『横手の雨』(3)
前回の続き
加わっていったものはひとり猫文献だけではなかった。イプセン研究の深さと創作戯曲の数もまた年を追うて増していった。そして丸善勤務のほかに、週二時間三田で戯曲研究の講義を担当していた。
しかし水木さんはいたって寡作家でありかつあまりに慎重すぎる人であったため、創作戯曲の数もほかの劇作家とは比較にならないほど少なかったし、あれほど打ちこんでいたイプセンについても、資料集めと覚書のノートの蓄積に終わってしまったのは、かえすがえすも残念であった。
あまりに傾倒しつくしていたために、かえってすくんでしまって手が出にくくなったのであろう。
その癖、談ひとたびイプセンに及ぶや、さすが年来の勉強がものをいって、決して他の追随を許さない。しっかりとした深い理解と蘊蓄とを示すのであった。晩年丸善を退いて、京屋ビルの何階だかで雑誌「演劇」を編集するようになってから、やっとイプセンノートをぽつぽつ連載しはじめて、いよいよ多年懸案のイプセン研究をまとめる緒についたかにみえたが、しかしそれもまだ試論程度の用心深さを示したにすぎず、さらに今後の大きな発表が当然なされるはずであった。
そのうちに戦争はいよいよ激しさを加え、東京の大半は焼野原となり、罹災した水木さんもまた西郊に移り、やがて終戦を迎え、いよいよこれからという矢先、死ななくてもいいような病気で、実にばかばかしい死にかたをしてしまった。
「馬場孤蝶先生もたいへん褒めてらしたが、新村さんの『辞苑』という字引は、読みものとしてもおもしろいね」
こんなことをいうときの水木さんは、ほんとうに感心しきったというような顔つきをして、しかも相手にもそれを呑みこんでもらいたい様子をありありとみせた。しかし大抵の場合、かれのいうところ教えるところにしたがっておいてまずまちがいがなかった。水木さんはそういう意味の親切と勘のはたらく人だったのである。東北人らしく酒はなかなか好きでもありかつ強かったが、ぼくはどうしてか、いっしょに呑んだことは一遍もなかった。そのころはぼくがそれほど呑めなかったので、向こうも誘わずこっちも恐れをなしていたためであろう。多分そんなことである。
その晩とうとう雨はふりやまなかった。河鹿の声はひっきりなしに川一面に涼しくひびきわたっていた。
「昔はこの川岸に横手木綿を染める紺屋がずらりとならんでいたのだそうで、この家も当時は旅籠ではなく、やはり紺屋渡世でしたが、藍玉の染めものが廃れますと、勢、むかしの紺屋がなりたたなくなりまして、それから宿屋に変わりました」
平源さんはこんな話をしてきかせた。
つづく
このあとさらに旧制横手中学、そして級友だった石坂洋次郎の話になる。ところで紺屋は「こんや」と読んでもかまわないが、できれば「こうや」と読んでもらいたいところだ。
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