梅原猛『万葉を考える』(新潮社)(1)
昨年、四十年ぶりに開いた『隠された十字架』を読み直して、梅原猛に再傾倒している。同時にむかし読んだときにはほとんど無知に近かった古代日本についても、合わせて少し勉強している。奈良にも何度か足を運ぶ中で、自分なりのイメージをわずかながら掴みつつある。
ものごとはわずかでも足がかりが出来ると、新しい知識が追加できるようになる。地理不案内な街も繰り返し訪ね、なじみの場所が出来ると方向や位置関係が次第に見えてくるのに似ている。大げさだがすべての知識の習得にはそういう作業が必然であることは、私がわざわざ云うまでもない。そういう作業を繰り返すことで次第にものごととものごととの関係、そしてものごとと自分との関係がぼんやりと見えてくる。どんなこともそれぞれが無関係ということはないのである。何しろそれを知ろうとする自分が関係しているのであるから。
デンマークの実存哲学者キルケゴールが『死にいたる病』の冒頭部に書いている、「人間とは何か。人間とは精神である。精神とは何か。関係である。関係とは何か。関係に関係する関係である」というのが私のものの考え方の座標原点である。これが何をいっているのか、自分なりに分かるのに何年もかかった。そして分かったのはそれだけであるが、それでも世界の見え方が変わったのである。それだけで大いに満足している。
古代日本を考え、古代日本人を考え、それらを考えた過去の人々の考察を批判的に考えながら、それを再検討し、再構築しようという梅原猛の思索の筋道をたどることの面白みにはまっているのである。
梅原猛がこれらの思索作業を行って発表したものは三十年、四十年前のもので、現代は随分と新しい事実や反論が明らかになっていることだろう。余裕があればそれらも調べたいが、たぶん私にはその力は無い。それよりも過去の定説を批判し、新しい仮説を考え、それにもとづいて試行錯誤しながら定説を打ち崩していくその梅原猛のエネルギーにあふれる考察が実に魅力的なのだ。正しいとか間違っているとかいうことが重要なのではない。考えることの面白さを久しぶりに思い出させてくれることそのことが重要なのだ。
これはどうも一時的なものに終わらずに、日本古代や仏教などについて梅原猛が考察した思索の道筋を今後ともトレースすることになりそうな予感がしている。
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