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2019年6月16日 (日)

梅原猛『万葉を考える』(新潮社)(3)

 国学が志士たちを勤王へと盛り上げたことは事実である。徳川幕府体制ではなく、朝廷を上位に置いた体制にする、というよりも、戻そうという運動につながった。攘夷思想がそれにエネルギーを注ぎ込んだ。どうして国学者の賀茂真淵が『万葉集』を高く評価したのか。日本が中国や仏教の影響を受けていない時代を純粋日本の時代として理想化したのである。これが事実であるかどうかは問題ではない。そういう時代の日本があったと考えたいから『万葉集』の時代はそうだった、と決めつけたのだ。

 

 明治はそのような勤王倒幕の志士たちが政権を担った時代であり、その流れは国粋主義の時代へとつながっていき、日本は戦争の時代へ突入する。

 

 では賀茂真淵が万葉の時代を仏教や中国の影響がない時代とみた見方は正しかったのか。

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 戦後、研究者たちが『万葉集』、そして『柿本人麿歌集』を新しい切り口から詳細に分析してきた。大ざっぱに言えば、一つはその表記法の違いの分析である。その歌を略体歌と非略体歌とに大別し、その違いは何によるのかを研究したのだ。御承知のように、万葉集はすべて漢字で書かれている。まだ仮名は生まれていなかったのだ。略体歌とは助詞が表記されていないもの、非略体歌とは助詞が表記されているものである。そのへんの詳細はこの本を読んでもらわなければならない。

 

 結論からいえば、柿本人麿の歌には仏教や中国の漢詩や文化知識の影響がはっきりと読み取れることが明らかになってきている。そもそも万葉集を漢字を離れて仮名に置き換えて鑑賞してしまうと、その詩の本質を見失い、一部しか読み取れないのだ。同じ言葉が違う漢字で表記されるにはそれなりの理由が厳然としてある。その漢字の意味を付与して読み取らなければならない。それは中国文化に関する素養を必要としたり、仏教の素養を必要とすることがしばしばあるらしいことも見えてきている。賀茂真淵の前の契沖は歴然とそれを読み取っているのに、賀茂真淵はそれを無視したのだ。見たくないから見なかったのかも知れない。

 

 梅原猛によれば、柿本人麿の歌はますらおぶりの歌どころか、古今集につながるたおやめぶりの歌なのだという。だからこそ古今集は柿本人麿を冒頭で歌聖と崇めているのである。それを賀茂真淵以下の国学者は切り捨て、古今集、新古今集を軟弱な文学として唾棄すべきと決めつけた。正岡子規もそれに同調し、さらにその考えを強化した。「写生主義」にそのような背景があることは詩に明るくない私も奇妙なことと感じていた。現代の短歌や俳句が衰退しているのかどうか不明だが、もし衰退しているのなら、そこで隘路に入っているのだろう。

 

 非常に雑にまとめてしまったので、何のことか分かりにくいと思うが、この本では国文学者や詩人との丁々発止のやりとりの中で、梅原猛が次第にその論理を研ぎ澄まして自分の万葉集論を彫琢していく姿を読み取れる。それはそのまま彼の古代日本論につながり、さらに日本論、日本人論そのものへつながっていくことになるのだと思う。

 

 繰り返しになるが、彼は国文学者でも歴史学者でもなく、哲学者である。その彼が哲学的手法を以て万葉集とその時代を解き明かそう、定説を見直そうとする姿を追うことに意味があり、その事実把握の是非はとりあえずこだわる必要はないと思う。不思議なことに彼の打ち立てた仮説は異端として酷評されながら、後になって検証されるか、少なくとも否定できない新しい説として生き延びているのだ。定説を疑う、ということは誰もしたがらなかったようだが、それが無い学問の世界は、ほとんど眠っているに等しい。

 

 本当は取りあげられて解釈されている歌をここに取りあげないといけないのだが、引き写すだけになってしまうし写すのが困難な特殊な漢字がしばしばあるので、それは本を読んで戴きたい。

 

 乱雑ながら以上でこの本のまとめとする。書きながらいまさらながら如何に自分が粗雑か思い知らされた。

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コメント

おはようございます
先日は私の駄文を見ていただきありがとうございます。
よく国粋主義者(今でもそう言った方はいますし、ネトウヨの増加などで絶対数は増えています)は「万葉集は純粋な日本文化だ」と言いますが。令和の例を見ればわかるように、そこには中国の影響も散在しています。此れを以て「所詮日本文化は中国文化のコピーだ」と嘆く必要はないと思います。逆に日本は当時の最新文明だった中国文化をほぼ完璧に咀嚼して自家薬籠中のものにしていたと誇るべきでしょう。少し時代が下りますが北宋の時代に中国人が日本人の書いた漢文を見たとき「少し情緒は薄いけど技巧に凝っていて上手だ」と言ったそうです。中国人にそう言われたのなら日本人として誇りではありませんか・・・?。
では、
shinzei拝

shinzei様
独自性にこだわることはある意味でコンプレックスなのかも知れませんね。
いまの韓国のウリジナルへのこだわりを見ているとつくづくそう思います。
受け入れることは必ずしも負けることではありません。
受け入れることの出来る柔軟性と強さがあってのことでしょう。
さまざまなものを受け入れて影響を受けながら変化してできあがった日本はいい国だと思っています。
排他的な国や組織は衰弱していくのではないかと思います。
観念的にそう思いたいということだけかもしれませんが。

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