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2019年2月20日 (水)

よく分からぬままに

 困ったときの神頼み、苦しいときの神頼み、などという。私もその口で、いわゆる特定の宗教を信じていない。それなら無神論かというと、神様に頼むことがあるのだから神様はいると思うこともあるわけで、当然のことに有神論である。論というほどのことはないか。

 長く生きていると、窮地に陥ることもあった。どうとでもなれ、と開き直って辛くもその窮地を脱したから今日があるのだが、もう一度なんとかなるとはとても思えないことばかりだった。運がよかったと思うけれど、同時にそんなときにひそかに「神様助けて」と願ったようでもあり、そのお蔭もあったのであろう。

 だからお寺でも神社でも敬意を表して心から頭を下げる。きちんと感謝しなければいけないけれど、たいてい無心である。 

 草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)ということばが好きである。涅槃経のことばで、万物は成仏できる、という意味なのだが、人間だけが魂を持つというユダヤ教やキリスト教やイスラム教の教え(もとはいっしょだが)ではあり得ない考えで、多分仏教の原点ともちがうように思う。

 日本の神道はもともと汎神論的なもので、いわゆる国家神道はそれとは本来相容れないように思うが、もともとの汎神論的な神道にこそ日本人は親和しているように思う。

 宗教を語るときに、宗教そのものの定義がまったく違いながら論争するからたいてい咬み合わない。よく分からないけれど、分からないままにいえば、宗教は人が死ぬということに不即不離のものかと思う。他人の死は見ることができても自分の死は見ることができない。

 死は自分の存在がこの世から消えることで、そのことを考えることで自分が存在していること、生きていることを考え直す。自分が単独で存在しているのではなく、さまざまのものが自分を生かしていると見るのが汎神論だろう。それなら自然を征服する、支配下に置くという西洋式の一神教の宗教とはまったく相反する。自然に生かされているなら、自然と調和して生きるのが生きやすい生き方のはずである。

 都会でしか生きられなくなっている私などは、田舎暮らし、自然のなかで生きることに憧れはするけれど、その能力をすでに失っている。ブログを拝見して、自然と接して自然と関わって暮らしている人たちに憧れと敬意を感じるのは、まだ多少はその汎神論的な気持ちを残しているからか。

 人間はもともとすべて汎神論から出発しているのだともいう。しかしその汎神論を多くが捨て去って久しい。人間はすでに自然が養いきれないほど過剰になってきているようだ。その限界を見るのはいつの日か。もしあの世があるなら、私はそこからそれを見ることになるのか、もしかしたら中国にその予兆を観ることになりそうだ。そのとき神はいるのか。

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コメント

国家神道は、神道を利用しただけかもしれません。頑なに護憲を唱える人達も同じ精神構造に見えます。

けんこう館様
そのときは国をまとめるために必要だと考えたのでしょうが、現代から見れば弊害の方が大きかったようにみえます。
利用しようとしたなら修正が効きますが、そこから狂信者が生まれてしまうのが恐いところです。

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