々と「着いたよ、ありがとう」という電話やメールが届いた。お礼をいうのは面倒なことで、私はちょっと苦手であるが、礼儀として欠かせない。みなさんにその面倒をかけているわけで、申し訳ないことである。

 その申し訳ない気持がお礼を受ける気持に照れくささを生じさせる。しかし心のこもったことばを伺えば嬉しいものである。それがあるから毎年送る。相手の顔を思い浮かべながら送ることも、毎年のささやかなよろこびなのだ。

映画『切り裂き魔ゴーレム』2016年イギリス

監督ファン・カルロス・メディナ、出演ビル・ナイ、リジー・クリーほか

 このところ映画に淫していて、家にいるときは必ず一本か二本は映画を観ている。日常の半分くらいは、頭が映画モード、つまり現実離れした世界をさ迷っている。それが快感でないことはない。

 この映画は残虐なシーンに溢れていて、血まみれ映画なのであるが、わたしとしては傑作と評価したい。ジェラール・ドパルデュー主演の『ヴィドック』、ジョニー・デップ主演の『フロム・ヘル』と同格の傑作として記憶に残るであろう。

 三作品どれも連続猟奇殺人事件がテーマであり、時代としては19世紀末が舞台になっている。その時期というのはあのロンドンの連続殺人事件、ついに犯人が見つからなかった「切り裂きジャック」の事件を下敷きにしているのだ。

 そもそもこの映画は題名が悪い。これではこの映画を観たいはずの人が見落としてしまう。何という題名をつけるのだ。

 主演の警部補を名優ビル・ナイが演じている。この人はあの田中泯に似ている。同じく主演の、リジーを演じたオリヴィア・クックも素晴らしかった。この二人がいてこそのこの映画の出来であろう。

 血まみれ映画が嫌いな人は観ない方が良いが、多少は見ることができる人は、この映画の強烈なラストの素晴らしさを味わって欲しい。衝撃を受けることを約束する。

2019年1月30日 (水)

映画『オシリス』2016年オーストラリア

監督シェーン・アビス、出演ダニエル・マクファーソン、ケラン・ラッツ、ティーガン・クロフトほか

 オーストラリア映画も当たり外れがあるが、外れが多いカナダ映画よりもずっとましであるし、ときに『マッドマックス』みたいな大当たりもあるから油断できない。

 この映画はその当たりであった。シナリオの出来が良いし、俳優も大根が出てこない。ダークな未来を描いたSF映画なのだけれど、そういう映画が大好きなので、わたしとしては二重丸。特撮の出来も良い。

 ストーリーとしては、父親が娘を助けるために命がけで活躍するというものであるが、出だしでその娘の独白があり、その意味がラストに初めてわかるという仕掛けになっていて、しかもそのラストの意外性が秀逸なのでとてもパンチが効いている。

 ダークな未来というのは『マッドマックス』と通じるもので、オーストラリアの監督は未来に悲観的なのだろうか。ラストの意外性がなくなるので、二度観たくなる映画ではないが、観て時間の無駄になることはないはずだ。

 父親が娘を思う気持ちにはちょっと感情移入してしまうのは、自分に娘がいるからである。たいていの父親ならそうだろう。その娘を虐待で殺す父親というのは、そもそも人間ではない、化け物である。

兆候

 中国経済が減速しているのは間違いないようだ。最近のニュースによると、中国高速鉄道は驚異的な拡大を続けてきたが、不採算の新線が多く、巨額の投資の回収は不可能だとみられている。最大80兆円くらいの負債だというが、本当なら深刻だ。そういえば十年ほど前には中国各地の都市で地下鉄建設が一斉に進められていた。

 インフラの整備という意味で必要なことではあるが、そのような投資には必ず利権と賄賂がはびこるらしいのは中国の常態だ。地方政府は巨額な投資を行い、その負債の返済時期になってその支払いが滞り始めている。銀行は支えきれるのだろうか。

 ところでAIIBというのが一時喧伝されていたが、どうなったのか。AIIBのお蔭で発展途上国のインフラが整備されている、などというニュースを見たことがない。全く機能していないといわれているが本当か。中国は高利で後進国に金を貸して橋や港湾や道路や空港を建設して、その金を返せない相手国から負債の代わりにそれらの施設を中国のものとして奪い取っていると非難されている。

 それらの国の国民には一切恩恵がない。周辺施設の建設もすべて中国の会社がやって来て中国の労働者が働いて建設していて、現地の国民には巨額の借金が残り、高額の税金が必要になるだけである。

 それでもかかる金はかかるのである。中国政府が無尽蔵の財布、打ち出の小槌でも持っていればとにかく、世界中に大盤振る舞いをしていたらついにはパンクする。中国の銀行にはもう外貨はなくなっているのではないか、とも憶測されている。どうも銀行が新たな融資をする余力を失っているらしいのだ。

 以前にも書いたが、高利貸しも貸し先からの取り立てができなければ持ち金が底をつくのは自明である。そもそも返済能力のない国に無理貸ししているといわれる中国だ。返済は滞るのは当然なのである。

 ところで米中協議で多分中国は大幅な譲歩を余儀なくされるだろう。そのときに、いつものパターンでアメリカからたくさんの買い物をするよう申し出るだろうが、はたして代金が払えるのか。

 さまざまな兆候が現れだしていて、とても興味深い。

映画『レディ・プレイヤー1』2018年アメリカ

監督スティーヴン・スピルバーグ、出演タイ・シェリダン、オリヴィア・クック、ベン・メンデルソーン、T.J.ミラー、サイモン・ペグ、マーク・ライランスほか

 VRが現実世界を侵食しつつある近未来、そのVR世界を構築した天才が、自分の残した遺産をすべて獲得するためのゲームを残す。このアニメと実写が融合した映画は、そのゲームに挑戦する者たちの闘いを描いている。

 e-スポーツなどという巨額の賞金のかかる大会が行われるようになった現代がさらに進化したらどうなるのか、VR世界を支配することは世界を支配することにつながりかねないこと、現にこの映画ではそれをもくろんで大資本でそれに挑戦する者が、結果的に主人公達の主敵となる。

 この映画は過去のさまざまな映画やゲームがオマージュとしてふんだんに散りばめられていて、それを単純に愉しみながら、VR世界そのものを主人公達に導かれながら疑似体験できる。たぶんこの映画のことを調べれば、厖大かつ詳細な紹介があるだろうから、それはそちらにまかせるとして、わたしはお気に入りの映画『シャイニング』の衝撃のシーンがうまく取り込まれていることがとても嬉しかった。

 スティーブン・キング原作をスタンリー・キューブリックが映画化したもので、わたしは傑作だと評価している。ゲームでは「作者に嫌われた作品」というヒントが与えられていた。キングはこの映画を酷評しているのだ。ちなみに『シャイニング』という映画はとても怖い映画である。怖い映画は嫌いなのだが、傑作も多いのでつい観てしまう。

 ネット世界やVRの世界が個人を支配する恐ろしさを、これから世界の人々は思い知るのかもしれない。そのことをひそかにアピールしている映画だという深読みもできる。そのとき主人公達に賛同して戦う者たちが、はたして存在するのだろうか。

 めまぐるしく展開する映画だが、映画好きにはこたえられない、楽しめる映画である。

2019年1月29日 (火)

興味は移る

 むかし好きだったけれど、いまはそれほどでもないものがあるし、むかし好きでなかったものが、いまは好きになったものもある。遊園地や博覧会が大好きだったのに、いまは人混みがわずらわしい。興味のなかったジャズがいまは快適な音楽に聞こえる。

 スポーツがもともとあまり好きではないが、唯一相撲だけは好きで、関取の顔と名前は一度で覚えたものである。その相撲にも興味が失せてしまって、新しい力士の名前がほとんどわからない。

 オリンピックの最中でも中継をほとんど見ないし、多分東京オリンピックでもほとんど見ないだろうと思う。

 そんな風だから野球やテニス、サッカーの話題をニュースの中で延々と取りあげられるとイライラする。大坂なおみ選手の快挙にしても、他人が盛り上がるほどわたしは却ってシラケている。へそ曲がりなのである。

 もともと嫌いな嵐が解散するとかしないとか、大事件のようにあれこれ言われるのもうんざりである。テレビが好きなのに地上波はそれらの出来事を中心に報道しているので、いまはほとんどNHKBSのニュースをつけていることが多い。それがゴルフやサッカーの中継で見られないと腹が立つ。どうもへそ曲がりじいさんはますます世間離れしてきたようだ。 

 いまのマスコミはまさに旧約聖書のソドムとゴモラの街のように見えてしまうが、それも偏見であり、差別だとして非難されるのだろうなあ。滅びに向かっているのはどちらなのだろう。そんなことをわたしが心配してもしかたがないのだが・・・。

責任をとる

 厚生労働省の違法統計調査を「ミス」などと報じている間は違法行為はなくならないだろう。法的に決められた手順、方法を無視すれば罰則があることになっているが、誰がどのような罰則を受けたのか、それを公開しない限り、国民は納得しないと思うけれど、果たして今回もうやむやか。

 想像がつくのは、野党はどうしたらこのような違法がなくなるのかを論ずるのではなく、問題を政争の具として安倍首相退陣ばかりを喚き立て、結局は問題は温存されるだろうということだ。彼等は役人とそもそもグルなのではないかと思うことが多い。

 もちろん内閣のゆるみがこのような問題の発生を許していることは間違いないから、それなりの責任は問われるのは当然としても、問題は安倍政権誕生よりもはるかにむかしから続いていたことであり、今できることは直接的な責任者に厳正な処罰をして責任をとらせることだろう。

 処罰された人間にしたら、自分が始めたことではなく引き継ぐ前の誰それは責任を問われないのになぜ自分だけ、と不満だろうが、世の中はそういうもので、こんなところで平等を望んでもしかたがないのである。懲役はともかく、罰金はそもそもしれているから、退職金の支給停止くらいはして当然ではないか。今後再発しないためには、そのくらいしないと止まらないだろう。

 官庁の、国民をないがしろにすることはむかしからとはいえ、いまはあまりにひどい。特に厚生労働省は腐っているとしか思えない。かれらは国民を舐めきっているが、しかし彼等自身には国民を舐めているという自覚すらない。自覚がなければ改まることもない。それだけいままで処罰がいい加減だったということだ。

 厚生労働省の解体的再生をして初めて安倍首相は国民に対して責任をとることになると思うが、どうも受け止め方がぬるく見えてしかたがない。このままなら地方選も参院選も惨敗しかねないのがわからないのだろうか。

 安倍首相は歴代の総理と比べてはるかによく働いているとわたしは評価しているが、しかしその長期政権のほころびは覆いがたくなっていて、消極的支持者もそろそろうんざりしはじめていて、世代交代を準備するべき潮時だろう。

 危難のときにはそれなりの人物が登場するのが歴史的な習いなのだが、どうも自民党の面々はあまりに安倍首相に寄りかかることになれすぎで、人からも担がれ、自らも立とうという人物がいまだに現れないのは残念なことである。石破さん?正論ばかりで国を動かせるとは思えないし、怪物だらけの海外首脳と彼が交渉しているすがたは、想像するだけで寒気がする。

 野党?そもそも日本の国をどうしたいのか全く語らず、安倍批判をするばかり、国民も忘却病の人以外は、かれらが政権を担うことができるなどとは毛筋ほども思うまい。

 今年は世界が昨年以上に混乱の年になる気配がある。政争をするのは少し待つべきだと思う。それなら、とにかく断固たる処分を厚生労働省に行うことこそ、当面の安倍政権維持に必要なことだと思うのだけれど、わかっているのかなあ。

古希

 先日の新酒会で、犬山の兄貴分の人に「お前も古希だなあ」と言われて、初めて自分が数えで七十になっていることに気がついた。迂闊なことである。

 人生七十古来稀なり、と杜甫が詩に書いて以来、長寿の言祝ぎの一つとして古希という区切りの歳が祝われる。それだけ昔は七十まで生きる人が少なかったということだろうが、いまはちっとも珍しくない。なにしろ正月からだいぶ経っているのに、いまごろそれを教えられて気が付くくらいである。

 以前は正月には自分の数え年を意識したものだった。それを全く考えなくなったのはいつからだろう。なにしろ還暦もほとんど意識せずに過ぎていたほどだ。還暦であることより、リタイアできる自由さの方ばかりに気が行っていた。

 それでも、いろいろあったとはいえ、こうしておおむね無事に古希を迎えられたことをめでたいと感謝しなければならない。有難いことである。両親の祝いは喜寿、傘寿、卒寿(これは父だけ)を私たち兄弟、そして孫たち全員で祝った。段取りは両親と同居している弟夫婦がしてくれた。

 還暦や古希はとりたててなにもしなかったと思う。もうそんな時代なのかもしれない。とはいえ思い出したのだから、今晩はささやかに自分の人生を振り返ってみることにしようか。

2019年1月28日 (月)

魯迅文集

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 昨年の春、中国の江南地区の都市を駆け足で走り回った。寧波、紹興、揚州、無錫、蘇州、そして上海と中国を堪能した。この旅のメインの目的は、紹興で紹興酒を飲む、というものだったが、紹興では魯迅の故居を訪ねたことも大いなるよろこびだった。

 奥野信太郎先生の著作集を眺めていたら、魯迅が北京に暮らしていたときの、胡同の行き止まりにあったという故居の話が書かれていた。

 中国人にとっての魯迅は、日本人にとっての夏目漱石のような位置づけだ、と紹興のガイドが言っていた。とてもわかりやすいたとえだけれど、実はずいぶん違う。魯迅の『吶喊』という初期の小説集は、高橋和巳の訳と、竹内好の訳したものの二通りを読んでいる。

 ちくま文庫に『魯迅文集』として、魯迅の小説や評論が全六巻に収められている。わたしはその第一巻だけを所持している。無性にその全六巻がほしくなって、アマゾンで検索したら、第二巻以外はすべてすぐに手にはいるようだ。さっそく手配した。第二巻は別のところで手に入れることにしよう。評論や随筆を読むのを楽しみにしている。

 これで奥野信太郎先生の北京の随筆が別の形で立体的に浮かび上がるだろうと期待している。

ギリギリ

 昨日の酒がまだ抜けきっていない。この数年、必要以上に飲みすぎないよう注意していたので、いささか物足らないところもあった。実はそれでちょうど良いのであるが、昨日は少しだけその箍(たが)を緩めてみた。

 たいへん好い心持ちで、しだいに口は軽くなり、饒舌になり、くどくなっていることを頭の隅で自覚しているのだが、止まらない。日頃独り暮らしで話し相手がいないので、酒そのものの美味さよりも友人と酩酊状態で語り合うことが何よりの快感なのである。仲間たちには迷惑なことであるが、彼等も酩酊しているから良いのだ。

 槽(おけ)から濾布で搾った、その出来たての汲み立てを汲んでもらって飲むのである。この世にこれほど美味いものがあろうかと思う。この美味しさはこの酒蔵の手柄であるのは間違いないけれど、ほかの蔵の絞りたてを飲んでも、味の違いはあるけれど、同様に美味いのである。

 日本酒が苦手だという人も、この絞りたてを飲んだら意見が変わるだろう。そもそも日本酒というのは美味いものなので、どうして調整して瓶詰めした日本酒がまずくなるのか、不思議なことである。ワインは寝かせるだけで、混ぜ物をしたり調整したりしないだろう。日本酒もそのまま飲ませれば良いのにといつも思う。

 この美味しさをお裾分けしたい友人知人がいるので、その人たちに密栓した汲み立てのこの酒を送る。新しく送りたい人が増える。増えたままではふところもつらいので送るのをやめる人もでてくる。楽しみにしていたかもしれないので断腸の思いだが、しかたがない。申し訳ないことである。

 今回の送り先に二人ほど闘病中の人がいる。本人は喜ぶが、家人には迷惑なことに違いない。その結果どうなるのかは相手任せで当方は感知しない。ただわたしの気持ちを送るだけである。

 昨日はぎりぎりのところで粗相もなく、わが家に帰り着いていた。ただ、駅前のコンビニで買ったものだろうか、自分に禁じている間食の菓子などが大量に入った袋がそこにある。誰が買ったものだろう。

2019年1月27日 (日)

夢かうつつか能の世界

本日は友人達と蔵開きで日本酒を飲んだ。

限界を極めようなどとは思わないけれど、ぎりぎりの酩酊を愉しむなどという境地を、久しぶりにさ迷った。

気がついたらわが家にいる。

不思議なことにテレビで『卒塔婆小町』という能を観ていた。

生きてあることの過去と現世の境目に踏み込んでいた。


映画『アウトサイダーズ』2017年アメリカ・イギリス

監督アダム・スミス、出演マイケル・ファスベンダー、ブレンダン・グリーソンほか

 アウトサイドとは外側という意味だが、アウトサイダーとなるといわゆる社会のルールの外側にいる人をさす場合がある。アウトサイダーズと複数であるから、そういう無法者の集団のことをここでは指している。

 解説によれば、アイリッシュ・トラヴェラーと呼ばれるらしいが、一族でトレーラーハウスに巣を構えた集団のリーダーである父親コルビー(ブレンダン・グリーソン)の生き方に疑問を持ち、群れを離れたいチャド(マイケル・ファスベンダー)が主人公である。

 教育など不要だという父親に育てられたためにチャドは読み書きすらできない。しかし家庭を持ち、子供が学校に行くようになって、子供にはきちんと教育を受けさせたいと思うチャドだが、孫には自分の信念を吹き込む父親の姿に、反発を覚えながらもなかなか逆らうことができない。そうとことん仕込まれてしまっているのだ。

 しだいに離反していくコルビーとチャド、そしてついにチャドは組織から離脱して足を洗うことを決意するのだが、父親から命ぜられたのは地元の有力者宅に押し入っての強奪だった。有能なために、いままでは全く犯罪の痕跡を残さなかったチャドだったが、今回の有力者は警察関係者でもあり、極めて危険な相手だった。

 盗みは成功するが、今回は警察も徹底的にチャドを追求する。その結果、一族そのものの存続も危うい事態に追い込まれていく。どうして父親のコルビーはチャドやその仲間たちにそんな危ない橋を渡らせたのか。そしてかれらはどういう結末を迎えるのか。

 これは徹底的に支配されることを当然と刷り込まれた息子の、親離れの葛藤の物語である。親の方は宗教的な狂信家であり、子離れなど毛筋ほども考慮する人間ではない。自分から離反するなどあってはならない悪なのである。そういう親子の戦いが描かれている。『キャリー』だってそういう映画なのであって、この映画も面白くないことはない。

 そういえば学生時代に観た『バスタード』というジュリアーノ・ジェンマ主演の映画があったが、この映画も無法者の一家の話で、それを束ねるのは母親だった。主人公がその母親のくびきから逃れようとするのだが・・・。うろ覚えだが、これも親子の葛藤だったと記憶している。

新酒会

 本日は毎年恒例の、いわゆる蔵開きに行く。名古屋駅に友人達と集合し、デパ地下でつまみになる総菜料理を買い込み、名鉄でいつもの酒蔵に向かう。いつも混雑するから場所取りをしなければならないので、早めに行く。屋外での酒盛りとなるので、風が当たりにくくて日が射すような、限られた場所を確保したいのである。

 濾布で絞りたての新酒は、高濃度(アルコール度数19~21度)でかすかに炭酸の刺激があり、この世にこれほどうまいものがあろうかと思うほどうまい。

 毎年来ているのに、事情があって今年参加できない友や、今年初参加をエントリーしていた若い友人も参加できなくなったのが残念だが、毎年続く行事なので来年を楽しみとする。顔ぶれも少しずつ変わるのである。

 昔は自分の酒量の限界を超えて失敗することがあった(何度もあった)が、最近はある程度自重している。飲み足りないから、名古屋に戻って二次会で再度盛り上がるほどである。

 本日の夜の分のブログは、もし書いたとしても泥酔状態のときのものなので、事前に言い訳しておく。あらぬことを書かねば良いが。

2019年1月26日 (土)

横取り症

 池内紀『すごいトシヨリBOOK』に、老化早見表という文章がある。老化の症状を、カテゴリー3からカテゴリー1までの三段階に分けている。3が軽度で、1が重度である。

カテゴリー3 失名症、横取り症、同一志向症、整理整頓症、せかせか症、過去すり替え症

カテゴリー2 年齢執着症、ベラベラ症、失語症、指図分裂症、過去捏造症、記憶脱落症

カテゴリー1 忘却忘却症

 個別の症状の詳細は面白いからこの本を読んで欲しい。わたしはカテゴリー3から2に移行中というところらしく思われる。さいわいカテゴリー1にはまだ至っていないと思う。そう思えることこそがその証拠である。

 その中の横取り症が特に気にいった。自分を笑うためである。会話しているときに、相手のことばが終わるのが待ちきれずに割り込んでしまう。たいへん不作法なことで、相手に失礼なことなのだが、相手のことばから自分が感じたり考えたことを、相手を遮ってまで言いたくてならなくなる。

 黙っているのが我慢できないこともあるし、今言わないとすぐ忘れてしまうという心配(こちらの理由のほうが大きい)もある。それに相手の話がつぎに展開してしまうと、言いたいことと離れてしまうのもチャンスを失うようで堪えられない。

 ひとのはなしが最後まできけない日本人は多い。テレビを観ていると、そういう人ばかりが登場する。横取り症はこうして感染しているのだろうか。欧米ではそれはたいへん嫌われることで、幼少時から相手の話を聞くことを教育されると言うが本当か。ディベートの国々ではないのか。かの国々では最後まで聞いた上での反論がマナーだそうだ。

 わたしはもともと横取り症気味だったのが、このごろ悪化しつつあるのを自覚している。自覚しながらセーブできないのはまことに心配である。なおかつ興に乗ると過去捏造症がちらちらと現れるようになった。これはカテゴリー2である。

 余談だが、どこかの国では、この過去捏造症が過去捏造病に進行しているらしく見える。これは老化か。さらに進行して忘却忘却症に移行するところなのか。

映画『スカイライン 征服』2010年アメリカ

監督グレッグ・ストラウス、コリン・ストラウス、出演エリック・バルフォー、スコッティ・トンプソンほか

 ロサンゼルスに住む親友テリーのパーティに呼ばれたジャロッドとその恋人エレイン(スコッティ・トンプソン)は、パーティの翌朝、テリーの高層マンションの部屋で目を覚まし、ブラインドから異様に強烈な光が洩れていることに気付く。

 その光をまともに見た人間は、つぎつぎに窓外に吸い出され、巨大で異様な異星人の宇宙船に取り込まれていく。辛くも逃れたジャレッドとエレインだったが、異星人はさらに徹底的に人間狩りを進めていく。

 圧倒的な能力と戦力を持った異星人に一般市民は抗する術がないが、やがて空軍などの軍隊が再編成されて反撃を開始する。

 ほとんど映画はジャレッドとエレインの視点、マンション周辺での人間と異星人との戦いの様子で終始していく。絶望的なその戦いにほかの異星人襲撃の映画のような画期的な反撃策などない。その攻防の三日間ほどが描かれたあと、生き延びた二人もついに・・・。

 ラストの異星人の空中戦艦の艦底に蠢くドロドロしたものこそ、とりこまれた人々のなれの果てのようだ。グチャグチャベトベトしたその気味悪さはおぞましい。ダン・シモンズの『カーリーの歌』という、インドが舞台のモダンホラーが描いた世界を思い出した。奪われた赤ん坊を追ってインドの闇の底を走り回る主人公が体験する恐怖の物語で、これは皮膚感覚に溢れる傑作小説だ。

 ドロドロの暗闇の中から立ち上がり、咆哮するものはなにか?

 続編がつくられるらしい。

またやってしまった

 新刊が出れば必ず買う人の本というのがある。たとえば養老孟司、内田樹、曽野綾子、池内紀、ハードボイルド三人衆の北方謙三、大沢在昌、馳星周等々、さらに特定のシリーズに限ってそれが終わるまでは買うことにしているもの、また中国関連の本などは目につくと買ってしまうことが多い。実はもっともっとたくさんあって、本棚にそれがあると、余さず目に飛び込んでくる。

 これらの本はほぼ必ず読了するので、ただの「積ん読」になることはないから無駄にならないのだが、たくさん読んでいる分、本の書名をすべて記憶し切れていない。だから、ときに同じ本を購入してしまうことがある。それが以前は年に一回あるかないかだったのに、しだいに頻度が上がりだしている。これはわたしの老化もあるし、手を広げすぎているせいでもある。

 読書する時間は十分にある。しかし持ち時間を考えると、読めるときにもっと読もうという焦りもある。自分の読書能力を過大評価しすぎているともいえるが、「本を買ってしまう病」が進行しているせいでもあるようだ。

 それにしても、ついうっかりするのは、それらの本が平積みになっていることによる場合が多い気がする。平積みの本は新刊であると思い込んでいるので、躊躇なく手に取ってしまう。中身を確認したり、奥付きを見れば良いのに、新刊だと思い込んでいるから確認を怠るのである。

 そういう心理に最も詳しいのは本屋である。新刊ではないのに平積みにするのは、そういう錯覚を狙ってのことで、同じ本を買わせようとしているのではないか、などとつい同じ本を買ってしまった責任を本屋のせいにしたりしている。

 自分の間違いだから、本屋に返品したりしたことはないし、これからもしない。これからは平積みの本も奥付きを確認することにしよう。もしや?と感じたときは買わずに一度家で本棚を見直すことにしよう。

2019年1月25日 (金)

高橋洋一・門田隆将『日本を覆うドリーマーたちの「自己陶酔」』(WAC)

 高橋洋一氏は、人をドリーマーとリアリストに大別する。いまマスコミ、ジャーナリストの多くが観念論に支配されたドリーマーであるなかで、自称リアリストである二人が、リアリストから見た現実世界を語る。リアリストとは根拠のあることを根拠をもとに、そこから推定したことは推定したと明らかにして語る人のことである。

 わたしは自分が観念論者かもしれないと自覚しつつ、リアリストでありたいと願う人間である。だから自称リアリストが語ったことだからといって、そのことばを鵜呑みにしてそれを受け売りしないようにしたいと思う。すべて自分が呑み込んだ上で、自分のザル頭で考えて、自分のことばにして語ろうと意識はしている。受け売りは受け売りですよ、と明記してブログに書くようにしているつもりである。それが意識してできるようになったのは最近だが。

 冒頭が「新潮45」という雑誌の廃刊の顛末についての門田隆将の悲憤である。新潮社は彼が独立する前に在籍していた会社である。ここにマスコミの劣化の象徴を見るという点では高橋洋一氏も賛同するが、新潮社がすでに「新潮45」を廃刊するつもりがあってのことではないか、とクールに門田氏をいなしている。

 次に話題になるのは、当然と言えば当然のことだが、朝日新聞である。若者がいわゆる保守を支持する傾向があると嘆くマスコミの先頭にいるのが朝日新聞だが、橘玲氏の意見によれば、保守とは現状変更に抵抗する勢力で、現状を変革しようとする者を革新と考えるのが自然であり、若者が、ことごとく変革に反対する野党勢力を保守と見做すのは当然で、彼等はまさに若者の本性である変化を望んでいるのであり、革新勢力である自民党安倍政権を消極的ながらも指示することになるのである。

 その上少なくとも若者の雇用はアメリカと同様に確保されていて、そもそもバブル時代を知らない世代だから、自分が貧しいという自覚は上の世代より少ない。不景気だと考えるのは好景気だった過去を基準にしているからで、いまがふつうを考えれば自分が不遇だと思わない。実際に若者はわれわれから見れば意外につましい。

 マスコミは例外的に不遇である人の嘆きばかりを取りあげて、日本人の多くがそんな風に貧困にあえいでいるかのようなプロパガンダを繰り返しているが、そんなペテンはすでに若者の多くにはお見通しなのである。だから若者は新聞など読まない。そしてテレビも見なくなっていることは周知の事実である。朝日新聞に代表されるマスコミに煽動されるのは、いまだに新聞を購読し続け、テレビの言うことを真実と受けとめて影響を受け続けている高齢者ばかりなのである。

 朝日新聞の押し紙問題が話題になって久しいが、ここで高橋洋一氏が強烈な事実の開示を行う。朝日新聞が「犬のおしっこマット」だというその中味はこの本を読んで確認してほしい。つい笑ってしまう。

 次の話題はオウム事件について。ここで警察の怠慢が事件の解決を遅らせたと門田氏が語っているが、当時からわたしも強くそう感じていたことなので、あらためて義憤を覚えた。そしてTBSのリークによって、子供二人を含む、弁護士の坂本一家四人の殺害が起こったことは明白だとの指摘にも強く同意する。そのときにオウムが事件に関与した証拠が現場に歴然と残されていたのに、神奈川県警は漫然と放置したのだ。

 ほかにも憲法問題、官僚の劣化問題とそこから派生しているモリカケ問題(文科省や厚生労働省の問題も同根だろう)、内閣府などにたむろする官邸詰めの記者クラブの問題などが語られているが、あまりに長くなるし、全部書いたら営業妨害になってしまうからここで打ち止めとする。

 蛇足ながら、文科省の天下り問題(法律に違反する行為をしていたのである)で官を追われた前川某について、かなり手厳しい。わたしも全く同感なのでいささか溜飲を下げることができた。こういう輩をマスコミはしばしば呼んできて語らせる。見識の無いことおびただしいし、彼とマスコミはグルに見える。反安倍なら正義で、法の違反者を正しい人のように見せるのはおかしいだろう。

映画『タイムトラベラー』2017年アメリカ

監督ディエゴ・ハリヴィス、出演リンジー・フォンセカ、リンダ・ハミルトンほか

 時間移動の物語はタイムパラドックスの罠から逃れることができない。たいていは都合良く回避したりして見せて物語が展開するが、この映画ではそんな面倒をかけず、現在と未来に二人の自分がいるという設定で話が進んでいく。

 タイムマシンの研究に打ち込んでいた夫が突然自殺してしまう。その悲しみに打ちひしがれている妻(リンジー・フォンセカ)のもとに突然電話がある。「すぐ逃げろ」と警告を発するその声に戸惑う彼女の自宅に謎の男が侵入する。かろうじてその男から逃れた彼女は電話の声に助けられながら、なにが起ころうとしているのか、真相を究明する行動に出る。そして謎の声の主が自分自身であること、この事態に夫の研究していたタイムマシンが関係していることを悟る。

 堅固に護られた研究所へ侵入し、タイムマシンにいたろうとする彼女が見たもの、知ったものはなにか、どんなことが進行しているのか、それを彼女はどうしようとするのか、彼女の行動を彼女自身が助けるという不思議な物語である。

 さらに彼女を助ける脇役としてリンダ・ハミルトンが出演しているのが楽しい。わたしは『ターミネーター』以来久しぶりである。時間移動してきたマイケル・ビーンやターミネーターを相手にしていた彼女は、ここでも時間移動をする機会がないのは残念である。

 わたしの理解力不足で、物語の説明全体が腑に落ちず、残念ながら手放しで面白かったとはいいがたい映画であった。

 蛇足ながら、時間移動は物理学的にあり得ないことは自明である。物質やエネルギーは保存されることになっているのがこの世界で、時間移動してしまうとそれが崩れてしまうのである。だから時間移動が成立するのはブラックホールやホワイトホールのような、事象の地平である物理学的特異点でしかあり得ず、そんなところに人間は存在することができない。

もののけ

 物が歳古る(経る、歴る)と物の怪になるという。むかしの妖怪を描いた絵などにもそんな物の怪を見ることができる。それは万物に霊性を見るという日本人に特有なものなのかも知れない。西洋やイスラム世界では、魂を持っているのは人間に限るとされているように聞く。

 もちろん物を粗末にしてはいけないという教訓的な意味が物の怪の話に込められているという意見もその通りなのだろうが、物を大事にしないと可哀想という心性は、そういう教訓から身についたというよりも、もともと日本人の根底に備わっているもののような気がする。

 断捨離がなかなかうまくいかないのは、物欲というよりもそんな心性が邪魔するからかもしれない。それこそがある意味での物の怪の仕業かもしれない。

 ゴミ屋敷の報道をときどき目にする。想像を絶する光景で、近所の迷惑はいかばかりかと思うが、しかしゴミ屋敷の住人はその生活が快適なのだろうか。そんなはずがないのにゴミに埋もれ、さらにそこら中からゴミを集め続けて巣に運び込んでいる。まさに物の怪に取り憑かれ、本人がすでにもののけに変化(へんげ)したかのようだ。

 歳をとるとあるべき物がそこになかったり、あるはずのないところに物があって躓いたり、踏みこえられると思ったものに足を引っかけたりする。それは加齢による身体の衰え、記憶の衰えによると悲観的に考えるけれど、池内紀センセーは、それは物の怪によるものなのだと考えることにしているそうだ。

 人は生き物という物でもあるから、歳古ると物の怪に近づくのだろうか。しからば、さまざまな物どもはその年寄りに親しみを覚え、戯れかけ、いたづらを仕掛けるのであろう。思い出すと、そうとしか思えないようなことばかりだったようにも見えてくる。

 私ももののけになりつつあるようだ。

2019年1月24日 (木)

「積弊の清算」の積弊、の清算がやがてやってくる

 韓国で大法院長官(最高裁の裁判長)に対する逮捕請求が繰り返し提出されている。これは「前政権(朴槿恵政権)の積弊」の清算の一つだといわれる。何と、そう思っていたら、今日ついに本当に逮捕されたという。

 朴槿恵政権が行ったり、行おうとしていたことはすべて「積弊」として否定される。それが韓国の正義として容認され、支持されているように見える。

 こうして「積弊の清算」という名目のもとに過去に決まったこと、決められたことが遡って悪として糾弾される。悪なのであるから、異論を言うことは悪に加担する存在として社会的に激しい批判にさらされる(おそれがある)。

 知的人間は、悪いことをする人間が、ときに善いこともすることを知っている。許されない悪いことをした人間だから、その人間のしてきたことは問答無用にすべて悪いことだった、などと決めつけたりしない。人間とはそういうもので、善い人間ですらときに悪もしでかすことくらい自分を見れば分かるはずで、それがわからないのは愚かとしか思えない。

 韓国はそれが理解できないかのようだ。悪はただひたすら悪で、正義は常に絶対的に正義だと考えるのは、世界を単純に捉えることでとても楽な生き方だが、必ず矛盾を見ることになっていく。

 文在寅政権はその矛盾のなかにいる。積弊の清算という正義の旗印の下に、慰安婦合意という国どうしの約束を反故にし、ついには日韓関係の基盤となる協定まで否定しつつある。どんな嘘や言いがかりもその正義のためなら正当化される。

 思い出すのは中国で吹き荒れた「造反有理」の狂気だ。いま韓国は全くその狂気の政権に支配され、それに加担した者たちに一部とはいえ踊らされているかのようである。

 しかし見るが良い。政権は必ず交替する。そのとき「積弊の清算」の積弊、は次政権によって清算されるに違いない。こうして韓国の大統領はつぎつぎに粛清されていく。あの国の宿痾であるかのようだ。


 その宿痾を治療できるのは、外部からの薬や手術では決してない(それは韓国の歴史が証明している)。自らが事実を見直してそれを自覚し、自らが変わらなければならないが、歴史を見るまでもなく、世界中で起きている事実を見れば、それがどれだけ困難なことか悲観的になる。それは田嶋陽子女史を説得するよりもはるかに難しい。

映画『セル』2016年アメリカ

監督トッド・ウィリアムス、出演ジョン・キューザック、サミュエル・L・ジャクソンほか

 原作はスティーヴン・キング。携帯を通して人々がつぎつぎに凶暴化していく。ゾンビのようになってしまうのだ。たまたま助かった人たちもその凶暴化した人々に襲われて命を落としていく。やむを得ず家族を殺さざるを得なかった人や絶望して自暴自棄になる人もいる。

 たまたま携帯で家族と電話中に、電池の充電切れで助かったクレイ(ジョン・キューザック)は、惨状を目の当たりにしながら辛くも暴徒の群れから逃げ去ることに成功する。その逃避行と家族の安否を尋ねるための行動、そして生き残った人と暴徒との凄惨な戦いが描かれる。宗教狂信者が暴徒を大量虐殺するシーンは、目を背けたくなる。どちらがまともな人間なのかわからなくさせてくれる。

 なぜそんなことが起こったのか、そして彼は家族に再会できるのか。生き延びられるのか。

 ラストは二通り、希望と絶望の両方が同時に呈示されていて、どう解釈するかは観ている人にゆだねられる。絶望の方のジョン・キューザックの姿が切ない。

 それにしても人は携帯にここまで支配されているのか、という思いを禁じ得ない。それを風刺したくてキングはこの物語を書いたのだろう。いわでもがなだが・・・。

早めに床について

 歯が痛かったりしたので、このところ酒は少しだけしか飲まなかった。というより飲む元気がないし、飲んでもあまりおいしくない。ようやく痛みがだいぶ治まったので、昨晩は少しつまみも増やし、ちょっだけ余分に飲んだら、九時前にこたつでうたたねしてしまった。


 風邪をひいてもいけないので、あわてて床に入った。就寝前の音楽として、上原ひろみのジャズピアノを聞いていたら、とりとめもないことが脳裏をよぎっていく。このところ本よりも映画を集中的に観ていて、ブログに書きたい映画がたくさんたまっているが、その中の『リメンバー・ミー』というアニメ映画のことが思い返されていた。

 この映画のテーマは先祖ということである。先祖がいて自分がいるということは当たり前の事実でありながら、人はすぐそれを忘れる。『リメンバー・ミー』というアニメ映画はそれを子供にもわかるように、感動的に、しかも楽しく愉快に思い出させてくれる映画で、この映画のことは後で詳しく語ろうと思う。

 この映画では先祖の写真が重要なアイテムとなる。そこで考えたのは、イスラムの人々は先祖についてどう思っているのか、ということだった。昨年秋にウズベキスタンに行った。ウズベキスタンは多くがイスラムを信じる人々である。首都のタシケントに日本人墓地があるが、周りはイスラムの人々の墓地である。それらの墓には、はやりだということで、故人の写真が墓石に彫り込まれていた。

 ウズベキスタンではアルコールも自由だったし、あまり一般的なイスラムとは違うような気もする。偶像崇拝を嫌うイスラムで写真はどうとらえられているのだろうか。イスラムでは家族の写真や個人の肖像写真などは家庭内に飾られているのだろうか。厳格に肖像そのものを否定しそうなイスラムの、先祖を思い出すよすがとしての写真はどう扱われているのだろうか。

 わたしは昨年から両親の写真を写真たてに入れてテレビの横に置くようにした。めったに目をやらないけれど、それでもいつでもそこにあり、両親はそこにいる。

 もっといろんなことを取り留めもなく考えたのだが、朝起きたらこのくらいしか覚えていなかった。

2019年1月23日 (水)

映画『萌の朱雀』1997年・日本

監督・河瀬直美、出演・國村隼、尾野真千子ほか

 いつ観ようかと楽しみにしていた映画である。映画はわたしの期待を裏切らなかった。

 河瀬直美が脚本も書いていて、彼女はこの映画でカンヌ映画祭の新人監督賞を受賞した。ロケハンで訪れたときに、たまたま見かけた地元の中学生に声をかけて、主演に抜擢したのが尾野真千子である。

 映画は奈良県の山間地での、ある一家の生活を淡々と綴っていく。台詞は全く演技的ではなく、ふつうの家庭の日常で語られるようなぼそぼそしたものだ。当然聞き取りにくいこともあるが、映像を観ていれば会話が理解できないことはない。

 ナレーションや説明的な会話が一切無いので、当たり前のようでいて、実は複雑な家族関係が最初はよくわからないし、みちる(尾野真千子)が幼女の時代と少女になってからの時代が、何の前触れもなく突然切り替わるので、同じ家族であることを一瞬見失う。

 その間に家族になにがあったのか、そしてある事件が起こるが、それがどういう理由で起こるのかもしっかりと映画を観ていないとわからない。それでも分からないところは自分で解釈していくしかない。却ってそれが面白くもあり、深く映画にのめり込むことにつながる。

 映画は淡々と進行し、最後まで淡々と、そして静かに終了する。そして忘れられない映画として記憶に残る。尾野真千子の自然な演技が好い。もちろん自然な演技しかできなかったのだろうが、素人はときに意識しすぎて失敗するものだが、彼女の地なのだろう。

 前半は一家の主である孝三(國村隼)の視点から見た、衰退して過疎化していく山間部の村という世界を、彼の眼とこころを感じることで映画が進行していく。

 後半は、少女が見ている世界を、自然にわたしもその少女の眼とこころで見ていた。そう見せられ、感じさせられる映画なのだ。あまりない経験であるから面白い。

映画『15時17分、パリ行き』2018年アメリカ

監督クリント・イーストウッド、出演スペンサー・ストーン、アンソニー・サドラー、アレク・スカラトスほか

 この映画はWOWOWの『W座からの紹介状』で紹介されて観た。そこで初めて監督がクリント・イーストウッドであること、そしてこの映画が実話の再現であり、登場人物は可能な限りこの事件の当事者を集めたものであることを教えられた。出演者として名前を挙げた三人はもちろん本人として登場している。自分で自分を演じているが、違和感がないのは本人の手柄というよりも監督の手腕だろう。意欲的な実験作とでもいおうか。

 事件というのは、アムステルダムからパリに向かうタリス鉄道内で起きたイスラム過激派の青年による銃の乱射事件のことである。タリス鉄道とはフランス、ベルギー、オランダ、ドイツを結ぶ高速鉄道をいう。この事件を大量殺戮にすることなく、犯人を制圧した勇敢な人々の物語なのだ。犯人が単独であったことが幸いであったとはいえ、AK-47などの銃を所持していたので大惨事になる可能性が大きかったのだ。

 まず犯人がトイレにこもったことを不審だと気付いた乗客がいたこと、アフガニスタンなどで従軍経験のあるアメリカ人が友人と三人で休暇旅行で乗り合わせていて、かれらが主体となって犯人を取り押さえることに成功している。実は乗務員は事件に気がつくと乗務員室に逃げこんで、中から鍵をかけてしまったらしいが、映画ではそれは描かれていない。

 映画ではそのアメリカ人の子供時代の交遊の様子から描かれていき、前半部はその三人が成人していくまで、そして今回のヨーロッパ旅行の様子が延々と描かれていて、ドキュメントのようである。『W座への招待』でも、何なんだこの映画はと最初思いますよ、と言っていた意味がよくわかる。

 そして突然の事件との遭遇から一気に緊迫した物語に展開していく。観客はいやでも臨場感のようなものに引きずり込まれていく。自分がその列車に乗り合わせて生命の危険に直面しているような気にさせられるのである。

夫婦の旅行

 池内紀『すごいトシヨリBOOK』のなかに、老後の夫婦で出掛ける旅行(氏は旅と書いているが、夫婦の旅はたいてい旅行である)に否定的な文章がある。老後の夫婦はふだんから二人だけで顔を突き合わせていて、会話もあまりない場合が多い。まあ、会話が必要ないくらい互いの気持ちがわかっていることでもあろうが。それを敢えて旅行にまで一緒に出掛けては日常の延長であり、面白くないのではないかというのだ。

 定年退職した男性の多くが、リタイアしたら夫婦で旅行に行くことを楽しみにしているという。ところが妻の方は旦那と行くよりも友達との気楽な旅行の方が好いと思っているそうだ。たいてい旦那は日常を旅先にも延長させ、身の廻りのことを妻にやらせるのを当然と思っている。旅行に来ているのに、それではゆっくりできないと妻は考える。それはそうだろう。

 わたしには連れて行くべきつれあいがいないから、友人と出かけるか独り旅である。独り旅だと暇だから、宿の食事のときなどはきょろきょろとあたりを見まわして愉しんでいる。ウイークデイの宿泊客はほとんどが高齢者で、夫婦連れが多い。旦那が一方的に偉そうにしゃべり続けているのや、一々なにか妻に注文をつけているのをよく見かける。まさに日常の延長風景なのだろう。あからさまに、俺がお前を旅行に連れてやってきたのだ、という態度が見えている。

 ああいう旦那は嫁さんが病気になったり亡くなったりしたら、自分のことがちゃんとできるのかしらん、と心配になる。それが結果的に嫁さんの永年の忍従の復讐になるのかもしれない、などとほくそ笑む。

 多分そういう風景はしだいに見られなくなるだろう。夫にそんな態度をされることを甘んじる妻など、しだいにいなくなっている。反対に、大声で旦那に注文をつけている妻の姿を見かける回数が増えている気がする。人間は自分が主導権をとろうとするのが本能なのか。

 もちろん夫婦仲良く語り合っていて、うらやましくもあり、バカバカしくもなるようなのもある。世の中には奇跡がないことはないのだ。

2019年1月22日 (火)

池内紀『すごいトシヨリBOOK』(毎日新聞出版)

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 この変わった表題は、著者が自分の老化について観察し、考察し、思い至ったさまざまなことをメモ書きするためのノートの表紙につけた、実際の題名をそのまま用いたものだ。

 著者の池内紀氏はドイツ文学者で、ドイツに関する本を始め、紀行文や随筆をたくさん書いている。軽妙でユーモアに富んだその文章が好きで、いつしか棚には彼の本がけっこう列んでいる。読み飛ばして読み終わったら処分するような本ではなく、再読三読するに足る含蓄のある文章なのである。

 氏はわたしより10歳年上だからすでに後期高齢者であるが、もともと山登りが趣味であったからか、健康そのもので若々しい。そういえば、老後とは人生の下り坂、というが、下り坂は登り坂より楽でないことはない。

 氏の旅は独り旅が多い。その点がわたしの共感するところだ。確か氏の独り旅の勧めについて書いた本を読んで意を強くした覚えがある。その本が氏との出会いだった。

 副題が「トシをとると楽しみがふえる」とある。本当に増えるかどうかは、もちろん自分の考え方によるもので、そのように考えるためのヒントが山盛りに盛り込まれている。加齢によって自分の思い通りにならないことが増えるのに、どうして楽しめるのか。何ごとも気の持ちようなのである。言ってしまえば簡単なことだが、気をそのように持つためには知性を必要とする。

 自分を内面からばかりではなく、外側から見る力を知性というのだろう。自分を客観的に見ると諧謔味が生ずる。諧謔的になると巧まずしてユーモアが生ずるようだ。この本も、ときどき開き直したくなる本として座右に置くことにしよう。

映画『グレートウォール』2016年中国・アメリカ

監督チャン・イーモウ、出演マット・デイモン、ジン・ティエン、ウィレム・デフォー、アンディ・ラウほか

 グレートウォールというのは万里の長城のこと。

 制作費1億3500万ドルという巨額の制作費、そして有名な俳優がたくさん出演した映画なのに、評価はあまり高くなかったようである。私は単純に楽しめたから肯定的である。

 根拠はないが、チャン・イーモウは『ロード・オブ・ザ・リング』のような映画を作ってみたかったのではないだろうか。得体の知れない無数の(本当にもう数知れない大量の)怪獣たちが万里の長城めがけて殺到してくる。

 こんな映画はなにも考えずに楽しめば好いのだ。なぜ中国の危機を白人が救うのか、などという批判はバカらしい。マット・デイモンが格好良いから好いのである。超人的で好いのである。

 チャン・イーモウの色彩溢れる映像、それに合わせた衣装、迫力ある特撮、好いではないか。

 怪物を饕餮(とうてつ)と呼んでいた。饕餮とは古代中国の青銅器などに彫り込まれた怪獣である。想像上の存在だと思われるから、それがどんな恰好で描かれても好いのである。それにしても映画の長城はあまりにも巨大すぎるけれど・・・。これは現物を何度も見ているので言いたくなる。

 怪物のすごさ、恐ろしさは『ベルセルク』の方がずっとすごいけれどね。

誤信号なのか

 痛みは身体の異常の信号だとふつうは思う。だから痛いところがあれば、そこの具合が悪いと考える。そういうわけで歯が痛いから歯医者に行って、処置したのに痛みが治まらない。まだ痛いと言っても具合が悪いところはないという。痛みは気のせいでいまに治まるという。しかたがないから我慢していたが、痛みで夜も眠れなかった。

 それが土曜日のことで、日曜日になったら痛みは少し減り、我慢が多少楽になった。更にその晩は眠るのに差し支えないくらいになり、月曜日には時々歯のことを忘れることが出来る程度になった。痛みが続くようなら再度歯医者に行くつもりだったが、行かずにすんだ。歯の違和感と軽い痛みは残っている。

 歯医者の言った通り、気のせいだったのか。歯の痛みという信号は、異常がないのに発せられた誤信号だったのか。テレビで見ていると、腰痛や頭痛などには実際に異常がないのに激しい苦痛が起こることがあるという。本人は苦痛に堪えかねて医師を渡り歩くが、いくら検査をしても原因がつかめないという。そんなこともあるのだなあと見ていたが、まさか自分もそういう体験をするとは思わなかった。

 それでもそう言う痛みが続いて苦しんでいる人と違って、わたしの場合は三日で生活に支障が無い程度に軽減した。とにかく楽になってほっとしている。ただ、痛みで歯全体が歪んだような違和感が残っている。噛み合わせが狂ったのか、狂ったように感じているのか。それが身体全体に影響して肩や首や腰に変な凝りがでている。一時的には頭痛もあった。これは頭が痛いのか首が痛いのかよくわからない。

 痛みという信号を身体が発したのには理由があるはずである。いったい何だったのだろう。韓国の駆逐艦はどうしてあり得ない管制レーダーを日本の哨戒機に向けて発したのだろう。

2019年1月21日 (月)

不思議なこと

 中国の昨年のGDPの伸び率の速報値が、6.6%だったと報じられた。もともと中国の統計値は信用できないと中国の経済学者すら認めているくらいだから、どこまで本当か分からないにしても、それでもずいぶん低いことは間違いない。

 なにが不思議かといえば、その発表があったあとの今日の上海の株価が下がるどころか上がっていることである。市場がそんなものだろうとすでに織り込み済みで驚くに値しないということなのか、そもそもそんな統計値など関係が無いということなのか、それとも中国政府が介入して株価の維持を操作しているか、である。

 ここで大幅に株価が下がると、雪崩を打って連鎖反応が起こるおそれがあるから、当局の関与があるのではないか、とわたしなどは勘ぐっている。株価は信用できないとはいえ統計値に連動するはずなのに、説明がつかないではないか。

 中国の経済は12月に大幅にブレーキがかかって数字が下振れしているが、果たして1月の統計はどうなのか。アメリカのトランプ大統領の顔を立てて、輸出の黒字を大幅に減少させれば外貨の減少につながる。なにしろ世界中に大盤振る舞いをしているが、いくら高利の金だといっても借金が払えそうもない国に貸しだしているのだから、返してもらえない可能性が大きいのである。高利貸しも取り立てができてこその商売なのだ。

 厚労省の統計値がまたインチキをしていたと報じられているが、それに対する怒りのボルテージが低すぎるように感じられて不思議である。なにしろ800億円もの金を新たに捻出しなければならなくなったことの責任に対して、みな鈍感である。

 これは統計値の不正について説明を聞いても数字の話で理解できないか、する気がないからのようだ。それほど難しい話ではないのに数学となるとたちまち聞く耳持たぬようになるのはあまりにも愚かしい。

 そもそもの日本人の給与の数字が違えば、景気が上向いているのに実質賃金が上がっていないという野党などの非難は根拠を失うのである。計算し直せば多分平均賃金は上がるらしいのである。

 問題は、東京都の500人以上の企業の全数調査が法令できまっているのに、三分の一の調査で済ませていたことで、しかしその三分の一が全体の趨勢をきちんと反映していれば、統計にはそれほど誤差が生ずることはないはずなのだ。ところが違いが生じているということは、明らかに意図的に抽出企業に偏りがあるからだろう。それがどういう意図であったのか、誰の指示かを明らかにして、法令違反の責任をとらせるのは当然である。

 政治家とマスコミは数字にとてつもなく弱い。だから役人にごまかされる。今回は与野党とマスコミ挙げて厚労省の膿を出すべきだと思うが、テレビのバラエティニュースを見ているとあまりに軽い扱いのようだ。

与えられた役割を踏みこえた?

『そこまでやって委員会』という日曜日午後の番組があって、テーマが面白そうなときだけ録画しておいて観る。録画するのはCMを飛ばすためである。この番組は東京エリアだけ放送していないはずである。東京エリアはきまじめで、この番組を受けとめる度量がないと判断されているようだ。

 この番組に時々田嶋陽子女史が出る。番組はどちらかというと保守派そして右派の色合いが強いので、彼女はそれに強硬に反対意見を述べるリベラル派的な色物の役割である。役割に徹して暴論を述べるのだが、いちおう許容範囲にうまく収まっている。

 昨日は日韓関係、そして韓国の国内の実情などが取りあげられ、ひな壇のコメンテーターがさまざまな意見を語っていた。いつもの光景なのだが、今回の田嶋陽子女史の暴走はいささか常軌を逸し、明かな事実すら無視して喚き散らしていた。平和を愛するリベラル派とはこれほど無知で戦闘的なのか、とあらためて呆れて眺めていた。

 わたしの予想では、彼女の出番はこれから当分ないか、二度と無いだろう。それほどひどかった。これでは自分の色物としての役割を逸脱しすぎで、観ている人に不快感だけしか与えなかったと思われる。それとも読売放送は平然と彼女を使い続けるのだろうか。それなら関西畏るべし。

養老孟司『猫も老人も、役立たずでけっこう』(河出書房新社)・つづき

 この本には愛猫「まる」の写真が満載で、それを見ているだけで楽しめる。

「個性」を伸ばせ、などと盛んにいわれているが、師は懐疑的である。「個性」の意味をはき違えていると考えている。個性は他人との違いである。しかし巷で言われている個性とは、頭で考えられたもの、精神的傾向の違いのことを主にいうが、そもそもは身体的な違いのことではないか、と語る。その理路は師の本をよく読まないと分かりにくいかも知れないが、師の本を読み続けているわたしにはとても良くわかる。今いわれている「個性」は、さまざまなことの言い訳のための道具に堕している。    
 師は、大学時代の恩師の「人のこころがわかるこころを教養という」ということばを胸に深くとどめているという。ものをどれだけ知っているかではなく、人の気持ちが理解できることの方が大切だ、という師の言葉は、わたしもこの歳になってようやくわかってきた。

本文から
「いまの人たちは、何でもすぐに説明してもらおうとするでしょう。「どうしてですか?どうしたらいいですか?」って。聞かれるたびに「バカ!」って叱るんです。「そんなことは自分で考えろ!」って。そういう、何でも説明を求めたがる傾向って、メディアで特に強いと思いますね」。

 このあとに、殺人事件があったら、どうしてこうなったのか、とあれこれいうことを取りあげて、そんなものは本当のところはわからないのがふつうだろう、と切って捨てます。理窟は後付けである、という当たり前のことが忘れられて、何でも説明がつくはずで、説明がつくまで問い続ける、そんなのは無意味だという。同感だ。「動機」というのが明らかにならないと、裁判にも持ち込めないらしいが、いまどき動機が理解不能な事件だらけなのにと私も感じている。先日読んだ高村薫の「冷血(上・下)」は、まさにこのことを問い続けた小説だった。

 それはそれとして、自分で考えずに人の受け売りで自分の考えにしている人の何と多いことか。安直な説明を鵜呑みにする、説明が足らないと放り出す。思考するのをサボっている。そういう自分も気をつけないといけないと思う。

 そういう意味の説明ばかりを求める風潮というのは、同時に、意味の無いものは必要ないという共通認識があるということである。あの相模原の障害者施設での大量殺人事件では、犯人が「人の世話になるだけで役に立たない人間に何の意味があるんだ」というのが動機だった。

 実は誰もが内心、そういえばそうだな、と肯くところがあったのではないか。意味を求め、意味が無いものを否定する恐ろしい世の中だと思う。実は世の中は意味の無いもので満ちている、というのが師の持論である。人間から見れば、特に自然はそうである。その無意味をひたすら排除することで都会は成り立っている。

 現代人はなにを見失い、なにを喪失してしまったのか。猫のまるはそれを思い起こさせてくれるようである。わたしも猫が飼いたいなあ。

2019年1月20日 (日)

ようやく

 大震災による原発事故の報道で、政府を代表して、汗をふきふき事態の混乱に一生懸命対処していた枝野さんに好感をもっていた。ところが実はすべて良くわかっていて、知らずに振り回されていると見せたのは演技であったことに、あとで気付かされた。菅直人首相と共に、民主党の情報統制の主犯であったらしい。国民をバカにした(正しい情報を知らせると、国民は愚かだからなにをしでかすかわからない、賢いわれわれが対処するから、教えないことにしようという態度)特に原発避難民の生命を脅かす、犯罪的な情報統制の当事者だったのだといまは思っている。

 そんなことに気がつかなかった自分も迂闊だが、それ以来枝野さんという人が嫌いになった。寡聞ながら、当時のことに対する反省の弁を聞いたことがない。だからもちろんいまはこの人を信用しない。

 その枝野さんが、危機的日韓関係についてようやく口を開いたと報じられていた。結局何もいっていないに等しい「事態を政治問題化するべきではない、冷静に」というような空論だったが、それでも黙っているよりもいい。しかし最後の問題であるレーダー照射事件から一ヶ月も経っての要約のコメントである。この時間はなにか。

 国民の、特にマスコミの動向を読みに読んで、自分が批判されない物言いを考えた上のことのように見える(なにしろ嫌いだから悪意にとるのだ)。情勢を読み取るのにずいぶん慎重だったのは、この事態を「政治問題化」するチャンスを窺っていたのではないか。洞ヶ峠を決め込んうえで、どうも都合の良いことになりそうにないから、当たらず障らずのコメントを出したのだろう。

 ようやくのコメントが国民に迎合するような感情的なものでないのは、本音のところでは良かったと思っている。ここで自民党議員の一部の過激な意見を追い越したようなエスカレートした物言いだと、戦前のように国を誤りかねない。結果的によかったといまは認めておこう。

自分を笑う

 たかが歯が一本痛いだけで、本を読んでもなにが書いてあるのか頭に入らず、映画やドラマを観ても上の空、気晴らしに数独パズルをやっても集中力が落ちているから間違ったりして、いつもなら解けそうな問題ができない。意気地のなさに自分を笑っている。

 痛みは続いているが、昨日より多少軽減している気もする。痛みに慣れたのか。それほど痛いのに化膿しているわけではないので、あご周辺が熱を持ったり腫れたりしていない。ただ歯の中心部の神経がズキズキするだけである。いっそ神経を殺してもらおうか、などとも思うが、医者から見て健常な歯を殺すようなことは医師も嫌うだろう。

 ブログに書きたいネタは、数冊の読了した本や、鑑賞済みの何本かの映画のことなど、ないことはないのだが、情けないことに書く気力がない。明日になって痛みが更に軽減して、歯医者の言う通りにおさまっていくことを心底願うばかりだ。なにしろ食慾も失せ、料理をつくる気にもならず、やっつけでやわらかそうなものを食べるばかり。

 それでも酒を飲む。酒を飲むと一時的に痛みが減るが、そのあとに倍返しに痛みやって来た。来週の日曜日は毎年訪ねる酒蔵の新酒会で、友人達と盛り上がるのを楽しみにしているのだが、幹事として率先して愉しまなければならないのに、いまの調子ではテンションが低くてみんなに迷惑をかけそうだ。

 早くおさまるよう神様にお願いしよう。

歯が痛い

歯が痛くてよく眠れなかった。

2019年1月19日 (土)

見解の違いとはいえ

 文在寅大統領は日本政府に腹を立てているだろう。韓国国民のため、彼は全力で北朝鮮との和平へむけて努力しているのに、安倍晋三はその邪魔をするのである。平和の敵である。だからそれに対して制裁を加えなければならない。かれの嫌がることをするのは正義である。そのためには条約違反でも嘘でも理不尽でもかまわないのである。なにしろ平和のためなのであるから。

 そういう信念のもとに文在寅大統領は行動しているのだろう。それなら個別のことの理非を日韓で論じていても全く意味は無いのだろうなあ、と諦念を感じている。

  平和のためなら不義も許される、というのはテロリズムではないのか。しかし歴史は実はその信念のもとに動いてきた。それならそのテロリズムに対応するための冷静な備えが必要だろう。どこかの国の脳天気な平和ボケ無防備論者は黙して語らない。事態が理解できないのか、それとも都合が悪いから見ザル言わザル聞かザルを決め込んでいるのか。いままでのように平和至上主義を唱えるなら、どうして文在寅に加担して安倍首相批判をしないのか。

 ところで、文在寅大統領政権の軍事費は年率8%の伸びで推移している。中国は10%を越える。そして日本は年率0.8%である。韓国も中国も日本が軍事化しているといい、日本の野党やマスコミの平和論者もそれに唱和している。日本の平和論者が中国や韓国の軍事費増を非難したことを聞いたことがないのはどうしたことか。それなのによくいうよ。

気のせい?

 無理をいって割り込みで歯医者で診察してもらった。治療した歯が間違っていたわけではないという。痛い歯にはなにも痛む原因が見つからないのである。レントゲンも撮った。虫歯などの異常は全くないのだという。

 痛むのは神経だが、痛む歯の神経はむき出しではないし、確かにそこを歯ブラシでこすっても痛いわけではない。神経が錯覚を起こしているとでもいうのだろうか。

「これから痛んだりおさまったりを繰り返すと思いますが、いま歯医者としてなにを治療して良いかわかりません。しばらく経過を見るしかありません」とのことである。とりあえず一月ほど先の予約をして終わり。

 歯は痛いままである。これに慣れなければならないのか。かなりつらい。こんなことがあるとは思わなかった。なにしろ本を読むのも痛みで集中できないのである。参ったなあ。

バラエティミックスの猛撃

 バラエティミックスという、ジャイアントコーンや乾燥バナナのスライス、アーモンド、ピーナッツ、干しぶどう、炒り空豆などが詰め合わされたパックのスナックが大好きで、食べ過ぎないように注意しながらもつい食べ過ぎている。

 一昨日の夕方、ビールのつまみにいつものようにポリポリ食べていたら、右下の奥歯に突然激痛が走った。そのあとは右側でなにも咬むことができなくなった。ただ、虫歯ではないらしく、その奥歯に触りさえしなければ痛みはあまり感じられない。

 ところが昨日夕方になったらどんどん痛みが強くなってこのまま週末を過ごすのが心配になり、歯医者に連絡した。かかりつけの歯医者は、金曜日だけ夜の八時までやっていて、しかも土曜日も午前中は開業している。

「予約で満杯ですが、待つつもりがあるならすぐきてください。なんとかしましょう」とありがたいお言葉。あわてて歯を磨き、顔を洗い直し、髪を整えて飛んでいった。

 ほかの歯よりも相対的に頑丈な上の歯(金属がかぶせてある)が下の歯を削り続けて、下の歯がすり減ってしまい、神経がほとんどむき出しになっているのだそうだ。「痛いでしょうね」と看護士の若い女性は笑っている。人の痛いのは平気なのだ。笑われてもいささかも腹は立たない。早く助けてくれ、という思いだけだ。笑うくらいだから治療は簡単なのだろうと期待する。

 上の歯を金属ごと削って低くし、上下に隙間をつくり、下の歯を神経ごとセメントで固めて盛り上げた。「これで神経と上の歯の間に距離ができましたから、大丈夫でしょう」で終わり。神経は生きているから歯としてもまだ生きているのだ。

 今朝になっても神経がむき出しになった歯はまだ痛い。昨日よりましだがどうしたわけか。このままおさまれば良いのだが。

 口内を鏡でよく見てみた。どうも痛い歯ではなくてとなりの歯を治療したらしい。医者もわたしも迂闊なことである。肝心の歯がそのままだから痛みがなくならないのである。それに気がついたら痛みが増してきた。今日は土曜日、どうしよう。

2019年1月18日 (金)

大矢田神社

昨年暮れからほとんど車を動かしていない。あまり動かさないのは車によくないから、ドライブがてら日帰り温泉にでも行こうと思い立った。比較的に近いのは東海北陸道を北上して、美濃インターから西に走ったところにある武芸川温泉だ。


その温泉の手前に大矢田神社があるので立ち寄った。ここは晩秋の紅葉の名所でもある。途中で北上した山の行き止まりにあるので、駐車場が限られており、シーズンは混むので最盛期に訪ねたことはない。

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大矢田神社山門。立派な山門である。

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由緒書きが彫られた石版。建速須佐男神などが祀られている。「たてみはやすさのおのかみ」とでも読むのだろうか。

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山門の扁額などを見上げる。こういう木組みの技術を見るといつも凄いなあと感心する。

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参道に置かれた神様の通る橋。右手の階段を登る。

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長い階段を登ると拝殿が見えてきた。

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お参りしたあと、罰当たりに拝殿を撮影。奥中央に神鏡が置かれている。

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横から本殿を望む。

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神社の横に案内板がある。現在地は標高181メートルか。

さらに上に大モミジなどがあるらしいが、神社を見て満足したので山を下りる。

武芸川温泉はもともと綺麗な日帰り温泉だが、岩盤浴などが新設されて更に整備されていた。駐車場にも車がたくさんあった。ここの温泉は濃度があって温泉らしい温泉だ。アルカリ温泉だから肌がヌルヌルする。サッパリして帰宅した。

養老孟司『猫も老人も、役立たずでけっこう』(河出書房新社)

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 養老孟司師の愛猫「まる」の様子は、NHKBSプレミアムの『養老センセイとまる 鎌倉に暮らす』という番組で拝見したので、この本に書かれていることはとても良くわかる。わたしも猫好きだからこそ、マンション暮らしでは猫が可哀想で飼いたくても飼えない。独り暮らしでは猫をおいて旅に出るわけにも行かない。といって連れて行くのも猫には迷惑なことだろう。

 犬と違う猫の、飼い主に媚びない自由勝手さがセンセイ同様わたしも好きなのである。その猫に教えられること、気付かされることがさまざまな思考を伴ってこの本に満載されている。二三引用する。

 センセイにとって「まる」とは、と問われてセンセイは「ものさし」と答える。

「自分の住む世界の価値観に、人は暗黙のうちに合わせられてしまう。常識や慣習、考え方、ものの見方、人の世に暮らせば、知らぬ間にそういうものが我が身にも染みついているんです。それは、世間のものさしですよね。だから時々、ものさしを取り替えたくなる。まるをものさしにすることで、自分のものさしがリセットされるんです」

「みなさん、「発見」ってなにかを見つけることだと思っているんでしょうね。違うんです。たとえば、ある日突然、いままで同じだと思っていた虫が違う種類であることに気付くとする。それは、「違いがわからなかった自分」が「違いがわかる自分」に変わったということ。見える世界が変わったということなんです。つまり、「発見」というのは「自分が変わる」ことに他ならない。自分が変わった瞬間、世界も変わるんです。
 発見があると、自分が生きているということを、しみじみ実感できる。---だから面白いんです。」

 わかるなあ。わかるというのは、知らなかったことを知るようになるということではなく、わからなかった自分がわかる自分に変わることだということで、知識が増えてもわからない人はわからないのだ。知識をただ増やし、自分がちっとも変わらない人の何と多いことだろう。

 センセイは「みんなで一緒にやるっていうこと」が、だめだという。子供のときからそういうことにぞっとするのだそうだ。北朝鮮の人文字など、よくあんなことができるものだという。それは戦争の後遺症ではないかというが、必ずしもそうではないだろう。

 わたしもそう言うのを毛嫌いする人間で、一度だけ学生時代にデモというのに参加して、リーダーのシュプレヒコールに合わせて唱和させられたときに鳥肌が立ち、二度とそういうものに参加したりしていない。集団演舞、というかダンスを集団で行うコマーシャルなどを見ると虫酸が走るのである。自分が強制的に参加させられることを想像してしまうのだ。

 一気に読めてしまう本だが、共感したところに付箋をつけていたら、まだまだ取りあげたいところが残ったので、もう一回この本の話を書く。

2019年1月17日 (木)

高島俊男『司馬さんの見た中国』(連合出版)

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『お言葉ですが・・・』シリーズの別巻、第6巻である。このシリーズは文春文庫に1~10巻が収められていていつでも手にはいる。第11巻、そして別巻1~7巻は連合出版のハードカバーしかない。これはそこそこの本屋で捜さないと見つからないかも知れない。

 著者は市井の中国学者。ことばと漢字にこだわりを持ち、その視点に共感を感じる。たくさんいる、自分の不勉強を教えてくれるわたしの先生のひとりである。この本は初期の頃の『お言葉ですが・・・』のような書き下ろしではなくて過去の文章を集めたもの。古いものは1983年から、最新のものでは2013年までのものまであり、文章の硬軟がそれぞれ多少違うが、それは当然だろう。若いときの方が硬いのは一般的な傾向か。

 表題の文章は冒頭のもので、この本が全体として司馬遼太郎に関したことが書かれているわけではない。語源の研究について、詳しく書かれた文章がある。漢字について、そして日本語についてさまざまな研究を紹介しながら自分の考えがまとめられていて難しいけれどおもしろい。ただ、音韻学についてはわたしには歯が立たない。

 後半に近現代の中国の小説についての書評が詳しく述べられている。その文章がそのまま現代中国そのものについての考察につながっているのは当然なのだが、これもとても興味深くおもしろい。文豪ではなく、ふだん触れることのない作家が紹介されている。詳しく引用されていて、その世界観はいま並行して読み進めている奥野信太郎先生の紹介する中国、特に北京の戦前の様子にオーバーラップする。なんだかなつかしいのである。

 ことばや漢字に多少でもこだわりを持つ人ならば、このシリーズを読むことをお薦めする。膝を叩いて共感し、おもしろく読めるはずである。

 この本の最後の文章が、東洋文庫に収められた桑原隲蔵(くわばらじつぞう)博士の『蒲壽庚の事蹟』の酷評である。もちろん高島俊男師は桑原隲蔵博士を心の底から尊敬している。『蒲壽庚の事蹟』はそもそもたいへんな労作であり、世界に誇るべき論文なのだが、そのままでは一般の人には読むことは困難である。本文の何倍もの参照がつけられていて、その参照こそがこの論文の肝なのだが、本来文語文のそれが現代仮名遣い、新漢字にあらためられていて、博士の伝えたい意味を著しく損なっていることが批判されているのである。 

 だいたいこういう本を読むのはよほどの好事家である。漢文もわかり旧漢字の素養のある人しか読まないのだから、いたずらな改悪はするべきではないのだという。原文は岩波書店から『桑原隲蔵全集』のなかに収められているそうである。

 わたしは桑原隲蔵博士の『考史遊記』(岩波文庫)を二冊所持している。すでに三回は読んでいる愛読書だ。明治後期の中国の史跡を訪ね歩いた紀行日記で、三分の一が彼が撮った写真が収められている。交通の便がない時代の苦労話がリアルに描かれていて、こんなおもしろい紀行文はない。なぜ二冊あるかといえば、父に一冊進呈して暇つぶしに読むことを勧めたからであり、父の死後わたしの元に返ってきたのだ。

 東洋文庫のなかの桑原隲蔵博士の著作の数点は所持しているし、もちろん『蒲壽庚の事蹟』も棚に飾ってある。

文在寅の陰謀

 陰謀論は面白い。ときに理解しがたい事態を最もうまく説明できたりする。そのとき陰謀論は疑わしいものというよりも、もしかしたら本当のことかもしれないと思う。

 韓国・文在寅政権の、この数ヶ月の異常な反日行動は日韓双方にとって少しも利益をもたらさないどころか、今後両国に取り返しのつかない不利益をもたらすように見える。特に経済が下降気味で、最悪の事態もあり得そうな韓国にとって、その不利益は日本よりずっと大きいだろう。為政者は感情より国益を重視するのが役割のはずなのに不審である。

 そうなると文在寅政権にはなにか国益以上の目的があるに違いないと思えてしまう。コメンテーターの多くが、「韓国にとっての日本の重要性が低下したから」とか、「韓国の国民の反日感情を考慮したポピュリズムだ」とか、「政権の支持率低下を回復させるためのいつもの反日方策だ」などと説明しているが、そんな目的のためにここまで極端なことをするのは異常である。

 韓国が日本と離反することそのことを目的としている行動としか思えない。それならそれを喜ぶところはどこか。中国と北朝鮮だろう。しかし日韓が離反することは、中国と北朝鮮にそれほど大きな利益をもたらすとも思えない。さらにその先にこそ目的があるのだろう。

 日本はいまの韓国に嫌気がさしている。日韓関係に介入することを控えているアメリカも、日本と同様に韓国に不愉快な思いを抱いていると消息通はいう。しかもトランプは朝鮮半島から米軍を撤退させる、などと口走っているという。同盟関係を重視していたマティス国防長官が辞めてしまい、米軍撤退はあり得ないことではなくなってきた。韓国をアメリカが守る理由が消滅しつつある。

 日本にとってはアメリカが半島から撤退することは防衛ラインが大きく南下することだから、極めて不都合なことである。だからこそまず半島から日本外しをもくろんでいるのではないか。

 なるほど、中国と北朝鮮にとって最も喜ばしいことは半島からの米軍撤退であるだろう。日本と関係修復困難な状態にすることがまず第一段階で、目的は半島からの米軍追い出しにある。更に韓国という国の国力をとことん削ぐことで、北朝鮮の主導による半島統一を行おうという深慮遠謀なのではないか。

 そう妄想していたら、BSフジのプライムニュースで、木村太郎氏が北朝鮮の意を受けた第五列という謀略部隊が一斉に韓国内で反日プロパガンダに動いていると語っていた。司法界、マスコミ、そして内閣府にそれらの謀略部隊は深く浸透しているという。我が意を得たりというところだ。

 だから「おかしいぞ」と思っている韓国のまともな人たちも、それがこわくて意見を表明できないのであろう。マスメディアはほとんど内閣府の意向通りの報道をしているから、国民はこの数ヶ月の韓国の異常な反日を異常とは思わず韓国が正しいとして大多数が政府を支持しているようだ。木村太郎氏の言う、北朝鮮に使嗾された第五列の作戦は大成功しているのである。

 常軌を逸した反日プロパガンダ、文在寅の極めて強権的な司法支配、そして反対派の粛清とも見える検察の検挙の頻発は、そのためのなりふり構わない行動であろう。北朝鮮、中国、そして文在寅は連携している、というのが私の陰謀論である。それなら、残念ながらいま韓国と話し合って妥協点を見出すことは不可能である。日本は来たるべき最悪の事態を想定し、それに備えるしかないのである。そのための憲法改正なのだろう。

 ところで国民民主党の玉木代表が、韓国の異常反日に対して立憲民主党などがなにもコメントを出さず沈黙していることを強く非難していた。立憲民主党にとって国の矜持よりも安倍下ろしが正義なのだろう。ただ、ここで野党もすべて一丸となって韓国を非難し、制裁に盛り上がってしまうのはいささか危ない。日本はそれで過去、国を誤った。とはいえ、まさか日韓関係の悪化は安倍首相の責任だ、などと枝野さんが言い出さないか危惧している。それでは無知による文在寅への加担であろう。

手遅れながら

 わたしは頭が悪い。なにしろどうも自分が思っているほど自分の頭がよくないらしい、とようやく気がついたのが大人になってしばらくしてから、というほどである。もう少し早く気がついていたらどうにかなったのに、という思いはあるが、いまさら如何ともしがたい。

 わたしは下ばかり見ていて、気がついたら上にもっと頭のいい人、その上努力を惜しまない人がはるかに多くひしめいていることを思い知らされた。わたしは列の後方にいたのである。さいわい後ろにいることに気がついたから、手遅れ気味ながら少しずつ前へ進もうと意識できている。テレビでしばしば、というよりも四六時中見せられている、自分がバカであることに毛筋ほども気がついていない人よりはましだと内心では思っている。

 前には投げ出していた難しい本がたまにおもしろく感じられるようになったことはいまの人生の最大のよろこびである。わくわくするし楽しい。もっと早くそうなりたかったなあ。バカだったなあ。

2019年1月16日 (水)

不快な出来事

 世の中のことに一々目くじらを立ててもしかたがないのだけれど、ニュースを見るのが好きだから、その中に不快なものが混じっているとつい腹を立ててしまう。

 沖縄の名護市で海上保安庁のゴムボートに発煙筒を投げこみ、二隻の船の底を焼いた男が逮捕されたという。黙秘しているのでどこの誰だか明らかではないが、60歳過ぎであろうという。これはわたしの想像だが、権力に対して損害を与えることは正義である、と確信する日教組全盛時代の刷り込みをいまだに引きずっている狂信者なのだろう。こういう行為は犯罪だという自覚のない異常者は最も嫌いだし社会にとって迷惑このうえない。

 レーダー照射問題について、シンガポールで行われた日韓の実務者協議は物別れに終わったが、その際に韓国側が「あなた方が低空飛行をするなら、われわれも低空威嚇飛行をすることが出来る」と警告したと報じられた。何なのだろうこの韓国という国は。実務者協議では、ある程度の妥協があって手打ちにいたり、うやむやながらけりがつくかもしれないと多少は期待していたが、この決裂のしかたには呆れた。

 しかし考えてみると、前政権時代(朴槿恵時代)のさまざまなことがいま文在寅政権下で国家反逆罪のように検察で取り調べが行われているとき、日本と水面下であっても妥協すると検察から取り調べを受け、場合によって国家反逆行為として処罰されることを韓国側の実務者は恐れているのではないか。それなら北朝鮮や中国と同じ独裁国家と変わらない。いま韓国は政権の意に反すると社会的に身を滅ぼすことにつながるという恐怖国家であるように見える。政権の報道官の物言いが、北朝鮮や中国の報道官とそっくりであることがそれを表している。

 稀勢の里がついに引退した。横綱としての成績は36勝36敗97休だったという。惜しむ声もあるけれど、酷な言い方をすれば見苦しい、みっともない終わりかたをしたものだ。結果的に横綱という地位に恋々としがみついただけで、横綱という名を汚したのだ。誰もそう言わないからあえて云う。 

 EU離脱協定案がイギリス議会で大差で否決された。予想されたこととはいえ、これからどうなるのか懸念される。それでも政権を投げ出さないメイ首相は立派だと思う。そんなに反対するなら誰か代わりにやってみろ、と開き直るのがふつうだろう。反対している人は、そもそも離脱に反対の人と、離脱に賛成だが離脱に条件はつけるな、というわがままな連中の両方が含まれるのだから、妥協案であるEUとの離脱協定案が可決されるはずはないのは当然なのだろう。

 ワアワアと反対を言う人間で、自分が責任をもって交渉しようという人間はいるのだろうか。そもそも国民を嘘の情報でミスリードして、国民投票を離脱に持ち込んだジョンソンだのコーベンなど、その責任をとらずにこの問題を政争の具としているだけに見える。無責任きわまりない。

昨日の熱田神宮

昨日、熱田神宮参拝のおりに少しだけ写真を撮った。


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昨日は三連休明けの日だったので、鳥居の前の広場の出店が片付けをしていた。三連休は多分賑わったことだろう。この店の前は綺麗だけれど、別の場所はところどころゴミが残っている。罰当たりがいるのだ。これから掃除をするのだろう。

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手水場所で手を洗い口を漱ぐ。そのすぐ横にある大楠の木は立派だ。

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すぐそばまで行く。樹齢千年以上だそうだ。

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参道横の梅はもうこれだけ開花している。

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信長が寄進した土塀。

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少ないとはいえ参拝者はそれなりにいる。午後から雨の予報で、寒々しい。このあとお守りを買って引き上げた。

2019年1月15日 (火)

眼鏡なし

 本日予定通りに熱田神宮に参拝し、息子と娘のどん姫とわたしの分の厄除けのお守りを戴き、その足で名古屋駅ビル(ツインタワー)の旅券センターで更新されたパスポートを受け取った。ついでに電機量販店で小物を二三買い物したが、その階の下が三省堂である。ふらふらと無意識のうちに立ち寄り、気がついたら10冊あまり本を買い込んでしまった。まだ読んでいない本がたくさんあるのに病気である。ただ、今回は小説の文庫本や単行本はなくて、ほとんど新書と養老孟司と池内紀氏のエッセー本なので今月中には読み切れるだろう。

 パスポートの写真のために床屋に行き、眼鏡も新調したのであるが、受け取った新しいパスポートのわたしは眼鏡をかけていない。顔認証には眼鏡なしの方がよいといわれて眼鏡を外して写真を撮ったのである。ふだんかけていた眼鏡の度はやや合わなくなっていたし、レンズがガラスだから重いしバランスも悪かった。新しいのはプラスチックだからとても軽い。かけやすいから良いのだけれど、無理に新調する必要がなかったことになる。まあ人生はこんなもの、といえば大げさか。ちょっとダンディになったと自負しているが、誰も気がつかない。

はるか北国を想う

 酩酊酔眼で読んだ年賀状を、整理のためにもう一度読み直している。それぞれの人の顔が眼前に思い出されてしばし良い気持になる。年賀状は良いものである。

 そんな年賀状のなかに旅で泊まったなじみの宿からのものも何通かある。心に残る宿は、心のこもったあしらいの宿で、料理や建物は二の次である。そして賀状をくれるのはそういう宿である。ありがたいし、また訪ねたくなる。

 その中に薬研荘という、下北半島恐山の奥にある薬研温泉の宿の女将からのものが今年もあった。この女将、地元でも有名な女性で、山菜や茸とりの名人である。「猿(ましら)の如く」急な斜面を上り下りするという。出会った人は獣かと一瞬思うらしい。すでに三度泊まっているが、この年賀状を見るたびにまた行きたくなる。

 いま薬研温泉は極寒の雪の中だろう。ぬくぬくとこたつの中で、はるかな北の地を想っている。

2019年1月14日 (月)

訃報

 市川悦子さんが亡くなった。彼女はたしか高校の先輩である。先輩といっても面識があるわけではない。高校在学中に、宇津井健と市原悦子は先輩だ、と教えられたから覚えているだけで、ほかにもたくさんいるに違いない。

 それより梅原猛師の訃報である。母と同年生まれ(1925年)と高齢であるからいつかこの報に接するだろうと思っていたけれど、ついに来たかとも思う。この人の本を20代後半から30代にかけてずいぶん読んだ。大の苦手の古典に目を開かせてくれたのは師である。

 古典が苦手だったのは自分の勉強不足のせいであるけれど、高校のときの古典の教師の、文法ばかりにこだわるやる気の無い小声の授業を聞かされて、教師ごときらいになった面が大きい。古典の面白さをかけらほども教わることがなかった。

 大学の教養課程で、『風姿花伝』をとことん読まされたとき、初めて古典もおもしろいかもしれないと気付かされた。なにしろ好きな歴史を知るためには古典の知識は必須なのに、それが欠けていては日本の歴史を興味深く知ることが出来るはずがない。中国に興味が移り、中国の古典を乱読するうちに、中国の知識を手がかりに日本の古典の面白さも少しだけ解るようになったのはさいわいであった。

 そこで出会ったのが梅原猛師だった。先般読み直した『隠された十字架』、そしていま読んでいる、というより格闘している『水底の歌(上・下)』を読むことで古代ロマンの面白さを教えられたのだ。そもそもは哲学者としての梅原猛の書いた本『笑いの構造』からかれの著作に触れるようになったのだけれど、わたしが読み始めた頃、師は丁度日本の古代史について研究しているところだった。

 今世紀に入ってから法隆寺の金堂の修復が行われ、それを機会につくられた、法隆寺についてのNHKドキュメントが先日再放送された。前後編各120分という長尺の番組だが、まさに昨日録画していたその前篇を観たところである。梅原猛師の法隆寺論、聖徳太子論とはまるで違う説明が得々と語られていた。

 仏教を日本に採り入れることに大きな貢献をした蘇我氏がなぜ滅ぼされたのか、この番組ではさっぱりわからない。聖徳太子の死後、一族がすべて殺された理由も説明されない。そして法隆寺が再建された理由も納得できるものではない。もちろんそれはわたしが梅原マジックに洗脳されているからであろう。しかし梅原論の方が説得力があり、さまざまな謎の説明がつくと思うのである。

 そんな矢先での師の訃報だった。

もう一度人生がやり直せるなら

 自分の人生に悔いはないと言い切れる人はずいぶん強がりだと思う。どうせやり直しはきかないのだから、悔いたりしないほうが幸せだ、という考え方もあり、わたしもそう思っている。

 ほかのひとはどうか知らないが、わたしは自分の人生をもういちど一からやり直したいとは決して思わない。いい加減に生きてきたので、さまざまに危ないことに直面したが、運良く切り抜けることができた。信じられないほどである。それを思い出すだけで冷や汗が出ることばかりである。といって、もう一度生きたとしてもいい加減に生きるのは多分変わらないと自分でわかっている。だから同じことを繰り返すなど、願い下げである。もっと悪い結果になること必定である。

 そう思いながら、それでもやり直せるならと思うのは、いまの自分の認識の状態で、若いときのエネルギーのままにちゃんとした本を読み直してみたいということである。古典や明治大正昭和の文豪の小説や随筆、評論をきちんと読んでみたい。それならいまからでもできるし、寿命が延びれば良いだけのことではないか、といわれるかもしれない。

 違うのである。そのような本を読み取るエネルギーは若いときにしかないことを誰よりも自分が承知している。エネルギーが豊富なときにどれほど時間を浪費したのか、それが唯一の後悔である。それが出来ていたら、多少は自分がましな自分だったような気がしている。豊かさということはそういうことかと思うからである。

2019年1月13日 (日)

後ろから読む

 個人全集を読むときには第一巻から読もうと思うのがふつうだろう。ところが全集を読もうとするぐらいだから、その人の著作に多少はなじみがあり、すでに読んだものもあるわけで、それはたいてい第一巻に収められている。その第一巻を読んで既読ばかりなら興が削がれて第二巻以降へのエネルギーが阻喪する。

 いま少しずつ読み進めている『奥野信太郎随想集』の第一巻が『北京随筆』と題されていて、それは主に東洋文庫で既読の文章ばかりだから、すぐに読みたいとは思わない。というわけで、後ろから読んでいる。

 巻一から巻六、それに別巻合わせて全七巻、別巻は対談集ですでに一部を引用して紹介した。そして第六巻は『浮き世くずかご』と題して、身辺雑記が集められており、そのうちの食に関するものを『食を読む』として先般から多少紹介してきた。その第六巻を読了し、いまは第五巻『知友回憶』を読み始めている。

 一気に読み飛ばす本ではない。一つひとつの文章を味わい味わいしている。その文章のなかに込められた奥野信太郎先生の気持ちを自分に置き換えたりして愉しんでいる。この巻の冒頭が、英文学者の戸川収骨の訃報前後の消息で、いささか文章に乱れが感じられて、それが一層先生の驚きと悲しみを表現することになっている。

 親子ほど年が離れた戸川収骨とは、師弟であるとともに親友でもあった。自分の恥もみっともなさもすべてあからさまに打ち明けながら、それをこころ深く受けとめてもらっていた師であり友である戸川収骨を失った悲しみがひしひしと伝わる。自分にとってかけがえが無いものを失うということがどういうことか、最初の『秋骨先生の訃』、そしてつぎの『画鶻山房燭影暗し』の文章に明らかである。画鶻(がこつ)というのは戸川秋骨の居の雅号である。

 そのあとに幸田露伴の訃報に接しての露伴についての先生の評価『露伴翁と漢文学』、続いて与謝野幹、そして与謝野晶子との交流が語られる『与謝野両先生』が読める。引用では意が伝わりそうもなく、全文を紹介したいところだが、それでは長すぎるのでなんだか知らないけど感激しているらしい、とだけ思ってもらうしかない。

心身の調子のバロメーター

 心身の不調は、こころが理由か身体が理由かということよりも互いが関係しあって起こるものだ。その兆候を見るとき、身の廻りの乱雑さ、片付いていない様子からわたしは自分の不調を知る。

 当たり前に、習慣化して片付けていたことがおろそかになっていることが顕在化したら自分を見直す。そしてそれを是正する気力が足りないときにはかなり危ないと思う。

 ちょっといまその危ない境目にいる。

2019年1月12日 (土)

散歩する

寒いので散歩をしていなかったけれど、久しぶりに散歩コースに決めている一つ、木津用水を回る5キロほどのコースを歩いた。


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木津用水の水位は低い。木津用水は入鹿池と木曽川から水が引かれているはずだが、農業用水の必要の無いいまは取水口が閉じられているのかもしれない。鷺が寒風の中で寒そうにしていた。

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途中の神社の中にある忠魂碑。むかし書道の先生から出された宿題に自分の家のそばの忠魂碑の乾拓をとったことを思いだした。干拓というのは湿拓のように墨を使う(石碑が汚れる。もちろんあとで水で洗う)のではなく、乾いた紙の上から乾拓用の炭で擦って碑面を写す方法である。紙の上から鉛筆でなぞるとコインが写せるようなものだと思えばわかりやすい。

日本中にこの忠魂碑がある。それだけたくさんの人が戦争に従軍し、命を落としたのだ。ただし、太平洋戦争のものより日清日露の戦役のものが多い。太平洋戦争ではあまりに多くの人が亡くなったし、日本の国そのものが碑を建てるどころではないことが多かったからだろう。

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神社の境内の樹が切りたおされて切り株になっていた。切り口を見るとまだ新しい。樹の寿命によるものとも思えない。どんな理由で切ったのだろうか。

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吊籠にお飾りなどが詰め込まれている。ちょうど賽銭の回収に来ていた人がいた。この地区の役をしている人だそうだ。「賽銭泥棒と間違われないように」とイエローグリーンのベストを着けていた。「14日の朝に正月飾りを燃やすので、お持ちください」と声をかけられた。

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鳥居から拝殿そして本殿への視線を遮るように屋根付きの格子がたっている。これは一般的なものなのだろうか。あまり意識して見たことがなかった。

そういえば中国では大きなお寺には同じように視線を遮る壁がしつらえられていることが多い。同じ理由からだろうか。

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別の神社でも同様のものが立っていた。これから意識して見ることにしよう。

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そこにもお飾りが積まれていた。14日かどうか知らないが燃やされるのであろう。

こうして今年の正月が終わるのか。

休眼日

 両親とも近視だったので眼鏡をかけていた。父はあまりこだわりのない性格だったが、目についてだけは神経質だった。自分で洗眼用のホウ酸水を作って眼を洗っていた。だからテレビを観てばかりいると眼によくないという理由で怒られたりした。いまだったらこどもたちがスマホばかり見ていたらうるさく注意したことだろう。

 わたしは小学校五年生くらいまでは両眼とも視力が1.5あった。いつか両親のように眼が悪くなって眼鏡をかけなければならないことがいやで、極力目を使わないように勉強を控えていた。しかし本好きが歳とともに嵩じてきて読書に夢中になっているうちに一気に視力が落ちた。

 ある日遠くの樹を見たら葉っぱがぼやけて見えることに気がついた。ピントを合わせようとしたが合わないことに愕然とした。視力を回復させる方法、などというのを調べて、星をじっと見たあとに掌を見ることを繰り返したりもしてみた。しかし生来の怠け者、三日坊主に終わり、効果を確認する前にあきらめていた。

 中学校に入って眼鏡を作ってもらい、高校の途中までは黒板の字を見るときだけかけていた。眼鏡は常時かけている方が度が進まないということもいわれたが、同じ人が同時に試した結果などあるわけがない(どちらかをとればもう片方は試せない)ので、自分の好きにした。

 読書も勉強もほどほどにしておいたお蔭で両親ほど視力は悪くならずに済んだものの、高校生になった頃から眼鏡をかけるのが日常になってしまった。近視の良いところは老眼になるのが遅いことである。わたしはいまでも裸眼でふつうに本が読める。ただし以前と違ってすぐ眼がくたびれる。テレビを観ていてもパソコンを眺めていてもすぐ眼がくたびれる。そのたびに眼精疲労用の目薬をさす。

 気がついたら父親のようにいつも眼を気にするようになっていた。些細な違和感がとても気になり不安である。糖尿病なので、二年に一度くらい簡単に眼のチェックはしてもらっているが、不思議なことにその前後は特に異常がなくて、検査が済んだ後になって間もなく、違和感があったりする。

 使えばガタが来るのが機械であり、肉体であるから、酷使すれば異常が生ずるのは自然のことである。だからときどき休めるに如くはない。「きゅうかんび」に「きゅうがんび」と忙しいのである。本日休眼日。

2019年1月11日 (金)

衣の下に

 韓国の文在寅大統領の新年の会見で、NHKの記者の質問に対する答えにあきれ果て、不快になり、怒りを感じたのはわたしだけではないだろう。だからこそ、わたしも韓国の大統領や首相のアドバイスにしたがって、冷静にならなければならないと深呼吸をしているところである。

 個別の理非曲直はさまざまに論じられているから、それは置いておいて、わたしが気になったのは、韓国のマスコミが長時間の会見中に全く日韓関係についての質問をしなかったことについての疑問である。あるコメンテーター(某奥薗という、もと朝日新聞記者の大学教授)によれば、日本が韓国内でそれだけ軽く扱われる存在になったからだということである。このコメンテーターはさまざまに韓国について論評していたが、全く韓国側に立っての発言であって日本人の感覚とはかけ離れていた。徴用工問題は日本は政府が引いて、企業どうしが話し合いで解決するのが良いとまで言い出したからあきれ果てた。これこそが朝日新聞的な反応なのか。

 韓国が日韓関係を軽く見ているというのは本当だろうか。多分マスコミでさまざまな日韓の問題が以前よりも大々的に扱われなくなっているのは事実なのであろう。それはそれぞれの問題について詳しく追求すると、韓国の非が明らかになることばかりで取りあげにくいのかもしれない。マスコミは国民以上に事実を知るからである。とはいえ、そうだからといって大事なことを取りあげなければマスコミの役割を果たせない。しかし取りあげないのは取りあげられないからではないか。

 今回の会見でもそのことは取りあげないように何らかの事前の申し入れが大統領府から行われたのではないか、とわたしは推察している。いま文在寅政権はさまざまな形で独裁政権的な強権をひそかに行使している。なにしろ朴槿恵政権時代の最高裁の判事まで取り調べを受けるのである。それなのに三権分立だと言い張るのも厚顔なことである。自分に不都合ならつぎつぎに捜査され、ときに理不尽な制裁を受ける。そしてそれに対して何も抵抗できないのが現在の韓国の状況に見えるのである。マスコミも保身に走っているのであろう。

 今回の文在寅の小馬鹿にしたような冷笑の陰に、かれの独裁主義志向がほの見えたというのがわたしの見立てである。それは多分今年中により一層明確化するに違いないと確信する。文在寅は何も困ってもいないし、手をこまねいているわけでもなく、計算づくであろう。

 日本が韓国に対してできることは限られているし、最後は韓国の経済に、そして日本の経済に悪影響を及ぼすものにエスカレートせざるを得ないだろう。何より可哀想なのは韓国国民だが、このような人物を大統領に選んだのはその韓国国民なのである。下がり続けていた文在寅の支持率は、反日的態度を明らかにしたとたん回復しつつあるという。 

 最後に、もし韓国がこのまま突き進めば、北朝鮮主導、または中国主導で取り込まれて行くであろう。そしてそのとき真っ先に粛清されるのは、文在寅であることは歴史の教えるところである。

謝って終わりか

 厚生労働省の不正調査問題について、大臣が国民に謝罪した。当然だが、この厚生労働省というのは国民の税金の多くを所管する部署であってその責任は重いはずなのにこれまでにもたびたび不手際や違法が繰り返されてきたような記憶がある。

 法律に違反すれば罰せられる。国民はみなそれに従う。しかし官庁の役人が違法行為をしてもその責任はうやむやにされて誰も罰せられないような印象が国民にあるのではないか。誰がどの時点で違法行為を始めたのか、誰がそれを知りながら継続したのか、調べれば分からないはずはない。役割分担ははっきりしているはずだからである。

 違法行為には罰金や懲役が科されるはずだが、そのような処罰を受けた役人はどれだけいるのか。いつもうやむやで、高額の退職金を平然と受け取って口を拭って知らんぷり、ということになりそうだ。責任をとらなくて済むなら違法行為をする、という人間は下劣である。官庁というところは下劣な人間の集まりか。それとも官庁に入ると下劣になるのか。

映画を愉しむ(4)

『かぞくのくに』2012年・日本
監督ヤン・ヨンヒ、出演・安藤サクラ、井浦新、宮崎美子、津嘉山正種、京野ことみ、ヤン・イクチュンほか

 ヤン・ヨンヒ監督は大阪生まれ大阪育ちの在日朝鮮人(北鮮系)。2005年『ディア・ピョンヤン』、2011年『愛しきソナ』に続く第三弾の映画。この前二作も観ていてだいぶ前にこのブログに紹介した。その二作はヤン・ヨンヒ自身がカメラを廻し、自分の家族をドキュメントタッチで描いている。印象に残る映画だった。

 人間には自分で頑張ればなんとかなることと、どうしようもないこととがある。どうしようもないことはくよくよ考えずにあきらめ、頑張れることに全力を尽くすのが人生の要諦である。しかし、実はそのどちらでもないことというのが山のようにあるのが人生というものだ。拉致問題などはその最たるものだろうか。

 戦後、朝日新聞をはじめとする大手メディアは北朝鮮を『楽園』と褒め称え、在日朝鮮の人たちが多数北朝鮮に渡った。ヤン・ヨンヒの兄三人は父の意向もあり、北朝鮮に渡ったのである。そして結婚し、子供もできた。

『ディア・ピョンヤン』はその兄の家族を訪ねる映画であり、『愛しきソナ』は兄の娘、ヤン・ヨンヒの姪の話である。この二作の映画でありのままの北朝鮮を映画化したために、彼女は二度と北朝鮮に行くことができなくなったばかりか韓国に行くこともできなくなっている。

 この『かぞくのくに』では、その兄に脳腫瘍が見つかり、北朝鮮では治療が不可能なことから、朝鮮総連に多大な貢献をしている父親の奔走で、日本に一時帰国して手術と治療を行うことになったところから始まる。久しぶりの再会に喜ぶ家族。しかしその家族にはぴったりと監視員が張り付いている。

 前二作がドキュメンタリー形式だったのとは異なり、この映画では役者が家族を演じている。もしかすると実話を少し脚色しているのかもしれない。兄は三人の筈だが、この映画では独りだけとなっている。母が宮崎美子、父が津嘉山正種、兄が井浦新、妹が安藤サクラ、映画ではリエとなっているがヤン・ヨンヒ自身であろう。

 北朝鮮からは三ヶ月の滞在が許可されているのだが、その間のさまざまな出来事、そして思いがけない早い別れが胸を締め付ける。前二作同様、忘れられない映画となった。それにしても安藤サクラの演技は素晴らしい。

2019年1月10日 (木)

脱北者の悲劇

 NHKBSのドキュメント『脱北者の終わらない旅 南北融和ムードの中で』(12/5放送)を観た。

 苦労の末に北朝鮮から逃れ、ようやく韓国にやって来た脱北者が韓国になじまずに苦労しているという話は聞いたことがあるが、その実体をレポートしたものだ。

 脱北した理由はさまざまある。飢えに耐えかねたもの、身内が投獄されたり処刑されて自分にも危険が迫った、など深刻なものがほとんどで、韓国に行けばいい生活ができるなどと憧れでやってきたものはほとんどないようだ。みな追い詰められた末の人たちと考えてよい。

 彼等は韓国政府から一時金と生活費が支給され、さまざまな優遇措置が執られる。しかし韓国内での脱北者への差別はかなりひどいようだ。ようやく就職しても不慣れな点もあるためになじめずに職を失うものも多い。子供は学校で差別されいじめに遭うという。

 期待してやって来てようやく韓国で定住したのに何年経っても「脱北者」というレッテルは貼られ続けたままで、しかも監視の目はいつまでも続く。ここまではすでにわたしも承知していたことである。

 ところが文在寅政権になって韓国内に南北融和ムードが高まるにつれ、「脱北者」に対する目が一段と厳しくなっているという。「裏切り者」と指さされてさまざまな嫌がらせが繰り返され、それもエスカレートしているようだ。

 韓国では北朝鮮が非人道的な国だという認識があまりないのか、またはそのことをとりたてて言うことを控えなければならない何らかの圧力があるのか、そもそも「脱北者」はその北朝鮮の非人道性を証言する存在であるし、象徴でもあるから、南北融和が正義で絶対的に正しいこととする人たちにとって「脱北者」は不都合な存在のようである。

「脱北者」は韓国内では弱者の少数集団であるから彼等は互助会のような組織を作り、ときにそれに頼り、情報交換を行ってきた。韓国政府はその組織に手厚い補助金を支給してきたという。ところが文在寅政権になって昨年その補助金の支給が突然打ち切られてしまった。当然組織の存続は不可能になった。

 前より更に「脱北者」の生活は苦しくなり、就職先から馘首されたりさまざまな活動が制限されるようになってきたことを番組では取りあげていた。その結果、韓国から他の国、ヨーロッパやカナダなどに脱出することをもくろむものが続出しているという。

 韓国にもさまざまな考えの人がいるだろうから、すべてが「脱北者」を偏見で見たり差別したり迫害しているわけではないだろうが、全体としてみれば、「脱北者」を北朝鮮以下の存在に見る、という視点のようである。その考え方はわたしには理解できないことに思えるし、多くの日本人もそうだろうと思うが、韓国という国では違うらしい。

 昔は「脱北者」はスパイかもしれないという偏見だった。いまは北朝鮮の裏切り者という偏見に変わったようだ。「脱北者」を裏切り者とみる見方はそのまま北朝鮮が「いい国」へ引き上げられる見方に変わることにつながっていく、という構図が透けて見えた。

 このドキュメントを韓国の国民が観たときにどう考えるのか、とても興味があるが、文在寅政権では許されないだろうと思うのはわたしの偏見か。

映画を愉しむ(3)

 映画を愉しむ、と表題に掲げながら、それほど愉しめなかった映画を二三挙げる。

『サイバー・リベンジャー』2016年アイルランド・フランス・アメリカ
監督ジョン・ムーア、出演ピアース・ブロスナン、ジェームズ・フレッシュビルほか

 カリスマ経営者のマイクは臨時採用のIT技術者の若者エドが極めて有能であることを知り、目をかける。自宅のセキュリティシステムの不備をついでに見てもらうなどしているうちに、そのエドが公私を越えてマイクの家庭に踏み込むようになり、しだいに不気味な存在と化す。

 マイクは決然と彼に首を言い渡すのだが、そのときにはかれの会社もかれの邸宅もかれの意のままに操られる状態になっていた。マイクの妻や娘にも危害が及ぶにいたり、一家は恐怖に追い込まれる。ついにマイクは防衛と反撃に出ていき・・・

 エドのサイコパスぐあいは見ていて非常に不気味で不愉快である。だからサスペンスが盛り上がる。すべてのITを切り離し対処していく緊迫のシーンもあっておもしろくないこともないのだが、いまひとつわたしが評価しないのは、そもそも経営者ともあろう人物が、こんな人間を簡単に信用して家のセキュリティを任せたりする不用意さが現実離れしているからである。

 いまどきふつうの人間でもこんなに簡単に人を信用することなどあるはずがないので、そのことに違和感があって最後まで拭えないから素直に愉しめなかったのである。サイコ男を演ずるJ.フレッシュビルという俳優が不気味な役柄を好演して気持ち悪い。こういう人間がなんだかそこら中にいるような怖さを感じさせてくれる。

『ゲート・オブ・キングダム 王の帰還』2017年イギリス
監督フィリップ・トッド、出演ジェイク・マクギャリー、ショーナ・メルローズ、ケリー・ブラウンほか

 中世スコットランドが舞台。だまし討ちで父王を殺され王国を失った王子が国を再興する話なのだが、そこに魔術師などが絡んでいく。低予算でセットは雑だし俳優の演技はお粗末で台詞も陳腐。映像もクリアでないし、良いところがないから観ない方が良い(私は最後まで観てしまった)。

『トゥーム・インベーダー』2018年アメリカ
監督ジェームズ・H・トーマス、出演ジーナ・ヴィットーリ、アンドリュー・カーチスほか

 女性考古学者が中国奥地の洞窟奥深くで秦の始皇帝の秘宝「竜の心臓」を手に入れる寸前にその罠にはまって命を落とす。20年後、その娘が母の手帳を手がかりに(どうして女性考古学者が洞窟に持ち込んでいたその手帳が娘の手元にもたらされるのか?思えば不思議である)再びその宝を求めて洞窟に入る。といえばそこそこおもしろそうだが、最低の映画であった。もちろんお薦めしない。

 何しろ探検隊の間でひたすら無意味で陳腐な台詞が交わされる。まず無意味な台詞、ふつうこんな会話は誰もしないような台詞がはいる映画は駄作だと断じてかまわない。その無意味な台詞が満載なのだから超駄作というべきか。カルト映画にしてもひどすぎる、小学校の学芸会以下の映画だった。

 ほかに『グリーン・ルーム』という2015年のアメリカ映画も観たのだが、二週間くらいたったらどんな映画か忘れてしまった。忘れてしまうくらいつまらなかったのだろう。

 ついでに昨日観た『オペレーション・ダンケルク』2017年アメリカ映画も駄作。何ヶ月か前に観た『ダンケルク(2017)』の出来がよかったので、多少は見るべきものがあるかと期待したのにがっかりであった。観る値打ちなし。

2019年1月 9日 (水)

古森義久・黒田勝弘『米中新冷戦 ニセニュースとプロパガンダ全内幕』(産経新聞出版)

 テレビ各局や新聞各紙の視点には、それぞれ違いはあるものの、事実に対してバイアスがかけられていると私は感じている。それらを基準にものを見ることに何の疑いももたない人は、私の方がバイアスがかかった物の見方をしている、と考えるかもしれない。これは見方の問題で、どちらが正しいか、ということとは少し違う。

 この本の中でも言及されているが、アメリカの民主党寄りのメディアに沿った情報のみを「正しい」情報として選択的にそのまま垂れ流しているのが日本のメディアであるという指摘について、認識をしておく必要があるだろう。その民主党寄りのメディアがさまざまな情勢について判断の誤りを繰り返していることを、トランプ大統領の予測不能性を口実にすることはもういい加減にして欲しいところだ。

 古森義久氏も黒田勝弘氏も東アジア情勢、そしてアメリカの東アジアに対しての認識について、一般メディアとは別格の知識と情報網を持っている。それが正しいかどうかではなく、凡百の、どこかからの垂れ流し情報をもとにした裏か表かの論争とはレベルの違う、耳を傾ける価値のありそうな独自性を持っていると思う。

 奇をてらうのではなく、しかも独自性を以て説得的である意見ほど自分の考えを形成するために有用である。

 この本では中国が、そして韓国が、更に北朝鮮が現在どのような状況にあるかの現状認識の確認と、さらにそれをもとにして今後の予測が語られる。それらについてはアメリカの有識者、各国のポピュリズムに毒されていない学者の意見が参考として呈示されている。このような意見がどうして大手メディアに取りあげられないのか不思議な思いがする。

 当たり前のことを当たり前に見るとどう見えるかを教えてもらう思いがするが、上にも書いたように、大手メディアの報じる情勢のみで自分の意見を形成していると、これらの耳を傾けるべき意見が異端に見えるかもしれない。おもしろく、そしてわかりやすい。

映画を愉しむ(2)

『キング・ホステージ』2017年アメリカ
監督スティーヴン・C・ミラー、出演エイドリアン・グレアニー、ジョナサン・シェック、ジョン・キューザック、ニコラス・ケイジ、クリストファー・コッポラほか

 超バイオレンス映画。つまり暴力映画で、凄惨なシーンがあるので血を見るのが嫌いな人は観ない方が良い。ジョン・キューザックやニコラス・ケイジが出るが、主役ではなく脇役である。特にニコラス・ケイジは特殊メイクで別人に見え、キングと呼ばれるすさまじい悪役を怪演している。こんなのに目をつけられたら恐ろしい。

 アメリカという国が、どこでもこんな悪人が跳梁跋扈しているということはないだろうが、似たような話が無数に映画で描かれているところを見ると、こんな悪人が牛耳っている街が少なからずあるのではないかと思ってしまう。

 この映画のテーマは兄弟愛である。大人になって全く違う境遇に暮らすようになった兄と弟。兄マイキーはケチなチンピラ、弟J.P.は建設会社を経営してまっとうに暮らしている。その弟の財産を狙ってキングというギャングのボスが兄を誘拐する。誰もが兄もグルの狂言だというなかで、弟は兄を信じ、身代金の金策に駆け回る。

 そんなキングの行状を聞き込んだキングの兄が制止にやってくる。その兄をキングは勢いで撲殺してしまう。そこからキングは狂気を増して行動がエスカレートしていく。キングがエスカレートするのは、自分たち兄弟と、誘拐した兄とそれを必死で救おうとする弟を見て、その違いに感情が抑えられなくなったからである。

 辛くも兄マイキーは拘束を脱することに成功する。弟は、このままでは兄も自分も兄の家族も自分の家族も皆殺しになることを悟る。全く動こうとしない警察だが、J.P.の友人の刑事サル(ジョン・キューザック)の支援を受けてついにJ.P.は反撃に起ち上がる。映画のプロローグはその立ち上がった直後のJ.P.の覚悟を決めたすがたである。

 全篇暴力シーン満載。名優二人が出演しているが、正にこれはカルト映画そのものだ。暴力はきらいだが刺激的な映像には興奮する。サム・ペキンパー調の映像といおうか。しかしニコラス・ケイジは何でも演じるなあ。

2019年1月 8日 (火)

映画を愉しむ(1)

 暮れから正月にかけて、本も多少読んだが、それよりも録りためたドラマや映画を観ることの方が多かった。ドラマは北欧やイギリスのシリーズ物の一気見をしたので、ほかのことが手につかないほどである。何しろ8回シリーズとか、10回シリーズなどと半端な長さではないのであるが、勢いがつくと止まらない。   

 それにしてもイギリスや北欧のドラマはダーク調の映像が私の好みだであり、そういうのを見馴れると、韓流ドラマのお粗末さがいやでも際立つ。昔はもう少し出来がよかったけれど、最近は粗製濫造、二番煎じばかりに見える。日本のドラマはNHKの単発か、シリーズ物のWOWOWドラマをセレクトして観る。

 若いころに映画やドラマをとことん観るのが夢だったから、いまはそれを思いきり愉しんでいるのだが、映画やドラマを観るにはけっこうエネルギーが必要である。さすがに最近は集中して観たあとは大いにくたびれてしまう。衰えたものだ。

 ドラマは別にしてこの二三週間で観た映画をこのあとしばらく紹介していく。映画通で情報通というわけではないので、お粗末な感想文になってしまうと思われるが、備忘録として残しておく。

『チェイサー』2017年アメリカ
監督ルイス・プリエト、出演ハリー・ベリー、セイジ・コレア、クリス・マクギル、リュー・テンプルほか。

 ひとり息子を目の前で誘拐された母親(ハリー・ベリー)がひたすら誘拐犯たちの乗った車を追いかけていく様子が延々とこれでもかと描かれていく。最初のタイトルバックに重ねて赤ん坊時代から現在までの息子の成長の姿が写真で描かれていて、母子の愛の絆の強さが明示されているので、息子を取り戻すための彼女の必死さが強烈に共感される。

 チェイサー(追いかけるもの)の題名通り、ほとんどが追いかけシーンなのだが、これまで追いかけシーンを数々観て来たが、これほど緊迫している映画を観たことがない。とにかく誰でも心臓がドキドキすることを請け合う。

 ハラハラどきどきが好きな人ならお薦めの映画だ。

 ハリー・ベリーは『チョコレート』という映画でアカデミー賞を受賞しているが、わたしは未見。『X-MEN』シリーズでおなじみだ。わたしが特に記憶に残るのは『ザ・コール 緊急通報指令室』という映画での名演だ。これも観る値打ちあり。

パスポートの更新

 昨日、定期検診が終わったあとに名古屋に出掛けた。目的はパスポートの更新。手持ちのパスポートの有効期限は今年の9月まで有効なのだが、海外旅行は残りが6ヶ月以上あることが要件であるのがふつうだ。5月頃、計画があるので、それだと現有のものでは使えなくなる。

 暮れに床屋へ行ってまだ髪はサッパリしたままであるし、検診のために髭も剃ってある。検診で美人の女医さんに会うから身だしなみは整えるのである。これでもまだ女性を意識するのは男として健全なのだ。それならそのままパスポート用の写真も撮れるのである。

 正月明けで混むと覚悟の上であるが、今日申請すれば受け取りは15日となる。1月15日には必ず名古屋へ行くことに決めているのである。名古屋に移り住んで35年あまり、ほとんど毎年その日に熱田神宮へ参拝している。それなら参拝したあとにパスポートを受け取りに行けばよい。実は息子の誕生日がこの日であり、家族で熱田神宮に参拝して、ときには蓬莱軒でウナギを食うのがわが家の行事だったのだ。家族がばらばらになっても、私は独りで家族の健康で安全であることを祈願する。

 パスポートは10年用を申請した。10年くらいはまだ海外へ行けるだろうと思う。

2019年1月 7日 (月)

案ずるより・・・

 本日は定期検診日。まず体重を量り、採血、それが済んだら検尿、一息入れて血圧の測定を行い、あとは医師の診察を待つ。血液検査の結果が出るのに以前は一時間半以上かかったが、いまは少し短縮されてきた。その時間を見越して予約時間よりもだいぶ早めに行く。結果的にそれが一番早い。

 体重はいままでよりも二キロ余り重い。暮れから正月には、息子がいなかった分いつもの年よりも酒量は少なかったが、酩酊するほど飲み、かつ食べたいだけ食べていたので、検査結果はレッドゾーンをどれだけ越えているのか心配であった。

 正直に正月前後の酒量を報告すると、美人の女医さんは目を丸くする。想像以上に多かったのにちょっと驚いたようだ。血糖値は実際にレッドゾーンを越えていたが、美人の女医さんの想定内であったようで、ギリギリオーケーです、とのご託宣である。薬をちゃんと飲んでいるからこの程度でおさまっているので、自分を甘やかさないように、とのことである。おそれいりました、節制に心がけます。

 支払いはいつもほど待たずにスムーズだった。それなのに薬局で待たされた。いつもの倍くらいの人がひしめいていて、座る席がないほどだ。約一時間待たされた。結局自宅に着いたのは昼過ぎ、昨夕軽い食事をしたあと何も食べていないから腹ぺこである。あり合わせで食事して一息つく。

 さあ、今晩は何かうまいものを作って飲むぞ。

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食を読む(12)食事の環境

 奥野信太郎先生の『楽しい食事』という随筆から。食を読む、はここで一区切りとする。

「昔は人生五十年といった。いまはだいぶ平均年齢がのびたそうだが、まさか倍とまではゆくまい。よし倍となったところで人間の命は到底樹木の久しきには及び得ないものである。ならばせめて生きている間だけでも生き甲斐のあるようにしたいものである。古い道徳は口腹の欲望というものを極端に蔑視した。しかしもし食事が単に露命をつなぐだけの意味しかもたないものであったとしたならば、その人の一生というものは、なんと索漠とした人生であろうか。
 露命をつなぐ意味の食事が、一歩進んで楽しみ得る食事になったとき、人間は文化の第一段階に踏み上がったことになる。生き甲斐はできるだけ楽しみ得る食事にありつけることをおいてほかにそれほどないといったら、あるいは叱られるであろうか。叱られてもぼく自身はそう思っているのだ。
 いい景色のなかでうまいものを飲み食いする楽しみに越したことはないが、もしそれが一朝一夕に望み得べきことでないとしたら、せめて工夫して快適な食事の環境をつくることである。整頓された茶の間、清潔な食器、そして許されるならたとえ一坪二坪の小庭でも、其処に緑を眺め花を愛でることのできるように鉢をならべるだけの心づかい、もうそれだけでもいっこう頓着なしの食事よりどれだけましなことだかわからない」

 奥野信太郎先生は食にこだわりがあるが、人の作ったものばかりを食べながらのことではなく、朝食はほとんど自分でつくるというから本物である。翻ってわたしの眼前を見れば、食卓に食事と関係の無いものが置かれたままで食事をしたりすることがある。

 目を上げてもマンションの独り暮らし、緑が眼に入ることはない。もう少し美意識をもった生活にすれば、それが豊かになるということかと思うけれど、自分でつくって自分で食べ、自分で片付ける日々に豊かさをもたせるのもなかなか億劫なことだなあと思いもする。

 ただ、生きるためだけに食べるという生き方はしてこなかったつもりである。これからも食には多少こだわって生きるつもりであり、そのこだわりを失ったら自分でもかなり危ないことだと思う。

2019年1月 6日 (日)

食を読む(11)なれ鮨

 奥野信太郎先生の『秋の味覚』という随筆の中から

「紀州といえば思い出すのは「なれ鮨」のことである。ぼくはこの鮨を紀州の土地で味わったのではない。佐藤春夫(文豪・佐藤春夫は和歌山県の新宮の生まれ)邸でご馳走になってはじめてこれを知り、それから毎年秋になるときまってその饗応を受けることになった。
 秋刀魚、鯖、鯵といつたような青魚を開いて、ちょうど鮎のすがた鮨のような形にしてこれを永い間桶に漬けておき、紀州の村々の秋の祭の闌(たけなわ)のころ桶の蓋をとって食べるのだ。飯がすっかり発酵し、魚の塩味とその発酵の味がいかにもよく調和してまるで上等なチーズのような味が醸しだされるのだ。こんなうまいものはそう滅多にあるものではない。しかしこれもチーズと同じように、あの種の臭気を嫌がる人には向かないものかも知れないが「なれ鮨」は一名を「くされ鮨」ともいって、むしろあの臭気あっての味であるから、そういう人は「なれ鮨」を食べる資格がないということにもなろう。近江の「鮒鮨」もやはりこうした発酵の味を賞美するものであるが、ぼくの嗜好からというならば「なれ鮨」の方に断然加担してしまう」

 わたしは九十九里の近くで生まれ育ったから「なれ鮨」は子供の時から正月のご馳走の一品として必ず卓に登った。セグロ鰯という小型の鰯のごま漬け(おからと共に漬ける)や、鯵や秋刀魚をおからとゆず、または飯と共につけ込んで発酵させたものだった。小さい頃は苦手だったが成長すると共にその味に親しむようになった。もちろん酒の肴には絶品である。

 「鮒鮨」は何度か食べる機会があったが、たいてい一口程度だった。あるとき先輩の頂き物をたくさんお裾分けしてもらって、とことん味わうことができた。臭気はそれほど気にならなかったし美味しかったけれど、奥野先生と同様、わたしとしては食べ慣れている「なれ鮨」の方に軍配を上げる。これは好みの問題で、そもそも食べものとしては違うもので、優劣などつけるつもりはない。

 子どもの頃は地引き網で獲れた魚を毎日のように売りにきたから、小魚はいつも食卓にあった。あの時代のその魚の美味しかったことを思いだしていた。釣りをするようになったのも、そういう新鮮な魚が食べたかったからで、だから海釣り専門で、大物よりも小魚がたくさん釣れるのが嬉しい。その釣りもいまは行かなくなってしまった。

食を読む(10)続々・酸梅湯

「もう一つのことは、中南海の西端卍字廊(まんじろう)の庭園で、緑蔭の椅子に坐して酸梅湯を飲みながら涼味を縦(ほしいまま)にした時のことである。その庭園は磊々たる岩石を積み重ねて築山を造りなし、池あり、洞穴あり、山亭あり、四阿(あずまや)あり、その間に小径これを通じ、溢れるばかりの緑が四辺一帯に降り灑(そそ)ぐ光線と映発し、濃淡自在の烘染(こうせん・火が燃えて輝くような様子)を見せて幽趣まことに愛すべきものがある。二三の人たちと語りながらではあったが、わたしは数壜の酸梅湯を空けて、ほとんど午後一杯其処にいたのであった。ふと気がつくと非常に綺麗な発音で何か話し方のようなことをやっている声が聞こえてくる。ちょうどわたくしたちのいたところよりやや低めの岩蔭に四阿があって、其処に四五人の女学生が先程から楽しそうに語らっていたのであったが、そのうちに各自が交々物語を始めたのであった。まるで小鳥のように媚々(びび・好ましい様子)として続いてゆく美しい北京語の流れは、更にこの緑蔭を一層快適なものたらしめてくれた。見れば彼女たちの飲み物もやはり酸梅湯である。夏の北京と酸梅湯は何の理窟もなく素直に結びつき得る、いかにもぴったりした感じである。この和やかな午後の印象は事変前数日のことであったからよけいに感慨が深いわけである」

 情景が見えるようだ。事変とは日中戦争が始まった1937年のことか。いわゆる日支事変である。このとき奥野先生は北京市中で暮らしていたが、しばらくして危険になり、ほかの日本人たちと共に日本大使館周辺に移った。市中が落ち着くまでの二ヶ月ほどのことは『北京随筆』の中に詳しい。

2019年1月 5日 (土)

食を読む(9)続・酸梅湯

「何でも酸梅湯が出さかって間もない頃であった。西単からぶらぶら歩いて宣武門を出てみた。宣武門外は非常に雑踏する騒がしいところではあるが、妙なことにその西の方の水沿いはまるで取り残されたように静かな美しい柳の並樹が続いている。雑踏を歩する人たちばかりで何びとも西の方を見遣ってその静かな趣を愛でようとするものとてはない。皆忙しそうに一刻も早くその雑踏から逃れ出ようと努力しているかのように見える。わたくしはこの妙に対照的な喧噪と静寂とに興味を惹かれて、宣武門外へ出るたびに必ず橋の上からしばし西の方を眺めることを常とした。その日も柳条参差(りゅうじょうしんし・柳の枝が長短不揃いに並び続く様子)として水に映っている景色をぼんやりと眺めていると、突然に傍から乞食の子が物乞をした。乞食の子が現れるなど少しも珍しいことではないが、その乞食の子はわたくしに向かっていきなり「今年になってまだ一度も酸梅湯にありついておりません。どうか飲ましてやってください」と憐れみを請うのであった。試みに銅貨をやると、いそいそと橋の袂に蹲っている汚い爺のところへ行ってたったいまやった銅貨で酸梅湯にありついた。確かに乞食の子の顔には満悦の色が窺われた。その乞食の子でも味覚の季節感を人並みに食ってみたいという強烈な慾望をもって訴えてくるところが如何にも北京らしい出来事であると思う」

 中国の水辺は日本以上に柳の樹が多い。この話は夏だからすでに柳の葉は青々しているであろう。春の終わりだと柳絮が飛び、まるで雪の舞うようである。あの綿毛が陽の光に少し輝きながら飛ぶ様も合わせて思い出しながらこの話を読んだ。

食を読む(8)酸梅湯

 ふたたび奥野信太郎先生の『小乞の記』から

「夏の飲料で北京の人間に一番親しいものは酸梅湯(ソアンメイタン)であろう。梅の実の煮汁に砂糖の味をつけたものであるが、これが日本の梅酒などとは違ってごく淡泊な味のものものである。幾分濁りはあるけれども梅の味がよく保有せられていて、いかにも果汁を飲む感じが深い。それだけ季節感を伴ってその出はじめには殊に新鮮な味覚を唆られる。わたくしは酸梅湯について二つの出来事を覚えている。両方とも極く些細な、とるにも足らないことではあったが、不思議に印象に残っている」

 次回はその一つを、そして次々回にはもう一つを紹介する。 

2019年1月 4日 (金)

言い訳

 韓国駆逐艦のレーダー照射事件に抗議した日本に対して、韓国の答えは二転三転した。言うたびにそれまで言ったことと矛盾していても全く悪びれる様子はない。強く言いさえすれば日本は黙り込む、というのを長年にわたって学習してきた結果だろう。その言い訳は主に国防部の報道官のことばとして報道されているが、韓国政府はもちろん、当然のように文在寅大統領はだんまりを決め込んでいた。

 ところがここへ来て外交部も国防部と歩調を合わせて、悪あがきの言い訳から一転、日本非難に変わった。日本が低空飛行で挑発したことが問題だったと言い張り、日本の謝罪を要求しだしたのである。謝罪を要求するなら、日本が最初に抗議する前ならまだ多少は分かる。これでは日本が挑発したからレーダーを照射したといわんばかりであって、これまでの言い訳とまたまた矛盾が生じる。そもそも哨戒機は見れば分かる形をしていて、攻撃能力も無いに等しい。挑発などする飛行機ではないことは常識である。

 専門家によれば、国防部は陸軍や海軍や空軍のさらに上部の組織で、主に陸軍出身者で占められているという。しかも最近は軍出身社でない人物が要職にいて空軍や海軍のことに全く無知なのだという。しかも大統領府の意に沿うことしか言わない。それは言い訳のお粗末さに明らからしい。しかしそれはそれこそ言い訳にならない。

 今回の、悪あがきから開き直りのこの幼稚な反応は現在の文在寅政権だけの特徴と思いたい。ネットのコメントで知る限りの僅かな情報だが、韓国政府の対応があまりにお粗末で国を危うくするという意見が多く見られるからである。ふつうそう思うだろう。反対に、韓国国防部を支持する意見は、そのまま日本と戦争になってもかまわないという論外なものが多い。

 バイクに乗っていた大学生をはねて、車で一キロも引きずり、殺した男が逮捕された。被害者の遺体の惨状を想像するとその残酷さに身の毛がよだつ。しかし殺した男は人を引きずっているとは思わなかったと言い訳しているという。正月の酒を飲んでいたためにそれを知られたくなくて状況を確認せずに逃げたのであろうが、どんな言い訳をしようが、その男の行為で人が死に、しかも殺さずに済むのに殺したのであるから、その結果の責任から免れるわけではないことをこれから思い知るだろう。

 まさかいつものように奇抜な、とても人の納得することのあり得ないことを得々と言い張る「弁護士」などがかれの危険運転致死罪などを覆すことはあるまいと思うが、世の中は判らない。法律というもののいささか非人間的な部分をちょっと垣間見る機会があったので、ついこんな皮肉をいいたくなる。

 当たり前の感覚と違う裁きが続くと治安が乱れるもとになる、とわたしは思う。アメリカの弁護士業の盛んなことを映画や現実で見せられたらそう思うだろう。とはいえ中国のように、裁判所の、つまり中国共産党の言いなりの弁護士以外は生き残れないようなのも恐ろしいが。

食を読む(7)北京の夜

「北京の夜は暗い。一度胡同へ入れば両側は高い煉瓦塀であるから、空が澄みきっているだけに一層身のまわりの暗さを感じる。夜路を帰ってくるとき、よく胡同の中程に鬼火のような赤いランプの光を見ることがある。影のように女どもの姿が二三動いて買いものをしている。蘿蔔(ローボ)売りが来たからである。蘿蔔というのは大根の種類であるが、日本の大根のように辛くはない。冬は空気が乾燥しているのと、炉子(ルーズ)で室内を暖めている関係上、夜更けになると蘿蔔の冷たさは喉の渇きを止めるのに甚だ好適である。それにこれを食べていると煤球児(メイチウル)の瓦斯中毒を避け得るともいわれている。ずんぐりした幅広の包丁がさくさく音を立てながら程よく切っていくと老媽子(ラオマーズ)や姑娘がそれぞれの数片をもっては各自の門の中に消えてゆく。蘿蔔売りは右手で右の耳朶を抑えながら、大きな声で「蘿蔔エー」と叫ぶ。またどこかの門が開いて誰か買いに出てくる。隠して赤い灯がずいぶん長い間一つの胡同に止まっている。
 蘿蔔は冬の夜更けの暗い胡同を思わせる小乞である」

 炉子はオンドルのことか。煤球児は豆炭のこと。中国ではよく豆炭や練炭による一酸化炭素中毒事故が起こる。老媽子は年をとった女中さんのこと。姑娘は現代では娘さんや女性一般をいうが、この当時はお妾さんの意味があったかと思われるが不確か。

 胡同は四合院の並ぶ下町の露地街で、高い壁の間の路は狭く、家々の明かりが余りもれてこないから夜は暗い。北京の胡同は観光用に一部残されているだけでほとんど取り壊されたという。胡同の露地は不思議なことにほとんど曲がりくねっていて見通しがきかない。二十年ほど前に、胡同の中の四合院に住む北京大学の教授だった人(定年退職していた)のところにお邪魔したことがあり、それを思い出すとなつかしい。胡同はフートンとかプードンと聞こえる。

2019年1月 3日 (木)

食を読む(6)続・安くて美味い店

「(煤市街の)致美斎(ちびさい)は魚の料理の特にいい家で、鯉の丸茹でしたのを入れた牛乳のスープは、北京でもこの家の右に出るものはない。大柵欄(ターシラル)の厚徳福(こうとくふく)の大鮒の甘酸っぱい煮つけ、これも北京食味譜中の錚々たるものである。食べ終わってからその甘酸っぱいかけ汁で麺を炒めて出してくれる。これがまた素晴らしく食慾を唆(そそ)る。厚徳福の階上の一番奥まった小さな部屋、あすこがわたくしは好きであった。窓から隣の臨汾会館の裏庭がみえる。陰丹士林(インタンシーリン)の浅黄服を着た娘が人気(ひとけ)の無いさびしい晩秋の裏庭の日だまりで何かしら立ち働いていた。貧しげな菊の鉢が二つ三つ裏口の階段側に置かれてある。---厚徳福というと、いつもわたくしにはこの風景が眼に浮かんでくるのである」

 こういうなんということのない風景を、忘れがたいものとして記憶する感性にぐっとくるではないか。

 次回は『小乞の記』という随筆の中から、北京の夜の情景を描いた部分を紹介する。わたしの大好きな部分である。

だんだんイライラする

 正月の楽しみの一つが箱根駅伝である。そんな人は多いだろう。今年もこたつにこもって酔眼で箱根駅伝を見ているのだが、その箱根駅伝を見ているのか、CMを見ているのだか判らないほどのCMの氾濫にあきれ果てている。

 CMは短時間に訴えるものを盛り込もうとしているから中身も濃いし音も大きい。数分駅伝を見せたら一二分のCMという繰り返しだが、CMの方が三倍位インパクトがあるから下手をするとCMばかり見ている気になってくる。中継所などではさすがにCMの比率は減るが、応援している東洋大学の復路の予想外の不振もあって、忍耐の限度に迫りつつある。

 わたしはかなりイライラさせられているが、他のひとはどうなのだろう。余り気にならないのだろうか。わたしが異常なのか。だんだん腹が立ってきた。

食を読む(5)安くて美味い店

 引き続き『燕京食譜』から

「西四牌楼の沙鍋居、隆福寺(ロンフースー)灶温(ズァオウェン)、前門外の都一処(といっしょ)。いずれも極めて安価なうまいものやの一種であるが、この類を挙げていったならば際限が無い。空腹を覚えたときには随時に馳けこんで僅かな金で腹を満たすには北京は全く楽土の感がある。はじめの間は蝿がたくさんいたり、埃(ほこり)が卓を白くしているのがなんとなく薄気味わるく感じる人もあるようではあるが、そのうちにそれが平気になってしまうと、たとえば炒鍋居の豚の肉の味を説き、店の来由などを得々として聞かせ始めたりする。そして如何に安く、如何に美味いものを食べたかということに就いて、むしろ自慢気に語りたくなるものらしい。北京の人たちは、これがほとんど常識となっているためか、余り自慢はしない。黙々として安い美味い物を食べているだけである」

 中国で私もさまざまなものを食べたが、こういう安くて美味いものをほとんど食べる機会がなかった。それを教えてくれる人に出会わなかったからである。数少ない経験でいえば、西湖のほとりの大衆向けのレストランで、潮州料理を食べたときに安くてとても美味かったことを思い出す。飛び込みであった。

 また息子と上海にケチケチ旅行したときにバックパッカーの泊まるような蘇州河の近くの安宿に連泊して、近くの食堂で晩飯を食べたときもずいぶん安かった。猫がのっそりとわれわれが食べているそばを歩き、蝿がブンブン飛んでいたし、卓を拭くためのふきんは真っ黒で拭いた方が汚れるようなものだったけれど、そこそこ美味しく腹一杯食べられた。息子にはもう少し良いところで食べさせたかったけれど、その安宿は両替もできなくて手持ちの元が少ししか無かったのである。でも「美味かったよ」と息子は不満は無かったらしいので、ありがたいことであった。

2019年1月 2日 (水)

独りになった

 どん姫が帰ったので、独りになった。どん姫は無口な方なので、しゃべるのはほとんど私である。実はどん姫とこんなに親しく話せるようになったのは、彼女が25歳を過ぎてからである。友人達に聞いても、父親と娘の関係というのはそんなものらしい。少女から大人の女になるまでの間は父親を遠ざけるのが生物として自然なことだと聞いたことがある。

 なんだか独りでしゃべって独りで酔っ払ってしまった。来週は定期検診なので、本来は節酒乃至禁酒するところなのだが、勢いがついているので、三が日は酩酊状態でいるつもりである。

 きちんとチェックしたつもりだったのに、うっかりして年賀欠礼の葉書をいただいていたひとに二枚ほど送ってしまったことに気がついた。状差しの整理で片付けたときに別のところにまぎれていたのだ。どうしようもない。申し訳ないことである。今年も粗忽であるのは変わらないか、もっとひどくなりそうで情けない。

 外は穏やかな快晴で暖かい。本当に善い正月だ。

2019年1月 1日 (火)

謹賀新年

 新年あけましておめでとうございます。

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 わたくし、例年のように正月酒に酩酊しています。

 今年も拙ブログをよろしくお願いします。

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