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2019年9月

2019年9月30日 (月)

山本夏彦『二流の愉しみ』から(6)

『偽善は常に正義を装う』(2)

 

 私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ、正義と良心だけは売り物にしてはいけないと思うものである。これを売り物にすることは、最も恥ずべきことだと私は教わったが、近ごろは教えぬようだ。これこそ教科書中に明記していいことである。
この種の本の著者は、はるばる中国へ行って、各地を調査して、生き残りに会って、話を聞き写真をとり、たちまち何冊かの本を各勢力的な人物である。心身共に健康である。
 南京の虐殺は、すでに「東京裁判」でさばかれた事件である。中国側は途方もない人数が殺されたと主張し、日本側はその事実はなかったと争ったかと思う。結局は十二万人を殺したときまったが、むろんこれは確かではない。勝った側がおしつけた数字だから、実際より多いと思っていい。ところがそれから二十余年たって、今度は日本人自身が問題をむしかえして、進んで人数をふやして、少なくとも三十万は殺したと言いだしたのである。勇んで人数をふやすとは前代未聞の事である。健全な国民なら、自国民に不利なことは言うまいし、言ってもその国の新聞雑誌はとりあげないはずなのに、争ってとりあげるのは、これが中国に対して世辞になるからである。
まだ中国が言わないうちに、その意を察して、さき回りして、たぶん気にいられるだろうと言うのなら、それは世辞である。迎合である。中国人にとっては、殺された人数は多いほうがいい。敵愾心を鼓舞するには、被害者は多ければ多いほどいいから、自然に人数は十万より二十万、二十万より三十万とふえるのである。
 世間にはこういう屈折した迎合があるのである。ただし、これだけ屈折すると、読者は迎合だと気がつかない。額面通り読んで、中国人にすまながる。よるも寝られぬという。
 中国と沖縄とベトナムはつながっていて、夜も寝られぬ人は、沖縄を思っても、ベトナムを思っても同じく夜寝られぬという。
 どうして寝られないのだろう。隣人の苦痛を苦痛とするからだという。けれども彼らは父祖の、兄弟の苦痛を苦痛としない。親は子を育てるが、子は親を扶養しない。老いたら老人ホームへ入るがいい。老人ホームが少ないのは国のせいで、子のせいではない。ホームにはいる金は、自分で用意しておけ。それがこれからの親のつとめである。用意の金は多いほどよく、余ったらそれは自分たちがもらう。もらう分が多ければ今度は兄弟で相続を争う。(以下略)
 この両親や兄弟の死に泣かないものが、赤の他人の死に泣いてみせ、泣かないものをとがめるのを、私はこれまで忍んできた。この種の本が売れるのは、買えば自動的に良心と正義のかたまりになれるからで、私はたいがいのうそはがまんするが、このうそにはがまんできない。けれど真、この冷たいものがその自覚を欠いて、他を冷たいと難じることこそ、健康の証拠なのである。不健康というものはもっといいものである。
 ようやく健康に二種あることが分かった。一つは昔ながらの健康、自分の非を認めまいとがんばる健康である。一つは勇んで認めて、他をとがめる健康である。とがめて日本中を全部自分とともにとがめさせようとする魂胆なのである。彼らは日本人でいながら、外国人に似ている。
 以前はソ連人に似ていたが、いまは中国人に似ている。たいてい中国人と同意見で、その精神的支配下にあって、さらに支配下になりたいと願っているから、いずれはなるはずである。
 なれば健康は再び一種類に返る。教科書は厳しく体制的で、反体制の言辞を弄するものは一人もなく、ないことに主人が満足するだけでなく、家来もまた満足するのである。私が健康というものに注目して、ほとんど憎むゆえんである。

 

(これで山本夏彦はしばらく打ちきりとしておく)
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2019年9月29日 (日)

山本夏彦『二流の愉しみ』から(5)

『偽善は常に正義を装う』(1)

 

 わが国の軍人が、中国の人民を虐殺した記事を、写真を見ることがある。
 わが国の軍人といえば、壮年にとっては自分たちのことである。少年にとっては父祖のことである。骨肉同然のものが、海外で無辜の民を殺したと聞くのはいい気持ちのものではない。
 よしんばそれが本当でも、本当だと思いたくないのが人情である。だからこのたぐいの記事を読むのは少なかろうと思っていたら、存外読むものが多くて、たちまち本になってよく売れているそうである。
 いうまでもなく日支事変は侵略戦争で、ついでに日露戦争も日清戦争も侵略戦争で、それを子供たちに教えたいと、教科書中に書いて、文部省から削除を命じられたと、ながながと裁判で争っている編著者がいる。
 どこの国でもその国の政府は、その国の体制を守ろうとする。それは当然のことで、国は守る義務がある。たとえばソ連は、ソ連の社会主義体制を守って、反体制の言辞を許さない。増して教科書中にそのたぐいの言葉を挿入したら、ただではすまないから、そもそも挿入しようという発想が生じない。わが国ではそれが生じるのは、わが国が体制を守ることにかけて、ソ連よりも怠慢だからである。
 またたとえば、イギリスの教科書には、イギリス人の「非」は書いてない。むかしイギリス人が世界中に植民地を持ったのは、みなアフリカでは首長に懇望されたからであり、エジプトでは王様の苦しい財政を助けるためであり、インドではインド人の幸福を願ったためだという。
 どの教科書にもそう書いてあるから、イギリスの青少年はいまでもそう信じている。
 だれが自分の非を、子供たちに伝えたがるだろう。伝えないで隠すのが自然で、従ってイギリスの教科書は自然で、健康なのである。自然で健康なことは、しばしば片腹いたいことである。個人がそうだから、国家もそうなのである。だから私はこの健康というものをなが年見て、ほとんど憎んでいる。
 自分の非をあばくのは、自分ではなく他人である。南京で日本人は中国人を殺した。それは戦闘員ではなかった。ここに証拠がある。証人がいる。夥しい死者を返せ、弁償せよと、中国人がいうならおかしくない。日本人は抵抗すればいいのである。言を左右にしてその非を認めまいとすればいいのである。それが自然で健康なのである。
 瀞があばくのは中国人でなく日本人である。日本人が日本人の非をあばいて、非が少ないより多いのを喜ぶのである。世界中の国民は健康なのに、ひとり日本人だけ健康でないのだろうか。
 そんなことはない。げんに日本人の大半は、この種の記事と写真に目をそむける。見るともなしに見て、それがついこの間のソンミ村の虐殺でなく、三十なん年前の南京の虐殺だと知ると、あわてて二度と読まなくなる。読まないのは健康な証拠である。ところが、進んで読むものがある。
 読むものは、我々はこれだけの悪事を働いた。中国人が告発する前に、せめて自分から告発したい。それが良心あるものの義務だと、読み終わるが否や読みたがらないものを非難する。
 この種の本は、他を非難するためにある。そこには良心と正義が売られている。買い手はたちまち自分は正義の権化になった気で、他をとがめる資格を得る。どこから得るか考えもしないで得るのである。けれどもこんな無反省の老若が、健康でない道理がない。

 

 私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ、正義と良心だけは売り物にしてはいけないと思うものである。これを売り物にすることは、最も恥ずべきことだと私は教わったが、近ごろは教えぬようだ。これこそ教科書中に明記していいことである。(つづく)
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2019年9月28日 (土)

山本夏彦『二流の愉しみ』から(4)

『洗剤騒ぎを回顧する』(2)

 

 もうお忘れだろうから、当時の言葉を新聞から拾ってみると、彼女たちは問屋で、「私たちがつらい思いをしているのに、こんなにたくさん隠すなんて許せない」「あした使う洗剤もない私たちにこの場で売渡せ」と口々に叫んだ。
 勢いに乗じて、埼玉県の某社の倉庫に乗り込んで、めでたく、「全温度チアー」とやらを三万ケース発見して、「まあこんなに」と驚くより怒りの表情を示し、「この洗剤はビニロン系の繊維に使うと色が出る欠陥商品だから、売らないで去年からここにある」というメーカーに、「ビニロン系には出ても、ほかには出ないだろう。その旨ことわって売るべきだ」と迫ってきかなかったという。
 あまりのことに、トイレットペーパや洗剤がどこにあるか、男だから知っていると私は論じた。それは各人の押し入れのなかにある。主婦が一箱ずつ買うと、わが国には三千二百万所帯あるから、三千二百万箱なくなる。洗剤の月産は二千万箱だそうだから、差し引き千二百万箱不足する。どこへ行っても売切れるのはこのせいである。
 テレビで一箱もないと訴えた人がいたが、それは持たない人を集めたのである。あるいは二箱や三箱持っているが、この席では持たない人として発言しているのである。この番組に出て、家には四箱あります、おかげ様でとは言えない。言えば失礼に当たる。
 二箱も三箱も持ちながら、持たないふりをすると、言葉は実際以上に威丈高になる。怒ってもいないのに怒ったふりをすると、しまいには本当に怒っている顔つきになる。美容上の問題だからよせと、私は書いたのである。
 口を「へ」の字に曲げ、いつもあざ笑ってやろうと待ちかまえて、首尾よくその機会をつかむ婦人の表情を見て、顔をそむけない男はいない。主婦連はそれが商売だからやむを得ないが、それが商売でない並の婦人たちまで、この表情をまねるようになって、男たちはこの表情に慣れた。
 洗剤騒ぎは四十九年の一月を頂点として二月にはいると急速におさまった。「今度は洗剤の山、目もくれない主婦たち」と題して、二月上旬の新聞は店頭にあふれる洗剤の山を示した。
 品物というのはひとたび店頭にあふれると、客は目もくれなくなるものである。目もくれないでいられるのは、押し入れに一箱以上持っている証拠だと、私は思うが女たちは思わない。
 女たちはいまだにあの騒ぎは自分たちが買いあさったせいでおこったものではないと思っている。思いたくないことは、人は思わないものである。企業と問屋が製造と出荷を制限して値をつりあげたと思っている。
 農林省と厚生省は、あの洗剤有害説に沈黙している。黙っているのは有害説を認めたことになるから、何とか言えと言ってもなにも言わない。主婦連もまた何も言わない。言わないこと厚生省に似ているのは妙であり珍である。もし有害説に反対ならその旨言うべきではないか。たとえばながく洗剤を使っていると、奇形児が生まれるという三重大学教授の催奇形性説のごときは、大阪府の公害健康調査専門委員会で否定されている。
 またもし主婦たちが言うように、メーカーがそんなに悪玉なら、昭和五十年現在だって何をしでかすかわからない。再び製造と出荷を制限して、再び値段をつりあげようとするかもしれない。あいつらのことだもの、きっとするだろう。そのとき主婦たちはもう一度買いあさって、もう一度倉庫に押し寄せて、増産せよ出荷せよと迫るのだろうか。
 それとも洗剤は有害にきまっているのだから、今度こそ追放キャンペーンをおこすのだろうか。
 私はそれを見たいと思う。けれども前回の騒動のとき、リーダー達は有害説を知っていてキャンペーンをおこさなかったのだから、今回だろうと次回だろうとおこさないだろう。愚かな、無限に愚かな女のむれ、愚かな、無限に愚かな男のむれ!
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2019年9月27日 (金)

山本夏彦『二流の愉しみ』から(3)

 昭和48年、石油パニックと前後して、トイレットペーパーや洗剤がなくなると大騒ぎになったことがある。そのときの顛末を山本夏彦がまとめている。二回に分けて全文を引用する。同じようなことで妄動しないよう、参考にして欲しい。

 

『洗剤騒ぎを回顧する』(1)

 

 洗濯用と台所用の合成洗剤は、両方とも毒だそうである。クリーニング屋はいまだに粉石鹸を使って、合成洗剤を使わないそうである。最もこれは毒だからではなく、汚れが落ちないせいで、合成洗剤には漂白剤がはいっていて、ただ白く見せるだけだという。
 昭和三十七年九月、ライポンFという台所用の粉末洗剤を、誤って飲んで死んだ父親があった。母親が粉ミルクとまちがえて、溶いて哺乳びんに入れておいたのを、赤ん坊がいやがるので、ためしに一口飲んで死んだのである。解剖の結果、死因は洗剤による中毒死だと鑑定されたのに、長い裁判のあげくライポン側は無罪になった。
 それでも厚生省は、昭和四十五年に中性洗剤によるシャボン玉遊びを禁じている。毒性を認めたのである。文部省もそれに従って、全国の幼稚園にこれを禁じる通達を出している。
 ご存じの通り台所用の洗剤を使うと、手に湿疹ができる。脱脂作用がはげしいせいか、指紋は摩滅したように消えてなくなる。洗剤を使わなくなると、指紋は再びあらわれる。
 合成洗剤の泡は石鹸の泡とちがってなかなか消えない。下水から川へ流れて、川がその泡で真っ白になった写真を見たことがある。川は海へそそいで海を汚染する。洗剤中の燐が赤潮の原因になるのだという。
 昭和四十八年五月、東京都衛生局は学校給食に中性洗剤を使うこと無用だという通達を出した。むかしとちがって、野菜や果物に寄生虫はいない。それを慢性毒性があると疑われている洗剤で洗うことは無用だと言ったのである。
 以上、すべてあの洗剤とトイレットペーパー騒動の始まる前のことである。騒動は四十八年の秋関西から始まって、四十九年の二月東京で終わった。シャボン玉遊びを禁じられたことは、男親より女親のほうが知っていることである。学校給食に使うなといわれたことも、父親より母親の方がおぼえていていいことである。
 けれども、世間にはぼんやりした女たちもいるから、おぼえていなくても非難することはできない。ただ主婦連や地婦連、消費者運動のりーだーたちがそれを知らなかったということはできない。彼女たちは常に誰かをとがめることを商売にしている。
 合成洗剤は人体に有害か無害か、メーカーと一部の学者の間で深刻な争いになっている。それを報じようとするとメーカーの圧力がかかるという。そんなことまで彼女たちは知っていたはずである。
 それならあの洗剤騒ぎは、絶好のチャンスだったのではないか。この際主婦連は一代論陣を張って、洗剤追放に乗りだすかと思ったら、案に相違してそのことは全くなかった。
 主婦連は並の主婦たちを率いて、メーカーや問屋が、洗剤を隠して売らないでいると非難した。立ち入り調査をさせろと押しかけ、ほらこんなにあるじゃないかと勝ちほこって言った。(つづく)

 

(引用者註:小生、もと化学屋のはしくれで、洗剤の原料の界面活性剤については多少の知識がある。その毒性も承知しているし、それが過剰に言い立てられていることも承知し、それらが改良されて生分解性や毒性がむかしよりずっと少なくなっていることも承知しているが、ここでは文意とはあまり関係がないのでおいておく)
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2019年9月26日 (木)

出かけます

 予告していた通り、旅行に出かける。いつからいつまで、そしてどこへ出かけるかを明らかにするのは保安上よろしくないらしいので、そのへんはあいまいにしておく。かえってからの報告で了解していただきたい。

 

 また、ブログを見たり書き込んだりする道具は旅行に持参しないので、出かけている間の分として多少埋め草の記事を入れてある。コメントをいただいた場合、帰ったら必ずお返しをするつもりなのでそれまでお待ちいただきたい。また、ポチッとについてはいただいたものには即お返ししていたが、当然それもお返しが出来ない。出来ないけれど、勝手なお願いながら、よろしければ読んだらポチッとしていただくとありがたい。では行ってきます。
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2019年9月25日 (水)

歯が・・・

 右下奥歯の硬質プラスチックの被せものが割れて剥がれてしまった。数日前から微妙に違和感があったが、僅かに隙間を生じていたのだろう。豆類をはじめ歯ごたえのあるものを噛むのが好きなので、負荷がかかり続けた結果だと思う。この奥歯の根元には爆弾を抱えている。今年春に歯根に膿がたまって疼いた歯で、抗生物質と痛み止めで治めたところだ。そこが再発しかねない。

 

 すぐ歯医者に行きたいところなのだが、明日から出かける予定なのである。爆弾を抱えたまま出かけるしかない。旅行に行くことがしばしばあるといって、万一のためにおまじないとして抗生物質と痛み止めを数日分、歯医者からもらってある。それを糖尿病の薬と一緒に入れた。

 

 今のところ痛みもなにもないけれど、なんとなく気になって仕方がない。とにかく菌がはいったりしないように歯磨きをして口中を清潔に保つように心掛けるしかない。出かけるのは海外なので、水道水は飲むことが出来ない。歯磨きをふやせばどうしてもその水が多少体内に入ることになる。

 

 大丈夫かなあ。前回ウズベキスタンでは水で腹下しをしてエライ目に合った。にわかに不安がきざしているのである。間が悪いなあ。
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谷沢永一『山本七平の智恵』(PHP研究所)

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 むかし『日本人とユダヤ人』という本がベストセラーになった。著者はイザヤ・ベンダサンという正体不明の人物ということになっている。実は発行した山本書店の店主、山本七平本人が書いたのではないかと言われているが、死ぬまでそれを認めなかった。ユダヤ人の視点から日本人のものの考え方を見直すというこの本を、どれだけの人が理解したのだろうか。

 

 ソフトカバーの山本七平の著作集・全十六巻を揃えて書棚に飾ってある。きちんと読んだ本はまだ半分に満たないが、誰も言ったことのないことを独自の視点から書いたこの著作集は知性の宝庫だと思っている。思っているのに掘り出せない自分の知性のレベルの低さに情けない思いがしている。

 

 この山本七平の著書を「当代随一の読書人(帯の言葉)」である谷沢永一がとことん読み込んでそのエッセンスをとりだしてみせたのがこの本である。いわば山本七平の虎の巻という体裁で、ある意味でとてもありがたい本なのである。山本七平の本から引用をして、その言葉の意味を具体的な事例を挙げたりしながら谷沢永一なりに解釈してみせているのだ。

 

 山本七平はもともとそれほど難しい語句を使わない。分かりやすい言葉で書かれているけれど、書いてある内容が読む側に染みついた固定観念を揺さぶるので、スムーズに伝わりにくいところはたしかにある。ある種の人にはそもそも理解不能だろう。しかしもし理解不能なら、自分自信を疑うほうがいいのだが、そもそもその種のひとは自分を疑うことの出来ない人だから、結果は見えている。

 

 たぶん日本人と日本について過去論じられたもののなかの最高峰のものといっていい「山本日本学」ともいわれる山本七平の本は、日本人なら一度は目を通して欲しい。この本はその一助になるけれど、谷沢永一という人のフィルターを通したものを読むことになることを考慮する必要がある。両方知っていれば問題ないだろう。
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2019年9月24日 (火)

防火検査

「消防署から来た」といって二人の男が訪ねてきた。制服を着ているけれど連絡もなしにいきなり来たから、多少胡散臭く感じたのが顔に出たのであろう、身分証明書を出して「確認して下さい」と苦笑いされた。

 

 独り暮らしの高齢者の防火状況を確認に回っているのだという。屋内検査は必要ないが、いくつかの問診をするので時間を下さいと言うことなのでお答えした。その問診によると、四段階の最上位の「大丈夫」という評価だという診断結果の紙をもらった。質問に合わせて注意点をいくつも教えてもらった。日頃心掛けていることばかりではあるが、あらためて気をつけたい。報告書にも「大丈夫」の評価ではあるが、「でも安心は禁物です」と注釈がついていた。

 

 集合住宅は住人全員が気をつけなければ防火は万全ではない。自分が原因にならないことをまず気をつけたいが、ほかの家もそう心掛けてくれることを祈るばかりである。
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福田和也『ろくでなしの歌』(メディアファクトリー)

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 世の中には信じられないほどたくさん本を読む人がいる。井上ひさし、谷沢永一、そしてこの本の著者の福田和也などもそういう人たちだ。とにかく一日複数冊読む日々が持続的に可能だというのは、信じ難い集中力であり、持続力である。さらに驚くのは、そういう人たちは読んだ本についての理解力、記憶力がずば抜けていることだ。

 

 ブログをいつも拝見しているshinzeiさんなども年間700冊読むという。世の中にはそういう本読みがたくさんいて、とてもかなわないと思う。そもそもそういう人たちは本を読むことが面白くて仕様がないのであるらしい。私も現役中には毎年200冊読破を目標にしていたが、達成したのは一二度しかない。リタイアしたら一日一冊とはいわないまでも250冊くらいいけるかと思ったら、なかなかそれすらかなわない。

 

 数年続いた読書スランプ(そんなものに自分が陥るとは信じられなかったが、実際そういう状態になった)から最近ようやく脱して、本に集中することが出来るし本を読むことが楽しいことを再び実感できるようになったのはなによりありがたいと思っている。

 

 江藤淳の弟子を自認している(実際にそうであるらしいが)この本の著者の福田和也もすさまじい本読みのひとりである。文藝書評家としてはかなりレベルが高いと私は思っているが、高すぎてときについて行けない。

 

 ろくでなし、というのは、そもそも大作家というのはいずれかの面で「ろくでなし」であると著者が決めつけているからである。どうしてろくでなしであるのか、この本でとりあげられた作家の作品とその本性をこれでもかと書きたてて説明している。

 

 日本人の作家12人と海外の著名作家12人が交互に取りあげられていて、下手にこの本を読んでいるとみな嫌いになりそうなのだが、実は著者の本意はそうではなくて、それらの大作家のどの作品がどれほど読む値打ちがあるのか、そのことを強く訴えたいためにこのような逆説的な手法を用いているようである。

 

 取りあげられている日本の作家、川端康成、志賀直哉、菊池寛、高浜虚子、島崎藤村、深沢七郎、徳田秋声、永井荷風、色川武大、金子光晴、梅崎春生、三島由紀夫。
海外の作家は、ドストエフスキー、バルザック、ディケンズ、チェホフ、ヘミングウェイ、D.H.ロレンス、ヘンリー・ミラー、フィッツジェラルド、チャンドラー、ヘンリー・ジェイムズ。

 

 すぐれた書評本は、取りあげた本を読みたくさせる。この本も読み手を屈曲させながら、そのことで巧妙に読むように誘ってくれる。
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2019年9月23日 (月)

最近なるほどと思った言葉(2)

人間はすべて過つものである。ただ、過失を固守するのが愚か者である。
      by キケロ

 

もし間違わない人がいたら世の中でこれほど嫌なやつはあるまい。
by 山本有三

 

世の中には何一つまともなことを企てないがゆえに、過つことも全然ない人々がいる。
      by ゲーテ
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谷沢永一対談集『歴史活眼』(致知出版社)

 二十数年ぶりの再読。
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 対談相手は会田雄次、尾崎秀樹(ほつき)、小室直樹、奈良本辰也、渡部昇一の各氏。みな時流に迎合しない、独自の世界観を持つ論客ばかりである。その時代を、そして歴史を見る目は谷沢永一と似ている部分が多い。あえて云えば、似ているためにあまり目立った論争にならないのがこの本のもの足らないところかもしれない。私も傾向が似ているから、すらすら読めてしまって、すらすら読めすぎるところに物足りなさを感じたのだろう。

 

 それでも谷沢永一なりに対談相手から新たな知見を得ようと努力はしている。そしてそのことを書きとめ、それについて自分の考えの補整に役立てているのを感じる。それはこちらも参考にすべき態度であろう。

 

 谷沢永一は極めて辛口の評論者である。イデオロギーから発する言論を毛嫌いする。思い込みから世界を解釈しての発言は間違っていたり、事実でないことを事実のようにいいはり、根拠を正義におく。自分の考えだと思いこんでいることが、実は誰かの受け売りばかりであることがしばしばである。たくさんの本を読んでいるようで、実は同じことを書いた本をたくさん読んでいるだけだから、読んでいないのと同じなのである。

 

 谷沢永一には「紙つぶて」という書評集がある。書評コラムに掲載されたものを本にしたものだが、短い文章のなかに研ぎ澄まされ、選び抜かれた寸鉄釘を刺す言葉が散りばめられた書評の傑作集である。それだけ各分野にわたって厖大な書物を読み込んでの彼のものの考え方は読むに値する。ただ、晩年いささか右に偏りすぎたきらいはあるが、世のあまりの軽薄にあきれ果てての上のことであろうと思う。
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2019年9月22日 (日)

最近なるほどと思った言葉(1)

最も難しい三つのこと
 秘密を守ること、
 他人から受けた危害を忘れること、
 ひまな時間を利用すること
        by キケロ

 

正直者は自分で正直者とは言わないから正直者なのであり、真面目に働く人とは、もっと働かないといけないのではないかと思っている人、朴訥人とは朴訥という意味内容を知らない、つまり狡猾という反対の生き方を知らない人であり、従って、そういう定義を下し得ない人である。そういう形容詞を平気で自分につけている人間は極端な厚顔無恥か、ひどい嘘つきかどちらかだ。ところがいまの日本の問題は、自分のようなまじめ人間が損をして、悪い人が得をしている。それは世の中が間違っているからだとか、正直者が損をする世の中です、などということを自分のこととしていう言葉が世の中にあふれていることだ。
       by 会田雄次
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森本哲郎『ことばへの旅 第五集』(ダイヤモンド社)

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 第五集があることを知ってアマゾンで古本を購入し、早速読んだ。第四集までを買って最初に読んだのが二十代の頃だったから、何と四十数年ぶりに残りを読んだことになる。

 

 この集では、言葉を通しての自分自身の旅の話、実際の旅でもあり、また自分の「人生という旅」がテーマになっている。旅の後半に入ってこういう本を読むと、人生とは何かということについての森本哲郎の言葉が、若いときより分かるようになっているような気がする。

 

 言葉の重みや思い出の貴重さなど、それらが人生という時間の積み重ねで多少輝きを増している。古い写真を見たりすると、下手くそなのにかけがえのない思いがするのは、そこに時間という表装が加わっているからだろう。

 

 この本で取りあげられているテーマは、風流、子供時代という至福の世界、砂漠について、「待つ」ということ、青春、禍い、「中くらい」について、永遠、身のほど、生命の不思議、絆、ものの見方等々。

 

 人生は長いようで短いとか、一瞬は永遠で永遠は一瞬だ、とかいう言葉に観念的に頷くことがあるけれど、ものごとは終わってみなければ分からないものだと考えていた。しかし終わる頃にはどうでもどちらでもいいようになっているはずで、それを実感するのは旅を振り返ることの出来る今でしかないのだろう。

 

 それぞれのテーマについて掘り下げてみたいけれど、もう少し先にすることにした。ついになにものも掘り下げないで終わるのかもしれない。
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2019年9月21日 (土)

木津用水への散歩(2)

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散歩道の途中に若者たちが深夜たむろする小さな飲み屋がある。店の前にこんなものがあって、いつもは埃まみれなのに、最近掃除でもしたのだろうか、ピカピカになっていた。

 

裏道の家々の庭には花が咲いている。花鳥風月に弱いので、花の名前について小学生並みの知識しかないけれど、美しいと思う心はある。

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薔薇の花だと思うがなんという薔薇か知らない。

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ノウゼンカズラだと思うが自信はない。

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薔薇の花に間違いないだろうが、花びらの質感がとても綺麗だった。

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これはなんの花か知らない。夏の終わりのさわやかな風に揺れていた。

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ススキが秋の訪れを知らせてくれている。季節は必ず変わっていくというのは不思議なことだなあ、などと妙にに感心した。

 

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山本周五郎『青ベか物語』(新潮文庫)

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 森本哲郎の『言葉への旅』の第何集だかに、この山本周五郎の『青ベか物語』が取りあげられていた。さいわいむかし読んで、本棚の片隅に積まれていたので、ずいぶん久しぶりに読み直した。

 

 根戸川に近い浦粕町というところが舞台になっているが、もちろん江戸川に面した浦安のことである。実際に山本周五郎は四年間浦安で暮らしてその町の人々の生態をスケッチし、文章にしている。しかしそれは浦安そのものではもちろんないし、主人公は山本周五郎本人ではない。これはあくまで小説なのである。

 

 中身が濃いので、夢中になって読みながら、一日では読み切れなかった。千葉県生まれの私としては浦安はなじみがない場所ではない。子どもの頃、まだ埋め立てが進む前の湿地帯だった浦安に落ちる夕陽を見ている。この物語で語られる独特の言葉は私の育った九十九里に近い町の言葉に通じるものがあるし、若いころ浦安から東京湾に船で海釣りに出たことも何度かあって、漁師言葉のその響き、イントネーションはなじみがある。

 

 すでにこんな世界はなくなってしまった。不思議ななつかしさを感じる。ここには人が裸で生きている、という実感がある。失ってしまった純粋さと云うわけではなく、現代の日本人には、その上にもう脱ぎようのない鎧が貼りついてしまったのだ。鎧のない時代ですら人はなかなか関わり合えない。増しては現代においては・・・。

 

 山本周五郎がまだ世に出られずに呻吟し苦難していた時代がここに読み取れる。大変な思いをしながらそこからじっと人間の根底を見続けたことがこの傑作を生み、のちの作品群につながったのだと思う。主人公が再び三度、時間をおいて訪ねた浦粕町では、なじみだった人々は彼をすっかり忘却していた。そのことの意味がズシリと心に残る。

 

 蛇足だが、同じく森本哲郎の『ことばへの旅』で、有島武郎の『カインの末裔』が取りあげられていた。未読である。いま無性に読みたいと思っているが、本屋に行くかどうか迷っている。むかし実家の文学全集のなかにあったはずなのだが、母が死んで、もうその全集は処分してしまったはずなのが残念だ。
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2019年9月20日 (金)

木津用水への散歩(1)

散歩コース定番の一つ、片道30分の木津用水への散歩をした。直射日光の下は暑いが、日陰の風はさわやかで気持ちが好い。
ただ、飲んでいる薬の副作用のせいか日差しのまぶしさがきつく感じる。目の絞りがおかしい感じがする。


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裏道の家の軒下の石像。


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なかなかリアルな像。


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いつも立ち寄る神社の狛犬。いつもより顔が恐い。


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狛犬の下、いつもは苔が生えているところが乾ききって表面が剥がれて反り返っている。このあとちょっと踏んづけてみた。

 

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小さな英語塾の教室の窓辺にこんなものが。


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折り返しの休憩場所、コッツ山公園で。上は時計台になっているのだが、下の礎石が面白かったので。
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森本哲郎『ことばへの旅 第四集』(ダイヤモンド社)

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 第四集は「日本編」となっていて、全十三篇で取りあげられているのはすべて日本の言葉。「真心について」の本居宣長の言葉については、つい梅原猛の万葉集について論じた本で本居宣長についてかなりきつい批判がされていたのを思いだしてしまい、素直に読めなかったのに参った。

 

 岡倉天心の「アジアは一つ」という言葉について語る「理想と現実」として論じた一編は、茨城県の海岸最北端、五浦半島にある岡倉天心の記念館で見た、「アジアは一つ」の石碑を思いださせてくれた。アジアは一つなどであるものか、と思ったものだが、まさにそのことを森本哲郎が論じているのだ。

 

「自分の世界について」で私の好きな志賀直哉が論じられている。さまざまに批判される志賀直哉だが、その本質的な読みどころを森本哲郎が上手に掴み取ってくれてなんとなく嬉しい。

 

「起きて見つ寝て見つ蚊屋の広さ哉」と云う句は千代女の句だと思っていたら、遊女・浮橋の句であると教えられた。これは間違いのない事実のようだ。どうして千代女の句として人口に膾炙したのか、そのことを考えながらこの句についての情感を分析していく。

 

正岡子規の
「瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければ
     たゝみの上にとゞかざりけり」
という歌をもとに、子規のいう写生について考える。

 

 そのあとの「捨てるということ」という一編にとりあげられた蕪村の
 「鶉野(うずらの)や聖の笈(おい)も草がくれ」
と云う句と比べると(比べるのも変なのだが)私は子規の和歌にちっとも素晴らしさを感じない。私はあまり詩心がないのだ。それでも蕪村の句にはイメージの広がりを感じることが出来なくもない。

 

「母なる自然」という一編では柳田國男の『遠野物語』が論じられる。もちろんと斧そのものについても語られていて、二度ほど訪ねた遠野を彷彿とさせてくれた。そういえば、先日、「新日本紀行」の「ビール」という特集で、遠野のホップが紹介されていた。あのカッパ淵へ向かう野中を行く途中にホップ畑の棚がずらりとならんでいるのである。

 

「自然の美しさについて」では、徳冨蘆花の『自然と人生』が取りあげられている。私が朗読に使う本の中の一冊であることは以前このブログに書いた通り。「すまいについて」では鴨長明の『方丈記』が論じられている。いつか読み直してみたいものだ。いまならすこしは分かることもあるだろうか。

 

 さまざまなことを考えさせてくれた。一つひとつについてもっとじっくりと掘り下げてみたいと思いながら、つい次の本に手が出てしまう。こうして上っ面だけを読み飛ばして、結局なにも読んでいないような気がしている。

 

 第五集があることが分かったので、取り寄せた。
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2019年9月19日 (木)

映画寸評(10)

「マイティ・ソー バトルロイヤル」2017年アメリカ
マーベルコミックをもとにした映画は、最近の「アベンジャーズ」シリーズのように役者ヒーローやヒロインだらけで、何が何やらわけが分からなくなって私にはついて行けない。つまりちっとも面白くない。

 

この「マイティ・ソー」のシリーズは、いちおう主人公はひとりだから、見ていて楽である。今回はその三作目で、最強の敵は女神ヘラ(ケイト・ブランシェット、この人はこういう役をやると本当に楽しそうで、活き活きしている)、なんとヘラは強すぎてソーの父親神(アンソニー・ホプキンス)に封印されていた、ソーの姉なのである。さすがのソーも復活したヘラには全く歯が立たない。隠されたソーの新たな力の発現、そしてヘラの力の源泉を絶つことでなんとか勝負になるのだが、その源泉を絶つためにはとんでもない犠牲が必要で・・・。

 

良くできたアニメを見ているように映像が楽しいのでまあまあ面白かった。次回作が出来るとしたら、さてどんな敵が現れるのだろう。これ以上強力な戦いになったら宇宙は壊れてしまいそうだ。

 

「MEG ザ・モンスター」2018年アメリカ
ジェイソン・ステーサムが出る映画はどんな映画でも見る。見て面白くないことはほとんどない。これは現代版、と云うか近未来版の「モービー・ディック」という感じの映画といおうか。ただし「モービー・ディック」白い鯨だが、この映画のモンスターは深海に棲む超巨大鮫である。

 

大きな船をも沈めてしまうようなゴジラみたいな巨大鮫と闘えるのは、もちろんジェイソン・ステイサムしかいないのである。彼はいつ見ても格好いいなあ。物語は二段構え、三段構えになっているし、ヒロインにリー・ビンビンは出て来るしでサービス満点の映画。見ないと損だ。
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東電訴訟

 今日、原発事故についての責任者の判決が出される。私は明らかに事故には人災の部分があると考えているので、彼らには責任があり、有罪であると考えている。しかし、判決の争点は「津波が予測できたか出来なかったか」だという。神様ではないのだから、津波を予測できなかった、と云う判定がくだる可能性が高い。

 

 津波が起こりえる、そして津波が起こればこういう被害があり得る、と云う報告が彼らに対してなされていたことは再三報じられている。つまり「予測が出来たか出来なかったか」というのはほとんど無罪にするための争点の立て方で、本来は「どうして津波を予想してその対策を立てなかったのか」ということでなければならない。

 

責任者というものは会社の起こした事故の被害に対して責任を負うために存在するのである。それが責任なしと判定されることの社会に対する弊害こそ甚大であろう。もし無害判決が出たとしても、裁判所に無罪にしたことの社会的責任を問うことはできない。ではあるけれど、それではいかにも残念だ。こういうときは韓国式の情緒的判決にちょっとだけあこがれてしまう。
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2019年9月18日 (水)

映画寸評(9)

 盆明け以降のひと月ほどの間に観た映画を備忘録として書きとどめておく。

 

「バタフライ・エフェクト」2003年アメリカ
人生には分かれ道がたくさんある。あのときにああしておけばよかったと思うことは誰にでもある。私は後悔はしないと若いときにきめているとはいえ、もしあのときに・・・とあとで思うようなことがないではない。

 

 この映画の主人公はある出来事をきっかけに追い詰められて、その人生の岐路をもう一度選び直すことができるようになる。その能力にはある理由があることが最後に分かるのだが、とにかく取り戻したい過去をやり直すことが出来た結果起こったことは・・・という物語りである。

 

 何度も袋小路に追い詰められ、またやり直しをする裡に主人公はあることを悟るのである。ずいぶん前から見たかったのに、録画したBDを見失っていた。ようやく見たけれど、まあまあ期待は裏切らなかった。ちょっときつい場面もある。

 

「空海 美しき王妃の謎」2018年中国・日本
監督チェン・カイコー、出演・染谷将太、ホアン・ジュアン、阿部寛ほか

 

原作の夢枕獏の小説を読んでいて、たしかにそれに沿ってはいるのだが、チェン・カイコーのいささかハイテンポで絢爛な映像に振り回されて、まるで早回しの映画をみせられたようで、まるでちがう物語りに感じた。

 

私としては、よく頑張りました、と云う評価で、見てがっかりしたというほど悪くはなかった。

 

「メイズ・ランナー 最後の迷宮」2018年アメリカ

 

三部作のこの映画の第一話はけっこう面白かった。この第三話の展開は、第一話でバラバラになった迷宮の生き残りの仲間たちが邂逅し、そして真相の解明と原因の排除のために命を賭けて戦うというストーリーである。ディストピア、迷宮、ゾンビ、それらがごっちゃになっておおいに盛り上がっていく。どこかで見た物語のつぎはぎだらけとも言えるが、私にはとても面白く感じられた。こういう映画は嫌いではない。
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山本夏彦『二流の愉しみ』(2)(講談社文庫)

『婦人の正義』(2)

 

 理解をさまたげるものの一つに正義がある。良いことをしている自覚のある人は、他人もすこしは手伝ってくれてもいいと思いがちである。だから、手伝えないと言われるとむっとする。むっとしたら、もうあとの言葉は耳にはいらない。
 私はこのたぐいを「茶の間の正義」のなかに書いた。正義には「うろんな正義」があるといった。この間もある新聞に、茶の間の正義ならまずうろんだと思っていいと書いたら、まずうらんだと思っていいと誤植された。まずうさんだと思っていいと書けば、うさん、またはうさん臭いなら用いられているから、誤植されることはなかっただろう。それを知らないではないが、何ものかに迎合して、うろんの代わりにうさんを用いると、せっかくのうろんが死にたえる恐れがある。使うなら今のうちだと私は使って、はたしてすでにこれが死語に近いことを知ったのである。
 俗におひげのちりを払うという。金銭や出世のためならどんなことでもするというほどのことである。世間には、犬のまねをせよと言われれば、すると揚言するものがある。三べん回ってワンと言え、言えば大金をやると言われたらワンというたとえ話がある。人はそれほど金銭を欲すると言いたいのだろうが、金銭も欲するが正義も欲する。金銭を欲することのほうはよく言われるが、正義を欲することのほうは言われない。正義を欲することがいいことであるのが自明だから、言われないのだろうが、はたしてそうか。
 私は婦人会の正義を思いだす。隣組の正義を思いだす。これは同じ性質のもので、戦争中はこの種の正義が日本を蓋(おお)った。
 婦人会には愛国婦人会と国防婦人会があって、愛国婦人会のほうが古く、明治時代からあった。そのせいか愛国婦人会のほうに上流の会員がいて、威張っていた。
 いずれにせよ婦人会は正義のかたまりだった。そのかたまりぶりを、ちかごろ往年を回顧する写真集のなかで見る。承和十四年の写真に婦人会のたすきをかけた会員が、街頭でパーマネントはやめましょう、長いたもとはつめましょうと印刷したちらしを渡している図を見る。
 昭和十四年はまだ太平洋戦争がはじまっていないときである。衣食はそれほど窮していないときである。そのちらしを渡された女たちは、街頭で恥をかかされたのである。
「まあ失礼な」と抵抗できない時と場所で、若い娘や着飾った女を恥かしめるのは、すでに若くない女や着飾らない女にとっては快事である。しかも正義は自分たちにあることは仲間同士確かめてある。
 彼女たちは町内から応召者が出ると、手に手に日の丸の小旗を持って祝いに行った。戦死者が出ると町内のほまれだと言った。
 彼女たちが婦人会にはいった理由の一つは、晴れて家を外に出歩くことができるからである。お国のために奉仕するのだから、家事は当然二の次になる。すこしは亭主も協力してくれなければ困る。婦人会に出れば町内の男たちとのつきあいも生じる。
 亭主以外の男たちと交際することは、不愉快なことではない。隣組の男たちのなかにいい男なんかいないと思うのはインテリの思いあがりである。男と女がいるかぎり、それはいるのである。最善がいなければ二の次、に次がいなければ三の次がいるのである。
 隣組の男たちにはそれぞれ商売があるから、彼女たちは次第に乏しくなる物資を安く買うことができた。彼女たちはずいぶんあとまで油や砂糖に不自由しなかったはずである。
 それでいて、それらは「闇」ではないのである。正義はこれら一切を蓋ってなお正義だったのである。
 敗戦と同時にこの婦人会は解散した。婦人会がなくなってもこの種の婦人がいなくなるわけはない。あれだけの正義がなくなるわけがない。それはしばらく鳴りをひそめていたが、やがて「主婦連」や「地婦連」になってあらわれた。そして私たちは彼女たちの活動ぶりを見るようになった。はじめは新聞で見たが、のちにテレビで見るようになった。
 ある雑誌の時評で、私は魚食うべしいくらでもと言って彼女たちを怒らしたことがある。彼女たちは怒って私にとびかかろうとした。なん年か前、魚を食うと死ぬと騒いだころのことである。
 あんなに怒ったのだから、いまも怒るかと思うと怒らない。いつぞやの魚が毒ならいまの魚も毒だろうといっても怒らない。恥いらない。いま怒らないのなら、あのときも怒らなくてもよかったのではないかと言うと返事をしない。平気でぱくぱく食べている。
 けれども娘たちのたもとを切らせた正義は、八月十五日かぎり誤りだということになった。してみれば正義だと思いこんでいる正義も、いずれ誤りだと判明するかもしれない。すくなくともそう疑うことによって、婦人の正義は重みと深みを増すのではないかと、わたしが彼女たちに言わないのは言っても機嫌を損じるだけだからである。ばかりか彼女たちの正義は隣組の、町会の、市会の、ひいては国会の正義で、それなら世界中の正義だからである。
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2019年9月17日 (火)

とらわれる

 なにかにとらわれていると感じることがある。そうなるとそのとらわれから抜け出すのは難しい。何しろとらわれから抜け出そうというその思いにとらわれてしまうからだ。考えまいとすることでそのことを考えてしまう。

 

 瞑想とは雑念を払って行うものだというが、雑念は払おうと思うことこそ雑念の最たるもので、結局瞑想がまともにできた記憶がない。無念無想、などという言葉が頭を駆け巡り、けっこうやかましい。雑念は消えたかけたと感じたとたんに、そう感じたことで復活する。または消えたままだと眠ってしまう。

 

 そういえばサトリ(覚)というお化けがいたなあ。人の心を読むことができて、スキがあると、とって喰われるという。

 

 木樵が闇夜の山中で野宿するために焚き火にあたっていると、いつの間にか向かいに得体の知れないものが座っている。
「なんだこいつは」と木樵が思うと、
「いま、なんだこいつは、と思っただろう」とそいつが言う。
「こいつが噂に聞くサトリの化け物か」と思うと、
「「いま、こいつが噂に聞くサトリの化け物か、と思っただろう」とサトリが言う。
木樵が「喰われる前に斧でぶち殺してくれようか」と考えると、
「いま斧でぶち殺そう、と思っただろう」と言い当てられる。

 

 すべて読まれてはどうにも仕方がない、なにも考えないようにしよう。
「仕方がないからなにも考えないようにしよう、と思っただろう」とサトリはしつこい。

 

 そのとき木樵が焚き火に継ぎ足した薪がはぜて、燃えた木っ端がサトリに当たった。

 

 サトリは驚いて飛び退いて言った。
「いまのは全く読めなかった。人間は予想もできない仕業をしてのける。怖ろしい」

 

 サトリはその場を立ち去っていった。

 

 なにも考えないというのはことほど左様に難しい。サトリにとってはなにも考えない、とらわれない人間が最も怖ろしいのだ。私などとって喰われてしまうだろう。
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山本夏彦『二流の愉しみ』(1)(講談社文庫)

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 まだ読みかけの山本夏彦があるが、キリがないのでこの本を最後にしばらく措くことにする。その代わりに中からいつものようにいくつか引用する。今回は『婦人の正義』という題の文章の全文を二回に分けて掲載する。

 

『婦人の正義』(1)

 

 編集兼発行人二冊目「かいつまんで言う」をダイヤモンド社から出したら、電話でそれを点字に翻訳したいという申し込みを受けた。展示に訳すのは目の見える婦人で、その人が展示を習って、自分の気に入った本を訳して、目の見えない人のための図書館に寄付するのだという。
 電話の婦人は、翻訳する当人ではなく、事務局の人らしい。それが善意から出た申し込みであるだけに私は断るのに骨をおった。
 私の本は不幸な人をはげます本ではないと思うが、そのことはここでは言わない。点訳する人は無料で奉仕するのだから、私も無料で奉仕する。それがいやなのではない。ここのところをまずよく分かってもらわなければならない。
 わたしのほんばかりではなく、たいていの本は黙読されることを予想して書かれている。どちらかといえば、私の用いる字句は音読に耐えるほうだが、何といっても音読されることを予想してない。従ってうっかり誤り読まれる恐れがある。NHKの磯村尚徳は「大(だい)それた」と読むべきところを、うっかり「おおそれた」と読んで物議をかもした。専門家でさえ誤るのだから、言いにくいことだが、その翻訳者が誤らないとはかぎらない。むずかしい字は誤り読まれることが少なく、かえってやさしい字に多い。
 げんに私はこの本の中で例をあげて論じている。大正十二年の大地震はおお地震と読む。関東大震災はだい震災と読む。なぜおお地震でなければいけないのか、ときかれても困る。大男とあれば「おお男」、大の男とあれば「だいの男」と読むがごとしだと答えるほかない。
「山手」はついこの間まで、「やまて」と読まれて、「やまのて」は滅びるかと案じていたら、ある日とつぜん以後やまのてと読むと東京都とテレビが言いだして、あっという間にやまのてに統一されて、やまては減るばかりである。
 このことはテレビの力がどのくらい強大かを示すもので、従ってテレビは信用できる委員会をつくって、おお地震というか言わぬかきめるのがいいのである。
 私が「家」と書くときき、それは多く「うち」である。「いえ」ではない。たまには「家(うち)へもお遊びに」と書いたつもりなのに、それをたまにはいえにもお遊びにと読まれて、点訳されては原文と違うのである。
 関西ではうちのことをいえと言うそうだから、家と書いてあれば必ずいえと読むのは関西の風かもしれない。だから委員会は関東と関西(ばかりでなく随所)につくって、それぞれローカルにするがいい。かくて私は私の原稿を誤り読まれたくないために全部振りがなをふらなければならない。いまその時間がないから、全部でなく五、六篇ではいけないかと、私はざっと右のように話した。
 これだけのことを分かりやすく話すのはやさしいようでやさしくない。なぜやさしくないかというと、相手は私が承知するものと思っている。自分たちはずいぶん犠牲を払っている。著者は本を提供するだけでいいのである。
 必ずや承知するだろうと思っているところへ、違ったことを言われると人は理解しない。ことに電話では表情が見えないから理解しない。
 誤解のないように言うと、この電話口の婦人は珍しく分かりのいい人で、だんだんわたしの言うことを理解して、ついには全く分かったようだった。それは彼女が聡明な人だったからであるが、ほかに彼女が点訳する当人でなかったせいである。もし彼女が当人だったら、談笑裡に理解が成るというわけにはいかなかっただろう。

 

ここまでが前段である。ここから本論に入る。次回の出だしは以下の部分だけ重複させておく。

 

 理解をさまたげるものの一つに、正義がある。良いことをしている自覚のある人は、他人もすこしは手伝ってくれてもいいと思いがちである。だから、手伝えないと言われるとむっとする。むっとしたら、もうあとの言葉は耳にはいらない。

 

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2019年9月16日 (月)

金の便器

 イタリアの芸術家がつくったという金の便器がイギリスで盗まれたという。金メッキではなくて、便座も蓋もコックもパイプも便器そのものもすべて18金で、日本円にすると5億円以上の価値があるそうだ。実際に水を流した映像もあったから、便器として実際に使おうと思えば使えたようである。

 

 ところで5億円あまりという価値は、金そのものとしての値段なのだろうか、それとも芸術作品としての価値なのだろうか。金そのものとしての価値より作品としての価値の方がはるかに高いとも思えない。たぶん金そのものの値打ちがほとんどだろう。

 

 なによりネジから何から金で出来ているとはいえ、すべて再び18金の材料を用意すれば全く同じものを作ることが出来そうに見えた。しからば芸術作品としてのオリジナルとは何か。価値のある金を便器の材料にするというその思いつきにしかオリジナルはないのである。

 

 ということはこれを盗んだ一味(一人は捕まったらしいが)はたちまちのうちにこの金の便器を溶かしこんで、ただの金のかたまりにしてしまったであろう。

 

 韓国も金の慰安婦像や金の徴用工像を造ればいまなら世界の話題をさらえるぞ。それも芸術作品として日本で展示したらどうだ。
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司馬遼太郎『草原の記』(新潮文庫)

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 私の父は戦前、語学の専門学校で中国語と蒙古語を専攻した。卒業前に友人と二人でオルドスや内モンゴル、外モンゴルを一ヶ月ほどかけて旅行したという。そこで縁があって卒業後すぐに中国で就職した。

 

 その専門学校は戦後すぐに消滅してしまったけれど、同窓会のようなものが継続的に続けられていて、父は人付き合いは苦手だし、出不精なのだけれど、晩年になるほど珍しく熱心にその会に出席していたようだ。遺品にその会の会報などの印刷物や父に宛てられた手紙などが残されている。

 

 父はその卒業旅行で何を見たのだろうか。

 

 司馬遼太郎は同じように大阪外語の蒙古語科を卒業している。だからモンゴルについての思い入れは格別であるだろう。そのモンゴルの草原を、そしてかれの草原に対しての思いを読者にどう伝えるのか、そのことを考えながらこの本は書き出されている。いささか茫洋とした書き出しで、しかし次第にその草原が具体的に、眼前に思い浮かんでくるのは彼の文章力のなせる技だろう。

 

 このモンゴルの歴史、そして中国との長い長い相克の経緯が農業と牧畜という視点などを加えて説明されていく。我々が持っているのは中国の史書に記述された異民族としての人々である。しかしひとたび視点をモンゴルの人々に据えてみると違う世界がひろがる。そのことをようやく受け入れて初めて草原に対する司馬遼太郎の深い思いが見え始めてくる。

 

 前半ではガイドのツェベクマさんという女性の特異性がところどころで言及される。司馬遼太郎は、聡明で強靱で礼儀正しいその姿に一目置き、興味をもつ。

 

 後半はそのツェベクマさんの人生がモンゴルという国、そして中国という国の近現代史にどう翻弄されたのか、詳しく語られていく。ツェベクマさんは女学生時代、高塚繁子という女性に語学としつけと生き方を教えられた。司馬遼太郎はその高塚繁子さんの消息をたどって呆然とする。

 

 最後は読んでいるこちらの胸が熱くなって感極まる。ひとが歴史に翻弄されることの無力さと、それでありながら生き延びる勁さを知る。文化大革命というもの、現代中国というものの実態の一端をリアルに実感する。我々は如何にのうのうと脳天気に生きているのか。

 

 歴史を、ひとの強さを、そして歴史の無惨さを具体的に知るための一冊として、是非一読をお薦めしたい本である。
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2019年9月15日 (日)

お前のいる場所

 イソップの一寓話

 

 安全な高い場所にいる山羊が、その下を通った狼に悪口をさんざんあびせました。すると、狼はこう言いました。
「そんな風にオレの悪口を言っているのはお前じゃない。お前のいる場所だ」

 

 これを森本哲郎は、「私たちは、ともすると自分の属している組織にものを言わせていないか」と問いかける。自分が長い間新聞記者だったことから、自分はこの山羊ではなかったか、と気付いて顔を赤らめた、と書いている。

 

 ジャーナリストは、一般人以上にこの自己反省を失っていること、そのことを自覚しているのだろうか。
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山本夏彦『笑わぬでもなし』(中公文庫)

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 思っていること、考えていることはなかなか言葉では伝わらないものである。しかし伝えたいことを伝えるにはほとんど言葉しか方法がない。「色即是空、空即是色」などという言葉も、ある意味では矛盾したことを言っているけれど、矛盾した言葉を重ねることでしか伝わらないこともあるのだ。いや、伝わらないような矛盾したことを言うことで初めてあたりまえの世界を突き破った認識、つまり悟りへの道に至るということかと思う。

 

 レトリックという言葉がある。修辞学のことで、文章表現の効果を高めるための技術、などと辞書にはある。上手い言い回し、巧みな言辞という解釈もある。私の中では「技巧的言辞」としている。比喩、反喩、反語や類語の繰り返しなど、さまざまな方法がある。ときにそれを見せびらかしたいためだけにレトリックを駆使する者もある。たいてい言いたいことがなかったり、よく分かっていないことを言うときに使われていて、本末転倒である。学者によく見られる。結局何が言いたいのか良く分からない。

 

 山本夏彦の『笑わぬでもなし』というこの本はレトリックに満ちている。ここでは、伝わりにくい、そのままでは誤解される可能性が高いことを、なんとか伝えたいという思いからレトリックが使われているのである。伝えたい心があるからゆえの山本夏彦の優しさなのだが、解るひとにはそのレトリックによってよりいっそう解り、解ろうとしないひとには却ってそのレトリックによって迷子になるかも知れない。たいてい迷子になる前に、おかしなことを言う、間違ったことを言っている、と怒り出すだろう。

 

 ひとは自分で言っていることを自分の頭で考えた上の言葉だと思い込んでいるけれど、たいていは繰り返し刷り込まれた他人の言葉によって考えたつもりになって語っていることが多い。みなが良心と正義の名のもとに同じことを言う。それをまず否定してみせるところから始めるから、「とんでもないことを言っている」、と反発して、そのことだけで頭が熱くなって次がもう読めなくなってしまうひとのなんと多いことか。それは彼の文章に対する非難の投書の膨大な数から解ることだと彼は嗤う。

 

 この本の次に読み出している『二流の愉しみ』(講談社文庫)などはそれにますます磨きがかかっている。さいわい私と山本夏彦は肌合いが合うからそのレトリックが快感に感じられる。自分の文章に山本夏彦の影響がたぶんあるだろう。ささやかなにせもので、にせものというほどですらないけれど。
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2019年9月14日 (土)

雑事

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 生きていれば、そして生活していれば、雑事は次から次に生じてくる。雑事とはすぐ片付けなければならないというものではない。後回しにしておいてもすぐには困らない。しかしたいていは、たまってくるといつかは片付けなければならなくなる。たまった雑事の煩わしさはだんだん強力になってくる。ゴミ屋敷のゴミみたいなものである。ゴミ屋敷の住人も、いつかは片付けようと思いながら、あんな風に片付けようがなくなるほどになってしまったのだろう。

 

 横着者が思い立ってその雑事に立ち向かう。一つ片付けると不思議なことに二つ、三つと忘れていたものを思い出す。一つづく片付ければいつかは終わるはずなのに、はじめる前より雑事が増えてきて、頭が熱くなってくる。

 

 人間関係を放擲し、持ち物を必要最小限にして晴耕雨読で暮らしてみたいものだと若いときに思ったりしたが、いまこそそれが出来ないことはないのに、気がつけばしがらみと、無駄なものの山の中に埋もれている自分がいる。持ち物だけは少しでも減らしたいと思ってずいぶん整理してきたつもりだが、物欲というのは減らないものらしく、持ち物は減るどころか増えているのにいまさらのように驚いている。ゴミ屋敷の住人とどこが違うというのだろう。

 

 心掛けていること・・・金銭関係と連絡は後回しにせずに迅速に行う。

 

 心掛けたいと思っていること・・・出したらしまう。必要なものだけしか買わない。

 

 実感していること・・・ひとは、やりたくないことは忘れる。面倒くさいことはしたくない。現役時代はよくあんなにいろんなことを処理できていたなあ。いまから思うと信じられない。
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十川信介編『藤村随筆集』(岩波文庫)

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 島崎藤村について、小説はまともに読んだのは『夜明け前』くらいで、まったく熱心な読者ではない。ただし、『若菜集』を始めとする詩集は繰り返し読んでいる。調子がいいから発語の訓練のために音読することもある。名古屋からだと車なら妻籠や馬籠は近いから、馬籠にある島崎藤村記念館は何度も訪ねている。木曽路についての思い入れは行くほどに深まる。

 

 全体的にここに収められている随筆集の文章は私の肌合いにあまり合わない。相性というものがあるのだろう。それに島崎藤村については私的なことでどうしても受け入れがたい事件もある。それでももう少し作品を読んでみたい気持はある。岩波文庫でこうして随筆集が出されているというのはありがたいことだ。他に谷崎潤一郎や、川端康成の随筆集をいま枕元に積んでいるが、読み出すのは少し先になりそうだ。

 

鴎外について書いた文章から一部引用

 

 先年、私は山陰の方へ旅をして、鴎外先生の郷里の方まで行って見たことがある。石見(いわみ)の国の高津川に沿うて行ったが、徴収の国境に近い山間の小都会に津和野という町があって、そこが先生の郷里であった。そこまで行くと、長州的な色彩も濃くなって、石見からするものと、長州からするものが落ち合ったような感じを受ける。丁度、真水と塩水の落ち合った感じのする町であった。私は自分の郷里が、信濃の国境にあって美濃に接近しているところから、そうした津和野のようなところには特別の興味を覚えた。

 

 鴎外も藤村も郷里を離れたのは十歳すぎてしばらくしてからで、かなり早い。だから却ってふるさとに対する思い入れも独特なのかもしれない。

 

 津和野は森鴎外、西周(にしあまね)、そして画家の安野光雅の故郷である。津和野の町のこじんまりした佇まいが好きで、何度も訪ねている。いつも泊まるのは駅から近い格安のビジネスホテルで、晩は近くの居酒屋に行くのを楽しみにしている。

 

 こんな文章を読むとたちまち津和野の町が思い浮かび、今すぐにでも出かけてみたくなる。

 

 そういえば永井荷風は森鴎外を敬愛すること深く、死の床には愛読していた『渋江抽斎』があったという。
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2019年9月13日 (金)

森本哲郎『ことばへの旅 第三集』(3)(ダイヤモンド社)

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「女の美しさについて」という章でカルメンの言葉を取りあげているが、そのなかにイプセンの『人形の家』のノラについて論じていて深く感じるところがあった。母は若いころこの本を読んで深く感動した、と言っていた。よほど思うところがあったのだろう。

 

 父は復員軍人で気が短く、口下手で、激昂すると言葉より手が先に出た。母はしばしば激昂するのを知りながら父をやり込めた。殴られることもあったが、危ない、と悟るとぱっと身を躱し、裸足で庭に飛び出して隣家に逃げこんだりした。どうしてあれほど父に逆らうのだろう、と子供心に思ったけれど、母は譲れないものはけっして譲らなかった。母は見かねた自分の両親から別れても好い、と言われたらしいが、頭の片隅にも別れようなどとは思わなかった、と笑っていた。

 

文中から、

 

「女の美しさの秘密は、何よりもまず、女性が生きているということの美しさだ、と言っていいでしょう。そうなんです。女性は生きているがゆえに美しい。同じように、女にとっては、男が生きているがゆえに美しいのです。人間の美しさの原点とは、なにより、生命の美しさにほかなりません」

 

「そんなことはあたりまえだ、と思われるかもしれません。たしかにあたりまえです。しかし、当然なことは、当然であるがゆえに、つい、忘れられてしまいがちなものです。『人形の家』のノラは、なぜ優しい犬や可愛い子供たちを捨てて家を出て行ったのでしょうか」

 

「彼女の夫ヘルマーは、自分の妻ノラをこのうえなく美しいと思っておりました。けれど彼は、ノラがなぜ美しいのか、ノラの何が美しいのか、気がついていませんでした。そんなことは思っても見なかったのです。ヘルマーはノラのことを「かわいい小鳥さん」と呼び、彼女がたまに自分の意志を表示すると「かわいい強情屋さん」と呼び、自分の意志で行動すると「ぼくのかわいい小鳥は、けっしてそんなことをしてはなりませんよ」とさとし、「小鳥というものは清らかな声でさえずるものです」と言うのです。彼はついにノラの生きている美しさを理解できなかったのです。それどころか、彼女が自分の意志どおりに生きようとすると、それを「強情」としか考えませんでした。要するにノラは彼にとって人形、あるいは小鳥でしかなかったのです。そこにヘルマーの錯覚があったのです」

 

「そう。それはまさしく錯覚なのです。なぜなら、もしノラが本当に人形のようであり、小鳥のようであったなら、おそらくヘルマーはノラを美しいとは思わなかったでしょうから」

 

 カルメンの野性的な美しさのとりこになったドン・ホセは、カルメンの魅力に振り回される。彼女は自分の生きたいように、自分の意志で生きている。そのカルメンを意のままにしたいというドン・ホセは、ついにカルメンを手にかけてしまう。カルメンの魅力、美しさの秘密はどこにあるのか、ついに気付くことのできないドン・ホセの悲劇がそこにあった。

 

 母が頭の片隅にも父と別れることを考えなかったというのは、もちろん私たち子供がいたこともあるが、父が、母が自分の意志で生きているというそのことを心の底から認めていたからだと、いまならよく分かる。喧嘩ばかりしていたのに、不思議に仲むつまじかったのは、互いに言いたいことを言える間柄だったからだろう。母はしあわせだったのだ。
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 歳を取って、現実に密着したことを考えるよりも、暇にまかせて観念的なことを考えることの方が多くなってきた。つまりぼんやりして行動が伴わない状態にいるということだ。それでなくともさすがの猛暑も下り坂に入り始め、風がちょっとだけさわやかになってきたから体がそれに喜んで、緊張状態から弛緩状態にかわりつつある。

 

 体調はほぼ戻ったけれど、食慾があまりない。食べる量も著しく減っていて、少し食べただけですぐ満腹になる。それは経済的にも有難いことであるし、体重も低めにキープできている。ただ食事の楽しみが愉しめなくなって、いささか精神的パワーも落ちたままというのが気になる。先日若い友人が声をかけてくれて名古屋で飲んだけれど、最近はつまみもほとんど食べないし、それほど飲まないうちに酩酊した。傍から見れば相変わらず人並み以上に飲んでいるが、過去の自分から見れば半減している。体がそれでいいと云っている。

 

 月初めに行くつもりでいた床屋にようやく出かけた。思い切り刈り上げてもらう。頭が軽くなる。いっそ丸刈りにしようかと思いながら、なかなか思い切れない。これから寒くなってきたらニットの帽子を買おう。

 

 月末に出かける海外旅行は関空からの出発なので、関空まで行くのが煩わしいと思っていたら、名古屋駅からの航空会社手配のバスに乗ることができるという。時間が少し中途半端だか、暇つぶしのしようはあるものだ。さらにスーツケースを宅配便で取りに来て、空港で受け取ることもできることを知った。もちろん帰りも手配しておけば自宅へ届けてくれる。早速ネットで手配した。これなら手荷物のみの身軽な姿で関空までいけるのだ。

 

 以前使ったことのある旅行会社からぶ厚い旅行案内が定期的に送られてくる。もう行くのをやめようと心に決めていた中国へのツアーの案内を眺めていると、いくつか行きたいものが見つかる。中国との関係が好くなってきたことを反映してか、コースの種類が一時より増えているのだ。「西安と洛陽五日間」とか、「武陵源と絶景の天門山」とか、料金も比較的に割安で、心が動く。
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2019年9月12日 (木)

森本哲郎『ことばへの旅 第三集』(ダイヤモンド社)(2)

 お前の哲学の目的は何か?
 それはハエに、ハエ取り器から脱出する出口を示して
 やることだ。
             ヴィトゲンシュタイン

 

 若いときに自分の生きる意味や死について考える人は少なからずいると思う。そういう人は哲学のなかに答えがあるような気がして哲学書を繙いたりする。私もそうだった。その哲学書に何が書かれているのか良く理解できない。理解できないくらいだから生きることの意味についての答えなど見つけようがない。

 

 負け惜しみではあるが、いくら読んでも考えても分からないことがこの世にあることだけは知ることができた。

 

 そうして森本哲郎に出会った。森本哲郎は朝日新聞の記者であり、論説委員でもあったけれど、学生時代は哲学を専攻し、哲学についての知識は豊富である。その彼の本で教えられたことは、ひとはそれぞれ違うと云うことであった。あたりまえのことなのに本当にその意味を理解している人は案外少ない。それを手がかりに世界の見え方が変わるほどの大事なことなのだが、解ると云う事はとても困難なことだと、解ったあとで気付いた。

 

 その森本哲郎にヴィトゲンシュタインという哲学者を教えられた。ヴィトゲンシュタインはヒトラーとほぼ同じ頃にウィーンに生まれた。物理学を大きく変えたアインシュタイン、歴史学を大きく変えたシュペングラーと同じように、ヴィトゲンシュタインは哲学を根底から変えた天才である。その有名な著作『論理哲学論考』は難解である。森本哲郎はそれを分かりやすく説明してくれていた。ためしに『論理哲学論考』を手に入れて読んで見たが、手も足も出なかった。

 

 哲学の命題を考えるときに使うものは言葉である。その言葉そのものに限界があるのである。極論を云えば、言葉を言葉で考える、つまりある言葉を違う言葉で置き換える作業が哲学だとしたら、哲学にはそもそも意味があるのだろうか、ということである。

 

 仏陀が悟りを開いたとき、衆生にその悟りを教え広めるよう求められたが、最初は断っている。悟りを言葉に換えると本質が失われていく、語ることによって真理を伝えることは不可能だと知っていたからだ。解るということを言葉で伝えることは極めて難しい。
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森本哲郎『ことばへの旅 第三集』(ダイヤモンド社)(1)

ギリシャ、デルポイのアポロンの神託

 

  汝自身を知れ!

 

 これを「身のほどを知れ」とか、「分をわきまえよ」という意味に受け取った人も多かったようだが、これをソクラテスは哲学的な命題として捉えて、「無知の知」という立場から他の哲学者を論破した。多くの哲学者が知識をひけらかすのに対して、ソクラテスは自分は知らないということを知っているという点で彼らよりものを知っているとした。

 

 思えば論語でも

 

  之を知るを之を知るとなし、知らざるを知らずとせよ。是れ知るなり。

 

と孔子は弟子を諭している。

 

 何を知っているのかと云うことよりも、自分が何を知らないか、と云うことに思いをいたすことで自分自身を知ることが出来るということらしい。

 

 知ったかぶりで語るテレビのコメンテーターの顔をぼんやりと思い浮かべていたが、他人のことではない、自分のことであった。
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2019年9月11日 (水)

藤村の言葉(1)

 六十歳を迎えて

 

 年若い時分には、私は何ごとにつけても深く深くと入っていくことを心掛け、また、それを喜びとした。だんだんこの世の旅をして、いろいろな人にも交わって見るうちに、浅く浅くと出て行くことの喜びを知って来た。

 

 私は逆である。六十を過ぎて、深く深く入っていくことに喜びを感じるようになっている。
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補足

 前回のブログで「傷つくのは実は才能である」という山本夏彦の文章を取りあげた。その意が分かってもらえただろうか。

 

「教科書を墨くろぐろと抹消させられた・・・」ことについて養老孟司が繰り返し書いている。同じことを経験し、同じことをいう人たちがいるが、その経験を、その意味を自分のなかでずっと考え続けたうえで自分の言葉で語る極めて限られた人と、その言葉を口まねで言う大多数の人がいるのである。養老孟司はその希な人であろう。

 

 養老孟司のような人が、「傷つくのは実は才能である」と山本夏彦の言う「才能のある人」なのだ。
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山本夏彦『おじゃま虫』(中公文庫)

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 読み始めたら一通り読まないと区切りがつかない気がして、山本夏彦を読み続けている。とはいえ四十冊ほどあるので、とりあえず文庫だけで一区切りにするつもりだ。

 

 山本夏彦は文章をとことん切り詰めて書く。この本は雑誌に連載していた写真コラムなどの、エッセーというよりもコラムそのものの文章だから、写真に一ページ、文章に三~四ページと云う短いものである。多くが他のところでもう少し長文で書かれたものと重複する。同じことが書かれていながらいつも新しい。文章というのはこのように凝縮することができる、と云うことを教えられる。読む方にも緊張感が求められる。そうでないと何が云いたいのか掴みきれない。

 

 たまたま開いたページの一文。

 

 けれども人がいやな顔をするのはその瞬間だけである。ながくて三分である。だから私は、敗戦直後小学生だったいまは中年の男たちが、教科書を墨くろぐろと抹消させられたことを生涯忘れない、心の傷はいまだに癒えないとテレビで言うのを聞くと眉につばをつけるのである。あれはみんな人の口まねである。ぎょっとするのは三分間だけで、それがすぎればあとかたもないのが人の常なのである。傷つくのは実は才能なのである。
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2019年9月10日 (火)

興味を失う

 テレビを観ていると(特にNHK)でスポーツ番組の割合がどんどん増えているように感じる。ニュースでスポーツに関する時間がしっかりとあるのに、さらにスポーツ専門ニュースが別に放送されている。スポーツに関するドキュメントが連日目白押しだ。スポーツに興味がないならテレビを観るなといわんばかりである。

 

 オリンピックが来年に迫っていて、スポーツを盛り立てたいという意図があるのは承知している。ところがこちらはそこまでスポーツに興味がある方ではない。スポーツを報じるアナウンサーやもとスポーツ選手たちというのはどうしてああやかましいのだろうか。尋常とは思えない。

 

 それやこれやでますますスポーツに興味を失いつつある。オリンピックなど観るものか、と思いだしている。

 

 私に関してだけは、NHKの努力は逆目に出ているようだ。過ぎたるは及ばざるごとし。
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 NHKの世論調査で、花粉症の薬などの健康保険適用除外に反対する人が60%だったという。負担が少ない方がいいと思うのがふつうだから、反対が多いのは当然で、反対が60%だったのは少ないくらいで、日本人は健全だということの表れでもある。

 

 立憲民主党などは、反対が60%もあるのだから、適用除外を実施したら民意に反すると大反対することだろう。アンケートによって民意とするのだったら政策の実行はアンケートで決めることになる。それなら国会は必要ない。現在世界に吹き荒れているポプュリズムとはこういうもののようだ。一度その流れに呑み込まれると、このアンケートは90%が反対という結果に変貌していく。日本人がまだ健全だというのはそういう意味だ。

 

 そのポプュリズムの愚かしさの一例は、いまのイギリスのブレグジット騒動を見れば分かる。お隣の国についてはもう書くのに飽きてきた。ついにチョ・グク氏が法相に就任した。この人は前にも書いたが文在寅よりはるかに反日、親北朝鮮であるらしいから、韓国の将来がこの人にゆだねられたら韓国国民にとっても日本にとっても絶望的だと予言しておこう。
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2019年9月 9日 (月)

ちょっと意外な病名

 炎天下の午後、泌尿器科の経過検診に行く。「経過はどうでしたか?」と訊かれたので、詳しく経緯を説明する。前回とうってかわって、医師はこちらの言っていることを聞きながら丁寧にメモを取っている。そして、「本日の検尿からは前回検出された菌はまったく見当たりませんでした」とのこと。

 

 検出された菌、発熱の仕方、排尿困難なのに膀胱の残尿がそれほど多くないことなどから考えて、「どうやら前立腺炎だと思われる」、と云うのが医師の診立てであった。それなら女性にはありえない(女性には前立腺はない)病気である。納得である。

 

 菌がなくなったので抗生物質はとりあえず打ち止めとして、前立腺用の薬を継続してずっと飲むことになった。「たぶん排尿はいまよりもっと楽になりますよ」と云うことである。ありがたい。ずっと出が悪くて悩んできたから、それが少しでも解消すればまことに嬉しいことである。

 

 次回は来月末の糖尿病検診の日に合わせての再検診で、前立腺の検査もする。午前と午後のダブルヘッダーである。その日までの薬を処方される。

 

 明日、もといた会社の後輩のG君からお誘いがあり、名古屋で飲む予定なのだが、これで心配なく飲むことができるし、月末の旅行も大丈夫だ。

 

 大汗をかいたのでシャワーを浴びて体重を量ったら、いつも目標にしていてなかなか達成できない体重であった。定常よりも3キロ以上も落ちていたのだ。これがキープできたらいいのだけれど。
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経過検診

 弟と妹に連絡したら、風速50メートルを超える風で3時以降は寝ていられなかったという。庭は事前に片付けたのだが、まさかというものまでひっくり返され吹き飛ばされてひどいことになっているという。九時過ぎに連絡したときはまだ吹き戻しの強い風が吹いているので、収まったら片付けなけばならないと弟は笑っていた。弟の嫁さんは今日は出勤日ではないのだけれど、勤め先の幼稚園がひどいことになっているというので緊急召集がかかって飛んでいったそうだ。

 

 今日は午後これから泌尿器科の経過検診。いちおう生活に支障はなくなっているものの、完治した実感がない。そのへんが医者に上手く伝わるのかどうかちょっと心配している。前回の診察で、人のいうことをきちんと聞かないような医師に感じられたからだ。こちらは苦痛で脂汗を流していたから、聞きそびれたことばかりである。どういう生活をしたらいいのか。水をせっせと飲むべきか、冷たいものばかりでいいのか、お茶はいいのかコーヒーはかまわないのか。安静にすべきか運動すべきか。酒は飲めるのか。

 

 なんだかいまのままでは再発がいつ起きてもおかしくない気がする。あまり埒があかないようなら、医者を替えることも考えなければならないかも知れない。何しろまったく患者に親身でない。なさ過ぎるのだ。持病にしたくないから、今日それを決めようと思う。案外今日診察を受けたらガラリと違う対応かも知れないと、かすかに希望は残しているけれど。
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心配

 朝早く起きて(起きてしまって)四時頃からテレビの台風状況を見ている。弟、そして妹の家族を始め多くの身内が千葉とその周辺に住んでいる。この風雨の強さならもう起きているだろうとは思うが、台風はまだ通過中であり、連絡して消息をたずねるのを我慢している。(現在朝5時半)

 

 大きな被害が無ければ好いのだが。
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2019年9月 8日 (日)

夜明け前

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夜明け前、マンションのベランダから。

 

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小牧、春日井方向。

 

すでに蒸し暑い。台風は名古屋を大きく逸れて影響はあまりなさそうだ。
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2019年9月 7日 (土)

薄紙を剥ぐ如く

 薄紙を剥ぐ如く体調は改善しつつある。悪化するよりはありがたいことなのだが、薬を飲んで、しかも節制しながらこの遅々とした回復の仕方はどうしたことか、という怒りもある。数年前に似た症状で救急外来にかかったときはもっと歴然とした回復だった。薬を飲んだ当日から効果があって、痛みは激減したのに、今回は薬を飲んだ初日が一番ひどかった。

 

 いささか診立て違いがあったのではないかという怒りがある。週明け月曜午後に経過確認の診察があるのでそのへんを聞いてみようと思っている。こういう病気は中途半端にすると再発し、さらにひどくなり、治りにくくなるといわれている。我慢して良いことではない。

 

 薬は明日までしかない。

 

 とにかく定常の半分程度には回復し、ビールくらいは飲みたい気分で、数ページ目繰る程度だった読書も、少しずつ再開できるようになった。意欲が戻りつつある。それでも昨日本日は読書よりも、すぐたまってしまうドラマや紀行番組などの番組を一つずつ愉しんで、消去していった。映画はとりあえずBDにダビングしておく。『蛍草 菜々の剣』はついに全七回が終了。葉室麟の原作を読んでいるからハッピーエンドなのが分かっているのに、ハラハラしながら観終わって、好かった好かったと素直に喜んでいる。

 

 これから読む本を選定し直し、入れ替えして定席の横に積みあげた。時間が経つと読みたい本が替わるのだ。
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動脈硬化

 マンションのゴミ集積所にゴミを出す。分類は燃えるゴミと燃えないゴミ、そしてプラスチックゴミの三種類のみ。その他は基本的に粗大ゴミか資源ゴミで、別途出す。プラスチック類はほとんど燃えるゴミとして出してかまわないので、私はほとんど二種類と考えて対応している。何も難しいことも面倒なこともない。

 

 プラスチックには種類が多いからすべてを再生するというのは現代では不可能だし、却ってコストがかかるようである。明らかな資源ゴミと考えられるペットボトルなど以外は原則として燃やしてしまう方が合理的だろう。それに沿った分類である。

 

 そんなゴミ集積場で明らかにルール違反のゴミの捨て方をする者がいる。ゴミに名前はついていないから、誰がやっているのかわからない。燃えるゴミに缶がどっさり入っているもの、指定のゴミ袋を使っていないでゴミがはみ出すどころかゴミに袋がちょっとかぶさっているだけのものなどがある。甚だしいのは袋にすら入っていないものまである。分からないようだけれど、誰がしているか分かる人には分かるものである。わからないと思っているのは当人だけである。百人に一人かも知れないその人が全員を不愉快にする。誰かがそれを処理し直さなければならない。

 

 資源ゴミの集積場でも明らかに分別と異なるものを平然と放り込む者がいる。すべて甘えである。誰かが片付けをやってくれるから自分一人くらいかまわないだろう、という気持ちなのであろうと想像する。その片付ける誰かが必要な状態を自分が生み出していることへの疚しさなど感じないのだろうか。社会にいいようのない不快感を生み出していることに思いが至らないのだろうか。誰もがふつうにできることがどうしてできないのか不思議でならない。

 

「ゴミを捨てる人はゴミを拾わない」という言葉に深く思うところがある。子どもにも繰り返し伝えた。これはそのまま「ゴミを拾う人はゴミを捨てない」であろう。道ばたに落ちているゴミを捨てる人は拾うことなど意識の中にないもので、その落ちているゴミを拾う人はポイ捨てなどけっしてしない。これについてはおなじ人が捨てたり拾ったりがないという截然とした差がある。

 

 私は「開けたら閉める」という言葉も大事にしている。これも子どもにいつも言い聞かせていた。開けっ放しにすれば誰かが閉めることになる。それに無思慮の人は人間として欠陥があると思う。それを子どもに教え込むのがしつけだろう。

 

 プラスチックゴミの海洋投棄など、本当はどうして起こるのか不思議なことなのだ。捨てなければいいだけのことがどうしてできないのか。

 

 社会のさまざまな流れを阻害するのはそういう無思慮の人たちかと思う。社会というからだの血管に、蓄積して流れを阻害させる物を捨ててかえりみない人が社会で一定量に達すると、社会は動脈硬化を起こす。いま百人に一人が十人に一人になったりしていないのか、心配している。拾う人が追いつかない時代が来る。それなら未来は闇だ。
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2019年9月 6日 (金)

侮辱を理由に提訴・・・

 NHKから国民を守る党(以下N国)などというふざけた(あくまで私の感想)名前なのにその党に投票する人間がいて、選挙に受かる人間が出るなどとは想像しなかった。それに対してマツコ・デラックスが、N国に関して「気持ち悪い人たち」、「ふざけて(票を)入れた人も相当いると思う」などと発言したというのはしばらく前に見聞きした記憶がある。全く同感である。念を押しておきたいのは、マツコ・デラックスはN国は危険な党だ、などといっているわけではない。ただ「気持ち悪い」と自分の感じを述べただけだ。さらに「ふざけて・・・と思う」といっているのは、彼女(いや彼か)にとってそう見えていると云う事で、それだけのことである。

 

 私はオカマ・キャラにはそれほどきつい偏見はないが、好き嫌いは激しく存在する。大嫌いなのはミッツ・マングローブやイッコウだとかいう人で・・・これは個人的な好き嫌いに過ぎるのでやめておくとして、マツコ・デラックスは嫌いではない。厭味の少ない、その代わりに毒もあまり強くない毒舌を愉しませてくれる。毒気がそれほど強くないのは本質的に小心なところがあるのかも知れない。それは賢さでもある。

 

 N国がターゲットにするには的が大きくて(実体的に大きいし、知名度も高い)、しかもあまり気が強くなさそうである。噛みついて世間を騒がせるのに絶好である。なんと原告一万人の集団訴訟提訴をするのだと報じている。原告となれば名を明示して訴訟人に名を連ねている者がそれだけいるということだろうか。

 

 まさか馬鹿がそれほどいるとは私には信じ難いが、それが世の中ならこの世の中はどうかしている。それにしてもこのような、相手を阻喪させる攻撃を仕掛けることがまかり通るのだろうか。裁判所はそんな訴訟を受理するのだろうか。それでは自分に対する非難を受ける度に訴訟が可能になって、集団で言論を封殺することを許すことにつながるだけではないか。そういう意味でN国というのはそういう国を理想とするおそろしい集団なのかも知れない。
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森本哲郎『ことばへの旅 第二集』(ダイヤモンド社)

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「幸福について」「快楽について」「目ざめについて」「豊かさについて」「歴史について」など15の項目に分けて冒頭に先人の言葉を引用して考えていく。一つひとつそれについて私もぼんやりながら考えてみる。錆びつき始めた頭には、こういうあたりまえだけれど大事なことを考え直すのは悪いことではないだろう。

 

 それを考える時間は十分ある。それなのにじっくりと考えることができないのは残念なことだ。雑念が思考を邪魔する。そういう人間の心についても、インドの古典、バカヴァッド・ギーダーを引用して丁寧に考察し瞑想を勧める。「迷いについて」「ふるさとについて」「嫉妬について」と続けられると、人間とは如何に複雑な生き物なのだとあらためて驚かされてしまう。

 

 個別にうたかたのように浮かんだことを書きとめきれなかったというか、そもそも書きとめるほどのまとまった考えに至らなかったものばかりなので、一つだけこころに残ったことを記しておく。

 

「豊かさについて」の項では
  芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
(ばしょうのわきしてたらいにあめをきくよかな)

 

と云う芭蕉の句が引用されている。これ全体で一つの句である。

 

 このとき芭蕉は一切の交際を絶ちきってあばら屋に独り暮らしをしていた。外は野分、つまり嵐が吹きすさんでいる。あばら屋の屋根の破れ目から雨漏りがして、それを受けるために置かれた盥に滴が垂れている。芭蕉はその滴の音を身をひそめてじっと聞いている。

 

 そのわびしさ、寂しさの中に豊かさをどう感じようというのか。

 

 まずその句の中に自分をおいてみる。豊かさとは何かをそこから考えてみる。しあわせとは何かを考えてみる。雨戸を閉め切った暗がりの中に風雨の音と雨だれの盥に当たる音を感じながら、なんとなく物質的豊かさとは違う精神の豊かさというものを求める芭蕉の気持ちが垣間見える気がしてくる。

 

 物質的な豊かさとは量の豊かさである。際限が無い。そういうものに価値を感じないという生き方もあるのだ。そういう気もちになって漂泊にあこがれた時代もあった。山頭火に気持ちが強く震えたときもあった。旅が好きなのもそういうときどきの名残りなのだと思う。
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2019年9月 5日 (木)

雑感

 明日、チョ・グク氏の聴聞会が開かれるという。新しい疑惑が浮上して、別途検察から氏の妻と娘が事情聴取を受けるというから予断を許さない状況のようだ。この危機を乗り切るかどうかは、先日書いたように韓国の分水嶺のような気がしている。彼がめでたく法相となり、次期大統領になったとき、韓国はまったく違う国になると私は考えている。韓国国民にとってそれが幸福かどうか。日本にとってますますとりつく島のない、北朝鮮のような国となるだろう。

 

 言論の自由というのがなんなのかよく分からなくなってきた。そもそも言論の自由という言葉に矛盾があるのかも知れない。「言論の自由を守れ」といいながら「ヘイトスピーチはするな」という。もちろん私もヘイトスピーチなど虫酸が走るほど嫌いである。しかしヘイトスピーチは言論ではないのだろうか。安倍首相の演説を妨害しておいて「言論の自由」を叫ぶ人たちもいる。そもそも言論は自由勝手なものなのではないようだ。それなりの節度と理性を伴うものでなければならないだろう。

 

 愛知トリエンナーレという芸術祭で、慰安婦像展示のコーナーが問題になったが、それならあの場所に韓国で過去行われてきた、韓国の意図的な間違った日本悪者根拠資料(たとえば徴用工としてよく使われる写真は、実は朝鮮人ではなくて日本人労働者のもの、など)を展示でもすればよかったけれど、そうしたらどうなったろう。それは芸術作品ではないと彼らは非難するのか。そもそも慰安婦像は芸術作品か。我は可で彼は非と言い張るだろうなあ。そういうのは自由とはいわないはずなのだが。

 

 体の毒素が少しずつ抜けてきた気がする。排尿痛、排尿量の回復ははかばかしくないが、少なくとも微熱は引いてきた。ようやくシチューを作って食べた。
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ピアノ曲を聴く

 アリス・紗良・オットは、父親がドイツ人で母親が日本人のピアニスト。彼女の演奏をNHKBSで観てすぐに好きになった。演奏していたのはサティの曲やラヴェルの曲。サティの曲は静かなものが多く、静かすぎていままでその良さが理解できなかったが、彼女の演奏で心からいい曲だと感じることができた。これを繰り返し聴いている。

 

 彼女は演奏中にときどき天を仰ぐ仕草をする。天上のなにかと感応しているのであろう。それはポーズだけとは思えない。美しい彼女のその仕草を見て私は官能的だなと思ったりする。e-onkyoでソフトを購入してコレクションしようかな。
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2019年9月 4日 (水)

無題

 微熱続く。午後雨降り出す。食べるものが少なくなったので止み間を見て近くのスーパに買い出しに行く。帰りに雨が強くなってきたのでしばらく様子を見、小やみのあいまに急いで帰る。

 

 帰るとぐったりする。敷きっぱなしの床に横になり、音楽を聴きながらうつらうつらする。排尿痛は僅かに軽減する。一回ごとの排尿量は少しずつ増えて排尿間隔は長くなりつつある。微熱とだるさが引かないと何もする気がしない。シチューでも作ろうと思うが面倒だ。

 

 雷雨に変わる。暑いのはつらいしクーラーは弱めでも嫌な気がする。身の置きどころなし。
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『文豪たちの悪口本』(彩図社)

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 彩図社文芸部編となっているが、彩図社という会社の本を見るのは初めてである。文豪たちの悪口というのは文豪が文豪に噛みついたり遺恨を以て書いたものをいう。ここに揚げられた作家たちをまったく識らずにこの本を買う人もなかろうが、この本だけでその作家のイメージを持たれたら大変だ。

 

 太宰治と川端康成の確執は有名だ。太宰治が第一回の芥川賞候補になったときの選者の一人が川端康成で、「私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の率直に発せざる憾みがあった」と評されたことで受賞がかなわなかったとされる。貧窮して賞金の500円が喉から手が出るほど欲しかった太宰治は川端康成に「目下の生活」についての釈明と、川端康成に対する怒りをぶつけている。

 

 中原中也は誰彼かまわず「からむ人」だったようだ。次から次に彼の口から吐き出された悪口がいくつも残されている。彼は短い生涯を予感していたのではないだろうか。そこでの焦燥がそのようなかたちになって表れたのかも知れない。とはいえ常人にはつきあいにくい人だったようだ。

 

 無頼派と呼ばれる太宰治、織田作之助、坂口安吾と志賀直哉の確執もまとめてあげられている。志賀直哉の文学を文学と見るか見ないかで大きく別れるだろう。私は見る方で志賀直哉が好きだけれど、見ない側の気持ちも主張も分からないことはない。その無頼派の坂口安吾が太宰治の情死を知ったあとに書いた文章で、かなり辛辣なことを書いている。

 

『文藝春秋』から派生した『文藝時代』の創刊に関連していざこざがあり、円満離脱したはずの作家たちがだんだん菊池寛に反感をいだいていって、悪口を書き連ねている。菊池寛にはそういう敵ができてしまうところがあったようだ。

 

 永井荷風は終生菊池寛を嫌い抜いていた。『文藝春秋』から再三の執筆依頼があってもがんとして受けなかった。よほどの憾みがあったものとみえる。

 

 他に夏目漱石をめぐる話もあるが、これは悪口と言うほどのものとも思えない。

 

 谷崎潤一郎と佐藤春夫の確執は有名だが、その手紙のやりとりから読み取れるのは自己主張であって悪口などではないと思う。二人はあとで円満に和解した。

 

 日本文学に興味がある人ならば、大半はそういうこともあったろうと承知している話ばかりである。そういう点で目新しさはあまりなかった。
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2019年9月 3日 (火)

極めて危険

 文在寅大統領の側近、チョ・グク氏が長時間の記者会見を乗り切った。冷静に受け答えしながらすべてを否定して見せた知力と強靱な精神力には驚嘆する。恐るべき人物である。ところがこのチョ・グク氏は文在寅大統領よりもはるかに先鋭な反日思想の持ち主であるらしい。

 

 ここでチョ・グク氏が当初の予定通り法相に就任したとすると、ほぼ次の韓国大統領はチョ・グク氏になる可能性が高い。たぶん韓国は今以上に反日を強化するだろう。日韓関係は絶望的になる。それはもちろん日本にとってまことに残念なことであり、韓国国民はいったい自分たちがどういう政権を選択したのか、それを知ることになりそうである。

 

 経済など彼らはあまり重要だと考えていないであろう。まさかと思うが、韓国が経済的に衰退すれば、北朝鮮との差が少なくなる。そのことは善いことだと考えているのではないか。極めて危険な兆候を感じる。

 

 体調はまだ絶不調だが、最悪は脱したようだ。汗がやたらと出る。熱があるときの汗は嫌な臭いがする。だからせっせと着替えるようにしている。洗濯を二回した。明日になって明らかに回復することを願っているがどうだろうか。体のダメージがかなりある。いつ定常に戻れるのだろう。
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絶不調続く

昨夕、病院から帰ってきて夕食を摂り、最初の薬を飲んだ。前回のとき同様に、少しは楽になるかと期待していたのに、排尿困難排尿痛は変わらない。そのまま氷枕を用意してダウン。悪寒がして熱が出てきた。最悪と思った前夜よりもひどい。ジャージーの上下を着込んで温かくしたらようやく人心地がついた。尿が出ないぶん汗が凄い勢いで出るのでせっせと着替えした。

 

今朝二回目の薬を飲んで少しでも楽になってくれるといいのだが。

 

本を読む気もしないし、テレビも見たくない。しばらく家で静かにしているつもり。
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2019年9月 2日 (月)

絶不調でドラキュラとなる

 本日は糖尿病の定期検診日。ところが数日前から排尿がだんだん困難になっていた。むりやり排尿すると全身にしびれが走るように痛い。夜中、一時間から二時間ごとに便座に座って痛みをこらえて排尿すると、ほんの少し楽になる。夜明け前、ちょっとだけ仮眠を取る。起きたら腰が痛い。体温を測ると微熱(37.2℃)がある。

 

 排尿困難、排尿痛はひどくなるばかりで、ものを考えることができない。少し早めに病院に行き、看護士に自分の不調を訴えるのだが、みな忙しいらしく真剣に聞いてくれない。午前中の診察を終えて一度家に帰って横になる。

 

 病院まで歩いて二十分弱、午後も歩こうと思ったが、もうふらふらである。危ないけれどぎりぎりまで休んでから自分の車で病院へ行く。待って待って待ってようやく泌尿器科の医師の診察を受ける。ゼリーをたっぷり塗られてエコー検査。看護士に見られたくない部分までパンツを引き下げられる。パンツは着替えていったものの、多少の尿もれはあって、その臭いがするのが恥ずかしいが、看護士は平然としている。

 

 腎臓は特に異常はない。膀胱と尿道のどこかが細菌感染で尿が通りにくくなっているらしい。膀胱の尿は心配するほどたまっていないが尿がとても濁って汚れているそうだ。そんな気がしていた。排尿促進のクスリと細菌を駆除する薬を一週間分処方される。来週経過を見るためにまた病院に行かなければならない。

 

 処方された薬の一つに「この薬を飲んでいるあいだはできるだけ直射日光に当たらないでください」と注意書きがあった。私はこのタイプの薬にとても弱い。太陽やフラッシュを直接浴びたようになってしばらくの間目が開けられなくなる。私は二週間ほどドラキュラとして闇に潜むのだ。
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山本夏彦・山本七平『意地悪は死なず』(中公文庫)

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 前作『夏彦・七平の十八番づくし』に続いて、さまざまなことがテーマとして語られていて、どれも興味深く、深く頷くところであるが、特に「正義」について二人が散々にこき下ろしている部分が読みどころである。二人にしてもそれに賛同する私にしても、この世に正義というものがあって、それが行われるべきであるという思いは強くあるのである。それが強いからこそ正義の名を振りかざす輩の「正義」が不快なのである。たしか谷沢永一にも『正義の味方の嘘八百』とかいう本があった。同じ主旨のことが書かれていたと記憶する。

 

 そこで言う「正義」とは、田嶋陽子や朝日新聞が「正義」であるような正義である。「正義」について考えるのなら、是非この本を読んで欲しい。分かり易く書かれていて必要十分である。そして書いてあることが少しも理解できないし納得もできないのであれば、まことに残念なことである。
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2019年9月 1日 (日)

戦略も戦術も無い

 立憲民主党以下野党は、10月からの消費税引き上げを阻止することを表明したという。野党の主な面々は旧民主党の面々であり、その民主党が推進したのが消費税8%から10%への引き上げである。民主党最後の首相である野田首相は、結果的にこの消費税引き上げを条件に政権交代した。国家経営のためには消費税増税をせざるを得ないと考えたから民主党は増税を推進したのであろう。

 

 政権交代した自民党は前政権の積弊を除く(by文在寅)などという愚かなことを判断基準にせず、是々非々で残すもの、止めるものを選んだと思いたい(多分に自分の都合が混じるのは世の習いで、あまり都合にこだわればまた政権を失うことは分かっていると信じたいところである)。その自民党は消費税増税を撤回したりせず、増税が必要であると認識して、かつ政権交代時の約束を守り増税を推進してきた。

 

 増税に賛成する国民などいないが、それでも必要なことならしかたがないとそれを受け入れて、その準備が進められている。それをなんたることか、民主党を母体とする立憲民主党以下の面々が消費税増税を阻止する、間に合わなければ増税後であっても増税を撤回させ、還付するなどと主張しているという。

 

 あまりのことに国民は呆れるだろう。民心はますます離れるだろう。誰が推進役かは知らないが、表向きは枝野代表が看板だ。この人の嘘つきぶりは原発のときに散々みせられてきた。いま自分のいた民主党の決めた消費税増税を、すでに国中がそれにそなえつつあるときに止めさせる、などと主張することで何を目指そうというのか。打ち出の小槌など存在しない。将来への負債を増やさないために何を我慢しなければいけないか、まともな国民は分かっている。

 

 増税は反対、年金は年金だけで暮らせるようにしろ、とはなにごとか。出来ることを言え。文在寅大統領のように夢想を語るのはいい加減にして欲しいものだ。もし政権批判をするなら、民主党の原点に戻って、税金の使い道の見直しや無駄遣いの廃止など、国民の納得するような戦術から地道に力を入れるべきではないか。

 

 枝野代表は「いたずらに韓国を刺激する河野外務大臣はお辞めになるべきだ」と語って集中砲火を浴びた。たしかに河野大臣には、常に後手に回ってきた日本の外務省を何とかしなければならないという思いが強すぎて、多少言いすぎのところがある。しかし今回の枝野氏の非難はまったく根拠の薄い偏った憶測情報を根拠になされたらしい。だからそこを突かれると、たちまち「辞任せよとは言っていない」などとわけの分からない言い訳をする羽目となった。本質的に嘘つきなのであろう。私は嘘つきが嫌いだ。嘘をついてもなかったことにする人間、頭の中が変に凝り固まっているために嘘をついている自覚のない人間は特に嫌いだ。

 

 枝野代表がいる限り、野党に民心が戻ることはないと私は思うから、ますます自民党は楽をすることになる。国難に当たるにはその方がいいところもあるといえるから、枝野氏は国のためになっているのかも知れないが、一方自民党も劣化しないよう(すでにかなり劣化してしまっているが)にこころがけてほしいものだ。
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沢木耕太郎『作家との遭遇』(新潮社)

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『深夜特急』を始めとして、沢木耕太郎の本を何冊か読んでいる。ノンフィクションというジャンルに大きな足跡を残している作家であると思う。1947年生まれだから団塊の世代であり、私の少し歳上であるが、その興味の赴くところが重なる部分も多い。だから読みやすい。何よりその世代の一部の人が染まってしまっていまだにそこから抜け出せないような固定観念にとらわれていないところがよい。

 

 この本では書評に対して、彼の自己に対する厳格さが強く印象に残った。誰かを論じるときには、それが文庫本の解説のためであっても、その作者の全著作を網羅して一から読み直すのだという。論文を書くのならあたりまえのことだが、数十頁の書評にそこまでエネルギーを注ぐ態度に敬服する。

 

 この本では23人の人たちが語られている。中には作家ではない人もいるが、もちろん書評であるからその文章を読み込んだ上で書き込まれている。最後にカミュについての彼の卒論が収められている。若書きの、まだ洗練されていない文章だが、あえてこれを収めたのは、彼の書評の姿勢の原型をみせるためだろう。

 

 とりあげられた23人のうちで、何人か私もなじみがあって、そこに共感したことを語りたい人もあるが、思いが強すぎてまとめきれない。柴田錬三郎を論じて、時代小説との関わりが語られている。ほぼ同じような作家達の作品を乱読したことを知ってうれしくなる。また、高峰秀子を論じて『わたしの渡世日記』の素晴らしさを述べている。この本はもし読んでいないなら是非読むことをお薦めしたい本だ。

 

 この沢木耕太郎の本に取り上げられているさまざまな本を読んで見たくなってしまう。一度読んだことのある本ももう一度読み直したくなる。そういう本である。
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