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2019年2月

2019年2月28日 (木)

秋芳洞(2)

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上下が逆さまなわけではない。これらがしだいに鍾乳石に成長するのである。

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滝のように石が流れ下る。

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ハイライトの黄金柱。黄金柱はポーの『黄金虫』のもじりか。

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昔はもっと黄色かった気がする。左手のピンクのものは何だろう。やはり鍾乳石のようであるが。

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なかなか奇怪な景色である。

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大黒柱にしては頼りない。

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天井は高く、なかは広々している。アップダウンもそれほどないから、お年寄りでも問題ない。

もっと先の支洞もあるが、ここで引き返す。

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学生時代も目にした石碑。

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洞内を流れていた地底の川がこうして渓流になっている。この川に十センチほどの小さな魚がけっこういる。雨がぱらついてきた。

ここから秋吉台の展望台に行ってみる。

悲観的だが否定しない

 北朝鮮がどんな約束をしてもそれが守られるかどうかは疑わしい。過去平然と約束を破り、そんな約束などなかったかのような厚顔無恥を繰り返してきた前歴があるからである。

 そのように悲観的ではあるが、全面的に否定してかかってはなにも事態は動かない。もしかすると、という淡い期待は持ち続ける必要があるだろう。北朝鮮も約束破りを繰り返すごとにハードルが高くなることは承知のはずだと思いたい。

 それにしても、北朝鮮が経済大国になる可能性がある、などとトランプ大統領も面白いことをいう。金正恩という幼稚な男には、北朝鮮をそのくらい持ち上げるのがちょうど良いと思っているのだろうか。食えない男だ。

秋芳洞(1)

学生時代に友人と訪ねたのが最初で、それから今回が六度目か七度目の秋芳洞訪問である。いつも写真を撮るが上手く撮れたことがない。今回は少し感度の良いカメラを持っていたので感度を最高にして、なおかつ眼で見た通りの暗い状態で露出を切り詰めて撮ってみた。


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秋芳洞入り口。洞窟というとわくわくするのである。ずいぶんいろいろなところへいった。ベトナムでも中国でも洞窟に入った。海外の洞窟はサイケデリックに証明されているのでどうも好きになれない。最近は日本の洞窟も色つきの照明をしたりしていていけない。この秋芳洞はそういうことをしていないのでよろしい。

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中側から外を見る。

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この秋芳洞は本当に暗い。昔はそれほどくらいと思わなかったから、私の視力が落ちて暗く感じているのかもしれない。

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あとで見たらみえていたように撮れている。

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ここもこんなに暗くなかったはずなのだが。

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なかなかよろしい。

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こういうのが大好き。洞窟の天井の暗がりを見るとドキドキする。

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こんなものができるなんて不思議だなあ。

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この色合いはもともとのものだろうか。

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まさか人間の出入りが多いので、苔などの植物が生えたのではないだろうなあ。

もう一回だけおつきあい下さい。

2019年2月27日 (水)

瑠璃光寺の五重塔

広島で息子と飲んだ翌朝、早めに出発して山口市に向かう。ここの瑠璃光寺の五重塔が見たかったのだ。今まで見た五重塔や三重塔の中で、私が最も美しいと思うのがこの瑠璃光寺の五重塔なのである。


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駐車場に車を置き、花の間から塔を見る。残念ながら電線が入ってしまった。

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池越しの五重塔。以前一度来ているのだが、そのときは夕方だったので逆光だった。だから朝来たかったのだ。

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うしろの山も入れて絵はがき風に。

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雪舟の銅像。

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大内光世の銅像。この辺りは大内氏の時代に最も栄えた。

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塔の下まで行く。本当に美しい。

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満足して本堂には立ち寄らずに瑠璃光寺をあとにする。

このあと六回目か七回目の秋芳洞に行く。洞窟が大好きなのである。

映画『ラスト・キング 王家の血を守りし勇者たち』2016年ノルウェー

監督ニルス・カープ、出演ヤーコブ・オフテブロ、クリストファー・ヒヴュほか

 13世紀初頭、ノルウェーはホーコン三世の統治下にあったが、デンマークが東部地区に侵攻、それを機に実権を奪おうとする者たちなどで国内が揺れていた。そんな混乱のなか、ホーコン三世は裏切り者に毒殺されてしまう。王はいまわの際に自分の血を継ぐ赤ん坊がいることを告げる。

 王の親衛隊である勇者たちをビルケバイネルというが、そのビルケバイネルたちがその赤ん坊、後のホーコン四世を守り抜いていく物語である。そのビルケバイネルたちのなかにも裏切り者がいたりして、赤ん坊を守る者たちはつぎつぎに死んでいく。

 妻子を人質に取られて余儀なく赤ん坊の居場所を敵におしえてしまうシエルヴァルドは裏切り者として処刑されそうになるが、そのときに敵の猛攻があって結局赤ん坊を守り抜く役割を担うことになる。彼の獅子奮迅の戦いがこの映画の見所である。

 彼等は英雄であるが超人ではない。一人で何人もの敵をバッタバッタとなぎ倒すことなどできない。ほとんどが冬のノルウェー、雪の中であり、スキーでの闘争や追撃のシーンがふんだんにある。冬山の苛酷な世界はノルウェーの自然そのままで、その自然の映像が素晴らしい。

 あまり見たことのない世界が描かれていて、期待以上のもうけものの映画だった。

呉(2)零戦と「てつのくじら」

戦艦大和の隣の部屋に零戦などが展示してある。


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上から見た全体図。

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機銃とコクピット。飛行機の機動性を重視したので、操縦士の安全は二の次だったという。つまり装甲は薄い。

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優秀な人がたくさん死んだ。

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大和ミュージアムの三階から向かいの「てつのくじら」を見る。実物の潜水艦である。

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ここは海上自衛隊の施設。

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てつのくじら館は入場無料。海上自衛隊の成り立ちとその役割について詳しい説明が展示されている。特に詳しいのが機雷の掃海についてである。それについては朝鮮戦争のときにもたくさんの海軍出身者が機雷の掃海に従事したことを先日テレビで見たところだ。日本人の犠牲者もけっこういたのだ。

機雷についての実物模型と説明があり、潜水艦の進化発展の様子の案内もある。海上自衛艦らしい案内の人に詳しくたずねている人が何人もいて、それがすべて女性であるのが興味深かった。

あの「てつのくじら」の中に入ってみる。

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分かりにくいけれど、ここが入り口。

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若い男女の二人連れが前を行く。女性の方が積極的に詳しく見ているようだった。

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いかにも潜水艦の内部らしい場所。頭をぶつけないように注意。

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通路もすべて狭い。当たり前だけれど。トイレや寝る場所、食堂や炊事室もあったけれど、撮影せず。

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前がみえない操縦室。

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計器だらけ。

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説明図。日本の潜水艦は優秀で、静音性に優れるという。探知されないことが潜水艦の最も重要な性能なのだ。

日本近海には中国やロシアや北朝鮮や、もちろんアメリカの潜水艦がひしめいているという。ひそかに沈められているものもあるという噂もあるが、本当だろうか。沈められても抗議はできないし、沈めた方も手柄顔に報告しないから分からないのである。分からないことは、ないことになるのである。

2019年2月26日 (火)

呉(1)大和ミュージアム

兄貴分の人と美味しい酒をいただいた翌日、徳島から広島に向かう。時間があったので、一度行きたかった呉に行く。もっと時間があれば江田島にも行きたかったが、そこまで余裕はなかった。機会があれば息子に案内してもらおう。


呉という街がこれほど大きい街とは知らなかった。道路が広々している。そのぶん信号が長いので、街に入るとなかなか先へ進めない。

まず大和ミュージアムへ行く。戦艦大和に関連した資料館だ。

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大和ミュージアム。

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建物の外に主砲の41センチ砲が展示されている。

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砲口側から。

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戦艦大和の艦首側から。

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艦尾側から。

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艦橋と主砲部。

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艦内展示の様子。正面が戦艦大和。

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爆裂して海底に沈んだ大和の遺物。

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わずかに引き上げられたもの。

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艦と運命を共にした人々の遺影。

あまりにも巨大なそのすがた、その武器の破壊力の大きさに思いを馳せ、戦争のための兵器、それは人命を奪うための道具なのだが、そのために傾けた人智と資材と資力の大きさに空しさを感じながら、同時にそこに不思議な魅力も感じてしまう。

人間とは愚かなものだというが、自分もそのひとりであり、その矛盾をどう乗り越えるのか。互いの利害が反するとき、世界が平和であるのは難しい。

映画『バルジ・ソルジャーズ』2018年アメリカ映画

監督スティーヴン・ルーク、出演スティーヴン・ルーク、トム・ベレンジャーほか

 戦争映画の小品として、見る値打ちのある作品だと思う。連合軍の弾はとても良くドイツ軍に当たるのに、ドイツ軍の弾はあまりこちらに当たらないのは、こちらが待ち伏せているケースが多いからとしておこう。それにこだわらなければリアリティのある戦争映画だと思う。

 ノルマンジー上陸作戦を成功させて連合軍はフランス国内を進軍している。すでにドイツ本土への攻撃も始まって終戦間近との噂も出始めている。そんななか、ドイツ軍は起死回生を謀って連合軍の分断を狙った大反撃作戦をひそかに進めていた。連合軍のフランスでの防衛戦はのびきって、しかも経験不足な弱兵や疲労困憊した兵隊が守備をしていた。

 そこに戦車部隊を伴って、突然ドイツの大部隊が攻撃を仕掛けてくるのである。

 この映画ではその寡兵の部隊を引きつれて命令に従って防衛戦を死守しようとするカッパ中尉(スティーヴン・ルーク)とその部隊のリアルな現場の様子を主体に、生還のおぼつかない命令をせざるを得ない後方の上官(トム・ベレンジャー)の苦渋の決断が描かれる。

 敵味方が入り交じる肉兵戦を繰り返し、しだいにドイツ軍に呑みこまれていく連合軍。ある意味で前線の兵士達を見殺しにせざるを得なかった状況が克明に描かれる。この決死の反撃でドイツ軍の進行が遅れ、逆に兵站が伸びて、後に連合軍による反撃が奏功することになるのはこの映画の話の後のことである。

 エンドクレジットで延々と英雄たちの功績が文章で綴られているが、読むことができないのは残念である。

 ちなみに戦争におけるバルジとは戦端が突出した状態のことをいうらしい。そういえばヘンリーフォンダが主演した『バルジ大作戦』という古い映画を観た記憶がある。戦車の戦いの映画だったとだけ記憶している。

轟神社と轟の滝

四国、国道193号線、霧越峠への路は、山道に入ると突然一車線で狭い路になる。しばらく北上し、その途中の轟神社への案内を目印に、さらに狭い道を曲がる。行くこと7~8キロで駐車場に到着。車とすれ違わなかったのは幸いである。下手をすれば100メートルくらいバックすることもあり得る路なのだ。


そこから神社への路を上る。

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この橋を渡ると神域に入る心地がする。

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ここには滝がたくさんあるのだ。

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ご覧の通り。山歩きの好きな人ならこたえられない場所であろう。私は神社の先の本滝一つで十分である。

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小柄の素朴な不動明王様がお出迎え。ここらあたりから階段が始まる。

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階段を登り切ったと思った先にある轟神社の急な階段。少し前ならどうということはないが、近頃はとみに体力が衰えてけっこう辛い。

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神社の入り口に到着。『家内安全』『交通安全』『大願成就』と盛りだくさん。登った甲斐があろうというものだ。

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拝殿。

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神社の由緒書き。女の神様らしい。神社横から轟の滝に向かう。それほどの険しい路ではなかった。

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渓流沿いに歩くとこんな淵がある。誰もいないと何か出て来そうな気がする。身体は大きいけれど気は小さいのである。自然や神気に感応しやすいのだと自分では思っている。滝音が強くなる。

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轟本滝神社の鳥居。滝がご神体なのだ。

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ご神体の滝はこの割れ目の向こうに落下している。ここから濡れた石を踏んでさらに先へ進まないと滝を観ることができない。

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けっこう感動してしばらく眺めていた。もっと先へ行けないことはないが、すべるし、最近平衡感覚も鈍っているので、やめておいた。

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滝の下部の色合いが恐いくらい神秘的である。

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水神の竜神と脇の不動明王様にご挨拶をして滝をあとにした。

このあと元の国道193号線に戻る。車に出あうことはなかった。ナビは元の方、日和佐へ戻れというけれど、そのまま霧越え峠を北上することにした。それがすごい路だった。

道幅が3~4メートルの一車線の路が延々と30キロ続いたのである。最近狭い路になれてきたとはいえ、緊張の連続30キロはかなりつらい。ガードレールのない部分もおおい峠道なのである。四百番台ではしばしばこういう狭い路のことがあるが、百番台でこんなのは初めてだ。四国畏るべし。二度とこの霧越峠は走りたくない。


2019年2月25日 (月)

日和佐城と薬王寺

奥津温泉の宿のもう一組というのが、私と同様ひとり旅の男性だった。朝風呂でいっしょになり、いろいろと話をした。名古屋にも住んでいたことがあったが、親の面倒をみるためにふるさとの岡山へ帰ったそうで、名古屋は住みやすいところでした、となつかしそうだった。


私より少し年上の彼は、山野草の写真を撮るのが趣味だということで、今日は人形峠周辺を散策するという。

さて、時間は遡って、淡路島に宿泊した翌日、四国を散策した。最初に四国東海岸の日和佐へ向かう。以前日和佐の梅亀水族館の前の国民宿舎(?)のようなホテルに泊まった。砂浜が目の前の、景色の好いところだったが、ずいぶんさびれた感じのホテルだった。今回は水族館はパス。そのときに寄れなかった日和佐城に登り、日和佐の街を見下ろそうと思った。

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日和佐城を見上げる。

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少しアップで。

登り口に、現在お城は閉館中との看板が掛かっている。城に入れなければしかたがない。引き返して四国巡礼札所の医王山薬王寺に向かう。立派なお寺である。四国めぐりはしたが、ほとんど札所は立ち寄っていない。

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薬王寺山門。

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仁王様がお出迎え。

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こんな石碑がある。昔(高校生のころ)読んだことはあるが、おぼえていない。

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薬王寺境内。薬師如来が逆光でシルエットになってしまった。

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境内から日和佐の街を見下ろす。いちおう見下ろすことができたわけだ。

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本堂の彫り物が素晴らしい。龍の彫り物は左右両側にある。

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家族で真言を唱えてお参りしている人たち。何か願い事があるのであろうか。

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好いお顔のお地蔵様。

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境内の外れから日和佐城が遠望できた。

このあとさらに室戸岬方向に南下し、途中で右に折れて霧越峠越えをする。途中の轟神社と轟の滝が目当てである。それがまたすごい路だった。

映画『インビジブル 暗殺の旋律を弾く女』2018年イギリス・アメリカ

監督アンソニー・バーン、ナタリー・ドーマー、エド。スクラインほか

 主人公のソフィア(ナタリー・ドーマー)は盲目のピアニスト。彼女のアパートの上階に住む女性ベロニクが転落死する。状況から警察は自殺と判断するが、実は死んだ彼女の父親は暗黒社会の大物だった。不審を感じたオスカーという刑事は粘り強く捜査を続ける。

 やがて刑事はソフィアという女性が秘密をかかえているらしいことを探り当てる。しかもアパートの立て付けが悪いので物音は筒抜けのはずで、なにも知らないと言い張るソフィアだったが、耳が敏感なはずの盲人が階上の物音を聞いていないはずがないのである。

 映画ではソフィアを中心に、彼女の生活が淡々と描かれていてほとんど山場がないのだが、盲人の生活を見ていると、こちらも盲人になった気になってしまうもので、そのことが見所でもある。無関係にみえたのに、実はベロニカと隣人以上の関わりがあったことが明らかになる。やがて彼女の悲惨な生い立ち、そして彼女のかかえる秘密も明らかになる。

 彼女がなにをしようとしているのか。彼女の秘密が鮮明になるとともに、彼女自身も衝撃の事実を思い知らされる。ラストにさらに衝撃の事実が判明するのだが、それは予想しないではなかったが、それでは矛盾も生じてしまうので、ない方がよかったような気がする。

ぼたん鍋、大塚国際美術館(5)

一昨日、秋吉台を散策中に携帯に電話が入った。昨晩泊まった(今朝そこにいる)津山の北の、奥津温泉の宿からだった。ぼたん鍋の用意ができるけれど、食べますか?という。頼んだのはもちろんである。


そういうわけで昨晩はぼたん鍋。ここは宿屋というより民宿で、昨夜は客は二組だけ。宿の主人が話し好きで、私が食べている前で延々と話をする。面白いので私もつき合う。酒でも追加で頼んで二人で飲んでも好いが、それだとキリがない。

味噌仕立てのぼたん鍋はたいへん美味であった。猪ももう季節的に終わりだそうだ。雄の猪は春になると盛りがついて、何十キロも雌猪を追いかけるので、身の脂がほとんど落ちてしまい、美味しくなくなるのだという。豚コレラの話などする。岡山県はいまのところ大丈夫らしい。そこから、最近猿が傍若無人に跳梁跋扈しているのだという話になるのである。確かにそこら中で猿を見かけるようになったし、近寄ってもまったく逃げない。

手提げ袋などを持っていると襲ってくることもしばしばだというから恐ろしい。奥津温泉もいつもの年ならまだ雪があるが、今年は雪が少なくて助かっているそうだ。雪の間は宿は営業しないという。雪かきが面倒だから、と笑っていた。

さて大塚国際美術館の最後。適当に見繕ったところを紹介する。

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レンブラント、だと思う。

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これもそうか。解剖の講義中。

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これも不思議な絵(部分)。なにしろ左手にパレットと絵筆を持った画家が描かれているのだ。

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大人気のフェルメール、だったと思う。

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大好きなゴヤ。これはゴヤ展で現物を見たことがある。

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これもゴヤ(部分)。血まみれで殴り合っている。「黒い部屋」の一連の作品の一つ。

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これはドーミエだったっけ、ちがうかもしれない。

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現物はもっとインパクトがあったのだが・・・。

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印象派をかろうじて何点か見る。

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ドガだったっけ、ロートレックだったっけ。Dsc_9702

これも同様。なんだか写実的な絵よりリアルな気がする。

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スーラの点描画、「グランドジャッドの日曜日」。これは確か大坂万博のときに現物を観たような気がする。とても大きい。

もっとたくさんあるけれど、今回はこれまで。ほんとうは現代絵画も見たかったが時間がなかった。もう一度行こうと思う。

2019年2月24日 (日)

大塚国際美術館(4)

昨晩も早めに寝付いたので夜中に目が醒めてしまった。しばらく起きて本など読んでいたがまったく眠くならない。そう思っているうちにあけがたに眠り込んで、気がついたら早めに頼んでいた朝食の時間をすぎている。あわてて身だしなみを整えて食堂へ向かう。今日も良い天気だった。


今回の旅は雨を覚悟していたのに、ほとんど降られることなく済んだのはありがたい。

さて大塚国際美術館だが、あまり同じところにとどまるのもどうかと思うが、今回ともう一回くらいで切り上げることにしよう。

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ダ・ビンチの最後の晩餐。これは現物が修復されたものの方。修復前のものももう一面ある。

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こういう無表情の顔が北欧絵画(だと思うが)の特徴。こういう顔を見ると、現代絵画のウィーン派のハウズナーの絵を思い出す。原点はこういう肖像画ではないか。

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こういう不思議な絵が好きだ。

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不思議というか、奇妙な絵の代表、ボッシュの絵。ここではしばらく部分を楽しんだ。

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右面。これも一種の地獄絵であろうか。

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本当に不思議な絵である。

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どうも天国らしいのだが・・・。

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鳥や魚もデフォルメされると異様な怪物にみえてくる。

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こういう強烈なのもある(もちろんボッシュではない)。

こういうところでゆっくりしているからちっとも先へ進めないのである。

映画『デンジャラス・トレジァー 狙われた秘宝』2016年アメリカ

監督アミン・マタルカ、出演スタナ・カティック、ラザ・ジャフリーほか

 冒険家で考古学者の弟がヨルダンで殺されたという知らせを受け、姉の女性医師レイチェル(スタナ・カティック)は国務省のジェイク(ラザ・ジャフリー)に伴われてヨルダンにやってくる。ところが弟の死体はしばらく引き渡せないといわれてしまう。

 弟の死の真相を突き止めようとするレイチェルをジェイクは必死で止めようとする。ここはアメリカの主権の及ばないヨルダンであり、どんな行動も身の危険につながるからだが、レイチェルは意に介さない。

 こうしてさまざまな危難が彼女に及ぶなか、彼女は暴走していく。それを必死でかばいながら振り回されていくジェイク。ふつうなら一日二日で命を落とすところが、ついに驚くべき真実を突き止めてしまうのがこういう映画の楽しいところだ。

 砂漠のなかで水もなしでいるのがどれほどつらいことか、そのへんはリアルに描かれている。カナダ映画で似たような映画だとセットもちゃちだし、俳優もへたくそで台詞もひどいけれど、さすがにアメリカ映画、俳優は上手でスリルもそれなりにあって、そこそこの出来である。ただ、ジェイクになんとなくかがやくものが見られなかったのが残念だ。最初と最後の彼がもっとちがってみえないといけないだろう。

大塚国際美術館(3)

小学生のときから図書館に入り浸る少年だったので、すべての棚の本の配置とどんな本があるかをおおむね把握していた。好奇心も旺盛だから、たいていの本は開いて見る。だから図鑑も昆虫から草木、鉱物まで何でも一度は眺める。


中学生になって今まで見たことのない棚があった。西洋美術のコーナーである。大きな図版の本が並んでいて、それ開いたらびっくりした。女のひとの裸の絵がたくさん並んでいるではないか。

女のひとの裸など母親のものしか見たことがないし、絵の女性のようにふくよかでも魅力的でもない(お母さんごめんなさい)。

というわけで裸の女性の絵がならんでいたところのものを何点か。

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右手の叱られているらしき跪いている少女はどうして描かれているのだろうか。

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この絵は著しく性的なものを連想させる。なにか神話の話があるらしいことは以前読んだけれど忘れた。

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不思議な背景。

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左真ん中のお尻だけみえているのはなにをしているひとなのか。おっぱいを触っている天使のお尻でないことは間違いないはずなのだが。

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これも右手に不思議な女のひとが書き込まれている。


2019年2月23日 (土)

昨晩のこと、そして大塚国際美術館(2)

昨晩は広島に泊まり、息子と飲んだ。話したいことが山ほどあるのに、つまらない話ばかりしたような気がする。あっという間に時間が過ぎた。息子はもう一軒行きたそうだったが、翌日に残るのがつらいのでそれまでにして別れた。


別れてホテルの部屋に戻ったら、言いしれぬほどの寂寥感が押し寄せた。かんがえたけれど、どうしてなのか理由はよく分からない。人生には気持がとても繊細になる時間というものがあるもので、昨晩はそれが特に強く感じられた。

今日は山口の湯田温泉にいる。ここは中原中也の生まれ育ったところである。詩が苦手で、詩にあまり感じる神経がないのだが、萩原朔太郎と中原中也だけは心が揺さぶられる。湯田温泉に泊まるのは、中原中也記念館をゆっくり訪ねたかったからで、ついでに瑠璃光寺と秋芳洞、そして秋吉台に立ち寄った。そのへんの報告は後日。

とにかく中原中也記念館では、壁に掲げられた詩にいつも以上に心が揺さぶられ、琴線に響いた。

では大塚国際美術館の絵のつづき。たくさんあるなかの、特に好いなと思ったもの、以前から知っているものなどをいくつか紹介する。詳しい説明は調べれば分かるけれど省かせていただく。ご存知のものが多いはずである。

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この絵のなかに作者のエル・グレコ本人と彼の息子が描きこまれている。息子は左下の黒服の少年。こちらを見つめている。もう一人視線がこちらを向いているのがエル・グレコである。わかるかな?

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あの火山の灰に埋もれたポンペイから発掘された壁画。何枚もの続き物になっている一枚。素晴らしい。

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アレキサンダー大王とペルシャの王様との戦い。モザイクタイル画の超傑作。

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ペルシャの王様。

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アレキサンダー大王。

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ギリシャの賢人図。哲学は歩きながら討論することで深まる。

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ラファエルの聖母子像。

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絵の名前を忘れた。

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ボッチチェルリの『春』だったと思う。

つづきは明日。

アニメ映画『タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密』2011年アメリカ・ニュージーランド

監督スティーヴン・スピルバーグ

 最近のアニメ映画はテンポが速くてめまぐるしい。早送りの映像を観ているようである。それはアニメ映画が高速化しているのか、それともこちらが年齢の衰えのせいでついて行けなくなっているからなのか。そもそもが、世の中がアップテンポになっているように感じられるところから、私が低速化しているということなのだろう。

 タンタンという少年記者は、つぎつぎに事件を取材し、その謎を解き、解決してスクープを続けている。その彼がたまたま手に入れた古い帆船ユニコーン号の模型をめぐり、世界を股にかけた物語に巻き込まれていく。

 言い古された言い方で恐縮だが、大人も子供も楽しめる映画だ。あれよあれよとめまぐるしい場面転換に振り回され続けた私でも、何とかその面白さは分かったのであるから間違いない。それにしても最近の立体アニメは実写並みのリアリティで感嘆する。それでさて、どんな物語だったのか、よく覚えていない。お蔭でもう一度観たらたぶんまた楽しめるにちがいない。

一昨晩のこと、そして大塚国際美術館(1)

一昨晩は徳島に住んでいる兄貴分の人と久しぶりに会食した。むかし名古屋の営業所で一時期いっしょだった。ほとんど毎日飲んでいた。その兄貴分の人もいまは年間ドライデー200日を目指しているそうで、信じられない。


どこも具合の悪いところはなく、薬も一切飲んでいないというから、この年代としてはとても珍しい。例によって調子に乗って大半は私がしゃべってしまった。悪い癖である。

孫の話になるとメロメロである。そういうものなのだろう。だいぶ囲碁の腕を上げた気配だが、いつかお手合わせする機会はあるだろうか。つき合っていただいてうれしかったし、ほんとうに楽しかった。迷惑を顧みずまた来よう。

その前に立ち寄った大塚国際美術館の写真があるので一部紹介する。本物の原寸大を陶板に焼き付けたもので、手で触ることができるというのがすごい。もちろん写真は撮り放題である。

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有名なミケランジェロが描いたシスティナ大聖堂の天井画。

大聖堂もそのまま再現されているから大迫力である。

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死んだ人を天国と地獄に振り分ける神様。

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地獄行きの人々。

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どうしてここに魚が描かれているのだろう。

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この絵のなかの最も有名な部分。指と指がまさに府連とするところ。ガイドのおねえさんがポインターでその部分を照射している。グリーンの点がそれである。

このあとたくさん観たけれど、特に有名なもの、私が好きな絵を何回かに分けて紹介する。

2019年2月22日 (金)

蓮花寺

伊弉諾神社から五百羅漢のあるという蓮花寺に向かう。淡路島を横切る形になる。蓮花寺への横道は狭い路で、往きはよかったのだが、帰りは切り返しの部分で苦労した。こういうときアテンザのセダンは大きすぎて苦しい。


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蓮花寺山門。羅漢さんだから石仏で寺の周辺にならんでいるものと思ってウロウロしたのだが見当たらない。

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山門の仁王様。いい顔をしている。

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おなじみ、地獄図。

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境内を回っていたら羅漢堂を発見。羅漢様たちはここにいたのだ。

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おおこれは!とても五百どころではない羅漢様たちがずらりとならんでいる。これが左右にもっとたくさんいる。

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全部顔がちがう。台座にはそれぞれ名前が書かれている。
個別にいくつかアップで取りあげてみる。

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羅漢様を堪能して寺をあとにした。

ここから東海岸へ出て南下し、橋を渡って大塚美術館へ向かう。

映画『ラスト・リミット 孤独の反逆者』2016年アメリカ

監督ジョーイ・ジョンソン、出演デヴィッド・S・ホーガン、アンジェラ・ディマルコ、ダンジェロ・ミディリほか

 ゴーストと呼ばれる凄腕の殺し屋(デヴィッド・ホーガン)は姿を見せずに暗殺をやり遂げてその正体はまったく知られていないはずだったのだが、ある要人暗殺のためにチームを組むことを強いられる。

 物語はチームの一員でもある女性が殺されたことを知り、ゴーストがその真相を追うシーンから始まる。その女性とゴーストは愛し合う仲になっていた。そのことが黒幕の怒りを買ったのか。その女性は黒幕の片腕とも呼ばれ、黒幕の愛人でもあったらしいのだ。愛した女性のためにゴーストは復讐を期す。

 やがて映画は要人暗殺のチームの面々の回想シーンとなり、その暗殺の作戦、手順そして実行へいたる様子が再現されていく。同時にその事件の捜査官がゴーストの死の現場(その時点でゴーストの拷問死体が発見されている)から、事件を遡ってその経緯をたどる話が並行して描かれ、さらにゴーストの復讐談が重なっていくので、時系列が錯綜する。それなのに見ていて混乱しないのはシナリオの出来がいいからだろう。

 ラストにすべてが明らかになるが、要人暗殺そのものが罠だったことはある程度予想はつくものの、面白さは損なわれない。主人公のゴーストを演じたホーガンはなかなかクールないい顔をしている。また観る機会がありそうで、今後楽しみな俳優だ。

伊弉諾(いざなぎ)神社

伊弉諾と伊弉冉の二柱の神様が日本の国を産んだとき、最初に産んだのが淡路島であるから、淡路島にそれにちなんだ神社があるのは当然かもしれない。伊弉諾の神は老後は淡路島で暮らしたそうだ。


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伊弉諾神社拝殿。

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扁額と注連縄など。

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本殿を横から臨む。

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入り口の門を振り返る。落ち着いた好い佇まいだ。

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放生池。

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参道を神社側から見る。

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淡路島のこの神社を中心として日本を見ることができる。

斜めの線に沿って重要な神社が並んでいて、それが日本の中央構造線にもそっていることが不思議な暗合である。ここに日本の地脈があるのだと思う。

このあと五百羅漢を見に蓮花寺というところに行く。

2019年2月21日 (木)

大震災を見て、体験する

淡路島北西岸に阪神淡路大震災記念館がある。正式には北淡震災記念館である。


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入り口を入ってすぐのところに写真のパネルがある。当時のことを思い出した。勤めていた会社が大坂の会社だったので、被災した人もたくさんいた。

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この記念館は地震によってできた断層の上に建てられている。この断層帯は野島断層と名付けられていて、地層の研究から、巨大地震が二千年に一度、少し大きな地震が数百年に一度起きていると係の女性から教えてもらった。二千年に一度なら、そういう断層が百カ所あれば、二十年に一度巨大地震が起きていることになる。

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手前の部分が道路、向こうが今回生じた断層。十数キロにわたるが、この記念館では百メートルほどが当時のままに保存されている。

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断層が二つ生じた部分。

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右がせり上がってできた断層。これは実際の断層の切断面。すごい。

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このフェンスは真っ直ぐだった。1.2メートルほどずれたという。赤い標識のところが断層面。

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震度を体験できる震災体験館。

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この部屋全体が揺れる。私もこのソファーに座って大震災の揺れを体験した。最初に東日本大震災の揺れ、次に阪神淡路の大震災の揺れを体験させてもらう。

東日本大震災のときは実際に九十九里の近くで体験していて、その揺れにちかい。ゆっくりとした揺れが長くつづく。

阪神淡路大震災は直下型なので、ずっと激しく感じられる。どちらも実際の揺れより弱めてあるそうだ。実験と分かっていても直下型の方は恐怖感を感じた。

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実際の震災の後の台所の惨状が再現されていた。

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南海トラフの立体地形図。南海・東南海地震の覚悟をしておかなければならないと強く実感させてもらった。

映画『アルカディア』2017年アメリカ

監督ジャスティン・ベンソン、アーロン・ムーアヘッド、出演ジャスティン・ベンソン、アーロン・ムーアヘッドほか

 カルト集団が舞台で、あまりSFらしくないが、スリラーSF特集四作品のなかでは、この『アルカディア』が一番出来がよかった。

 ジャスティン(ジャスティン・ベンソン)とアーロン(アーロン・ムーアヘッド)の兄弟は、十年前、カルト集団(教団か)の「アルカディア」から脱走して町に住んでいるが、前歴を知られていて世間にまったくなじめず、孤独に暮らしていた。

 そんなときアルカディアの一員から一本のビデオテープが送られてくる。

 兄は反対するが、弟はアルカディアに郷愁を持っており、アルカディアに一日だけ行って見たいと強く求める。日頃ふさぎ込みがちな弟に押し切られて、二人は久しぶりにアルカディアにやってくる。兄弟は元の仲間たちからぎこちなくではあるものの受け入れられる。

 そして彼等はアルカディアでつぎつぎに起こる不思議な出来事に遭遇する。そしてそれを誰かがじっと見ているのを感じる。しだいに明らかになっていくアルカディアの秘密。やがて異形の者が姿を現すようになる。そして兄弟はとらわれの人々のかかえる不思議な運命を知り、アルカディアからの脱出を試みるのだが・・・。

 映像は兄弟の視点と空の上から兄弟を見下ろす視点が常にセットになっていて、何者かが見ているということを観客に感じさせ続けるのだが、肝心の所だけは暗示だけである。上から見下ろす視線はたぶん神の視点だろう。但しその神はアルカディアのみを支配している神である。

 カルト集団がしだいに異様な姿を現しはじめ、そしてそれが彼等を支配するある者によること、そしてそこから脱することが彼等には許されないらしいこと、だが兄弟はもしかしたら逃げられるかもしれないことなどが分かるにつれ、静かなクライマックスへいたる。

 カルト教団を支配する者とは、これほど人智を越えた恐ろしいものなのだ。

食べ過ぎ、寝過ぎ

 バイキングというのは食べ過ぎる。私は人間がさもしいのだろう。あれもこれも食べてみたいものがあると、つい手が出てしまう。淡路島の玉葱はほんとうに甘かった。島の南部の休暇村というところに泊まったが、高台にある宿で、しかも五階の最上階なので見晴らしが良い。

 淡路島を走り回ったり、大塚美術館で歩き回った(とにかく展示数が多くて、三時間近く見ても半分見られたかどうか)のでその疲れからか、九時ころに横になったら朝までぐっすり寝てしまった。大塚美術館は展示物を見なくてもただコースの通り歩いただけで四キロあるそうだ。

 食べ過ぎ、寝過ぎで、今朝はまだぼんやりしている。私は枕が変わるとよく眠れる。今日は少し四国を走ろうと思う。晩は兄貴分の人と徳島で会食だ。久しぶりに会うので楽しみである。

2019年2月20日 (水)

淡路島にいる

いま淡路島にいる。明日、徳島の兄貴分の人と久しぶりに会って会食する約束をしているが、その前に淡路島に立ち寄ろうと考えていたら、一日早く出かけたくなり、淡路島に来ている。


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本日は霧模様で、なんだか幻想的。百人一首に詠まれた松帆の浦から大橋を見上げる。

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少し横から見るとこうなっている。向こうは神戸で霧の中。

淡路島はいつも通過するだけで、いつかはゆっくり見てみたいと思っていた。島は好い。しかもここは車でこられるのが最高だ。

本日は淡路島に渡ってすぐに地道に降りて、あの淡路大震災の記念館と、伊弉諾神社、五百羅漢のいる蓮花寺、そして大塚国際美術館を回る。明日から一つずつ報告するけれど、これから宿の夕食なので本日はこれまで。

映画『スペース・ロック』2018年セルビア・アメリカ

監督エリク・サラゴサ、出演スコット・アドキンス、アーロン・マカスカー、ミシェル・ルヘイン、ヴァイディン・プレリックほか

 宇宙監獄に収容されているテロリストたちが一瞬のすきを突いて脱獄し、地球を危機に陥れる、というお話なのだが、物語のほとんどはテロリスト対外部から状況を査定しにやってきた調査員や女医との限られた空間での闘いである。

 そのテロリストたちは「ウルフパック」と呼ばれるテロリストグループのメンバーであり、自分たちが宇宙に閉じこめられていることも、他に収容者がいることも知らされていない。そんななかで監獄のたった一人の刑務官に拷問を受け続けている。「ウルフパック」のリーダーの名前と所在を自白するように求められ続けているのだが、その刑務官も拷問を繰り返しているうちに惰性的になっていた。

 そんななか、テロリストの健康検査をする女医が不用意に彼等に情報をもらしてしまう。そしてそれがきっかけですべてが彼等に知られてしまうのである。頭がいいなあ。こうして隔室のロックされた扉の向こうとこちらでの攻防が始まるのである。そしてその闘いはやがて血みどろのサバイバルへと転じていき、意外な人物が敵となっていく。

 安上がりな密室設定の闘いだが、いちおう舞台が宇宙だからSFということになるらしい。最後はSFらしい展開になることはなるが、そもそもがこの映画はテロリストを自白させるための拷問がテーマみたいなところがあって、ほんとうはそれが描きたかったのかもしれない。

よく分からぬままに

 困ったときの神頼み、苦しいときの神頼み、などという。私もその口で、いわゆる特定の宗教を信じていない。それなら無神論かというと、神様に頼むことがあるのだから神様はいると思うこともあるわけで、当然のことに有神論である。論というほどのことはないか。

 長く生きていると、窮地に陥ることもあった。どうとでもなれ、と開き直って辛くもその窮地を脱したから今日があるのだが、もう一度なんとかなるとはとても思えないことばかりだった。運がよかったと思うけれど、同時にそんなときにひそかに「神様助けて」と願ったようでもあり、そのお蔭もあったのであろう。

 だからお寺でも神社でも敬意を表して心から頭を下げる。きちんと感謝しなければいけないけれど、たいてい無心である。 

 草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)ということばが好きである。涅槃経のことばで、万物は成仏できる、という意味なのだが、人間だけが魂を持つというユダヤ教やキリスト教やイスラム教の教え(もとはいっしょだが)ではあり得ない考えで、多分仏教の原点ともちがうように思う。

 日本の神道はもともと汎神論的なもので、いわゆる国家神道はそれとは本来相容れないように思うが、もともとの汎神論的な神道にこそ日本人は親和しているように思う。

 宗教を語るときに、宗教そのものの定義がまったく違いながら論争するからたいてい咬み合わない。よく分からないけれど、分からないままにいえば、宗教は人が死ぬということに不即不離のものかと思う。他人の死は見ることができても自分の死は見ることができない。

 死は自分の存在がこの世から消えることで、そのことを考えることで自分が存在していること、生きていることを考え直す。自分が単独で存在しているのではなく、さまざまのものが自分を生かしていると見るのが汎神論だろう。それなら自然を征服する、支配下に置くという西洋式の一神教の宗教とはまったく相反する。自然に生かされているなら、自然と調和して生きるのが生きやすい生き方のはずである。

 都会でしか生きられなくなっている私などは、田舎暮らし、自然のなかで生きることに憧れはするけれど、その能力をすでに失っている。ブログを拝見して、自然と接して自然と関わって暮らしている人たちに憧れと敬意を感じるのは、まだ多少はその汎神論的な気持ちを残しているからか。

 人間はもともとすべて汎神論から出発しているのだともいう。しかしその汎神論を多くが捨て去って久しい。人間はすでに自然が養いきれないほど過剰になってきているようだ。その限界を見るのはいつの日か。もしあの世があるなら、私はそこからそれを見ることになるのか、もしかしたら中国にその予兆を観ることになりそうだ。そのとき神はいるのか。

2019年2月19日 (火)

ドミノ倒し

 朝イチで、予約していた歯医者に行く。原因不明の歯痛の場所の予後をチェックするための予約だったが、そちらの痛みは多少の違和感が残っているものの、すっかり治まっている。それよりも十日ほど前に別の場所のかぶせものが取れてしまったので、そちらを修復してもらうのが目的となった。

 以前そのかぶせもののある奥歯のさらに奥の歯が横に割れて取れたままになっていて、そのためにかぶせものの歯に歪みがかかり、緩んでしまったのだと思う。はずしたままだとさらに歯がズレていきそうなので、自分ではめ直していたが、しだいに外れやすくなって、食事のときは外すことにしていた。下手をすると食べものといっしょに飲み込みかねないからだ。

 全体に噛み合わせが少しずつズレ続けていて、歯がつぎつぎに割れている。根本的に食い止めないとならない。今朝は歯医者に詳しく状況と希望を説明し、少し丁寧に補修していくことになった。

 とりあえず外れていたかぶせものを応急的に接着剤で仮止めしてもらい、歯型を取って来週以降には上下の補正を行っていくことになった。仮止めなので粘りのあるものをその歯で咬まないように、と先生にいわれて本日の治療は終了。

 四十過ぎまで治療のための歯医者に行ったことがないほど歯は健康だったのに、親知らずを放置したことで歯並びのよかった歯がズレていき、噛み合わせが狂ったことで歯がつぎつぎに割れていった。割れた歯の隙間に菌がはいり、生まれて初めて歯痛を体験することになった。

 医師によれば私の咬む力は尋常ではないそうである。そんなことを言われても弱めに咬むことなどできない。硬い者をばりばりとかむのが自慢だったのだが、それが禍するとは残念なことである。

 とにかくドミノ倒しのようにつぎつぎに歯が損なわれるのを何とか食い止めなければならない。しばらく治療を覚悟する必要がありそうだ。

映画『ウェズリー・スナイプス コンタクト』2017年カナダ

監督マウロ・ボレッリ、出演ウェズリー・スナイプスほか

 ウェズリー・スナイプスは好きな俳優のひとりだが、脱税で実刑判決を受け、服役後に出演した映画は、それ以前より格落ちした印象を受ける。もうちょっと良い役柄で活躍して貰いたいと思うが、残念である。この映画もそういう意味で、もう少しなんとかならないかという気がする。まあカナダ映画だとこんなところか。

 男女の若者五人がバカンスで森のなかの別荘にやって来たころ、世界で異常事態が続発する。巨大な飛行物体が現れ、人々がつぎつぎに行方不明になる。この事態を予言していた人々がいた。このようなことが過去定期的に繰り返し発生していて、それは宇宙人の仕業であり、自分は致されてふたたび戻されたと主張している人物だ。

 ではこれを食い止める方法はあるのか。相手は圧倒的な力を持っているからそれは無理だ、と悲観的である。

 そんなとき、五人の若者達のいる森にも異常現象が起きる。そしてそれをすでに予期していたハンターと呼ばれる男(ウェズリー・スナイプス)がいた。彼も事前に宇宙人の襲来に備えている。若者達の動静を見張っていたその男は、やがて若者達を助け、共闘することになる。

 彼の正体は元宇宙飛行士であり、やはり宇宙人に拉致された経験を持つ。やがて若者は傷つき倒れたり拉致されたりするのだが、その拉致された者が見た宇宙船の内部とは・・・。そして罠にかけてエイリアンを生け捕りにしたハンターはエイリアンになにを仕掛けたか。

 エイリアンは個別では案外弱い。とらわれたエイリアンと赤くて浮遊するクラゲのような物がどういう関係なのかもよく分からなかった。もう一度観直すほどのこともないので、いまも分からないままである。とにかく今回はおさまったが、地球にもうすぐ大挙してやつらがやってくるらしい。どうしよう。

正義の時代

 以前このブログに書いたことだが、台所の食器洗いのスポンジに菌が多量に増殖しているというCMを嗤った。スポンジという構造は、菌が繁殖しやすいことは事実である。しかし前回使ったままで、洗いもしないでそのままスポンジを使う人がいるだろうか。洗う前に水でくしゅくしゅして洗い流してから洗剤で食器を洗い、洗剤が残るのもいやなことだから、その食器をよく水で流すのがふつうだろう。しからばついていた雑菌は百分の一、千分の一に減っているはずである。これで99%除去である。別にスポンジや洗剤にとりたてて殺菌効果がある必要などないし、多少の雑菌に接しないと人間の抵抗力が低下してしまう。

 無菌無臭を謳い文句にするのは、差別化で高付加価値を謳う商売上のことだが、どうも世の中の風潮が、何でもかでも無菌無臭を求めるようになっているのが気になる。「無菌無臭が正義」の時代はずいぶん前から始まっていた。

 いまなら教育ママと名付けられそうな集団が、漫画は子供にとって害悪だとして排除しようとしたことがあった。ドラマの『ゲゲゲの女房』で、漫画の貸本屋におばさんたちが押しかけて騒いでいたのをおぼえている人もいるだろう。それはそのまま戦時中の国防婦人会のおばさんたちが、パーマはだめだと言ってパーマの女性の髪を切ろうとしたり、もんぺをはくべきだ、といってスカートの女性を糾弾したりした図を思い起こさせる。彼女たちは正義を執行していたのである。

 私が特に思い出すのはチビクロサンボ騒動だ。黒人を蔑視しているといって童話の『チビクロサンボ』は学校の図書館などから抹殺された。あれを糾弾した人たちは正義の味方である。マスコミもそれに同調した。いま、黒塗りの顔をイメージしたものが次々にやり玉に挙がり、糾弾されている。

 それが意図して黒人を差別するものなら糾弾するのは当然だ。しかしどう考えてもそのような意図があるとは思えないし、意図しないからそれを商品化したのであろう。莫大な損失を覚悟で悪意を持つなどあり得ないではないか。

 しかし、いまはそれで不快を感ずる人がいれば悪意がなくても非難される時代である。そのことは理解できないことはない。しかし過剰に不快を忖度しすぎることは、却って対象の人々、つまりこの場合は黒人だが、を弱者として扱いすぎてはいないか。それはある意味での憐れみという差別そのものではないのか。正義は、ときとして優越感を内包していて、とてもイヤなものである。

 正義の時代の、社会の菌を排除する論理の過剰が社会の抵抗力を失わせ、がんじがらめにしてしまう構造は、社会主義体制にとても良く似ている。

 こんなことを書くと、それなら差別を許せというのか、と金切り声を上げる人がたくさんいるだろう。そんなことは言っていないし、そう取る時点でかなり危ないと思うが、なかなか思いを伝えるのは難しいようだ。

2019年2月18日 (月)

ひきこもり

 しばらくひきこもり状態にある。十日ほど前に娘夫婦が泊まりに来て帰ったその後のころから、微妙に体調が整わず、テンションが低い状態が続いている。散歩に出ることもなく、本屋に出かけることもないのは、風邪をなどをひいて寝込むような状態への、ぎりぎりのところにいるような気がしているからだ。

 気晴らしに出かけなければ、などと思わないこともないが、無理に自分の尻を叩いて出かけても楽しいはずはないので、思うだけである。不思議とよく眠れる。狂っていた睡眠のリズムが尋常になった。夜更かしをしない。早めに寝ると早く起きられる道理で、寝覚めも悪くない。昔のように目が醒めた途端に完全にスイッチが入るというわけにはいかないが、それは望んでも詮ないことだ。

 明日は歯医者の予約があるが、翌日から出かけることにしている。四国の先輩に会い、広島の息子に会う。それに合わせて無意識に自分の心身が調整しているようである。残念ながら天候が思わしくなさそうだが、車だからなにほどのこともない。

 そろそろひきこもりから脱出だ。

映画『ダークフィアー 逃亡者』2015年アメリカ

監督イクバル・アーメド、出演オースティン・エベール、アレクシス・カラほか

 スリラーSFとかいうWOWOWの特集があって、それを四作ほど立て続けに観た。SF仕立てだと何でもありになるところがSF好きにはいささか抵抗があるが、そもそもそういう扱いを受けるジャンルであるし、本音をいえば嫌いではないので、低予算の出来の悪いカルト映画でもつい観てしまう。

 主人公のブリッド(オースティン・エベール)は風采の上がらない若者で、ある会社の郵便物の仕分け係をしている。そのブリッドの家に奇妙な郵便物が届く。それはすでに二十年前に死んだ母からのものだった。その中には母からのメッセージと、どう使ったらいいか分からないなにかの端末がはいっていた。

 不思議に思いながら出社した彼だったが、たまたまひそかに憧れていた会社の女性シャーロット(アレクシス・カラ)と親しくなり、彼女を連れてわが家に帰ると、わが家は荒らされており、しかもそこには殺されたらしい上司の死体が転がっていた。この辺が最後まで意味不明である。なにか見落としたのだろうか。

 呆然とする二人の前に覆面の男たちが現れ、彼等を襲う。その動きは人間業とは思えないほどのスピードなのだが、ブリッドはそれを躱してしまう。実はブリッドは特殊な能力を持っていて、そのことで人と交われないで育った。いままではそれをひた隠しにして生きてきたのだが・・・。

 シャーロットのたすけを受けて、母から送られてきた端末の秘密を解いていくブリッド。そしてさらに新たな秘密の鍵が呈示される。彼等を襲った者たちが狙っていたのはその端末なのか。

 やがてかれらが狙っていたのはブリッド自身であり、ブリッドの秘密こそがかれらが抹消したいものだったことが明らかになる。ブリッドは殺人の容疑者として警察からも追われ、さらに奇妙な男たちからも追われるのだが、その中で彼の能力はさらに高まり、ついに彼は父から受け継いだ彼自身の知りたくなかった秘密を知ることになる。

 最強の敵のリーダーが彼に迫る。彼はそこからどう生き延びるのか。秘密とはなにか。

 こう書くととても面白そうだが、ちょっと敵が陳腐なところがあって、いまひとつのりきれない面もある。まあまあの出来というところか。

両親の写真

 テレビの横に、ガラス製(貰いもの)の写真立てに入れた両親の写真を置いてあって、意識しなくてもときどき目に入る。二人とも亡くなって久しいのに、急に「ああ、父も母ももういないのなだなあ」、などと思うことがある。

 父と母が亡くなったとき、涙は出なかった。可愛がってくれた祖父母のときも涙は出なかった。映画やドラマで感動する場面ではすぐ涙が出るのに、親しかった人が亡くなっても涙が出ないのはどうしたことかと思うけれど、どうも自分は情が薄いのかもしれない。

 それでも亡くなってしばらくしてから、ああ、父はいないのだ、母はいないのだ、と初めて心の底から気がついて、ちょっとその喪失感にたじろいだりした。

 いまはそこまでのことはないが、思い出すことで父と母はまだそこにいるのかとも思う。

2019年2月17日 (日)

池内紀『ドイツ職人紀行』(東京堂出版)

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 著者は私の10歳年上。その好奇心の幅はとても広い。著者のお蔭でこのようにドイツの職人の話などを知ることになった。私がもし多少ドイツ語が話せたとして、たとえ一年ドイツに暮らしたとしても、このようなドイツの職人についての知識を知ることなどまずなかったであろう。思えば不思議なことである。

 ここで職人として取りあげられている職業はさまざまあるが、その分類はこちらの職人のイメージとかなり異なるものも含まれている。それぞれについてその歴史と現代の実際のすがたが分かりやすくまとめられている。物作りの魅力とその技術への敬意が込められているが、それは日本人に分かりやすい。

 国によっては物作りの人の地位が低く見られている国があるが、その根底にある差別意識は文化の劣等性を感じさせると思うがいいすぎか。職人がプライドを持てない国は未来を持たないように思う。

 都市によって職業の発展の違いがあるらしい。それぞれに理由があることもこの本に記されていて、それはそのままドイツやオーストリアの地誌にもつながっていて、ほとんど知識も興味もなかったドイツについて、いささかの知識をいただけた。

 知ることは好きになる一歩である。残念ながらドイツ人は日本をあまり好きではないようである。最近は嫌いな国になっているとも報じられている。日本人がドイツを知らない以上に、ドイツ人は日本のことを知らないのかもしれない。

池内紀

 池内紀の書いた本が好きで、目につくと購入してようやく十数冊になったが、著作がとても多い人なので、それでもほんの一部である。もともとドイツ文学者で、カフカやホフマンの翻訳もある。

 はじめて彼の本に出会ったのは中公文庫の『ひとり旅は楽し』(2004年出版)だと思っていたのだが、ずっと昔に彼の本を購入して大事にしていたのだ。私は高校生のときに出会った、ドイツロマン文学の作家、ホフマンが好きだ。だから大人になってからあらためて買って読んだ岩波文庫の『ホフマン短編集』(1984年出版)は大事にして繰り返し読んでいる。この翻訳者が池内紀であることに今回初めて気がついた。

 ホフマンといえば幻想小説、つまり不思議な話を書く人で、『悪魔の美酒』(『悪魔の霊液』などと訳されたものもある)や『マダム・ド・スキャデリー』(こちらは『スキュデリー嬢』などという題名がつけられることもある)を読んだときは夜眠れなくなるほど夢中になったものだ。私は倒産前の河出書房のグリーン版の世界文学全集で読んだ。だから私の記憶の題名はその全集での題名である。これは図書館で借りた本で、その後自分で購入しようとしたけれど、すでにどこにもなかった。

 池内紀の本にはしばしばホフマンが登場する。よほど好きなのだろう。同じものが好きだとなじみになった気になるのが世の習いで、だから池内紀が好きで、ボチボチもうすこし彼の本を集めようかなあ、などと虫がうづきだしている。

ブルックナー

 いま池内紀の『ドイツ職人紀行』という本を読んでいるが、その本のことは読み終わったら書くとして、その中にブルックナーのことが書かれていて興味をもった。

 ブルックナーが音楽家だということくらいは知っているが、クラシックにそれほど詳しいわけではないので、なにも知らなかったに等しい。この本にはドイツの職人のことが興味深く記されているが、その中の『オルガン奏き』の項にブルックナーのことがこう記されている。

 オルガン史上で最も著名なオルガン奏(ひ)きは、アントン・ブルックナーではあるまいか。上部オーストリアの貧しい家に生まれた。音楽好きの少年だった。修道院付属の教会づきの少年合唱団より始め、声変わりしてからは助手になり、25歳のとき、聖フローリアン教会専属のオルガニストに採用された。

 10年あまりしてリンツの聖堂に転任。40をこえても、しがないオルガン奏きだった。鼻の下に小さな口があり、その口をすぼめ、ミサごとに神妙な顔つきでオルガンを奏いていた。

 ブルックナーが作曲家として認められるのは、ようやく40代半ばからである。モーツァルト型の早熟な天才が多いなかで、中年すぎてようやく本来の才能を発揮したほとんど唯一の例外だった。

 世の栄誉にはあずかったが、愛においては恵まれなかった。一つにはブルックナー自身のせいもある。27歳のとき16歳の娘に求婚して断られた。42のとき、17歳の娘に恋をした。68のときにも16歳の娘に求婚した。

 おずおずとやさしみあふれる恋をして、何十度となくためらった後に求婚し、断られ、そのたびに途方にくれた。とびきりナイーヴで、誠実で、ことのほか不器用だったこの人は、天使のような娘に恋しつづけ、さっぱり愛の返礼に恵まれなかった。いつもひとりぼっち、そしてさびしく老いていった。

 死が近づいたころ、アントン・ブルックナーは住みなれたウィーンを去って、聖フローリアン教会を訪れ、ひっそりとオルガンを奏いて過ごした。おそらくはオルガンこそ、愛に不運づくめだったこの人の、すべての憧れと、すべての苦悩を、やさしく受け入れてくれる「恋人」だったのだろう。死後、遺言により、その恋人の足元に葬られた。

 これを読めば、ブルックナーの曲をあらためて聴いてみたくなるではないか。

2019年2月16日 (土)

耳が悪いのではなければ・・・

 日韓の外相が会談した。そのときに日本の河野外務大臣が韓国に対して、先日の文韓国国会議長の天皇の謝罪要求発言に対して抗議をしたことが報じられている。

 ところが韓国外務部が本日になって、河野大臣からはそんな発言申し入れはなかった、と公式に発表があったという。どういうことであろうか。狐につままれたような不思議な話である。

 河野大臣がほんとうにそんな抗議も申し入れもしなかったというのなら、河野大臣は嘘をついたことになる。彼は嘘つきか。そうでないのなら韓国側が嘘をついているのか。それとも韓国の外務大臣は耳が聞こえなかったのだろうか。他の会話が成立していたなら耳が悪いわけではなく、そのときだけ聞こえなかったか、聞きたくないから聞こえなかったことになったのか。

 とにかくもし実際に申し入れがあったのに、そんな話はなかったと強弁するのであればずいぶん相手をバカにした話である。これではそもそも会話が成り立たない。

 一部韓国の識者によれば、現文在寅政府はとにかく日本側を意図的に挑発して感情的にさせようとしているのだという。 日本側が激昂して韓国に制裁をするよう仕向けているのは、そのことを世界に知らせて「韓国が被害者」というポーズをとることを狙っているのだというけれど、その話が信憑性を帯びてくる。まさかと思ったけれど、ここまで露骨な態度を示されると、つじつまが合うではないか。

 もしそうならば、ここは売り言葉に買い言葉はあまり得策ではない。しばらく隠忍自重するしかないだろう。それに日本人の多くはすでに韓国にあきれ果てているし、だからといって韓国制裁を騒ぎ立てる人間もまだそれほどいない。そして日本のマスコミはほとんど韓国について正確な情報を流す能力が無いように見える。自力でなにがほんとうか考えるしかないようだ。なにも考えていない人も多いらしいのはちょっと心配だけど。

 それにしてもこういうときに野党が突然感情的に反応して弱腰だと政府批判をすることが多いものだが、今回はほとんど韓国の動向に触れないのはどうしたことか。軽挙妄動しないのはさいわいだが、文在寅政権と連動して、安倍政権が失策するのを手ぐすね引いて待っているのだろうか。あり得ないことではない。それとも念頭には外交も経済もなく、安倍政権打倒しかないということか。それでは国民の支持など取り戻せないのに。

ドラマを楽しむ

 映画が好きななのはもちろん、ドラマも好きだ。本日は録りためた連続ドラマを一気観している。『小吉の女房』はNHKの時代劇。主演は勝小吉(勝海舟の父親・演じるのは古田新太)の妻、つまり勝海舟の母親であるお信役の沢口靖子。彼女の美しさとちょっと童女的な無垢な愛らしさが生きる役柄で、他愛ないけれど楽しめる。

『みかづき』もNHKの連続ドラマで、高橋一生と永作博美が主演、いま全盛の塾の、勃興期の頃からの話だけれど、それが家族と教育というテーマとなっていて面白い。高橋一生の軽みのあるキャラクターが重いテーマを楽しくさせてくれている。永作博美という人は、不思議な色気を感じさせる女優だと思う。女性にはこの魔力があるから男は女にかなわないことになっているのだ。

『トクサツガガガ』もNHKの連続ドラマ。予告編をたまたま見たときに面白そうだと思わなかったら観始めなかったところだ。コミカルなドラマで、妄想まじりの展開が、実は逆に現実以上にリアルであることで、たいへん出来の良い作品になっていると思う。主演の小柴風花がめちゃめちゃキュートで可愛い。そして共演の倉科カナはむかしから好きな女優だから見ていて楽しいのだ。

『カウンターパート 暗躍する分身』はWOWOWのアメリカのドラマ。不思議なエスピオナージで、まだ始まったばかり。あり得ない設定からドラマが展開するのに、つかみが絶妙で今後に期待している。

 何度も書いているが、いわゆるCM入りの民放ドラマはよほどのことがない限り、もう観る気がしない。CMがわずらわしいのはもちろんだが、CM挿入後の数秒間、CM前の部分を繰り返すのが不愉快でたまらない。二分前後のCMのあいだにCM前の話を思い出させようという親切心からだろうが、ニワトリではあるまいし、人をバカにするにもほどがある。ただの時間稼ぎにしても腹が立つのである。

 それに連続ドラマの回数が長すぎるのもいやだ。だから韓国や中国のドラマも回数が多すぎるから観ない。無理に回数を稼ごうとするから台詞が説明的になってつまらなくなるのだ。『科捜研の女』シリーズや『相棒』シリーズのように一話完結は良いが、それなりに背景の人間関係も語られているので、飛び飛びで観るとやはり違和感がある。しばらくみないともう観る気がしない。

 なんだか以前と同じことばかり書き足してしまった。とにかくNHKとWOWOWのドラマは、選べばかなり良いものが観られる。それにNHKの単発ドラマは特にあたりが多いので、逃さないようにしている。

映画『バイロマニアック 炎の中の獣』2016年ノルウェー

監督エーリク・ショルビャルグ、出演トロン・ニルセン、リヴ・ベルンホルト・オーサほか

 人間がある一線を越えて奈落の底に転落していく姿を見るのは恐ろしい。どうして、と問う前に、自分だっていつそうなるか分からないことを内心では気付いているからだ。

 この映画はノルウエーの田舎の800軒ほどの集落で起きた放火魔の話である。冒頭に老夫婦の家が何者かに襲われ、油をまかれて燃やされるシーンから始まる。二人の安否を明らかにする前に、その三週間ほど前へと時間は遡り、一人の少年が林の中で木ぎれを集めて火をつけるシーンに変わる。

 最初から映画を観ている人には、放火魔は誰か分かっている。その集落の消防団の団長の19歳の息子である。その息子は子どもの頃から父の消化活動を手伝い、父が誇りである。高校時代は学業も優秀で、両親の自慢だったのだが、最近家の中はギクシャクしている。息子がなにを考えているのか父も母も分からなくなっている。この年齢の子供なんてそんなもの、といえないことはないが、それにしてもいささかとりつく島がなさ過ぎるのである。

 それでも火事が起きればわが家に置いてある消防車を出動させ、父と息子は火事場に飛んでいく。

 その親子関係、近所の様子、そして息子の交友関係などが淡々と描かれ、その合間に放火のシーンが映される。息子が内部に沈潜していくに従い、放火はしだいにエスカレートしていく。見ているこちらもいつの間にか放火犯である息子に同期していき、だんだん火が燃えることに興奮するようになるのが恐ろしい。

 森や家が燃えるシーンだけがテンションが高く、それ以外は意図的にボソボソとした小声の会話の連続で、物語は淡々と進んでいく。まず彼の犯行になんとなく気がついたのは母親である。実は父親もそれを感じていたけれど、それを直視することができない。自分が父親なら同じように告発を逡巡するだろう。

 最後に息子は父親の告発で逮捕されるのだが、そのときすでに彼の自我はほとんど崩壊している。こういう加害者の身内がどのような立場に立つのか、ラストに町へ買い物に出た両親と村の人々の視線の交錯がつらい。母親の絶望に歪む顔がほんとうに切ない。

2019年2月15日 (金)

文藝春秋オピニオン『2019年の論点』

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 年末に、翌年の見通しを書いた本を何冊か読むことにしている。この本のような、さまざまなテーマを網羅した雑誌も購入するが、全部読もうとしてもたいてい読み切れない。

 今回はしぶとく最後まで読んだ。読んでいる最中にはそれぞれについて思ったり考えたりする。そのことを書き留めておこう、などと考えるのだが、さて読み終わってみると何も書きたいことが残っていない。もう一度読み直すのも業腹だ。それにすでに今年ももう二月で、書かれていたことは去年の秋に書かれたものだから、すでに賞味期限切れのものがほとんどだ。

 たかが数ヶ月で賞味期限切れになる言説とはなにか。やはりこういう総花的な本はそんなもので、一つのテーマについてきちんと書かれたものとはちがうのだと感じている。だからいつも読み切れなかったのだ。

確定申告

 いつもなら1月の終わり頃には確定申告の用紙に記入して郵送を終えているところ(マイナンバーカードを作成していないのでe-taxができない)だが、今年は国税局からの手紙の意味がよく分からずに気になりながらぐずぐずしていた。

 その手紙には確定申告をしなくも良い人についての条件が書かれていて、年金のみしか収入がなく、その総額が400万円を超えていなければ確定申告は不要です、とある。400万円も年金収入がある人がいるらしいことは驚きだが、私などその年金を、戸籍だけのつれあいと分けているからその半分である。しかも裁判の裁定により、そこから月々なにがしかを払っている。そのうえ扶養者控除もずっと申請していない(これはちょっとした意地である)。当然その条件にあてはまる。

 しかし毎年行っていた確定申告が急に「不要」と言われても、ほんとうだろうかと思う。そうしたらまた国税局から振込用紙やら何やらのはいった手紙が来た。

 いつまでも放っておくわけにもいかず、試しにいつものように確定申告用紙をネットで呼び出して記入してみた。そうしたらやはり「あなたは申告用紙を郵送する必要はありません」と表示された。さらに送られた振り替え手続きの葉書も丁寧に読んでみて、はじめて得心がいった。

 その葉書に記入して申請しておくと、納税だろうが還付だろうが、これからは勝手に税務署がやってくれるということらしい。他に特別な収入の見込みはないので、これでずっとなにもしなくて良いらしいのである。

 その葉書に記入捺印してシールを貼り、今年の確定申告、つまり最後の確定申告の作業が終了した。e-taxのためにそろそろマイナンバーカードでも作ろうかなあと思っていたけれど、これでまた先送りだ。

勘違いしていた?

 文在寅政権になってから、政権の枢要な人々が日本に対して理解不能の反日的な言動を繰り返しているように(日本から見ると)みえる。それが韓国の人々一般の意見かどうかは、自ら取材することなく(できないのだろうか?)、政権にほぼシンクロしているらしい韓国マスコミの報道を日本の報道はそのまま報道しているらしいから良く分からない。

 文在寅政権を構成する人々の多くは反日が政権維持に有効だと思って意図的、またはポピュリズム的に反日的にふるまっているのだろう、と私は思っていたが、どうも勘違いだったようだ。それは、文韓国国会議長が「戦犯の息子である天皇が慰安婦に謝罪すれば、悪化している日韓関係は修復される」と語ったと伝えられ、日本がそれに抗議と謝罪要求をしたことに対して、「なぜ謝るのか分からない。むかしからの自分の持論だ」と述べたことで気がついたから迂闊であった。

 文議長のそのことばを文在寅政権は誰も問題ありとしていないことは、日本の抗議を無視していることから明らかで、つまり、文在寅政権全体の持論であることを認めていることに他ならない。一連の異常な反日的言動は意図的なものではないのであって、心底そうすることが正しいことだと思っているということだ。

 同じことではないかと思うかもしれないが、意図的か、そう信じ込んでいるのとでは対応がまるでちがう。意図的なら制裁や交渉が可能だが、確信犯ならもう相手にするのが無理だということになる。政権が交代するのを待つか、崩壊をするのを願うしかないようである。

 そういう意味では経済低落(放置)政策を進める(これも確信犯的に見える)文在寅政権下に置かれている韓国の人々が可哀想な気がする。「韓国は」と十把一絡げでいうのではなく、そういう視点が必要なようだ。

 櫻井よし子氏は「文在寅政権による韓国の社会主義化政策」と語っていたが、労働組合に一方的に肩入れする姿勢を見れば、それは大げさではなく正しい見方かも知れない。そして、社会主義化が達成されたときに真っ先に粛清されるのはそういう労働組合の旗振りたちであろう。社会主義の国では不思議なことに組合活動などないのだから。

2019年2月14日 (木)

短くしたいと思っているのだが

 書いてあることがスイスイと頭に入り、意味が理解できると長い文章も読み進めることができるのだが、このザル頭はときどき不調になって、読んだ文字が意味をなさずに上滑りすることがある。そういうことがとみに最近増えてきた。集中力が持続しにくくなっている。

 しかたがないから同じところを二度も三度も読み返さざるをえず、もどかしいことこのうえない。けっこうたくさんのかたのブログをできる限り毎日拝見している。文章を読んで考えるのが好きだから楽しいことなのだが、さすがに長いものが多いとくたびれる。

 翻って考えてみると、自分の書くブログが最近少々長くなっていることに気がついた。正しい文章の書き方は、テーマを決め、構成を考えて書き進めるものだと承知している。しかしそんな風にブログを書いたことはない。ある思いつきがあって、それについて書き始めると、書いたことから連想される、以前に頭に浮かんだ考えがひきずり出されてきて、それをそのまま自動筆記している。だから、書いたあとに読むとその流れがおかしいことがままあり、そのときは多少前後を入れ替えたりして手を入れる。信じてもらえないだろうが、これでも多少は見直しているのである。

 しかし、書いた人間はなかなか読む人間に切り替えられないもので、読む人からどう読まれるか心許ない。その上思いついたことを不必要に書きすぎるから、つい長くなる。

 自分が他のひとの長いものを読むのにいささか苦労しているのであるから、自分のブログももう少し短くしなければ、と思ってはいるのだが・・・。実は自動筆記が一番楽で、短く読みやすくするのが最もたいへんなのである。

本の帯

 帯の惹句に惹かれて本を買うことも多い。本は読まなければその中身が分からないのであるから、その惹句は購入判断の手がかりとなる。本の装丁、題名、作者、帯のすべてがその本がどんな本であるのかを予想させる。長年の経験から、その予想と判断はかなり確かだと自負している。

 本をただのソフトだと考える人もいるようだ。その人にとっては中身が問題なのであって、本の体裁は二の次だろう。私は中身ももちろんだが本そのものに愛着を感じるので、所有することを前提にしている。借りて読んだ本でも返したあとで同じ本を購入することもある。これはめったにないけれど、文庫で読んだのに、文庫になる前のハードカバーの本の装丁が気にいればあらためて買うこともある。

 読んだ本のことをブログにしばしば書く。そのとき、その本の写真を添えることが多い。これはスキャナーで取り込むのではなく、床などに置いてカメラで実際に表紙を撮影している。だからしばしばピンぼけだったり光線の具合でイメージが変わったりする。表紙に合わせてトリミングし、若干の補整をする。その写真を自分の雑な分類でファイル化してある。

 その写真を撮るときに迷うのが、帯を着けたままにするかはずすかである。原則的にははずすことにしている。そもそも帯のない状態がそもそもののその本の顔だと思っているからだ。新書などは、帯ごとが本の顔であるから別である。そもそも装丁がいっしょであるから違いは題名と帯だけである。

 帯をはずした本は美しいことが多い。それを見て一人でうれしがっている。カバーそのものもはずして本を眺めるのも好い。裸の本には裸の本の色気がある。しかし棚にならべるときはもう一度帯を着け直す。それが本の身だしなみだろう、などとバカなことを考えている。

2019年2月13日 (水)

粗雑ではあるが

 目張り金切り声のキム姐さんが、「韓国の問題の根底に財閥の存在があって・・・」といったことになるほど、と思った。財閥の存在が経済格差をもたらし、皆が財閥系の企業に就職したいと望むから結果的に就職率が低下する。中小企業は財閥の動向に生殺与奪の権利を奪われてしまう。それが国家の経済までジェットコースターのような好調と低調の波をもたらしている。

 日本は戦後進駐軍によって財閥が解体された。それによって財閥による支配構造がなくなり、企業どおしの激しい競争が行われたためにその実力が向上し、苦労の末に世界に誇れるほどの経済成長を遂げることができた。競争こそが企業を鍛え、その能力を向上させる。

 世界がグローバル化すると競争相手は日本国内ではなく世界に及んだ。日本が強みだったIC関連、弱電などはいつの間にか日本の企業が韓国や中国の企業の後塵を拝するようになった。

 巨額の設備投資を迅速に行い、大量生産体制をとり、安い人件費を投入することが出来るところがこのような産業では断然有利である。日本は経営陣の決断が遅い。ここで韓国の財閥系の企業が優位性を発揮するのである。経営者は独断で投資の判断ができるし、資本が大きいのであるから迅速で巨額な投資ができる。しかも人件費が日本より安いのであるから、大量生産低価格ができる。

 そのときに日本の企業が生産性を上げて競争しようとしても限界があるのに、無理な設備投資を行い、巨額な負債を抱えるようになった。本質のみえていない経営者が過去の記憶にしがみついて判断を誤ったのだ。

 韓国は財閥の存在そのものが競争力だったのだ。ところがここに競争相手が現れた。中国である。中国は財閥ではなく国家が経営者である。財閥よりも規模が大きい国営企業がそのような分野に投資をすれば、たちまち韓国の優位性は失われていく。しかも韓国の人件費はどんどん上がっていて安価な人件費は望めないが、中国は比較にならないほど安かったから競争にならない。

 韓国の財閥系が強い産業分野ほど、中国が追いつき、追い越せる分野なのである。韓国は尻に火がついてしまった状態だ。

 ではなぜ目張り金切り声のキム姐さんはその財閥が問題だといったのか。韓国が次のステップに経済構造を変えるには、いままでのシステムでは難しい。それが日本の会社のようであるか、また韓国独自のものであるかは分からないが、いまの財閥系の会社による牽引のままではクラッシュしてしまうようにみえる。

 韓国の労働組合の異常な闘争心は、財閥に対する恨みの蓄積によるものかも知れない。そこには妬みももちろんあるだろう。市民運動家集団ともいえる文在寅政権が労働組合に肩入れして財閥に冷たいのは同じ思考の結果だろう。韓国経済の立て直し対策案など文在寅にはない。間違ったものをただすのが自分の指命だという正義感で国家を経営しているようだから。

 財閥によって韓国は経済成長を成し遂げた。そして財閥企業の問題が逆に韓国経済の立て直しを困難にしている。それをおねえさんは指摘したのだろうとザル頭の私は粗雑ながら考えた。

葉室麟『曙光を旅する』(朝日新聞出版)

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 朝日新聞の西部本社版に連載されていた歴史紀行エッセーをまとめたもの。葉室麟が新聞記者だったことが、ものの見方の根底にあることを、この本であらためて知ることになった。旅先はほとんどが九州地区である。

 私は九州にはまだ八回しか行ったことがない。そのうちの五回は仕事である。回数がはっきりしているのは、それだけ少ないということだ。そして少ないということは、それだけ知らないということでもある。

 葉室麟が訪ねた場所は、葉室麟の筆の力によってとても魅力的で、今すぐにでも自分も行って見たい気にさせる。葉室麟に教えられた知識を元に、自分でも調べた上でその場所に立ち、なにを感じるのか。

 司馬遼太郎の『街道をゆく』もおなじような気持にさせる本だったが、葉室麟も司馬遼太郎を意識している。巻末に編集者が「葉室メモ」を公開していて、さまざまな思考を取捨選択しつくした上で、葉室麟がひとつの文章にまとめていたことが分かる。書かれたものは氷山の上部で下部はずっと巨大なのだ。そして書かれなかったことの巨大さが書かれたことを支えていることが分かる。

 リタイアして最初に九州を走り回ったとき、主な目的地は国東半島と阿蘇山だった。小学校のときから国東半島に妙に強く魅力を感じていた。ようやく念願が叶い、国東半島の山中の主な寺をほとんど歩いた。もういまはあの磨崖仏に登る元気はないが、また是非訪ねたいと思っている。

 葉室麟はこの本の中で国東半島には立ち寄っていない。葉室麟の訪ねた先は、どうも車で行くのがふさわしくないような気がしている。この本でとりあげられた場所にゆっくりと滞在して、自分の足で訪ね歩き、ものを感じ考えてみたい。そうなると一度に回るのはとても無理で、数回に分けていくことになりそうだ。

 まだなにも具体的なことは考えていないけれど、わくわくする。そういう気持にさせてくれる本だった。

2019年2月12日 (火)

『スター・ウォーズ』の第七作と第八作を続けて観る

『スター・ウォーズ フォースの覚醒』2015年アメリカ
監督J.J.エイブラムス、出演デイジー・リドリー、ハリソン・フォード、キャリー・フィッシャーほか

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』2017年アメリカ
監督ライアン・ジョンソン、出演デイジー・リドリー、マーク・ハミル、キャリー・フィッシャーほか

 ともに金もかけ、素晴らしい特撮で大いに楽しめるのだが、正直SF大好きの私なのに、初期のころの『スター・ウォーズ』のようには興奮できなかった。あえて云えば第三作までで一度物語は完結しているのである。その前日談としての第四作~第六作だった。この第七作と八作はその世界観をそのまま繰り返しているようにしかみえない。

 繰り返しというのは二番煎じということである。特撮技術が格段に向上しているけれど、それだけである。悪との葛藤も中途半端で感情移入しにくい。

 第九作で全体が完結するとのことで、それが今年中に完成するらしい。それももちろん観るつもりであるが、正直終わってくれたらほっとするような気分なのは残念だ。私の楽しむSFはいささかこのシリーズとはちがうらしい。

 いまカルト映画のスリラーSF特集として最近WOWOWで放映した四作品を観始めているが、金もかかっていないし突っ込みどころがあるものの、そちらの方がいろいろ考えさせてくれて面白かったりする。

テレビ大好き

 テレビが大好きである。小学校の一年生くらいからのことだから、60年以上の年季が入っている。夏休みや冬春のまとまった休みの時、祖父母のところにいることが多かったのは、もちろん祖父母が大好きだったこともあるが、そこにはテレビがあったから、というのもひそかな理由だった。わが家には小学校の五年生くらいまでテレビがなかったのである。

 それ以上に映画が大好きだったけれど、そんなにいつも観ることはできない。子供のときは月に一度映画館に行ければいいほうだった。だから大人になったら家に映写機とフィルムを置いて、好きな時に好きな映画が観られるようになることが夢だった。

 いまは月に20本あまり映画を観る。もちろん録画したものをテレビで観るのである。もっと観たいけれど、映画は集中力が必要なので限度がある。無理して二本も三本も観ると、しばらく観たくなくなってしまうので、ほどほどにしている。映画館にはシニアで割安で観られるので以前は少なくとも月に一本くらい見に行ったが、いまはずっと少なくなった。大型のテレビにしてAVアンプとスピーカーをセットしているので、不満はないのである。

 WOWOWと契約しているので特に注文をつけなければ映画には困らない。BDレコーダーにドラマやドキュメント、そして映画を録画する。ドラマやドキュメントはなるべく早めに観てしまう。映画はすぐ観ることもあるし、ディスクに保存することもある。

 一時期1000枚近くの録画した映画のディスクが溜まってしまったけれど、せっせと消化して、いまは700枚くらいあるだろうか。ほとんどが消去してまた書き込めるディスクで、だから300枚ほどの初期化した空ディスクがある。この二三年は新たにディスクは買う必要が無かったし、もしかするともう一生必要ないかもしれない。そもそも溜まっている残りのディスクの映画を観きれるかどうかも分からないのである。それなのに新しい映画を録画する。バカである。

 WOWOWはありがたい。月2000円ほどで、映画やドラマがこれだけ自由に観られるのであるから、有料というのは安いものである。だからCMで溢れかえる民放を「ただほど高いものはない」と思うし、観るのが激減している。録画してあるものはソフトであると同時に、時間だと私は思っている。そう思うから、CMはこちらの時間を奪うもので高くつくと思うのである。

 テレビ大好き人間は、在宅していて本を読んでいる時以外はテレビをつけていることが多い。ブログを書いたり考えたりするときは、さすがにテレビを消して、ネットオーディオで音楽を聴いたりしている。実は集中型なので、音楽はほとんど耳に入っていないのであるが。

 まだ4Kテレビではないが、別にすぐに買い換えるつもりはない。スポーツにあまり興味がなくなっているので、オリンピックもその契機とは考えていない。ビックカメラなどの量販店で、より大型で高画質のテレビを眺めてうっとりしながら、買い換えるのはまだまだ、と自戒しているところである。次は60インチくらいのを狙っている。

なかなか好かった、ドラマ『かんざらしに恋して』

 NHKの地域発ドラマが放映されるとたいてい録画しておく。たまに波長が合わせられないものもあるけれど、おおむね観て満足することが多いからだ。

 この『かんざらしに恋して』というドラマは長崎発で、島原市が舞台である。主演は貫地谷しほり、助演を遠藤憲一が好演している。貫地谷しほりを初めて観たのはNHKの大河ドラマ『風林火山』(内野聖陽が山本勘助役で主演)で、はじめの方に村娘役で出ていた。観た瞬間から好感を持ち、そのあと映画やドラマで観る機会が増えたが確かな演技にますます好きになった人である。

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「かんざらし」というのは島原の食べもので、白玉を甘い蜜に浮かべて食べる食べものだ。単純だが奥深い食べものらしいことをドラマが教えてくれた。

 地域興しのために、名店といわれながら20年前に閉店していた「銀流」という「かんざらし」の店を再開する役割を引き受けた桐畑瑞樹(きりはたみずき・貫地谷しほり)が東京の証券会社を辞めて島原にやってくる。

 いろいろありながら、何とか店を始めることができたものの、むかしの銀流の味を知っている人にニセモノだと指摘されてしまう。何とかむかしの味を再現したいのだが、レシピが残っていないために瑞樹は悪戦苦闘する。やがて従業員にも目配りが足らないことから問題も起き始める。市役所から補助に来てくれている係長(遠藤憲一)が陰に回って必死に瑞樹を支え続けるのだが・・・。

 実は瑞樹には隠していることがあり、そのことがさらに彼女を意固地にしている。意固地になればますます全体がギクシャクしていくのは世の習いである。そんな彼女にむかしの銀流のレシピを教えてくれる人が現れる。

 そして彼女はさまざまなひとが彼女を支えてくれていたことを思い知らされるとともに、島原という町に過去どんな災害があったかを知らされる。あの雲仙普賢岳の火砕流である。

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 こうして彼女の凝り固まっていた意地がほどけたとき、彼女は東京からわざわざやって来た人ではなく、島原の人になっていた。そして彼女の隠し事の原因が明らかになり、そしてそれも彼女が心を広くすることで解決していくのである。めでたしめでたし。

2019年2月11日 (月)

お気楽映画二作他

 命がけでスリリングなのに主人公が脳天気な映画を二作観た。私は基本的にコメディ映画は苦手なのだが、この二本は見方によってコメディに分類されるかもしれないものの、とても楽しめた。ただのおふざけ映画が嫌いなだけで、真面目に作ってあって、危機一髪の連続とそれにめげずに主人公がジョークを連発する映画は嫌いではない。

『バッド・ウェイヴ』2017年アメリカ
監督マーク・カレン、出演ブルース・ウィルス、ジョン・グッドマン、ジェイソン・モモアほか

 ロサンゼルスでしがない探偵稼業をしている主人公(ブルース・ウィリス)が地元のドラッグの元締めのスパイダー(ジェイソン・モモア)の怒りを買い、愛犬を連れ去られてしまう。引き受けている大事な依頼の処理、そしてあらたにスパイダーから強引に依頼された案件を処理するためにロサンゼルスを走り回る羽目になる。

 最終的には信じられないようにすべてが丸く収まるのはこういう映画のお約束だが、それがけっこうドキドキハラハラしながら、しかも主人公の軽口も愉しめるた。まあまあ面白かった。

『ゲット・アライブ』2017年アルゼンチン・スペイン
監督フェデリコ・クエバ、出演ピーター・ランサーニほか
ケチな詐欺師である主人公のレオ(ピーター・ランサーニ)は、相棒の美人と美人局(つつもたせ)をはたらこうとして、偶然、客の男がギャングたちに惨殺される様子を目撃してしまう。ギャングたちが必要とした殺された客の大事な書類を奪った相棒の美女と必死で逃げるのだが、その美女も殺されてしまう。

 次から次に危機一髪、次々に人が殺されていくのだが、主人公は飄々と生き延びていく。そして彼はギャングたちを罠にはめ反撃に転じるのだが・・・。

 とにかくユーモアたっぷりな上に楽しい音楽、スリルとサスペンスが満載で、意外な掘り出し物だった。

 主人公を演じたピーター・ランサーニはアルゼンチンでは絶大な人気のある音楽バンドの一員らしい。

おまけとしてもう一作
『エッジ・オブ・バイオレンス』2016年アメリカ
監督ゴンサーロ・ロペス=ガイェゴ、出演パトリック・ウィルソン、イアン・マクシェーンほか

 メキシコとの国境近くの町に新たに保安官として赴任してきたウォレス(パトリック・ウィルソン)はもともとこの町の出で、いわくがあって町を出ていた。彼が捨てた女性の彼氏が麻薬犯罪に関わっているらしいことを突き止めたウォレスは、やがて麻薬カルテルから送り込まれた凄腕の殺し屋と対決することになる。

 ストーリーはもう少し複雑なのだが、彼の前任である年寄りの保安官が意外な活躍をしてウォレスを助けるのである。そこがこの映画の面白いところで、助けてもらわなければならないような事態は凄惨である。

 西部劇風な犯罪バイオレンス映画で、ちょっと刺激が強い。

体調の調節中

 毎晩寝汗をかいて夜中に目覚め、着替えをしてまた朝まで寝る。酒を控え目にしているけれど、よく眠れてはいる。酒を控えているせいか、頭の働きがなんとなくクリアな気がするのはありがたい。

 無茶をしたり、人混みに出かけたりしたら、一気に体調を崩しそうな、そんな崖っぷちに踏みとどまっている感じがする。といっても、だるかったり、熱が出たり、どこかが痛いという自覚症状は全くない。そんな気がするだけである。長い人生経験から、そういうときにちょっとした気の緩みで寝込むおそれがあることを知っているだけだ。

 食事にも注意し、特に睡眠には心がけているが、そういう状態のときはこたつでうたた寝も危ないので、寝床にきちんと入って一睡するようにしている。以前は事情があって気が昂ぶったままの状態が続き、医師に処方してもらった睡眠薬が必要なこともあったが、いまはほとんど服用する必要がない。

 それでも最近は比較的に速やかに入眠できる。それはテレビで腹式呼吸の睡眠法を観て、それを実践しているからだ。簡単な方法である。仰向けに寝て腹に両手を置き、鼻でゆっくりと息を吸い込む。まず腹をいっぱいにするほど息を吸い、さらにみぞおちから胸、肩甲骨あたりまですべてに息を満杯にする気もちでゆっくりと吸い込む。吐くときは口をすぼめた状態で、口から溜まっている息のすべてをゆっくりと吐き出す。

 これをできればなにも考えないようにしながら繰り返す。慣れてくるとしだいに腹の上に置いた手が温かく感じられてくる。たったそれだけなのにいつの間にか眠りに入ることができるのである。

 眠りにつきやすくなった理由の一つに、足の冷えがなくなったことがあるようだ。五十過ぎまで足が冷えるなどということはなかった。かえって足がほてるから布団の外に出して寝るくらいだった。血の巡りは悪くなかったのである。六十前から足が冷えるというのを生まれてはじめて実感するようになった。糖尿病のせいで血の巡りが悪くなったのだろうか。足が冷えるのがつらいものだと知った。

 それがこのところ冷えなくなったのは、糖尿病が改善されている結果かもしれない。油断は禁物だが。

日中戦争前後の北京を彷徨う

 じっくりと楽しみながらページを繰っていた、奥野信太郎『藝文おりおり草』(東洋文庫)と『奥野信太郎随想全集第五巻』(福武書店)を読了した。読了してしまうのがもったいないと思う本には滅多にお目にかかれないものだが、この二冊はそういう本だった。

 この二冊に書かれているのは主に著者が昭和11年ころに北京に滞在していた時代と、そのあと北京を再訪して滞在した昭和19年から終戦後に帰国するまでに交流のあったさまざまな人たち、そして彼の特にのめり込んでいた当時の北京の演劇について、そして北京の四季の風物である。

 全集の方は多少ルビが振られているが、東洋文庫の方はルビがない。まったく読めない字もたくさんあるが、それを気にしていたら読み進めない。しかし慣れてくれば、漢字の読みなどわからなくても意味がぼんやりと分かってくるのが漢字というものだ。

 そうして著者の目を通して北京の風物が、そして彼の交流のあった人々が、その人が座る部屋の空気や調度、そして背景が浮かび上がってくる。それほど文章が映像的なのである。映像的なのは確かな目と記憶があってこそで、著者のその能力は人並み優れている。その文章に誘われ、時空を超えて私も北京を彷徨った心地がする。

 両方の本に重複する文章も二三あるが、それを飛ばさずに読んだ。

 その重複する文章の一つに『詩人黃瀛(こうえい)のこと』がある。黃瀛は著者の友人であり、母は日本人で、昭和初期に日本語で詩集も出版されており、巻頭の辞を黃瀛の尊敬する高村光太郎が寄せている。黃瀛は後に国民党軍の将校になるが、それでも著者との厚い交遊は変わらない。

 その黃瀛からの最後の手紙は昭和12年5月12日、南京からのもの。この年の7月に盧溝橋事件、ここから日中は全面戦争に突入、12月に、あの南京事件があった。

長い文章の最後の最後の部分、黃瀛からの最後の手紙と奥野信太郎先生の結びのことばを引用する。

「ご無沙汰してをります。隊本部だけ郊外へうつりました。御近況如何ですか、此頃は忙しいのでまるで閑暇がなくこの間は自動車衝突でもう少しのところ命を失ふところでした。南京は野玫瑰(はまなす)と苺の季節、一寸私も南京のよさを見返してをります。週末には南京へ出かけてゆつくりおちつきます。電影はそちらより(筆者註北平を指す・そのとき著者は北平、つまり北京にいた)早く眼にするけどこの頃電影にも興味なく周囲が水なので魚釣りに一寸腕を見せます。大きな魚が釣れましたかと問われて北叟笑む(ほくそえむ)ような魚釣りではなくほんとうの太公望ですから御安心下さい。私は此頃全然禁酒、煙草だけは一日にチェスタアフヰルド二箱、それも動いてる故かのみ切れません。洋灯(ランプ)の夜になった故か読書慾が可成です。この頃は年の功か亀の甲かとにかく活躍もしません。もしもお会ひするような場合があればそれこそ一時に爆発するでせう。そちらも大分物騒のやうですがエライ人にまちがはれないやうに御注意下さい。世の中が激しいどんでん返しをして私なんか呆然としてをります。私は近いうちに五十日ほど方々をぶらぶらします。お手紙は隊宛に下さるように。」

 この手紙にもある通り、彼が、多分公用と察せられる五十日ほどの旅行に出たとすると、おそらく中日事変は彼の南京帰来を待つか待たずに勃発した日数の勘定になる。あれほど筆まめに書信を認(したた)めた彼から、ふっつり何の音沙汰も無くなってしまうと、私は実に不思議な気がする。しかしその後はっきりと敵人となった以上、そのことは少しも不思議はないはずであった。


 繰り返すが奥野信太郎先生は終戦のとき北京にいた。帰国したのは確か昭和21年になってからである。そのあとたびたび中国にも行き、中国の文人たちとの交流も続いたが、ついに黃瀛の消息を知ることができなかった。さらりとした結びのことばのなかに、彼の友に対する切々とした思いが伝わってくる気がする。もちろん戦争に対する思いは言わずもがなである。

 これらの本の中に魯迅についても書かれていて、触発されてちくま文庫の魯迅文集を揃えた。欠巻だった第二集は当初の筑摩書房の単行本を入手、先生のお薦めであり、特に読みたかった『朝花夕拾』はこの巻に収められている。

2019年2月10日 (日)

映画『ヴェンジェンス』2017年アメリカ

監督J・マーティン、出演ニコラス・ケイジほか

 ある種の報復映画。法の正義が機能しないとき、被害者のかわりにヒーローまたはヒロインが悪に制裁を加えるという映画は数多くあり、この映画もその一つである。ただ、ここでのニコラス・ケイジの演ずる主人公は刑事であり、暴力に強いとはいえヒーローというイメージではない。

 正義は立場によってさまざまで、その正義の私的執行には強い逡巡があるのが人間として当然で、それがあまりにも気楽に行われると危ない社会の到来につながる。しばしばハリウッド映画にその弊害を見るが、その言い訳のために悪がとことん悪であるように描く。そしてそれがあまりにエスカレートして極端なバイオレンスシーンが必然になってしまう。

 そうなると私的制裁への葛藤が軽くなるわけであるが、この映画にはそのような極端な悪が描かれながら、ニコラス・ケイジの眼は哀しそうである。自分がその役割ではないことを承知しながら制裁を加える主人公を演じていて、私としては好感が持てた。

 価値観が多様になり、弁護士がしばしばあり得ないような荒唐無稽な論理で犯人を弁護して無罪を勝ち取るのを見馴れてくると、私的制裁への葛藤逡巡が弱くなる。弁護士は法の正義、弱者保護のために加害者を弁護しているはずだが、それがいつの間にかこのような私的制裁を当然だと世論が考えはじめるきっかけを作っている、と心配するのは私だけだろうか。

リーディングスキル

 テレビのニュースで、教育学の大学教授がリーディングスキルが重要であると語り、実際に小学校などで実践する様子をみせていた。リーディングスキルなどというからなにごとかと思うが、要するに読解力である。

 調査によると、学校の勉強ができないのは、そもそも教科書が理解できていないこと、問題そのものの意味が読み取れないことによるという。それはそうだろう。中学校の三割がそもそも教科書を理解できずに卒業しているそうだ。それで高校に行ったら・・・当然教室でお客様である。

 国際的な比較でも、日本の子供の読解力が低い結果であるというニュースも聞いた覚えがある。論理的に考えるのが苦手で、感性的になっているというのは日本の教育の問題かもしれない。

 このリーディングスキルについてのその教授の講義を大勢の教師が聞いて、さまざまに工夫を凝らそうとしているらしいことは喜ばしいことである。多少は教育が改善されるかもしれない。ただそういう自覚がある教師はわずかなような気がする。そもそも教師自身にリーディングスキルがあるのかどうか、などというと腹を立てられそうだ。

 ところで、そのやりとりのなかで生徒全員のリーディングスキルを高めよう、などと意気込んでいるのを見て、いささか心配になった。いまはLINEやチャットなどの短文になれすぎて子供のリーディングスキルが低下しているという見立があって、工夫した教育で改善できるとお考えのようなのである。それがどこまで奏功するのか私は懐疑的である。

 そもそも三割が教科書が読み取れないというのは、今に始まったことではないと思っている。スマホや携帯がない時代もリーディングスキルのない者はそれくらいいて、それは子供だけではなく、大人もそんなものだと思っている。

 しかしリーディングスキルが重要である、それを改善することが教育にとって肝要であるという視点で見直しが行われることは大いに賛同する。問題が読めなければ算数だって分かるはずがないのだから。

 そういえば私の書いたブログの意味を著しくちがう受け取り方をする人もときにある。私だってどこまで自分の読解力が確かか分からない。とはいえ、読解力はよく読み、よく考える積み重ねからしか向上しないことだけは分かっているつもりだ。それが苦手な人にリーディングスキルを教育しようとしてどこまでできるのかなあ。

西島三重子を聴く

 一度夜半過ぎに目覚めたら眠りそびれ、寝床で本を読み、眼がつらくなったのでそのあと西島三重子を聴いていた。『池上線』や『千歳橋』で知っている人もいると思うけれど、わたしはむかしから彼女の歌が好きで良く聴く。

 彼女の曲はどちらかというと哀しい歌が多い。以前からかすかに感じていたことなのだけれど、その哀しさにはかすかに死の影が射しているように思う。別れの詩はしばしば秋の風景に重ねられるが、彼女の歌う歌は冬である。『冬のカルナバル』であり、『冬のカモメ』であり、『冬なぎ』なのである。

 人生を四季になぞらえ、秋を実りと衰えと見、冬を死期とみる見方がある。冬来たりなば春遠からじというように、冬は来たるべき春のひそかな準備と見ることも出来ないことはないが、人生には冬のあとにふたたび春が来ることはない。

 よく聴いていると、西島三重子の別れの歌の歌詞には相手の生死が不明だったり、死んでいると思わせるようなものがある。どうもそういう受け取りかたをしながら聴いていたことを今日はっきりと実感した。

 過去があり、現在があり、そして未来がある。以前も書いたことがあるが、優れた歌詞は現在のある瞬間を写真のように語りながら、語らない過去と未来を聴く人に想像させるものだと私は思っている。過去と未来を歌詞のなかで語ってしまう歌詞は二流三流であることが多い。

 死の影が射せばそれは現在ですらあり得ない。過去のストップモーションが詩の世界を構成している歌の哀しみが、より強くこちらの感情に響くから、私は西島三重子の歌が好きなのかもしれない。

 別に私は死にとらわれているわけではないが、そんなことを今朝の寝床でぼんやり感じていた。

2019年2月 9日 (土)

宮崎正弘『AI監視社会・中国の恐怖』(PHP新書)

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 著者の本はふつうに読むと嫌中本にみえるし、そう受け取る人、ときにはそう決めつける人もいるだろう。中国の、問題ばかりを取りあげて悲観的な将来を語っているからである。

 しかし感情的に、根拠もなく、中国の将来が悲観的であってほしいから悲観的に書いている類書とはまったく違い、著者の本にはそのような予測を語るための中国の歴史に対しての深い知識、現状についての豊富な情報網、さらに中国だけではなく世界全般にわたってのバランスの取れた目配りが伴っていると私は思っている。

 著者が現在の中国の情報についてこれだけ詳しいのは、彼自身も中国に何度も足を運び、人的ネットワークをたくさん維持しているからなのである。中国政府の流す情報を垂れ流しているだけの日本のマスコミよりは、はるかに参考になる。

 私も中国が好きだから何度か足を運び、彼の見方の真似らしき視点で中国を見、中国のニュースを読んできたので、日本のマスコミよりは著者の意見に与したくなるのである。

 特に表題に挙げられているAI監視社会については、昨年の春、江南地方を駆け足で回ったときに自分の目で確かめ、強く実感したことでもあるからこの本に書いてあることの怖さはよく分かるのである。

 この本には監視社会のことだけが書かれているわけではなく、中国の現状についての情報と、それから見える中国のこれからが分かりやすく説明されているので、中国がこれからどうなるのか参考になると思う。この本に書かれていることをベースに中国ニュースを見れば、その意味も多少は分かることもあるだろう。

 監視社会をジョージ・オーウェルの『1984年』の描いた世界(いわゆるビッグ・ブラザーに支配される社会)になぞらえることが多い。若いときに読んで戦慄した記憶があり、久しぶりに蔵書のハヤカワ版のSF全集からその巻を引っ張り出して枕元に置いているのだが、ほかに読みかけの本が多すぎていつ読めるか分からない。

天橋立(2)

小天橋(回転橋)、大天橋があり、智恩寺のある場所にも、いまは天橋立を見下ろす天橋立ビューランドがあるが、友人達が昔懐かしい笠松公園側に登りたいというので湾をぐるりと回った。与謝という丹後半島の入り口である。


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ロープウエイを登る。

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天橋立全景。まことに不思議な風景である。

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平日なのに観光客がけっこういる。ロープウエイもいっぱいだった。この日は温かくてよかった。高台は風が強いから、寒かったらつらいところだ。日本語ではない言葉が飛び交う。海外からの人も多いのだ。

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眼下の集落。黒瓦の屋根が多い。

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下りのロープウエイに逆光の若狭の海が光る。観光船の航跡が白い。

おまけに智恩寺の奉納絵馬と地獄絵図を紹介する。

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奪衣婆(だつえば)。

友人が子どものころ、近くの寺でこんな絵を見せられて坊さんから説教されたものだ、と言った。

このあと丹後半島の根元の山道を久美浜まで抜けて城崎へ行く。丹後半島を海岸沿いに走る方がはるかに景色が好いのだが、倍以上の時間がかかるので残念ながら選べない。

これにて天橋立は終わり。

自称虚弱

 私はふつうの人より縦横に二回りくらい大きい(基本的に衣類は3Lを着用)ので、私が心身共に虚弱であるというと、友人知人はみな笑う。人は見かけで判断するところがあるので、私はみなが笑うことが少々面白くないが、しかたがないとも思い、みながバカにして笑っているわけではないのも承知なので、ときに笑いをとるためにあえて云う。

 子供のときは身長はあるけれど痩せていて、筋肉がほとんどなく、懸垂や腕立て伏せが一度もできないほど体力が無かった。だから運動会が大嫌いであり、なんとか休む口実を考えだそうとしたものだが、昼に親たちと食べる大好きなおいなりさんなどのご馳走のことを思うと迷ってしまう。結局親の前にみっともない姿をさらし、親に恥ずかしい思いをさせたと悔やんだ。しかし親はそんなことを毛筋ほども恥ずかしく思っていないものだ。それは親になって分かった。休んだりする方がよほど心配だろう。

 中学に入ってから運動部に入り、その体力のなさに先輩から憐れみの目を向けられていたが、毎日基礎運動を重ねているうちに人並みのことができるようになった。苦手な鉄棒や跳び箱も克服した。

 精神の軟弱さは大学で寮に入り、自発的に寮の役職も引き受けたりして、おろし金でヤワな精神をゴリゴリこすられるような日々を暮らしているうちにいつの間にか人前でも話せるようになっていた。だから営業という仕事もまっとうすることができた。

 でも本質は心身共に虚弱なのである。そのことは私は良くわきまえているのだが、頷く人はほとんどいないのが残念である。他人のことは分からないものなのだ。

2019年2月 8日 (金)

天橋立(1)

5日に城崎に行く前に友人達と日本三景の一つ、天橋立に立ち寄った。みんな一度は来たことがあるけれど、とても久しぶりのようである。五十年ぶりなどと言う者もいる。


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私は日本三景のどれも複数回、それも最近立ち寄っている。

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天橋立は一カ所だけ切れていて、そこに橋が二つ架かっている。一つは回転橋である。いまでも回転することがあるそうだ。一度見たことがある。日本海のこの辺りの干満はそれほど大きくないが、それでも上げ潮なのだろうか、内海側に川の流れのように強い流れが流れ込んでいた。

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前を行く友人達と天橋立を途中まで歩く。向こう側まで行くと2.6キロあるらしい。

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岩見重太郎が父の仇を討ったという場所の石碑。ここまで約0.6キロ。

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仇討ちの図。子どものころ岩見重太郎の狒々退治の映画を見たことがある。白黒だったと思うが、恐かった。

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途中に与謝野寛、与謝野晶子の歌碑が仲良くならんでいる。初めて見たのでよほど新しいのであろう。

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これは海軍が記念に置いたアームストロング砲。端に立つのが親友のU君。彼が今回は最初に呑みすぎてよれよれになった。やや弱体化したようだ。

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大砲履歴の看板。

このあと車で湾をぐるりと回って対岸の笠松公園から天橋立を見下ろす。

テロの芽

 千葉県野田市の小学校四年生女子の虐待殺人には誰もが怒りをおぼえているだろう。正直なところ、どうして子どもを虐待するのか、その親の行動が理解できないはずである。世の中には理解できないことが溢れていて、それを無理に理解しようとしても、父親本人にもわからないものがわかるはずはない。わかれば父親も自分を制御できたかもしれないのだから。

 心理学者や精神病理学者はもっともらしい理由を語ったりするけれど、どこまでそれが真実か私は疑わしい気もしている。人々が分からないことを分かろうとするからむりやり理由を想像(創造)しているだけにみえる。これは私の偏見であろう。なかにはほんとうに立派な学者もいるのだが、しばしばわかりやすいけれど胡散臭い言説を語る者を目にすることがある。

 人は理解できないことや者を恐れ、それを理解しようと努めたり、ときに理解できないことで怒りをおぼえるようである。

 今回の、この女児の虐待から彼女を救うことができたはずの、そしてその権限を有していた児童相談所のあまりに杜撰で無責任な対応は、虐待殺人に加担したともいえるくらいのものに感じられて、激しい怒りを感じる。今朝のニュースではさらに詳しくその無責任さが報じられていた。

 それを見ていると、虐待殺人を直接行った父親に対してよりも強く怒りを感じてしまう。その責任はきちんと問われると思いたいが、さまざまな不祥事も含めて、日本の社会はしばしば「しかたがなかった」ということでたいしたおとがめなしに終わっていることも多いのではないか。そもそもどのような処分を受けたのか、最後まで調べて報道されることが少ない。

 怒りをおぼえた人々はその責任者が処罰されたと知ることでその怒りを多少は収めることができる。ところが責任者の責任をうやむやにされると怒りが内向する。

 児童相談所には怒りの電話や無言電話が一日千件以上かかってきていて、仕事に差し支えているという報道があった。電話をかけている人間は、天に代わって正義を行っている気分なのであろう。私の最も嫌いな人間達である。

 以前にも書いたけれど、「二度とこういうことが無いようにします」などと言いながら深く深く、そして長いこと頭を下げているおじさんやおばさんたちを見ていると、頭をこれだけさげたからこれで許してもらえるはずだ、という計算しかみえないし、多分そのあと綺麗さっぱり事件のことは忘れてしまうだろうと感じてしまう。そしてふたたびみたびこういう事件や不祥事は繰り返されるのである。

 だから制裁を私人が行うというのが正義に感じられてしまう。だから児相への一日千件の電話なのである。これは私刑(リンチ)である。公的なところに任されている法律的な処罰が適正に行われなければ、または行われていると知らされなければ、怒りを持った人たちの一部は私的制裁に走るのである。

 そしてそれは大げさでなく、テロの芽であると私は感じている。だから厚生労働省の責任者の厳罰をするべきではないかと書いた。それらをあいまいにし続ければ社会秩序はしだいに乱れるだろう。見方によっては、クレーマーにも私的制裁としてのその芽を感じるのである。

寝汗をかく

 体調を整えるために昨晩は早めに寝た。夜中すぎに少し寒気を感じて目覚めたら寝汗をかいていた。あわてて着替えてじっとしていた。しばらく寝そびれていたが、気がついたら眠り込んでいた。いやな予感がする。こういうときに風邪をひく。

 朝起きてみて自分の身体を点検すると、肩が凝っている以外は特に異常はない。あえて云えば少しだるい気がするが熱もないようだ。ギリギリ踏みとどまっているようなので、今日は暖かくして、じっとしていることにした。昨日の晩は風呂に入らずに就寝したし、寝汗もかいたので、朝風呂に入りたい気がしたが我慢する。

2019年2月 7日 (木)

うれしい二日酔い

 一昨日(5日)の晩は友人達と城崎へ行き、蟹をたらふく食べながら歓談した。親友が城崎生まれで、毎年お世話になる民宿の主人は彼の知人である。蟹を食べに行くという名目ながら、実際は酒がメインとなる。みんないい歳をしてバカ酒を飲む。

 翌日の朝は多少酒が残っていたので、宿にお願いして滞在を少し延長して、酒が抜けるのを待たせてもらった。飛行機ではないが、車を運転するのであるから気をつけなくてはならない。

 食べ残しの蟹をお土産にしてもらった。毎年のことである。それを娘のどん姫にもっていくと連絡してある。そうこうしていたら、どん姫からメールが来て、翌日が旦那が休みなので、二人でわが家に来るという。「呑み疲れていると思うけれど、大丈夫?」というので、「大歓迎」と返信した。

 四時前に家にかえり、二人がやってくる前に散らかり放題だった家の中を片付け、酒のつまみになるものを用意した。夜になっていつものように銘酒をかかえてどん姫と婿殿がやってきた。

 こうしてまた酒盛りが始まり、いつものように調子に乗ってしゃべり倒し、まず婿殿が討ち死に、しばらく呑んでいたらどん姫にもう寝ろ、といわれて私も討ち死に、朝起きたら狼藉のあとは綺麗に片付いていた。どん姫も主婦なのだなあと感心した。これならそこそこ手抜きせずに主婦業ができていることだろう。

 もともと肥満気味の婿殿はさらに太ったみたいなので、ちゃんと食べさせているようだ。

 連チャンでいささか胃腸はダメージを受けているものの、今朝はとても好い気持ちの二日酔いである。

2019年2月 6日 (水)

映画『コールド・キラー』2017年ドイツ・オーストリア

監督ステファン・ルツォヴィッキー、出演ヴィオレッタ・シュラウロウ、トビアス・モレッティ、

 たおやかな女の人も好いが、強い女のひとがもっと好きである。むくつけき大女の強さはさすがに苦手だが、決して服従せず、逆境にもあきらめないで立ち向かう女性にほれぼれする。そもそも女性というのは男よりもそういう強さをもっている気がする。そうでなければ体力的に劣るのに男と互して生きることはできなかったはずだ。過去、男に隷属しているが如くみせていたのは多くは戦略であろう。

 舞台はオーストリア、この映画の主人公エズゲ(ヴィオレッタ・シュラウロウ)はトルコからの移民で、タクシードライバーとしてはたらき、一人娘を養育している。移民としてさまざまなハンディを負い、家族との関係にも悩み、一時薬物に手を出したこともあるが、いまはそれから脱却するためにキックボクシングジムに通い、男にも負けない腕力を秘めている。

 さまざまなことに怒りが内向していて、ときに激発する。実は彼女には凄絶なトラウマがあり、それが途中で明らかになるが、彼女はそのことを自分が不利になっても決して口にしない。その矜持が胸を打つ。

 そんな彼女が連続殺人事件の犯人を目撃してしまい、警察に保護を要請するが、警察は連続殺人についてまだ確証がなく、移民である上に薬物で前科のある彼女の訴えは相手にされない。その彼女を犯人がつけ狙う。彼女の周囲で凄惨な殺人が起こり、しだいに警察も連続殺人事件として捜査に本腰を入れはじめる。

 彼女は襲撃してきた犯人に単独で立ち向かわざるを得ない。危機一髪で虎口を逃れた彼女は逆に犯人を自分のタクシーで追い詰めるのだが・・・。

 エズゲの強さにほれぼれして観ていた。そんな彼女だからラストで運命の神は彼女にほほえむ。彼女のためにうれしい。

映画『バトル・プレイヤー1』2017年ロシア

監督コンスタンティン・シェレポフ、出演ステパン・ベクトフ、パイヴェル・ミハイロフほか

 ロシア映画は独特の癖があっていささかなじみにくい。世界観に違いがありすぎるのだろう。それを面白いと思える人にはそれがかえって興味深いかもしれないが。過去ロシア映画、というよりソビエト映画で記憶に強く残っているのは『カラマーゾフの兄弟』と『惑星ソラリス』の二作のみ。

  学生時代、この『カラマーゾフの兄弟』を観てからすぐにドストエフスキーの原作を買い、大部のこの本を二日ほど徹夜で読んで読み切った。もし映画を観ていなければ、イメージも掴めず読み切ることはできなかっただろう。『惑星ソラリス』は原作のスタニスラフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』をすでに読んでいたから、この陰鬱な映画をそれなりに興味深く観た。確かハリウッドでリメイクしたはずで、それを観たような記憶もあるがただのSF活劇風で原作の哲学的風味が感じられなかった。

 肝心のこの映画だが、テーマはVRである。VR世界が進化しすぎた世界で、そのVRを管理しなければならないと考えている政府はVR管理官というのを設置している。VRは人間の精神を浸食する。問題のあるものは規制しなければならないが、それをチェックして可否を判断するには強靱な精神力を必要とする。

 その管理官そのものの精神力を定期的に検査するためのVRも作られている。その検査をパスしないと管理官をはずされてしまうし、耐性が高いほど昇級するのだ。だからそのテスト用のVRは極めてえげつない。

 物語はそのテストVRで体験する異常な世界と、現実とVRの混乱で生ずる事件が描かれる。なにが現実でなにがVRなのか、そしてテストなのか実際なのかが混乱していく管理官が描かれるのである。映画としてはその血みどろの異常世界そのものをこそ描きたかったのではないかというところがある。

 自分の正気を試すためにこの映画を観てみては如何。

佐伯泰英『異郷のぞみし』(双葉文庫)

 佐伯泰英はたくさんの時代劇のシリーズを書いていて、そのうちの三つほどを追いかけて読んでいたが追い切れず、居眠り磐音シリーズのみに絞っていたが、そのシリーズも終わり、一息ついていたらその息子の坂崎空也のシリーズが始まってしまった。十番勝負のこれが第四番である。この巻はとっくに出ていたらしいのに見逃していた。

 親元を離れ、九州で武者修行を続けていた空也は、五島列島からついに対馬まで至る。この巻では対馬と平戸が舞台となる。今回は朝鮮の剣士との戦いが中心で展開する。対馬という島の当時の位置づけ、朝鮮との関係、そして九州諸藩や幕府との関係が書かれていて興味深い。

 興味深いのは、いま対馬が懸念される状態であるからだ。観光客の多くが韓国からであることは位置的に理解できるないことはないが、島の土地がつぎつぎに外国人、主に韓国人と中国人に売られていることで、一説には韓国人の名義で裏で中国人が買っているケースも多いという。島の土地の主な所有者が外国人になり、看板の多くがハングルで書かれているという状態は、異常である。その先になにがありうるか、誰にでも想像できるだろう。

 対馬には一度行きたいと思いながら行く機会がなかった。いま対馬に行ったら楽しめるかどうかちょっと心配(不愉快な思いをしそう)なので行きそびれたままだ。そういう人も多いのではないか。ついに行くことはないかもしれない。ほんとうは日本人みんなが大挙して出掛けて行くことが必要なはずなのだが・・・。

閑話休題。

 今回も新たな成長を遂げた空也だが、若くしてあまりに強くなりすぎてしまって、これでは相手がいなくなりそうである。次巻(すでに入手済み)、第五番勝負の場所は長崎。十番勝負と銘打っているが、著者はここで青春篇は打ち止めとしてしばらく筆を置くことにするという。自分の衰えを感じているからというが、さすがに息切れしたのだろう。

 確かにこの『異郷のぞみし』も、わずかながらマンネリの気配がある。坂崎磐音が中心の磐音ワールドがひろがりすぎて、その消息を網羅しているだけで手一杯になってしまうところがある。ファンとってはそれが楽しみでもあるけれど、物語がうすくなってしまう恨みもあるのだ。

2019年2月 5日 (火)

なんたることか

 千葉県の小四女児が父親にいじめ殺された事件の顛末を、テレビのバラエティニュースでみた。母親も虐待の加担者として逮捕されたようだ。しかし父親の激しい抗議に抵抗らしい抵抗もせず、暴力におびえて女の児を見殺しにした学校と児童相談所の無責任さにあきれ果てた。私同様、女の児の無念さに対する悲しみと、大人たちに対する激しい怒りを感じている人は多いだろう。

 なぜこの異常な父親に関係者たちが屈してしまったのか。児童相談所の人間や学校の校長をただ非難するだけでは同じことが起きるだろう。自分が当事者だったら、それに屈しないで女児の命を守るための行動が取れたかどうか、それをみなが胸に手を当てて考えなければならないと思う。

 お客様は神様です、ということばほど不快な言葉はない。この言葉を発したあとの三波春夫が大嫌いである。この言葉が社会をどれほど毒したのか、そのことを三波春夫は自覚していたのか。お客様が神様などでないことを三波春夫だって分かっているのである。単なるファンに対する迎合である。だからといって腹を立てるほどのことではないではないかと思う人もいるだろう。

 自分が神様だと勘違いするバカモノを生みだしてしまったことが問題なのだ。そんな勘違いをするバカモノは千人に一人かもしれないが、日本中をあわせれば十万人いる勘定である。それらの人間がクレームを喚き立てる。些細な瑕疵をさわぎたて、ときには瑕疵すらないものをさわぎたて、企業や販売店はそれをひたすら平身低頭して承る。なにしろ相手は神様なのである。

 学校にもモンスターペアレントがクレームをつける。学校は教育を売るところで、顧客である自分の子供の成績が悪いことや思い通りにならないことにクレームをつける。彼等は学校も商売だと思っている。なにしろ日教組が教師を単なる労働者に引き下げてくれたのだから、教師や学校に敬意など毛筋ほども感じない。

 今回の女児虐待殺人事件の父親の行動は、私にはそのような、自分が神様として他人を支配し、強行にクレームをつけることが許される者としての行動にみえてならない。そして学校も児童相談所も、父親を「お客としての神様」として逆らうことができなかったのだろう。

「お客様は神様」などでは決してない。ただのおためごかしであり、極端にいえば客をバカにしているのであり、そのために社会にとんでもないコストがかかっているのだ。なんたることか、ついには子供の命まで見殺しにされた。

映画『スターシップ・トゥルーパーズ レッドプラネット』2017年日本・アメリカ

監督・荒牧伸志、杉本勝 (アニメ)

『スターシップ・トゥルーパーズ』のシリーズはもともとはロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』という小説を原作としている。この小説はいかにもアメリカ的、国威発揚的な小説で、ハインラインはそれを意図的に書いたのだと思う。傑作である。敵はバグ、つまり虫である。虫といっても人間よりもずっと大きい甲虫のような生物で、しかも知性があり、人間と同等以上の科学力も持っている。人間が宇宙に雄飛するのに最も厄介な敵なのである。人間がそれこそ虫けらのように殺されていくシーンが多い。

 シリーズは第三部までが実写映画で、それ以降はアニメ版となっている。残虐シーンが多いからアニメの方がつくりやすいといえるか。わたしが知る限りこれはアニメ版の二作目、通しでいえば第五作だと思う。

 アニメ版はほとんど実写のようなリアルさで、出来はよい。このようにストーリーが展開していくと、いくらでも話を作ることができるけれど、過去の作品との整合性も必要となる。なにしろこういう映画はそういうのが大好きな人が観るものだし、そういう人しか観ないともいえる。矛盾があれば突っ込まれるだろう。わたしはそういう人の一人である。

 今回はバグが攻勢を強め、戦線はついに火星にまで押し込まれつつある。人類の植民星である火星の独立運動が絡みながら、地球での覇権争いもあって危機が増幅する。一挙に事態を打開するという名目で、強行されようとする方策は恐るべきものだった。

 状況対応よりも自分の権力確保に狂奔する人間が君臨するとどういう恐ろしいことが起こるのか。それには怒りを感じるが、現にこの現実世界では当たり前に起こっていることでもある。

 わたしにとってはとても面白い映画なのだが、誰にも面白いかどうか分からない。面白いはずなのだが・・・。

『横手の雨』(4)

前回の続きでこれが最終。

 翌日ぼくは川向うの屋敷町を通って郊外に出た。そして美入野の高等学校にいった。以前の横手中学校である。近年は東京でも都心を離れたところに学校をたてることが通例になっているが、こんな田舎の町で、しかも何十年も以前に、わざわざ市街地をはずして郊外に学校をたてたのはどういう思案からであったろうか。まさか遠い将来の町の膨張をあらかじめ考えていたわけでもあるまい。だからこの学校に通うには生徒も先生も相当の時間がかかるわけだ。吹きっつぁらしの一本路にさしかかると、雪の最中などなかなかつらいとのことである。いかにもそれにちがいあるまいと同情した。

 学校は古い木造校舎である。かかえるようなサクラの老樹がたくさん植っていて、その葉のこんもりした茂りが広い前庭をうす暗くしている。なにもかも何十年か前の古めかしさのなかにあって、新しくたてられた図書室だけが、いかにも清新に近代的な匂いをはなっていた。

 この美入野高等学校つまり以前の横手中学校の名前は、三十年も前からぼくにはある親しみがあったのである。というのもぼくたちが学校を出た途端、クラスメートの一人である石坂洋次郎がまず教職についたのがこの学校だったからだ。石坂は長い間この横手の町に在住して、そして一方でよき教師としての任務をはたしながら、努力して小説を書いていたのである。長編『若い人』の原稿もこの土地から毎月きちんきちんと「三田文学」の当時の編集者、和気清三郎のところに送りとどけられたのである。偶々(たまたま)故水上滝太郎氏が私用で横手にみえたとき、水上さんは一夕石坂を招いて大いに彼を賞讃し、激励したということを聞いている。石坂は水上さんの期待にそむかず文学の途に進んで成功し、そして町からはるばる通わなければならなかった横手中学の教職を辞して、やがて東京に移り住んだ。その水上さんもとっくに亡くなってしまった。かれこれと思いをめぐらしてぼくはなんとなく目頭のあつくなるのをおぼえた。

 これも旅中の感傷かもしれない。

 宿に帰って障子をあけ放ち、河鹿の声に耳を傾けた。あいかわらず細かい雨がふっている。なんというおだやかな川であろう。岸までたっぷりと水をたたえていながら、流れはこの上もなく浅い。その浅い流れの上に烟のような雨がふっているのだ。縁先の白い鰯花のずっと真直ぐの見当に、川向うの小学校がみえる。その右手よりの古びた瓦屋根を指して、平源さんは、
「あれが石坂さんの住んでいた家です」と教えてくれた。

 昨夜はしょっつるがたいへんうまかった。新宿あたりで食べるしょっつるとはまた格段の相違があるように感じたのも材料が新鮮なためばかりでなく、その場所にきてそこの空気を吸い、そこの水の音を聞きながら食べるせいにちがいない。いやもっと煎じつめていうならば、はからずもこの土地の雨に出あうことができたのが、どれほど味をよくしたことか。そして今晩はみずのからし味噌にあえたのが滅法においしかった。

 雨に暮れてゆくこの川沿いの宿に、簡素な山菜の料理で一献傾けることができたこの幸せを、夢おろそかにしたくないと思っている。(終わり)

 小学校高学年になると女子の方が成熟が早い。わたしが少年少女向けの本を読んでばかりいるのを見て、そんな女の子の一人が、「いつまでそんな本を読んでいるの、これを読みなさい」と渡されたのが石坂洋次郎の『若い人』だった。それからは少年少女向けの本を卒業し、大人の読む本を読むようになった。

 そうなると小学校の図書館には読むものがなくなり、町の図書館に行くようになった。母から月々小遣いがもらえるようになり、文庫本を自分で買うようになったのもこの頃だった。

2019年2月 4日 (月)

篆刻(てんこく)

 草刈正雄の独演する『美の壺』という番組があって、面白そうなときだけ録画して観ている。『書と漢字』と題する回のものを今日観た。漢字の成り立ち、書体の変遷など、分かりやすぐ紹介されていた。

 顔真卿の書は、私が書道で教わった種谷扇舟先生が好きな書だったので、この番組の紹介のしかたは大いに共感するところである。種谷先生に教えてもらって臨書したことがあり、骨太で独特の筆法を思い出した。

 昔は書家としての顔真卿しか知らなかったけれど、その後中国の歴史を囓ったので、政治家であり、安禄山の反乱に抵抗した将軍でもある彼の実像を知った。

 中国の西安に碑林という石碑が集められた博物館があって、西安に行くたびに必ず立ち寄る。そのたびに拓本などを買い求めていて、私の数少ない宝物の一つである。たまに披いてまだかすかに残る墨の匂いにうっとりする。

 種谷先生には篆刻も教えてもらい、落款用にいくつか印を彫った。ずいぶん昔のことだが、いまだにまた篆刻をやりたいという思いをかかえている。リタイアしたらやりたいことの一つだったのだが、大抵のことはかなえたのにまだ篆刻ははじめていない。

 中国に行くたびに篆刻用の石を一つ二つと買っているので、いつでもはじめられる。教本も篆刻辞典も用意してある。彫刻刀は雑なものを所持しているが、できれば本格的なものを買いたいと思っている。篆刻は集中力とセンスが必要で、センスはともかく集中力がある間にはじめないと夢だけに終わってしまう。それに眼も危うくなりつつある。

 番組では篆刻の様子も映されていて、そんなことを考えた。そういえば清河八郎の記念館でも篆刻の印と落款がたくさんならべられていたなあ。

映画『プライム・ターゲット』2016年ベルギー

監督エリク・ヴァン・ローイ、出演ケーン・デ・ボーウ、サスキア・リーヴス、アダム・ゴトリーほか

 ベルギー映画というのは珍しい。以前にも観たことがあるのかもしれないが記憶にない。しかしながらこの映画はイギリス映画的なテイストで悪くなかった。

 ヨーロッパ歴訪の途次、アメリカ大統領がベルギーを訪れるという朝、それを迎えるベルギー首相の邸宅が襲われる。妻と娘を人質に取られたベルギー首相は、アメリカ大統領を暗殺することを強要される。

 誘拐の事実を知られたり通報したら即座に妻子は殺されてしまう。孤独で絶望的な首相の葛藤と戦いが始まる。首相の身の廻りでひとりまたひとりと犠牲者が発生する。首相に張り付いた犯人たちによるものである。しかし首相が危惧するように、アメリカ大統領を暗殺することなど可能なのだろうか。そもそも必ず齟齬は生ずるものであるし、それに対するアメリカ側の対処は万全なはずなのである。

 巧妙に仕組まれた暗殺への手順に従いながら、ついにそのときがやってくる。そしてそのときベルギー首相はどのような行動をとったのか。そして妻子は無事に保護されるのか。

 後半の行き詰まる危機的状況の連続、そしてさらに不可解な事態、背景にある恐るべき陰謀、とにかく事態の進展がリアルでありながら、首をかしげる破綻もなく出来が良くて面白い。

 どんな映画を観ても面白い、とかお薦め、とか書いているわけではないのである。だめな映画もたくさん観ているのである。たとえばちょっとひねったヴァンパイア映画『デイブレーカー』などは、せっかくイーサン・ホークが主演しているのに、ストーリーがわかりにくいし、根本的な疑問が拭いきれないために楽しめなかった。生煮えである。

 また『インファナル・バイス』というクライムアクション映画も、当然暴力シーン満載であるのはストーリー上しかたがないが、なんだか二番煎じ的なシーンが目立っていたし、少しも感情移入できなかった。なにしろ出だしのシーでの主人公の有能さと後半の主人公の鈍感さが同じ人間とは考えられないのである。

『横手の雨』(3)

前回の続き

 加わっていったものはひとり猫文献だけではなかった。イプセン研究の深さと創作戯曲の数もまた年を追うて増していった。そして丸善勤務のほかに、週二時間三田で戯曲研究の講義を担当していた。

 しかし水木さんはいたって寡作家でありかつあまりに慎重すぎる人であったため、創作戯曲の数もほかの劇作家とは比較にならないほど少なかったし、あれほど打ちこんでいたイプセンについても、資料集めと覚書のノートの蓄積に終わってしまったのは、かえすがえすも残念であった。

 あまりに傾倒しつくしていたために、かえってすくんでしまって手が出にくくなったのであろう。

 その癖、談ひとたびイプセンに及ぶや、さすが年来の勉強がものをいって、決して他の追随を許さない。しっかりとした深い理解と蘊蓄とを示すのであった。晩年丸善を退いて、京屋ビルの何階だかで雑誌「演劇」を編集するようになってから、やっとイプセンノートをぽつぽつ連載しはじめて、いよいよ多年懸案のイプセン研究をまとめる緒についたかにみえたが、しかしそれもまだ試論程度の用心深さを示したにすぎず、さらに今後の大きな発表が当然なされるはずであった。

 そのうちに戦争はいよいよ激しさを加え、東京の大半は焼野原となり、罹災した水木さんもまた西郊に移り、やがて終戦を迎え、いよいよこれからという矢先、死ななくてもいいような病気で、実にばかばかしい死にかたをしてしまった。

「馬場孤蝶先生もたいへん褒めてらしたが、新村さんの『辞苑』という字引は、読みものとしてもおもしろいね」
 こんなことをいうときの水木さんは、ほんとうに感心しきったというような顔つきをして、しかも相手にもそれを呑みこんでもらいたい様子をありありとみせた。しかし大抵の場合、かれのいうところ教えるところにしたがっておいてまずまちがいがなかった。水木さんはそういう意味の親切と勘のはたらく人だったのである。東北人らしく酒はなかなか好きでもありかつ強かったが、ぼくはどうしてか、いっしょに呑んだことは一遍もなかった。そのころはぼくがそれほど呑めなかったので、向こうも誘わずこっちも恐れをなしていたためであろう。多分そんなことである。

 その晩とうとう雨はふりやまなかった。河鹿の声はひっきりなしに川一面に涼しくひびきわたっていた。
「昔はこの川岸に横手木綿を染める紺屋がずらりとならんでいたのだそうで、この家も当時は旅籠ではなく、やはり紺屋渡世でしたが、藍玉の染めものが廃れますと、勢、むかしの紺屋がなりたたなくなりまして、それから宿屋に変わりました」
平源さんはこんな話をしてきかせた。

つづく

このあとさらに旧制横手中学、そして級友だった石坂洋次郎の話になる。ところで紺屋は「こんや」と読んでもかまわないが、できれば「こうや」と読んでもらいたいところだ。

2019年2月 3日 (日)

理解困難

 韓国ではあの慰安婦像のミニチュアが売られている、と報じられていた。そんなことをわざわざ報じなくても良いのにと思いながらも、それを読めばそれについて考えてしまう。もちろんどれほどの数が作られて、どれほどの人が買っているのか知らないが、収益の一部は慰安婦支援の団体を通して慰安婦、もとい、元慰安婦に渡されているという。

 わたしなど、つい極端に考えてしまうのだが、このミニチュア慰安婦像を一家に一つ飾るのが韓国人としての常識になったりしている図を想像してしまう。それが非人道的国家、日本に抗議する韓国人のアイデンティティを自覚する象徴だ、といわれると、自分の家だけ置かないというわけにはいかないではないか・・・などというのは冗談だが。

 ところで、日本は朝鮮と戦争はしていない。半島が植民地になったと韓国はいい、日本は併合したといい、それは互いの立場で主張していることだからいつまでも平行線だろう。しかし併合にしろ、植民地化にしろ、どれほどの朝鮮の抵抗があったのか。

 歴史は、自分の国が他国に支配される事態に戦争にもならずに、ほとんどの人間が唯々諾々としたがった結果だという見方もできる。それが堪えられないから、一部の抵抗者、テロリストたちが英雄視され、独立運動をしていたと主張し、今度の三月一日がその意味での建国百周年だと主張しているのだろう。 

 それはそれとして、話は元に戻ってミニチュアの慰安婦像である。朝鮮の人々は、何万という婦女子が日本軍によって慰安婦として強制連行されたという。ついには二十万人などという驚くべき数字に膨らませていう者もいる。しからばそのとき半島の人々は、妻が、姉や妹や娘が連れ去られるのを指をくわえてみていたのか。それに抵抗してどれほどの男たちが傷つけられたり殺されたりしたというのか。

 そういう話は全く聞いたことがない。あればそれも糾弾されないはずはない。それなら腰抜けである。あえて悪口をいえば、慰安婦像を飾るという行為は、わたしたちは腰抜けでしたという象徴を飾ることに他ならなくないか。

 誤解しないでほしいが、私は半島の人がそんな腰抜けだったなどとは決して思わない者である。そんなはずはないではないか。反日のテロリズムを実行する者もいたのである。今でも激情に駆られて焼身自殺抗議があったりするのをみる。日本人よりよほど激しい感情の人々だと思う。

 それなら、そもそも慰安婦としての強制連行は皆無とは言わないまでも、極めて例外的な少数だったのではないか、または事情のある慰安婦業だったのではないか、と考えるのが自然だろう。慰安婦像、そしてミニチュアの慰安婦像をそこら中にばらまき、あまつさえ世界に設置しようという者たちは、私には理解困難である。逆の立場だったとしても、わたしだったら慰安婦たちを守れなかった国民として恥ずかしく思う方が先に立つ。

 ところでこの慰安婦問題が朝日新聞の誤報に端を発したことは周知の事実である。朝日新聞は事実ではないことを承知で報道して日本を貶めることが好きに見えるが、それが恥ずかしいこととは思わないらしい。かれらが戦争中に大本営発表を垂れ流しして戦意高揚をはかったことに対する反省が、そのような行動の心底にあるなら、二重の意味で日本の、そして韓国の国民を誤らせ、傷つけていることになる。

アニメ映画『リメンバー・ミー』2017年アメリカ

監督リー・アンクラッチ

 この世があって死者の行くあの世があって、年に一度、先祖が残された家族に会いに来る日「死者の日」がある。生きている人間には死者は見えないけれど、先祖を祀る家族のもとには必ず死者は訪れている。

 少年ミゲルは音楽が大好きなのだが、存命するミゲルの曾曾祖母(つまりひいおばあちゃんのお母さん)ココの父親が、音楽家になるために家族を捨てたことから、ココを女手で育てたココの母親の厳命を守り、一族は代々音楽を毛嫌いしていた。「死者の日」に、先祖を祀る祭壇にならべられた数々の写真には子どもの頃のココを抱く母親とそのとなりに父親の写真があるのだが、その顔は破りとられている。

 折しもその日に音楽祭があり、ひそかに自作のギターで参加をしようとしていたミゲルは、祖母にそのギターを破壊されてしまう。ミゲルは替わりのギターを求めて、伝説のミュージシャンでいまはなきデラクルスの霊廟に飾られているデラクルスのギターを借りようとするのだが。

 そのギターは、ココたち親子の写真の父親が抱えていたギターそのものであり、デラクルスこそミゲルの先祖であると確信する。そしてそのギターを弾いたとたん、彼には死者達が見えるようになってしまう。そしてなんとそのままだと彼も生きたまま死者になってしまうと死者達に教えられる。もとの自分に戻るにはデラクルスの許しを得ないとならないと信じたミゲルは、デラクルスに会うために死者達のやってくる橋を逆に渡り、死者達の国に赴く。

 ここから不思議でしかも絢爛たる死者の国でのミゲルの冒険が始まるのである。危機もたびたび訪れるし、さまざまな出会いと体験があり、ミゲルは多くの死者達の助けと苦労の甲斐あってついにデラクルスに会えるのだが・・・。そこで思わぬことが起こる。絶望のあとに知った思いがけない事実、そしてミゲルはどうなるのか。

「リメンバー・ミー」という歌の中に込められた父親の娘に対する思い、それを聞いたココの顔が輝くとき、胸が熱くなる。このアニメには参った。これをどん姫や息子ともう一度観たいと思う。本当に好いアニメ映画である。お薦め。

『横手の雨』(2)

前回からの続き

「ついお隣りが亡くなった水木京太さんの家でした」
と平源の主人はぼくに語った。偶然にも平源さんはやはりぼくと同じ学校を、ぼくよりも数年前に卒業した人だったのである。したがって水木さんよりは二三年後に出た勘定になる。
「というと、どっちのお隣?」
「そっち隣です」
と平源さんは床の間の方を指した。つまりは鰯花の咲いている方の隣である。しかし今はもうその家はなくなって、自転車屋かなにかになっている。
「大きな小間物屋でした。この土地でもずいぶん古いお店でしたが惜しいことをしました。隣どうしのわたしたちは、ですから小さなころから往来していて、全くの親戚づきあい同然の間柄でした」
と平源さんは、いまさらのようにしんみりした。

 川いっぱいに河鹿の声である。その涼しげな声がしっとりとした夏の雨の緑のなかから、ひとしきり喨然(りょうぜん)と湧きおこった。

 水木さんにはぼくは学生時分からいろいろと面倒をみてもらった。当時「三田文学」の編集を水木さんがひきうけていたからである。

 もうずいぶん古いことで、多分大正十年か十一年のことだと思う。はじめてぼくが水木さんをたずねたのは高輪の沢木梢氏の邸(やしき)であった。まだ独身だった水木さんは病気療養中の沢木さんの留守番として、その大きな邸に老婆相手に住んでいたのである。書棚にはずらりと洋書が並んでいた。その中でイプセンの関係の本が一番多かった。

 そのときぼくはなにを話したのか、さっぱりおぼえていないが、いろいろ本の話をきいたような気がする。というのはまだ当時水木さんは丸善に勤めてはいなかったけれどもこの訪問で水木さんがたいへん本好きだという印象を刻みつけられたからである。

 その後赤坂の氷川町に移って、そこで新所帯をもち、この住居がずうっと長かった。家の後に寺の竹藪があり、二階からみるとそれがわが家の庭みたいに見えるのが得意だった。
「ねえ君、ちょっと『聊斉志異』ってところだろう?」
こういって水木さんはいかにもうれしそうだった。

 水木さんの猫好きは評判であった。但し夫人が大の猫ぎらいであるため、飼養はきつい法度であったから、やむを得ず猫文献の蒐集でわずかにその渇を医(いや)していた。丸善で『学鐙』の編集にしたがうようになってからは、いわば洋書輸入の関門に坐しているようなものであったから、その蒐集は頓に成績が上がり、珍しいものが加わるたびに、しばしば入手の喜びについてあれこれと話されたものである。

 加わっていったものはひとり猫文献だけではなかった。

つづく

このあとも水木氏についての回想が続く。

2019年2月 2日 (土)

朝寝

 ぬる湯と朝寝は、快適でないことはないが、あまり好みではない。熱めの湯に入ってじっとりと汗ばみ、くらくらする手前のところで上がるのが好きだし、朝はできれば六時、遅くとも七時までに起きて着替えることにしている。前夜が遅くて眠ければ昼寝をすればよいし、昼寝はよくする。

 自分の決めごとに反して、今朝は朝寝を自分に許してしまった。自分の決めごとは、あまりそれにこだわって縛られると窮屈だ。法律と違って、自分が決めたことだから自分で破ることが自由であることがありがたい。

 朝寝をしたのは、別に具合が悪いからではない。なんとなく睡眠のリズムの調整になるような気がしたからで、来週久しぶりに遠出をするのでそのための調整である。友人達と城崎に蟹を食べに行く。リズムが狂っていると悪酔いする。暴飲暴食をしても、調子が良ければ大丈夫なことは長年の経験で承知している。

 久しぶりの泊まりの遠出である。これをきっかけに今月後半にもっと長期の旅に出かけようかな、などと心が動き出している。淡路島に行きたいし、四国にも行きたいし、息子のいる広島にも行きたいし・・・。となるとそれを全部一度にすることも出来るなあ、などと気持を昂ぶらせているのである。

 これが朝寝の効果というものか。滅多にしないからこその効果である。

映画『ファースト・キル』2017年アメリカ

監督スティーヴン・C・ミラー、出演ヘイデン・クリステンセン、ブルース・ウィリスほか

 父と子が絆を深めるため、そして息子や娘が成長して自立するためには、ともに危難に立ち向かいそれを乗り越えるという体験をするのが一番である。そのような映画は数多くあって、この映画もその一つだ。

 それにしてもこの映画の、父と息子が遭遇する危難はかなり絶望的なものである。まあ映画や物語というのはそうでなければハラハラドキドキもしないし面白くないから当然なのだが。

 一人息子ダニーが学校でいじめに遭っていると知らされた父親ウィル(ヘイデン・クリステンセン)は、休暇を取って久しぶりに妻と三人で、死んだ父の住んでいた田舎にやってくる。彼が父親から鹿撃ちを通して男としての教育を受けたように、息子に自然の素晴らしさと厳しさを教えようと思ったのだ。

 その息子は車の中でもゲーム機でゲームばかりして、あたりに関心を持たない。田舎の町に着くと、父の親友であった警察署長のハウエル(ブルース・ウィリス)に呼び止められる。無愛想に戻ってきたわけを尋ねたあと、最近銀行強盗があり、犯人が逃亡して森のなかにいるかもしれないので気をつけるように忠告する。 

 父親の遺品である鹿撃ち用のライフルで射撃練習をするうちに、息子の顔はしだいに明るくなる。二人は森に入り、鹿を追う。雨が降り出し、雨をよけるための森の中の小屋に向かった二人は男たちの言い争う声を聞く。その争いの会話は緊迫した危険なもので、おそるおそるのぞきこんだ二人の前で、ひとりの男がもう一人の男を銃で撃つ。

 見たことを知られるとこちらも危ないと身をひそめる二人だったが、男に気付かれてしまい銃撃を受ける。息子のダニーを守るため、ウィルは鹿撃ちの銃でその男を射殺してしまう。ところが射殺した男が警官だったことを知る。最初に撃たれた男は重傷だったが生きていた。事態を良く把握できないまま、その男を家に連れ帰り、病院勤めで医療のできる妻に治療をさせる。

 警察に知らせれば自分が警官を撃ったことが知られてしまう。迷っているうちに気がついた男に息子のダニーをさらわれてしまい、その男の指示に従わなければならなくなってしまう。こうして息子を助けるために奔走しながら、同時に警察にも追われることになった父親の絶望的な戦いが始まる。

 プロローグに、銀行に侵入するシーンがあり、それと最初の男たちの争いの会話で真相は暗示されているのだが、ラストにさらに驚くべき真相が明らかになる。

 休暇を終えて田舎から帰るときの息子ダニーの父親を見る力強い目が、もういじめには屈しないだろうことを予感させている。ここでさらにいじめっ子に反撃するシーンを付け加えていないのは当然とはいえ賢明である。そういうシーンを見たい人は多いだろうが。

『横手の雨』(1)

 奥野信太郎先生の本をじっくりと味わいながら読んでいる。その中で『横手の雨』という文章が気にいったので、何回かに分けて紹介したい。

 予備知識として、奥野信太郎は慶應義塾を卒業している。この文章の中の登場人物は、慶應義塾に関係している人が多いので、それを念頭に読んで欲しい。

 夕方ちかく横手についた。

 朝からふっていた細かい雨は、そのままふりつづけて、夕方になってもやまなかった。古い町の屋根はしっとりと濡れて黒く光っていた。その濡れ光る屋根のいろがまず心を和やかにしてくれたのである。ぼくは知らない土地にいってその土地の雨をみることが好きなのだ。先を急がない旅だったならば、ふりこめられて宿にじっとしたまま、しずかに雨の音をきいたり窓から濡れた樹のいろを眺めたりしているくらい気もちのいいものはない。どこか知らない土地にきたという心細さが底にうごいていながら、それでいてしんみりとしたほの温かいものが胸に上がってきて、そこになんともいえない憩いを感じさせてくれるのである。

 これが東京だったならば、雨はあまりにわびしすぎる。自動車の車輪の両側からほとばしるはげしい飛沫、閉めきった電車のなかのむし暑さに、汗ばんだ窓ガラスを滴々とくだる雫の行列、駅の階段の上り下りに思わず辷る怖しさ、それらがみんなすぐ生活のあじきなさに結びついて、今日もまた一日雨かと心を暗くせずにはおかない。それがひとたび旅に出て、知らない土地でふと出あった雨となると、そこに滲みでてくる和やかさをしみじみと感じるからまったく不思議である。

 宿は旭川沿いの平源である。あんまり広くない中庭の池の水の濁りのなかに、緋鯉だか金魚だかの赤いいろがほんのりとうごいていた。夕方の細かい霧雨に、中庭の樹木の葉はみんな艶やかに濡れそぼち、どこかの雨樋だけがうつろな響をたてているのが閑寂にきこえた。

 その奥座敷の、縁に向かった障子をひらけば、一間ほどの庭ともつかない空地のつい先が石垣で、そこからもう川である。その庭ともつかない空地には、丈の短い蕗がいっぱいに生い茂って、ところどころに茗荷がのびていた。低い雨雲が相当の速さで移りうごいてゆく。流れはまるで浅く、かなりの川幅ながらこれでは船も通れそうにもない。みればゴム長をはいた子供が中流ちかくまで歩いて出て、そこで釣り糸をたれている。

 向岸の古びた民家の後景には、低い丘がつづいていて、その遠近の緑が濃くうすく眼に明るい。かなりの川幅とはいいながら、呼べば答えるほどの距離しかない。だからじっと眺めていると、向岸を通る人が男か女かもよくわかる。みれば傘をさした人もあればささない人もある。そんな程度の雨がずっとふりつづけているのだ。縁先の右手に大きな石がある。多分手水鉢かなにかがのっていたものらしいが、今はなんにものってはいない。そしてその上にかぶさるように、白い花を咲かせた灌木が一本植っている。白い花だけれども、よくみると心もちうす紫が滲んでいて、ちょっと洋風な感じさえある。たぶんこの地方の土着の花だとは思うが、あいにく名前がわからない。たずねてみたら、“鰯花”というのだそうだ。”いわしばな”・・・どうせ植物のことはさっぱり不案内ながら、はじめてきく名前である。みたのもはじめてだ。その鰯花の咲いている縁先から右に橋がみえる。橋の上にも傘をさした人やささない人がちらほら歩いてゆく。

「ついお隣が亡くなった水木京太さんの家でした」
と平源の主人はぼくに語った。

つづく

 (送り仮名などは原文のまま)

2019年2月 1日 (金)

ふと疑問に思って

 子どもの頃、母から空襲の話を良く聞かされた。両親と弟三人とで千葉に暮らしていた母は空襲に遭った。燃えさかる火の中、死体がゴロゴロと転がる中を家族で逃げまどった。さいわい全員奇跡的に助かったが、家は灰燼に帰して貨財一切を失った。母は数枚の写真のみをもちだしたが、アルバムすべて、思い出、友達の多くを失った。

「あのとき転がっていた焼死体のなかに友人がいたような気がする」
「もう夢中だったから、死体が恐いとか気味が悪いなんて思う余裕もなかった」

 焼夷弾というものの恐ろしさ、残虐さを映像的なリアルさで教えられた。日本に投下された焼夷弾は油脂焼夷弾である。粘性のある石油系の液体が高熱で家屋を焼き払い、人に降り注いで焼き殺す。べっとりと皮膚に張り付くから取り除くのが困難な残酷な兵器である。いわゆるナパーム弾も日本への空襲に使われたが、これは油脂焼夷弾の一種である。

「目の前で焼夷弾に直撃された人も見たし、燃える油脂を浴びた人も見た」と母は言った。

 あるきっかけで母のことを思い出していたら、この話を思い出し、そのあと、ふと疑問に思うことがあった。

 第二次世界大戦で、連合軍は(つまりアメリカは)朝鮮半島に空襲を行ったのかどうか。

 ネットで調べると、朝鮮半島への空襲の記録はないようであり、半島の民間人のそのような戦時中犠牲者の記録もないようである。台湾には空襲があった。台北空襲で市民の犠牲者が出ている。もちろん朝鮮戦争で多くの民間人の犠牲者があったが、これは第二次世界大戦とは無関係であるし、当然日本とも関係がない。

 だから何なのだ、といわれればそれまでだが、なるほどな、という気もしている。思うのは教育というものは焼夷弾より恐いものだ、という思いである。

(同意したくないけれど)同意する

 「厚生労働省は「ねもと」から腐っている、ねもと(根元、根本)からね!」と語ってドヤ顔をしていた辻元議員がわたしは好きではない(つまり嫌いだ、ドヤ顔ということばも嫌いだが、辻元議員にふさわしいのであえて使う)が、昨日彼女の言った「安倍首相の危機感のなさ、根本大臣の無責任さに呆れる」ということばには賛同せざるを得ない。その通りだからである。

 違法行為があり、それがただされずに隠蔽され続けていたときの責任は誰にあるのか。それを過去に遡って確定するのは手間のかかる作業になる。しかしその違法行為そのものは明らかなことなのだから、現在の当事者を特定して責任をとらせ、処分するのはすぐにできることである。

 その特定のための調査を、違法行為に関係している疑いのある人間達に任せるなど、およそ常識ではあり得ないことであって、そのことに鈍感である根本大臣や安倍首相は非難されるのは当然だ。事態の深刻さに鈍感すぎる。起こってしまったことの責任は責任として、これは直ちに正されなければならないのであるから、関係者はすべて排除しなければならないのである。しかし、すこしもそう思っていないことは、根本大臣の国会答弁を見れば分かる。あきらかにうやむやにできると高をくくっているらしい根本大臣や安倍首相は、当たり前のことだが同罪と難じられる。その点で辻元議員に同意する。

「だから退陣せよ!」となるとまた話は別だが、いまのままではそれも否定できないことになりかねない。それに気がつかないのだろうか。なにしろ安倍首相にも根本大臣にも、怒りがかけらも見えないのがわたしには不可解である。これはモリカケ問題とは違う。消えた年金問題で選挙に大敗し、退陣に追い込まれたことを忘れたか!

打ち間違い

 ブログを書くときには下書きを書く。何しろ下書きをしないと誤字脱字変換間違いが頻発して、あとで読んで絶望的な気持になる。もちろん下書きをしても、それが減っているだけで、なくなっているわけではない。他人の眼で校正をしないと間違いはなくせないものである。

 それよりもこのごろミスタッチが増えている。キーの打ち間違いである。わたしは最初から仮名漢字変換である。ローマ字変換も出来ないことはないが、仮名変換でも半ブラインドタッチでそこそこ早く打つことができているので、思考と打ち込みはあまりズレがない。ところがミスタッチが増えれば不要な訂正を頻繁にしなければならなくなる。誤変換とミスタッチは極めて不愉快である。

 ミスタッタは老化の現れなのだろうか。多分そうだろう。初めてワープロというのを使ったのは、ワープロ専用機、東芝のルポという機種だった。三十年以上前のことである。これで文章の打ち込みの練習をした。

 父と母が文庫の活字が小さくて読み難いとぼやいていたので、團伊玖磨の『パイプのけむり』をはじめとする短めのエッセーを中心に、ひたすらワープロに打ち込んで大きな文字でプリントしては父母のところに送った。本で少なくとも二三冊は打ち込んだろうか。

 わたしはそのときから仮名漢字変換である。それで自分で書くよりも打ち込む方が早くなった。ルポの辞書はお粗末なもので、無意味な熟語が無数に辞書に収められていてうんざりした。日本語を知らない人が辞書を作っているのだろうと腹が立ったものだ。

 パソコンのワープロを使い始めたのは「一太郎vir3」からであり、その変換精度の高さはよろこびだった。一太郎の辞書はATOKだからそのときのATOKが最も精度が高いといまでも思っている。バージョンが上がるごとに不要な作業をしているような気がする。遅くなり、精度も落ちていると感じている。

 とはいえMS-IMEはATOKとは明確に違っているので、使いにくくてどうしてもわたしにはなじめない。ただし変換精度はいまはATOKよりましに思う。どちらを選ぶか、悩ましいところである。

 Windows10用の「一太郎vir3」でもあれば、シンプルでありがたいのだが。わたしの文書のほとんどが「一太郎」で書かれているから、それが読めて書き込めることが前提だけれど。

 とはいえ辞書が良くなっても、ミスタッチは増えることはあっても減ることはないのだと思うとちょっと残念だ。

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