正義の時代
以前このブログに書いたことだが、台所の食器洗いのスポンジに菌が多量に増殖しているというCMを嗤った。スポンジという構造は、菌が繁殖しやすいことは事実である。しかし前回使ったままで、洗いもしないでそのままスポンジを使う人がいるだろうか。洗う前に水でくしゅくしゅして洗い流してから洗剤で食器を洗い、洗剤が残るのもいやなことだから、その食器をよく水で流すのがふつうだろう。しからばついていた雑菌は百分の一、千分の一に減っているはずである。これで99%除去である。別にスポンジや洗剤にとりたてて殺菌効果がある必要などないし、多少の雑菌に接しないと人間の抵抗力が低下してしまう。
無菌無臭を謳い文句にするのは、差別化で高付加価値を謳う商売上のことだが、どうも世の中の風潮が、何でもかでも無菌無臭を求めるようになっているのが気になる。「無菌無臭が正義」の時代はずいぶん前から始まっていた。
いまなら教育ママと名付けられそうな集団が、漫画は子供にとって害悪だとして排除しようとしたことがあった。ドラマの『ゲゲゲの女房』で、漫画の貸本屋におばさんたちが押しかけて騒いでいたのをおぼえている人もいるだろう。それはそのまま戦時中の国防婦人会のおばさんたちが、パーマはだめだと言ってパーマの女性の髪を切ろうとしたり、もんぺをはくべきだ、といってスカートの女性を糾弾したりした図を思い起こさせる。彼女たちは正義を執行していたのである。
私が特に思い出すのはチビクロサンボ騒動だ。黒人を蔑視しているといって童話の『チビクロサンボ』は学校の図書館などから抹殺された。あれを糾弾した人たちは正義の味方である。マスコミもそれに同調した。いま、黒塗りの顔をイメージしたものが次々にやり玉に挙がり、糾弾されている。
それが意図して黒人を差別するものなら糾弾するのは当然だ。しかしどう考えてもそのような意図があるとは思えないし、意図しないからそれを商品化したのであろう。莫大な損失を覚悟で悪意を持つなどあり得ないではないか。
しかし、いまはそれで不快を感ずる人がいれば悪意がなくても非難される時代である。そのことは理解できないことはない。しかし過剰に不快を忖度しすぎることは、却って対象の人々、つまりこの場合は黒人だが、を弱者として扱いすぎてはいないか。それはある意味での憐れみという差別そのものではないのか。正義は、ときとして優越感を内包していて、とてもイヤなものである。
正義の時代の、社会の菌を排除する論理の過剰が社会の抵抗力を失わせ、がんじがらめにしてしまう構造は、社会主義体制にとても良く似ている。
こんなことを書くと、それなら差別を許せというのか、と金切り声を上げる人がたくさんいるだろう。そんなことは言っていないし、そう取る時点でかなり危ないと思うが、なかなか思いを伝えるのは難しいようだ。
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弱者として扱い過ぎた結果、弱者という鎧を付けた強者を生んでしまってることがあります。
結果として、差別の常態化どころか既得権益化してる面が多くあります。
そこも糾弾してほしいのですが・・・・。
投稿: けんこう館 | 2019年2月19日 (火) 09時56分
けんこう館様
ほんとうに困っている弱者と、弱者であることを特権として有利に生きようとする者との境目は明確ではありません。
ものごとの境目はたいてい明確ではないものです。
極端な例を取りあげて互いを非難する風潮は、良識という判断を拒否するので、まともなひとはなかなか当たり前のことがいいにくいことになっています。
誰だって面倒くさいのは嫌いですから。
投稿: OKCHAN | 2019年2月19日 (火) 10時58分