『横手の雨』(2)
前回からの続き
「ついお隣りが亡くなった水木京太さんの家でした」
と平源の主人はぼくに語った。偶然にも平源さんはやはりぼくと同じ学校を、ぼくよりも数年前に卒業した人だったのである。したがって水木さんよりは二三年後に出た勘定になる。
「というと、どっちのお隣?」
「そっち隣です」
と平源さんは床の間の方を指した。つまりは鰯花の咲いている方の隣である。しかし今はもうその家はなくなって、自転車屋かなにかになっている。
「大きな小間物屋でした。この土地でもずいぶん古いお店でしたが惜しいことをしました。隣どうしのわたしたちは、ですから小さなころから往来していて、全くの親戚づきあい同然の間柄でした」
と平源さんは、いまさらのようにしんみりした。
川いっぱいに河鹿の声である。その涼しげな声がしっとりとした夏の雨の緑のなかから、ひとしきり喨然(りょうぜん)と湧きおこった。
水木さんにはぼくは学生時分からいろいろと面倒をみてもらった。当時「三田文学」の編集を水木さんがひきうけていたからである。
もうずいぶん古いことで、多分大正十年か十一年のことだと思う。はじめてぼくが水木さんをたずねたのは高輪の沢木梢氏の邸(やしき)であった。まだ独身だった水木さんは病気療養中の沢木さんの留守番として、その大きな邸に老婆相手に住んでいたのである。書棚にはずらりと洋書が並んでいた。その中でイプセンの関係の本が一番多かった。
そのときぼくはなにを話したのか、さっぱりおぼえていないが、いろいろ本の話をきいたような気がする。というのはまだ当時水木さんは丸善に勤めてはいなかったけれどもこの訪問で水木さんがたいへん本好きだという印象を刻みつけられたからである。
その後赤坂の氷川町に移って、そこで新所帯をもち、この住居がずうっと長かった。家の後に寺の竹藪があり、二階からみるとそれがわが家の庭みたいに見えるのが得意だった。
「ねえ君、ちょっと『聊斉志異』ってところだろう?」
こういって水木さんはいかにもうれしそうだった。
水木さんの猫好きは評判であった。但し夫人が大の猫ぎらいであるため、飼養はきつい法度であったから、やむを得ず猫文献の蒐集でわずかにその渇を医(いや)していた。丸善で『学鐙』の編集にしたがうようになってからは、いわば洋書輸入の関門に坐しているようなものであったから、その蒐集は頓に成績が上がり、珍しいものが加わるたびに、しばしば入手の喜びについてあれこれと話されたものである。
加わっていったものはひとり猫文献だけではなかった。
つづく
このあとも水木氏についての回想が続く。
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