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2019年4月

2019年4月30日 (火)

知ることと好きになること

 日々楽しみに拝見しているブログに、草花が写真とともに記事になっているものがいくつもある。草花が本当に好きなことがよく分かる。好きな人は草花の名前をよく知っていることにも感心する。好きなものの名前はおぼえることが容易で、知らなければ知るための努力も苦にならず、さらに知識は増すのだろう。

 今日は平成最後の日を、終日音楽を聴いてぼんやり過ごしていた。テレビなど見れば平成最後のオンパレードでうるさいばかりである。聴いていたのはBSから録画していたジャズやクラシックの特集番組である。BSの音楽はもちろんデジタルだし、AVアンプで音量を上げればいい音で楽しめる。画面は時々しか見ないで、画集や写真集を横に積んでそれを眺めている。

 自分が音楽にそれほど親しむとは自分でも意外であった。それもジャズになじむなどとは信じられない思いがする。聴きやすいスタンダードナンバーくらいは聴き慣れているから好いと思うが、最近は少しずつ聴くレパートリーが増えている。知れば知るほど好いなと思える。昔耳障りだった音楽がいまは心地よい。

 知ることは好きになることであり、好きになることが知ることにつながることかくの如し、といまさらに思う。まだまだ知ったら愉しめることがありそうだが、あまり手を広げると散漫になるし、時間も限られている。いまは他人が好いというものはたぶん好いものなのだろう、と素直に受け入れようと思っている。

 たぶん人間もそうなのだろう。しかしこれももう手を広げるのがいっそう億劫だ。
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言葉のインフレ

 ドラマや映画で、寅さんの台詞ではないけれど、「それをいっちゃあお終しめえよ!」というような言葉を投げつけ合うようなシーンを観る。私は意気地が無いから観ていていたたまれない。そんな言葉を投げつけ合ったらもう人間関係は破綻して修復が利かないのにと思うからである。

 ところがそれなのにけろりとして元の関係に戻っているのを演じて見せられると、嘘くさいとしか思えない。人生に何度か相手を傷つけながら自分も傷ついてしまうような言葉を投げつけることはあるかも知れないが、それが繰り返されることなど現実にはあり得ないと思うのだが、私が過敏に過ぎるのだろうか。

 もはや志賀直哉の私小説的短編小説の言葉の繊細さと重さを感じる時代ではないのだろう。繊細なひとは生き難い。感性の劣化した鈍感な時代が、言葉のインフレをもたらしている。いまやマスコミの語り口は見世物小屋の呼び込みの口上そのもののようである。
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2019年4月29日 (月)

親の教え

 まだ学生だったころ(大昔)、父に「お前は冷たいところがある」と遠回しに言われたことがある。話の成り行きがあって、そうかも知れないと自分なりに納得したが、その言葉がずっと心に重く残った。

 母にも「一度嫌気がさすと修復が利かない性格だ」と(これもストレートにではないが)ぼそっと言われたことがある。その意味がそのとき分からなかったが、それは人に対してのことらしいとだんだん分かってきた。たいていのことは我慢して笑って済ますが、ある閾値を超えるとぷっつり切れてしまう。母が「男は見切ってしまうと、それまで、というところがあるから怖い」と一般論で他のひとに語っているのを聞いたことがある。同じ意味のことを言っていたのだろう。

 思えば仕事をしていた四十年近くの間、ほとんどそのことを人に見せないようにするのはどうしたらいいか、試行錯誤の人生だった。そうして転職することもなくお粗末ながら勤め上げることが出来たのも、その親の教えのお蔭ではなかったかといまごろ気がついている。

 もちろん自分の地がでてしまい失敗したことはあるが、破綻にまで至らなかったのはさいわいだった。そうでなければいまごろはずいぶん違った辛い生き方をしていたかも知れない。
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映画備忘録(4)

『スリープレス・ナイト』2017年アメリカ
監督バラン・ボー・オダー、出演ジェイミー・フォックス、ダーモット・マローニーほか
 警察官がほとんどマフィアと同類であるような映画をよく観るが、たとえ誇張されているとはいえ、アメリカの警察は本当にこんな風なことが横行しているのだろうか。そんな刑事のひとりが身から出た錆でどんどん追い詰められていく。それをあたかも観ている私が追い詰められていくような気にさせてくれる映画。なかなか人生は都合よくおさまることなどないものだ。

『アクト・オブ・バイオレンス』2018年アメリカ
監督ブレッド・ドノフー、出演ブルース・ウィリス、ショーン・アシュモア、コール・ハイザーほか
 人身売買組織に婚約者を誘拐された男性が元軍人の兄とその友人にたすけを求め、組織に戦いを挑んでいく。君子危うきに近寄らず、ではないけれど、どうしてそもそもナイトクラブのような危険なところに近づくのか、そこでわざわざおかしな男に関わって自分を危険にさらすのか、私には理解できない。事件のきっかけを作った婚約者の女性の友人の話である。こういうバカ女がアメリカ映画ではおなじみである。戦う彼等をかげてひそかに助ける捜査官をブルース・ウィリスが演じる。今回はシリアスである。

『皆殺しの掟』2018年カナダ
監督ジェームズ・マーク、出演シャン・アイデン、フォン・チャンほか
 カナダ映画外れが多いが、格闘映画ならそれなりに観られるだろうと思ったが、やはり、の結果だった。ギャングのボスに育てられた二人の孤児は義兄弟だったが激しい訓練を課された格闘家としてのライバルでもある。跡目相続のことでその仲は決裂して殺し合う羽目になるという単純な物語り。つまらなかった。
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2019年4月28日 (日)

映画備忘録(3)

『ゼロの未来』2013年イギリス・ルーマニア・フランス・アメリカ
監督テリー・ギリアム、出演クリストフ・ヴァルツ、メラニー・ティアリー、デヴィッド・シューリスほか
 この映画で描かれている物語りを常識的に解釈しようとしても困難で説明も難しい。テリー・ギリアムの映画はたいていそうだ。それなのにとても面白いし、観た人それぞれの勝手読みが許されてかまわない映画だと思う。私のように面白いと思う人もいるし、さっぱりわけが分からない、つまらない映画だ、と云う人もいるだろう。ヒロイン役のメラニー・ティアリーがすこぶるチャーミングで好い。

『ラプラスの魔女』2018年日本
監督・三池崇史、出演・櫻井翔、広瀬すず、福士蒼汰ほか
 嵐と木村拓哉が出る映画は観ないことにしているのに、東野圭吾の原作を読んでそれなりに面白かったので禁を破ってこの映画を観てしまったが、観なければ良かった。この三池崇史という監督とも私は相性が悪い。映画のテンポ、特に台詞のテンポが嫌いだ。この映画は無駄な無言のシーンが多いのが特に不快。あの信号の両方赤の時間に似ている。このおかしなテンポはもしかして櫻井翔の台詞回しに合わせたのかも知れない。そのなかで広瀬すずだけは好演していた。
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喜多郎を聴く

 数日前、ブログ「伊豆からの便り」の伊豆爺さんの記事で、喜多郎のアルバムを聴いた話があった。かなり大がかりの本格的なオーディオ装置をおもちらしく、さぞかしいい音で楽しめているのだろうと拝察する。毎日のようにさまざまなアルバムが紹介されていて、なつかしがったり、自分も手に入れるための参考にさせてもらったりしている。

 喜多郎といえば私も昔LPを持っていたはずだが、手元にない。実家にあるかも知れないが行方が分からないし、いまはレコードプレーヤーもないから聴くことも出来ない。若いときからシルクロードに憧れ、NHKの番組の「シルクロード・絲綢之路」を楽しんだが、そのイメージはそのまま背景に流れていた喜多郎の音楽に重なる。

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 無性に聴きたくなってe-onkyoでデジタルの「シルクロード~絲綢之路~」、「シルクロード~絲綢之路2~」を購入した。

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 少し音量を上げて聴いている。目を瞑れば子供たちと訪ねた敦煌とその周辺の光景が脳裏に浮かぶし、昨年訪ねたウズベキスタンが思い出されて、身震いするような興奮を楽しんでいる。喜多郎を聴きながら、砂漠の砂の手触りと風に舞う煌めきを見た。
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2019年4月27日 (土)

平成最後の

 平成最後の年、平成最後の三月が過ぎ、平成最後の四月が終わりつつあり、平成最後の水曜日が終わり、平成最後の木曜日が終わり、平成最後の金曜日も終わり、平成最後の土曜日を迎えた。やがて平成最後の日曜日が終わり・・・。

 

 誰もが人と違うことを言おうとしながら、みな同じことを言う。
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もったいないが染みついて

 子供のときは、ものがそれほどふんだんになかった。ふんだんになかったどころか、わずかしかなかった。それでも両親からはわずかでもあれば良い、その前にはたいていのものがなかったのだからお前は幸せだ、といわれた。だからもったいないということばが頭に染みつくように育った。

 食べものは、すべて残さずに綺麗に食べる。いまは残す方が体に良いと分かっていても、出されたものはすべていただく。料理をつくるときもつい余分に作りすぎ、しかもそれを残さず片付けるから、体重が減るはずもない。

 タンスの中身を片付けていて、大量に処分するものがあるはずと思ったら思いのほか少ない。これからも着ることのないだろうものがどうしても捨てられない。もったいないが染みついているのだ。

 さいわいゴミ屋敷になるほどのこともなく、家のなかがもので溢れかえることがないのは幸いである。ゴミは嫌いだし、欲しいものを買いまくるほどの金がないのがさいわいしているようだ。ものよりもいまは空間の方が貴重だと承知はしているつもりなのだが、それでもものは減ることなく微増を続けている。
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2019年4月26日 (金)

けだるい春の午後

 本に淫していると本がいくらでも読めたりするが、そういう高揚した状態はなかなか持続しないで突然本が読めなくなる。

 気分転換に数独パズルや大戦略ゲーム、古い囲碁ソフトでパソコンとの対戦を楽しむ。簡単に解けたレベルの数独パズルが解けない。解くための手がかりを見つけるためのコツをなかなか思い出せなくなっているのだ。楽勝で勝てた囲碁で苦戦する。相手の打った手の意味をよく考えずに自分が打ちたいところに打ってしまう。だからつい「まった」をすることになり、まったをせざるを得ない状況になった自分に腹を立てる。

 集中すれば勘を取り戻し、旧に復するのだが、そうするとなんだか時間つぶしを無理にしているような焦燥感に駆られてくる。それでは楽しめない。

 こういうときは着替えとカメラを持って遠出をすればリフレッシュするのだが、まさに明日から十連休である。世のなかの人が動くときは宿もこみ、車も渋滞するから苦手である。

 子供たちは連休後半にやってくる。その前に散らかり放題の家のなかを片付けることにしようか。そう思いながら、ぎりぎりまでゴロゴロしそうな気がする。けだるい春の午後である。
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ツツジ

 朝、春雷とともに驟雨あり。それとともに気温が下がる。マンションの中庭のツツジは今が盛り。盛りを過ぎたあとのツツジの花に雨が当たると哀れな姿になるが、まだ元気である。


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 子供たちがまだ小さかったころ、ツツジの花を採って蜜を舐めて見せてくれたことを思い出した。友だちの真似だろうか。自分も子供のときにしたことがあるので、そのかすかな甘さと花の香りを思い出す。


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 世間は明日から連休。当方はその前から、そしてそのあともずっと連休である。
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良くない性格

 私は鈍感なのに、性格が悪いのか他人の間違いにすぐ気がつく。若いときはすぐそれを指摘するのでとても嫌がられた。間違えた人は、間違えようとして間違っているわけではないことが多い。多少のことは黙って見逃すのが大人であることは承知しているが、見過ごすのが苦手なのである。いまもその間違いセンサーは健在だが、数々の手痛い経験を経て、黙っていることはむかしよりできるようになった。何より面倒くさくなったのである。

 それでも黙って見過ごし続けていると、間違う人はたいていたびたび間違える。誰も指摘しないから間違いに気がつけないのだろう。指摘するのが親切というものだと思いながら、黙っているのもある意味で意地悪である。我慢が蓄積すると頭が熱くなってくる。私にとっては大変なストレスなのである。

 その間違いセンサーが自分にも働けばいいのだが、不思議なことに自分に対しては機能しないのである。自分を他人として見るよう心がけているが、そんなことはなかなか出来ないものだ。

 良くない性格だなあと思うけれど、自分が間違いを指摘されたときには、自分に腹は立つけれどそれほど相手には腹が立たないし、根に持つこともない。教えてもらってありがたいと思うように心がけてきたからで、そのことだけは自分にとって幸いである。もちろん場合によるけれど。
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2019年4月25日 (木)

『日本近代随筆選3』(岩波文庫)

 

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この選集は全三巻だからこれで読了である。

 好みの文章、好みの作家もあれば肌合いの合わないものもある。それでもさすがに精選されているから読みごたえがあって心に響くものがたくさんある。本を読むのが好きだという人ならこういう本を見逃すのはもったいない。もちろん本が好きくらいな人ならいくつかはどこかで読んだ、というものがあるかも知れない。

 志賀直哉の『城崎にて』を随筆として収めてある。何度も読んだ文章だが、読めば読むほどいい。城崎には何度も行っているし、この文章のなかの散歩道も知っているし、その文章を刻んだ石碑も知っている。峠の狭い路の傍にあり、車が停めにくいのでまだ写真を撮っていないが、いつか撮ろうと思っている。

 猫についての内田百閒や大佛次郎の文章もいい。この人たちは愛猫家という限度を超えているが、それが感情移入できるのはこちらも猫好きであり、同時にこの人たちの文章が優れているからでもある。

 巻頭の芥川龍之介の『大川の水』を読んで、たちまち芥川龍之介の全集を揃えてじっくり読みたい、と思ったが、いま読んでいる安岡章太郎や永井荷風や泉鏡花をまず読み終えなければならないし、そのあとに志賀直哉が控えている。たぶん芥川龍之介の全集はいつでも手に入るはずだから、当分古本屋の棚に預けておこう。

 酒に関する文章がいくつかまとめて収められている。小林秀雄の酒での失敗談は有名だから別として、面白いのは詩人の金子光晴の『酒』で、彼は下戸であると認めた上で、酒との関わりを書いていて下戸の酒についての思いが酒好きの私にはめずらしかった。

 食べものについての文章のなかに泉鏡花の『湯豆腐』がある。そのなかに

 

  紅葉先生も、はじめは「豆腐と言文一致は大嫌だ」  と揚言なすったものである。

 

と書かれていて、思わず口がほころんだ。先日、泉鏡花の文章を硯友社グループの戯作調、と評したばかりだからで我が意を得た思いがしたのである。誰でも読めば分かる事だけれど・・・。

 食べものといえば青木正児(あおきまさる)の文章も当然ある。中国の食べものはこの人の本で教えてもらった。故人についての文章では、森茉莉の『父の帽子』(もちろん森鴎外を語ったもの)は有名なもので、以前にも読んでいる。菊池寛の『芥川の事ども』は芥川の死についての菊池寛のさまざまな後悔や思いが込められていて胸を衝つ。

 これらの文章は折に触れてまた読みたいものばかりだ。時間はいくらあっても足りないが、人生には限りがある。

 

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報道の自由度

 数日前の台湾のメディアが報じていた記事によると、国際ジャーナリスト団体(本部パリ)が発表した昨年の報道自由度のランキングで、台湾は180ヶ国・地域中の42位だったという。これは前年と同じだそうだ。

 ちなみに日本は67位、香港は73位、韓国は41位、中国は177位だったという。

 中国の順位は自国民も異論の無い、当然といえば当然の順位だろう。香港の雨傘運動を主導して身柄を拘束されていた人たちが懲役刑を科されたというニュースが報じられていた。香港での報道の自由度はどんどん低下して中国に近づいているはずで、73位というのはその過程の数字であろう。

 日本がその香港とあまり変わらない67位であることについて、日本人はどう思うだろうか。そんなに低いとは思えないというのが正直なところではないのか。しかし日本のジャーナリストたちは正当な評価であると頷いているのかも知れない。これをもって権力が報道に介入することが多く、日本のマスコミは不自由である証明だと主張しそうな気がする。

 私にすれば、日本のマスコミは傍若無人、自由にやりたい放題であるように見えるが、それでも順位が低いなら、ほかの高順位の国々はもっと勝手放題に自由だということだろうか。

 このランキングを発表しているのは「国境なき記者団」の面々だそうである。しからばたちまち思い浮かぶのは、日本の記者クラブの存在である。既得権益にあぐらをかき、部外者を排除するのを不満に思う外国人記者が多いはずである。当局の発表を垂れ流し、仲間内ではなあなあ、外部には揚げ足とりの報道をするすがたを見れば、自由度が低いと判定するのは当然だ。大本営発表時代とどれほど違うというのか。

 それ以上に日本のマスコミに問題があるとすれば、厖大な使用禁止用語集にがんじがらめにされている自主規制こそ、自由度の低さの元凶ではないのか。差別をなくすという名目ではあるが、もともとある言葉を魔女狩りのように自主規制し、無意味で陳腐な言い換えをして、差別がこの世に無いかの如くふるまう。本音はただクレームが怖ろしいだけのことではないのか。おびえながら書く記事が自由であるはずがあろうか。

 私は日本のマスコミの自由度は確かに低いと思うし、それが外部要因だとジャーナリストたちが考えている間は、自由度が高く評価される時代は来ないだろうと思う。
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津島天王川公園の藤(2)

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藤棚の下で藤の香りに包まれる。藤が香ることをむかしは知らなかった。


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天王川というからむかしはちゃんとした川だったのだろう。立派な土手もある。その土手に上がって、上から藤を見る。


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下で見ている人は頭の上がこうなっていることは知らない。私も初めて上から見た。


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こんなふうにするとなんのお花畑かと思うだろう。


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土手の脇の八重桜と藤の花のコラボレーション。


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八重桜はちょうど満開。


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白い八重桜。


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散りツバキと藤の花。

満足して公園をあとにした。これで津島の藤はおしまい。
カメラバッグをかけている肩が異様にいたいし、体がだるい。どうも花粉症というよりも鼻風邪らしい。熱があるわけでも無さそうなので、安静にして早寝をすることにした。

 

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2019年4月24日 (水)

津島天王川公園の藤(1)

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津島の天王川公園の藤を見に行く。


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湖水の睡蓮はまだ眠りについたまま。赤い橋の向こうの島にも藤棚があるのだが、まだほとんど咲いていない。


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屋台店がぐるりを囲む広場で子供たちがお弁当を食べていた。


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こういう元気のいい子もいる。


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藤棚に到着。ここの藤は少ししか咲いていない。それでも藤のいい匂いがはっきりと香っていた。


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藤棚の下に入る。とても広いのである。


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藤棚を見上げる。


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よく咲いているところを捜す。そういうところで子供たちが写生していた。


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藤棚になっていない独立の藤の木は咲くのが早い種類なのか。


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ここは満開に近い。


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もう少し見物する。

 

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タンスの肥やし

 私は衣装持ちではない。だから着ていくものを選ぶのに悩むこともあまりない。そんな私の衣類を入れているタンスの引き出しが満杯なのはどうしたことか。十年以上着たことのないものがたくさん場所をふさいでいる。いつか着ると思っているのは錯覚で、いままで着ないものはこれからも着ることはない。ビジネス用の靴下など、背広を着ることはほとんどないし、背広もほとんど処分済みであるから不要である。新しいのが二つ三つあれば十分か。

 もちろん捨ててから、あああれがあれば、と思うのはしばしばあることで、そのためになかなか安易に捨てられないのだが、そういうことはありそうで案外ないものだ。それさえ覚悟すれば、いらないものはおのずから区別できる。

 今日は終日雨だという。タンスの中の衣類を、捨てるものは捨てた上で、もう少し分別をきちんとし直して一日遊ぶことにしようか。そういえばタオルも百年分位たまっている。なにかでもらうタオルが長く生きているとこんなにたまってしまったのだ。母の介護用にせっせと運んで使ってもらったのに、まだたくさん残っている。これはもったいがらずにどんどん使って使い捨てていくしかないか。

 捨てることを楽しむようになれれば人生の終末への覚悟も楽になるかも知れない。

 

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津島神社(2)

有名な津島天王祭の提灯の山車などのミニチュアが神社内に飾ってある。


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その前で係の人が詳しく説明をしてくれていた。山車の提灯に灯が入っているので綺麗である。いつもは灯は入っていないから、今年からそうするようになったのか。


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左手の飾りの上部はカラクリ人形になっているらしい。

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かぶさるような大樹が新緑で美しい。


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こういう色合いはなんともいえず美しくて気持ちが落ち着く。


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境内を出たところにある脇社(菅原社)には与謝野晶子の歌碑がある。


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大きな石が三つあって「三つ石」と札がかかっている。神社発祥のころからあるらしく、どこかから持ち込んだと思われるらしいが、何に使われたものか分からないようだ。巨石というわけではないが、大きな石にはそれなりの力があると思われたのか。


こちらから神社をあとにすると天王川公園まで五分ほどでいける。公園の藤棚は更にそのずっと奥になる。
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2019年4月23日 (火)

津島神社(1)

 けんこう館様のブログを見て、藤の花を見に行きたくなった。このごろは江南の曼陀羅寺と津島の天王川公園の藤の花を交互に見に行っている。去年は曼陀羅寺だったので、今年は津島にした。

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津島の駅を降りてまっすぐ行けば1.5キロほどで津島神社である。約15分。スマホへの切りかえに出かけた昨日から、再び花粉症が再発。花粉症なのか鼻風邪なのか分からない気怠さがある。ちょっと歩くのが大儀だったが、このごろは散歩をするので、ひところよりは歩くのは少し早くなっているようだ。神社の手前に大銀杏がある。この大銀杏は参拝客の宿坊の前にあったそうだが、いまは宿坊は跡形もない。

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大銀杏の根方に可愛い花が咲いているが、例によって名前は知らない。


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大銀杏の場所から赤い鳥居が見える。
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参門前。藤まつりの旗が風に靡く。


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拝殿奥の本殿を横から遠望する。


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神様の渡る橋。


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境内に入っていろいろ見て回る。
(つづく)
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よく分からないとイライラする

 昨日予約を入れていたショップに出かけて携帯をスマホに変更した。キャンペーンでタブレットが格安だからと勧められ、モバイルルーターからの切りかえのかたちでこれも購入。スマホやモバイルのハードもすべて分割支払いにしたが、それでほとんどいままでのしはらいとかわらないという。

 手続きや設定に二時間以上かかったけれど、データの移行もセキュリティの設定もすべて優しいお姉さんがやってくれたので、助かった。

 持って帰っていろいろいじっているのだが、まだ操作がよく分からない。よく分からないとイライラする。みなスイスイと使いこなしているらしいのだから、分からないのは自分が悪いのだと承知しているが、そのことこそがいらだたしいのだ。自分はそこまで馬鹿ではないはずだとうぬぼれているけれど、実は馬鹿かも知れないと思い知らされるのが口惜しい。

 一つひとつ新しいことを知って、それを元にまた新しいことを知る。その積み重ねしかないのだろう。

 キャッシュレス時代がやってくるのは必然のような気がする。昨日、『欲望の資本主義2019 いつわりの個人主義を越えて』というNHKBSのドキュメントを観た。スマホをいじりながらだから中途半端にしか見なかったけれど、貨幣というものの本質と資本主義について新しい見方を教えてくれていた。それが正しいのかどうか分からない。

 しかし貨幣は信用というものに裏付けされていて、その信用が損なわれるか、それ以上に信用される仮想通貨が市場で流通し始めると、ついにはいまのドルが基軸通貨であることによる経済体制が崩れだし、それがアメリカそのものの権威を失墜させていくかも知れない。世界は変わるだろう。

 中国では田舎でもキャッシュレスが日常に普及しているのを目の当たりに見た。自分の経験でも、プリペイドスタイルであるが、いまいつも行くスーパーではカード支払いなのでとてもレジがスムーズである。世の趨勢に置いて行かれないように、スマホによるキャッシュレスの支払いになれておきたい、というのが実は最も大きなスマホへの変更の理由である。とはいえ、いまは何をどうしたら良いか分からない。

 頭が熱くなってきたから、まだ早いと思うけれど津島の天王公園の藤の花でも見に行こうかな。何しろ明日から三日ほど雨らしいし、そのあとはもう十連休である。人が多すぎるのは苦手である。
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安岡章太郎『流離譚』(岩波書店)

 全集の第八巻、第九巻がこの『流離譚』の上巻下巻になっている。全部で1000ページをかるく越えるというこの長大な歴史小説をようやく読み終えた。

 土佐高知の安岡家に残された日記などの資料を基に、そのときどきの歴史的な出来事の資料を著者なりに渉猟して書き上げたと巻末に後記として記されている。もともと時代小説も歴史小説も書いたことのない安岡章太郎であるから、その苦労は並大抵ではなかったことであろう。

 この小説では安岡家という窓から土佐藩の幕末、そして明治以降の歴史が描かれていく。前半は土佐勤王党がメインテーマ、そして瑞山武市半平太の切腹で一区切りがつき、それ以後は戊辰戦争、そして会津戦争での土佐藩の兵士達の行軍と戦いが詳細に語られていく。前半から中盤にかけての主人公ともいうべき安岡覚之助は会津戦争で戦死する。

 ほぼ壊滅に近かった土佐勤王党も生き残りはいたし、また勤王党ではないが板垣退助を初めとする多くの人々が自由民権運動に身を投じていく。その自由民権運動がどのように弾圧されていったか、どうして土佐が自由民権運動の中核となったのか、それらが語られる。

 そして四家もあって豪壮だった安岡家がそれぞれ消滅したりかろうじて残ったり、流離したか、それが語り尽くされたとき、安岡章太郎本人のルーツが分かる範囲でほぼ語り尽くされるのである。

 ある一つの「家」を中心に据えて、敢えて私的に歴史を語ることでそこに現実感のある歴史が浮かび上がる。これこそ安岡章太郎の得意とする手法である。素晴らしい小説を読み終えた感慨を持って本を閉じた。
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2019年4月22日 (月)

ブログ

 ココログがリニューアルする前は、拝見したブログにいいね、とポチッとをするようにしていた。どうしても意見に賛同できないときや意味が理解できないとき、それに長すぎてきちんと読めなかったときはポチッとだけにすることもある。

 リニューアル後に、いいねのボタンもポチッとのボタンも簡単に設定できなくなって、ほとんどの人がどちらのボタンもなくなったままである。私はいろいろ教えてもらった方法を参考にして、なんとかポチッとのボタンだけは貼り付けることができるようになった。これらのボタンが昔のように簡単に取り付けられるようになるのかどうか、いまのところなんの案内もないので分からない。

 あなたのブログを読みましたよ、というしるしがポチッとであり、いいね、だったのにそれが不備であるのはまことに残念である。ブログ名しか存じ上げないけれど、日々ブログを拝見すればだんだんそれなりのイメージが定着して親近感が湧くというものである。そのささやかな交流こそブログの楽しみだと思っていた。

 いまはしかたがないので、ポチッとのボタンのある人には読んだら必ずポチッとを入れる。そして記事は記事として読むけれど、自分にポチッとを入れてくれた人たちには記事があってもなくても毎日ポチッとを返すようにしている。ある意味でのご挨拶である。

 面倒がらずにポチッとをいただければ、必ずお返しをすることをお約束する。出来れば以前のように簡単にポチッとといいねのボタンが設定できるようになるとありがたいと思っているのは私だけではないだろう。
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正論

 正論と書いてセイロンを、つまりスリランカのことを思った。ひどいテロである。日本人の死者も出たらしい。このことはいまは置いておく。

 ノートルダム大聖堂の大火による尖塔焼失は歴史に残る惨事だ。復旧を願う人は多いし、フランス政府も迅速に再建を目指すと表明している。寄付がたちまちのうちに集まったというのも、それらの人々の思いが強いことの表れだろう。

 毎週末恒例のフランス全土のデモでは、この寄付に対しての批判が主な主張として取りあげられていた。貧困な人が救済を待っているのに、建物の修復に優先的に金が使われるのは間違っているという。建物と人間とどちらが大切かと問うのである。人間が何より大切であるというのが前提であるから正論である。正論には反論することが難しい。

 古来貧困を減らすためにさまざまな方策が講じられてきた。しかしその貧困がなくなったことはいまだかつて無く、減ることはあってもこれからもなくなることはないだろう。しからば永遠にノートルダム寺院の再建は後回しにしようということを彼等は求めていることになる。あれもこれも、というわけで、貧困対策にも手厚く、同時に聖堂再建もせよ、というのは、いまのフランス政府の財政から見て出来ぬ相談だ。それなら増税するしかないが、増税に強硬に反対するのはいま正論を語る人たちであることは目に見えている。デモで騒ぐ名目はますます増えて意気はますます盛り上がることだろう。

 いささか揚げ足とりの意見になったが、こういう正論を見聞きするとちょっと腹の虫が騒ぐのである。
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複合したら

 先日散歩中、病院のそばを歩いていて、側溝の金属格子のところでかすかに異臭がした。下の排水からたちこめてきたものだろう。異臭そのものはたいしたことはないが、鼻と喉に刺激を感じた。塩素などを吸いこんだような不快な刺激である。たぶん普通の人には気にならない程度だろうと思うが、私はそういうものに敏感である。

 その話はそれだけのことだが、陽気が好いのでベランダなどの窓を開け放して外気を入れている。風向きによって流れてくる空気のなかに、たぶん虫除けに下げているのだろう、あの嫌虫剤の臭いが強くする。私も網戸を直さないで横着をしていたときに、その嫌虫剤を下げていた。その刺激でなんだが鼻や眼や肌に違和感を感じだしたので、網戸を直すことにした。

 これも人体に無害であることが検証されているから市販が許されているものだろう。それでも刺激を感じる人もいる。敏感な人は標準の人ではないから除外されているのだろう。

 消臭剤、防臭剤、抗菌剤、殺菌剤などが生活を快適安全にするためにふんだんに使用されている。必要を感じていないひとに対しても勝手に添加されている。それぞれはもちろん人体に無害の検証はなされているはずである。

 しかし明記されて承知しているものばかりでなく、さまざまな化学物質がわれわれを取りまいている。プラスチックだって添加物なしにはうまく作れない。可塑剤は必須だし、静電気防止剤などが練り込まれていることもあるだろう。それらは無害なものを無害な範囲で使用されているはずであるが、すべてが複合したらどうなるか。

  そんな検証はたぶんされていないし、どう複合されるか分からないものを試験することも出来ないだろう。
 
 アレルギー疾患の子供がむかしよりずっと多くなっていることも、花粉症がこんなに誰もが苦しむようになったのも、このような複合的な化学物質に曝され続けるという人体実験の結果ではないかと、化学屋の癖に、いや化学屋だったからこそ責任も感じるし、不安もおぼえている。次世代、次々世代の子供たちはさらに大変だろう。
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2019年4月21日 (日)

ニュース雑感(2)

 韓国中央日報が「韓国の大企業比率が0.09%でOECD加盟34ヵ国のなかで33位とほぼ最下位である」と報じていた。韓国よりもGDPの少ない国よりも低いことを強調していたから、大企業比率が低いことを残念に思っているのだろうか。しかしこの統計は件数での比率である。金額だったらどうだろう。だれでもそう思うところだが、記事では「大企業比率が中位圏の国並みに高まれば大企業が増えて雇用も創出されるだろう」と結んでいる。

 記事を書いた記者は何が言いたいのか理解に苦しむ。韓国の大手企業といえば財閥企業であり、その財閥企業の売上比率はどこの国に比べても異常なほど高い。だからこその件数での比率の低さとなるのである。大企業である財閥をもっと増やせというのか、それとも財閥を解体して大企業の見かけの件数を増やせというのだろうか。どちらにしても雇用が創出されるかどうか疑わしい。

 テロをするにも金がかかる。背後にいる組織に誰が金を供給しているのか。むかし北アイルランドの紛争時代に金持ちなどからの寄付金がふんだんにテロリストに流れていたというドキュメントを観たことがある。ISなどでも案外そのような金がどこかから供給されているらしい。

 テロによる惨禍を知りながら、そのような寄付をする人間は何を考えているのか、それが不思議でならなかったが、自発的な寄付ばかりではなく、家族や本人の身の保全をひきかえの金の強要も多いのだという。もし金を出さなければ息子を、娘を誘拐するぞ、殺すぞ、と脅されれば、払わざるを得ないことも大いにあり得るだろう。不思議なことの裏に、こういう脅迫が絡んでいることは案外多いのかもしれない。無名であること、財産もないことは時に幸福なのか。

 鳩山由紀夫元首相が「日本がすべて悪い、日本は謝罪し続けなければならない」と、韓国や北朝鮮のスポークスマンのような言動を繰り返し、それらの国から高く評価されている。およそまともな日本人ならいわないことで、いやしくも自分が首相を務めた国を悪者扱いするのは異常であり、理解に苦しむ。理解できない言動を繰り返すのは狂人といわれかねないのに、どうして鳩山由紀夫はこんな言動を続けているのだろうか。

 そこで、はたと気がついたのが、そうせざるを得ない理由があってのことかも知れないということである。今回も北朝鮮から彼を「高く評価する」と賛辞が寄せられているそうだ。金正男の暗殺だって強行した上にうやむやにしてしまう国である。それを見せつけて脅されれば言いなりになるしかないだろう。そう考えると文在寅の異常な言動もそれかも知れないと思ったりする。

 さはさりながら・・・。 
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不安

 夢を見て不安になったのか、不安だから夢を見たのだろうか。

 いつものように夜中の二時頃一度眼を醒ます。年寄りに特有の夜中のトイレというわけではない。ビールを飲み過ぎてでもいない限り、トイレに行きたくて夜中に目覚めることは少ない。ただ、ここで起き上がってしまうともう眠れなくなる。今回はそのまま何もしないままでいたらうまくまた眠りに入ることができた。

 いつも国内の旅行に一緒に行く兄貴分の人と、私の車で遠方の知人を訪ねた。その知人が誰だったのかが思い出せない。訪ねるまでに何度も不手際があり、兄貴分の人にたしなめられ続けた。知人の家に泊めてもらうことになったのだが、そこでも勘違いによる失敗つづきだった。さてようやく翌日帰ろうとしたら自分の車が見当たらない。駐めておいたのがどこかも分からない。兄貴分の人に「何をやっているんだ!あそこに駐めたじゃないか」と強くいわれてハッと目覚めた。

 夢を見ていたのである。完全に認知症の症状を呈している自分を見ていた。その怖ろしさ、不安は今まで経験したことのないものだった。たぶん実際に認知症になったひとは、このような怖ろしい思いをしているのだろうかと思う。

 あの池袋の暴走事故に、最近の物忘れや粗相などの自分自身に対する不安が励起されてこんな夢を見たのだろうと思うが、悪夢とはこれかと思うような夢だった。

 こんな状態での運転は危ないと言う自分を見た。夢による自分自身への警告であろう。六年前の事故以来運転には必要以上に慎重を期している。いまのところ危ない思いをするようなことは起きていないが、あらためて兆候を感じたら即運転をやめることにしようと心に決めた。
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ニュース雑感(1)

 文在寅大統領が、憲法裁判所の左派系の裁判官の任命を強行したと報じられている。保守系野党などは「左派独裁の強行」だと強く反発しているそうだ。そういえば日本に、そして世界に「自分は司法の独立を尊重しているので、裁判結果には介入できない」と公言していたのは文在寅大統領ではなかったか。結果には介入できないが、判決をする裁判官の任免には介入できるのが、文在寅流の司法の独立らしい。

  池袋サンシャイン前の死傷事故を起こした車は、150メートルを暴走してそこにはブレーキ痕がまったく残っていなかったそうだ。運転していた高齢男性は、「アクセルが戻らなかった」と説明しているらしいが、免許を持っていたのだから、車を停めるのはブレーキであることを知らないはずはないと思う。そのブレーキを踏まなかったのはなぜか。明らかにブレーキとアクセルを踏み間違えていたと思われるのに、車のせいであるかのようなこんな言い訳をするとはあまりにもお粗末で、怒りをおぼえる。これでは死傷した人たちが浮かばれない。

 およそ犯罪でない職業のなかで芸能レポーターや週刊誌の記者は賤業の最たるものではないかと、私は偏見を承知で眺めている。いま女性週刊誌が皇室を貶めることに寄与しているように見える。そのことが皇室の権威を失墜させ、ついには天皇制そのものの否定につながって行くであろうと私は予測するが、それを皇室の方々を一般人であるかのように報じて、より親しむためというのが彼等の大義名分らしい。日本人の若者やその子孫が皇室に対していままでのような尊崇の念を持つことは、このままならもう不可能だろう。私はどうにかしろといいたいわけではなく、とうの昔にしかたがないと諦めているのである。
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2019年4月20日 (土)

そういうことにしておく

「令和」の提案者は誰か、マスコミの一部にそれを突き止めることに熱心なものがあるようだが、その報道を見聞きするたびに苛立ちを感じる。マスコミの使命は真実を大衆に知らせることだ、という大義名分があるらしい。

 明白でないことを明白にすることがすべて善いことかどうか。そんな風に単純ではないことを大人なら知っている。知らないまま、明らかでないままでかまわないことのほうが世のなかには多くて、だからこそ平和におさまっているという場合も少なくない。

 令和の提案者が誰かは明らかにしないことになっているのなら、それで何もかまわないではないか。そういうことにしておくことになっているなら、そういうことにしておけばいいこともあるのだ。

 下半身をのぞきこむのが習性の芸能レポーターのような、かまびすしいのがジャーナリストだと、最近のテレビ局を初めとする記者達は思い込んでいるようだ。むかしはそれを金棒引きといって卑しいものと見做したのが世間なのに、それが正義であるかのごとく通用しているこの世のなかは、一体どうなっているのかと思わざるを得ない。

 誰がが一言いうたびに言葉尻を捉えて騒ぎ立てるのも同じく卑しい所業と思う。問題があれば非難するのは当然としても、いまは程度を越えているように感じる。騒ぎ立てている本人はどれほど謹直に生き、無謬に語っているというのか。

 そもそも世間とは、そして大衆とはそういうものだといえばそれまでで、自分にもその気(け)がないわけではないからこそ、少しは弁えたらいいのにと苛立つのである。あばきたてやバッシングがやりたい放題の世のなかは、結果的に人が口をつぐむことにつながるわけで、いささか独裁権力による言論弾圧に似ていないこともない。
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スマホにすることにした

 携帯はメールと電話にしか使わないのでガラケーを使っている。しかし長年使い込んで外観もくたびれてきたので、そろそろスマホにしようかと考えていた。

 いま旅先ではモバイルルーターを使用している。ところがいまはたいていの宿でWi-Fiが使えるので、モバイルルーターが活躍することが少なくなった。スマホならデジタイズという機能があるので、いざというときはそれを使えばいいと息子に教えてもらった。

 モバイルルーターを解約してスマホにすれば、モバイルルーターの費用をスマホの費用に転用できるわけである。だんだん慣れないものになじむのが辛いようになっているが、周りのおじいさんおばあさんも普通に使いこなしているのを見るので、まだ大丈夫であろう。

 とはいえ今すぐスマホでなにがしたいというほどのこともない。ハイレゾの音楽でも聴けるようならありがたいというところか。私は写真はカメラ派で、ファインダーからのぞいて写真を撮ることにこだわっているのでスマホのカメラ機能はそれほど必要ない。これからキャッシュレスの時代になるらしいから、スマホに慣れておくことにしようというのが一番大きな理由だろうか。

 というわけでショップに予約の電話を入れて、週明けに手続きをしに行くことになった。

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志賀直哉を買う

 名古屋・鶴舞の古本屋で『荷風随筆』全五巻、『鏡花小説・戯曲選』全十二巻(ただしこの本屋では七巻のみ入手、残りは別途かき集めた)を手に入れたことはすでにブログに書いた。

 それらの本や、すでに書棚にある『荷風小説』全七巻や『安岡章太郎集』全十巻を合わせて読み進めているところである。『奥野信太郎回想全集』全六巻別巻一はすでに読了したが、ほかはまだ一部しか読み終えていない。

 それなのに、その古本屋の棚のはるか高いところに並んでいた『志賀直哉全集』全十四巻別巻一が寝ても覚めても眼の奥にちらついて離れない。どうせ読み始められるのは今年の終わりか来年になりかねないのに、もし誰かに買われてなくなってしまったらどうしよう、とそればかり考えてしまう。古本は、出会ったときに手に入れないと、再び出会うことがなくなるのはいままで再三経験している。

 志賀直哉は、小説についてはほぼすべて読んでいると思う。ただしすべて文庫本で読んだ。『暗夜行路』以外は短篇ばかりだし、その文章が大好きなのである。作家のなかで、中島敦を別格としたら、最も好きかも知れない。

 だから旧仮名遣いのこの全集でもう一度いちから読み直したいのである。棚に飾るために欲しいのではないのである。私は、彼の文章は完璧だと思う者である。志賀直哉はさいわい多作家ではないのがありがたい。

 気がついたら地下鉄に乗ってその古本屋に向かっていた。店に入ってまずその棚を見上げる。おお、まだある。長身の私でも手に届かない高いところにあるので、店の人に下ろして貰う。店の人は女性なので、五冊ずつにしてくくってある包みの重さによろける。この全集は版が大きい。少し古いけれど(古本だから当然だが)もちろんすべて箱入り。これで五千円でおつりが貰えるのである。一冊あたり三百円ほど。安すぎる。
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 大きな紙袋二つにむりやり入れる。手に持つとズシリとする。たぶん全部で軽く10キロを超えるであろう。「車ですか?」と店の人に聞かれる。「電車と徒歩です」と答えるとびっくりする。「一万円を超える場合は送ることもするのですが・・・」と済まなそうに言われる。

 帰りの道の荷物の重いこと。家に近づくほど紙袋の紐が食い込んで手は痛み、目が眩みだした。ようやくわが家に到着し、喜びの重みをばらして積みあげる。さて、この本たちをどこに置こうか。何を退場させようか。

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鏡花の全集その他。後が今回の志賀直哉の全集。版が大きいのが分かるだろう。

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2019年4月19日 (金)

口パクではあるけれど

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 人から聞いたり読んだりしたことを、自分が考えたことのように得々としゃべったり書いたりすることを山本夏彦は「口パク」と揶揄した。そういいながら同時に、そもそもむかしから人は誰かの口パクをし続けているのであって本当のオリジナルなものなどこの世にほとんどない、と断言する。「だから古典を読め、古典にはすべて書いてある」と彼がいう所以である。

 その口パクを私もいう。思えば哀しいことに私には口パク以外のことなどいう材料がないのである。

 ぐっと品下がって韓国のことである。もともとは海外情報については中国のことに興味があるので、それを楽しみにニュースを見ているのに、習近平政権になってからは統制管理が強化されたせいなのか、それとも中国から情報をとるジャーナリストの質が低下したのか、面白い話や参考になる話が激減している。そのこと自体が現在の中国の怖ろしさを現してはいるのだが、残念なことである。だからつい韓国のニュースを見る機会が増える。

 いちおう韓国は中国と違って報道は自由ということになっているから、政権側と政権批判側の両方のニュースを見ることが出来るし、重要なことからつまらない芸能スポーツネタまで揃っている。それをざっと見ていると、何より韓国の外交の失態がつづいているらしく思われる。さらに外交以外でも首をかしげることが多々あって、批判的に報じられている。

 そこから感じるのは、すでに誰かが云っているから口パクながら、この文在寅政権というのは観念だけが先行した素人政権だと云うことだ。それを念頭に置くと政権のおかしな行動にはすべて納得がいく。納得がいったところで何の救いにもならないけれど、そのつもりでつきあうしかないし、韓国の国民がそのツケをこれから支払うことになるのは想像できる。

 それは日本が民主党政権という素人政権に政権をゆだねたことで起こったことのツケをいまだに引きずっていることで、身に沁みて分かるのである。沖縄問題然り、対中国問題、特に尖閣問題然りである。不孝なことにその政権時代に東日本大震災が起きて、私から見れば人災的な要素が増幅することになった。もちろんそのときに自民党政権だったらどうだったかについては分からない。結果責任は当事者が負うべきものである。

 中国との関係は野田政権末期に最悪となった(と私は考えている。そのことはその当時詳しく書いた)。さいわい中国とは修復が始まっているようだが、いまの中国とあまりに関係改善しすぎて善いものかどうかは分からない。

 ところがそんな経験が経験にならずに、いまだにその民主党政権の中枢にいた残党を支持し続けている人がいることにも驚かされる。身に沁みない人、忘れる人というのがいるのである。無謬の、正義の味方を標榜する者の怖さを歴史に学ばない人が、世界の未来を明るく照らしているのであろう。
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『日本近代随筆選2 大地の声』(岩波文庫)

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 草花や樹木、鳥などの写真をブログで拝見している。私はそれらの名前をほとんど知らない。ブログに記されているので初めて知るのだが、残念なことにすぐ忘れてしまう。ある程度の基礎知識があれば調べて知識に加えることも可能だし、基礎に上乗せするかたちで新しいものを記憶できるのだろうが、何しろベースがないから加えても忘却の彼方である。

 随筆には自然を描写したものが多い。そこには花鳥風月が季節とともに、そして生活とともに描かれていて、光景が見え、そして匂いがして、さらに音がきこえることで、読んでいるこちらに現実感を感じさせる。そのときに名前が書かれていても、現物を知らなければそれはただの記号としての名前である。私が詩や和歌や俳句がなかなか十分に理解出来ないのは、自然のさまざまなものの名前を知らないからであろう。 

 今回読んだこの本にも作家だけではなく俳人、歌人、画家などの随筆が収められているから、当然草花の名前がたくさん出て来るけれど、それをリアルに連想できないのはまことに残念なことである。ただ、関東大震災や、太平洋戦争に関係するものを集めた章のものなどには強く印象に残るものも多い。イメージするに足りるだけのことを多少は知っているということか。

 巻末の解説が適切で、この本の構成について非常によく分かった。どうして冒頭に永井荷風の『鐘の声』という一文が置かれているのか、深く頷くところがある。やはり文学者の随筆が私には読みやすいし理解しやすいし印象も強い。もちろん好みの問題もある。関東大震災で弟子の女性の死を悼む内田百閒の『長春香』は、何度も読んでいるのに胸を衝つ。最後に置かれた折口信夫の『花幾年』も哀切である。

 解説を書いた宗像和重がこの随筆に関連させて、最後を

 

 たたかひに果てにし子ゆゑ、身に沁みて

 

   ことしの桜 あはれ 散りゆく

 

という釈超空の歌で締めくくっている。もちろん釈超空は歌人としての折口信夫の名前である。彼の息子は硫黄島で戦死した。
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行く気が失せつつある

 私の偏った選択による情報を総合すると、韓国経済は危機的状況にあるらしい。それなのに韓国の株価が大して下がりもせず安定しているのはどういうわけか。もちろん危機はじわじわと、ではなくて一気にやってくるものだから、その兆候が見えないことを以て危機が来ないとはいえない。

 それならば実際に韓国の実情を見に行こうかと昨年から考えていた。専門家やジャーナリストが実際の韓国を見て語っていることを、ちょいと数日ガイドに案内されただけでなにかが分かるはずもないが、空気を感じられるかも知れない。何よりも以前感じたわずかな反日が、より先鋭化されているのかどうか、それくらいはもしかしたら感じることが出来るかも知れない。

 それ以上に韓国に行ったあとで、韓国に大きな変化が起きたとき「私はその直前に韓国を見てきた」と自慢したいというのが本音だ。なんだか不純な動機である。しかしたいていのジャーナリストはそんな人々の気持を代表しているのではないか。

 韓国はソウル周辺と済州島だけ行った。同じところではなく、今回は釜山周辺を見たいと考えた。釜山も領事館前の徴用工像設置などでにぎやかだから、なにか感じられるかも知れないと思うのだが、釜山といえば海産物で、魚をたらふく食べるのも目的になる。そのたらふく食べるという楽しみがいまは糖尿病のために大きく制限されているから、韓国を見ておこうという気持ちもどんどんしぼみつつある。

 正直、高みの見物でいいやという気もちであり、ほとんど韓国を見てみようという気持ちは失せつつある。私のことだから、なにかの拍子に突然盛り上がらないとはかぎらないが。
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2019年4月18日 (木)

映画備忘録(2)

『デンジャラス・ブロンド』2017年アメリカ
 徹頭徹尾ひどい出来のくだらない映画なので、絶対に観ないこと。五分でそれが分かったのに早送りなどしながら30分ほど観てしまったことに腹を立てている。映像で説明しきれないから登場人物の性格などの字幕が入る(それもふざけたキャプションで)。出て来る女性は徹底的にバカである。それ以外の男もたいていバカである。無理して観るとバカがうつりそうなほどひどい。生まれてからいままで観た映画で一番ひどかった。

『阿修羅少女 BLOOD-C異聞』2017年日本
監督・奥秀太郎、出演青野楓、松村龍之介、宮原華音、古田新太、手塚とおる、田中要次、銀粉蝶、水野美紀、坂井真紀ほか

 テレビアニメの実写映画化らしい。主演、準主演の青野楓、松村龍之介が大根役者なので、ひどい出来上がりになっている。何しろ台詞の間がおそろしいほど悪い。ノッキングしながら走る車に乗っているようだ。こどもの学芸会以下である。それに戦時中の特高警察がひどい存在だったからといって、ここまでひどく描かれると、却って全部嘘になってその本当のひどさを否定することにつながりかねない。

 アニメの実写化がなかなか成功しないのはアニメに忠実すぎるからなのだろう。アニメの世界のリアリティは現実では荒唐無稽なのだからあたりまえだ。アニメでしか表現できないからアニメで表現しているので、それを生の人間がアニメのように語ればへんてこりんなものができあがってしまう。

 それを脇役の名優たちが、とことん承知の上でメチャクチャをやらかしていて、その嬉しそうな怪演ぶりがじつはとても楽しめる映画になっている。

 大杉(大杉栄らしい・演者は手塚とおる)、野枝(伊藤野枝であろう・坂井真紀)が登場すれば、当然甘粕(古田新太)も大活躍する。たたりのおばあさん(銀粉蝶)も嬉しそうにあちこちに出没してにたりと笑う。村の小さな医院の男だか女だか分からない医師(水野真紀)は実は軍部に派遣されている医師で村で人体実験をしているそうだ。この人たちはストーリーや監督などお構いなしに楽しく勝手に演じていた。

 憲兵隊の甘粕大尉(映画では中尉)が関東大震災の時にアナーキストの大杉栄と伊藤野枝(大杉栄の内縁の妻)、そして大杉のおいの六歳の少年を殺害したことは有名な史実であるが、ここではそんな史実は無視されている。最後に「登場人物などは事実とは関係ありません」と断っていたが、誰がこんな話を事実だと思うのだろうか。それもおふざけの一つなのだろう。
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映画備忘録(1)

 昨日三本の映画を観た。一本は最初の三十分であまりのひどさに観るのに耐えられず、打ち切ったから正確には二本と少しというところか。その前にも何本か観たけれど、いつか機会があれば取りあげる。書いていたら長くなったので、二回に分けて紹介する。

『凍える追跡』2017年フランス・ベルギー
監督クリスチャン・カリオン、出演ギヨーム・カネ、メラニー・ロランほか

 一年ほど前に離婚した妻・マリー(メラニー・ロラン)から、息子が林間学校に出かけたキャンプで行方不明になったと連絡があり、ジュリアン(ギヨーム・カネ)は昔家族で暮らした雪山の麓の村に向かう。マリーは新しい恋人が出来ていて、その恋人との間の子供を妊娠しており、それを知らされた息子のマティスが家出をしたのではないか、といって泣き崩れる。自分が悪いかも知れないと不安なのだ。

 警察に事情を聞きに行ったジュリアンは、間違いなく誘拐であろうといわれる。手荷物が残っていて子供用の布団だけがなくなっていたからだ。捜査しているといいながら、なにも情報を知らされないばかりか、ジュリアンの身元や仕事のことばかりをしつこく訊かれてジュリアンは腹を立てる。

 ジュリアンは特別な仕事をしていて知られたくないらしいことが分かるが、映画ではついに最後までそれは明らかにならない。このあとマリーの恋人と会って、その他人事の態度に激怒したジュリアンは、その恋人がマティスをのけものにしようとしたと勘ぐって暴力をふるってしまう。彼を犯人だとして警察に突き出したが、もちろんジュリアンの方が逮捕される。相手は重傷を負い、しかも彼にはアリバイがあった。翌朝、一時的に釈放されたジュリアンは、ある手がかりから犯人の糸口を掴み、ひとりで息子の行方を追い始める。

 これから犯人を追い詰め、単独で息子を奪い返すための戦いが始まるのだが、その手際のよさと冷静さを観ているとジュリアンが特別な種類の人間であることが分かる。暴走の果ての結末は悲劇ではない。

 犯人たちが誰に依頼されたのか(携帯でそれらしい人物と話しているシーンがある)、その目的はなんなのか、結局最後まで明かされない。ただ息子が誘拐されたというシチュエーションに父親がどう必死に行動したかが描かれた映画だということである。そういう意味の緊迫感はよく描かれている。
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朝靄

 昨日は「一時雨」の予報のはずだったが、午前中から早くも雨が降り出して、本格的になり、そのまま終日降り続いた。冬のようではないものの肌寒い。本を読むよりも映画が観たくて、録りためたもので短めなものを選んで観始めたら、一本はそれなりに観終わったものの、一本はひどすぎて途中で打ち切った。さらにもう一本観たらそれも酷かったけれど、ひどさのなかにちょっと別の面白さを発見して最後まで観てしまった。映画のことは別に書く。

 昨晩早くに寝たけれど、おかしな映画を観たせいか変な夢を見て夜中に起きてそのまま眠れなくなった。

 今朝は朝靄。昨夜の雨の名残か、湿った春の空気の匂いがする。ベランダの鉢に蒔いた紫蘇とパクチーの種がようやく芽を出したが元気がない。今日は気温が上がるそうだから少しは成長してくれるだろうか。

 金魚かメダカでも飼おうかなあ。

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2019年4月17日 (水)

泉鏡花『夜叉ヶ池』

 これは戯曲である。つまりシナリオであるから小説以上に映像的であるといえる。そのためには映像的なシナリオでなければならないのはもちろんで、その意味ではこれが泉鏡花の代表作の一つであるのは読めば良く分かる傑作である。何しろ読んでいて舞台を見ているような、いや、舞台を見ながら現実に物語が目の前で繰り広げられているような気持になる。

 越前大野の山上の夜叉ヶ池に封じられている、夜叉ヶ池の精である白雪姫が、白山剣ヶ峰の千蛇ヶ池の精との恋に狂わんばかりにいること、そして封じられたときの約定で、日に三度の鐘が打ち鳴らされている間は身動きできないことになっていることが、物語が進むにつれて分かって来る。水族の眷属たちは必死に白雪姫をなだめる。彼等も内心では約定を破棄したいが出来ないのである。

 身分を捨てて鐘を守るのは、恋しい妻の百合とひっそりと暮らす萩原晃。そこへ晃の旧友・山澤が行方不明の彼を捜し求めて訪ねてくる。山澤は事情を了解し、二人は夜叉ヶ池を見に行くことになる。

 幕間として白山剣ヶ峰の千蛇ヶ池の精からの手紙を携えて黒和尚の鯰入がやってくる。それを見た白雪姫はさらに暴発寸前となる。

 いま下界の村々は旱(ひでり)で、水を文字通り渇望している。そんな村人達が決起して彼等の暮らす家へ押しかけてくる。彼等は百合を人身御供にして夜叉ヶ池に祈って雨乞いをしようとしているのだ。抗う百合を手込めにしかかったとき、萩原晃と山澤が急を察して駆けつけてくる。

 多勢に無勢のなかで惨劇が起こる。白雪姫の前身がここで明かされる。

 なるようにしかならないのがこの世の理、そして大狂乱の悲劇のあとにすべてが浄化され、救いが示されて物語は終わる。忘れられない物語となった。
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廃仏毀釈

 『改善か信仰か 激動のチベット3年の記録』というNHKBSのドキュメントを観た。チベットは現代の国家とは違うと云えば違うけれど、そもそもはチベット族の統一した国家だったと私は思っている。それが1951年、中国人民解放軍によって「解放」されて(チベットの人にしてみれば侵略占領されて)チベット仏教の僧侶たちは首都のラサを追われ、多くの寺院が破壊された。さらに1966年、文化大革命によって徹底的に寺院が破壊しつくされ、抵抗した多くの僧侶も命を失った。

 そんなチベットが、いま習近平率いる中国政府によってさらに徹底的に中国化、見方によっては民族浄化を進められている姿が、2016年から今年の初めまでの数回の取材によってドキュメントとしてまとめられていた。

 中国を「改善」するために宗教を否定し、長い長い期間にわたって廃仏毀釈が進められ、いままたそれが徹底的に行われていることが生々しく映像化されていた。チベット民族の「精神の改造」が正義であると政府から派遣された当局の責任者たちは胸を張る。

 それを観ながら哀しみと怒りと絶望に言葉を失う。多分チベットの人たちはこの「改善」によって豊かになっていくのかも知れない。しかしその豊かさとはなんなのだろう。「彼等は金を儲けようという意欲がないのです。それでは豊かになれません。だから意欲を持たせるように指導しているのです」と当局の責任者は語る。その言葉のなかに中国式の拝金主義こそが正しいことだという信念が見えたのは私の偏見だろうか。

 世界の誰もがチベットを見捨ててしまった。見て見ぬ振りをし続けた。いまチベットという国は消滅してしまい、中国の一地方になってしまった。失ったものはもう二度と帰らないところまで「改善」は進んだ。

 このドキュメントはまさに過去存在していたチベットという宗教国家、精神国家への弔鐘のように感じた。

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声を聴く

 昨晩、奈良の友人から電話をもらった。前回飛鳥に行ったときは、事情があって彼には声をかけず、別の大阪の友人と天王寺で飲んだ。理由のあることなので、互いにそのことにこだわりはない。現在の消息を話していたら、思った以上に長電話になった。私にしては珍しいことである。友人の声を聴くことはうれしい。

 結局来月連休明けに私から連絡して会うことになった。都合がつけばもう一人参加しての飲み会になると思う。そういえば連休明けに定期健診である。電話を切ってから思い出した。それが済んでからにできればいいけれど、別にその前でもいいか。

 友人の声を聴いて、なんだか気持ちが明るくなって、活力がわいてきた。

 

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2019年4月16日 (火)

ただいま充電中

放電しすぎたので、ただいま充電中。

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2019年4月15日 (月)

『今西錦司 生物レベルでの思考』(平凡社)

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 STNDARD BOOKSシリーズの一冊。今西錦司は生態学者、文化人類学者、登山家、探検家。ダーウィンの進化論を批判して独自の今西進化論を唱えた。しかし私は、彼がダーウィンをまったく否定しわけではないと思う。この本にも持論が述べられているが、今西論に賛同したくなる。生物が種として行動するという考えは日本人にはとても分かりやすくて受け入れられ易いが、人間だけを特別視し、しかも個を前提にものを考えがちな西洋思想から見ると、多分何を言っているのか分からない人も多いかもしれない。

 ある意味では汎神論的な日本人の自然観こそが自然の本来のすがたの捉え方だということかもしれない。一般的に、汎神論をシャーマニズムの類ととらえて原始的で未開である宗教観、自然観だと考えるようだが、一神教やマルクス主義のような絶対神信奉では、人類の未来は危ういように思う。

 この本にそんなことが書かれているわけではないが、そういうことを考えさせてくれるような本だと思う。この人は文章も達者であって、自然に直に接して、見たり感じたり、考えたりしたことを非常に分かりやすく書く。この本は特に読みやすい文章を集めているように思う。大変面白く読めるはずで、ひとりでに自然と人間とのことを考えるようになるはずだ。
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ちょいとサボっている

 書きたくて書いているブログだが、時々書かなければ、という気持の方が追いついてしまう。習慣が義務に変じるとわずらわしい。

 たいてい二つ三つ同時に書いたりして、書きためたものが予備としてあるので、気持の波はそこで緩和させている。それが底をつき、本は引き続き読んでいるので書こうと思うことはないではないが、一息入れた。

 頭や心の許容量がやや小さいので、その中の不要なもの、捨てたいものをつまみ捨ててしまえればゆとりも取り戻せるのだが、なかなかそうも行かない。どうすればそれが叶うのか、いろいろ試みてうまくいくこともあるのだが、同じことをしてもなんの甲斐もないこともある。

 人生は雑事に追われていることがほとんどで、雑事がなければどれほどたくさんのことが出来るか、と思うけれど、不思議なことに雑事がないとやりたいことへの意欲も低下する。

 無職の独り暮らしは夢だった。すべてのしがらみを放念(しがらみそのものは捨てられないので、それを考えないということである)して、無為のなかで放心できればどれほど幸せか、と思ったけれど、仙人ではない俗人そのものの身としては、無我の境地などになれない。漱石が座禅を組んだというが、「則天去私」はそうなりたいという思いであって、漱石がそうであったわけではないだろう、などと自分を慰めている。

 花粉症もほとんど気にならない程度に軽快化してきて、とりあえず体調が悪くないのは幸いである。
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2019年4月14日 (日)

『葛飾砂子』(『鏡花小説・戯曲選』第九巻・風俗編二から)

 泉鏡花の選集のなかで、最後に手に入れた巻から五十ページほどのこの短篇を拾い読みした。それほど読んでいないので多分に思い込みもあろうけれど、硯友社(尾崎紅葉グループ)の作家たちに共通の文語文的な文章がこれの書かれた明治三十三年の時代を彷彿とさせる。佃島界隈を舞台として描かれた世界に、まだ色濃く江戸が残っているが、それはこのような文章でこそ実感がこもるような気がする。

 芥川龍之介が向島界隈の墨田川(江戸時代は大川)の風情を繰り返し回想するが、われわれが知らないその風景とそこで暮らす人々がこれらの文章でよみがえるのである。

 ひいきの歌舞伎役者の病死に打ちひしがれて、病人のようになった商家の娘が漸く元気を回復し、友人を訪ねていったきり行方が分からなくなる。その顛末が語られているのだが、風景や衣装、それぞれの登場人物の外見などが詳細に描かれる。

 特に娘の衣装(もちろん振り袖)の描写はこれでもかとばかりに詳しいのだが、それぞれの言葉の大半が分からない。実物を一つひとつそこに見せて説明してくれれば別だが、それは願うのが無理だ。母は頼まれて和服を縫って内職にしていたから、こういう言葉の多くを理解できたであろう。生きていれば聞くことが出来たものを。

 隅田川の昼景夜景、そこに吹く風、ただよう匂い、岸辺から見る景色と船から見る景色の違い、ぬれねずみの人間を衣服ごと舟に引きあげるときの手触りと重量感、それらが実感できるのは文章の力だろう。

 表題に隠された意味については巻末に詳しく解題されているが、くだくだしいから省く。ただ、解題にあるが、死んだ歌舞伎役者・橘之助(きつのすけ)だけは当時の尾上菊之助という実在の人物であり、三十そこそこで病死している。かれに関連した小説が有名な村松稍風の『残菊物語』だと知った。いろいろ関連してくるものだ。

 次には『夜叉が池』(戯曲)を読もうかと思っている。

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2019年4月13日 (土)

『柳田國男 ささやかなる昔』(平凡社)

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 STANDARD BOOKSと名付けて、平凡社がポケットサイズの随筆シリーズを刊行していることをつい最近知った。第一集全八巻、第二集全六巻につづき、今回第三集の『柳田國男』と『今西錦司』が出たところらしい。その二冊を購入し、さっそく『柳田國男』を読んで見た。

 STANDARD BOOKSは科学と文学を横断する知性を持つ科学者、作家の随筆を集めたものだという。ここで云う科学は自然科学にかぎらず、人文科学や社会科学も含めてのもののようだ。読みたいものもあるし、すでに読んだことのあるものもある。シリーズに取りあげられているなかで目についた筆者は、寺田寅彦、岡潔、朝永振一郎、湯川秀樹、南方熊楠、神谷美恵子、日高敏隆、等々。

 今回読んだ柳田國男には厖大な著作があるから、選集がたびたび出ても、取りあげられるものがあまり重ならないのが凄い。ここにとりあげられた十二編にはほとんどすべて感銘を受け、いろいろ考えさせて貰った。民俗学とは何か、そしてそこから日本という国の文化をどう考えるのか、自分のものの見方をもう一度洗い直すことを迫られる。

 文化人類学と民俗学とはどう違うのか。どうして民俗学というのか。そもそも日本の文化は江戸時代に始まった国学に影響された、国家神道的な把握に強く影響されている。その権力者側からの文化や歴史の把握では日本人そのもののほんの一部しか見えない。文献学的にいえばそういう関係の人の残した文献を元に歴史や文化を考察するのだから当然で、文献を残さない一般の人たちの文化は残らない。しかし残らないけれど現実にそこに存在したのである。

 梅原猛などは、国学的な視点ではなく民俗学的な視点にこそ真の文化や歴史が隠されている、といったりする。しかしその民俗学も柳田國男、折口信夫のカリスマのある巨人の呪縛にとらわれて、その枠を越えることが出来ずにいると嘆く。

 戦前は国学的なものに批判的な言動は身の危険を伴うから、柳田國男や折口信夫もその部分には立ち入らなかったのはしかたがない。しかし戦後もその姿勢のままでいる民俗学に意気地のなさを視、発展の希望が見えないことへの苦言だろう。赤坂憲雄氏の『東北学』のシリーズその他などを読むと、私は最近少し変わってきているような気がしているのだが。

 今回読んだこの本は、柳田民俗学についての入門書として適切なものだと思うので興味のある方は読まれるといいだろう。『伝説とその蒐集』、『天狗の話』、『木地屋物語』、『猫の島』、『酒の飲みようの変遷』、『峠に関する二三の考察』などが特に記憶に残った。このうち『天狗の話』はほかの本で二度ほど読んだ記憶がある。
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愚かにもほどがある

 桜田元五輪大臣は、就任時挨拶の時からどうしてこんな人を大臣に?・・・と誰もが首をかしげるような人に見えた。人前で上がってしまい、とちりやすいけれど仕事はちゃんとする人、と云うのならまだ救いがあったが、最初の見立て通り、愚かな言動を繰り反し続けて退場した。

 任命責任を問う野党の主張は、野党に賛同することそのことに忸怩たる思いはあるものの、正しいと思う。彼を選んだのは派閥の推薦によるもので、ミスがつづいてもかばわざるを得なかったのも派閥の力学によるものらしい。これこそ麻生氏への安倍首相の忖度である。

 安倍首相は、野党が何を吠えようと気にならないが、党内の批判は面白くないはずで、それなら麻生さんに批判が向くようにタイミングを見ていたと思われるが、あまりのお粗末にそんな斟酌は吹っ飛んでしまった。それにしても麻生派にはあんな人間を大臣に推薦しなければならないほど人材がいないのだろうか。情けない。

 任命責任といえば、塚田副大臣の忖度問題について、文書のかたちで野党有志議員たちが批判書を安倍首相に提出したらしい。安倍首相は首相としての立場を承知しているから、何ら関係部署に働きかけをしたことはない、と言明したと報じられている。

 指示命令の形をとればそれは忖度とはいわないのであり、職権乱用であって、そんな事実があれば指示命令した方も従った方も犯罪である。まさか有志議員たちは安倍首相に「忖度させたのか」などと訊いたとは思えない(大いにあり得て情けない)が、もし尋ねているのなら言葉の意味も分かっていない阿呆である。

 政治が国を悪い方向へ向けてしまっているように見えるお隣の韓国と違って、日本では無意味な、結果的に何もしないことによって悪いことをせずに済んでいる日本は、平和そのものである。アメリカや中国という、日本の国難の原因になりそうな国どおしが角突き合わせている間は、日本はささやかな平和に惰眠を貪ることが出来ている。いつまでも平穏がつづくといいが・・・。

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良好な状態

 読書のスランプ状態が続いていたけれど、二三ヶ月前から漸く本格的に脱出できたようである。四五冊を同時に読む状態はさすがに長続きせず、いまは二三冊を並行して読んでいる。四五冊を読んでいたときはさすがにオーバーヒートだった。

 オーバーヒートは結局読み過ぎて何を読んでいるのか分からなくなるから、読めないに近い。それでも読んだ断片が頭に突然浮かぶからびっくりする。とにかく自分をなだめなだめしながら、いまは良好な状態である。

 旅行中は湯治などで同じところに長逗留しない限りはあまり読めない。酒を飲んで爆睡してしまうからだ。今回の能登旅行では、結局昨夕報告した『日本近代随筆選』第一巻だけしか読み切れなかった。

 先般古本屋で手に入れた、欠巻のあった『鏡花小説・戯曲選』全十二巻は、その後探し倒してついに全巻を揃えることが出来た。めでたい。これからほかの本の合間にボチボチ拾い読みしようかと思う。

 中国の怪異談、志怪小説に近いものが多く含まれている。鏡花の怪談は、もともとの日本の怪談とは違って夜中にトイレに行くのが怖くなるという類のものとは違うのである。もしかしたら、柳田國男の収集した狐狸の怪異談や天狗や鬼の話に源流は似ているのかも知れない。

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2019年4月12日 (金)

『日本近代随筆選 1 出会いの時』(岩波文庫)

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 2016年に全三巻で発行された随筆集で、小説家をはじめ著名人の随筆がたくさん収められている。名文に感銘を受けたもの、ユーモアに思わず口もとがほころぶもの、よく理解できないもの、どうして選ばれたのか理解に苦しむものなど、玉石混淆である。

 もちろんその評価は私が感じたものだから、好みはあるし、こちらの理解力のお粗末さの故に読み切れていないこともあるだろう。しかし私が私の意志で読んで、私が感じるのであるから他人の評価はこの際考慮しない。

 ずいぶん自信満々だな、などと笑わないで欲しい。評価というのは、しばしば著名人だからというレッテルの元に、歪められたり下駄を履いていることがあるのではないかと勘ぐるのは、私の偏見の故ばかりではなかろう。

 最初に悪口らしきもの。北原白秋の『桐の花とカステラ』はまったく私と肌合いが会わない。白秋の文章がすべてこんなふうだとはまさか思わないが、なんだか鼻につく。内田魯庵の『随筆問答』もしつこい。多少のしつこさは面白みにつながることもあるが、あまりしつこいのは勘弁して欲しい。

 岡本かの子は以前から名文家であるという評価は見聞きしていたが、『秋の七草に添えて』というごく短い文章は素晴らしい。石川淳の『柳の説』は名文すぎて半分しか分からない。この人の『夷齋筆談』という随筆集もなかなか読むのに骨が折れたけれど、同じ味わいだ。なんとかこれが読みこなせる程度の素養が欲しいものだと思う。

 小島烏水という登山家で紀行文作家の『奥常念岳の絶巓に立つ記』は素晴らしい。読んでいる私もそこにいるような気にさせてくれた。登山文学の傑作ではないか。柳田國男の『浜の月光/清光館哀史』もしみじみとしたいい文章だ。長く生きて、さまざまなところへ赴き、さまざまなひとに出会うとこういう経験があるものだ。余韻がある。

 高村光太郎の『永遠の感覚』も芸術家の感覚世界の奥行きの広さと深さ、そして厳しさを教えてくれる。私が見ているのは世界の皮相のそのわずかな欠片だけであることを思い知らされる。あまり深刻に受け取ると何も語れなくなりそうになる。

 里見弴の『世間』は太平洋戦争後すぐに書かれたらしい文章で、作家の世間を見る眼の透徹した鋭さを改めて知る。やはり凡人とは違うのだ。同じ眼の鋭さの川端康成の『末期の眼』はまさにそのような眼の話である。末期の眼をのぞきこみ、その眼に見つめ返されたとき、そこに見えるのは自分自身の眼ではないのか。その眼が語るのは相手ではなく自らなのだから。

 中勘助の『結婚』は、彼の生涯、彼の境遇、生きざますべてを知った上で読まないと、よく分からないかも知れない。さいわいつい最近彼の随筆集の一冊を読んだばかりで多少は背景が理解できているのでこの文章に救いを感じた。

 寺田寅彦の『浅草紙』、中谷宇吉郎の『雪を作る話』石原純の『雨粒』、朝永振一郎の『鏡のなかの世界』など、科学者の見ている世界は、私などよりも遙かに繊細詳細であることを教えられる。私はほとんど何も見ていないし、なにも考えていないのだ。哀しい。

 この本のほんの一部を取りあげて感想を書いてみた。読んでいろいろ考えさせてくれるものが必ずあるものと思う。 

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名残の桜

満開を過ぎ、盛りを終えた桜の幹は、どうして暗く黒く見えるのだろう。

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民主主義

 EUからの離脱問題に揺れるイギリス議会を見ていると、民主主義とはなんなのか、という思いがする。民主主義のモデル、発祥の地ともいわれるイギリスでのことだから、ことさらそう思うのである。それぞれの人がそれぞれの考えをもち、それを主張する。最終的に合意することを目指すからこその議会であり、議論であろう。

 合意を前提にしない議論なら、ただの口げんかではないのか。譲るつもりがなければ、互いの違いを明らかにしたあとは喧嘩別れするだけだ。あのアメリカと北朝鮮のように、まったく異なる立場にありながらも、最終的に合意しようという(多分に建前ではありながらも)前提を崩していない。

 だいたい世界の交渉ごとは日本人の想像を遙かに超えて粘り強い。これではけっして合意などあり得ないとしか見えなくても、土壇場で決着する場面を再三見ている。土壇場まではとことんやり合いながら決裂しないあの強靱さは日本にはないものだ。

 国際連盟から脱退したときの外務大臣・松岡洋右は日本では拍手喝采で迎えられた。

 それにひきかえイギリスのメイ首相の性根の座り方にはほとほと感心する。自分の意見とは異なる国民投票の結果を国民の意思として貫こうとするのは、まさに彼女の考える民主主義の貫徹だという信念があるのだろう。

 民主主義とは一体何なのだろう。

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2019年4月11日 (木)

ニュース雑感

 今回の統一地方選の結果分析によれば、自民党は善戦したが、旧民主党系議員が前回、前々回につづいてさらに減少したという。ただ、無所属が増加していること、自民党も落ちないと思われたベテランの落選が目立っていて、世代交代が見られたそうで、ようやくあるべき姿になりつつあるのかも知れない。それにしてもある記事によれば、野党は全体として「融解」とか「溶解」というような惨状だそうだ。社民党は全国合わせて史上最低の22名になった。それでもまだ残っていることが不思議だ。

 選挙前のアンケートによれば、立憲民主党の支持率はどんどん低下しつつあり、最新では3%だったというから深刻だ。立憲民主党といえば党首や幹事長のアヒルのように口を尖らせてしゃべる姿が眼に浮かぶし、某「レンポウ(by元桜田五輪大臣)」女史の歪んだ口もとが目に浮かぶ。口もとはとても大事で、口もとが下卑て見える人は好感が持てない。テレビでそれを繰り反し見せられたら、支持が低下するのも当然だろう。

 こんなことを改めていうのも気が引けるが、日本の現状はどうで、問題は何と何、その解決の優先順位はこうであってそれをどうすればよいか、それを論ずるのが国会かと思うが、口を開けば「安倍政権打倒」ではそんな政党に政権を託す気になどなるはずがない。そもそも国民は自民党に嫌気がさしていないことはないものの、それ以上に野党に嫌気がさしていては世の中は変わるはずがない。それにリスクを構えて変えなければならない、というほどの思いも、普通の人にはいまのところないのではないか。

 韓国のマスメディアが日本の新紙幣に渋沢栄一が選ばれたことを批判しているという。またかと思うばかりでどうして批判しているのか詳しく知りたいとも思わない。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」といわんばかりに、日本がみんな悪いという。悪いという理窟のつくものにはみんなケチをつけているだけだ。「理窟はどんなところにでも引っ付く」ものである。

 またかと思って無視すれば好いものを日本側から反発して何か言い返しているらしい。向こうにすればそれを待っているので思うつぼである。もうそんなものに反発して見せても日本からは誰も喝采するものはないのだから放っておけばいいのだ。わざわざ相手にエネルギーを注入する必要などないではないか。

 韓国の自動車メーカーの労使紛争がますます長期化深刻化しているという。断続的なストが繰り反されている。次第に関連の中小企業がストによる生産台数低下のために納入部品量が低下し、廃業倒産に追い込まれていると報じられている。主要な部品の納入メーカーがなくなれば車は作れなくなる。自動車というのはそういう裾野の企業に支えられた産業だ。労働組合側にそんな視点はそもそも欠如しているらしい。メーカーは資本家が暴利を貪っているものだから吐き出させるのが正義だ、という確信のもとにあるから、金の卵を産むニワトリを絞め殺しつつあることに気がつかないのだろう。

 文在寅大統領は労働者側の言いなりである。何しろそういう正義の信奉者であることにかけては労働組合幹部以上の人物であるらしいから、この状況は変わらないだろう。

 このままなら韓国経済が疲弊していく。そうなるとまたぞろ、日本が悪い、と合唱するのだろう。そんな阿呆陀羅経はなんのたすけにもならないと思うのだが、何しろ子供のときからたたき込まれた大事な教えだから、困った状況になるほど阿呆陀羅経を拝むのだろう。

 ソウルの日本大使館の建て直しの許可がソウル市に取り消された件についても書きたかったが、長くなるのでこれまでとする。

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親指のお知らせ

 旅に出ると宿でつい余分に食べてしまう。普段は、晩は酒を飲むときは御飯を食べないのだが、宿ではつい食べてしまう。菜の種類も多いから、トータルではボリュームのある食事をとることになる。

 もともとこのところウエイトがオーバー気味だったのに、さらに追加されて、腹がひとまわり以上増大している。よくない状況である。

 お気に入りの靴が二足あって、ずいぶん履きこんでいる。だいぶくたびれてきたので昨年新しい靴を買った。靴は少し良いものを買わないと、履き慣れたころにもうくたびれてしまうので今回も多少張り込んだ。デザインもしゃれているし軽くて履きやすいのだが、長く歩いていると靴の屈曲部、親指の付け根のあたりが微妙に触る。

 それが今回はその部分が痛みに変わった。特に右足の親指の付け根の外側部分がやや痛い。靴を脱ぐと赤くなっている。この感覚、まさに痛風の兆候のお知らせに似ている。

 むかし痛風の発作(激しい痛みを生ずることを発作という。一度痛み出すと一週間から二週間はどうしようもない。ただ痛みに耐えるだけである)を二度ほど経験している。それ以来十年以上経つが忘れられるものではない。

 いまのところお知らせというか警告状態で、歩くのに差し支えはない。それに以前痛風になったころのような無茶な飲食はほとんどしていないので、これはただ靴がまだなじんでいないか、むくんで触っているための痛みなのかも知れない。

 父が晩年痛風に苦しめられていた。酒も飲まず美食もしないので尿酸値はそれほど高くないのに痛風になり、その痛みで指が変形していた。たぶんその体質を受け継いでいるのだろう。しかも私の場合はそうなるような過剰な飲食をつづけていた。だいたい酒の肴で美味しいものは、たいてい痛風につながるものばかりである。神様は意地悪である。

 しばらく素食にして、お茶などで水分をたくさん摂取して、お知らせに対応することにしよう。

 

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能登半島、輪島からさらに北上して曽々木海岸へ。その近くに道の駅塩田村がある。ここで揚浜式の塩田で作った塩を買う。料理に普通に使うには高いけれど、これでトマトを食べると美味しいのだ。

さらに北に行くと海岸の景色がさらに見応えのあるものになってくる。立ち寄ったのは小さい洞窟。

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もちろんこれは洞窟ではないが、旧国道。いまは右手にもっと新しい長いトンネルが出来ている。写真で見たのではなんということがないが、現地に立つと朽ち果てかけたものの怨念を感ずる。

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その使われなくなった国道よりさらに海側にこんな小さな洞窟がある。そこをくぐり抜ける。

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通り抜けた先にさらに洞窟がある。

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横手の国道がのぞいている。鉄骨も錆び付いて変形し始めている。

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ここからさらに少し長い洞窟がつづいているのだが、誰もいないし、ちょっと気味が悪いので入るのはやめにした。ここには学生時代友人と来たことがあるのだ。それにしても岩石の重量感は目で見ただけでも迫るものがある。

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くぐってきた穴を振り返る。むこうから来た。

時間があればさらに能登半島の先端の狼煙灯台まで行きたかったが、天気は悪くなってきたし時間も遅くなりそうなので、ショートカットして半島を横切り、目的地の珠洲へ向かう。

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宿泊地の目の前にある見附島、通称軍艦島。

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アップしてみる。少しずつ崩れ始めているそうだ。

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別の方向から撮影。泊まった宿の露天風呂から見える景色はこれと同じ。そう、宿の海側からとってみたのである。泊まった部屋は安い部屋だったので海側ではない。海が見えなくても外に出れば見えるし、安い分で晩の酒一本が飲める。是非弟たちをここに連れてきたいと思っている。

今回の旅の写真はこれでおしまい。

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2019年4月10日 (水)

嫌らしい運転と桜

 本日は天候も悪いので金沢からどこにも寄らずに帰った。東海北陸道で帰る方が近いのだが、最高地点の峠の標高は1100メートル、雪が降っているというので、少し遠回りであるが、福井から敦賀、そして米原経由の北陸道で帰った。

 東海北陸道の庄川や郡上あたりは積雪9センチという。夏用のタイヤに交換した車では通ることが出来なかったから北陸道周りで正解であった。

 比較的に強い雨の降っている北陸道だから、スピードは控え目にして、遅いトラックなどを抜く時以外は走行車線を走る。ところがそんな私の車の後ろにぴたりとくっつくまで迫ってきて、おもむろに抜いていく車が何台もある。しかも抜いたあとに私の車の鼻先に割り込んでくる。あれだけあおり運転が問題視されているのに人を挑発するような運転を、それもこんな雨の日にする車が何台もあることにうんざりする。

 こちらがスピードの出る車なのにゆっくり走っているからだろうか。ほかの車に対しても尻にぴたりとつけて、そういう追い抜き方をしているから、それがくせになっているのかも知れない。イライラしても精神的によくないので、おろかもの、と舌打ちをするだけにして深く考えないことにする。

 沿道から見える桜もちょうど満開の木が多いのに、花が冷たい雨に打たれて哀れである。これで花の色は一気にあせてしまうことだろう。

 そういえば今回の小旅行ではちょうど花の盛りだったので桜の花を堪能することが出来た。ソメイヨシノばかりではない、色の濃いもの薄いもの、大きな木も小ぶりな木も、ずらりとならんだ桜並木も、一本だけ美事に咲いているものなど、さまざまな桜を見た。「さまざまなこと思い出す桜かな」という句が有名だけれど、私の場合はなにかを思い出すこともなく、さまざまな桜をただぼんやりと楽しんだ。

 俳句を囓っていた知人から初めてこの句を教えて貰ったとき、その知人の句かと思って、あまり好い句ではないな、などと思った。桜と言えばこの句が引き合いに出される有名な芭蕉の句だけれど、実は本音をいえばいまもつまらない句だと思っている。私には詩心がないのだ。 

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能登の海岸の岩

海岸を走っているといろいろな岩が眼に入る。自然は長い年月をかけて不思議な造形をする。

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どうしてこんなふうに別れてしまったのか。

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おや、変わった岩がある。

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確かに穴があいている。

望遠に切り替える。

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これもいまに崩れてしまうのだろう。

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窓岩と看板があったので車を停める。

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確かに窓らしく見える。天気が下り坂になってきた。

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最後は親子ガエルだそうだ。そう見えないことはない。

昨日はタイヤ交換が早く終わってしまったので、三時少し前にホテルに入ったのだが、フロントの女の子が、「三時にならないと部屋には入れません」と切り口上で言う。それは結構だが、三時まで10分もないのである。チェックインの受付ぐらいしても良さそうなのにそれも出来ないという。無理を頼もうと思っていたわけではないから了解である。たいていの宿では少し早めでも笑顔で受け付けてくれるのだけれどなあ。

ラウンジでコーヒーを飲みながら新聞を開いて時間をつぶす。すると別の女の子が走りよってきて、「どうぞ、お待たせしました」と笑顔で声をかけてきた。

見かねたのだろう。おなじことを言うにも言い方でずいぶん違う。自分で気づけないのも可哀想なことだ。サービス業に向いていない正しい人もいるのだ。

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あまり歳をとらないと言われて

 昨夕、金沢の若い旧友たちと会食し、少々はしゃぎすぎた。この歳になっても私だけがバカ酒飲みである。私だって美味しい酒のときだけしかたくさんは飲まない。好い気持ちに酔って、至福の時間を過ごさせて貰った。

 

 それぞれに仕事の悩みもあるだろうが、聞くつもりもないし彼等も話すはずもない。しからばこちらは日頃の思いのたけをさまざまに面白おかしく話すばかりである。それが彼等に面白かったかどうか。

 

 それにしても金沢に暮らしながら、泉鏡花を知らない、などという者もいても、ちょっと哀しい。なにもかも知っている必要もないし、知ることも不可能だ。そのときに知っておくことの優先順位が違ってきているのか。かくいう私だって何を知っているのか。それでも知ろうとしているし、知ろうとすることが大事だと思っている。

 

 たぶん大事なことが違ってきているのだろうし、わが息子や娘がそうであるかといえば心許ない。たぶん、泉鏡花って誰、というかも知れない。逆に彼等が当然知っていると思っていることのどれほどを私が知っているというのか。 

 

 健康で彼等と出会えるからいつまでも若いと言われる。健康であることは単なる僥倖であることを身に沁みて知っている。運がいいのである。それでもいつ我が身になにがおこるか分からないのが老齢ということである。いまの健康をありがたいことだと思わなければ。

 

 好い酒をありがとう。

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2019年4月 9日 (火)

ヤセの断崖など

県道30号線はセンターラインのないところがほとんどの狭い路で、とくに漁村のような集落のある場所はすれ違うのは不可能なほど。そのかわり、海に面しているからとても景色がよい。それにほとんど車が来ないから狭くても問題ない。

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ヤセの断崖は松本清張の『ゼロの焦点』で有名になった。

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なぜヤセかという説明書き。志賀町は「しかまち」と濁らずに読む。

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こんな景色だが、いまは崖の縁まで歩けないようにフェンスが張ってあるので迫力満点と言うほどではない。

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崖の下はたぶんこんなふうになっているのだろう。よく見ると岩場の突端に釣りをしている人の姿が見える。たぶん船で渡ったのだろう。

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こういうところから飛び降りたらひとたまりもない。

能登の写真はまだつづくが、本日午後には金沢に入って、頼んでいたタイヤ交換を済ませ、駅前のホテルにいる。今晩はこれから金沢の若い旧友たちと飲む。

 

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春の海

国道から逸れて海沿いを走る県道30号線を北上する。この辺り一帯の海は能登金剛と言われる絶景がつづく。なかなか好いネーミングだと思っていたが、朝鮮の金剛山(クムガンサン)にちなんだものだと知っていささかその思いが減殺された。

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弾劾の上から見下ろす。

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なんたる海の青さ。

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アップで撮っても波しぶきがあまり立っていないことが分かる。冬の日本海とはうってかわって、春の日本海はおだやかそのものだった。

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砂浜まで降りて春の海の潮風を浴びる。

こんなに晴天だったが、夕方、宿の駐車場に車を入れたとたんに大粒の雨が降り出し、夜半はずっと雨音が聞こえていた。この日の天気はいじわるではなかった。

早朝、露天風呂に入るころには再び快晴、と思いきや、突然雲が空を蔽い、ばらばらと音を立てて雨、つづいてさらに音が高くなった。見ると霰である。ひとしきり降ったあとまた空は青空に戻った。

 

気多神社(能登一宮神社)

ついに日本海に至る。

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心配していた天気は、なんと快晴。能登の里山海道を春の海を眺めながら走る。柳田で里山海道を降りる。

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気多神社(能登一宮神社)に立ち寄る。思っていたより大きい。

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由緒書き。大国主命が祀られているのだ。

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参門と言っていいのだろうか、参門から拝殿を見上げる。

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拝殿。厳かさを感じる。庭を掃いていた巫女さんに少しだけ話を聞く。

「外から写真を撮るのはかまいませんが、内部の写真は撮らないようにしてください」と言われる。もちろんである。ここには昭和天皇がお参りしたそうで、そのときの写真が展示されていた。そこにはそれ以外にも好い写真がたくさんあった。

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本殿を望む横手に廻る。この後背地の森は、入らずの森、つまり入ってはいけない森となっている。

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まったく人の手の入っていない原生林があるらしいが手前しか見えない。何しろ道もないのである。

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こういう苔に木漏れ日がさす光景はなんともいえず好い。

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流れにツバキの花が落ちていて絵になる。

たまった汚れを祓って貰って神社をあとにする。

これからさらに海沿いに北上する。

2019年4月 8日 (月)

さらに北上

飛騨古川から41号線をさらに北上し、数河高原のドライブインで昼食を摂る。

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ドライブインから国道を挟んだ向かいに稲荷神社があった。狐が鳥居に隠れている。ごらんのように雪が残っている。国道横にも残雪が観られる。この先の数河峠は標高900メートル近くて、780メートルの宮峠よりも高いのだ。外気温10度。

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宙ドーム・神岡に立ち寄る。最近リニューアルされたとテレビで報じていたのだ。スーパーカミオカンデのイメージを再現し、ニュートリノの説明展示がされている。多くはないけれどいつもよりも人がいた。こういうところは嫌いではないが、今一つ盛り上がりに欠けている気がする。やはり一般受けするものではないのだろう。日本人よりずっと熱心な外人さんがいた。

本当は飛騨漫画王国のある宮川沿いの国道360号線、古称は越中西街道を通りたかったが、路がやや狭いのでやめて越中東街道にあたる国道41号線をそのまま北上し、猪谷関所館を訪ねる。

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関所の当時の様子の再現。

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詮議はときに厳しく、ときに寛大だったという。

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谷を越えるときに使われた籠渡し。

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その様子を描いた絵。

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展示物の十手と手鎖。手鎖の実物を初めて見た。

一息入れて今晩の宿の越中八尾に向かう。

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越中八尾といえばあわら風の盆である。その町の雰囲気を知りたくて駅周辺などを車で走ってみたが、まったくその風情を感じることが出来なかった。宿泊場所が高台の宿なので街から離れている。夜ぶらつくというわけにはいかない。

部屋に掛かっていた切り絵を以て八尾の風情とする。

そのままにすればよいのか

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昨日、縦の画像が横になってしまうとぼやいたが、やり方が分かった。

縦のものを縦のまま取り込めばよかったのだ。JTrimで元の画像を圧縮してときに若干の補整をしているのだが、そのときに横になった縦撮り画像を縦に直している。それを横のままにしておくとちゃんと縦として取り込むようだ。よく分からないがとにかく出来たからよいのだ。

 

眼と眼が合って

 引き寄せると彼女は私に凭れかかってきた。ほっとついた吐息と髪の匂いをかぎながら、彼女が私の胸に安らぎを感じていることに身震いするほどの幸せを感じた。

 

 私はまだ若いようである。彼女は黒谷友梨香さんに似た女性で、私は確かに生身の彼女の重さを実感していた。

 

 昨晩は八尾の温泉に泊まり、八時前にはもう爆睡していた。夜明け前、というより真夜中に目覚める直前に見ていた夢である。

 

 どうしてこんな夢を見たのか分からないが、人生で最も幸せな瞬間だったかも知れない。もちろんこんな経験は無いのである。夢というのは不思議だ。

2019年4月 7日 (日)

いじわる!

マンションの中庭の桜はほぼ満開。

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その桜に見送られて国道41号線を北へ向かう。

どうして画像が横になってしまうのか分からない。修正することもできない。つい少し前まで出来ていたことが出来なくなった。どうなっているのだこのブログは。

名古屋から髙山まで、ほぼ150キロ。髙山の手前の分水嶺の宮峠を越える。名古屋側は天気がよくても分水嶺の向こう、日本海側は天気が思わしくない予報だ。髙山をすぎたあたりからフロントガラスにぽつぽつと雨粒が・・・。

最初の目的地は飛騨古川。小型の髙山と呼ばれるこの町は、小型なりに髙山よりも昔の風情があるといわれているが、ゆっくり散策したことがない。

飛騨古川に入るころからまともに雨が降り出した。飛騨古川駅の近くの無料駐車場に車を駐める。傘なしではとても歩くことができないほどの本降りになってきた。

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宮川の支流、荒城川の川岸にある弁財天堂。

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中をのぞいてみる。意外と大きな木彫りの弁天様がいらっしゃる。

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我慢して横から観てください。こんな感じの街並みです。

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荒城川に架かる橋の上から。

何しろ傘をさしながらの写真撮影だから苦しい。

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有名な和蝋燭の三嶋屋さん。

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この後には祭りの屋台が収納されている。

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こんな飲み屋があるなら飛騨古川の街中に泊まってここに来たい。

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この通り、本降りです。

ところが町の散策をあきらめて駐車場に戻ったら雨が止んだ。食事でもしようと駅周辺を歩いたらそれらしいところはただ一軒。ところがそこへ子供十人くらいを引きつれた女性三人が先に入っていった。

あまり大きな店ではないからこれではやかましくてゆっくり食べられそうもない。あきらめた。少し先の数河高原のドライブインに向かう。

天気も含めて・・・いじわる!

山本夏彦『日常茶飯事』『茶の間の正義』(中公文庫)

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 読みかけの本が何冊もあるのに、これらの本を読み始めたらとまらなくなった。山本夏彦の本は数十冊あるので、このまま読み続けると彼以外の本が読めなくなってしまう。とりあえずここで打ち止めにしておこう。

 

 決まり文句をいうのは恥ずかしいが、人生は長いようで短く、短いようで長い。自分があと一年あまりで七十歳になるなどと、そんな日が来るなどと、まったく思わなかった。思い返せばうたかたのような日々だった。そしていまもそうで、これからもそうにちがいない。

 

 人生に意味を感じるのは瞬間にすぎない。そんな瞬間のいくつかの間に虚無の時間が延々と続く。だから一瞬が永遠なのだし、そう思うことにするしか生きるよすがはないのである。

 

 山本夏彦を読むと厭世的になる。この世が矛盾だらけで虚偽に満ちあふれていることを思い知らされる。それを承知しながらなんとか生きている人と、なにも考えずに楽しく、また苦しく生きている多くの人々がいる。その違いはあるようでない。考えていると思っている自分は、実はなにも考えていないことも承知しているのだ。

 

 別に今回読んだこの本にそんなことが書かれているわけではない。ユーモアと皮肉にあふれていて笑顔で読める本である。そして私は何度も繰り返し山本夏彦を読んできて、根底に流れる人生観に自分なりに影響された。彼から生きていくための諦観を教えられた。人はいつか死ぬ。死んだ人たちの中には多くのものを残してくれた人たちがいる。その人たちの残したものを知ることで彼等とお友達になることを教えてくれたのは山本夏彦である。

 

 だから独りで生きていても寂しいはずがないのである。私にはだから生きるよすががちゃんとあるのだ。 

 

 本日から三日ほど北陸を愛車で歩く。あいにく彼の地の天気はかんばしくなさそうだ。雨が降ればほとんど写真は撮らない。濡れるのが嫌だから。でも雨なら雨の風情があって、それをじかに感じるのも楽しい。とくに春の雨なら。

2019年4月 6日 (土)

映画『大砂塵』1954年アメリカ

監督ニコラス・レイ、出演ジョーン・クロフォード、スターリング・ヘイドン、マーセデス・マッケンブリッジほか

 

 原題はJohnny Guitar、あの私の大好きなペギー・リーがエンドクレジットで主題歌『ジョニー・ギター』を歌っている。

 

 主人公の自称ジョニー・ギター(スターリング・ヘイドン)は普段は丸腰でギターを背に負っている流れ者である。小林旭の『ギターを抱いた渡り鳥』シリーズはこれを真似たのか? 彼は山奥の人があまり来るとも思えない賭博場の女主人ヴィエンナ(ジョーン・クロフォード)に呼ばれてやってきた。

 

 その酒場兼賭博場になだれ込んできた連中は、兄を殺されたエラ(マーセデス・マッケンブリッジ)という女性についてきた男たちである。エマは兄を殺した犯人は、この酒場にいつも出入りしているキッドという男とその仲間たちだといい、ヴィエンナもグルだと言い張る。

 

 ヴィエンナは銃を持ってその連中を追い払おうとする。ヴィエンナとエラや男たちとの応酬は緊迫して一触即発の状態になる。そこへキッドと仲間たちが酒場になだれ込んでくる。険悪なその場をなんとか収めたのはジョニー・ギターだった。

 

 圧倒的に数の多いエラと男たち、かれらに抗することは不可能だし、そもそも法的にも彼等の方に分のありそうな状況である。保安官は争いを本格化させないために、キッドたちやヴィエンナたちにこの地の立ち退きを命じる。

 

 この争いにはエラとキッドとの男女の感情的なもつれがヴィエンナへの敵意となっていること、鉄道が通ることでこの地域が再開発されて、町が出来てよそ者が入ってくるることを嫌う男たちの不安と怒りが背景にある。

 

 もともと西部の開拓によって牧場主たちは広大な土地で自由に暮らしていた。その地に鉄道が敷かれ、町が出来、農民が土地を所有することで牧場主と農民たちとの軋轢が生じ、諍いがときに殺し合いとなったというのが西部劇のストーリーであることが多い。

 

 この映画ではそれがエラとヴィエンナの女の戦いに、それもすさまじい戦いに象徴されていくのである。エラの狂信的なまでの憎しみは恐怖を伴うほどで、それに敢然と立ち向かうヴィエンナに、どうしても気持が傾く。登場する男たちはまったく影が薄い。

 

 このどうしようもない状況が最後にどう終息するのか、それを観るのがこの映画の面白さである。

 

 ジョーン・クロフォードといえば美女というよりもその意志の強そうな個性的なあごとまなざしが強烈な女優である。つい『ジェーンに何が起こったか』(主演はベティ・デイヴィス)という怖い映画での、理知的に見えながら冷酷な老女を演じた彼女を思い出してしまうが、この映画は若き日のものである。

床屋と花粉症と踏切

 髪が伸びた。それ以上に襟足がむさ苦しくなっている。襟足のぶんが前髪に廻ってくれるとありがたいが、ままならぬ。だからずいぶん前から床屋に行かねば、と思っていた。

 

 しかし花粉症である。髪を切ったり髭をあたっているときにくしゃみが出たり、手が自由にならない状態で鼻水が出るのはかなわないから、つい床屋に行くのに躊躇する。もともと床屋には行かずにすめば行きたくないから、行けない理由があればいつまでも行かない。

 

 昨日はどういうわけか花粉症の症状がぴたりと止まった。行けない理由がなくなれば仕方がない。安い上に早い(高い床屋は時間が長い)床屋は隣駅の向こうである。歩いたら三十分弱かかる。一駅を電車で行けば歩きも含めて二十分弱だが、汗をかかずに済む。汗かきなので一気に三十分歩くと汗をかいて床屋で見苦しいのが嫌だ。

 

 ところが電車の時間の見間違えで、結局歩くことになった。途中の公園で休憩することで息を整えた。ほとんど風もなく、桜の木陰のベンチに座り、六分咲きほどの桜をあげ、子供連れの若い母親たちのおしゃべりをぼんやり聞いているのも面白い。

 

 頭をさっぱりして、帰りももちろん歩く。もう汗をかこうがどうしようがかまわない。一昨日の飛鳥での長時間歩いた疲れが多少脚に残っていたが、じっとしているよりこうして歩いてほぐす方がよいのかも知れない。

 

 途中に車の通らない小さな踏切を渡るのだが、踏切が閉まって人だかりがしている。よく見ると踏切手前で電車も停まっている。事故だろうか、イヤなものを見なければいいが、と思っていたら電車から運転手が降りてきた。踏切の前にいた自転車のおばあさんたちに話しかけている。

 

 詳しいことは分からないが、ひとりのおばあさんがなにかの理由で踏切内に立ち往生し、ほかのおばあさんたちが緊急停止のボタンを押したらしい。さいわい立ち往生は事故につながらず、原因となったおばあさんはひたすら頭を下げていた。

 

 事情の説明が済み、運転手は運転台で司令部に説明しているようである。しばらく待って、電車が動き出した。電車は上り下りともその踏切で停滞したから、つぎつぎに通過する電車を眺めることになった。おばあさんにおとがめがあったかどうか知らない。

飛鳥を歩く(6)

今回が飛鳥散策の最後。

持統・天武陵を見に行く。

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むこうの高台の林が持統・天武陵。真ん中の細い路を行く。天武天皇は持統天皇(女帝)の息子。天皇という呼び名は天武天皇から始まったという説が有力らしい。持統天皇はまさに天照大神であった。

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表側ではなく、暗い林の中を通り抜ける路を行く。左手が陵墓。

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このなかに両天皇・つまり親子は埋葬されているのだろうか。

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ぐるっと回って表側から参拝。

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通り過ぎて振り返る。

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写真を撮った場所の横に木瓜の花が咲いていた。こんなにたくさん咲いているのを初めて見た。

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足元を見ればタンポポ。縦で貼り付けたはずなのに横向きになってしまった。べつにいいか。

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そこら中にツクシが顔を出している。採ってもすぐに食べられるわけではないので諦める。今晩は友人と天王寺で酒盛りなのだ。だいぶ歩いたので脚が痛くなってきた。

つぎに来た時は石舞台などを歩こうかと思う。今回の飛鳥はこれでおしまい。

2019年4月 5日 (金)

飛鳥を歩く(5)

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遠回りしたが、橘寺に到着。ここは聖徳太子誕生の地と伝えられている。

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山門。入場料350円。足元は瓦が敷き詰められている。

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中へ入って山門を振り返る。桜が美しい。

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神馬と桜。観光客も多い。

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たちばなの てらのながやに わがゐねし 

  おなみはなりは かみあげつらむか

万葉集?巻16-3822

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会津八一の歌。

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本堂に参拝して回廊から撮る。

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境内にある二面石。

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右善面。

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左悪面。

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もう一度桜を眺めて寺をあとにする。

帰り道に少し違うルートをたどり、天武・持統天皇陵を見に行く。

飛鳥を歩く(4)

実は野中の一本道をそのまま歩けば亀石までいけたのだが、途中で出あった太い路へ移ったために方向を間違えてしまった。

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ほとんどこのお地蔵様の近くだったのに間違えた。しかも地図の見方も勘違いしていたのだ。私は方向音痴でしかも地図をうまく読み取れない。「むりやり間違えているのか?」と友人に笑われることもしばしばである。

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こんな春の景色を楽しみながらウロウロした。

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どっちに行けばいいか教えてください、と訊ねても返事はない。

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明日香村小学校。そうか明日香村は村なのだ、などとちょっと感心したりする。

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小学校を桜の木が囲う。

地図を見ると小学校まで来るのは明らかに行きすぎているのである。あわてて引き返して漸く行くべき道を発見する。

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やれ嬉しや、亀石に到着。

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亀石由来。川原寺の境界の目印のための石らしい。ほかに三つあることになるのか。川原寺はいまは跡しかない。

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石の重量感、存在感を感じる。

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石の表面から見て花崗岩であろうか。

このあと、もう少し足をのばして橘寺へ向かう。

飛鳥を歩く(3)

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あたりのよいところの桜はかなり咲いている。風もあまりないが、この日(3日)は気温が低くて歩いても汗が出なくて楽だった。

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玄関の上にしゃもじが並んでいる。ほかでも見たことはあるが、どういうおまじないなのだろう。

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こんな野の路を歩いて行く。

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辻にはお地蔵さんがいる。いいなあ。

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おお!鬼の雪隠が見えた。

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正面から眺めてみる。これが雪隠なら、これにまたがる鬼は随分大きかったのだろう。

ここの道上の高台に鬼の俎(まないた)がある。

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この辺はむかし霧ヶ峰と呼ばれたところで、霧がよくでたという。それは鬼が霧をふらせ、それに迷った旅人をとらえて俎で捌いて喰らい、そして鬼の雪隠で用を足したのだという。

どうもこの俎とされる石の台の上に、下の雪隠とされる石が載ったかたちの石棺だったのではないかという。雪隠がなにかの理由で下へ転げ落ちてしまったということだ。

ここから少し歩くが亀石を見に行く。

2019年4月 4日 (木)

飛鳥を歩く(2)

近鉄の飛鳥駅を背にして左へ、川沿いの道路を行くと、線路沿いに北上することになる。最初の小さな信号を渡ってそのまま東へ少し歩いて左折れればすぐに欽明天皇陵がある。駅前の観光案内で、明日香村観光マップをもらえるので、それに従えばよい。

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欽明天皇陵。つまり古墳である。木があるから全体の形はよく分からない。

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少し高台から見下ろしてみる。古墳全体がお墓なのはもちろんである。

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全長140メートルというから随分大きいのだ。

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人は陵に入ることができないが、鷺は自由に出入りする。

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吉備といえば岡山県の豪族だが、当然それと関係があるのだろう。吉備氏と云えば吉備真備を思い出すし、先日水害に遭った真備町はその真備にちなんだ町名であろう。藤原氏が強大になる前は吉備氏から多くの后妃が皇室に入籍したはずだ。

ここに猿石がある。

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説明板によれば、欽明天皇陵の横の田んぼから掘り出されたのだという。

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どういう意味のある石像なのだろうか。

ここから少し戻り、さらに東へ散策路を歩いて鬼の雪隠と鬼の俎(まないた)を見に行く。

飛鳥を歩く(1)

昨日は大阪の友人と会食をした。友人と会うことで無言の行の日々が解消される。ついしゃべりすぎるが、笑って聞いてくれる友人がいることは大変ありがたいことである。

その会食の前に早めに出かけて奈良の飛鳥の地を訪ねた。飛鳥は昨秋飛鳥寺界隈を歩いて以来二度目である。

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前回は樫原神宮駅を起点に歩いたが、今回はこの飛鳥駅を起点にする。

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駅前から交差点に出て振り返る。大きな石のモニュメントがあるが、何を象徴しているのか分からない。

遠くの山並みは変わることはないから、古代の日本の人々も同じ景色を見ていたのだ。

まず欽明天皇陵、吉備姫王墓、そこにある猿石を見に行く。

2019年4月 3日 (水)

紹介したくて

 山本夏彦が忘れられてしまうのが残念で(そもそも知らないという人も多いか)昨日言及したが、彼の『日常茶飯事』というエッセイ集から『契約』という一文を全文紹介する。これは昭和三十年代に書かれたものなので、それを念頭に置いて少し長いけれど読んで欲しい。

 

 二級建築士の組合に、ほとんどただで、組合員にくばる雑誌がある。そこの社員が来て言うには--投書が山積して困った、同一の記事を、甲はやさしすぎる、乙はむずかしすぎると言う。同じく二級建築士でありながら、甲は学校出、乙は大工出身で、甲が学校で習って耳にたこができていることが、乙には初耳だからである。

 

 なにか妙案はないかと、あとで考えてみたがなかった。この雑誌と読者の間には、初めから契約が成立していないからである。

 

 中学生が、「中央公論」や「世界」を買うことがある。周知のように、これらは大人のための綜合雑誌で、少年には分からぬ字句が多い。分からなくても、それは雑誌の罪ではない。自分が至らぬせいだと、中学生は知っている。分かりたければ辞書でも引くよりほかないと、知っている。

 

 この中学生と雑誌との間には、買ったとたんに右の了解が成立している。この場合、自分の小遣いを出して買ったかどうかは、あとで文句を言うか言わぬかに微妙に関係する。

 

 ただで組合から送られる機関誌には、この暗黙の契約がない。組合費で作った雑誌だから、甲も乙も自分の雑誌だと思っている。ところが一読して分かりきったことばかり、あるいはむずかしいことばかり、書いてあるから文句をいうのである。

 

 署名捺印するだけが、契約ではない。劇場と観客との間には、入場料を払ったとたんに契約が成立する。

 

 三勝半七酒屋の段--茜屋半七は遊女三勝に迷って、女房お園を捨ててかえりみない。去年の秋のわずらいに、いっそ死んでしまったら、こうした歎きはあるまいものをと、お園はなく。客は貰い泣きする。そのために見物に来たのである。それが芝居と客との約束であった。

 

 半七こそ封建亭主の代表者である。お園の歎きは愚劣である。奮起して半七を蹴飛ばし、悔い改めければ、早く離婚すべきである。

 

 私が言うのではない。この芝居を見物半ばの女客があわをとばして論じるのである。

 

「ピエルとジャン」の序文で、モオパッサンが夙に腹を立てている。「悲劇」を見て、それが「喜劇」でないと非難する客がある。悲劇は悲劇の約束に従って見物すべきである。その上で、悲劇としてのよしあしを論ずるなら批評である。喜劇の尺度しか知らないで、それで難じられてはたまらぬと書いている。

 

 封建云々の尺度で、古き脚本を論ずるのはこの類か。そんなら箸がころんでも、封建のせいであろう。今日の目を以て、昨日を論ずるなかれと古人は言っている。

 

 彼女はこの狂言の見物ではない。木戸銭は払ったが、なお契約しない見物がいまは増えた。大人の本を買いながら、字句の難解を改めよと投書する子供が増えた。

 

 ひとたび断絶した契約は、容易には復旧しない。というより、契約の実相は本来かくの如きか、いつ、いかなる時代でも、人と人との間には契約はなかったかと私は疑うのである。

 

 モオパッサンが腹を立てたのは、八十年も昔のことである。してみればこの女客のような見物は、今も昔も多かったとしれる。

 

 所詮は人数の多寡による。お園の愁嘆は愚劣だと説くものが多ければ、客はそれに従うであろう。ヒトラーの弁舌に心酔した若者たちは、いまは組合の指導者くらいにはなっている。おしつけがましくその主張と感激を語る顔つきは、何千年来の同じ顔つきである。

 

 一々逆らうのは危険だから、戦中も戦後も、私は耳を傾けるふりだけして、エチケットを守ってきた。進歩的な感動だけがうそだというのではない。左右を問わず彼等が感動と称するものの悉くが、質的に同一なことに、私は索然としているのである。人はついに真に感動することはないのか、やっきになって弁じたてるのは、無意識にそれを隠すためなのかと、まじまじと語り手の口もとを見るのである。

 

 古往今来、喜怒哀楽が自分のものであったためしがあろうか。それは一代の風潮、あるいは他人の指図によって、旗色のいい方に従うだけのものではなかったか。

 

 私は若く、激しやすかった。十年以上前のことである。舞台でひとりお園が歎き、客が貰い泣きする場面で、試みに笑ってみたことがある。客席の暗闇をよいことにして、私は声を放って笑ったのである。

 

 すると、果たして、客席のあちこちから私の声に和するものがあった。はじめおずおずと、たちまち安心したのであろう、大胆不敵な笑い声が諸所におこった。それは次第に場内を圧し、真実おかしくてたまらぬように、どっと笑いくずれ、わが耳朶をいたく打ったのである。

 

 どうです。山本夏彦、強烈でしょう。これが何を言っているのかさっぱり分からない人と、打てば響くように分かる人とに別れるのである。もちろんどちらが正しいとかそういうことではない。

『安岡章太郎随筆集 1』(岩波書店)

 若いころ、といっても一部を除いてほとんどが戦後に書かれたものだが、著者自らが「雑文」と自嘲するような軽いものが集められている。以前にもブログに書いたが、安岡章太郎はあくまで自分自身の視点にこだわる。一個人であること、そこで見聞きし経験したことを自分の中で発酵させて文章にしているが、そこに巧まざる諧謔があるのでわたしは好きなのである。

 

 つい読み飛ばしてしまい、読めすぎてしまう。大事なことがそこに書かれているのを見逃してしまう。あえて云えばそれが欠点だろうか。

 

 この第一巻は彼の若いころのフワフワと生きていたように見えるころの話が綴られているのだが、実はフワフワなどとんでもない。終戦の少し前に軍隊で罹病して退役させられ、帰ってから脊椎カリエスになってほとんど寝たきりになる。父親は軍人だったが、終戦と同時にほとんど廃人のようになって、一家は路頭に迷うのである。

 

 それがたいしたことでもないことのように書かれ、実際彼自身は苦労した、などとは一言もいわない。戦後の時代はみな貧しく、それでもなんとか生き抜いた時代のようである。空襲ですっからかんになったという私の母からも、戦後がみじめで苦しかったなどということは聞いたことはない。戦争が終わったことが嬉しいばかりで、今日よりは明日の方が必ずよくなる、と心底信じられた時代だったようである。

 

 安岡章太郎は第三の新人などと呼ばれた戦後作家の一群の一人である。交遊のあった作家としては、吉行淳之介、近藤啓太郎、三浦朱門、遠藤周作、阿川弘之などがあり、このエッセイにもしばしば顔を出す。

 

 彼が時代をどう見ていたのか、戦後から現代というのが彼にとってどう見えていのか、それが第二巻以降にも綴られていることであろう。読むのが楽しみである。

2019年4月 2日 (火)

偏屈じいさん好きの女性だっているはず

 若いときに山本夏彦に傾倒した。いまの私のブログの文体に多少はその影響が有るはず、と自負しているが、「どこが?」と聞かれるのがオチだろうか。そもそも山本夏彦って誰だ?と問われるだろう。

 

 もと「木工界」後に「室内」という雑誌の編集長兼発行人である。辛口エッセイの名手であり、原稿用紙二十枚の内容を二枚にして寸鉄釘を刺す文章を書いた。だから二枚で二十枚の内容を読み取らないとならない。うっかり読むと、いま否定したことを次の行で肯定しているように読めたりして意味不明になることがある(らしい)。母に面白いからと読ませたらそういっていた。

 

 すでに物故して久しいが、時々積みあげた彼の本を精神のリフレッシュのために繙く。現世の汚濁に汚れた精神を彼の文章で洗浄するのだ。彼は生前からある意味ですでに死んでいた。時間や空間、性別年代を超越していた。すでに生を放棄しているからこそのユーモアとエスプリが彼の文章には散りばめられている。

 

 本当にかぎられた人にしか受け入れられそうになさそうなのに人気があったというのは本当か。さも分かったように読んでいた人間が多かったのではないか。ましてや女性には特に辛口だったから女性のファンがいたなどというのは信じがたいが、実はけっこういたという。

 

 山本夏彦を面白いと思う女性がいれば是非お近づきになりたい。若くなくても美人でなくても全くかまわない。偏屈じいさんの代表みたいな山本夏彦を読んで面白がれるのだもの、私と話が合わないはずがないと思うが、残念ながらいまだかつてそんな素晴らしい女性に出会えずにいる。まことに残念至極である。

 

 山本夏彦の本を読むのなら、中公文庫に十冊ほど収められているので、若し興味があるなら是非ご一読を。ほかの文庫にもたくさんあるが、この辺が手頃かと思う。いまその中の『日常茶飯事』という本を開いて読み始めたところだ。

新元号と日本学

 新元号が令和と決まった。ただ、私はつい「りょうわ」と読みたくなってしまう。慣れるのに時間がかかりそうだ。

 

 出典は万葉集だそうで、日本の古典からの引用は初めてのことだそうだ。たまたま梅原猛の『水底の歌 上・下』を苦労しながら読んできたばかりだから、多少の感慨がある。この本は柿本人麿論であり、万葉集を題材にした梅原猛流の日本古代学である。

 

 今回の新元号をきっかけに万葉集ブームが起きるかも知れないというが、結構なことである。しかしそれが本格的な日本古代への興味につながるのかどうか、いままでのことから見て一時的な恰好だけのものに終わりそうな気もする。

 

 もともと日本人にはそういうところがあるけれど、特に日本の古代の研究というと、国学を連想し、国学といえばナショナリズムを連想し、戦時中を思い出すというメカニズムが働く。新元号に冷淡なサヨクの思考の流れだけれど、それは戦後教育によって日本人全体に浸透した思考の流れでもある。

 

 梅原猛は国学のそのようなナショナリズムを排するかたちで、国学でなく日本学という名前での日本古代の研究を提唱している。すでに日本学としての体系も出来ているといえる。

 

 新元号をきっかけに日本古代のことに興味をもち、関連した本などを開くとき、国学を基盤としたオーソドックスな古典研究の本を読むこともいいけれど、出来れば梅原猛の本も合わせて読んでもらうとうれしいところだ。どちらにしても、最初は取っつきにくいだろうが、あるレベルまで達すればとても面白い世界だと思う。

 

 いま、中学や高校での古典の授業はどんな状態なのだろうか。私は高校のときの古典の先生が小声(よく聞こえない)で自己陶酔する授業に嫌気がさして古典がさっぱりだった。そのために五十年無駄にした。しかしそれは自分が悪い。そんな先生に教わりながら古典を楽しく学んでいた級友もいたのだから。

梅原猛『水底の歌-柿本人麿論- 下』(新潮社)

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 上巻を読むのに三ヶ月以上かかったので、下巻も四月中に読み終わればいいと思ったのだが、気がついたら読み終わっていた。

 

「私のこの論文が思いがけなく長い論文となったのは、私の独断を、多くの証拠をあげて論証しようとしたためでない。むしろ私の自説に対する疑いが、このような長い論文を書かせたといえる。もしも、たった一つでもよい、私の説が成立することを妨げる決定的な証拠があれば、私は自説を取り下げねばならぬ。そういう用意とともに、私は人麿論を体系的に展開することにした」

 

こう梅原猛は巻末に述懐している。

 

さらに
「私は、この論文で、茂吉(斎藤茂吉)と真淵(賀茂真淵)に対してきびしい批評をしたが、それは、私が、茂吉と真淵に心からの感謝を捧げることを妨げるものではない。真淵はもちろん、茂吉すら、彼等はほかの学者がもたない長所をそなえていた。それは体系性と徹底性ということである。彼等は自己の人麿像に体系性を与えようとした。この体系は、私によれば、真理の体系ではなくて誤謬の体系であったが、体系性はそれが完全に誤謬の場合でもある種の有効性をもっているのである。なぜなら、この体系が、その体系を構成する本質的な部分において誤謬であるならば、それは全体として誤謬であり、その誤謬を是正する作業において、逆に正しい体系を構成することが可能になるからである。折衷論には、こういう効用はない。それゆえに、私は、茂吉の「鴨山考」および真淵の人麿論を批判しながら、私の鴨山考、人麿論を展開することが出来たのである。体系は、それが誤謬であった場合においても大いなる価値を持つことを、私は改めて教えられた。その意味において、私は、真淵および茂吉に深甚の謝意を捧げたい」

 

 残されている文章が矛盾したとき、どれかが間違っているという前提のもとに、整合性をもたせて人麿論という体系が作られた。近代はその体系をもとに古代を解釈している。

 

 梅原猛は矛盾する記録の矛盾はどうして起こっているのか、その矛盾をすべて正しいとしたらどういうことが考えられるか、という視点からすべての体系を組み替え直したのである。どちらが正しいのか。

 

 私にはわからないが、万葉集がおおらかな古代人の人間賛歌であるかのように教育された。しかし歌を読むとき本当にそうなのか、という疑念を常に持っていた。だから梅原猛の作り上げた古代についての体系はとても魅力的に映る。こちらの見方から古代を見る方がリアリティを感ずる。

 

 まだまだ梅原古代学の一片を読み囓ったにすぎない。続けて読むのはちょっとくたびれるので、少し間隔を空けてさらに読み続けてみたいと思っている。さいわい関連の蔵書は棚にある。

2019年4月 1日 (月)

散歩(2)

木津用水まで歩くのが散歩コースの一つ。木津用水はいまは合瀬川という河川名がある。もともとは農業用水として明治村のそばの入鹿池から水を引いたが、水量が少ないので、犬山の木津口から木曽川の水を取り入れて用水とした。江戸時代以来農業用水だけでなく水運に利用されたという。わが家からここの土手を含めて長方形に散歩して一時間余り、途中で寄り道をしたりするので手頃な散歩コースである。

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土手には桜並木がある。まだ三分咲き位か。色をいじっていたら変な色になってしまった。左が木津用水。

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桜を撮っていたら突然目の前のフェンスに鳩が下り立ち、写真を撮れというので撮らせて戴いた。

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川には鴨が泳いでいる。冬には水があまり流れていないのだが、春になって取水口を開いたのだろう。

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橋の上からのぞいたら、鯉が寄ってきた。餌をくれると思ったらしい。

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このときは青空ものぞいていたが、帰りには雨に降られた。

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けっこう花の開いている木もあった。コッツ山公園で一休みして帰宅した。

 

散歩(1)

いつもの散歩コースの途中にある神社に立ち寄る

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牟都志神社と書いて「むつしじんじゃ」と読む。

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山の神を祀ってある。お祀りしなければならないほど偉いのだ。

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境内の隅に山茶花が散り敷かれている。春なのだ。

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ふと視線を感じて振り向いたら、あわてて狛犬がそっぽを向いた。

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切り株の上になにかの木の実が山盛りになっている。ひとりでに山になったのだろうか。

長野まゆみ『カンパネルラ版 銀河鉄道の夜』(河出書房新社)

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この題名だと、ジョバンニではなくてカンパネルラの視点から銀河鉄道が描かれると思うではないか。カンパネルラがどうなったのか、わかってはいるのだけれど、もう少しはっきりと知りたいと誰でも思うはずだ。

 

 読み始めると予想していたような話とは違う。著者が宮沢賢治をとことん読み込んでいて、しかも『銀河鉄道の夜』は何度も書き直されているのだが、それらについての研究もしていることがよくわかるのだけれど、一体銀河鉄道はどこへ行ったのか、カンパネルラは、そしてジョバンニは・・・。私はこれだけ宮沢賢治に詳しいのです、と著者に自慢されているようなところが鼻についたのだ。

 

 だから三分の一くらい読んだところで読むのを一ヶ月ほど休止していた。

 

 ようやく読み続ける気になったので読み始めたら一気に読了。だんだん著者の意図が了解できてきたので、違和感はなくなった。宮沢賢治を初期から高く評価していた中原中也まで登場して、宮沢賢治の考えたことを解説してくれるのである。もちろんその中原中也は著者の長野まゆみの頭を通過しているから、中原中也でなくて中原宙也と名乗っているが。

 

 二月に山口市の湯田温泉の中原中也記念館に行って中原中也には思い入れがあるし、花巻の宮沢賢治の記念館を三回も訪ねているから、私だってちょっと普通の人よりかれらについて詳しいのだ。

 

 私自身の思い入れに、著者のたくさんの宮沢賢治への愛情が降り注いで、まあこんなのもありかな、というのが読んだ結論である。宮沢賢治はわかりにくい。特に銀河鉄道はわかりにくい。わかりにくいところにさまざまな想像力を掻き立て、さまざまな解釈を生む余地がある。読めば読むほどそれが膨らんでいく。

 

 たぶん宮沢賢治は一生楽しめる不思議な世界だと思う。

 

 ところでジョバンニが宮沢賢治だと思っていたら、カンパネルラも宮沢賢治らしい。この本の前半はもちろん表題の『カンパネルラ版 銀河鉄道の夜』だが、後半には『カンパネルラの恋』という文章が収められていて、そのことがわかるようになっている。

 

 この本は『カンパネルラ版 銀河鉄道の夜』ではなく、『銀河鉄道の夜の解説 長野まゆみ版』だと思って読んだ方がいい。ちょっと変わった評論というところか。

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