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2019年3月

2019年3月31日 (日)

レンズを試す

以前使っていたフイルム一眼カメラの高倍率ズームレンズがある。試しにいまのデジタルカメラで使ってみることにした。フルサイズで28ミリ~300ミリのレンズだ。私のデジタルはAPS-Cというサイズだから、このレンズは42ミリ~450ミリのレンズに相当する。

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眼下の幼稚園の庭の桜を撮影。多少画像をいじっている。右向こうはケーキ屋さん。

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春日井方向を最大倍率で撮影。右奥の煙突は十條製紙か。背景にうっすら見える山はなんだろう。

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外へ出てマンションの桜を撮る。六分咲きというところか。

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近所の家のツバキ(だと思う)。

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これも近所の家の鯉のぼり。早いなあ。

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少し歩けば人形店(雛人形やお節句の人形の専門店)があるのでそこまで足をのばす。少し風があるから屋上の立派な鯉のぼりが元気よく泳いでいた。

けっこうこのレンズ、使えないことはなさそうだ。

もう少し散歩にでも出て試してみよう。

 

 

つけている人があるからつける方法はあるはずで・・・

 いままで拝見していた方のブログは引き続き必ず開いて見ることにしている。更新されていた場合にはポチッとといいねをクリックする。嫌なことがあった話や悲報や訃報にいいねをするのもどうかと思うときもあるが、拝見して私も感じるものがありましたよ、という意味でいいねをクリックする。

 

 そのポチッとといいねのボタンがココログのリニューアル以来見当たらなくなっていて、非常に残念に思っていたが、ポチッとだけはちらほらとつけている人が見られるようになった。気がついたら私にもポチッとが寄せられるようになっているではないか。それならいただいたポチットに返せばいいので、そうしている。

 

 何かボタンをつける方法があるはずと、ポチッと履歴のところをいじっていたら、タグのボタンがあったので、押しては見たのである。しかし自分のブログにポチットのボタンが反映されているように見えない。しかしそれからポチッとが寄せられるようになったとしたら、たぶん他のひとにはボタンが見えるようになっているのかも知れない。

 

 今日、ついにしらこばとさんにいいねのボタンがついているのを発見した。リニューアルして初めて見たいいねのボタンである。方法があるのだ。もう少し探して試してみることにしようか。

 

 出あえばご挨拶するのが礼儀というものである。ご挨拶の方法が分からなくなるというのは気もちとしてもの足らないのである。

2019年3月30日 (土)

思いだした本

 私が小学生時代にはわが家にはあまり本がなかった。もちろん父は中学校の英語と社会科の教師をしていたからその関係の本はあったけれど、いわゆる小説や随筆の類はほとんどなかった。母方の祖母がミステリー好きで、祖父母の家へ行けば古い雑誌や国内国外の探偵小説が開き戸の奥に蔵ってあったけれど、それを片端から読むようになったのは中学に入ってからである。

 

 私は小さいときから本が好きだったから、親類の人が訪ねてきて、「何が欲しい」と訊ねられれば必ず「本」と答えていたので、そのときに買って貰った本が私の宝物だった。それでもわが家にはめったに来客がなかったので、わが蔵書は寥々たるものであり、それをただただひたすら読み返し、本がばらばらになるほど読んだ。

 

 そんなときに見つけたのが、父の本らしい『新撰組』という古い分厚い本だった。紙は辞書のように薄く、ページ数も多い。新撰組のことが書いてあるものとばかり思って読んでいると、新撰組とは関係のない話が延々と続く。独楽にまつわる不思議な話、いわゆる伝奇小説なのであった。

 

 どうも戦前の本らしい。旧漢字旧仮名遣いで総ルビ付きである。だから読むことは読める。旧仮名遣いはそのとき初めて読んだけれど、読んで読めないことはない。その他に短篇が二つか三つ収められていて、一つは先代萩の話だったと記憶する。あの伊達騒動のときの乳母の政岡の話である。あまり面白くなかったけれど、どんな話であるかはなんとか理解した。この本も数回読んだ。

 

 いま永井荷風などの旧漢字旧仮名遣いの本をいくつか読んでいて、戦前の文章はその方がリズムに乗って読めることを実感している。それは内田百閒を呼んだときにも感じたことだ。私は旺文社文庫版ですべてを揃えているし、福武書店版もほとんど揃えてもっている。旺文社版は旧漢字旧仮名遣い、福武書店版は新漢字新仮名遣いである。旺文社版の方が読みやすい。書かれている世界に没頭しやすいのである。

 

 旧漢字旧仮名遣いの本を読む勉強など学校で教えられていないから、いつからそれを読むようになったのだろうと思って思い出したのが、その父の本だった。

 

 作者は誰だったのだろうと思って、いろいろキーワードからネットで調べてみたら、白井喬二という時代小説作家の1925年の作品であった。父も古本屋かどこかで買ったのだろうと思う。

 

 あの本はどこへ行っただろうか。私が実家に預けてあった、高校から大学、そして独身時代に食費を削ってまでして蒐集したたくさんの本は、母が邪魔だからと、ほとんど市の図書館に寄贈してしまったから、そのなかにまぎれていたか、それとも古いから廃品回収にでも出してしまっただろうか。なんだかなつかしくてもう一度読みたい気がしている。

 

 そうなると先日古本屋の店頭のワゴンに並べられていた泉鏡花の全集の端本はまさにそんな雰囲気の本で、端本でいいから自分のものにしてページを繰ってみたくなった。たぶん買いに行くだろう。ほとんど病気である。

精神の価値

 梅原猛の『水底の歌 下』を読んでいたら、胸に響く文章があった(P.265)。前後に梅原猛がそう考える理由が記されているが、ポイントの部分だけを書き留めておく。

 

 私は、このごろますます進歩史観というものを信じることができなくなってきている。それは、精神の世界において、進歩というものが、はたしてあるのであろうかという疑問ゆえである。現代は、精神の世界においてはおどろくべき低俗の世界である。おどろくべき卑俗な精神が、わがもの顔にこの世界をのさばり歩いているではないか。われわれは、黙ってただ耐えているだけである。私は、先日、ある親愛なる歴史学者から、「お前の異常な仕事の原動力は何か」とたずねられた。そのときは私は黙っていたが、今、ここで答えることにしよう。それは、絶望だ。卑俗な世界にたいする絶望が、私の仕事にたいする原動力なっているのである。せめて精神の価値の認められる世界、そういう世界に私は生きたい。

 

 私の敬愛する先達たちの精神の根底には皆そういう思いがあるように思う。そういう精神の人の書いた文章、そしてそこに込められた思いこそが私に響くということであり、そのように気付かされ、教えられてきた。

 

 梅原猛のいう絶望とは何か、精神とは何か。そのことを、自己流であるけれど、自分の考えを持てるようにあがいている。卑俗な世界で卑俗ではない生き方が出来ようもないが、卑俗ではない世界を夢想することは可能なのではないか。そんなことを考える人間はいつも一握りの人だけだ。そんなことを考える人間が特別なわけでもない。今世界はかろうじて踏みとどまっているように見える。それはたまたまその一握りの人がいるからで、これからもその一握りの人が存在し続けるのかどうかわからない。絶望とはそういうことではないのか。

『中勘助随筆集』(岩波文庫)

 編者は渡辺外喜三郎。


 


 夏目漱石門下の一人、中勘助は独特の文章・文体で孤高である。論理的な漱石とは全く違い、感性そのもの、純粋無垢なむき出しの神経に感じ取る世界をそのまま言葉として紡ぎ出した。漱石が彼を評価したのは、彼と全く違うことそのことの中に不思議に心を衝つものを感じたからであろう。自分と異なるものを排さず評価する漱石に敬意を表したい。


 


 中勘助といえば名作『銀の匙』がある。その『銀の匙』を読んで感動して、若いときにこの随筆集を読んだのだが、正直言って良くわからなかった。独特の童話のような特殊な言葉遣い、言葉にたいする極端な好悪の潔癖な使い方、それらの癖のある文章が邪魔して内容が上滑りしてよく読めなかったのだ。


 


 いまこの歳になって、急に棚の隅にあったこの本に「読んで見ろ!」と声をかけられて手にとったら一気に没入した。読みかけだった本をすべて脇に置いて、二日で読了。


 


 この本には死の気配が立ちこめている。妹の死、師である漱石の死、母の死、嫂の死、兄の死、姉の旧友との再会と死、それらが直接間接に書き込まれている。彼自身が自分の生について悩み抜いた経験を持ち、諦観の末に老境に至った経緯がこの本の最後にしみじみと伝わってくる。それを感情移入して共感するにはそれなりの人生経験と年齢の積み重ねが必要なのだろう。


 


 彼の家族との激しい葛藤は、この随筆集では断片的にしか語られていないが、それが彼の苦悩の根底にある。この随筆集には収められていないが、別の長編の随筆にはそれが詳細に語られているものもあるようだ。


 


 母の危篤から死までの日記風の記述『母の死』は、私自身の母を看取ったときの記憶にオーバーラップした。人の末期というのがどういうものか、これは体験しないとわからないことで、その体験なしに死を考えることはそもそも出来ないのだと思う。冒頭が末の妹の死の様子を書いた『妹の死』で、これは私にとって、宮沢賢治の『永訣の朝』という詩に詠まれた妹の死にイメージが重なる。 


 


 巻末の『天の橋立』には多くの書簡が収められていて、それは姉の旧友の女性やその娘からのものなのだが、書簡というものを見直した。こういう手紙が書ける素養と精神の豊かさをいまのわたしたちは持ち合わせているのだろうか。何を失ってしまったのかと思う。

2019年3月29日 (金)

『北京籠城回想記』(奥野信太郎『随筆北京』から)(6)

 時々中庭の飯を並べる台が転じて民会のテーブルに変わった。ほとんど毎日のように民会が開催された。われわれは民会の人たちがいろいろ議論しているのを立ち聞いては、いっこう避難解除の気勢が見えないのを悲しく思った。
「もう少しの我慢だ」
 誰もかれも漠然とそう思っては自ら慰め、それぞれの役目を精出して働いた。わたくしは午後三時過ぎ、二三の人と荷車を引いて大使館の方へ食糧をとりにゆくことと、夜中一時から二時の間夜警を勤める役目であった。中庭や裏庭でなんとなく話し込んでいると夏のことであるからすぐ一時頃にはなってしまう。懐中電灯で照らしながら火の用心や風紀の取り締まりをして歩くのである。そのあとで特務機関の方から寄贈された西瓜を貰って、まるで子供のように嬉しくなったこともあった。一番気もちのよかったのは、夜警のあとで私(ひそ)かに裏庭の池に下り立ち、噴水の栓を捩って水浴をすることであった。始は池の金魚を慮って石鹸を使うことを避けていたが、そのうちに恐る恐る使用してきて翌朝見てみると、石鹸の濁りは跡形もなくなり、昨日に変わらず赤い金魚が元気よく泳いでいるのに味を占めて、水浴の際はいつも石鹸を使ってやった。風呂場はあるにはあったが混雑したからである。最後まで池の金魚は一尾も死ななかった。
 八月八日皇軍入場、かくて九日、北は灯市口、西は南池子までを境界として、その以東の居住者に限り、解散を許可されたのである。籠城半箇月、此度の事変で各都市共邦人は引きあげを行った。籠城は北京が唯一のものであっただけに今にしてなおその憶い出は感慨が深い。           完
通州事件(Wikipediaから)
 通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた。通州虐殺事件とも呼ばれる。

ショーケン死す

 ショーケンの訃報を聞いた。ショーケンこと萩原健一は私と同年である。そのこともそうだが、思い出すことが多い。グループサウンズはあまり興味がなかったから、テンプターズ時代はどうということはなかったが、俳優としてのかれに思い入れがある。

 

 一番最初に好きになったのはテレビドラマの『祭りばやしが聞こえる』だったろうか。競輪選手役の彼が雨の中を疾走するシーンが忘れられない。このときいしだあゆみと出会って結婚することになったのではなかったか。それと、そのドラマの主題曲を柳ジョージが歌っていた。最初、ショーケンが歌っているのだと思った。それ以来柳ジョージのファンになった。この歌がメジャーになるきっかけだったのではないか。

 

 もうひとつ、倉本聰が脚本を書いた『前略おふくろ様』は私にとっての傑作である。ビデオにすべて録画し、今はそれをDVDにしてコレクションとして残している。梅宮辰夫など名優がたくさん出ていた。

 

 映画では斉藤耕一の『約束』が忘れられない。岸恵子の相手役で新人抜擢され、俳優として演技が高く評価された。メロドラマは見ないことにしている私だが、どういうわけかこれは劇場で観た。映画で忘れられないのは『八つ墓村』での主演である。渥美清の金田一耕助、美也子役の小川真由美、それに夏八木勲や山崎努などが強烈な印象を残した。

 

 ほかにもたくさん観ているけれどキリがないので、特に記憶に残るものだけ書いた。

 

 生きたいように生きたようで、結果的にしあわせだったといっていいのではないか。そのことをもって瞑すべしか。

オーバーヒート

 意欲、気力が沈滞していると、なにもする気がなくなってしまい、ぼんやりと無為の時間を過ごしてしまう。スイッチを入れ直すのはなかなか大変で、けっこう時間がかかることもある。

 

 ところが、逆に意欲や気力が昂進しすぎてしまうこともある。あれもしよう、これもしたい、と気持だけが空回りしてしまい、結局集中できなくなってなにも手につかなくなってしまう。自分でオーバーヒート状態と名付けている。調子がいいときのあとにこの状態になる。

 

 結局沈滞していてもオーバーヒートでも無為な時間がつづいてしまう点では同じ状態である。

 

 いまそのオーバーヒート状態になりつつある。なにかを始めてもすぐ気が移ってしまい、次のことに取りかかってしまう。何ごとも初めは助走状態で、次第にエンジンがかかって集中が出来るのだが、助走段階で暴走してしまうのだ。

 

 こういうときは気分転換に友達に会いに行ったり、小旅行に出ることでクールダウンできる。しばらく独りで家にこもっている状態がつづいた。孤独であることはちっとも苦ではないが、この空回りだけは苦痛である。

 

 来週あたり、大阪の親友を訪ねようか。再来週はタイヤ交換がてら富山や能登、金沢を三四日かけて廻ってこようかと思う。金沢では若い友人達の都合がつけばおつきあいをお願いするつもりだ。今年の長い連休は人出も多いだろうし、息子たちも帰省してくるだろうから家にいることになる。そのあとにちょっと楽しみな計画もあるので、その前に少し精神の調整をしなければと考えている。

2019年3月28日 (木)

『北京籠城回想記』(奥野信太郎『随筆北京』から)(5)

『北京籠城回想記』(奥野信太郎『随筆北京』から)(5)
 通州近水楼のマネージャーN氏は首の不自由な人で、違う方向を見ようとする時には体ごとその方向に向けなければならなかった。だから眼を惹きやすいと云っては甚だ失礼だが、私も避難当初から誰聞くともなしにその人が近水楼のマネージャーで、偶偶(たまたま)北京に来合わせた際に避難命令に依って、否応なしに此処にいるのだということを承知していたのである。だんだん通州の様子が明瞭になってゆくにつけ、N氏の憂慮している有様は傍目も気の毒なばかりであった。中庭に面した階段に蹲って、ただ呆然として、雨の滴がころがり落ちる鉢植の護謨の葉末を眺めていたN氏の憔悴しきった様子を、昨日のことの如く生々しく思い浮かべることができる。
 正金と警察署官舎との間の細長い地所に縦に、細長く西班牙公使館が割り込んで建っている。小さな建物ではあったが瀟麗愛すべき風情に富んでいた。鬱然たる樹立の間から夜になると窓の灯がぽっかりと正金の中庭に落ちてくる。雨の降る晩は空濛たる玻璃窓のために灯の色が露わなときよりも一層静かに見えた。
 越し方行末とまではいかないまでも、一体いつになったら籠城解散の日が来るのだろうかとアメリカ大陸発見船の乗組員のように、焦慮と感傷とに交々襲われがちになることもある。部屋にいるときは其処が図書室であったから、書架から手あたり次第書籍をとっては漫読した。銀行関係以外の書物は、大方は古いものばかりであった。わたしは、大村仁太郎、和田垣謙三、中江兆民等の雑著をそれからそれへと卒読したのである。読み飽きると裏庭へ出る。二三の人たちと話をする。正金に使われている支那人たちの庭掃除などを眺める。この支那人たちはなかなか便利なこともあった。少し鼻薬を利かしてやったら毎日部屋まで氷を運んでくれた。わたくし達はその氷でお茶を冷たくしては舌鼓を打つことができたのである。
 相変わらず砲声を聞きながらも、われわれは漸く獄舎のようなわびしさを感じはじめてきた。
 避難以前から病んでいたのではあったが、女給上りの人妻の子供が死んだのもその頃のことであった。
(つづく)

掘り出し物

鶴舞公園(「つるまこうえん」と慣用読みする)に行ったのは、ついでの用事があったからである。


最寄りの地下鉄鶴舞駅(こちらは「つるまい」)の近くに何件か古本屋があって、久しぶりにのぞいてみたかったのだ。


掘り出し物があった。


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これでしめて二千円である。ずっしり重いのが嬉しい。


ほかにもいろいろあったけれど、そんなに持ちきれない。それにしても泉鏡花の全集(端本・一冊四百円から千円である)も欲しかったなあ。また買いに行こう。

鶴舞公園

 まだ早いのを承知で鶴舞公園に桜を見に行った。


地下鉄を降りるとけっこう人が出ている。


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こちらはソメイヨシノではない桜らしく、六分咲き位か。


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広い公園内を日向ぼっこしているたくさんの人たちがいる。


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噴水の下には木瓜の花と雪柳が咲いていた。


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温かくて風もなく、気持ちの良い日だった。


 


 

2019年3月27日 (水)

『北京籠城回想記』(奥野信太郎『随筆北京』から)(4)

 正金銀行に立て籠もった総数は二百六七十人である。比較的場所に余裕がある上に人数が少なかったので統制がよくとれたばかりか、人々の間にもすぐ親しさが増して行った。殊に幸だったのは正金組の炊事方にはその道の人がいたことである。満鉄の直営旅館扶桑館のコックが万事とりしきってくれたため、同じ味噌汁や馬鈴薯だけの煮つけにしてもほかの大使館組や警察官舎組のと比べると出来ばえがよほど違っている。扶桑館といえばそこの女中達もいずれもわれわれの組であったが、面白いと思ったのは宿泊中の旅客も共々避難して来たのはよいとして、避難先においても客と女中の分は依然として守られていて、われわれ一同が不自由な思いをしながら洗濯など慣れぬ手つきでやっているのにひきかえ、扶桑館の止宿者だけは女中にやって貰っているのは、羨ましくて耐らなかった。芸妓、ダンサー、女給のような水商売の女性が炊事方に廻っている大使館組の方では、半煮の飯が出来たというような苦情を再三聞かされたが、それに比べると正金組の方は万事が家庭的であったといえよう。

 

 

 食事時が来るとぞろぞろ彼処からも此処からも中庭に集まって来る。中庭には大きな台が並べられてその上に炊きたての飯と御菜が一品、大盛りにして程よく並べられる。われわれはまるで蟻のようにそれをとり囲んで立ち食いをした。なかには行儀よく容器を持参して来て自分の部屋まで持ち帰って食事をする殊勝な人たちもあった。

 

 一日中砲声が鳴り響き、轟炸の音は文字通り耳を聾するばかりであった。屋上へ出て遙か南方を望むと、我飛行機の南苑飛行場爆撃が手にとるように見える。われわれは生まれて以来初めて本物の戦争というものを目撃することが出来たわけである。天に冲する黒烟と轟音とを親しく目の当たりに見聞しながらも、公民巷は必ず大丈夫という信念は毫もわれわれに不安を感ぜしめることなからしめた。殊に二十七日以来全く普通になっていた電話が通じるようになって避難所と外部との連絡が取れ始めてから一層不安の念は薄らいでいった。

 

 

 しかるに突如として暴風雨を含んだ黒雲のように襲いかかつて来たものは通州事件の速報であった。詳しいことは分明しないが、なんでも通州では大変なことが勃発したらしいということが報じられてからの避難所の人たちの顔は、暗鬱と痛恨そのものの如き表情に変わってしまった。北京には通州に関係を多少とも有(も)っている人たちが随分多かった。それだけにその人たちに対すると何と云っていいか慰める言葉に窮した。絶望の淵に沈んでいる人に対して生じっかな慰めの言葉を発する位無益で空々しいものはない。だから自然こちらも黙りこくってしまう。両方が黙ってしまうとその間には更に真暗な深淵が口を開く。そしてずるずると止めどなく、そのなかに吸いこまれてゆく。

 

 

 毎日毎日よく雨が降り続いた。深碧の空ばかりうち仰がれる北京でのこの雨はどうしたわけであろうか。
「大砲の為故でこんなに雨が降るのでしょうか」
 裏の炊事場で天理教会の老婆が沢山の茶碗を精出して洗いながら半(なかば)独りごとのように呟いた。この老婆はほかの婦人たちにひどく反感をもたれてはいたが、人の嫌がるような仕事を自ら買って出てよく働いていた。
(つづく)

あまり見たくないものが増えてありがたい

 もともとスポーツはそれほど好きではない。子供のときは運動会が嫌いだった。だからテレビのスポーツ番組には興味がない。むかしはオリンピックを見て感動したりしたが、最近は結果だけ見てそれで終わりである。

 相撲だけはけっこう見ていたが、だんだん面白くなくなって、貴ノ岩騒動に端を発する貴乃花の行動に嫌気がさして、ついにほとんど見なくなった。

 野球は、現在ははっきり嫌いである。球技のなかで特に野球が苦手だったし、見るだけにしても、あの試合時間の長いのが時間の無駄にしか思えない。残された人生は長くないのである。

 春になってテレビではゴルフや野球の番組が増えてきた。シーズンインであるし、選抜も始まる。こうなるとテレビをつけても面白くない。ありがたいことである。

 どうしてそれがありがたいかといえば、テレビをつけていない時間が増えて、音楽を聴く時間がとれるし、本が読めるからである。漫然とテレビをつけたままにしていると、いかにもおおごとのように語る、あまり賢くなさそうな解説つきのスポーツ番組が聞こえて神経に障るのである。

 読書に飽きたら散歩に出る。花粉症はいささかつらいけれど、一時期よりはマシになった。陽気もよくなり花が咲いて気持ちが好い。気持ちの好い陽気は案外短い。だいじに楽しまなくては。

『奥野信太郎随想全集 一』(福武書店)

 副題は『随筆北京』。『随筆北京』については、もともとの『随筆北京』という本があるが、今回読んだこの本は、主に北京に関連する文章を集めたもので、『随筆北京』以外からの収録も多い。

 解説を中国文学者の村松暎が書いている。村松暎は作家・村松稍風の息子で、奥野信太郎に師事している。また、村松稍風と奥野信太郎は友人である。作家・村松友視は戸籍上は村松稍風の息子であるが、実際は長男の息子、つまり孫であって、村松暎は村松友視の叔父にあたる。

 その解説の末尾に奥野信太郎の語った言葉が引用されていて、奥野信太郎の北京に、そして現代中国に対する立場を示していて興味深い。

「中国がせめて首都を南京かどこか別のところにしてくれればよかったな」と信太郎は嘆くように言った。彼には新中国が歴史の都北京の歴史を意図的に書き換えようとしているのを見るに忍びなかった。消し残されている部分を捜すようにして愛惜した。「もう中国に行きたいとは思わないよ」そう言った。生臭い政治の進行には全然興味がなかったのである。

 奥野信太郎は戦後中国を訪ねて、消し残されていた北京をかろうじて見たけれど、そのあと中国はさらに著しく変貌した。消し残された北京はすでになく、異様にかたちを変えてしまった。「彼の北京」は彼の残した文章から幻視するしかなくなっているのである。

 全集を後ろから読んできたので、これで全巻読了である。私が全集をきちんとすべて読むのはめったにないことで、多少の満足と達成感がある。

2019年3月26日 (火)

『北京籠城回想記』(奥野信太郎『随筆北京』から)(3)

 わたくしの住んでいたところは周囲に日本人のいない区域であった。狭い胡同を幾曲がりかしてひろい大街へ出るとさすが緊張している為故(せい)か、涼しい朝風も幾分ひりひりと、まるで剃りあとに当たるように刺激的である。留守はボーイや阿媽だけに任しておくわけであるが、愈々(いよいよ)とという時には持物全部をどうなっても関(かま)わないと決心しているだけに割に平然としていられた。彼等は門前の鬱蒼とした槐樹の蔭に立って、出来るだけ早く帰れるようにと祈ってくれた。紅い褲子(クーズ)を穿(は)いた阿媽の娘は、弟の手をひきながら大街の曲がり角まで見送ってくれた。やはり彼等は心やさしい北京人である。わたくしの俥はそれらのものを遙か後に残して一直線に南に走って行った。

 

 

 その途中二三箇所塹壕や土嚢の設けのあるところを通過しなければならなかった。保安隊の連中が眼を光らしている。幾度が首筋を縮めては通過し終わる度に一つずつ大きな波濤を乗り切ったような気もちになってほっとした。

 

 

 やがて俥は公民巷の北口に達する。中央のアカシヤと合歓の植込を境に、路が両側に通じているので入り口も二つになっている。向かって右の入り口をイギリス兵が守り、左の入り口をイタリー兵が守っていた。

 

 わたくしは左の方から這入った。内地に引上げを完了した人たちもあったので、その頃内地人の総数は千三四百人であったが、公民巷の道路は所謂北京村の人たちが一時に集まって来たのでその混雑は相当なものであった。さすが、見ればどの人も荷物はごく手軽である。子供連中は御祭にでも行ったように嬉々として走り廻っている。民会の幹部や義勇隊の人たちがその混雑のなかを行ったり来たりして、それぞれの宿舎の世話で大童(おおわらわ)の体であった。

 

 

 愈々籠城だ。寝起きすべき宿舎は前々から準備されていた通り、大使館、正金銀行、通称老公館(ラオコンコアン)と呼ばれている大使館附属官舎及び日本警察署官舎の四箇所に分宿するのである。わたくしは中日実業公司の社員家族と共に正金銀行楼上の図書室に起居することになった。正金銀行の建物は中庭を取りまいて「コ」の字形に建てられた赤煉瓦の建築で、欄干を白く塗ったヴェランダが広々と中庭に面している。中庭にはかなり大きなリラの株が葉の茂った枝を張っていた。その中庭のほかに裏庭がある。ずいぶん広い芝生で中央に噴水の池があり、ところどころの植込みには向日葵やカンナの花が烈しい色彩を燃やしていた。庭の一隅の塀際に大きな柳樹が立っていて、その下に白いベンチが据えてあった。わたくしはその涼しい樹蔭でだんだん激しくなり始めた砲声を聞きながら静かに人々と物語りをした。

 

 

「どの位籠城するのでしょうか」
「さあ、わかりませんね。一ヶ月間の食糧はあるって云いますから」
「愈々内地へ引き上げとなったら大変ですね。そんなことになるかも知れませんよ」

 

 

 期せずして人々の会話は心細げなことに落ちて行った。銀行に雇われている支那人の園丁は何のことも無きかの如く、しきりに植木の手入れに余念がなかった。
(つづく)

面倒

 自分の書いたブログは内容はお粗末なうえに、後で見直すと無知からくる勘違いや、誤変換を見落とす不注意が数々あって、せっかく読んで戴く人に申し訳ないことだと思っている。

 せめて読みやすいようにと字を大きめにして、段落を短くして空行を入れるようにしている。ところがこの空行を入れる操作が、以前からときどき出来たり出来なかったりしていた。私の場合は少しでもまちがいを減らすために下書きしてコピーし、ペーストをしているのだが、そのペーストがもとのまま反映されないことがある。それがどういう理由かわからない。気がつくとやり直していた。

 今回リニューアルしたらそれが改善されるのかと期待したのだが、相変わらずである。というよりもほとんど下書きを反映しない。しかたがないから編集でシフトキーを押して改行するという方法で空行を加えることにしている。

 ところがこれをやっても空行が入るときと入らないときとがある。その違いには理由があるのだろうが良くわからない。編集時にはちゃんと空行が入るのに実際のブログに反映されないことがあるので、確認が必要で、出来ていなければしかたがないので編集の空行をすべて消去してからもう一度シフトキーを押して空行を入れ直す。

 いまのところこれでなんとかしのいでいる。こんな面倒なこと、ずっとさせられ続けるのだろうか。

 
昨日千葉県松戸の兄貴分の人から大きなヤリイカが送られてきた。この兄貴分の人は時々船橋で合流して歓談する人だ。釣りが趣味で、私より三つも年上なのにいまだに船の釣りを楽しんでいる。

 
冷凍されているがイッパイを急いで解凍し、捌いて刺身にした。ヤリイカも大きいものはネットリとして甘いのだ。酒がとても美味しい。ゲソやエンペラその他は醤油漬けにしたので、あとで炙って食べる。取りに来るように娘のどん姫にも連絡したが、まだ連絡が無い。

 また千葉へ行くときは落ち合って楽しい酒を飲むのだ。

安岡章太郎『流離譚 上』(岩波書店)

 『安岡章太郎集』全十巻の第八巻がこの『流離譚 上』であり、第九巻が『流離譚 下』である。  安岡章太郎の父親は土佐・高知市東20キロの山北村というところの出身である。土佐には安岡性の人が多いという。この本は安岡章太郎につながる安岡一族の物語で、この上巻は幕末の土佐勤王党と安岡一族の関わりから、その時代の出来事が詳細に語られている。

 安岡一族は郷士で四家に別れていた。その総帥ともいえる安岡文助という人物の備忘録のような日記を読み解きながらさまざまな出来事が厖大な資料を傍証にして推察されていく。

 有名な吉田東洋の暗殺の実行者の一人がこの文助の次男の安岡嘉助であることがわかっている。更に長男の覚之助も土佐勤王党に関わっている。というよりも土佐の郷士の多くが土佐勤王党に関係していると言ってよい。そのへんのことは坂本龍馬に関する本を読んだことのある人ならよく知っているだろう。

 安岡章太郎は「個」つまり「私」にこだわる作家である。上から俯瞰して歴史を見るのではなく、個人の目を通してその場に立ってその時代を観るのである。その眼の中心が文助であり、それに安岡章太郎の眼が重なっている。その日記に書かれていることだけではなく、当然書かれるべきことが書かれていないことから考察することで、逆にさらに深く当時の様子が浮かび上がっていく。

 冒頭に安岡一族の源流から郷士になるまでの安岡家の歴史の概略が語られたあと、井口村事件という上士と下士との刃傷事件が描かれていく。この話は大河ドラマの「坂本龍馬」でも取りあげられていた有名な事件である。

 もともと土佐は長宗我部氏支配の国だったが、関ヶ原のあと山内一豊が入城し、山内氏の支配になる。上士は主に山内氏が掛川から引きつれてきたものたちで、長宗我部に帰属した武士たちは山内氏の支配に激しく反抗した。そして彼等は身分を落とされて、ほとんど百姓となった。

 後に彼等の懐柔のために特別扱いで郷士として配下においたのだが、その身分差は甚だしく、下士、つまり郷士たちは憤懣を蓄積させていた。鯨酔公、鯨海酔公と呼ばれた山内容堂の支配する幕末の土佐は必ずしも容堂の実権がしっかりと及んでいるとはいいがたく、藩内では複雑な勢力争いが行われていた。  それと瑞山武市半平太の率いる土佐勤王党がさらに複雑に関わっていたので、土佐は薩摩や長州よりも遙かに陰惨な幕末の歴史をたどることになる。

 井口村事件につづいて吉田東洋の暗殺、さらに舞台は京都に移り、幕末の志士たちの暗躍が安岡章太郎の眼を通してこれでもかというほど詳しく語られていく。さまざまな資料を引用しながら、彼の眼を通して語られるのである。

 そして天誅組の大和義挙(首謀者は土佐の吉村寅太郎)とその顛末がいまそこにいるように詳細に描かれ、さらに武市半平太の切腹による土佐勤王党の壊滅までの物語がこの上巻の流れである。上巻だけでおよそ500ページに近く、多くが当時の文献の引用であるから、すらすらは読めないけれど、いつの間にか引き込まれていく。

 村松剛の『醒めた炎』中公文庫・全四巻という浩瀚な幕末史(これは桂小五郎を中心にした長州が描かれているがそれだけではなく、ほぼ幕末全史といってもいい)に感動したことがあるが、それ以来の興奮である。これほどの内容の小説とは思いもしなかった。

 さて下巻に取りかかろうか。一月以内には読めるだろう。

2019年3月25日 (月)

『北京籠城回想記』(奥野信太郎『随筆北京』から)(2)

 最初民会で定められた避難合図の方法というのは、昼間ならば旧墺国(オーストリア)兵営の一角に日章旗掲揚、夜間ならば花火三発ということであった。しかしこれは明治三十三年義和団事件の際に用いられた手段であって、その頃にあっては日本人の居住していた地域もごく限定された地域であったから、それで充分間に合ったのであろうが、今日ではもはや駄目である。

 東単牌楼を中心とした地域には比較的日本人が多く住んでいることは事実であるが、なおそのほか市内各所に点々散在している数多(あまた)の日本人に命令一下直ちに公民巷籠城を徹底せしめるためには如何にすべきが最も賢明万全の策であろうか。民会の議題中、主要な論議の一つとしてわれわれの関心はひたすらこの一事にかかっていた。

 形勢が緩和されたという話があってやや愁眉を開いたかたちで胸を撫でおろす間もあらせず、また逆転して再び危急を告げる声が巷にひろがっていった。こんなことを二度も三度も繰り反しているうちに二十七日となって、突如朝早く避難の命令に接したのであった。

 命令は案外密々の間に迅速に取り行われた。電話のあるところには電話で、また電話のないところへは伝令が馳けつけてそれぞれの手筈に幸いに狂いは些かもなかった。案ずるよりも生むが易いということが如実に示されて人々は全くほっとした思であった。

 午前九時から十二時まで三時間のうちに、各自大使館区域に参集すべきことという触れに従って、鞄一つの身軽さに勇躍して俥に乗ったのである。普段漫然と考えると、こういう時にはあれも惜しいこれも惜しいと物に執著(しゅうぢゃく)してそれがなかなか辛いことかとも思われるが、不思議なことに事実は全く逆であって、かつて丹精して集めた古い書物なども妙に色褪せた存在となり、その価値がみるみる間に小さくなり、何はさて措き真先に保全したいのは我身だけである。そのほかのものも若し保全され得べくんばそれに越したことはないが、よし無くなってしまったところで、このような場合むしろ当然な位で、まず考慮に這入って来なかったといってもいい。やはり、石鹸、歯磨、タオルといったようなものに対して、気持が鋭く動き、鞄に詰めこむ際にもそれらに一々意を配った。火事の時擂鉢一つかかえて騒いだなどと云って笑話にする人があるが、単に周章狼狽した余り擂鉢だけに執著をもったと見るのは幾分偏見の譏りを免れまい。やはり高価な金銀、重要な書類もさることながらさしづめ勝手道具が直ぐにも必要なところから先に手がつくということはいちおう考えられるところである。

「これもおいていらっしゃるのですか?」
 阿媽(アマ)はわたくしが大事にしていた順治年製の青い玻璃瓶(はりへい)を棚の上に放り出したままにしているのを見てこう尋ねた。

 

 わたくしは鞄と有り金とを身につけると黙って洋車上の人となった。
(つづく)

映画『時間回廊の殺人』2016年・韓国

監督イム・デウン、出演キム・ユンジンほか

 

 

 題名に惹かれて観たけれど、オカルトホラー映画のテイストで、恐いから途中でやめようと思ったのだけれど、時間回廊という設定がどんなだか知りたくて最後まで観てしまった。観終わってみれば、出来は悪くないという評価である。

 

 

 頭に傷を負い、気絶から醒めた主婦のミヒ(キム・ユンジン)は愛する息子の身を案じて家のなかを捜す。地下室に辿り着いた彼女は、そこに夫の刺殺死体を発見する。なにが起きたのか。その地下室の暗闇に息子の姿が・・・。しかしその息子は地下室の扉の向こうに引きずり込まれて消える。その扉の向こうはコンクリートの壁しかないのだが。

 

 

 凶器も含めて家のなかにはミヒの指紋しか出てこない。ミヒは夫殺しの罪で逮捕され、懲役30年の刑を宣告される。息子は行方不明のままである。事件から25年、仮出所したミヒは幽霊屋敷のようになったわが家に戻ってくる。そこで起こるさまざまな怪異が延々と描かれる。恐いのである。しかし何か理由があっての怪異であり、ミヒの息子をなんとか見つけ出そうとする思いがこちらに伝わってきて、観るのを止められない。

 

 

 やがて運命の日、すべての真相が明らかになり、あの事件が再現され、意外な犯人も明らかとなる。突っ込みどころもあるのだが、なんとなく得心させられる。

 

 

 もう一度観たい映画ではないが(恐い)、意外な拾い物だった。

ほんのちょっと

 やりたいことだけやっていたいし、面倒なことが嫌いだ(だれだってそうだろう)。やりたくてやっていることも、やらなければ、という気配がまとわりつくと、とたんに嫌気がさす。しかしながらそんなわがままな生き方が通用するはずもなく、怠惰に楽をして生きていると日々の充実感も実感できない。

 やりたいことに少しだけ負荷をかける。気が乗らなくてもノルマをかけてそのなまけ心を乗り越える。そうすると多少の達成感が得られる。ゲームでずるをして、いきなり高いレベルになって強敵を楽に倒しても面白くない。レベルアップに苦労することでその後の戦いの勝利の喜びも増すというものだ。囲碁や将棋でも、段位が上がるほど紙一重の差を乗り越えるのにたいへんな努力と集中力を必要とする。

  そういう積み重ねをサボって生きてきたので、いまごろ後悔している。もう少し勉強しておけばよかった。特に語学は身につけておきたかったと思うが、いまさら手遅れである。若いときなら一年でできただろうことが、いまなら五年はかかりそうだし、身につけた尻から忘れるからそれも空しい気がしてしまう。やらないための言い訳である。

 いま多少食らい付いているのは古典や漢文で、古書を読めるほどではなくても、引用された古典籍の文章くらいはなんとか読み取れるようになろうと思っている。まことに薄紙を剥ぐようで遅々として進まないけれど、数年経つと数年前よりはマシになっていることに気付く。見える世界がほんのちょっとひろがる。

 これを若いときにどうしてしなかったのかと思っても詮ないことで、登りたい山の麓の道を這うように進んでいる。ときには楽をしないこともボケ防止くらいにはなると、それを励みにしている。

2019年3月24日 (日)

『北京籠城回想記』(奥野信太郎『随筆北京』から)(1)

 日支事変が勃発して早くも一年有半の日子が流れ去った。顧みるとわれわれが蒼惶として公民巷に避難して暮らした半箇月の憶い出は、ついこの間のことのように感じているが、実際よく日数を繰ってみると、余りにも時の経過することの速やかなのに一驚を乞っする。

 

 七月七日の盧溝橋の事件以後、二十七日籠城に至るまでの二十日間位気を揉んだことはなかった。籠城中は怖ろしかったろうとよく人に聞かれるけれども、実をいうと籠城中は不自由こそしたれ、怖いと思ったことなどは少しもなかった。それよりかむしろ籠城と決するまでの二十日間の日一日と変化してゆく市中の景況の方が、どれほど不気味なことであったろうか。

 

 第一われわれが如何なる合図によって大使館区域である公民巷に避難すべきであるか、若しその合図なり指揮なりが内密に行われた場合には自然徹底的にはゆくまいし、また徹底を期して大々的に行われれば、二十九軍側や保安隊にも逐一分明してしまって、集まり来る在留民を邀撃(ようげき)することは容易なことになってしまうであろう。しかも市中各所に邀撃の態勢は整えられつつあったのである。

 

 たとえば東単牌楼に二つの高層建築がある。その一つは文房具店であり今一つは靴屋であったが、見ると、そのいずれも屋上にはなにか物々しい設備が施された。なんでも機関銃だという話であった。また市中目ぬきの箇所、しかも万一の場合に公民巷へ篭城するためにはどうしても通過しなければならない場所には、無遠慮に土嚢が積まれ、日に日にその数が殖えていった。戒厳令は午後十時以後の通行を禁止した。それが間もなく日没とともに通行を禁止するようになり、まだ日も高いうちから武装厳めしい保安隊の群れは其処此処と要所を固め、銃剣の林が気味悪く光りはじめた。毎日毎日北支にはめずらしい曇りがちな天候で溽暑(じょくしょ・蒸し暑いこと)の日が続き、大地は炎立つばかりに蒸湿の気を漂わせた。蔽いかぶさるように繁茂した槐樹の間には、妖しい合歓の花が空間を擽る小さな刷毛のように紅く風に揺れていた。そして夜はいつも澄んだ空になって、流れ星が沢山に飛んだ。

 

 間断ない砲声がわれわれの胸を暗くした。

(つづく)

映画『梟の城』1999年

監督・篠田正浩、出演・中井貴一、鶴田真由、上川隆也、火野正平、根津甚八ほか

 

 原作の『梟の城』は司馬遼太郎のベストセラーで直木賞受賞作。若いときに読んでたいへん面白かった思い出があったから、この映画も劇場公開の時に観に行ったが、残念ながら原作ほどの面白さを感じなかった。日本の時代劇にはしばしばそういうことがある。たいてい監督の世界観、キャラクターの把握の仕方が私とちがうのだ。

 

 特に篠田正浩は波長が合うときと合わないときがあって、この作品はもっとも合わないものといえる。その時はそう感じたのだけれど、ずいぶん時間が経ったいま、もう一度観たらどうだろうかと思って観直してみたのだが・・・。

 

 主人公の伊賀忍者・葛籠重蔵は、原作では忍者という非情な世界にいながらなんとなく軽みのようなもの、その束縛から突き抜けた自由さを持った存在としてユニークに描かれていた。だから武士になって出世しようという風間五平の束縛に生きる暗さと対照が際立っていたのである。

 

 せっかく軽さも演じられる中井貴一に葛籠重蔵を演じさせながら、その持ち味をほとんど生かすことができなかったのは、監督・篠田正浩の、武士、特に忍者というのは非人間的な存在であるというイデオロギー的な思い込みの強さがあったからではないか。

 

 生死を超越している重蔵がそれゆえに生き延び、執着に生きる五平がついには石川五右衛門として釜ゆでにされて殺される皮肉こそ、この作品のいのちかと思うのだが、そういう映画になっていない。

 

 原作のもっとも印象的な、摩利支天洞玄と重蔵の血闘の緊張感が、映画ではあまり感じられないのも残念だった。篠田正浩は時代劇を撮るのがうまくないのだろうか。岩下志麻を北の政所役でむりやり出演させているのもいささかうんざりである。

 

 劇場で観たとき以上にがっかりした。

大颶風(だいぐふう)

 いま『奥野信太郎随想集』の第一巻を読み始めた。別巻、そして第六巻からと、うしろから読み始めているので、これが全集読了のための最後の巻となる。この巻は中国、特に北京に関連した文章が多いので、私にとってはもっとも味わいを感じる。読みながらそこにいるような気持になれる。

 紹介したい文章がいくつもあるが、特に日支事変の時の『北京籠城回想記』は、長いけれども、渦中にいた奥野信太郎の日中戦争のリアルタイムの体験の話を知ることができる貴重なもので、後日何回かに分けて掲載したい。

 今回は別の中国の近代史の、五四運動に関連した話を『女人剪影録』という文章のなかから抜粋する。

『五四運動の中心はいうまでもなく学生層であった。彼等が明日の太陽を夢みつつ、あらゆる因襲に反抗して、流血の惨をすらも顧慮することなく、狂熱的に起ち上がった日であった。確かに「狂熱的」に雄叫びの声を上げて立ち上がったのであった。そのために時としてよき伝統すらも破壊せずんばやまずというような愚をすら演じかねないありさまであった。郷閭に教鞭をとること数十年、すでに垂白の老校長が昨日までの尊崇から突き落とされて、旧套陳腐の代表者のように毒づかれ罵詈せられ、或は平和な家庭の慈悲深き両親に故意に反抗し出奔脱走を敢てして、数々の嘆きを見せた子女の例など、全国的には莫大の数に上ったのであった。この大颶風が大陸の南北を吹きまくった結果、若し新しい支那が誕生したのであったならば、それはその前提としての胎動であり得たかもしれなかった。惜しむべしその五四運動の背後に青年の純情を利用して、己のために計らんとする旧軍閥の、あるいは党人の私闘が潜んでいたために、その運動によって新しいものが建設されたよりは伝統の破壊の方がむしろ多いくらいだといってもよかった。しかし一面この狂熱的なほとんど知性の指示をすら欠如した運動によってよき伝統さえ安易に失われるほど、支那の生活が因襲のために内部崩壊の過程を踏みつつあったということを白日下にに暴露したものともいえるのであって、その後この運動の残存したいわば燠になった情熱の火を、さらに掻き立て、煽り立て、次第に国内統一とか民族意識の覚醒という名称のもとに、熾烈な抗日意識にまで漕ぎつけたのが党人の為政方針であったともいえる。』

 この文章を読んでいて、既視感をおぼえるのは私だけではないだろう。抗日は別として、ほとんど文化大革命の時の状況とおなじではないか。中国の民衆はときに枯れ草に火が移るように燃え上がる。為政者が恐れるのは当然である。こうして民衆が盛り上がれば、大暴動につながり、それは時に反日に走るという素地はいまでも大陸に残存している。

 習近平はそれを恐れるあまり、とことん管理監視を強化しているが、それは内圧を高めるばかりであり、着火の危機は増大しているのかもしれない。毛沢東の再来たらんと夢みる習近平が、毛沢東の轍を踏むのを、我々は見ることになるのだろうか。

2019年3月23日 (土)

亡妻を恋う

 私の話ではない。戸籍上だけではあるが私の妻は存命である。
 
 奥野信太郎の随筆集を読んでいたら『幽燕悲愁』(随筆集の第三巻にある)のなかにこんな文章があった。幽燕の燕とは燕京で、北京の別称である。
 
 そのころぼくはほとんど連夜にわたって亡妻の夢をみている。日記を繰ってみると、
「余、妻と相対して妻の手料理を久しぶりに味えり。手術をうけし後、一時快方に向かいしおりの一日のことなり。余は医者より絶望の旨を聞きたれば、あるいはいまかくのごとく元気なれども、再び病床につきて重態に陥るにはあらざるかと懸念する一方、またこのまま健康体となりて、病苦は遠き昔の思出となるかも知れずなど思う。妻と二言三言語りたる感じ残存す」云々という一節や、また「昨夜亡妻の夢をみる。ただしその内容は記憶せざれどもね夜半眼醒めしときには、確かにその感じありき。おそらく連夜亡妻の夢をみるにはあらざるか。ただ時としてその記憶の鮮明なるあり、不鮮明なるあり。昨夜のごとく半ば意識に残れるあり」云々という一節がある。
 
 淡路島の醸造家の娘と恋仲になり、娘の親の猛反対に遭いながら駆け落ち同然にして結ばれた愛妻だったが、二二六事件のあった数ヶ月後、二三日寝込んだだけであっけなく病死してしまう。そのすぐあとに北京への留学の話があり、彼の地へ赴いたのである。傷心の彼には詩も北京の憂愁もこころに一入響いたことであろう。
 
 寺田寅彦の随筆集が小宮豊隆の編集で岩波文庫に全五冊で収められている。ともに漱石門下であることは承知の通り。その第一巻の冒頭が『ドングリ』という文章で、愛妻が胸の病ではかなく亡くなってしまう経緯と、病を押して彼女が残した忘れ形見の我が子を見ながら亡妻を偲ぶ文章に心が打たれたことを思い出していた。
 
 かけがえのない人を失うと、そのことが受け入れられずにその人を幻視する。人混みの中にふとその人を見たりするものだ。ましてや夢なら見るだろう。

映画『勇気ある追跡』1969年アメリカ

監督ヘンリー・ハサウェイ、出演ジョン・ウエイン、キム・ダービー、グレン・キャンベルほか
 
 数年前に観た『トゥルー・グリッド』(たいへん感動した。名作である)はこの『勇気ある追跡』のリメイクである。そもそもこの『勇気ある追跡』の原題は『True Grit』なのである。しかしグリットではなくてなぜグリッドなのだろう。gritを辞書で調べると、米語で気概、気骨、不屈の精神、勇気などとある。a mam of true grit で「真の勇者」という意味になる。
 
 父の仇を追う少女キティ(キム・ダービー)が、彼女の助っ人として雇った大酒飲みで片目の保安官コグバーン(ジョン・ウエイン)をそう評するのだが、コグバーンが「トゥルー・グリッド」なら、キティもまさに「トゥルー・グリッド」なのである。そのことが最後にしみじみとわかる。
 
 野暮ったくて、口が達者で気が強いばかりに見えるキティが次第に魅力的に見えてくる。彼女の真の勇気と賢さが内側から光り輝いてくるのである。ハリウッド映画はこういう賢くて強い女性を描くのが苦手かと思ったら、ここにいたのである。原作(チャールズ・ポーティス)が良いのであろう。
 
 ストーリーは当然ながら『トゥルー・グリッド』とほぼ同じだが、キティの腕は失われない。どちらの映画も観る値打ちがある。観たあとに生きることへの勇気が湧いてくるはずである。
 
 ちなみにタイトルバックを観ていたら、音楽はあの『ウエストサイドストーリー』の音楽を書いた、作曲家で名指揮者のレナード・バーンスタインであった。

『奥野信太郎随想全集 二』(福武書店)

 副題は『随筆東京』。奥野信太郎は東京の山の手生まれの東京育ちである。外祖父は橋本左内の弟、綱常。ドイツ留学をして医学を学んだ陸軍の軍医であり、鴎外森林太郎の先輩でもある。父も陸軍の軍医。

 本人は幼いときから漢文をこの外祖父や専門の漢学者に習うが、中学時代に文学に傾斜してしまい、永井荷風に傾倒して三田に入学する。入学して永井荷風に師事するつもりだったが、その時にはすでに永井荷風は三田の教授を辞めていた。

 放蕩無頼というほどではないが、彼が東京のあちこちの遊興の巷をほとんど歩きつくしたことがこの本でわかる。戦前の1920年代、そして戦後の1940年代から1950年代の東京の裏と表が、描きつくされている。あたかも江戸や明治の戯文家が書いたような文章で活写されたものもある。このような文章の形で残されていなければ残ることのない東京のすがたがここにある。 

 もともと『随筆東京』という本があるのだが、そこから引かれているのは始めのほうだけで、たくさんある彼の随筆集のなかから東京に関連したものが収められている。震災で倒れてしまって再建されることがなかった浅草十二階などの描写をみると、明治の侠客映画のワンシーンをみるような気がする。

 だんご坂の菊人形の思い出などが書かれた文章『菊によせて』のはじめの部分が菊に関する蘊蓄になっていて、興味深いのでその部分を引用する。

 古くは菊を、“かわらよもぎ”とか”かわらおはぎ”とかいったということが、『和名鈔(わみょうしょう)』の注に本草を引用して出ているが、今時の人にとっては、菊はやはり菊で、”かわらよもぎ”などといったので歯、かえって通用しないのはあたりまえのことである。「きく」はいうまでもなく中国語の音をそのまま用いたのであるから、いわば中国語である。いつの間にか日本語が消滅して、外国語にとってかわられたようなものである。『日本釈名(にほんしゃくみょう)』にも、「むかし日本に聞くなし、故に万葉には菊の歌なし、後にもろこしよりわたりし時、音を用いて訓とし歌にもキクとよめり」うんぬんとみえている。つまり菊は渡来ものだというのである。

 このあと専門の中国での、菊に関する蘊蓄が述べられていてそれも面白いが、長くなるのでここまでとする。

 菊の音読みはなんだろう、などと思ったことがあるが、菊は「キク」が音読みなのであった。

2019年3月22日 (金)

理解できないものを狂人というが

 ほとんどの人は、なんとか理解しようとしてもどうしても理解ができない者を狂人とみる。むりやり理由付けする精神病理学者や心理学者もいるが、そもそもが説明のつかないことに分かったようなことをいっても、たいていがこじつけにすぎないと私は思っている。

 イタリアのスクールバスの運転手がバスに放火したと報じられていた。さいわい危機一髪で乗っていた子供たちは逃げることができたという。そのアフリカ系の運転手の放火の理由が、「海の恨みの報復」だそうだ。

 多くのアフリカ系の難民が粗末な難民船で地中海を渡ってヨーロッパ側にやって来ようとしている。助かる者もいるが海の藻屑となる人間も多い。その難民をイタリアは受け入れない方針に転換した。そのために命を失う人間が増えているのは事実なのであろう。

 その恨みをイタリアの子供の乗るスクールバスに放火して子供たちのいのちを奪って晴らそうとする行為は理解不能である。その子供たちには難民の水死に関してなんの罪もない。この運転手が子供たちを焼き殺すことに成功したとして、なにが達成されるのだろうか。イタリア人のアフリカ系難民に対する怒りが嵩じてますます難民受け入れに拒否感が高まるばかりであろう。

 彼の怒りは彼の憤激の解消になると、どうして思えたのだろう。彼の行為は彼が代わって報復しようとしていた人たちに災厄をもたらすだけだと、どうして気がつけないのだろう。彼が怒る相手は難民を生み出している無益な戦闘に明け暮れている自国の権力者達ではないのか。彼がそれに立ち向かう力が無いから、怒りを子供たちに向けたということは、その無益な戦争をしている者たちと同じことをしようとしたのではないか。そう考えることができない愚かさには絶望的になる。

 テロは力を持たない弱者の戦争行為だそうだ。テロを実行することで弱者は権力者達と対等に闘えると幻想するのだ。ところがいつのまにか弱者という正義の御旗を振りながら、弱者が弱者を犠牲者にする世のなかになった。いつから権力にたち向かわずに弱者をターゲットにすることが正義になったのか。

 この世のなかに狂気がはびこりだして久しい。この狂気は一部の人間に容易に伝染するもののようだ。
  
 韓国の戦犯ステッカーの話にも言及しようと思っていたが、あまりにことばがエスカレートしそうなのでやめておくことにした。戦犯ステッカーが学校教育に必要なことだと主張する左派系ソウル市議たちに、韓国の人たちは狂気を感じないのだろうか。もう韓国の話は取りあげるのもうんざりする。

ココログはいつ、もと通りになるのか

 ココログのリニューアルが思いのほか難航して、多くの人が不自由を感じていることがそれぞれの人のブログを拝見してわかる。もちろん私もその一員である。日々の生活にココログがかなり大きな部分を占めているのである。

 リニューアルするのであるから、何らかの改善があるのだろうと期待しているのだが、なにがどのように改善されるのかについてのアピールらしいものがないのでさっぱりわからない。なにより不具合が続いていても、なにがどうなっているのかについて、案内がほとんどなかったのは不親切にすぎる。

 毎日定期的に拝見しているブログがずいぶん多くなっていて、原則としてきちんと見たブログにはポチットといいねのボタンを押すことにしている。ところがそのボタンが、いまのところなくなったままである。ココログからアバターも消失している。もちろん私のものもなくなっていて、どうしてボタンやアバターなどを復活させたらいいか分からない。

 たいていは記事を下書きしておいて自分なりに添削して、アップの予約時間を設定して記事にしている。その予約をしていてもリニューアル後はアップされない。これでは予約の意味が無い。だから未アップの記事を並べ替えたり時間を変更したりしながら、リアルタイムで保存し直すことにしている。だから記事が前後してしまったりした。

 ブログ一覧には「メインブログ設定中」というマークにチェックが入っているので、「設定中」なのであろう。なにをどう設定しているのか。なにがどういう順番でもとのように使えるのか、リニューアルでなにが便利になるのか、それを案内して欲しいものだ。

 ブログを生活に組み込んでいるので、それが使いにくいと生活のリズムが乱れてしまってちょっとイライラしている。

映画『星めぐりの町』2018年・日本

監督・黒土三男、出演・小林稔侍、壇密、神部浩、平田満、荒井陽太ほか
 
 小林稔侍の初の主演作で、舞台は愛知県の豊田市。豊田市はトヨタの企業城下町だが、市域は広く、北側はかなり深い山間地になっている。その山間の良質な水を使って手作りで豆腐づくりをしている勇作(小林稔侍)ははやくに妻を亡くし、今は娘の志保(壇密)と二人暮らし。そこへ巡査の坂崎(神部浩)がひとりの少年・政美(荒井陽太)を伴って訪ねてくる。
 
 少年は五歳の時に2011年の東日本大震災の津波で祖母、両親、妹をなくした孤児だという。親類に預けられてもなつかず、口もきかず、問題を起こし続けてたらい回しにされたあげくに最後のよすがとして勇作のところへお鉢が回ってきたのだ。しかし勇作には心当たりがない。亡くなった妻の遠い遠い親類に当たるらしいことが説明されるが、勇作は当惑するばかりである。
 
 仕方なく少年をあずかった勇作だったが、少年の心の傷は深く、しかも凝り固まっているので手の施しようもない。自動車修理工場に勤めていて男っぽく、バイクを乗り回すような娘の志保も少年に手を焼くばかり。しかし食事を通して勇作たちと少年の距離が次第に近づく。少年は自室にこもってひとりで食べていたが、ついに食事を同じ食卓でとるようになるのである。
 
 勇作が軽トラックで手作りの豆腐を町や山間の村々に売り回る。勇作が誘うと少年は黙って同乗する。少年はじっと勇作の仕事やその商売を見つめている。
 
 次第に溶けていく少年のかたくなな心だったが、ある出来事で少年は失踪する。それを我がことのように心配する志保、突き放す勇作。人には手助けできることとできないことがあるのだ。少年は自分自身で自分の殻を破って再生できるのか。もちろんラストは当然ウルウルさせられるのである。
 
 もともと不器用で台詞もうまくない小林稔侍だから無口な役柄が似合う。それは彼を人一倍可愛がっていた高倉健から学んだ生き方だし演じ方なのだろう。
 
 映像にも捉えられていたけれど、豊田の山間部は自然が美しい。ときどき私も走り回るところだけれど、道は入り組んでわかりにくい(いまはナビがあるからだいぶ良いが)。みていたら久しぶりにドライブしたくなった。

2019年3月21日 (木)

鼻呼吸

 歯医者で治療しているとき以外はふつうに鼻呼吸ができる。父親譲りで歯が丈夫だったので、四十を過ぎるまでは治療のために歯医者に行ったことはなかった。慣れないうちは、歯をいじられているときに鼻呼吸ができずに、息を詰めてしまうので窒息しそうになる。
 
 顔が紅潮したりするから歯医者も気がつくのだろう、「楽にして!一息入れましょう」などといわれる。死ぬかと思っていたから助かる。いまは鼻で息をすればよいのだと気がついたので、心の中で「鼻で息をしよう」と自分に呼びかける。あまりうまくいかないが、窒息するほどではなく、顔も紅潮しないらしく、歯医者も気がつかない程度でおさまっている。
 
 子供の時から風邪でもひかない限り、鼻をかんだりすることはなかった。むかしはよく青ばなを垂らしている子供がいたものだが、不思議に思っていたものだ。
 
 それがこの歳になって人並みに花粉症らしきものになり、ティッシュペーパーが手元から手放せなくなった。さすがに青ばなはでないが、鼻水が出る。もともとアレルギー体質なので、身体が異物に対して過剰反応するようなところがあるのだろう。
 
 世の中は異物であふれている。異物に鈍感であるか、異物に慣れきらないと生きるのが難しい時代らしい。そうなると異物と異物に耐性のある人がふつうで、排除されるこちらの方こそ異物なのかも知れないと思ったりする。知らないうちに世界は変質しつつあるのだろうか。

『奥野信太郎随想全集 三』(福武書店)

 副題が『はるかな女たち』とされていて、彼の眼にとまった女たちの話が満載の巻である。奥野信太郎は好色である。本人もそれを否定しないはずである。ただし、別の巻(全集第二巻)に収められている『三痴のこと』という文章にあるように、好色にも上品(じょうぼん)の好色と下品(げぼん)の好色との二通りがある。

「女人とみればただこれを漁色の対象として眼のいろをかえ、いったん思いをとげるやそのあとは弊履を捨てるようにふりむきもしないという男、金銭の力で女人を制御して、その数を誇り、悲願千人斬りというようなことを得々として口にする輩、これらはいずれも下品好色の手合いである」

「これに対して女人を敬愛し、その女人の芳香のような性向から、いつしか深い影響をうけて、人間的に成長してゆくことを念願し、またそれを追求するという色好みがある。これこそまさに上品好色といえるであろう」

 もちろん先生は上品を志向していた。していたけれど、ときに下品の如きこともあったことがあからさまに告白されている。とにかく女が好きなのである。まあたいていの男ならそうであるし、そうであって世のなかは成り立っているともいえる。

 芥川龍之介に『世之助の話』という小説がある。この世之助は、井原西鶴の『好色一代男』のあの世之介のことである。ここで与之助が語る、ある女性とのエピソードが私には忘れられない。好色の限りを尽くした世之助が、情を交わしていない、たまたま船に乗り合わせた女性に感ずる官能と寂寥こそが、奥野信太郎の求める「女」だったのではないかと思っている。

前回と今回の記事が手違いで前後してしまった。

ところで記事に添付されていたポチットといいねのアイコンがなくなってしまった。一時的なことなのだろうか。どうしたら復活できるのかわからない。

2019年3月20日 (水)

民意と民主主義

 フランスの毎週土曜日の騒乱は、治まるかと思っていたら再燃し、さらにエスカレートしているようである。これは民衆の民意を主張する行動と捉えるべきなのだろうか。いずれにしても、無関係の車や街頭の店舗を破壊し、放火し、掠奪するなどということは許されるものではない。日本人なら多くがそう思うはずだが、そう思わない人の多い国もあるらしい。それならなかなか分かりあうのはむずかしい。

 韓国のロウソク革命をみていると、韓国では民意こそが民主主義だとされているようだ。だから韓国は法よりも民意が優先される国で、それが正しいと考えているのだろう。先日の沖縄の基地の賛否の投票もそうであろう。さらにイギリスのEU離脱の賛否を問う国民投票も同様だ。民主主義は多数決であり、民意は住民投票や国民投票で判断できると考える考え方なのだろう。

 いま民主主義を基本に据えている国では普通は代議制である。直接選挙が物理的に困難だから代議制なのだろうか。それならいまは技術的にそれを可能にする方法がいくらでもありそうだ。直接選挙と代議制とは民主主義ではどちらを優先するのだろう。そもそも民主主義とはなんなのだろう。よくわからない。

 ただ、民意というのはしばしば感情的で、一時的な思い込みで暴走することもある。衆愚政治に陥りやすいことは歴史が教えてくれる。民意が必ず正しいなどとはとてもいえないことを、韓国の国民でもわかっているはずだ。なによりロウソク革命という民意で引きずり下ろしたあの朴槿恵大統領を、そもそも祭り上げて歓呼の声で迎えたのは多くの国民の民意だったのではないのか。

 民衆、大衆というのは実体があるようでないものである。なにより民意の判断が誤ったときの責任者が存在しない。だから韓国では民意の過ちを、民意に添うべく行動した大統領が常に負わされている。哀れなことである。

 代議制の場合は少なくともその責任者を呈示することが可能である。民意という名の、実体のないもののみで正義を叫ぶとき、民主主義の欠点が露呈する。そもそもそれは民主主義か。

2019年3月19日 (火)

好色について(『奥野信太郎全集 三』補足)

 この巻の巻頭は『童情縹渺録』という文章だが、ここに奥野信太郎の好色についてのひとくさりがある。

「生まれて癖のないものはないというが、ただそれも度のあることで、もし過ぎたものであれば、あるいは身を滅ぼすにいたらないまでも、けっして幸福をもたらすものではないであろう。なかにはあれも好き、これも好きと、世のなかのことにすべて興味をもつことのできる人もあるが、(略)つまりは器用貧乏ということにおわらないともかぎらない」

「しかしまたなんの癖もない人間に出あったときほど寂しいものはない。毎日判で押したような生活のなかに、少しの揺るぎもなく、感心するばかりにぴったりとあてはまって、時がくれば醒め、食い、そして眠るだけの日々を送るだけであったならば、なんのために生まれてきたのかわからないようなものである。

 世のなかにはそういう人たちがたくさんいる。もっともかれらにいわせるならば、その揺ぎのない、一見平凡に似た日々のなかに、深淵かぎりない味わいが蔵(かく)されているというかもしれないが、しかしそういう連中とはともに胸をわって語りたいとは思わない。

 明の張岱(ちょうたい)はその著書『陶庵夢憶』のなかで、「癖のない人間とはとてもつきあいきれない。深情というものがないからである。欠点のない人間ともつきあいきれない。真気がないからである」といっている。その深情といい真気と称するものも、畢竟誠心ということであろうが、いいかえればこれが人間らしさということにもなろう。癖のある人間、欠点のある人間は、その癖、その欠点のために、往々他人に迷惑をかけることがあるかもしれないが、また逆にそのために人に愛されることも少なくはない」

(中略)

「ぼくは生まれて眼に麗色をみることを、ことのほか喜ぶ癖を持っている。通俗には好色のことばをあてはめて呼ぶかもしれないが、その語感にはあきたらないものがある。だから自分ではひそかに愛婉癖もしくは愛芳癖そしてときとしては愛媚癖という呼びかたをしている」

 こうしてその癖のよって来たるところを幼少時から説き起こしていくというのがこの巻のテーマなのである。

 癖は「へき」と読みたい。ここで先生が引用している張岱の『陶庵夢憶』という本は、私が愛読している(半分も読みこなせていないのに大好きな)本で、すでに三度読んでいる。これが引用されていることもうれしい。

2019年3月18日 (月)

武田泰淳『身心快楽(しんじんけらく) 武田泰淳随筆選』(講談社文芸文庫)川西政明編

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 武田泰淳が書いた文章を精選して、彼の生涯の流れに沿って六つの時期に分けて編集してある。第一部が彼の生い立ちと青春時代。第二部が中国への従軍時代。第三部が戦争も含めての彼の思索時代。第四部が創作に関連して書かれたもの。第五部が評論。第六部が再び中国を訪ねた話を中心に、晩年までのことがまとめられている。

 読みやすい文章と読みにくい文章とがある。それは私にとってそうだということで、解りにくい文章があるということではない。武田泰淳は論理的に文章を組み立てることよりも、自分の思索の上での情念を正直に書きつけることを優先しているように見える。その情念がこちらに響けばわかりやすくて、そこに入り込めないと私の意識の上を文章が滑っていく。

 武田泰淳が三島由紀夫と親しかったことは、この本の中に三島由紀夫の死後に彼を語った文章を読めば良くわかる。三島由紀夫という鏡を通して、さまざまなひとの文学論を知ることができる。評価しない人と、評価する人とでは不思議なほど違う。武田泰淳のように情念で三島由紀夫をまるかじりする人こそが三島由紀夫を理解できるのかもしれない。

 武田泰淳は正式に仏教を学び、修行もして僧籍を持っている。武田泰淳は本名で、泰淳は僧として得度したときに拝命した名前である。彼は仏教徒として思索を続け、戦争に従軍して、戦時における人間の生死というものの現実を目の当たりにして自分の観念の浅薄さに打ちのめされる。真面目な人なのである。

 若いときから中国文学に親しみ、終生の同志が竹内好だった。戦争末期の昭和十九年には堀田善衛たちと上海にいた。日本に帰ってきたのは昭和二十三年である。その間にどんな経験をしたのか。そしてそのあとの中国の変遷にどのような思いをしていたのか、興味がある。

 私の父が同じような時期に中国にいてさまざまな体験をして、中国にどんな思いを抱いていたのか、不孝ものの私はついに断片すら聞くことをしなかった。今ならどんなことが聞きたいのか、そしてその答えの意味を多少は理解できるのに、と思う。

 武田泰淳の残した文章にその一端を感じ取れたような気がしている。一端も一端、ほんのわずかだけれど。

超早寝超早起き

 定期検診も済んだので、ここ数日控えていた酒を少し余分に飲んでいる。決めている限度を超すと歯止めがなくなるのでそれは気をつけているのだが、そのために早めに眠くなる。眠いときに寝ておかないと寝そびれるのがわかっているので、八時前後に寝床に入ったりしている。

 早く寝れば早く起きる道理で、夜中の三時前に目が醒めてしまう。そうなるともう寝られない。夜中では音楽をかけるのも気を遣うので、本を読む。枕元のスタンドの明かりで本を読むのだが、どうも読みにくい。まだまだ夜明け前の気温は低いので手や肩先が寒い。そうなるといっそのこと起きてしまうほうが楽である。

 こうして超早寝超早起きをしているのだが、睡眠時間は足りているはずなのに昼間眠くなる。時間だけ帳尻が合えばいいというわけではないようだ。

 さまざまな本を並行して読んでいるが、読んだ本の中に引用されている本がまた気になってくる。それをメモ書きにしておいて、あとで整理してノートに書き込む。それをみて本屋で読みたい本を捜すときの手がかりにする。読むよりもメモする方がはるかに多いから、気になる本はひろがり増えるばかりである。井上ひさしのように一日十冊も二十冊も読むという超人ではないし、それをことごとく並べるには資産もわが家のスペースも足らない。それが心から残念なことである。

 しかしリタイアしたらしたいことがいくつかあったけれど、その一つの、好きな時に好きなだけ本を読めることの幸せを実感している。だからこそ誰かに追われるような読み方はしたくないとも思っている。

余談

 武田泰淳『杭州の春のこと』に関係する文章があったので、余談として追記しておく。

以下は昭和三十六年の十二月に文化人たちの一行の一員として中国を旅したときの紀行文、『菊の花、河、大地 中国の旅』という小文の中の一部分である。

「うわあ、こんなに優遇される資格は、ぼくにはないんだがなあ」
 暖房のよくきいた民族飯店の大きな部屋、列車の特等席、飛行場の食堂、昆明池や西湖の遊覧船で、私は、恥ずかしいような、うれしいような、とまどった気持だった。昭和十二年に、輜重兵一等兵として、呉淞(ウースン)に「敵前上陸」して、上海、杭州、南京、武漢、南昌を侵略者として移動した過去があるのだから、恐縮、申しわけない、照れくさいと感ぜずにはいられなかった。その頃、衛生材料廠に勤務していた私は、消毒液をみたした噴霧器を肩にして、南昌の飛行場に行き、腐敗した中国兵の屍を埋めたものだった。そこには今、ジェット機が勇ましく勢ぞろいしていた。また、こんど、西湖の美しいながめを見物させてもらいながらも、かつて、慰問袋の氷砂糖や煙草を投げあたえた、戦地の少年や幼児の血色の悪い顔を思い出さずにいられなかった。

2019年3月17日 (日)

永井荷風『地獄の花』

 明治35年(1902年)に刊行された最初期の長編作品。女性が学問をして知識を持ち、自立して男性と互していこうとする、そんな最先端を行く女性・園子が世間というものの虚妄、虚構を思い知らされることで、自分が生身の女であることをあらためて自覚する。そしてそのことで第二の目覚めにいたる。その目覚めは彼女を勁くするが、それは彼女を幸せにするのかどうか。そもそも幸せとはなにか。マスコミの暴力が今以上にひどかった(今もひどいが)ことも描かれている。この暴力は平然と人を殺す。

 この小説に出て来る主要な男は、どれもろくな男ではない。後半の急展開で園子が暴風雨のような体験をするのは男が原因だが、そんなろくでもない男が物語なりの特別な人間かといえば、そうでもないかも知れないところがあって男として哀しい。そうでもないような男になりたいと観念的に思っていても、根底には生理的な男の獣性、色欲というのは確固として存在していて、抑え込みにくいものだと承知せざるを得ない。またそれをまったく抑え込んで無色透明になったら、男ではなくなるし魅力を失うのも事実だ。セクハラといわれることにおびえすぎる男たちだけになった世の中は、女にとって天国か。

 この小説の情景描写は明治の匂いがする。その明治の匂いは江戸戯作の匂いを残している。まだ言文一致体の文章がようやく人々になじみだしたばかりのころに、これだけの文章が書けたということに、永井荷風という作家のすごさを感じる。この全集が旧漢字旧仮名遣いルビ付きであるのがうれしい。

 女性がテーマであると感じて、太平洋戦争中に書かれ、戦後発表された『浮沈』と読み比べてみた。それを詳細に解析して書き出すとキリがないことになりそうであり、今はそれだけの余裕も能力もない。雑にいえば、女性がテーマではなく、女がテーマだったということだろうか。ここには観念ではなく、肉体という生身の発する女の汗や匂いが書かれている。

 丹羽文雄の『顔』、船橋聖一の『ある女の遠景』という、やはり女がテーマである長編小説を若いころ読んで強い印象を受けたことが忘れられない。それを思いだしていた。かぐや姫(あの南こうせつが嫌いなのにいい歌が多い)の最高傑作『夢一夜』の歌詞はまさに女がテーマではないか。あの歌詞は『ある女の遠景』にシンクロする。

はるか昔を思い出す

 小学校四年生というと六十年近く昔のことだが、突然その頃のことを思い出した。まだ意識していないから私は女の子ともよく遊んだ。女の子の家に遊びにいったし、女の子たちもわが家に遊びに来た。スポーツが苦手で本を読むことが多く、男の子より女の子の方が遊んでいて楽しかった。物語を書いて女の子に回覧したりした。

 街一番の大きな書店の娘が同級生にいて、長い髪をポニーテールにして、色白でスラリとして、ちょっとほかの子とは明らかにちがう、垢抜けた女の子だった。本屋の裏手が大きなお屋敷になっている。遊びに行くと紅茶とケーキなどが出たりした。わが家ではないことである。

 いつのころからか同級生からはやされるようになった。最初は意味がわからなかったが嫌な気がした。別の女の子から、「はやしたてる男の子たちは、本当はみなあの子が好きなのよ」と聞いて、なるほどと得心した。女の子というのは鋭い観察眼を持っているのだ。

 女の子たちはあいかわらずわが家にやってきてわいわい言っていたが、その本屋の娘の家には行かなくなった。女の子を女の子として意識した、それがはじめだった。

 大人になって久しぶりにその娘に会ったら、あいかわらずポニーテールで色白で、ひたいのひろい目鼻立ちのはっきりした美人になっていた。あとで外国人と結婚したと聞いた。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(9)

 このような唐代の物語の精のような美しい女も見たが、実に騒がしい女が一人目にとまったことがある。それは喧嘩して夫にぶたれた女らしく、汚い顔を血だらけにして大きな声で泣きながらやってきたのである。昼休みに日向ぼっこのためクリークの石橋の上にいた私共の方へ泣きながらその女はやってきた。後から母親らしい老人が心配そうについてきて、またその後から野次馬がゾロゾロついてきた。私は血だらけの中年女は気味わるくなってタジタジとなり構いつけないで立っていた。女はまだ泣き騒いで私共を困らせてから街を歩いて行った。私共独身者が、どうして支那の中年女の夫婦喧嘩の裁きがつけられようか。その時の歌。恐ろしや支那の女の喧嘩して顔に血塗りてはし渡り来ぬ。愛すべき風景の中に生活するこれらの愛すべき支那の人々を眺めていた杭州の春は、私の心に春愁ともいうべき一つの永い悲哀を植えつけたものであった。半ば意識的に荒々しきもののなかに悲哀を見出そうと努めたのかもしれない。若いときに異国に行くとたぶん誰でもそうするのではあるまいか。(「中国文学月報」昭和十五年二月) 完

2019年3月16日 (土)

『奥野信太郎随想全集 四』(福武書店)

 この巻の副題は『文学みちしるべ』。Ⅰ部とⅡ部とに別れていて、Ⅰ部は中国関連、Ⅱ部は日本に関連した文藝評論である。奥野信太郎先生の詩に対する造詣、感応性は、それに鈍な私にとってはうらやましいほどで、引用される詩の解釈、説明を読んで始めて深く頷かされることばかりだ。

 Ⅰ部の『北平時代の洪北江』はやや長文。乾隆帝時代の詩人・洪北江は江南の生まれだが、生涯に北平(ペイピンつまり北京)に何度か暮らしている。同じく先生が北京に留学した時代、洪北江の足跡を訪ねて彼を偲んでいる。洪北江の詩にうたわれる北京の四季を自分も満喫しながら、同時にその詩に込められた望郷の思いを読み取るのである。この文章は東洋文庫の『藝文おりおり草』で一度読んでいるが、再読してみると初めてのときよりも多少は深く読めた気がする。

 読書百遍意自ずから通ず、というけれど先生の文章は古いものほど美文難語のきらいがあり、その傾向のある『北平時代の洪北江』は詩を論じてもいるので二重に歯ごたえがある。もう何回か読むともう少し味わいが深まるかもしれない。その値打ちもある。

 同じくⅠ部に収められた『中国劇随想』も『藝文おりおり草』で既読だが、少し長い上に専門用語だらけなので半分ほどが字面を追うばかりながら、やはり再読なので少しその世界になじみができた。演劇の起源が巫である、というその原点が詳しい例を挙げて繰り返し述べられている。日本の神楽を考えても得心のいくところだ。

 その他『魯迅の文章について』(『朝花夕拾』を特に取りあげているので、竹内好の『魯迅文集』を揃えるきっかけになった)『仙人と仙薬』、『水滸伝』、『金瓶梅』、『遊仙窟』を論じたもの、『中国の鬼談』、『中国の幽霊』等々、興味深いものが多い。

 Ⅱ部では円朝を論じ、そこから『牡丹灯籠』と『剪灯新話』の中の『牡丹灯記』を論ずる。さらに中国文学と森鴎外、中国文学と永井荷風、中国文学と佐藤春夫を論じていく。明治生まれの文豪には漢文の知識が素養として備わっていたことの意味があらためて論じられているのだ。素養としての漢文を備えているかどうかが、どれほど古典や明治の文豪の文章を読みこなせるかどうかにかかっていることをあらためて感じさせる。素養の無い私にはこの年であらためての手習いである。遅くてもやらないよりはいい。

定期検診再び

 自分の身体の定期検診は終わったが、今度は愛車の定期検診、すなわち定期点検があった。ディーラーの勧めるパック・デ・メンテというのを契約して車検時にその費用を払ってあるので、基本的に点検費用は無料だし、ふつうの消耗品なら金はかからない。割安である。

 無料でオイル交換もして、整備終了となったが、バッテリーがかなりへたっているという。このままだとあと半年持つかどうかというのである。以前友人の車で遠出したとき、出先でバッテリーが上がってしまい、往生したことがある。その車もあと半年持つかどうか、と言われた、と聞いた。

 私は出かけるときは遠出が多い。交換してもらうことにした。見積もりをみたら想像以上に高い。i-stopは特殊なバッテリーなので高いのだという。あまり釈然としないがしかたがないと諦める。そのバッテリーは取り寄せになるので、もう一度明日来て欲しいそうで、二日続けてディーラー詣ですることになった。

 帰宅せずにそのままドライブに出かけた。大阪の兄貴分の人に頼まれている岐阜県の銘酒を買いに行く。ついでに先般徳島でつき合ってくれた方の兄貴分の人にも一本送ることにする。その時に手土産をいただいていたからそのお礼だ。そしてもう一本、自分の分ももちろん購入する。昨年暮れにも大阪の兄貴分の人に送ったので、その造り酒屋では私の名前もその先輩の住所と名前も登録されていた。

 造り酒屋のご主人と郡上一揆の話、そして大原騒動の話などをする。地元だから詳しいのだ。子供のときから聞かされているというだけあって、話が具体的でリアルな感じがする。それが昨日の話で、今日はこれからバッテリー交換に出かける。

 二月は西の方へ遠出したり、本を余分に買ったりして少し出費がかさんだ。三月はそのぶん意識して出費を控えておとなしくしていたのに、金は出るときには出ていくものらしい。

 ドライブするとそのまま遠くまで出かけたくなるけれど、今は我慢、我慢。もうすぐ春本番になればタイヤも交換しなければならない。タイヤ交換は金沢でするので、約束通り金沢の若い友人達と会食する。それが楽しみだ。五月末からは弟がついにリタイアして、一緒に旅行に行く約束もしている。車も自分も万全にしておかなければならないのだ。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(8)

 私は上海へ帰る前の日に街の支那料理屋に入って支那マンジュウを食べてみた。二人の支那姑娘が私のテーブルにやって来た。一人は紫色、もう一人は桃色の支那服を着ていて腰かけている彼らの脚がスラリと服の下からあらわれていた。十八歳位であろう。細い身体から香油の香りがしていて、いかにもなよなよとした風情があった。酒を飲まぬ私のことを、小孩(シャオハイ)だと言っていたが、私はなんとなく二人とも気に入ったので五十銭銀貨を一つずつやって「また来るよ」と言って外へ出た。また杭州へ行くことができるだろうか。○○○○廠の向側の別荘には若い支那人夫婦がひっそりと住んでいた。その他には老人の女中と可愛らしい赤ん坊が一人いた。男も女も美しく、女はことに卵形の顔に黒いうるんだ瞳と赤い花弁のような唇を持っていた。両親は金山にいるんですけれど途中が怕(こわ)くて行けないのですと言っていた。私は金山に宿泊したこともあり、あの焼け落ちた壁と柱ばかりの市街を見て知っているので、それは駄目だろうと言うと哀しげに眼をふせてしまった。その家は外国式の建物で白い壁に赤褐色の蔦蘿(つたかずら)が爬(は)っていた。私共が三階の寝室にいて廊下へ出ると、子供を抱いた若い夫人の白い服が、向
側の三階の窓によく見えたものであった。クリークでとれた魚を料理してもらうと彼女は素晴らしく立派な陶器に入れて持って来てくれたことがあった。だがいつもその顔は青白くて、それこそ壊れやすい陶器の肌のように見えた。(つづく)

2019年3月15日 (金)

読書

 映画やドラマやドキュメントや旅番組を手当たり次第に録画しているので、それを観るのに振り回されている。それぞれを観るためにはそれなりの時間が必要である。大事な自分の時間をいささかすり減らしすぎているような気になってきて、本日は極力テレビ画面を見ないことにした。

 テレビ画面やパソコンの画面を見るのは疲れる。眼にその疲れが蓄積していて、花粉症の涙目も合わさっていささかつらい。先般眼鏡を作り直したときにずいぶん視力も低下していた。もうしばらくは働いてもらいたいから大事にしなければならない。

 そう思いながら今度は読書している。いま並行して読んでいるのは

 『荷風小説 一』(今は『地獄の花』)
 『荷風小説 七』(今は『踊り子』)
 『安岡章太郎集 8』(『流離譚』)
  『奥野信太郎随想全集 四』(『花沈む小路』)
 梅原猛『水底の歌 下』

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混乱しないか?と問われるが混乱しない。むかしから何冊も並行して読書するのになれている。読み出して集中すればよし、集中できないときは別の本を開く。集中が途切れればまた次の本を開く。

 読書も眼が疲れないことはないが、テレビやパソコンの画面よりはよほど良い。眼鏡なしで本は読めるが、少し老眼が進んだのか見づらくなっている。適度に眼を休め、目薬をさしている。

映画『超級護衛 スーパー・ボディガード』2016年中国

監督ユエ・ソン、出演ユエ・ソン、シン・ユー、リー・ユーフェイほか

 監督・脚本・主演の総てをユエ・ソンがこなしている。格闘演技のキレも良いしなかなかのものなのだが、頑張りすぎて消化不良を起こしている気がする。こんな映画の作り方をしていたら二三作で飽きられてしまうのではないか。なにしろ一生懸命なのである。一生懸命すぎて却って観ている方が醒めてしまう。

 最初がなによりぶちこわしである。シリアスであるべきところでつまらないコミカルシーンを入れる。そのつかみからがっかりする。ブルース・リーの再来といわれているらしいが、足元にも及ばない。格闘で強くても好い映画が作れるわけではないのだ。

 むかしの香港映画の猥雑さ汚らしさを引きずっている間は二流にすらなれないだろう。期待していたのにがっかりである。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(7)

 私共が杭州を引き揚げる少し前に仕事は再び多忙になった。石油を入れるブリキカンに入った石灰や馬の蹄鉄などは運びよかったがなかなかつらい品物もあった。私共の隊は支那人を三人使用していたので彼等も私共と一緒に運搬した。その頃私は身体の調子が良くて働くことが愉快でたまらなかったので夢中になってやった。支那人三人も負けずにやった。彼らの中の一人は遙かに力があった。その日の品物の中には馬の栄養食でメリケン粉のようなものがあったがそれを運ぶと顔も手も服も真白になった。私の顔も化物のように白くなり、髪も髭も白い紙のようになった。仕事が終わってから一休みすると支那人三人は私の顔を見て笑い出した。しかし彼らの顔や身体だって私のに負けないくらい白くて、鼻や口さえわからぬ有様であったではないか。そこで私と彼らは顔見合わせてなんとなく楽しい気持になったことがあった。共に力いっぱい働いて滑稽なことが起こったからであろう。(つづく)

2019年3月14日 (木)

永井荷風『勲章』

『勲章』は永井荷風の代表作のひとつ。短篇である。短いからすぐ読み切ることができるが、もちろん代表作とされるような作品だから中身は濃い。荷風が通っていた浅草オペラ館の踊り子たちの大部屋での一コマが描かれている。

 書かれたのは1943年末、もともとは『軍服』という題だった。しかし内容からその時は発表することができず、発表されたのは戦後になってからである。

 江藤淳のエッセイ風の荷風の評論、『荷風散策 紅茶のあとさき』によれば、これは昭和13年(1938)に実際に永井荷風が体験したことをもとにしているという。荷風の日記『断腸亭日乗』にその記載があるとして、その部分が引用されている。

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 短い物語であるし、実際に読む方が良いのであらすじは書かない。ここにあるのは踊り子20人ほどが楽屋裏で談笑し、化粧したり待機する大部屋の極めて詳細な描写である。あたかもその場にいるような気にさせるのは、映像的なものばかりではなく、その匂いが感じられるからだろう。

 銭湯の脱衣場で感じる、人間の発する体臭を思い出してほしい。踊り子たちの肉体から発する体臭がこもった部屋の様子が実感されるのである。とはいえ私は女風呂の体臭を知らないし、ましてや踊り子の部屋にこもる匂いを知らないのだが、それが感じられるのである。

 この短篇は、そこに仕出しを運んでくる老人の話なのだが、軍服や勲章を冷徹に見つめる荷風の眼に厭戦を読み取ることも可能だろう。しかしそう読めば読めるように書きながら、そう読まれることを荷風は嫌うだろう。そんな気がする。その老人の人生は想像するしかない。その想像をほのめかしながら事実だけを書くことで、この老人は見捨てられた人ではなくなっている。

 この頃はまだ荷風散人の住まいである麻布の偏奇館も空襲に遭っていないから、そこから浅草まで通っていたのであろう。彼が発表しようとする作品は次から次に発表できないことになり、当然原稿の依頼も激減していた。税金の督促に会い、金銭的にも苦労していたからその鬱屈は大きかったのではないか。

 それでも前回取りあげた『浮沈』のように、発表できないのを承知で長編をいくつか書いていたのである。

映画『リディバイダー』2017年アメリカ・オランダ

監督ティム・スミット、出演ダン・スティーヴンス、ベレニス・マーロウほか

 リディバイダーって何だろう。そうか、ディバイド(分割、分配)に再びという意味の接頭語リがついているのだから、「再び分割する者」という意味か。というのは観終わってから気がついたことである。

 主人公のウィル(ダン・スティーヴンス)はもとNASAの宇宙パイロット。自分の妹とその幼い子供の面倒をみている。そのウィルは巨大エネルギー管理会社に、ある仕事を依頼される。それがリディバイダーの仕事なのである。

 ウィルの一人称的映像が主体で物語は展開していくのだが、彼の回想シーンと現実に体験していることが交互に繰り返されていくので、なにが起こっているのか最初はよくわからない。ちょっと意地悪にいえば、時系列に沿ってストーリーを展開すると設定の荒唐無稽さが矛盾として見えすぎてしまうから、このような方法をとっているのだろう。見ている方が勝手にストーリーを解釈してくれるからそれで好いのである。

 化石エネルギーが枯渇した近未来、画期的な無限のエネルギーを生み出すためにその管理会社が実施した方法というのが、この世界のエコーである世界、つまりパラレルワールドをつくりだし、その世界とのパイプからエネルギーを引き出すというのである。

 想定ではエコー世界は物質だけで生物は存在しないはずだったのだが、当然のことにそこには人間も生物もいるのである。エコー世界とつながったことで時空が歪み、やがて世界に亀裂が生じ、崩壊が始まる。

 その世界に送り込まれたウィルは再び二つの世界を分割するためにエネルギータワーを破壊するというミッションに挑む。それはエコー世界を抹消することに他ならず、さまざまな抵抗勢力がウィルを襲うのだが・・・。

 エコー世界が現実の鏡像世界であることなど、面白い面もあるが、この物語を納得するのは難しい。妹がしきりにアメリカに帰りたいとウィルに訴えるところを見ると、舞台はアメリカでは内容である(たぶんオランダではないかと思う)。どうして泣きながら妹がそれほど望郷を訴えるのか、それがどうしても引っかかっている。なにか見損なったものがあるのだろうか。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(6)

 私は杭州から長興までの街道をその頃トラックで行くよう命ぜられたことがあった。桃の花が街道に沿って咲き続いていた。紙の街とか筆の町とかいわれる湖州の石畳の上には春の埃が舞っていた。湖州には住民が増加していたが、街道には一人の農夫も見うけられなかった。湖州の○○○○病院から載せてきた負傷兵の一人は「なぜ百姓共はでてきよらんのじゃろう」といぶかっていた。遠くの山々は何処でも野火のため黒い煙を吐いていた。銭塘江のほとりに製氷所が作業を開始したので私はやはりトラックで氷をとりにでかけた。銭塘江の向こう岸には敵が充満しているのにこちら側は菜の花盛りで黄色一色の砂地の畑の水溜まりでは無数の蛙がコロコロコロコロと啼いていた。そのなのは菜畑の中に私は一人の物おそろしき農夫を見た。鬼婆というのはこんな顔をしているのかと思われるほど凄い顔で痩せさらばえ色はあくまで黒かった。春の川岸の物憂いような暖かさの中で、その農夫の眼の光だけは底冷えのするつめたさであった。その眼の光は私共の積み込む目の荒い人造氷よりは冷たいような気さえした。私は魯迅の小説に出て来る農婦が「地獄とはあるものかないものか」とたずねる絶望的な情景をその時思いだしたのであった。私は死骸には慣れていた。しかし生きている人々は依然として私には苦手であった。(つづく)

2019年3月13日 (水)

池内紀『ひとり旅は楽し』(中公新書)

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 旅行は誰かと行くに決まっている、と考える人は多いようである。そういう人はひとり旅をするつもりがない。ひとり旅というが、ひとり旅行とはいわない。ひとりで行くのが旅なのだとわかる。

 私は誰かと旅行にも行くし、ひとり旅もする。どちらも好きである。そのひとり旅の楽しさをいろいろな人に教えてもらった。フーテンの寅さんにも教えてもらった。森本哲郎師にも教えてもらった。そしてこの池内紀の本にも教えてもらった。

 この本が発行されたのは2004年4月、私の持っている本は6月の3刷、それからはこの本が私のひとり旅のバイブルになった。この本を読んだころはあと6年で定年(60歳)だったから、この本のような旅をしようと心に決めた。しかしその前に子供たちが成人したから、別に定年を待つ必要が無いことに気がついた。長期の旅は無理でも三日くらいならいつでもいけるのである。そのことに気がついたとき、身震いするほど興奮した。

 この本を読む人はひとり旅に憧れる人だろう。たぶんそういう人はこの本を読んだら感涙するはずである。ひとり旅の考え方、方法、そしてその楽しみ方は丸ごと真似をするのは無理だけれど、大いに参考になる。まねが難しいのは著者のひとり旅が達人の技であるからで、それは若いときからの交遊、旅先での蓄積があるからで、それは一朝一夕に追い付けるものではない。

 ひとり旅は人を繊細敏感にする。そのことをさびしいとだけ感じるのか、自分の殻が外れて、ものの見え方がなにかむかしの純粋だったときのような感性を取り戻せた喜びを感じるのか、その違いがひとり旅を楽しむかどうかの違いだろうか。

 この本のような旅をしたい、同じところに行ってみたい、と思うけれど、同時に自分なりのひとり旅をもっと突き詰めていきたいとも思う。

 私にとってバイブルだからたびたびこの本を読む。読んでいると無性にひとり旅に出かけたくなる。

映画『クロノス・コントロール』2017年アメリカ・スイス

監督ロバート・コウバ、出演ユリアン・シャフナー、ジョン・キューザック、ジャニーヌ・ヴァカーほか

 AIロボットの巨大企業の総帥エライアス(ジョン・キューザック)はこの世界から戦争をなくすためのシステム、「クロノス」を発動させると発表する。そして発動された巨大万能AIのクロノスが実行したのは人類の抹殺であった。人類こそが戦争の原因であり、地球に害悪をもたらしているとクロノスは判断したのである。

 エライアスはすでに自分の意識をクロノスと一体化していた。

 人類がほぼ死滅した地球上で一人の若者アンドリュー(ユリアン・シャフナー)が目覚める。彼には百年前の記憶しか無く、現在の地球の状態について理解できない。やがて出会った一人の少女カリア(ジャニーヌ・ヴァカー)とともに、どこかにあるという、生き残った人類たちのいる楽園「オーロラ」を求めて旅に出る。

 人間は見つかればロボットに殺される。まさに『ターミネーター』に描かれていたロボットの支配する世界である。そんな中で現在の事態を知らないというアンドリューというのは何者なのか。

 映画はアンドリューとカリアの視点から描かれると共に、人工知能と一体化したエライアスの視点からも描かれていく。そしてそこからアンドリューが実はエライアスに送り込まれたアンドロイドであることが明らかになっていく。

 はたして「オーロラ」は存在するのか、そこに彼らは到達できるのか。アンドリューははたしてどんな行動をとるのか。人類はついに破滅するのか。人類が排除された地球ははたして緑なす美しい地球か。
 
 エライアスはなにを目指しているのか。ただの破滅が理想の終末だというのか。

 なかなか面白いストーリーになりそうなところ、ちょっと出来損ないに終わっているように思う。なにしろアンドリューの能力が人間よりは高いとはいえ、少々能力が低すぎるのである。もう少し超人的でないと盛り上がりに欠ける気がする。つかみはいいのに。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(5)

 特に美しいのは西湖で会った。春が水をとりまく総ての自然の中から発生してくるようであった。湖心亭にはすでに春の鳥がきていた。枯れ草と緑の草、春の水と枯葉が共に春の陽の下で輝いていた。黒い水草の蔭の中で魚が冷たげに動いているのが朱塗の橋の上から見られた。博覧会の記念塔は黒ずんだ緑色をしてひどく無愛想に立っていたが、春の昼のけだるさの中ではそれも苦にはならなかった。湖心亭の壁にはかつて支那の遊客が書きつけたのであろう、さまざまの詩歌が読まれた。中には国事を憂憤せるものもあった。湖心亭の壁に憂いの歌ありぬ西湖の春は美しけれども、という歌を私もつくってみた。西湖周辺の小山に登るとすでに桃や梅が白く桃色にまたは紅に花を咲かせていた。或る小山の麓には日の当たらぬ湿地にかなり立派な石造の革命烈士の墓があった。ある別荘の芝生では番人の老人がひとり安楽椅子に寝て椅子をゆすっていた。私の上官である准尉はかなりの年の人であったが春の小山に坐って私に言うともなく自分に言うともなくつぶやいた。「早く平和がくればいい。杭州の山は蜜柑をつくるには持って来いだがねえ」。(つづく)

2019年3月12日 (火)

ドラマ『女川 いのちの坂道』を観て

 昨日が東日本大震災からちょうど八年ということで、テレビではさまざまな特集番組が組まれていた。震災のときに千葉県の九十九里の近くにいて実際の揺れの激しさを多少は経験したし、先般淡路島で巨大地震の資料も見、起震機で体験もしたので現実感がある。

 しかし地震で肉親を失った人の気持ちがどこまでわかるかというと心許ない。それがこのドラマを観ることで強く感じることが出来たように思う。ドラマというのはそれだけの力があるのだとあらためて知らされた。

 肉親を失うということは事実として認識していても、それを自分が心から受け入れて得心するまでに時間がかかる。それは自分が両親を亡くしたことで知ったことだ。あるときフッと、そういえば母はもうこの世にいないのだ、父はもういないのだ、と気がつく。初めてその時に心からこみ上げるものがあってその喪失感に打ちのめされた。

 震災で行方不明になったまま、何の手がかりもない人がまだ二千人以上いる。頭ではもう生きていないことはわかっていても、それを心では受け入れられないのは当然といえば当然であろう。ましてやその死に生き残った者として何らかの後悔を含むものがあればなおさらである。死者は生者を呼び続けるのだ。

 鎮魂の儀式はそのために必要なのだ。死者を悼み、生者を救わなければならない。

 女川には何カ所にも「いのちの石碑」という石碑が立てられているという。それぞれの石碑には心をこめたことばが書き記され、刻み込まれている。震災は必ずまた来る。その時にひとりでも死者を少なくするためのことばとして語り継がれるためのものである。

 ドラマに主演した平祐菜が素晴らしかった。この人、ちょっと小生意気に見えていたけれど、NHKの時代劇ドラマ『立花登青春手控え』シリーズでお千絵の役を好演していて好きになった。この役は、最初小生意気な少女が、次第に好ましい女になっていくという儲け役なのである。平祐奈の好いのは台詞が明晰であることだ。俳優は台詞が聞き取りやすいことが何よりである。

 好いドラマを観た。

映画『blank13』2018年日本

監督・斎藤工、出演・高橋一生、リリー・フランキー、斎藤工、松岡茉優ほか

 70分の短尺だが、長く感じた。長く感じる場合はたいてい面白くないからだが、この映画の場合はそうともいえない気がした。

 ギャンブル好きで借金だらけの父親(リリー・フランキー)のせいで母親と兄弟二人は、借金取りにおどされながらおびえる生活を送っていた。そんな父親がある日ふらりと出ていって、それきり帰ってこなかった。

 それから13年、母子三人が久しぶりに集まる。出ていったきりの父親がガンで入院しており余命があとわずかだという。兄(斎藤工)は一流の広告会社に勤め、弟(高橋一生)は警備会社に勤めている。父親の見舞いに行くのかどうか、三人は自分の考えを述べるのだが、誰も積極的に行くつもりがないことが分かり「何のために久しぶりに集まったのだか・・・」と兄はつぶやく。

 実は映画はその父親の葬儀の場面から始まっているのだが、その父親像を描いていくというのがこの映画の流れなのである。そしてそれぞれの家族にとっての父親像、そして葬儀に参列した僅かな人々の語る父親像が積み重ねられていくうちに、ある男の実像が浮かび上がっていくという映画なのだ。そしてそのことを通して家族というもの、人生というものをひとりでに再考させられるのである。

 葬儀に参列している弟の恋人(松岡茉優)のラストのほほえみが、未来に対する希望を感じさせて余韻は悪くない。高橋一生がとても好い。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(4)

 クリークの中の藻の色も緑色が現れ出していた。私共の隊は底の平たい支那の木の船を一隻持っていた。竹のさおでクリークに浮かべた船にのって街を見物することもできた。その頃から姑娘や子供たちが兵隊のもとへ遊びに来はじめた。子供たちは私共から氷砂糖や乾麺包をもらってたべ、捨てた煙草の残りを吸っていた。清代人の神のように鼠の尾の如く髪を結んだ四、五歳の子供も面白がって煙草を吸っていた。次第に暖かくなる日向で、私は何処から出てくるともしれぬ少年少女たちが仙人のような服装をして、達観したように嬉々として煙草を吸うのを驚異の目で見まもっていた。(つづく)

2019年3月11日 (月)

ボーダーラインのレッドゾーン側

 本日は朝からかかりつけの病院で定期検診の日。一週間ほど節制したが、いつものように体重が落ちない。目標よりも三キロ近く多い状態である。血液検査は正常値とのボーダーラインのレッドゾーン側に転げ落ちている。それなのに美人の女医さんは「まあまあですね」と寛大である。

しかし「体重が増えているのは感心しません。油断しないように」とひとこと釘を刺された。本日は雨降りのせいか、病院はいつもよりも少しすいていた。そのぶん診察もスムースであったが、隣の薬局ではいつものように待たされる。他の人も私も薬が多いからなあ。それでも結果的に早めに帰宅できたのはありがたかった。

 ところで病院では車椅子の人の割合がだんだん増えているような気がする。老老介護と覚しき二人が、かたやや車椅子に座り、片方が後ろから押している。二人とも車椅子が必要になるのは遠い先ではないかもしれない。そうしたらどうするのだろう。しかし他人事ではない。私の場合は押す人さえいないのだから。

 その車椅子が通路や待合室の椅子横に置かれるのだが、それが他の人の邪魔になっているのをしばしば見る。ちょっと置く場所と置く向きを変えるだけでずいぶん違うのだが、周りがまったく見えていないようだ。自分が他人の迷惑になっていることに気がつかなくなったら人生の黄昏時かなあ、などと意地悪く見ている。自戒しなければ。

映画『ファイナル・フェーズ 破壊』2018年アメリカ

監督M・サントロ、出演ロン・エルダードほか

 とにかく前半は観難(みにく)いのをひたすら忍耐しなければならない。なにが映っているのかよく分からない映像がつづいてイライラする。それらしいストーリーが始まると、主人公にまたイラつく。ラストへ盛り上げるための意図的なものであることは分かるのだが、それにしても最後まで見せなければこの映画を観たことにならないのに放り出す人が多いのではないかと心配する。

「神がわれわれを救わないのなら、われわれが神を創造しよう」というのがこの映画のテーマなのである。その神になるべく選ばれた男(ロン・エルダード)がまず誰にも好かれそうではない男だし、性格も悪いし、すぐキレる。もちろん理由があるのだが、彼が怒りに我を忘れるほどその能力がレベルアップしていくのだ。

 そして「ファイナル・フェーズ」に達したとき、彼の能力は無限のエネルギーを発揮し、彼は地球を救うのである。彼は神になるのである。奇妙な面白さがあったと認めざるを得ない。認めたくないけど。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(3)

 私どもの宿舎の応接間には暖炉があり、蝋燭型の電灯が赤く灯り、豪奢な椅子にふっくらとつつまれ、世界各地の音楽をラジオで聞くことができた。街には冬の異国の風が吹き、部屋の中には、かつてのこの家庭の豊かさを思わせる近代的な家具があり、垢にまみれた軍服で厚い絨毯のしいてある洋間に腰をおろしている夜は、またとなくロマンチックなものであった。春が近づくにつれ私はこの街になじんで行った。軍務が暇なときは私は近所の家々をのぞいてみた。○○廠の事務に必要な品物を集めるために隣近所の建物に入った。寝室には赤ん坊の絹の靴、姑娘(クーニャン)の刺繍のある靴、青年紳士の黒い靴などがころがっていた。酒の瓶や化粧品や鏡やタオルがどこにもあった。人のいない光線の入り方の少い閉め切った部屋の中に黄色や赤や緑色の品物が散乱しているありさまは異様な画のようであった。私は時たま南画の画集や拓本等を拾い上げて見た。悲しみも喜びもない墨で描かれたそれらの絵や文字が私に語るところは何であったろうか。私にはわからなかった。人のいない部屋の静けさのために、眼に入る部屋の姿の多様さのために私は自分自身を忘れるほどであった。(つづく)

2019年3月10日 (日)

固定電話

アポ電やさまざまな電話による詐欺が連日のように報じられている。それにしてもこれだけニュースで報じられているのに同じような手口に騙される人がいるのはどうしたことか。

 そういう私だってころりと騙されないとはいえない。相手は何百人の人間に電話をかけ続けて経験を積んでいるのであるから、受け答えはたぶん巧妙なはずだ。

 詐欺電話ではないが、以前勧誘の電話で二度ほど不愉快な電話を受けたことがある。あまりしつこいので腹が立ってちょっときつい言葉を返したら、突然やくざのような物言いにかわり、これから家に行く、と脅された。

 来るはずがないと無視していたら、私が留守のときに脅しの電話がかかってきた。それに出た子供がおびえたので、念のため警察に連絡しておいたが、警察は「ただの脅しですよ」と笑っていた。笑う話ではないのでそれにも腹が立った。

 ほかにも息子の友達という若い女からおかしな電話があったりしたこともある。昼間在宅していると、ほかにも投資や勧誘の電話がときどきかかってくる。断ってもなかなか切らせないしつこさにうんざりする。

 だからこの数年、固定電話には出ないで留守電にしてある。それなら固定電話は不要のようだが、携帯電話の番号はあまり不特定多数の人に知らせたくないので、友人知人以外には固定電話の番号を知らせている。本当に用件があるならば、留守電に伝えられる。めったにないけれど、ないことはない。

 昼間電話が鳴って、用件を言わずに切るものがときどきある。たぶん勧誘か詐欺電話だろうと思う。向こうも商売だから出ない先は飛ばしていくのだろう。お互いに時間のムダがなくて結構なことである。

 銀行などからのアンケート電話で自動でかかるものがある。これは留守電なのに延々としゃべっていることがある。バカではないかと思う。迷惑である。こんなふうだから、電話による市場調査や世論調査というのはあまりあてにならなくなっているのではないかと想像する。電話に出るのは詐欺に引っかかるようなお年寄りばかりで、お年寄りばかりにアンケートをとっても統計的に意味はない。

 匿名性を利用する商売はいかがわしいものが多いこと、それに固定電話が道具として使用されやすいこと、そのことを考えると、固定電話不要論はあながち暴論ではないだろうと思う。

恐竜が出ればジュラシックか

『ジュラシック・ユニバース』(2018年アメリカ)と
『ジェラシック・ユニバース ダーク・キングダム』(2018年アメリカ)という二本の映画を観た。監督や俳優をここに書く必要はないだろう。題名は似ているがまったく関係が無い。もちろん『ジェラシック・パーク』シリーズともまったく関係ない。日本で勝手につけた題名だ。

 ジュラシックとはいわゆる古生代のジュラ紀のことをいう。恐竜が最も栄えたといわれる時代である。しかし恐竜が出てくれば『ジュラシック・・・』と名付けて客寄せをする安易さにいささかうんざりする。どちらも典型的な三流(二流ですらない)カルト映画で、あまりお薦めできない。

『ジュラシック ユニバース』のほうは、そもそも恐竜は実物ではなく、バーチャルである。死刑が娯楽になっている近未来で、バーチャル世界で生き残りをかけて死刑囚たちが争うというお話だ。勝ち残った一人だけが無罪放免を勝ち取れる。『ハンガー・ゲーム』もパクっている。二本のうち、こちらの方が多少はましな出来か。

 何人も殺した極悪人の死刑囚のなかに一人だけ妻を殺したとして死刑判決を受けてこのゲームに参加しているのが主人公。そもそも冤罪の可能性が高くて物議を醸した事件らしいことが映画のなかで語られる。ラストはむちゃくちゃ。もう少しましな終わりかだがあるだろう。

『・・・ダーク・キングダム』のほうは、実際に秘密研究所で遺伝子操作により恐竜が再生されている。その研究所で凶暴な恐竜が逃げ出してパニックになるというお決まりのストーリーだ。実験のために人間の遺伝子も組み込まれているため、知性も備わっているらしいというから恐ろしいが、なにしろ冒頭から台詞があまりに陳腐で、その瞬間に「この映画はだめだ」と感じた。それでも最後まで観るのだから暇なことだ。

 この映画はアメリカ映画独特の「女はバカである」ということをとことん主張したいようであって、そのことにあきれ果てて、却ってどれほど女がバカとして描かれているかを楽しむことになった。恐ろしく自己中心的で知性も幼児並みの女性ばかりが登場して死んでいく。脚本家や監督はよほど女に恨みがあるのだろう。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(2)

 私が杭州の○○○○廠に配属になったのは一昨年の一月であった。上海のあのガランとした中山医院の宿舎から杭州の金持ちの別荘の建物に移ったので心持は新鮮であった。上海南市の宿舎からは殺風景な焼跡を我物顔に歩いて行く野犬の姿がすさまじく見られたが、杭州の宿舎の三階からは、美しい色さまざまな別荘の屋根が望めた。杭州の舗装されたアスファルト道路には枯れた街路樹が並び、西湖の鉛色の水を背景にしてその一本一本が形面白く眺められた。面白く枯木の曲り冬の湖、という句を作ったりした。われわれ輜重兵(しちょうへい)はトラックに薬品の梱包を積んで冬の風の中を立ったまま走り抜け、駅から街へ、街から川へと移動した。木炭製造の学校が湾に近くあるので我々は木炭をとりにトラックで出かけたこともあった。銭塘江近く紫色や茶褐色の荒々しい山肌が切り崩されたままになっていた。薪の山、炭の山が灰色の冬の風景の中に静かに置かれてあった。笹の尾とする繁みの蔭には読書人の住みし跡とも思われる庵があった。銃とりて炭を拾えば枯れ果てし杭州湾の竹に音する、という歌をつくった。(つづく)

2019年3月 9日 (土)

永井荷風『浮沈(うきしずみ)』

 さだ子という女の、人生の浮き沈みを描いた小説である。太平洋戦争が始まったころ、つまり1941年末ころに書き始めて翌年に脱稿したようだ。しかし時局は戦時である。このような小説は発表の場がなく、戦後になってようやく「中央公論」に連載されることになった。

 十八で栃木から東京に出て西銀座で女給としてはたらいていたさだ子は、良家の男に見初められてその求愛を受け入れる。その男の親類からは結婚を反対されるが、姑である男の母親には認められ、幸せな生活が始まる。義母からさまざまな素養を与えられるが、良人は病に倒れてあっけなく死んでしまう。たったあしかけ四年の幸せだった。

 物語はすでに婚家から去り、出戻りとして暮らす栃木の実家から良人の墓参りにやって来たところから始まる。さだ子は栃木の実家で気の染まない相手との縁談が進められたことに嫌気がさして東京へふたたび出てこようか迷っている。そんな彼女に駅で声をかけてきたのは何とその嫌っている求婚者の藤木だった。

 その彼を振り切って、彼女は東京でふたたび暮らす決心をする。頼る人のない女の独り身では働けるところは限られている。ふたたび喫茶店の女給として(その時代の女給という仕事はウェイトレスという意味だけではない)働くようになった彼女だが、小柄で、はかなげで、色白で美貌ではあるものの、おのずから持つ矜持のようなものが彼女を堕落させない。

 こうしてさまざまなひととの関わりが生じ、彼女の人生は転変していく。意外な行きがかりから嫌っていたはずの藤木の妻となるが、長くはつづかない。そして見かけ上は彼女は転落の人生を送るのだが・・・。

 彼女の矜持が最後は彼女を幸福にする。

 小説のなかに時局の様子が描かれているので、昭和10年代中盤過ぎの世相がとても良く分かる。それも楽しめる。

 永井荷風は初期の頃、自然主義の作家として評されてきた。そしてこの小説もそういう見方もできるけれども、どうも自然主義の小説という枠には収まらない永井荷風独自の世界観のように感じる。たぶん初期の『地獄の花』などは自然主義文学作品そのものなのだろう。読み比べてみるのも面白いかもしれない。

のんびりする

 深夜一時過ぎ、地震で目が醒めた。岐阜県美濃中西部を震源とする地震で、私の住処のあたりの震度は3だったようだ。地震の多い地区の人にすればなにほどのこともない地震だが、この辺では久しぶりのように思う。

 目が醒めてしまったので、弱い音量で音楽を聴いていた。どういうわけか、とても満ち足りた気分になった。そのままふたたび眠り込む。

 ここ数日スケジュールを細かく決めてムダのない生活をしてみた。たった数日なのにくたびれた。そういうわけで今日明日はのんびりすることにした。世のなかも休みである。チコちゃんに叱られるけれど、ボーッと生きるのは好きだし得意である。今日はなにもしなかったなあ、という日がときどきあっても焦る必要はない。そういう日があるからこそ、またなにかがしたくなるのだ。

『杭州の春のこと』(武田泰淳)から(1)

 気になる作家のひとりに武田泰淳がいる。気になるけれど小説はほとんど読んでいない。きちんと読んでいるのは『司馬遷 史記の世界』(講談社文芸文庫)と『評論集 滅亡について』(岩波文庫)の二冊だけである。どちらも繰り返し読むに足ると思っている。

 今般『身心快楽(しんじんけらく) 武田泰淳随筆選』(講談社学芸文庫)を手に入れたので読み始めた。すでに読んだ上記二冊に収められた文章もあるけれど、初めて読むつもりで読んでいる。

 その中の『杭州の春のこと』という、彼が日中戦争のなか(まだ太平洋戦争は始まっていない)で招集を受けて兵隊として赴いた中国江南地方のなかの杭州での話が書かれている文章に思うところが多かった。杭州は好きな場所で、公私にわたって少なくとも六、七回は訪ねているので、そこに描かれている景色を思い描くことができるような気がする。特に西湖周辺の景色は中国人の憧れの景色でもある。

 もちろん書かれた時代と現在とはまるで見える景色はちがうだろう。なにしろ古都(南宋時代の首都臨安)だった杭州も、いまは六百万ともいわれる人口を要する大都市になっているし、ITの一大拠点でもある。それでも戦前の杭州、それ以前の時代の杭州を幻視できる気がしている。それだけ杭州に思い入れがある。

 これから数回にわたって朝のブログはその文章を紹介したいと思う。ここから日中戦争とは何かということも多少はみえてくるのではないかと考えている。

2019年3月 8日 (金)

立ちくらみする

 昼食を摂って一息入れてから昨日につづいて散歩に出かけた。来週月曜日が定期検診日で、それに合わせて酒を控え、食事の量も控えめにしている。最近は花粉症が悪化しているようなので、あまり外へ出ていなかったのだが、運動不足を実感しているので数日前から天気のよい日には散歩している。汗をかいて体重を少しでも落としたい。

 昨夕のテレビで、名古屋地区に飛散する花粉の量は例年の同時期の三倍から四倍だという。いま杉花粉の飛散の最盛期で、あと一週間ほど飛散のピークがつづくそうだ。それで症状が激しくなっているのだろうか。その上昨日は風が強かった。激しいくしゃみがつづいて鼻水は出っぱなし。泣きながら散歩した。こんなことは今まで経験が無い。

 本日もそれを覚悟の散歩である。昨日ほどではないものの、泣きながら一時間弱の散歩を終えるころ、なんとなく身体がふらふらする。おかしい。早足で歩いて汗ばんだのでシャワーを浴びて着替えたのだが、立ちくらみ状態になった。倒れそうである。花粉症でこんなことになるのだろうか。

 そこで、はたと気がついた。低血糖の症状なのである。糖尿病の薬を朝と夜飲む。しかし夜の分が少し余っている。バカなことだが血糖値を下げるために昼にもその余っている晩の薬を飲んだのだ。緊急用のブドウ糖があるはずだが、見当たらない。あわてて甘い物を捜したが、いまは間食ができないようにしているので甘い物はないのである。

 思いついたのが蜂蜜。これを盃に少しとってさじで少しずつ舐めた。効果覿面。しばらくしたら何ごともなかったように復活した。薬は処方通りに飲まなければだめだと思い知った。

映画『脳男』2013年日本

監督・瀧本智行、出演・生田斗真、松雪泰子、二階堂ふみ、太田莉菜、江口洋介ほか

 首藤瓜於の原作を読んでいるのでこの映画の世界観はよく承知している。実はこの映画は封切りされてすぐに劇場で観ている。二階堂ふみの怪演が強烈に記憶に残る映画なのだが、WOWOWで放映されたので録画して久しぶりに観た。記憶していた以上の二階堂ふみの怪演であった。

 生田斗真は感情も意思も欠落し、苦痛も感じないという特殊な人間を好演している。ロボットのような人間なのだが、そのために特別な能力を備えている。とにかくこの主人公は表情があってはならないので、演じきるのは極めて難しいはずなのだ。だからラストシーンでわずかにそこに表情が表れるのが効いているのである。

 無差別連続爆破事件を追う刑事役の江口洋介は、監督の指示に従っているのだと思うけれど、やり過ぎである。オーバーアクションの演技は一生懸命にやると陳腐なコメディになってしまう。この人、しばしばこれがあるのでがっかりである。

 映画としては残虐シーンが多いのでそういうのが嫌いな人はやめておいた方がいいが、近頃はこういう極端なシーンがふつうに描かれているドラマや映画が多いからどうということはないか。

どうして寝ているときは・・・

 鼻水が止まらず、眼が痒くてたまらず、くしゃみも頻発する。花粉症かもしれないと思い始めて七、八年になるが、ずっと軽度で止まっていた。しかし今年はいままでとはちがってだいぶ本格的だ。

 ただ不思議なことに、外に出ているときと家のなかにいるときとでは、家のなかにいるときのほうが症状がひどい。まさか家の中にこそアレルゲン物質が多いのだろうか。空気清浄機をほとんどつけたままでいるのにどうしたことであろう。 

 それから、さらに不思議なことは、眠っている間はまったく症状がないらしいことだ。自分が寝ているときの様子を見ているわけではないが、それくらいは分かる。身体は起きているときと寝ているときとで反応が違うということか。それとも、そもそもこれは精神的な反応でもあるということなのだろうか。

 そんな風に甘く考えていたのだが、昨日強い風の中を散歩したら花粉の猛攻を浴びたのだろう。くしゃみが止まらなくなり、鼻水は出続け、涙も止まらない。持っていたタオルハンカチがぐしょぐしょになった。今年はだいぶひどいようである。今日はどうしよう。

2019年3月 7日 (木)

梅原猛『水底の歌 柿本人麻呂論(上)』(新潮社)

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 この本は昭和48年に出版され、私の持っている本は昭和50年の第九刷である。つまりそれだけよく売れた本、ベストセラーだったということだ。

 私が就職したのが昭和48年だから、まだ二十代のときにこの本に挑戦したのだ。以前紹介した『隠された十字架 法隆寺論』が面白かったから、私の最も苦手とする古文満載、しかもさらに苦手な和歌が多数引用されている本だが、勢いで読んでやろうと意気込んだのだろう。

 結果的に歯が立たずに、現代文の部分ばかりを読んで、なんとなく梅原猛のいいたいことを覗いただけに終わったのである。いま四十数年ぶりに再挑戦したのは、多少は古文や和歌になじみはじめたからもう少し読めるかと思ったからだ。

 実際にこの本の面白さは引用されている古文献の文章を読み比べることにあるようである。私の場合、現代文に比して古文を読むスピードは十分の一以下になる。この本を読み始めたのは昨年の暮れなので、足かけ四ヶ月かけての読了である。途中で放り出さなかった自分を褒めたい。それはもちろん読んで面白いからで、手柄は梅原猛にある。

 このあと下巻に着手する。多少は勢いが増すと思われるから五月か六月には下巻が紹介できるだろう。

 万葉集の柿本人麻呂の死に際しての歌、妻の歌、他のひとの歌の部分の解釈から、彼がどこで死んだのか、解析がはじめられる。そこには柿本人麻呂の死についての梅原猛のある仮説が秘されている。死の場所については石見国であることは記載されているが、その石見国のどこなのか、それには諸説ある。そして現在は斎藤茂吉の厖大な解析の結果である鴨山がほぼ定説にされている。

 梅原猛はこの斎藤茂吉の説をまず徹底的に分析してそれが誤りであると糾弾する。その鋭さは定説を前提にする人々にとっては不愉快そのものであろうと察せられる。梅原猛はあたかも国文学者達にケンカを売っているかのようである。彼等は斎藤茂吉の説になぜ懐疑を持たずに鵜呑みにするのかと。

 この上巻の前半はこの斎藤茂吉の解釈の徹底的な否定である。そして彼は彼なりの柿本人麻呂の死の場所の答えを呈示する。

 そこから一転、柿本人麻呂という人物の実像に迫っていく。読み進めていくと、これが背後に隠された梅原猛の仮説への誘導路であることが次第にみえてくる。ここでたたき台にされているのが賀茂真淵の柿本人麻呂の人物解釈である。賀茂真淵が文献を網羅して渉猟した結果として呈示した柿本人麻呂の生きた時代、その身分などがまず示され、それに対してその問題点を一つひとつ指摘していく。

 ここで興味深いのが、江戸期以降の実証的文献学的態度を梅原猛が強く批判していることである。文書で検証したもののみを正しいとしていくと、矛盾が生じてしまうことはままあることである。それを読み比べていくとこちらはどうもおかしいのではないか、ということが見えてくる。そしてそれをまちがいだと断定して矛盾を解消する。それでは古代という時代は見えないと梅原猛はいう。見えなくしてしまったのは、近代の彼等の読み方に誤りがあるからだというのである。

 その一見科学的に見える態度方法を強烈に批判するのである。まず懐疑を抱いたら、それぞれが矛盾がないような解釈をとことん考えないのか、というのである。いよいよ梅原猛の驚くべき仮説への扉が見え始めたのである。

 というところで上巻は終わり。さあ下巻はどういう展開になるのであろうか。

映画『My Country My Home』日本・ミャンマー

監督チー・ビュー・シン、出演ウィッ・モン・シュエ・イー、ヤン・アウン、アウン・イェ・リン、森崎ウィンほか

 たいへん好い映画だった。主人公のナン(ウィッ・モン・シュエ・イー)が、生まれて初めて父母の故郷であるミャンマーに行くのは映画の後半だが、そのときに彼女といっしょに感動するだろうなあと前半を見ているうちに予感していたが、予感以上だった。空港を降りてタクシーの窓からヤンゴンの街をナンの無垢なその眼で見ていくシーンでは、ただそれだけなのに胸に迫るものを感じてしまったのである。

 学生時代に政治運動をしたことでミャンマーにいることができなくなり、難民として日本にやって来た両親の娘として、日本で生まれ、日本で育ったナンはパティシエになること、そしてケーキ屋を開くことを夢見る少女である。母親はもともと心臓が弱くすでに亡くなっており、父親は小さなミャンマー料理店を営みながら男手ひとつで娘のナンを育てている。

 父親はいつか故国のミャンマーに帰ることを期しているが、ナンにはその気はない。そもそも自分がミャンマー人だという自覚もそれほどなく、日本人だと思っているのである。

 父親とナンの日常が描かれていくなかで、日本に滞在しているさまざまなミャンマーの人たちの悩みや苦労がひとりでにみえてくる。

 そしていろいろなことを知り始めたナンは、父とともに生まれて初めてミャンマーの親類を訪ねる決心をする。後半は母方や父方の親類宅に滞在しながらミャンマーという国の文化がひとりでにナンの心に響いていく。農村の風景があまりに日本の一昔前に似ていることに驚く。ミャンマー人としてのナンが目覚める。

 その過程が美しく描かれてウルウルしてしまうのである。本当に涙腺がゆるいなあ、自分は。ナンが自分の人生をあらためて見つめ直し、どう生きるかを決めていくシーンは思わず「頑張れよ」とこころでつぶやいてしまう。

 この映画はミャンマーのたどった苛酷な歴史を背景にしながら、自分の国をそれでも愛するということの意味を観ている私に問いかける。お前は日本という国を愛しているか?繰り返すがとても好い映画である。

大原騒動など

 NHKの『英雄たちの選択』という番組が好きで、リアルタイムはもちろん、過去の再放送も録画して好きな時間に楽しんでいる。ときに一度観たものでもまた観ることもある。

 直近のものは『大原騒動』がテーマだった。英雄はいないともいえるし、命がけで騒動のリーダーとなった人たちすべてが英雄であるともいえる。大原騒動は天領だった髙山の郡代(いわゆる代官である)、大原親子に対する百姓一揆で、あしかけ19年にわたる長期の闘争であった。明和騒動、安永騒動、天明騒動の三期に別れていて、最終的に農民側が勝利し、息子の大原亀五郎正純は島流しとなる(父親の彦四郎紹正はすでに病死)。

 三回にわたった騒動は、闘争の形態がそれぞれ異なり、その詳しい経緯は番組で紹介されている。郡代というのは幕府の任官であり、赴任するものであるから、世襲するというのは異常なことである。この異常なことの背景に金銭(いわゆる賄い)が大きく絡んでいたことが分かっている。ときはまさに賄賂横行の田沼時代だったのだ。

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 大原騒動については、あの朝市の場所の前の髙山陣屋に行けば、その一端を知ることができる。陣屋の蔵の中にその関係のパネル展示があるし、農民たちが拷問を受けたであろう白洲の場所でその当時のことを想像することもできる。また髙山の飛騨一宮水無神社にも石碑が残されている。

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 直接は関係が無いが、近隣である郡上でも宝暦年間に郡上一揆が起きている。ここでも郡上藩の当時の藩主金森氏が改易されている。私がしばしば立ち寄る白山長滝神社にもそのときの義民の顕彰碑が残されている。

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 千葉県生まれの私には、義民といえば佐倉惣五郎で、誰でも知っているが、ではどんな時代でどんな経緯だったのか知らない。ちゃんと調べておこう。

2019年3月 6日 (水)

雑誌と音楽の整理

 雑誌はむかしとちがってあまり買わない。買っても翌月には処分してしまう。雑誌を隅から隅まで読むのはけっこうたいへんで、読みたいところだけ読んだら用はないと思うことにしている。

 いま残っている雑誌のほとんどは、一昨年から集中して知識を仕入れるために購入したデジタル音楽に関連するものである。わけも分からずながら繰り返し読み、一部の機器を購入して少しずつセッティングしてみることで、一つずつ知識が追加され、いまはだいぶ解るようになった。

 そのような雑誌もすでにお役御免にして良いと判断したので、思いきって廃棄することにした。季刊の『ネットオーディオ』という雑誌の最新号とその前の号の二冊のみを残す。音楽雑誌、特に機器中心の雑誌に載っているオーディオの機器は、多くがとても手の出ない高価なもので、数十万円数百万円のものがざらである。

 私にはミドルクラスの、そのやや安めのものしか必要ない。目の毒である。そもそもそんなに大音量超高音質を必要としない。大豪邸に住んでいないし、聴きわける耳もない。自己満足できれば好いのである。それでもCDとハイレゾの音質の違いくらいはわかるようになったと自負しているが、思い込みかもしれない。

『ネットオーディオ』という季刊誌にはサービスの音楽配信が付録でついている。それが楽しみでもある。ジャズが多いが、高音質のハイレゾ音楽が何曲か、一定期間の間ネット配信会社からダウンロードできるのである。ずいぶんたまってきた。

 NASという、ネットワークで呼び出せるハードディスクにさまざまな音楽ファイルを放り込んである。CDも、特にお気に入りのものは『キュリオサウンド』というソフトでハイレゾ化して取り込んでいる。このNASのなかのファイルを系統化して整理した。

 AVアンプがネットワークとつながっていて、そこからこのNASに入っている音楽ファイルを聞くことが出来る。もう一系統は、寝室に置いたCDプレイヤーがUSBDAC付きなので、寝床のパソコンのネットワークからNASのファイルを呼び出してUSBでつないだCDプレイヤーから古いアンプを通して鳴らすことができる。

 ファイルを整理したら呼び出すのがとても楽になった。整理することは大事だ。いまのところたいした曲数ではないからいいが、ボチボチ溜めていくといまに収拾がつかなくなるところであった。

メディア抜きのソフト購入にようやく慣れはじめる

 本や音楽は、ソフトである内容と、それを収めているメディア(印刷物やレコードやCDのこと)でできている。本については本そのものに淫する性質が拭えないし拭いたくもないので、電子書籍にはまったく興味がない。そのことは一度ならず公言している。私は棚に並んでいる本しか本と考えられないのである。

 しかし音楽についてはe-onkyoなどの配信元からハイレゾ音楽をダウンロードするようになって、メディアのないソフトを購入するという、何とも頼りない行為をぽつりぽつりと重ねるているうちに、それにようやく慣れてきた。バックアップさえとっておけば消滅の危機はたいてい避けられそうだと思えるようになった次第である。

 情報は消滅することがあるが劣化はしないもので、消滅を避ける手あてさえしておけば永遠のものだということが、ザル頭にもようやく実感できるようになってきた。

味覚の劣化

 味覚の劣化というのは、要するにむかしから見て、飲み物や食べ物が美味しく感じられなくなったということである。

 ずいぶん前になるが、刺身を食べていて最初にそれを感じた。感激的に美味しいと思っていた刺身が、それほどでもないようになって、それは刺身に問題があると思ったのだが、さまざまなところでさまざまな刺身を食べているうちに、どうもこちらに問題があるらしい、としだいに気付かされた。

 こうしてつぎつぎに美味しいと思っていたものがそれほどでもなくなっていった。まずいと感じるわけではない。美味しさが半減したような気分である。なにを食べても、よほどのことがなければ美味しいと思えた私の超能力が無くなったのである。

 最も残念なのはビールである。この世にビールほどうまい飲み物はあろうか、と思うほどビール好きである。最初の一口と十杯目とが同じように美味しいのであるから幸せである。いや幸せであった。いまでも飲めばいくらでも飲めるけれど、それがむかしほどの感激的な美味さがない。これは糖尿病と痛風の持病対策に、自分でビールの味を減殺するように暗示をかけすぎたからかもしれない。

 味覚の劣化は人生の楽しみの減少につながる。最近は目で美味しさを感じながら、記憶で物を食べているところがある。まことに哀しい。だから最近は誰かと会食をしてもつまみをあまり食べなくなった私に、昔のことを知る友人知人は大いに驚く。人の三倍食べていたのが、いまは人並みの半分だから驚くのは当然なのだ。

 ところが唯一味覚が落ちないのが甘い物なのである。昔通りに美味しいままで、しかも歯止めがきかない。寿命が縮まる、と承知しながら我慢しきれない。甘さの方が劣化しにくい原始的な味覚なのだろうか。 

 食べる量が減っているはずなのに、体重がどうしても落ちないのはそのせいだろうか。

2019年3月 5日 (火)

眺めて喜んでいたものに手をつける

 個人全集を揃えはじめたのは、まず神谷美恵子の『著作集』全10巻補巻2巻(みすず書房)、ついで森本哲郎の『世界への旅』全10巻(新潮社)からだった。この二つはほぼすべて目を通している。特に森本哲郎の方はどの本も最低二度以上読んでいる。

 そのあとに梅原猛の『著作集』全20巻(揃えているのはそのうちの10巻ほど)を集めた。全部揃っていないのは、単行本ですでに持っていたものが多かったらだ。こちらは半分ほどに目を通していて、購入して30年以上経ったいまごろ、残りを読みつつある。いつか読了するだろう。

 大好きな池波正太郎の全集を揃えようかと思ったこともあるが、ほとんど読んでいないものはないし、たいていは単行本と文庫本の両方を持っていたので、さらに全集を揃えるのはやめにした。文庫本は出張のときに読むためのものである。

 他にも中途半端な形で棚にならんでいるものがいくつかあるが、個人全集としていまもっとも宝物としているのが、『安岡章太郎集』全10巻、そして永井荷風の『荷風小説』全7巻である。安岡章太郎の方は欠巻があったが、最近全部揃えた。そしてさらに奥野信太郎の『随想全集』全6巻・別巻1巻は昨年末に揃えて、ほぼ半分読み進んだところだ。

 実は永井荷風の方はほとんど読んでいない。第一巻の『あめりか物語』や『地獄の花』がなかなか読みこなせなくて、先へ進みかねていた。それでいつもの常套手段、最後の巻から読み始めている。いまは『浮沈』という、戦時中に書かれて戦後発表された中編小説を読んでいる。案外面白い。これは読了したら報告する。

 さらにいまは並行して安岡章太郎集の長編にチャレンジしている。全集の第8巻と第9巻は『流離譚』の上・下になっていて、彼の血脈である土佐の安岡家の江戸時代から幕末、そしてそれ以後のことが詳細に記述されている。さまざまな日記や古文書が多数引用されているので、なかなか読み進めないが、こちらも実に面白い。

 両方の全集とも、いままで飾ったままで眺めるだけだったけれど、ようやく手がついた。おまちどおさま。

 それなのに安岡章太郎の古い随筆集があるのを発見、全8巻をこれから揃えようと思っている。今年はこれらの本を読み終えることを中心に据えようと考えている。

 こうして公言しないと、途中で放り出しかねないので、あえて書いた。

活き活きとしていること

 容姿よりも活き活きとしている人に魅力を感じる。なに不自由なく暮らしているはずなのに精気の感じられない人がいるし、病いをかかえているけれど前向きの人もいる。

 女性はそのほほえみに違いが現れるように思う。計算でほほえんでいるようにみえるとき、その笑顔は痛々しいことさえあって、ときに目を背けてしまう。テレビで良くそういう笑顔を見る。すべてこちらの受け取り方の問題で、実は私が勘違いしているのかもしれないが、お近づきになることはまずないので分からない。

 活き活きしている人が魅力的なのは、こちらを元気づけてくれるからだろう。活き活きしている人はつきあっても楽だ。好き嫌いもそのへんが分かれ目になるように思う。

 声の張り、そして話す内容にもそれが現れる。否定語が多い人と肯定語が多い人の話では、相手の受ける印象がまるでちがうのだが、それに気がついていない人が多い。とはいっても、やたらに大声で無神経な感じがするのは活き活きしているのとはちがう。否定語がやたらに多くて、大声で相手を批判する野党の面々の語り口を見れば分かるだろう。

 自分が生きるのが楽になるためにも、活き活きと生きるように心がけるのがよいことを、ようやくこの歳になって分かってきた。愚痴にもユーモアが必要なようだ。

歴史認識

 現代の価値観で、過去の歴史に対して正義にもとづく判断をしてはならないことを、小学校のときに先生から教わった。そんなことをしていたら過去の多くのことが悪と断罪されてしまう。マルクス史観というのはそういう歴史観かと思うが、浅薄な知識しかない私の思い違いかもしれない。

 その時代にはその時代の価値感があり、歴史の必然性を理解するにはその時代の価値観を想像することからはじめないといけないと私は思う。その時代のパラダイムというものを認識せずに歴史を見てしまうのは、ドラマや映画ではないのだから間違っている。それでは科学的な「学」ではない。

 司馬遼太郎が時代小説、歴史小説というフィクションから歴史紀行の随筆にシフトしたのは、視点を現代からではなく、その時代に移してものを考えることのほうに意味を感じたからではないか。

 司馬遼太郎がノモンハン事件を主題に昭和という時代を書きたかったのに、ついに書けなかった理由がそこにありはしないか。現代に直結する歴史を、現代の価値観をなるべくぬぐい去って考えることの困難さが壁になったのだろう。昭和はまだホットすぎて善悪正義のるつぼのなかにある。しかも司馬遼太郎自身が体験した、日本陸軍という組織に対する空しさと怒りがそれに輪をかけているのである。それでは書けないのは当然だろう。

 それを自覚できていた司馬遼太郎はあらためて素晴らしいと思う。ひるがえって、私は韓国が日本に問う歴史認識を眺めている。そもそも韓国の歴史学とは日本や西洋のそれとはまったく違うのだと、先日韓国の専門家が言っていた。韓国の歴史学と称するものは、事実などどうでもよく、どうも韓国の歴史ドラマに似たものらしい。ある意味で彼等はいままさに彼等自身の神話を創造しようとしているのだろう。

 話がかみあわないのは当然なのだ。

2019年3月 4日 (月)

株の動向から愚考する

 ネットで「上海総合指数 アジアリアルタイムチャート」というのをときどき見て参考にする。何の参考にするのかといえば、投資家が現時点での日本や韓国や中国、その他アジアの国々の経済をどう捉えているのかを想像するのである。

 今回の米朝会談の前、低位で推移していた韓国の株価が大きく上昇した。米朝の間で何らかの合意が成立し、経済封鎖の一部が解除されるとすると、韓国から北朝鮮への支援が可能になる。そうなれば悲観的な状況の韓国経済が立ち直ると期待されたのであろう。アメリカの機関投資家の一部には、巨額の投資機会が南北朝鮮に生じる、などと予言するものもいた。

 ところがあに図らんや、何の合意も得られなかった。だからもとのもくあみ、韓国の株価も元に戻ると思ってみていたのだが、今日の昼過ぎ現在、大幅上昇と低位推移のちょうど真ん中あたりで下げ停まっている。

 これから私が想像するのは、まだ韓国には対北朝鮮に対して投資機会があるということではない。そもそも韓国の株は多くを海外の投資家が持っているという。それなら暴落はありがたいことではないに違いない。そのために下がりすぎないように支えている者がいるにちがいない。

 それならば支えているうちに少しずつ手放す動きが見られるかも知れない。徴用工問題の差し押さえは、新日鉄につづいて三菱重工の資産の売却まで始まるという。そしてソウル市では日本製品の公的採用を禁止していこうという動きが具体化している。これでは日本企業は韓国で商売するのはカントリーリスクが高すぎるとして、撤退できるところから撤退していくだろう。

 日本は韓国の反日行動に対して何ら対抗的制裁を加える必要などない。ひとりでに経済的な関係が縮小すること、それこそが制裁そのものではないか。そして韓国の遠くない時期に起きるであろう経済危機に、韓国に対して日本から援助の必要が無い状況が生ずるのなら、それは悪いことではない。

 何度かの経済危機に日本からの援助を受けながら、それを国民に知らせずにあたかもなかったかのようにふるまい続けた韓国が、新たな援助に限って感謝するなどということは考えられない。

 中国の株価が日本の株価と同様に上がり続けている。これは米中貿易戦争がいま小康状態であることを好感しているからであろうことは私でも分かる。最近は日本の株はアメリカの株価に対する連動よりも中国株に連動している、などと分析する人もいるという。

 インドや、シンガポールなどの東南アジアの株価もリアルタイムで分かる。経時的なものは見ることができないから継続的に捉えるならずっと見続ける必要があるが、経済音痴の私は、後付けだけでなく予測的に見られるようになりたいと思って参考にしている。

 ただし、このブログは昼過ぎに書き始めているので、そのあと株価は大きく変化しているかもしれないので念のため。

スケジュール好き

 テンションが下がると家の中が散らかる。やらなければ、と思うことが先送りされていく。やらなければと思うことがたまってくるとどこから手をつけていいか分からなくなるし、大事なことをし忘れたりする。

 そこで手元のメモ用紙に思いつく限りに書き出してみる。そうするとその優先順位がだいたいみえてくる。些細なことももれなく書いておく。そして片付けた順に赤ペンで消していく。些細なことを書いておくのは、消す楽しみ、片付いたという件数を増やすためである。ささやかながら達成感のようなものが得られる。

 たいてい一番やりたくないことが残る。残るけれどもいつまでも消せないのがいやだから取りかかる。やってみればいつかは片付くものだ。

 人生は些細なことの積み重ねで、神は細部に宿るともいうから、こういうことが大事なのだと承知はしている。それでもついおろそかになるのが哀しい。

 だからこそのスケジュール好きなのである。毎日メモ帳に本日片付けることを列記しておくというのは現役だった時代からの習慣だ。それすらやらない日が続くときは、自分の赤信号だと察知できるのである。

2019年3月 3日 (日)

長生きを祝福されない?

 韓国のいわゆる従軍慰安婦といわれるかたの一人が三月二日になくなったそうだ。これで今年ですでに三人亡くなり、残っているのは二十二人だという。

 太平洋戦争が終わってすでに74年であるから、そのとき20歳だとしても今年は94歳で、今回亡くなった女性も94歳だったと伝えられている。生存している人々も90歳を超えている人ばかり(それ以下なら計算が合わない気がするが、そういう人もいるらしい)であろうから、苛酷な人生を生きたにしては長命のかたばかりだ。

 慰安婦問題を政治運動にしている人々のなかには、純粋に人権問題の意味で活動している人もいるだろうが、それを労働組合の専従のように生活の糧にしている人もいるとも聞く。飯のタネが一人欠け二人欠けするのはいかにも残念なことだろう。生き残りのいわゆる従軍慰安婦の女性たちの長命を一番強く願っているのは彼等だろう。世のなかに自分が生きて必要とされるというのはありがたいことである。

 しかし慰安婦問題を歴史問題として政治的な材料に使われていることに内心で不快感を持つ人も多くいる。この問題が話し合いでは解決不能だということは、今回の日韓合意を破棄する韓国側の態度で明らかになった。解決してしまうと運動が停止する、それは困る、という力が働いたかのようにみえる。

 さすればこの問題の要であるいわゆる従軍慰安婦がいなくなることをひそかに期待する者もいるのは道理で、喜びはしないまでも「またひとり減った」と指折り数える人が少なからずいるわけである。

 長生きが祝福されず、指折り数えられているということを彼女たちが知ったら、どう思うだろう。たぶんうすうすは自覚しているだろう。生きていることを祝福されず、その死を待たれていると自覚することは、極端にいえば呪われているに等しい。そのことに心から同情する。

 彼女たちの心に平安を!

映画『アンデッド刑事(デカ)野獣捜査線』2016年アメリカ

監督ショーン・クラハン、出演キム・コーツ、タイラー・ロスほか

 犯罪が凶悪化して警察も手の施しようもないロサンゼルスの街で、不死身の警官オフィサー・ダウン(キム・コーツ)が大活躍する。手足をもがれても、銃弾を撃ち込まれても、爆弾で吹き飛ばされても生き返ってしまうダウンのすがたは血まみれでありながら笑いを誘う。

 映画は若い熱血警官ゲーブルの視点から描かれていて、その不死身の秘密も彼によって明かされていく。不死身であることは本人にとって幸せなことかどうか、この映画を観ると分かるだろう。なかなか苦労もあるのである。

 やがて暗黒街の首領たちは最強の暗殺者を送り込んでくる。この最強の敵というのが東洋武術を極めた連中ということになっているのだが、徹底的にそれをカリカチュアし、バカにしている。なにしろ黒人なのであり(アッこんな取りあげ方をすると問題視されるか)、しかも血も涙もなく、人を惨殺しまくるのである。

 その敵にとことん斬り苛まれて、ついに不死身の警官も再起不能になる。再生が不能になってしまうのだ。はたして悪が勝つのか?

 死んでも死なないというと、落語の『生きている小平次』を思い出す。林家正蔵(いまのいい歳をしてまだ人口乳首をくわえたままのような舌足らずの正蔵ではない。怪談が得意な八代目)が得意とした演目だ。殺しても殺してもまた生き返る。けっこう恐ろしい。それと平井正和のウルフガイシリーズの犬神明を思い出す。こちらも殺されたように見えても生き返る。なにしろ狼男なのであるから。

 究極のスプラッター映画は嗤うしかない。

『少年の夢 梅原猛対談集』(小学館)

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 対談集であるが、巻頭の小文だけは高校生向けに梅原猛が講演した議事録をもとにしたものである。梅原猛の生い立ちについて、そして彼がどういう志を持って成長し、なにを夢として生きているのかを語りかけている。彼は事情があって私生児ということになっていて、養父母は彼の実父の兄夫婦である。実父はのちにトヨタの技術幹部となる。

 この生い立ちが彼にはコンプレックスとなっていて、それを撥ねのけるために人一倍努力もしたし、人とも衝突してきた。自己顕示欲が強く、人に認められることをなにより強く願望する性格の背景にはこのコンプレックスがある。しばしば彼はコンプレックスのない人間は大成しないというが、そのことの意味が私には分かる気がする。

 この本が出版されたのは1994年、20世紀が終わるに当たって、それまでを総括し、来たるべき21世紀に自らがどういう哲学を呈示できるのか、それを対談のなかで模索しているようである。今年一月に死去した彼は、私の母と同じ大正14年(1925)生まれ。私の敬愛する森本哲郎と同年生まれ、この対談集のなかで触れられているが、三島由紀夫も同年の生まれである。

 宗教、歴史、科学、芸術を哲学的視点からとことん追求していく梅原猛の手法は、ときに妄想的に暴走をする。直感的な仮説をたて、それを前提に世界を構築し直す。そこに呈示された世界を了解するか否定するか、それは読者の自由である。ときに新たな仮説に展開してしまい、以前の仮説が否定されてあっけにとられこともあるが、そもそも仮説とはそういうもので、矛盾をひたすら減らすように訂正されていく過程はそのまま科学的手法といってよい。

 彼の言説を検証する知識も能力も無い当方としては、その考えを後追いして楽しむだけである。

 この本には15人ほどの各界の著名人との対談が収められている。対談相手ごとにさまざまなテーマが語られていて考えさせられた。彼は脳死臨調に加わって、最後まで脳死を人の死と認めないと孤軍奮闘しながら主張したことを思い出した。そのことも詳しく語られている。

 巻末が田中角栄の秘書だった早坂茂三と、田中角栄論、そして政治家や経営者のリーダー論が論じられていたのが異色で面白かった。編集者の註に、当初は梅原猛の田中角栄批判に早坂茂三が立腹して帰りかけたと記されている。

2019年3月 2日 (土)

帝釈峡(3)

雄橋がみえてきた。


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さらに近くまで寄る。

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自然の造形の不思議を思う。実物はもっと重量感にあふれている。是非一度訪ねてほしい。

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アーチの下に入る。左下。

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上、天井を見上げる。もっと実際は迫るものが感じられる。

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アーチをくぐり抜け、河原に降りる。

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こういう階段を降りた。雄橋の反対側の景色。

実は雌橋というのもあるらしいが、未見。

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雄橋の右手にこんな亀裂がみえる。遠い将来、崩れていくのだろう。

この先に魚返しの急流があって、そこまでは行けそうだが、神龍湖でのロスがあって時間がないのでここで引き返す。

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あの橋を渡って帰路につく。

この晩は岡山県の奥津温泉泊まり。津山の北にあるひなびた好い温泉である。ここは二度目、ここで宿の主人や同宿の他の旅人と語り合ったことはすでに書いた。

翌日は、雪もないようだから日本海に出てぐるりと北陸周りすることも考えたが、それでは帰るのが下手をすると夜になってしまう。歯医者の予約もしてあるので、もう一泊がかなわないのが残念だ。人形峠まで一度走ってみてから引き返し、中国道の東城インターから帰路についた。人形峠はまだ雪が残っていた。そういえば朝、出がけの車の窓ガラスは凍りついていた。やはり山は寒いのだ。

長々と旅の話におつきあい戴き、ありがとうございました。これにておしまい。

映画『トレイン・ミッション』2018年アメリカ・イギリス・フランス

監督ジャウムメコレット=セラ、出演リーアム・ニーソン、ヴェラ・ファーミガ、パトリック・ウィルソンほか

 元警官で保険会社に勤めているマイケル(リーアム・ニーソン)は列車で通勤している。いつも乗る列車が決まっていて、多くの乗客が顔なじみである。定年間近の彼は突然解雇を言い渡される。家のローンや息子の大学の学費など、いま職を失うことは彼にとって家庭が破綻してしまうことにつながる。

 そんな絶望的な気もちで乗り込んだ通勤列車で、向かいに座ったジョアンナと名乗る女が突然予想もしない話を持ちかけてくる。大きなカバンを持ったある人物が、終着駅に降りるはずなので、その人物を特定し、その人物かカバンに目印(GPS)をつけるようにしてくれたら、大金を提供しようというのだ。

 その手付けともいうべき大金が、女のいう通りの場所から見つかる。そのときにはもう女は列車を降りている。喉から手が出るほど金の必要なマイケルは、女の依頼を受けたことになってしまったことになり、必死でその人物を探し始める。

 マイケルの挙動を監視している人物がいるようだ。依頼者も探す相手が誰なのか分からないようである。元警察官だった能力を駆使し、マイケルは車内を奔走して、しだいに可能性のある人物を絞っていく。しかしどう考えてもこの依頼は異常である。

 やがて依頼者の期待とマイケルの行動に齟齬が生じ始める。そこへ驚くべきことにマイケルの妻と娘の命を引き替えに依頼を実行するよう脅しがはいってくる。マイケルはひそかに元同僚で友人である刑事のアレックスに連絡を取るのだが。

 マイケルがこの男ではないかと目星をつけた男に迫るが、反撃されて逃げられてしまう。そして意外なところからこの男の死体が発見される。そしてその男の身元は何とFBIだった。追い詰められていくマイケルだが、妻子の安否がはっきりしないうちは指令通りに動くしかない。

 やがて判明するこの命令の理由と探し求めている相手、その人物を助けるのか妻子を助けるのか。究極の選択を迫られるマイケル。さらに事態は乗客すべてに災厄として降りかかりはじめる。追い詰められたマイケルがとった行動とは何だったのか、そしてこの仕掛けをした張本人は意外な人物だったことが判明する。最後の対決が迫る。 

 なかなか面白かった。観終わるとすべてが伏線になっていたことが分かる仕掛けになっている。

帝釈峡(2)

二月の終わりとはいえ、ふつうなら季節はまだ冬である。しかし帝釈峡は寒いというよりさわやかな春の気配だった。


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日差しが柔らかい。風もほとんどない。

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張り出す枝に緑の苔が光る。

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雪が少なかったから雪どけ水も少ないのか。

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さらに渓流沿いの道を進む。

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石も陽に白く光る。

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澄んだ水、浅い淵。

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あの橋を渡ってさらに進めば雄橋はもうすぐだ。

2019年3月 1日 (金)

帝釈峡(1)

帝釈峡は広島県の東端、中国道の東城インターから近い渓谷である。ここも初めてではない。前回は左回りの県道23号線から帝釈峡に行ったので、今回は右回りに県道25号線から神龍湖に向かい、そこから帝釈峡を歩こうと考えた。前回は帝釈峡の三分の一のところまでで引き返しているので、反対側を見ようと思ったのだ。


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神龍湖。遊覧船があるらしい。

神龍湖のちかくは路が狭い。ダム湖であるからしかたがない。しかしそこからもっと先へ車で行けるものと思い込んでナビにしたがい狭い路に入りこんだら、車幅とほぼ同じ道が延々と山に続いていく道を案内された。

二キロほど進んだら小さな集落にいたる。そこが目的地とあるが、なにもないのである。帝釈峡など影も形もない。どういう手違いなのであろうか。日頃ナビにしたがわないことが多いから、いつもの嫌がらせか。集落の原っぱでむりやり向きを変えて神龍湖へ引き返す。

案内図を探して確認したら、神龍湖側からは2.5キロ以上の険路の山道を歩かなければならず、足に自信のない人はやめるようにとあるではないか。やめておくことにする。

しかたがないので東城まで戻り、前回の路を行くことにした。

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これは最後に撮った案内図。結局この図の左から行こうとしたが、右側からに変更した。図の下部、2500メートルの山道が真ん中にある。

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こんな川沿いに歩く。

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こんな割れ目があったりする。割れ目があると覗きたくなる。

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だんだん渓流らしくなっていく。

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しばらく行くと白雲洞という小さな鍾乳洞がある。前回見ているので今回はパス、というよりだいぶ時間を無駄にしたので急ぐのだ。

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自然にできた岩のトンネル。唐橋と称する。くぐり抜けられることは前回確かめてある。

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くぐったのは下側で、上側はまだくぐっていない。

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鬼の供養塔と名付けられた石柱。高さ10メートルもあるのだ。割れ崩れ残ったのであろうか。

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こういう石の橋が好き。この先に目的地の雄橋がある。雄橋まで出発点から一キロ足らずで、あまりアップダウンはない。

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ところどころにこの看板が立っている。どちらにしても遊歩道を歩き通すのは難しいのだ。

雄橋とその周辺の素晴らしい景色は次回に。

統計不正問題私感

 国会の予算審議をテレビで見ていると、野党は統計不正問題を突破口として政府責任を追及し、安倍退陣を目指しているようだ。安倍首相が統計不正を指示したと見做して、その責任を問うているらしい。

 安倍首相が本当にそんな指示をしたのかどうか。追求する野党の面々には自明のことらしいが、自明と思う人と、まさかそこまでしていないだろうと思う人といることだろう。

 安倍首相や、国会に呼ばれたこの件に関係する官僚がそれを事実と認めるはずもなく、追及する野党には追い詰める材料もなく、いつものように不毛の言い合いに終始していて、しばらくみているとうんざりしてしまい、見るに堪えない。私から見れば野党は印象操作をしているように見えるし、その印象操作にうんざりしてみせる与党は、野党のお粗末さに対する印象操作をしているようにもみえる。

 統計を不正に作成した場合には、法律に違反しているから罰則が科されることになっている。責任が重い担当者の順に可能な限りの厳罰を科したらよいのである。その要求を国会挙げて決議すれば済むことである。不正操作の指示をしていないと与党がいうなら、反対しないはずである。

 罪に問われれば、役人は跳び上がって驚くだろう。責任を問われないのが役人だと思い込んでいるからである。もし上司から指示があったなら、責任を回避するためにすらすらとその指示を明らかにするだろう。こうして誰が指示したのかがすぐ判明する。どうしてそれをしないのか不審に堪えない。官僚に責任を問わないというのが日本の行政に染みついた悪弊で、それを問うというのが与野党ともに発想にないのであろうか。

そういえば、民主党政権時代、民主党になれば官僚の責任を自民党時代よりも厳しく追及するだろうと期待したけれど、却って甘いようにみえた気がする。彼等も官僚とお仲間なのだな、と感じた覚えがある。

秋吉台

くしゃみが出る。鼻水が出る。眼が痒い。花粉症なのだろう。数年前からこの症状が出始めたが、さいわい生活に著しく支障が出るほどひどくならない。空気清浄機のフィルター交換や加湿ファンなどの掃除をした。フル稼動させている。


家の中が散らかりだしている。怠惰になって掃除が手抜きになっている。計画的に徹底的に片付けないといけないと、ようやく決心した。そのへんがいい加減だと、さまざまなところが緩んでくる。立て直さなければ。

さて旅の報告は秋芳洞の上、カルスト地形の秋吉台である。石灰岩のゴロゴロあるこの風景は、日本ではあちこちで見られるが、ここはその広大さが一望できる。

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野焼きをしたばかりのようである。むかし写真で野焼きの風景を見て、一度見たいと思っているが、見たいと思っている人は多いだろうから、そのときは混むのだろうなあ。

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見わたすかぎりの石灰岩がゴロゴロする風景。

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石灰岩は炭酸ガスを含んだ雨水に少しずつ溶けていく。

あの秋芳洞には地下の川が流れている。少しずつ溶けて洞窟はひろがったのだろう。地上の秋吉台の石灰岩が雨水に溶けて地下にしたたり、鍾乳石になっていくのだ。

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こういうところに一本だけ木が生えていると、なんとなく頑張っているなあ、などと思う。

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はるか彼方まで一面の石灰岩。これらが海底に積もった貝や珊瑚などの生物の死骸なのだと思うと、不思議な気がする。厖大な時間の蓄積を見ているのだ。

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風が強い。雨がぱらついたり晴れたりと、天気がめまぐるしく変わった。

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侵食が進むとこのようにだんだん尖ってくる。そういえば雲南省の石林はこの侵食の極端な風景で、秋吉台もいまにそうなるのだろうか。こんなに石があっては田畑に開墾するのは無理なのだろう。

このあと山口市の湯田温泉に向かい、中原中也記念館を訪ねた。駐車場は狭くて数台しか駐められないが、奇跡的に駐めることが出来た。

鈍感な私の精神が珍しく敏感になっていたので、中原中也の詩に今までになく感応したことはすでに書いた。写真は撮れないので写真はない。この晩は湯田温泉に泊まった。

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