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2019年11月

2019年11月30日 (土)

百田尚樹『偽善者たちへ』(新潮新書)

 この本を読んでいて吐き気をもよおした。

 

「そうだろう、そうだろう、百田尚樹の本はそういう本だ」と百田尚樹の嫌いな人は早とちりするかも知れないが、私はどちらかというと百田尚樹にそれほど違和感がなくて、共感することが多いタイプの人間である。

 

 この本では、ニュースなどの中から百田尚樹が攻撃するに適当なものをひろい集めてそれをひとつひとつ批判している。その集められたネタがひとつひとつならばまだ単に腹立たしい程度ですむところを、これでもかとばかりにかき集めて読まされるから、吐き気がしたのである。

 

 世の中はどうなっているのか、という気になる。こんな連中ばかりだったら今の世のなかはとても生きにくい。そんな気持にさせられる。それらをこき下ろしたところで、ちっとも発散にならないのである。さいわい今は現役を引退した年金生活者としてそんな世の中から目を背けて生きていけば行けないことはない。

 

 そういうものばかりを集めれば世の中はそう見えてしまうとはいえ、それにしても・・・と思う。世の中はもともとそういうものなのか、今が特に異常なのか。

 

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日本海(1)

北陸道を走り、富山を過ぎて黒部を過ぎたあたりから海が見え始めたことに気がついた。越中境のパーキングに止めて日本海を見る。

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まことに青い色の、美しい海が眺められた。

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海を遠望する場所にこんなモニュメントがあった。古代の装飾品、曲玉(まがたま)とか勾玉(くがたま)というものだろうか。

親知らずを抜け、糸魚川、上越、新潟を過ぎて村上へ。いつもなら村上で下りて日本海沿岸を走って笹川流れを見に立ち寄るのだが、自動車道をそのままさらに北上する。終点からようやく日本海沿いの国道7号線に乗る。鼠ヶ関で弁天島に立ち寄る。

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鼠ヶ関の港。鼠ヶ関には芭蕉も立ち寄った。奥の細道の句碑があるらしいが、どこだかよく分からない。

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振り返れば樹木は葉を落として、山はすでに冬の景色である。

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弁天島の入り口にある厳島神社。

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すずを鳴らそうかと思ったが、やめた。風が冷たい。

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神社の前の狛犬がとてもユニークな顔をしている。なんとなく恐山の入り口にある奪衣婆に似ている。

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弁天島の一番奥に灯台がある。島の周囲をぐるりと回ることができる。左から時計回りに行く道は狭くて急坂で危ない。しかも逆光だから今回は右側から行ってき右から帰ることにする。

次回は日本海の荒波を。

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2019年11月29日 (金)

『安岡章太郎随筆集4』(岩波書店)

 もともとこの巻は『志賀直哉私論』という単行本をもとにしたものだから、どうしても志賀直哉の唯一の長編小説、『暗夜行路』を読了した上でないと読めない部分があったので、そちらを先にした。それと安岡章太郎の評論とを照合しながらそこから感じたことや書き残したい部分を引用したブログをながながと書くことになった。独りよがりの文章の連続で辟易されたかも知れない。申し訳ない。それだけ思うところがあったと云うことで、ご容赦いただきたい。

 

 安岡章太郎は軽みのある文章を書く作家だと思いこんでいた。然し先般の井伏鱒二についての評論や、この志賀直哉についての評論集を読んで、とんでもない勘違いをしていたことに気がつかされた。遠藤周作のエッセイを読んで彼が軽みの文章の作家だと思いこむような愚かな間違いであった。軽さは徹底した思索や研鑽からうみだされたもので、だからこそ彼の文章に惹かれていたのだといまさら気が付いたのである。

 

 彼にこだわって作品やエッセイを読んできて、これからも読もうという自分の選定(何かを選ぶことは何かを選べないという意味で)が正しかったことに満足を感じている。
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最晩秋の金沢は寒かった

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 今週初めに、冬タイヤへの交換のため金沢へ行った。名古屋は薄日の射す天気でまずまずだったが、東海北陸道を北上して分水嶺を越えるあたりから、どんよりした雲におおわれて気温もどんどん下がった。山はとうに紅葉を過ぎて枯葉色になっている。五箇山から先は小雨。白山は見えない。たぶんすでに雪景色だろう。

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 タイヤ屋には予約してあった昼過ぎに到着。「寒いですねえ、昨日まではちょっと暖かかったのに」と声を掛けられる。今年から貸しタイヤではなくて買い取り制になった。だから新しいタイヤで、その料金を払う。これで冬タイヤもマイタイヤだ。このタイヤが寿命になる頃、私も運転をやめるか、もう一回新しいのに更新するかどうかきめるつもりだ。遠出がし難くなるのと事故のリスクを回避するのと、どちらをとるか。次第に天秤の支点が動きつつある。

 

 晩、金沢の若い旧友たちと会食。そろそろ声を掛けるのをやめないと忙しい彼らに迷惑かな、などと考えていたが、会えば楽しい。来春のナッタイヤ交換のときにも必ず声を掛けるように約束させられた。嬉しい。

 

 金沢駅前で宿泊したあと、いよいよ日本海沿いに北へ走る。今回はあまりあちこち動かず、いつもの湯宿で湯治をメインとするつもり。本をたくさん車に積み込んできたが、湯に入るとすぐ爆睡してしまうから、はたしてどれだけ読めるだろうか。

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2019年11月28日 (木)

心が洗われると風景がちがって見える

 人生観が大きくかわるほどのことがあると、自然がそれまでと違って見える。私も経験が無いわけでは無い。しばしば聞くのは命に関わるような大病を経験したひとの言葉だろうか。

 

 ここでは『暗夜行路』の時任謙作が自ら自分の運命を乗り越えて再生したあとで見たいくつかの自然の描写から、その一部分を紹介する。もともと志賀直哉の自然描写は誰にも真似できないほど優れたものであり、ときに随筆なのか小説なのか分からない部分にこそ素晴らしさが感じられたりする。それは『城崎にて』などでも実感するだろう。

 

 この文章は、朝とりあげた妻直子宛の手紙の部分の少し前に書かれている。私はこういう文章に参るし、心酔するのである。

 

「彼は石の上で二匹の蜥蜴が後足で立上がったり、跳ねたり、からまり合ったり、軽快な動作で遊び戯れているのを見、自らも快活な気分になった。
 彼は又此所に来て鶺鴒が駆けて歩く小鳥で、決して跳んで歩かないのに気がついた。そう云えば烏は歩いたり、跳んだりすると思った。
 よく見ていると色々なものが総て面白かった。彼は阿弥陀堂の森で葉の真ん中に黒い小豆粒のような実を一つずつ載せている小さな灌木を見た。掌(てのひら)に大切そうにそれを一つ載せている様子が、彼には如何にも信心深く思われた。
 人と人との下らぬ交渉で日々を浪費して来たような自身の過去を顧み、彼はさらに広い世界が展けたように感じた」
 
 このあとに世界と自分、人間の未来に対する思い込み、それらを違う視点から、ある意味で仏教的な世界観から見直したりする。欲望の世界こそが人間を救うという価値観の見直しである。これはまさに明治以来の西欧技術文明礼賛からの脱却に目覚めた瞬間かも知れない。

 

『暗夜行路』全体の印象をまとめておこうと思ったが、何回かに分けて引用文に合わせて書いた内容でほぼ書き尽くしているので、これで終わりとする。

 

 これからしばらく北への旅に出かけながら、もう少し反芻することになるかも知れない。一つの小説にここまでこだわって色々考えたのは本統(本当)に久しぶりだ。

 蛇足だが、のめり込んで読んだ本として思いだすのは、吉川英治の『水滸伝』、M・ミッチェルの『風と共に去りぬ』、開高健の『日本三文オペラ』、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』等々。それに匹敵する本として記憶される本に出会えたことは喜びであった。日本文学をもう一度いちから読み直したくなった。さいわい文学全集は棚にある。旅で頭をリセットしてから読書計画を立て直すことにしよう。
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橋本治『思いつきで世界は進む』(ちくま新書)

橋本治 1948年生まれ、評論家、小説家、エッセイストで著書多数。今年2019年1月死去。

 

 東大闘争時代、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のキャッチコピーで有名になった。

 

 この本の帯の裏表紙側には「『バカにバカ』って、言っても通じないこの国で。」という彼のキャッチコピーがある。いわゆる団塊の世代の代表だが、政治的な闘争からは背を向けていた。集団でシュプレヒコールするような人々とは相容れないタイプなのだ。その点では共感するものがある。ただし日和見の無関心とは違う。

 

 団塊の世代特有の政治的スタンスがあって(これは内田樹氏も同様。そういえば両氏とも東大である)、私は共感しないけれど、その部分はあまりこだわらずに避けて通ることにしている。

 

 ものを考える時の視点がユニークである。ユニークというのは、他人の言葉や風潮に流されないで、自分自身の頭で考えたことを語るということである。分からないことは分からないといい、知らないことは知らないという。平然とそれを云えるすごさがこの人にはある。世の中は知らないことを知ったかぶりしてしゃべる輩が多すぎる。

 

 この本にも、こちらの迷妄の霧を払うような言説が散りばめられているが、ところどころ「あれっ」と思うようなところがあった。何度も大病していたから、私の二歳年上で早い死といえばいえるものの、死去のニュースは意外ではなかった。そういう時の文章だからほころびもある気がする。こんなことが云えるのも、私は素人で、彼はプロ中のプロであるからで、敬意を持っていることに変わりはない。

 

 すらすら読めてしまう本だけれど、あたりまえだと思いこんで、そのことで眼がくもらされていることに気付くための、鋭い言葉がそこにあることを読み取れるかどうか。
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2019年11月27日 (水)

時任謙作の再生

『暗夜行路』という小説には、主人公の時任謙作の自らに負わされた運命とも言うべきものが暗く蔽いかぶさっている。彼が些細なことに過敏になり、ときに感情的になるのはそれが原因だと説明するために、この長編小説ではさまざまなエピソードが積み重ねて描かれている。それが感得できるかどうかでこの小説にのめり込めるかどうかが決まる。

 

 そのような囚われの自分から、それを乗り越えた、再生した時任謙作が、物語の最後の方で家族(妻の直子宛)へ出した手紙にその思いが凝縮されているので一部を引用する。この時点で時任謙作が「此所」と言っているのは大山(だいせん)の山の中の寺である。

 

「皆御無事か、御無事の事と思っている。手紙ださぬようにいったが、急に出したくなって出す。私は旅へ出て大変元気になり、落ちついている。此所へ来た事は色々な意味で、大変よかった。毎日読んだり、何かしら書いたりしている。雨さえ降らねば、よく近くの山や森や河原などへ散歩に出かける。私はこの山に来て小鳥や虫や木や草や水や石や、いろいろなものを観ている。一人で叮嚀に見ると、これまでそれ等に就いて気がつかず、考えなかった事まで考える。そして今までなかった世界が自分に展(ひら)けた喜びを感じている。お前に話したかどうか忘れたが、数年来自分にこびりついていた、想い上がった考(かんがえ)が、こういう事で気持ちよく溶け始めた感がある。尾道に一人いた頃そういう考で独り無闇に苛々したが、今は丁度その反対だ。この気分本統(志賀直哉はこの本ではずっとこの本統を使っている:引用者註)に自分のものになれば、自分ももう他人に対し、自分に対し危険人物ではないという自信が持てる。兎に角謙遜な気持からくる喜び(退陣的な意味ではないが)を感ずるようになった。今思えばこれは旅に出る時から漠然望んでいたもので、思いがけなく来た変化ではないが、案外早く、自然にその気持ちに入れた事を大変嬉しく感じている。お前に対しても今までの自分はあれで仕方がなかった。後悔してもお互いに始まらない事だ。然しこれからはお互いに安心したい。お前も二人の間にけっして不安を感じて貰いたくない。一人で山にいて遠く自家(うち)の事を考えると、この気持ちは一層強い。これからも私は怒り、お前を困らす事もあるだろうが、それにはもう何の根もない事を信じて貰いたい。そんな事は決してないつもりだが、山を下りると又元の杢阿弥になるようではつまらない。私はこの気持ちをもっと確り摑み、本物にしてお前の所へ還るつもりだ。それもそう長い事ではない。そしてお前には色々な意味で本統に安心して貰いたい。実際これまでの事も馬鹿馬鹿しいという事はよく知っているのだが、病気のように一ト通りの経過をとらねば駄目なものだ。今の私は本統にその経過をとり終った。もう何の心配もいらない。(後略)」

 

これは彼の真情を込めた妻直子にあてた恋文でなくて何であろう。
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白樺派と志賀直哉

 阿川弘之が新潮文庫の『暗夜行路』の巻末の解説で、志賀直哉と白樺派について言及しているので引用する。

 

「『白樺』が創刊されたのは明治四十三年、直哉が父親と不仲のまま麻布の父の家に部屋住みだった時期にあたる。発足当時の『白樺』には、後年言われるような『白樺の人道主義』とか『白樺派の運動』とか、一つの主義主張を表に掲げる空気は無かった。直哉も武者小路実篤も、木下利玄、柳宗悦、里見弴らも、めいめい自分勝手に書きたいものを書いて、誰からも一切拘束されず、自由に発表し発言する、そのための同人雑誌発刊であった。これを足がかりに文壇に打って出ようという気も、全くと言っていいほど無かった。同人全員に共通していたものありとすれば、芸術に対する、とりわけ西欧に対する、信仰に近い情熱だけであったろう」

 

「しかし、創刊後何年か経つと、主として武者小路実篤の強い個性の影響を受けて、『白樺』がいわゆる人道主義的傾向を帯びてくるのは事実である。直哉は、一つの旗印を掲げたものには、何事にもよらずついて行けない性格であった。『白樺』の傾向に対する不満、父親との不和、両方が原因で東京を離れることになる」

 

 志賀直哉は五十代の半ばになるまで東京へ帰住しなかった。新進作家として認められながら間もなく中央から離れてしまった文士というのは当時めずらしかったという。

 

 彼自身の性格が武者小路実篤の「新しい村」などをはじめとする白樺派の人道主義的運動(ある意味で原始的社会主義運動)というものと相容れなかったのだと思う。そのような性格こそ、私の志賀直哉に傾倒する大きな理由かも知れない。それはある意味でエゴイズムそのものなのだが、そのことを承知の上で自らの生き方を貫くところに惹かれるのだ。

 

『暗夜行路』という小説は、主人公、時任謙作の自らに負わされた運命と、それを乗り越える苦闘の記録であり、自らの性格として持っているエゴイズムとどう折り合いをつけ、新しい自分への再生をするか、その苦悩ともがきの記録なのだと思う。

 

 この小説を河上徹太郎や小林秀雄が「恋愛小説」と評したと、志賀直哉自身があとがきで語っている。志賀直哉は意外に感じながらもそれを否定していない。私は最後の二行に込められた直子の気持ちに感動するとともに、なるほど「恋愛小説」と見てもいいなあと思ったりした。
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2019年11月26日 (火)

柳田國男『故郷七十年』(講談社学術文庫)

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巻末にある柳田國男の略歴
日本民俗学の創始者(1875-1962)。兵庫県新東郡田原村辻川(現神崎郡福崎町)に生まれ、幼少期を茨城県布川、千葉県布佐で過ごす。東京帝国大学法科大学院政治科卒業後、農商務省に入省、諸官を歴任したのち貴族院書記官長を最後に官界を辞す。朝日新聞客員、論説委員、国際連盟委任統治委員会委員としてジュネーブに在勤。1910年郷土会を結成、1913年『郷土研究』を発刊。『遠野物語』『木綿以前の事』『海上の道』など著書多数。1951年文化勲章受章。

 

 柳田國男は官僚であって、のちに民俗学と呼ばれるようになった彼の業績を彼自身は自分の趣味、余技であると考えていたようだ。彼は官僚として登り詰めることもなく、文筆家としても交流した多くの著名な作家と並び称されることもなく、民俗学の創始者として名を残すことになったことに忸怩たる思いがあったのではないか。この本は柳田國男が83歳の時(昭和33年ころ)に、彼の語り書きの形で神戸新聞に連載されたものである。とはいえ晩年には世間の評価を素直に受け入れていたのかも知れない。

 

 彼は自分の日記や関係した雑誌、書いてきた文章などを読み返しながら語ったようだが、それにしてもその記憶力には驚嘆する。膨大な数の人名や出来事、経巡った各地で聞いたことが次から次によどみなく溢れ出ている。

 

 読後、不思議に思ったことは、『遠野物語』についてほとんど言及していないことだ。とうぜん佐々木喜善についても語られていない。柳田國男といえば『遠野物語』であり、私も本格的に彼に興味をもったのは『遠野物語』を読んだことによる。ここにこそ彼が『民俗学』を自分の趣味としてしか考えていなかったのではないかと思わせるところがある。とはいえ各地を訪ね歩いてさまざまに考察した論文についてはそれなりに述べている。

 

 これは、『遠野物語』は佐々木喜善の語りを聞き書きしたもので、柳田國男の自らの考察による文章ではない、ということに彼がこだわっていたのかも知れない。思いがけずそれがもっとも有名になってしまったことで、却ってそれをこの回想録から除外してしまったのではないか。

 

 この本を読むと、彼がどれほど「知の巨人」であったか解る。人間には上には上がいるものである。

 明治大正期の文壇の話などの側面情報も満載の、読んでいて興味深い話にあふれた本である。
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シンクロする

 志賀直哉と私は波長が合うのかも知れない。『暗夜行路』の後編を読みながら、主人公の時任謙作の心の動きが自分の心の動きのようにシンクロしていると感じた。だから志賀直哉というより、彼の創作した時任謙作と波長が合うということか。勿論あれほどデリケートでかんしゃく持ちではないけれど、好き嫌いのものさしが似ていると感じる。たとえば出しゃばりの水谷に感じる不愉快さはわがことのようだ。

 

 読書をしていてここまで感情移入するのはずいぶん久しぶりのことだ。自分の感情がまだ鈍磨し尽くしていないことを実感して、そのことが嬉しい。
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2019年11月25日 (月)

白樺派と私小説(3)

安岡章太郎の白樺についての評価である。

 

「白樺派に対する世間の評価がマチマチなのも、結局ここからくる。元来エモーショナルな自我をもととした文学なり主張なりは、受け取られ方も個人によってマチマチであるのが当然であろう。しかし白樺派への評価は、本当にそれほど個人的な好みに左右されているわけではない。白樺派についての評価が不定なのは、実はわれわれが全体として不安定だからである」

 

「たとえば“白樺的教養”というもののアイマイさを考えてみれば、これは白樺派同人自身の教養がアイマイだからというより、われわれの”教養”というものへの自信のなさから生じていると言った方が当たっているはずだ。”教養”という言葉は、その背後に階級のイメージなしに浮かんではこない。そして、それは何度も言うとおり、われわれの近代社会には欠けていたものである。そこで、われわれは私小説的にその“階級”を白樺同人たちのグループの上になぞらえた。そこから出てきたのが“白樺的教養”というものであり、白樺はいわば教養という不気味な威圧感のある言葉をカッコで囲む役をしている」

 

「白樺の集団は文芸ジャーナリズム以外の所でも、彼らの存在自体で評価を受けている唯一の何かなのである。そこに白樺が、わずか十人あまりの、学校の同窓会の一部をそのまま同人にしたような雑誌が文学的な“実力以上”の評価を受ける理由がある。
 文壇以外の実社会でも白樺同人たちはある地位なり評価なりを与えられている。このために彼らの実生活の一部を彼等自身の筆で書いたものは、そのままで美的なもの、つまり一箇の文学のように受けとられる」

 

「へんぺんたる私生活の身辺雑記に過ぎないものを、なぜ小説だの文学だのと言わなければならないのかという”私小説”に対する不信感というものは、おそらくこういうところから出て来ている。具体的にいえば、それは白樺に対する不信感であり、白樺派が世間でうけている地位その他に対する疑惑や嫉視や反撥などから成り立っている。たとえば正宗白鳥や太宰治などの志賀直哉否定論の根底にあるものは、志賀直哉をなぜそれほど崇め奉らなければならないのかという嫉妬の情熱である」

 

白樺派が貴族階級や知識人という特権階級であるという見方が根底にある。実は白樺の人たちはふつうの人より経済的に恵まれていたとはいえ、それほどの特権階級というわけでもないのだが、高等遊民的な生き方を甘受できている白樺の人々に対しての反感が彼らを否定する。彼らの生き方から語られる私小説が否定されるのである。それは太宰治のように公然とした反感もあり、暗に鼻につくからどうももしっくりしないという感覚でもある。私が感じた違和感もそれだろう。

 

ではどうして武者小路実篤は退けるのに、志賀直哉だけ私は受け入れるのか、多少は自己分析できる材料はあるが、まだまだ読み込みが不十分だ。それを知るためにさらにしばらくは志賀直哉を読み続けるつもりだ。それが自分自身を知ることでもある。

 

『暗夜行路』は、あと少しで読み終わる。
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白樺派と私小説(2)

『私小説の成立』で、安岡章太郎はさらに続けてこう述べる。

 

「いったいどちらの認識が正しかったかということより、ここでは大正期に入って日本は、国家的“自我”によって、自分の国なり社会なりを主観的に私小説的に眺めるようになっており、そこに”大正文化”というものを作り上げたことが要点である。そして武者小路氏は、もはや”自己の為”を訴える必要はなくなった。そうするまでもなく、わがくには自ら”自己の為”を主張しはじめていたからである。いわば日本は、この時期から心情的に”鎖国”の状態に入った。
 ことの善し悪しはともかく、一つの国が自主的に文化を育てていくために鎖国は需要である。というより文化が育っていく時には必然的に鎖国が行われている」

 

「日本が大正期に入って大正デモクラシーや大正リベラリズムをつくったことは、鎖国の生んだ文化の事例であろう。勿論、これらの思想は明治の開国の時に外から這入ってきた。然し、このような思想のタネがこのくにの土に落ちても、開け放しの門から、冷たい外国の風が吹きこんでいるうちは、ただの政治思想であるに過ぎなかった。これが”文化”という優雅なものになって花ひらくためには、門も窓も閉めて国全体を温室のようにする必要があった。そして私小説が文学として完成されるためにも、それは勿論必要だった。鎖国がなければ白樺のエモーショナルな”自我”は、そのまま文学にはなり得なかったのであり、白樺の自我が私小説になったということは、逆に“白樺”自体が大正時代の生んだ一つの私小説だったと言える」

 

このあとにそのような「白樺派」というものについての大事な考察がある。そして、そのことの中に、まさに私が武者小路実篤に感じた不満足感、違和感の原因があると思う。

 

思いがあるのに、伝えたいことを上手くまとめられないもどかしさを感じている。

 

ここまでが背景的考察である。もう一回だけ続きを書く。
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2019年11月24日 (日)

白樺派と私小説(1)

 中学生から高校生の頃、日本文学全集や世界文学全集をわけも解らずに片端から読み飛ばした。生来の粗雑なザル頭に引っかかって片隅に残っているものはわずかだが、それなりに私の人生に何かを与えてくれたと思っている。

 

 そのあとは中国に関する本、歴史、それと娯楽小説(時代小説、ミステリー、SF)ばかり読むようになり、いわゆる文学小説はめったに読まなくなった。今、いつか読もうと思って棚に並べていたそのような本を再び手にして、次第にその面白さに気がついた。人間を表面的にしか観ることができない粗雑頭が、それなりに経験を重ねたことで、皮一枚くらい深く観ることができるようになったお陰かと思っている。皮一枚でも、表面だけみるのとは根底的に違うものの見方になるようだ。

 

 いわゆる文学小説から離れたのは、私小説というものにあまり感情移入できなかったからかと思う。物語世界があまりに狭くて、心が動かされにくかったのだろう。あまりデリカシーがないのか、逆にリアルな影響を心に受けることを恐れたのか。それなのに志賀直哉などを好んだのはどうしてか、今その理由を考えている。

 

 志賀直哉と云えば白樺派で、白樺派と云えば武者小路実篤かと思う。中学高校のときに何作か読んで、それなりに面白く感じたけれど、次第に興味を失った。

 

そのことを考えるヒントを安岡章太郎が『私小説の成立』という文章の中でこう述べている。

 

「我々は意外に多くの面で無意識に武者小路氏の思想を教えられているのである。
 勿論それは武者小路氏の一人だけの力というより、時代がそういう“自己中心”主義を要求しており、絵でいえば写実よりも風格を重んずる元来のわれわれの感受性を、武者小路氏が代表して一つの意見にまとめ上げたということであろう。それにしても武者小路氏の”自己の為”に代表される白樺派の影響力が、文学といわず、美術といわず、わがくにの文化全般に、ひろく大きく行きわたったのはなぜだろう?」

 

 ここで武者小路氏が代表するのは従来の「風格」ではなく「写実」であることを読み誤らないでいただきたい。写実とは形式にとらわれずに、自分の目で見たものを表現することであろうか。見えたものを、こう見えた、と語ることであろう。正岡子規は写実主義を唱えて古今集や新古今集を徹底的にこき下ろした。現実ではなく、観念と形式に堕していると非難したのである。それは正しいのか。

 

長くなるので次回に(続く)
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薬師寺

薬師寺は天武天皇の発願(皇后の病気平癒祈願)により藤原京に建てられた。皇后とは後の持統天皇である。のち、平城京への遷都にともない、現在の場所に移された。兵火や天災で焼失再建を繰り返し、当初のものが残されているのは東塔のみである。金堂が再建され、西塔も再建され、現在は東塔が解体修理中である。

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右奥が薬師寺南門。今歩いている、はるか後ろが唐招提寺。左手の塀の内側は玄奘三蔵院。後で立ち寄る。

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南門前の世界遺産表示の石版。

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正面から入れないので、左手をぐるりとまわって拝観料を払い、金堂に向かう。

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大講堂。

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金堂。それぞれに安置されている仏像を拝観する。高校生のとき以来だから五十数年ぶりである。もっと広かった記憶があるが、たぶん多くの建物が再建されていなかったからであろう。

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これは再建済みの西塔。東塔は薬師寺遠望のときに見えたように工事用の足場の中である。私の記憶では、塔の中ではこの東塔が最も美しい。ついで山口の瑠璃光寺の五重塔が素晴らしい。

ここから別院となる玄奘三蔵院伽藍に行く。北口の受付を通って道路を渡る。

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玄奘三蔵院。

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石碑をぼんやり眺める。ほとんど解らない。石碑を支えるのは玄武か。これは亀ではなくて龍の一種。

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玄奘塔。玄奘、つまり三蔵法師である。

この後ろ側に大唐西域壁画殿があり、平山郁夫の大きな壁画が収められている。そこに西域の渺々たる世界が拡がっていた。西安、敦煌、ウズベキスタン、トルコのシルクロードを訪ねた記憶がよみがえった。

天気がよくて歩き回っていたら汗をかいて、前夜の酒による二日酔いはさめたもののひどく疲れた。そのまま西の京の駅に戻り(ここから近い)、八木から名古屋へ帰った。

これにて今回の奈良行はお仕舞い。

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2019年11月23日 (土)

余熱が消えてきて

 マンションはコンクリートでできていて、その塊と云ってもいい。夏と、いつまでも暑かった秋の熱エネルギーがコンクリートに蓄積されていること、夏は深いベランダの廂に遮られていた太陽も、秋になると晴れた日には部屋の中に差し込むようになるので、案外外気温が低くなってもいつまでも温かい。

 

 その蓄えられていた熱エネルギーも尽き始めて、二三日前から部屋の温度が二十℃を超えなくなった。まだ身体が冬のモードになっていないので、ちょっと寒く感じる。こんな気温で寒く感じるなど数年前までは考えられなかった。こんなところにも年齢なりの衰えを実感したりする。

 

 さいわい今日は暖かい一日だったので楽だったが、これからはどんどん寒くなりそうだ。そろそろこたつを出そうか、ストーブを出そうか、などと考えている。
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鑑真和上の御廟

唐招提寺の一番奥にある鑑真和上の御廟を見に行く。

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御廟はこの土塀の右奥にある。

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御廟へ向かう道。

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両脇の苔がとても美しい。

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御廟。合掌。

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今の時期に色づいていない所を見ると、紅葉しない楓なのだろうか。

このあと薬師寺に向かう。少し道のりがあるのに、さらに方向を勘違いして遠回りしてしまった。

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遠回りした道のコスモスが風に揺れていた。

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ようやく薬師寺が見えてきた。

2019年11月22日 (金)

書きにくい手紙を書く

 考えたくないことを考えなければならなくなって、そのことでまた眠れなくなったりしていた。その考えをもとに、書きにくい手紙を書かなければならない。手紙は用件、または自分の気持ちを相手に伝えるためのものだが、けっして相容れないような相手に手紙を書かなければならないのだ。

 

 先延ばしし続けたところで埒があかないので、ようやくの思いで書き上げたけれど気が晴れない。来週は冬タイヤへの交換がてら、自分をもう一度一から見直すために北へ旅に出ようと思う。場合によって来週の後半は数日ブログを更新しないかも知れない。その時は山中で座禅でも組んでいるのだろう、と思って欲しい。
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唐招提寺

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唐招提寺は西の京よりも尼ヶ辻の駅の方がすこし近い。

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唐招提寺・南大門。ここから入る。唐招提寺には来たことがあったかどうか記憶にない。

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唐招提寺・金堂。本尊として盧舎那仏が鎮座している。両脇には薬師如来と千手観音が立っておられる。どの仏像も素晴らしい。

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講堂と右手は鼓楼。講堂の本尊は弥勒如来の座像。弥勒は菩薩だが、五十六億七千万年後に如来となる。その如来となった未来の姿でここにいる。

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このなかに弥勒如来が居られる。

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開山堂。ここに有名な鑑真和上の像がある。ガラス越しなので見にくい。

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こういう位置から見るのもいいか。

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唐招提寺案内図。一番奥の鑑真和上の御廟を見に行くことにしよう。

2019年11月21日 (木)

『藤村との疎隔』

 柳田國男が島崎藤村とのつきあいをやめたいきさつについて書いている文章を紹介する。

 

 私が台湾へ発つ時、島崎藤村君が非常に長い手紙を寄越して、台北へ行かれたら、自分の兄がお眼に掛りに行くから是非一つ会って下さいと頼んで来た。その兄さんという人には私は会ったことはなかったが、その細君の方は暫く湯島新花町の藤村の家に同居していたことがあったから、私は顔見知りであった。そして本当にいい婦人であると思っていた。その頃、主人の方は何でも牢屋か何かに入っていたので、夫人は義弟の家に厄介になっているというような話であった。
 それで台北へ着いたことを報せてやるとその兄貴の方がやって来た。問題は簡単で、どこかの山の下げ渡しを申し
出たいのだが、居住期間が短くてそれが出来ない。だからあなたが安東総督に口添えをしてくれないかというわけである。外地にはそんな話はいくらもあったのだろうから、何とかしてやってくれと頼めば出来たかも知れない。然し私は、春樹さんはその話の内容を知っているのかと聞いて見た。兄さんはヘエ知って居りますと答えた。二度も三度も念を押しても先方では知って居りますという。
 そこで私は非常に腹が立った。自然主義者などと云っていながら、そんな不正をするのが役人の実際だと思っているのは怪しからん、おそらく東京の役人でもそれが実情だと思っているのだろうが、そんなことを思うような奴は駄目だと考えて、そんな話は取次げないとすげなく断ってもうそれきりその兄という人に会わなかった。自然主義と称して、その頃ありのままを書きさえすればいいのだといっていた仲間の藤村が、役人というものはそんな私事ができるものと見て、それをありのままの役人の姿だと思われているとすれば、役人にとってこれ位侮辱はない。而もそのことで兄の人と打合わせておきながら、東京で会ったとき、一言もそれに触れずに、ただ兄に会ってやってくれと頼んだのには、憤慨した。それでわたしはそれっ切り藤村と絶縁してしまった。
 私が藤村君と親しくしていたのは大変旧く、恐らく田山(花袋)が彼を知った時よりは旧かったろう。初対面はまだ学生中で明治二十八年であった。私が暫く大学の寄宿舎を出て、本郷の春木座の旁に二階借りをして住んでいたことがある。一年ばかりの間であったが、そのとき藤村は新花町のこちらに居たし、その前には少し奥に入った金助町に居た。二度とも私の下宿と一丁と離れていなかったが、その時からの友達で、『落梅集』の前であった。藤村はそれから東北学院へ行き、それから後に音楽学校に入ったのだから、私は阿母(おかあ)さんも、義姉さんも知っている。それから程なく田山も藤村と附合うようになったらしい。そんな古い附合いであったが、どうもこの台湾の事件が気に喰わなかったので、藤村にいい感情がもてなくなってしまった。その後一ぺん『新小説』の島崎藤村特集号に藤村のことを書いてくれるように頼まれた時にも、下心が悪いものだから、甚だ面白くないことを書いてやった。それは載せられなかったが、他の機会に別の雑誌に載せられた文章が今でも残って居る。それにはこの台湾事件のことは云わなかったが、まあいくらか同情を持たない書き方をした。それが本人にも判ったのであろう。
 倅の蓊助(おうすけ)などは時々来ていたが、親爺の方とは文通も往来もなくなった。ある時、朝日新聞の入り口で偶然会ったものだから、立ち話をして別れたのがお仕舞いとなった。
 こんな話はしない方が或いはいいのかも知れないが、もう何十年も前の小さなエピソードとして記して見た。

 

 柳田國男の略歴については『故郷七十年』について書く時に記すつもりだ。
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垂仁天皇陵

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前夜、会食が盛り上がりすぎて名古屋へ帰れなくなり(帰りたくなくなり)、八木の駅前のホテルに宿泊した。せっかくだからもう半日ほど奈良を見て歩くことにする。

大和八木から近鉄で大和西大寺を経由して奈良へ行けるのだが、今日は垂仁天皇陵、そして唐招提寺、さらに薬師寺を歩いてまわることにした。垂仁天皇陵は大和西大寺の一駅手前、尼ヶ辻駅前にある。

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駅前から垂仁天皇陵と思われる木立の方向に向かい、右手に歩いて行った。こちら側だと完全な逆光だし、陵のへりを歩く道がない。十分ほどウロウロしたあと、もとへ戻って左手に向かう。こちらの方が線路に近くて、唐招提寺のある西の京に行くことが出来そうだ。

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こちらは途中から陵の縁に沿って歩く道がある。ただ、せまい道なのに車が頻繁に通るので気をつけないといけない。

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順光で全体を写す。手前の小島は田道間守(たじまのもり)の陪塚(ばいちょう)。墓は別にある。

田道間守のはなしは確か教科書で読んだ記憶がある。かれは垂仁天皇の命で常世の国の不老不死の果物を探しに行ったという。ようようのことに持ち帰った時には、すでに垂仁天皇はこの世を去っていた。その果物というのが橘(たちばな)であるという。今の蜜柑のもとである。

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墓所の碑があるはずだが、パスした。

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陵に渡ることはもちろんできない。

このあと唐招提寺に向かう。思ったほど遠くなかった。

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2019年11月20日 (水)

柳田國男『故郷七十年』から『一葉女史のこと』

 ようやくこの『故郷七十年』という本を読了した。全体については後ほど書くとして、一つ二つ取りあげたい文章がある。今回は『故郷七十年拾遺』という中から『一葉女史のこと』を紹介する。もちろん一葉女史とは樋口一葉のことである。

 

 樋口一葉には、僕は実は反感をもっていた。みながチヤホヤして出入りしたし、お終いには正直正太夫(斉藤緑雨)みたいな人間までが行って機嫌をとったりなんかするようになって「ナアんだ」と思った。僕はあんまり、それこそ尊敬しなかった。西方町から柳町へ下りて来る坂の途中に、傾斜の途中、左側の低い所に、入り口に門だけ出しておいて、入るや否やとんとんと降りて行って向う側の傾斜面に二階建だか三階建だかのいい下宿屋があって、戸川明三(戸川秋骨)が下宿していた。戸川はそれはいい人で、誰が来ても嫌な顔が出来ない人だった。それで、一葉さんに会いに行く連中の行き帰りに寄る所になっていた。たまらない話であった。そこへ行くと、今日は一葉さんがどうしたとか、ああしたとかって話ばっかりしている。
 僕もそこへよく行くことは行ったけれども、一葉の家へ足を運ぶことはしなかった。そのうちに正太夫までやって来たもんだから、注意はしていた。
 正太夫は鴎外さんのところへも、後には行っていた。森さんのところへ行くと、また森さんの子供みたいになってしまう人間だった。露伴のところへも出入りしていたが、その方が先だった。露伴という人は誰でも一緒に酒を飲むから。
 それから後に森さんのところへ行くようになった。「雲中語」とか何とかいう批評を『めざまし草』にのせる時くらいから、正太夫が新聞記者らしくニュースを持っていった。誰それが困っているとか、誰それが怒っているとかいう話までするものだから、森さんの方でも面白くなって近寄らせていたのだと思う。尾崎紅葉さんは、はじめは同人のうちに入っていたけれども、森邸へは初めっから来なかったようだ。そうこうしているうちに、「この頃、上田敏君が森さんと附合っているそうだ」というようなことを聞いた。もうその頃、自分は森さんの所へは行かなくなっていた。何で行かなくなったか、判らないが、何か離間者があったんだと思う。それに一つには奥さんや、お婆さんへの気兼も出て、緩(ゆっく)り話もできなくなったということもあったかもしれない。
 初めはよく訪ねて行ったものだ。『しがらみ草紙』の中には、私の書いたものが大分入っている。私が物を書き出した初めでもある。松岡國男の名で出ている。

 

*松岡は柳田國男が柳田家に養子に行く前の旧姓。

 柳田國男がどうして樋口一葉に反感をもったのか、この文章以外には書かれていないので、ここに書かれていることからだけで判断するしかない。実際に樋口一葉と交流しての反感ではなく、彼女を賛美する人々の態度に違和感を感じたことから反感をもったということか。樋口一葉の作品はそれなりに評価していたという文章を目にした記憶がある。

 

 柳田國男は田山花袋や島崎藤村、泉鏡花、上田敏をはじめとして、多くの作家と交流があった。その島崎藤村との絶縁のいきさつを次回に紹介する。
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東大寺

興福寺でさまざまな仏像などをいつも以上にじっくり見ていたら思ったより時間を食った。

以前来た時には興福寺から東大寺まで近く感じたが、足が衰えているのか、とても遠く感じた。そういえばこのひと月近く、あまり歩いていない。

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鹿は外国人観光客に大人気なようだ。人を恐れない鹿というのは珍しいのであろう。

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中門の前の鏡池。

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大仏殿の前から撮る。観光客が多い。

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東南アジアからの観光客の一団が、記念写真を撮っていた。人の通る道の真ん中なのだが、気にしない。

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大仏殿の中央を見上げる。いつ見ても大きい。

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大仏殿前の八角の大灯籠。ここの透かし彫りの像はいつ見ても美事である。

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大仏殿も大仏も何度も戦火にさらされて立て直され作り直されている。

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ありがたいことに、大仏殿は三脚やフラッシュを使わなければ撮影が許されている。

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多聞天。他にもたくさん撮ったが、絵はがきではないのでこれだけとする。

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中門にかかる布。これものれんというのだろうか。

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2019年11月19日 (火)

政府のスキャンダル隠し

 鳩山元首相が「沢尻容疑者の逮捕劇は、政府のスキャンダル隠しだ」と断言したらしい。まるで「文在寅大統領は、チョ・グク氏の問題から眼を逸らさせるためにGSOMIAの破棄を決定した」というような見方を示したわけである。

 

 鳩山氏の言っていることが正しいのなら、日本政府は、国民が沢尻容疑者の問題で目を眩ませられるほど阿呆だ、と考えているということになる。芸能レポーターという名の賤業に就いている人とマスコミとそれにたやすく煽動される人々というのが少なからず存在することは認めざるを得ないが、それが多数だとは思いたくないし、そんなはずはないと思う。それに政府も国民がそこまで阿呆だと思っているとは考えられない。

 

 しからば必然的に鳩山氏そのものが「日本国民は阿呆だ」と考えていると推察される。知能は高いらしいが人間的に問題がありそうだし、日本を貶める言動を繰り返している鳩山氏に日本国民は、つまり私やあなたは、馬鹿にされたということかと感じて私は腹を立てている。
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奈良・興福寺

奈良に行こうと思い立った。トルコに一緒に行ったふたりと奈良で落ちあって会食したかったことが主な理由で、今回は興福寺と東大寺に行くことにした。岡部伊都子の『女人の京』という本の中の『やまとの女人』の部の『入水の采女』という文章を読んで、猿沢の池をあらためてその目でみてみたいという理由と、興福寺の『中金堂』などがようやく完成したのでそれも見たかったのである。東大寺はついでである。

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猿沢の池。采女というのは天皇の身近な用を足すための女官である。ある采女が若い天皇に恋い焦がれる。とうとう思いが叶ってその天皇は采女を近づける。采女はやっと思いの叶った喜びにあふれるのだが、そのあと再びお呼びがかかることはなかったという。そしてついにその采女は悲観して猿沢の池に身を投げて死んでしまう。このはなしは平安朝に書かれた『大和物語』に記されている。その天皇が誰であるかははっきりしない。

思いが叶う前の采女の気持ちと、実際に情けをうけて男女の関係になった後の采女の気持ちの深さについて岡部伊都子が綴っていて、深く感ずるところがあった。「采女神社」という小さな神社があるらしいが、今回は立ち寄らなかった。

道路を挟んで階段を登れば興福寺は目の前である。

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猿沢の池からすぐのところにある南円堂。

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振り向けば五重塔が見える。

国宝館と東金堂の共通券を買って仏像を拝観する。ここの仏像はどれも素晴らしくて見ていると時間を忘れる。もちろん阿修羅像もじっくりと眺める。阿修羅は一種の破壊神なのだが、その顔に怒りではなくて、ときに少女がみせるような哀しみの表情があり、それが不思議に心を打つ。

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新装なった中金堂(ちゅうこんどう)。

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そこから南円堂を遠望する。

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中金堂のまわりに続くこれらの礎石はもともとあったものなのだろうか。回廊でもあったのか。

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中の仏像は撮影できないので、望遠で覗く。脇侍の薬王菩薩や薬上菩薩、そして四天王像は素晴らしいのだが、中央の釈迦如来は真新しく金ピカなので今一つありがたみに欠ける。とはいえもともと仏像はこのように金ピカだったのだろうけれど。

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こういう廂や風鐸に美しさを感じる。

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すこしだけ紅葉が鮮やかに見られた。

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2019年11月18日 (月)

四十数年ぶりに

 四十数年ぶりに志賀直哉の『暗夜行路』を読み直している。安岡章太郎の志賀直哉についての評論集を読んで、この小説の背景などを知った上で読みなおすと、主人公の時任謙作の心の動きの意味がとても良く判ってのめり込んだ。ようやく前編を読み終えたところだ。

 

 前編と後編はほとんど別の小説のようだ、とよくいわれる。私の感想でも、前編だけで終わりにしてもそれはそれで完成しているようにも思う。後編を読んだ上で全体について書きたいと思うが、安岡章太郎の評論を下敷きにして、二三書きとめておきたいことがある。

 

 書きとめたいというのは、「高等遊民」ということと、「渡良瀬川鉱毒水事件」のことである。

 

 主人公の時任謙作がこどものころ、祖父と初めて出会ったときの印象を書いたプロローグのあと、前編の第一部がはじまる。友人達との会話で、阪口という男の書いた小説に極めて不快感を感じている健作の気持が述べられているのだが、これにはモデルがあって、もちろん時任謙作は志賀直哉だが、阪口は有島三兄弟(有島武郎、有島生馬、そして里見弴・みな有名な作家である)の一人、里見弴であることを安岡章太郎の評論文で知った。ふたりの関係などを識ってこの部分を読むと、その時任謙作の心の動きの理由がよくわかるのである。

 

 そのへんの掘り下げはほとんどが受け売りになるとは思うが、読了後にあらためて書くことにする。今は時任謙作と友人達が作家であることはそれとして、仕事も持たずにほとんど親などの資産で遊び暮らしていることについて記しておく。むかしは金利も高かったし物価も安かったので、ある程度の資産があれば利子だけで暮らして行けたようだ。そういう暮らしをしている人間を「高等遊民」という。

 

 夏目漱石の三部作と言われているのが、『三四郎』、『それから』、そして『門』である。もちろん主人公やその背景は全く違うものの、そこに連続性があると見做されているので三部作と呼ばれる。『三四郎』は二度三度と読んで明治の若者の精神というものについて考えさせられた。そして『それから』を若いときに一度読んで、主人公の代助の煮え切らない生き方に不思議に引きつけられるような不思議な思いがした。

 

 この代助が「高等遊民」であることはしばしば評論で言及されている。そして安岡章太郎は時任謙作と代助を並べて評論しているのだ。全く新しい見方だが深く頷けるものがある。そうなると『それから』をもう一度読み直したくなってしまう。三部作のもう一冊、『門』は『それから』を読んだあとに読み始めたが最後まで読めなかった。今は『それから』も『門』もどこに行ったか分からないので買い直さないといけない。

 

 思えば死ぬまでくらいは食べていける程度の貯えのある年金生活者である私も、見方によっては「高等遊民」であろう。いま、時任謙作のもがきがなんとなくわかる気がするのは、何らかの共有するものがあるからかもしれない。それは自らが生産していない、消費するだけの存在であることの後ろめたさか。

 

 渡良瀬川鉱毒水事件について書く余裕がなくなった。足尾の写真の項で多少言及したが、あとで志賀直哉との関連で多少補足するつもりである。
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足尾

日光からの帰り道、毎年一度は立ち寄ることにしている足尾に行った。足尾銅山は明治から昭和にかけて日本を支える役割を担うほどの銅の産出で賑わった。この足尾銅山が同時に甚大な公害(渡良瀬川鉱毒水問題)を地元にもたらしたことはよく知られている。足尾銅山について、実は志賀直哉の祖父である志賀直道が関わっていることは、志賀直哉を詳しく知ろうとすると出会う重要な事実である。このことは別に記そうと思う。また、足尾は桐生発で渡良瀬川沿いに遡上する、景色を楽しめるわたらせ渓谷鉄道でも有名である。

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銅山の官舎や従業員が暮らしていた地帯への道。歩道にこんなガードが置かれていて、異様な感じがある。昨年はこんなものはおかれていなかった。

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昨年までは一軒か二軒はテレビの音が聞こえたりして人の気配があったが、今は完全にひっそりとして人の気配がない。

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ここは地区のスーパーでもある生協のあったところ。たしか一昨年、閉鎖の貼り紙があった。

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足尾駅から住宅街へ行くときに渡る渡良瀬橋。したを流れる水はとても澄んでいる。もともとは石の橋だったが掛け替えられた。今は車の通る橋が別にあって、この橋は人しか渡れない。

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橋の袂に掛水倶楽部というのがあって、以前は土日だけ解放していた。今は予約する必要があるようだ(未確認)。

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中をのぞきこむと建物の一部が見える。左手に、もっと立派な建物がいくつかある。

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橋の袂にある昔の足尾の写真。これが今のわたらせ渓谷鉄道の原点のようだ。

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近くの、誰の姿もない小さな公園の奥にこんな看板があって、

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銅の碑は戦争中に供出されてしまってそのままらしい。

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別のすみの大きな桜の木の下にこんなものがあった。足繋がりの地名を持つ町の友好を記念したものなのだろうが、はたしてその友好は今も持続しているのであろうか。

なんだか寂しい気持ちを感じたまま足尾をあとにした。その寂しい感じが感じたくて立ち寄ったのではあるが。

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2019年11月17日 (日)

娘と紅茶を飲む

 娘のどん姫に頼みたいことがあったので、来てもらった。息子が夏に結婚したのだが、当初結婚式はしないと言っていたのが、来年二月に広島で式を挙げることになった。私は新郎の父として盛装しなければならないが、モーニングを持っていない。ホテルに衣装を依頼した。その採寸をして連絡をしなければならないのだ。

 

 どん姫がメジャーを持って来て、必要な採寸をした。お礼に奈良土産の奈良漬けを渡し、ダージリンの紅茶を飲み、四国のタルトを食べながらいろいろ歓談した。どん姫も大人になった。それに元気そうで安心した。
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半月山展望台から男体山と中禅寺湖を見下ろす

前日につづき、泊まっている老神温泉から再び金精峠を越えて日光に行く。本日の目的は半月山展望台からの絶景を写真に撮ることだ。

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展望台からの絶景。

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男体山をすこしアップする。

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さらに山頂をアップ。もうすぐ男体山も雪をかぶる。

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中禅寺湖畔を望遠で撮る。

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名残の一枚を撮って展望台から坂を下る。

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湖畔に下りる。中国人と思われる若い二人が男体山を見上げている。ごらんのように風が強くて中禅寺湖は波立っている。

寒いので宿に引き返す。

 

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2019年11月16日 (土)

奈良行

昨日、しばらくぶりに奈良に行った。今回は興福寺と東大寺を見に行く。そして夕方、海外旅行に行くふたりの友人と三人で近鉄の大和八木で落ち合って会食した。

トルコ旅行の思い出を語り合ううちに盛り上がり、一件目ではおさまらなくなった。二軒目でワインや洋酒のバーに行ったら、キューバで飲んでお気に入りとなったフローズンダイキリを作ってもらう。気がついたら名古屋家へ帰るのが難しい時間になっていた。そこで駅前のホテルを予約して泊まることに・・・。

一泊して今日は垂仁天皇陵、唐招提寺と薬師寺を歩いた。夕刻わが家に帰着。二日間で歩いた奈良の写真は整理してから、日光の報告のあとに掲載するつもりである。

2019年11月15日 (金)

日光白根山

日光白根山ロープウエイに乗る。

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ゴンドラは四五人乗りというところか。すいていたので一人で乗る。このロープウエイは長い。ながく乗れるから高いところが好きな人には値打ちである。

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赤いものの点景は眼を惹く。

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眼下に丸沼が見える。

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ようやく終点駅が近くなると、眼前に日光白根山が姿を現す。

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活火山であることが嫌でも判る荒々しい厳容。

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二荒山神社に参拝する。二荒は「ふたら」であるが、「にこう」とも読める。これが「にっこう」の名前のいわれだという説もあるらしい。

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ここには「天空の足湯」があるのだが、残念ながらこのときはつい数日前に終了していた。外気温が下がると湯温が維持できないのだろう。

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ここは標高2000メートル。じゅうぶんあたりを散策したので下りのロープウエイに乗る。

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丸沼の湖畔に昨年泊まった環湖荘が見える。

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秋もそろそろ終わりである。

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ロープウエイは紅葉の中を下っていく。このあと定宿の老神温泉に向かった。

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2019年11月14日 (木)

金精峠から

日光に行ってから二週間ほど経過している。遅ればせながらそのときの写真を掲載する。

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このときは千葉の弟の家から東北道を北上し、宇都宮から日光道に入り、いろは坂を登った。途中の駐車場は車の行列でどこにも駐められない。そのまま中禅寺湖畔を走り、竜頭の滝を過ぎて戦場ヶ原を通り抜ける。湯滝、湯の湖を横目に見ながら金精峠へ。写真は金精トンネル手前の駐車場から金精峠を見上げたところ。

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金精様がいきり立っているところ、という気配か。

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ここの標高は1843メートル。トンネルを抜ければ栃木県から群馬県になる。

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振り返れば男体山の勇姿が霞んで見える。真ん中にチラリと見えている水面は湯の湖。

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金精トンネルを抜けて急坂を下る。しばらく行くと右手に菅沼が見える。

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車を停めた場所の崖の苔が色づいていた。

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倒木が苔むしている。

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菅沼からさらに下っていくと丸沼高原に至る。ここから日光白根山ロープウエイに乗って日光白根山を見に行こう。

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年賀状を買う

 ブログ「丸ちゃん」のちかよさんがブログで年賀状を用意したと書いていた。私も買わなければ、と思って郵便局に行った。

 

 リタイアする前は年ごとにやりとりする人が増えて、かなりの枚数を購入して、年末の仕事が一段落したぎりぎりに大慌てで作成したものだった。リタイア後は年ごとに購入枚数が減っている。送っていた方が鬼籍に入ることもあるし、これからは年賀状を欠礼します、という連絡をいただいた方も少なからずある。年賀状だけの縁の方も多い。それはそれで好いではないかと思うけれど、次第に必要枚数が減るのは仕方のないことだ。

 

 何枚購入しようか、ちょっと悩みながら、すこし残るだろう程度の枚数を郵便局で購入した。私はこの二十年ほどは海外旅行の写真をメインに、挨拶と自分の消息をほんの一言書き加えている。早めにしようと思いながら、今年も年賀状を作成するのは例年のように12月の後半になってからだろう。
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2019年11月13日 (水)

トルコ旅行(42)トプカプ宮殿からボスポラス海峡を望む

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トプカプ宮殿見学の目玉といえば、世界の至宝を集めた宝物殿である。写真はその宝物殿なのだが、ご覧の通り工事中で残念ながら見学できない。至宝は世界に持ち出されて展覧に供されている。先般日本でも展示されたらしいが、知らなかった。

とはいえ、私は宝石や貴金属にあまり心をひかれないので、それほどがっかりしない。台湾の故宮博物館には三回か四回行っているが、興味をもつのは信じられないほどの技巧的職人芸らによって造られた品物である。トプカプ宮殿にはそういう至宝があるのだろうか。

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宮殿の一番奥の丘の上からボスポラス海峡が望める。日差しは強烈だが、風はさわやかで心地よい。

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展望台にはさまざまな国の人がたくさんいる。

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海峡クルーズの遊覧船が行く。

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宮殿よりも私はこんな風景をぼんやり眺めているほうが好きだ。

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修学旅行生らしき一団がにぎやかに通り過ぎる。先生はたいへんだ。このあと武器庫などを見学したが、たいしたものはなかった。あんな薄っぺらな刀で闘えるのだろうか。写真撮影不可。狭くて人がごった返していて蒸し暑かった。

すこし遅めの昼食へ向かう。

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写真の高台のテラス式のレストラン(SEVEN HILLS)で昼食。目の前にアヤソフィア、ボスポラスの海も見え、風通しがよくて実に快適なレストランだった。食事も美味しかったが、四階か五階建てなのにトイレが少なくて、いつも以上に女性たちは困っていた。

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アヤソフィアをしみじみ眺めながら食事をした。

このあとホテルに戻って一息入れたあと飛行場に向かい、帰路についた。大満足のトルコ旅行であった。

ながながとおつきあいいただいてお疲れ様でした。これで終わりです。

 

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司法への信頼

 韓国の朝鮮日報のネット記事を見ていたら、韓国国民の司法への信頼度ランキング調査の創案の時点でOECD加盟国37ヶ国中で最下位だった、と報じられていた。大統領が大法院(日本の最高裁判所)の裁判官を指名するシステムや、判決に法律を超えて民意が反映される度合いが甚だしいように思っていたので、なるほど、韓国国民もそれはおかしいと思っているのか、とこのランキングに得心した。

 

 それに対して大法院が異議を唱えたため、OECDは、このランキングの最終報告から韓国を除外することにしたそうだ。意義の主張は「この調査の質問が正確ではない」というもので、理由は「司法システム」には裁判所だけではなく、検察や刑務当局も含まれていることであり、裁判所と検察のどちらの信頼が低いのかが明確ではない、というのだ。

 

 このような調査は以前にも行われていて、二年前にも韓国の異議申し立てにより韓国が除外されたそうだ。

 

 司法に検察が含まれるのはあたりまえのことで、調査はどちらの信頼が高いか低いかを問うものではない。司法システムの信頼そのものを問うているとしか思えないが、韓国の論理ではそれが問題であるから信頼調査は無効だと言いたいらしい。

 

 検察改革を切望する大統領府と大法院の立場から言えば、検察に問題があるから韓国の司法システムがこんな低い評価となっている、といいたいのだろう。これでは問題を問題としてとらえることなど出来るわけがない。

 

 問題を改善するには自分の問題を認識するところからはじまる。統合失調症の患者は自分の病識が持てない。病識がないから治療を受け付けないためにこの病気は直りにくく深刻なのである。病識を持つと一気に改善する例が多い。

 

 そのような問題意識を持つためにOECDは調査をして問題点を呈示し、改善に寄与しようとしたはずなのに、それに異議を唱えてないことにしようとする韓国の大法院というのはやはり問題であり、国民からの信頼は低いままであろう。

 

 検察改革が大統領の保身のためではないかと私には見えるし、うすうす韓国国民も気付いていると思うのだが。
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2019年11月12日 (火)

爆裂

 昨日、午前中にベランダの天井部の防水塗装工事をした。塗装が一部剥離していて、それが拡がりはじめていたのである。数年前にマンションで一斉に塗装を検査した。そのとき私のところも塗装の剥離があり、塗装し直してもらったのだが、再び剥離が起きていた。

 

 今回塗装剥離部分をはつったところ、一個所だけだが、コンクリが爆裂しているところが見つかった。これを放置すると劣化が急速に進んで大変危険である。塗り直しだけなら昨日だけで済んだのだが、爆裂は補修に手間がかかるそうで、本日も午後から工事のひとが来て追加工事を行った。当面はこれで大丈夫だけれど、もし気になる兆候があったらまた連絡してください、ということであった。

 

 ベランダの床は防水コンクリートになっている(これも十年ほど前に全面的に塗り直している)はずで、根拠もないのに人のせいにしてはいけないけれど、階上の住人に何か原因がありはしないか、などといらぬ勘ぐりをしている。

 

 それにしても職人さんは、プロとはいえ本当に手際がいい。ちょっと話しただけだけれど、若いのに人なつっこいひとで感じがよかった。見習わなければ。
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不具合

 直ったと思っていたブルーレイディスクの不具合が完治していない。再び録画が出来ない状況となった。どうも電源を切ったあと、録画時間に自動的に立ち上げた場合にファンが正常に動かないらしい。電源を落とさなければ問題ないようなのだが、ずっと大丈夫かどうか判らない。ホコリによるつまり(昨日クリーンアップ済み)や接触の問題なら回復しないはずなので、問題はそこでは無いようだ。やはり酷使による寿命なのだろうか(購入して7~8年は経っている)。このままでは録画はもちろん、たぶん録画済みのものを見ることも出来なくなりそうだ。買い換えを覚悟しないとならないかもしれない。

 

 寝室でほとんど音楽用にのみ使用していたダイナブックが本格的に不具合となった。音楽用というのは、ネットワークでNAS用ハードディスクからの音楽の取り込みと、Amazon Musicからの音楽のストリーミングをして、そこからUSB DACに送ってオーディオを鳴らしているのだ。本を読みながら音楽を鳴らしていたら、とつぜん音が止まり、Amazon Musicにアクセスしなくなってしまった。試しにAmazone Musicをアンインストールして再起動した。再度インストールし直したのだが、立ち上がるけれどすぐにブラックアウトしてしまう。なにかとバッティングしているらしいのだが原因不明。

 

 現役メインのパソコンで同じことをしてみると全く問題ないので、ダイナブックに問題が起きているのだろう。本当にこのダイナブックはカスパソコンである。他に不具合がないか試したら、niftyの動作もおかしくなっていることが判った。変なバグが生じているのだろう。これ以上動作させて他のパソコンに影響したらまずい(ネットワークでつながっている)。あきらめたほうが無難であろう。瀕死状態から一部機能だけ回復したと思ったが、やはり駄目だったようだ。安楽死してもらうしかないか。

 

 小康状態の咳が再びはじまった。まだ軽度だが、なんとなく不調である。ストレスの生ずる案件がまた生じている。案件への対応について、なかなか考えがまとまらない。そもそも対応したくないことだからストレスなのだ。咳は軽いぜんそくの可能性がある、と医師に言われているが、これもストレスが原因なのだろうか。咳がひどいと危なくて床屋にも歯医者にも行くことが出来ない。なんだか何もかもが不調な気がして気が滅入っている。自分は買い換えるわけにいかないしなあ。
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2019年11月11日 (月)

トルコ旅行(41)ハーレム

最後にトプカプ宮殿に行く。私はトプカピ宮殿だと思っていた。たぶんどちらでもいいのだろう。

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ここも大変な数の観光客がひしめいていた。正直、私は宮殿やモスクに多少飽きてきている。

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ハーレム入り口。

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アラビア文字が書かれているが、このようなアラビア文字はほとんどコーランの経文の一部が書かれているという。ふつうのトルコのひとはアラビア文字が読めないし、もちろん書けない。読み書きが出来るのは、特別の教育を受けたイスラムの坊さんだけだそうだ。最初に書いたけれど、トルコ人はほとんどイスラム教徒だが、ペルシャ人ではない。もともとは東アジアから移動してきた民族である。つまり中国の北方民族を起源とする突厥の人々だと思われる。だから蒙古斑があるひとがけっこういるという。ガイドのシムズさんも赤ん坊のときには蒙古斑があった、と自慢そうに話していた。そういう点も日本人に親和性を感じる理由かもしれない。

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通路の床には花の模様の敷石が見られた。言われないと気がつかない。

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暖炉。

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洗面台か。

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風呂。これくらい大きいとゆっくり出来るが、ここにも洗い場がなかった。

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トイレ。紙で拭いていたのだろうか。

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幾何学模様の美しさは認めるけれど、私は生き物や人物などが描かれているものの方が好きだ。

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ハーレムの出口付近にある国王の母親のいた部屋の木の扉。左は城の外壁。この外壁の向こうはボスポラス海峡。あとで見に行く。

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ファンが回っていません

 録画していたはずの番組がブルーレイレコーダーに録画されていない。しかもスイッチを入れても勝手に電源が落ちてしまう。日頃酷使しているから寿命かとも思うが、原因はなんだろう。何度か点けたり消したりしていたら、「ファンが回っていません」という表示が出た。

 

 ねじ回し、掃除機、綿棒を用意してブルーレイレコーダーの外殻を開けてみた。後方に冷却ファンがあってホコリが大分たまっている。注意しながら掃除機でホコリを吸い取り、細かい部分を綿棒で掃除した。電源を入れてみると軽やかにまわる。その他の部分も出来るだけ綺麗にしてカバーをつけ直した。

 

 いまのところ復旧したようで、問題なく稼動している。出来ればブルーレイレコーダーは、テレビが不調になって4Kテレビに買い換える時に合わせて更新するつもりなので、それまで頑張って欲しいところである。

 

 先日名古屋駅前の大型量販店で4Kテレビを物色していたら、思いのほかに安くなっているので食指が動いたけれど、テレビもレコーダーもときどき不機嫌になったりするものの、いまのところたいした問題ともならずに使えているので、少しでも買い換えを先延ばししたいところだ。安くなっているといっても年金暮らしには大きな出費であることに変わりはないのだから。

 

 とはいいながら、テレビやレコーダーのカタログを何冊かもらってきて、繰り返し眺めて愉しんでいる。買ってしまうまでが楽しいんだよなあ。
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2019年11月10日 (日)

トルコ旅行(40)帰り道

ガラタ橋からの帰り道、大通りを歩いて行く。

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この通りを走るトリムが行く。トルコは車両は右川通行。画面の左手が丘になっていて、その上にはガラタ塔があるはずだ。

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ポスターも現代トルコ調。この辺りに劇場があるらしい。

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見当をつけて、途中から坂を登り始めた。猫用に用意された水の容器らしい。声をかけたら迷惑そうながら、振り向いた。

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登り坂に息が切れたので、坂の途中の喫茶店で休憩。チャイ(トルコのお茶)を飲んでいたら、音楽を流した一弾がやって来た。左の大男は俳優か歌手らしい。音楽に合わせて口パクで手足を振って歩いて行き、それを撮影していた。ぼんやり眺めていたら、やり直しらしく、また坂の上に戻っておんなじことを繰り返していた。

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一番高いあたりに出た。この小さな路面電車に乗れば多少は楽だったらしいが、どこで乗ってどこで下りたらいいのかが分からなかった。ホテルは遠くないはずだ。

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中学生くらいだろうか。午前中なのにこんなところでたむろして好いのだろうか。

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だいたい帰り道の見当がついた。このあたりなら一人で歩いてもなんとかなりそうだ。

 

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韓国の自殺者

 韓国や日本の自殺者は世界の平均よりかなり高いと言われる。しかし日本では最近10年ほどはずっと減り続けていて、昨年は10万人あたり16.5人だったそうだ。韓国もこの数年ようやく自殺者が減り始めていたが、昨年は再び増加して、10万人あたり26.6人と日本よりかなり多く、OECD諸国の中で最も高いという。

 

 韓国の自殺者に特徴的なことは、若い人の自殺が多いことで、その理由は受験、進学、就職の苛酷な競争だとされる。韓国では推薦入学の割合が日本よりはるかに多く、結果的に親が金持ちや政治家、公務員などである場合、特権階級として有利になるという構造がある。だからチョ・グクの娘(推薦入学)などの入学不正疑惑などが大きく報道されるし反感をもたれるのだが、その不公平感は恨んでもどうしようもないという絶望感を伴うものだという。

 

 驚いたことがある。韓国では、特権階級ではない受験生の親が、「特権を行使できない情けない立場で申し訳ない」と考えることが多い、という話を知った時だ。

 

 それが本当なら、もしその親が特権階級になれば特権を行使するのが当然だ、と誰もが思うのが韓国という国だということになる。不正だ、と抗議するのはただ自分が特権の恩恵にあずかれないことを残念に思うからだけのことである。そんな国なら受験その他の不正は決してなくならないだろう。暗黙のうちに、特権の行使が社会のルールに優先するのが韓国で、特権を持たないものが特権階級を打ち倒しても、打ち倒した者は、それで得られた特権を当然のように行使するだけであろう。
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2019年11月 9日 (土)

トルコ旅行(39)続々・イスタンブール散策

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ガラタ橋に到着。

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橋の上から釣り糸をたれる人がたくさんいる。このおじいさんは貸し竿をするひとらしい。釣りは嫌いではないが、釣れてもどうしようもないしなあ。

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橋の下にはたくさんのレストランがある。朝だから、まだしまっている。

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上を見上げれば釣り竿が・・・。

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海峡を眺める女性がシルエットになる。

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向こうに見えるのはアヤソフィアか。

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やって来た方向を眺める。高台にガラタ橋が見える。帰りはちがうルートでホテルに帰ることにする。

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そろそろレストランの準備が始まるらしい。

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尊厳死

 ドラマを何本か、そして『新日本風土記』や『英雄の選択』などを毎週録画している。ともにリアルタイムのものとすこし古いものの再放送とがあるので週に二本ずつ見ることになる。『ブラタモリ』や『ためしてガッテン!』も録画して好きな時に見るから忙しい。

 

 ようやく録画リストがほとんどなくなったので、録画していてまだ見ていなかった米沢穂信原作の『満願』(『万灯』、『夜警』、『満願』の三話)を見た。原作を読んでいるけれど、ドラマにするとさらに細部のリアリティがあって、大いに愉しめた。

 

 向田邦子の『阿修羅のごとく』(『女正月』、『三度豆』、『虞美人草』の三話)もようやく見ることが出来た。母が向田邦子が好きだったので、むかしリアルタイム(1979年放映)で見た覚えがある。ここまでシリアスなドラマだったとは当時は感じていなかった。四十年ぶりに見たけれど、断片的におぼえているシーンがあった。爆笑問題の太田光が向田邦子の大ファンで、本まで書いているという。向田邦子のドラマはモダンホラーだ、という意味がとてもよく解った。

 

 『ダイアリー』というドラマは四回に別れている蓮佛美沙子主演のドラマで、母子家庭の娘役が彼女、そして母親役が菊池桃子である。女手一つで育て上げた母親とそりが合わずにいた彼女が結婚することになる。そんな矢先に母親が倒れてしまい、意識不明のまま植物人間状態になる。

 

 その母親には彼女をいれて四人の親友がいて、高校生のときから交換日記を交わしていた。母親から実家のことや父親のことも含めて、全く知らされていなかった娘が、その交換日記を手がかりに母の出身地である金沢を訪ねる。それは母の原点を訪ねる旅であり、父親を探し求める旅であり、もうひとつ大事な目的があった。

 

 これは彼女がさまざまなひとに出会い、それぞれのひとの人生に波風を立てる結果となったことで人間が生きるという言葉どういうことかを知り成長していくというドラマであり、母親の真実を知ること、自分と母親の関係を見直す旅となる。「リビングウィル」という延命治療拒否の書類が娘に残されていた。そして実はもう一通が誰かに託されているはずなのであったが・・・。

 

 意外な人物がそれを託されていた。そして運命の日が来る。母親が自力呼吸困難になった時、娘はどんな決断を下すのか。それを見ながら尊厳死とは何かを根底的に考えさせられる。好いドラマであった。

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2019年11月 8日 (金)

トルコ旅行(38)続・イスタンブール散策

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最終日、午前中に三時間弱の自由時間があったのでイスタンブールの散策に出かけた。前を行くF君とYさん。

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とりあえずガラタ橋に向かう。まず途中の丘の上のガラタ塔を目指す。

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標識発見。

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今まで遠望しただけのガラタ塔を間近で見上げる。

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上に上がれるようだが、パス。

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坂を下る。朝なのでシャッターの下りているところも多い。

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トルコの子どももかわいい。きっとお母さんのように美人になるだろう。

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トルコのピザはパンがうすめで具がたくさん。とても美味しい。

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猫も朝の背伸び。

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この坂を下りきればガラタ橋は近いはずだ。

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こんなところで朝食を撮らなくても、と思わないことはない。日本では見かけない柄の猫であるが、トルコではこの柄の猫は多い。こんな石畳の道が多いので靴がやわらかいとすこし歩きにくい。

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信用の失墜

 BSフジのプライムニュースを録画して翌朝見る。録画するのはCMを見たくないからで、ところどころ早回しする。二時間の番組を一時間とすこしで見終わる。

 

 最近の、日韓議連の韓国側の代表の話、日本側の代表の話、文韓国国会議長と日韓議連の日本側との話を紹介する河村建夫氏の話などを聞いていて、つくづく韓国の政治家の言葉というのは軽いなあと感じるとともに、それに容易に振り回されている日本側のお粗末さも見ていて歯がゆい。

 

 特に河村氏は、本当に相手が言ったことと相手の言ったことから彼が推察したことを区別せずに話すので、聞いていて不愉快である。韓国に対する忖度がひどすぎるひとのようだ。キャスターの反町氏に突っ込まれてしばしばうろたえてしまい、さらに推測を重ねる様は見苦しい。

 

 文議長が上皇陛下に謝罪の手紙を送ったという話など、翌日には韓国側が全面的に否定している。どういうことなのかわけが判らない。このことは極秘で、河村氏は話してはならないことを話してしまったのか。そうではなくてそもそもそういう事実がないのか。河村氏は嘘つきなのか。それとも文議長が嘘をついたのか。

 

 私が嘘をつきました、とは誰も認めないだろうから事実は闇の中で、いらだたしいことだ。河村氏は韓国の政治家とあまりに親しく交わりすぎて、韓国の政治家の体質がうつってしまった気配である。彼の信用はかなり失墜したように見える。こういう政治家が今まで韓国と交渉して、譲るべきでないことまでずるずると譲り続けたのが過去の経緯なのだろうなあと思う。そういえば日韓議連の日本側の会長である額賀氏が河村氏と同席した時に、河村氏の推測まじりの話をきっぱりと、事実とそうでないこと、日本の根本姿勢はこうである、と明確に語っていて、そのレベルの差に驚いた。
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2019年11月 7日 (木)

公平と公正

 世の中が公平であり公正であるべきだ、ということには賛同する。賛同するけれど、世の中はそれほど公平と公正ではないことは人生を生きてきて承知している。そもそも公平と公正であるべきだ、というのは理想であって、まだ達成されていないことであり、理想が達成されるかどうかについては私は懐疑的である。その理想が達成されるためには人間はあまりに不完全である。自己中心的である。誰が公平と公正に生きていると胸を張れるというのか。

 

 まともな大人は、完璧な公平と公正が成立していないからといって、なんでもかんでもその責任を行政に負わせようなどと思わないのではないか。自らに忸怩たる思いを持つのが大人というものである。

 

 ただひたすら「こういう不幸なひとがいる」と探し出して、その誰かをもとに責任を糾弾するのが今のマスコミや野党であるように私には見える。たくさんいる不幸な人を、一人でも少なくするにはどうしたらいいのか、というのが論の立て方の基本であって、どうしたって不幸なひとが存在するのが世の中の現実で、その人をどう不幸でなくするのか、それを論じるのがあるべきことと思うが、今はただひたすらこの人はまだ不幸だ、という言い立てが正義であるようだ。

 

 公平が担保される世界は理想で、そうであって欲しいと私だって思うけれど、そんなこと今すぐ達成できないことぐらい判っているはずなのに。

もともとは、国語などの記述式の問題は採点者によって評価が変わるから公平ではないという野党の主張のことを考えていたのだけれど、本当の実力は記述式の問題に回答出来るような粘り強い知的能力が必要だからはじまった話なのに、公平公正を言い立てるからこんなことになると考えた。それがだんだん普遍化した話になってしまった次第で、却って分かりにくくなって申し訳ない。
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昨晩は一人で酩酊した

 いまごろは山形にいたら芋煮会の最盛期である。学生時代の楽しみといったら秋の芋煮会。ひと秋に何度芋煮会に参加するのかが自分のステイタスのような気持で、さまざまな集まりに参加し、ときには自分が主催して芋煮会をたのしんだ。山形ならば馬見ヶ崎川の河原、米沢なら松川の河原で、酩酊の境界を飛びこえて仙域に入る。仙域に入るといくらでも飲める。飲めないひとも飲める。

 

 そのたのしさが忘れられずに子供達には毎年秋には芋煮もどきを食べさせたものだ。標準のシンプルな芋煮ではなく、秋に子供達を毎年連れて行く昼神温泉の、朝市の茸(売っている人も名前を知らないようなさまざまな茸)をふんだんに入れた茸鍋であり、そして同時に私の芋煮を鍋に大量につくる。もちろん主役は牛肉である。私は関東生まれの関東育ちなので、肉は基本的に豚肉で、牛はあまり食べないけれど、芋煮は牛肉以外はあり得ない。そして芋はもちろん里芋である。

 

 昨晩も、それを思いだしながら鍋一杯の、茸をふんだんに入れた芋煮を作り、それを味わいながら人生はけっこう面白いし、まだまだたのしめるなあ、などと思いながら、一人で酩酊するほど飲んだ。芋煮を知っていることのしあわせを、ありがたいことと心から感じている。
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2019年11月 6日 (水)

正論は正しいけれど

 昨日、東海地区のニュースを見ていたら、大村愛知県知事が、今問題となっている英語の試験に関連して「地域差による格差があってはならない。教育は平等であるべきだ」と語っていた。言っていることは正しいから反論の仕様がない。そのあと「格差をなくすよう努めるべきだ」とも言っているが、努める主体は誰なのかよくわからない。この人の言っていることはいつも正論で、なおかつ他人事に聞こえるのは私の偏見か。

 

 あの「表現の不自由展」問題でも、「言論は自由であるべきだ」と正しいことを言っていた。そしてその「表現の不自由展」のアンチ(つまりパロディ)として「愛知トリカエナハーレ2019『表現の自由展』」という展示がなされると、それを強く批判していた。市民運動家たちが「ヘイトだ」と騒いだことに対して、同調したのである。「言論は自由であるべきだ」と言ったのは誰だったのか。

 

「自由」というものが、勝手気ままにやりたい放題であることを許すことだと勘違いする人間が多い。特に日本人は自由を勝ち取る苦労をほとんどしていないから、自由の重みが判っていない。自由を勝手気ままだと解釈していれば社会秩序は崩壊しかねない。それでは困るからそんな「自由」はとうぜん規制されることになる。「自由」が自由を制限する理由になってしまう。だからこそ自由には節度が必要なのだと思う。

 

 それはそれとして、大村知事の深い思索のない「上っ面の正しい言葉」をたびたび聞かされるとうんざりする。彼の「正しい言葉」が矛盾を生じることがしばしばあるのになんの痛痒も感じていないらしいその鈍感さに腹が立つのである。すべて他人事なのであろう。同じ鈍感であっても、自分の問題として、語るだけでなく行動する河村名古屋市長の方がまだましな気がする(こちらも問題が無いわけでは無いが)。

 

 大村氏はまさに今の野党のリーダーの面々と同じ顔をして同じようなことを言っているなあ、と思う。
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トルコ旅行(37)バザール

昼食はオリエントエキスプレスの駅のホームの横のレストランで摂った。

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今のオリエント急行。といってもヨーロッパ大陸までは走っていないようである。

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レストランの壁に貼られた写真。アガサ・クリスティがいる。

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レストランからすこし歩いた場所のトリム(市内を走る電車)に乗ってバザールへ向かう。

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バザールの入り口。

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バザールのメイン大通り。人で一杯。多数の横道があり、更にその横道が枝分かれしていて、この大通りに戻ることを常に意識して歩かないと迷う。

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大通りに立って枝道を写す。

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飾り物の見せ。

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絵皿が魅力的だったけれど、荷物になるし用途が思い浮かばない。F君は小型の絵皿を土産に購入していた。結構好い値段である。

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こちらは銅製の皿。声をかけられて皿を持たされた。持って見るとずっしりと重い。トルコはどんなレストランに入っても食器類がとても重いのでびっくりする。

絵皿やこの店は枝道のまた枝道にあって、そこら辺をひやかして歩いていたら迷ってしまってもとの大通りに戻るのに一汗かいてしまった。

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これがトリムの駅。ここから海峡クルーズの乗り場のあるガラタ橋に向かった。

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2019年11月 5日 (火)

柳田國男の帰省

 柳田國男の『故郷七十年』(講談社学術文庫)という本を二ヶ月ばかり前から読み進めているが、500ページあまりの大部だし、一日数ページくらいしか読まないのでようやく半分くらいのところである。今年中に読み終わるかどうか。彼が晩年に自分の人生を振り返って書き残した自叙伝ともいうべき本で、大変面白い。その交遊の広さ多さには驚くべきものがある。

 

 そのなかの『播州帰省』という一節を紹介する。

 

 私はしょっちゅう播州の人と交渉があるので、どうも頻繁に帰ったような気がしているが、古い日記を繰ってみたところ、案外その度数は多くないことが判った。十三の年に郷里を出てから後、十九の年、第一高等学校に入った時帰ったのがまずはじめである。
 前にもふれたが、ちょうど京都に行っていた弟の静雄もやって来て、しばらく兄弟三人暮らしたことをおぼえている。 
 私も静雄も、だいぶ大きくなっていたので、二人で但馬まで歩いて行ったことがある。そのころはまだ播但線がなかったから、歩いたわけである。東京に帰って、父母に郷里のことを話したけれども、両親が離郷してからまだあまり時がたっていなかったので、それほど珍しそうにも聞いてはくれなかった。
 そのつぎに行ったのは、私が大学に入ってからであった。しかし帰京して郷里の移り変わりを話そうにも、そのときはもはや両親とも亡くなっていたのは残念であった。たぶん明治三十一年の夏だったと思う。私ははじめ三河の伊良湖岬へ行っていた。そこへ東京から田山花袋ら大勢の友達がやって来た。島崎藤村は来なかったが、私が伊良湖で拾った椰子の実の話を、後に東京に帰ってから話して聞かせたことが、藤村の長詩『椰子の実』の材料になった。伊良湖から田山たちといっしょに伊勢に行き、そこで別れて私一人だけ播州へ帰った。
 そのころ、井上の兄はもう姫路から岡山へ転任していたので、まず岡山を訪ね、帰りに播州へまわって幾日かすごし、東京へ帰って来た。
 故郷とはいえ、肉親は誰もおらず、旧知の三木家にばかり世話になるので、故郷というものの印象が大分変わって来た。遊び仲間の子供達との因縁、その子供らのお母さんやお祖母さん、それから近所の人、親類の者などとの心の繋がりが、なんとなく疎くなってゆくような気がした。はじめ帰った時、声をかけてくれた人たちまでが、だんだん遠のいて行くようで、やがてすっかり他所行きの感じになってしまった。三木家の厄介になっていなければ、井上の留守宅に行って留守番のお婆さんの世話になっていたわけである。大学の一年から二年になった夏のことかと思うが、これが二度目の帰京であった。 私はそのころ文章などを書いたりしていたので、中央ではすでに名前を知られはじめていた。たとえば『伊勢の海』(のち改題『遊海島記』)という文章を書いて、国木田独歩の病気見舞いにみなで贈った。『二十八人集』という本の中へのせたりしていたので、郷里の人たちの中にもそれを薄々知っている者があって、多少遠慮がちになっていたのかもしれない。
 それからずっと経って、明治四十二年に北陸を歩いてから谷中(たになか)を入って播州へ行ったことがある。大学生時代からこのころまでの十年足らずの間にも、播州へ行かない気遣いはないはずなのだが、はたして何度行っているか、今は、はっきりと判らないのである。

 

 故郷というものについての若い時の思いが記されていて、私も同様の思い、次第に縁遠くなる感じ、が分かる。

 

 この文章を取りあげたのは、このなかにあの島崎藤村の『椰子の実』という詩(有名な歌にもなっている。大好きな歌である)が、柳田國男の伊良湖で拾った椰子の実の話をもとにしていることが明記されているからだ。この話は有名だが、文章として確認したのは初めてなので一節全文を紹介した。
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トルコ旅行(36)ボスポラス海峡クルーズ

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クルーズの遊覧船に乗船場から眺めたガラタ橋とガラタ塔。ここへは翌日の午前中の自由時間にもう一度やってきた。ホテルはこの丘の上のガラタ塔の向こう側なので、ここへ下りてくるのは楽だけれど、帰り道は急坂の丘を登らなければならない。

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さあ出発。

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我々の乗っている船は、ここに見えているような遊覧船と同じくらいの大きさ。船のなかのスピーカーから庄野真代の「飛んでイスタンブール」が鳴り響いたのには笑ってしまった。しばらく歌のフレーズが頭から去らなかった。いま聞いてもいい曲だと思う。

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日本の建設会社によって建造された第二橋(だったと思う)。

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はるか上を観光バスなどが通るのが見える。

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この辺りにはトルコの大金持ちたちの家や別荘が建ち並んでいる。

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イスタンブールの都市の中心部の高層ビル群を遠望する。

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いかにもイスタンブールに自分がいるという景色を見ることが出来た。

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たしかこれがアヤソフィアだったと思うのだが・・・。

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約一時間ほどのクルーズを終えて、乗船場に戻る。右手の船でイスタンブール名物の鯖サンドが食べられるが、時間がなくて食べるチャンスはなかった。よく見ると大きな大きな鯖サンドの模型が見える。

このクルーズの前に有名なイスタンブールのバザールに行ったのだが、予告したのでボスポラス海峡クルーズを先に紹介した。

 

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2019年11月 4日 (月)

電気

『安岡章太郎随筆集3』の前半は井伏鱒二について書いたものを集めたものだった。その中の『知らぬが仏』という一節にこんな文章がある。

 

「井伏さんの文章を読むと、はじめはその優しさと温かさとにひきこまれるが、いつか或る仮借ないまでに強い何ものかにぶっつかるときがくる。どの個所を、どうと指摘するわけにも行かないが、目に見えない強い動物電気のようなエネルギーが、文章の全体に流れているのを感じるのである。志賀直哉氏の文章にも、こういったエネルギーは感じられるのであるが、いってみればそれは絶えず一定量流れている電気のようなもので、はじめから強い電気であることが誰の眼にもよくわかる。それに比べて井伏さんのは、いつ、どこから、どういう具合にながれてくるのかわからない電気なので、衝撃をうけたときの驚きは、一層つよいのである。」

 

 鈍な読み手である私であるが、志賀直哉氏の強い電気について感じること大である。だからむかしから志賀直哉が好きなのだが、志賀直哉の電気は誰でもわかるものらしい。その電気に強弱があって、強いときには衝撃が走るのが井伏鱒二だというのだから、読んでみたくなる。いままで二三の作品(定番の『山椒魚』を含めてである)しか読んでいない。

 

 実はこのあと読み始めている『安岡章太郎随筆集4』は、一巻すべて志賀直哉に関連した文章が集められている。『暗夜行路』に関連しての評論を読んでいると、私は読んだはずのこの本を全く読んでいないに等しいことを思い知らされた。私にとっては、『或る朝』にはじまり、『和解』に至る父との確執、家族との不調和を語る私小説的短篇が最も志賀直哉の電気を感じるのだが、それが集大成され、止揚されたものが『暗夜行路』という作品であるらしい。若いときには、ただの小説として読んだだけで、そんなこと欠片も感じなかった。

 

 阿川弘之の『志賀直哉 上・下』(岩波書店)などを読み比べながら、もう一度志賀直哉を読み直さなければと思っている。今年夏に全集をフルセットで安価に古本屋で手に入れた(重かった)ものが棚に並んでいて、第一巻の途中までしか読み進めていない。こんな本の読み方はあまりしなかったけれど、ブルドーザーでさらっていくような読み方に挑戦してみようかと夢想している。

 

 たくさんあるものの一つを集中して咀嚼することは、たぶん多数を薄く広く読むこととちがう何かを自分にもたらすような気がする。そういうことにしたので、井伏鱒二に手を広げるのはすこし待つことにした。
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トルコ旅行(35)アヤソフィア

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最も美しいモスクといわれるアヤソフィアに行く。

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アヤソフィアに入るための行列。私たちは団体なので横からもう少し早くいれてもらえた。どうして行列になるかといえば、荷物チェックに手間取るため。トルコの多くの観光地は必ず飛行機に乗るときのように荷物チェックがある。もちろん本人も危険物検知ケートのチェックを受ける。飛行場では飛行場に入るときと搭乗前との二重チェックである。そういうところでトルコはいろいろきな臭い国に囲まれていること、万一のこともあり得ることを思い知らされる。

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とても綺麗な品のあるアヤソフィア。しかし、残念ながらここも工事中で、最も見たかったモスク中央の天井を見ることが出来ない。

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内側のホールへの入り口。入り口まわりの壁面は大理石。このような柄の大理石は宝石のように貴重なものだそうだ。

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中央ホールではない外の回廊の天井。

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もともと教会だったものがイスラムのモスクに作り替えられたことがわかる。そもそもイスラムは偶像崇拝を禁止しているので、人物画はたぶん漆喰などで塗り込められていたものと思われる。あとで剥がされたのだろう。

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二階の回廊からホールを見下ろす。左が工事用の足場。ステンドグラスが美しいのだが、好い写真が撮れなかった。

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これは一部のみ復元できたのだろう。

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これは綺麗に復元できている。とても暗いから写真に撮ってみて細部がわかった。

このあと待望のボスポラス海峡クルーズに行く。

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2019年11月 3日 (日)

ニュース雑感

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 朝鮮日報の日本語版に「ベトナムで猛威をふるう中国製のニセ韓国商品」という記事が載っていて面白かった。商品は、模倣品がでたときに初めてブランドであることが認定される、という。にせものがでることは腹立たしいであろうが、韓国品もこれでブランドとして認められていることが明らかになったわけで、めでたいことだ。

 

 韓国は知的財産権保護を強化するという。ところでニセ中国商品はまだ聞いたことがない。それがでる頃にようやく中国も本気で知的財産の意味を理解することになるだろうが、そんな日はいつやってくるのだろうか。そもそもニセ中国ブランド品は中国製だろうけれど。

 

 女子プロゴルファーのバスタオル暴言問題で、当人が謝罪したと報じられていた。この件に関してテレビでさまざまな意見を見聞きしたけれど、某竹田氏(憲法学者で、もとJOC会長のご子息・先祖は皇室につながるらしい)が「もっと融通を利かせたら良かった」とゴルフ場側を批判していた。それを聞いて居並んだコメンテーターがみなうなずいて賛同していたのに驚いた。本当は反対したい人もいたはずだけれど、そこには場の空気を読んで賛同している気配も感じられた。意気地の無いことである。

 

 なぜ驚いたのか。実際の女子プロとゴルフ場側のやりとりがどんなものだったのかわからないけれど、報じられていることをそのままに読めば、その女子プロが「自分だけ特別扱いをせよ、融通を利かせろ」といい、「決まったことだから、それは出来ない」と答えたことに「頭が固い、死ね」と暴言を吐いたらしい。その特別扱いが当然だ、という態度が問題とされて「裸の王様」などとマスコミが揶揄しているのだが、それを融通を利かせるべきだった、と竹田氏が言ったことになるからである。

 

 彼女はバスタオルを忘れたのだろうか。それなら有料で何とかして欲しい、と頼んだのだろうか。そもそもバスタオルの提供はないという通知は徹底されていたのだろうか。通知がされていなければ、あるはずと思ったひとがみな困って大騒ぎになったと思われ、どうも彼女だけがわかっていてなんとかなると思ったふしがある。

 

 相手が譲るのが当然だ、というような考え方の人間が私は嫌いであり、それを融通を利かせるのが当然だ、と擁護する竹田氏に、普段の言動の下に隠れた彼の特権階級的意識のにおいを感じたのだ。思わぬところで馬脚を現した氏に、私は今後先入観が貼り付いてしまうことだろう。

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無事帰着

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 昨夕、久しぶりの遠出から無事帰着した。名古屋から千葉へ、千葉から日光へ、日光から金精峠を越えて丸沼高原へ、そして老神温泉へ、さらに一昨日の晩は北関東の周大兄といつもの美人三姉妹の店で美味い酒を飲みながら歓談した。飲みすぎたので二日酔い気味の昨朝はゆっくりの出発。赤城山を横に見て、妙義山を眺め、浅間山を遠望し、雪をかすかにいただいた北アルプスを見つつ、いつもよりもたびたび休憩を取りながら上信越道、長野道、中央道をたどって無事わが家に帰宅した。まことに爽快なドライブであった。

 

 日光の街中はまだ紅葉がはじまったところだが、中禅寺湖から先は紅葉真っ盛り。丸沼高原ではロープウエイに乗って日光白根山を見に行く。そのへんの写真はまた後日掲載する。今日は録りためたドラマや紀行番組、プライムニュースなどを片端から片付けてテレビ三昧するつもり。トルコ旅行の話も尻切れトンボになっている。区切りをつけたいがボチボチ気が向いたものから手をつけようと思う。
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2019年11月 2日 (土)

『安岡章太郎随筆集3』(岩波書店)

 第二巻は著者のアメリカ留学時の紀行文を編集したもので、単行本で持っており読むのは後回しにした。この第三巻は『文学的交遊録』と副題がついていて、三部に分けられており、第一部はほぼ前半部をしめる『井伏鱒二』、第二部は『第三の新人』、第三部は『あの人、この人』となっている。

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 佐藤春夫に師事した安岡章太郎だが、それに並んで井伏鱒二にも薫陶を受けたことを初めて知った。当然井伏鱒二の文章についてもとことん読み込んでいて、一つの短篇にも細部に目配りした解釈を繰り返し、それとともに彼の批評が進化していく様子が読み取れる。

 

 たとえば『鯉』という短篇については、安岡章太郎が中学生の時代にラジオの朗読でこの短篇に触れて感応したことが繰り返し語られる。井伏鱒二は自分の作品に改稿を繰り返すことで有名だ。だから発表時のものが大きく削られたり書き換えられたりする。どの時点の作品を読むかで批評も変わりかねない。作品も変化し、それを読む安岡章太郎の読みも深まる。それが時系列に沿って並べられているから興味深い。当然重複することが多々生ずるが、あえてそのまま掲載した、と巻末の解説に自分で記している。

 

 第一巻の安岡章太郎が、この巻を読むことでめざましく成長していくのを見る。第一巻で感じた彼の長所である(と私が感じる)軽さのようなものは残しながら、密度を高めていく様子が読み取れてなんだかわくわくする。たまたま好きになった人が思った以上に素晴らしい資質を表して行くのを見るようだ。好きになった自分自身もほめたくなる。

 

 こういう文章を味わって読んでいると井伏鱒二を読んでみたくなって困っている。読みかけだったり、これから読み直そうと思っている本がたくさんあるのに・・・。アマゾンで見ると井伏鱒二の全集は二種類あって一つは自選の全集である。欲しいなあ、と思いながらいまはがまんしろ、と心の声に諭されている。

 

 この巻のなかに紹介したい部分がいくつかあった。その文章そのものと、それについて感じたこと、考えたことを書き残したいと思った部分だ。一度読み返してそれをまたここでいくつか取りあげたいと思う。
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2019年11月 1日 (金)

池内紀『東海道ふたり旅』(春秋社)

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 池内紀はドイツ文学者でエッセイスト。カフカや、私の大好きなホフマンの翻訳者として若いころからなじみがあったのだが、たまたま手にした『ひとり旅は楽し』(中公文庫)という本で彼のエッセイストとしての一面を知った。そのあと、日本の「鬼」について興味をもっていろいろ民俗学などの本を読んでいるときに、『悪魔の話』(講談社学術文庫)という本に出会った。ある意味で西洋の「鬼」としての「悪魔」にも興味をもったからである。その本の著者が池内紀であった。

 

 こうして池内紀という著者名の本を見ると手にとるようになり、紀行文を主にしたものをはじめとして彼の本がたくさん本棚に並ぶようになった。今回読んだ『東海道ふたり旅』は東海道五十三次を歌川広重の浮世絵をベースにして江戸から京都をたどる旅である。そこには現在と過去という時間もふくめて立体的な東海道が語られている。

 

 歌川広重の『東海道五十三次』には最初に描かれたものの他に『行書東海道五十三次』、『隷書東海道五十三次』などがある。それらを蒐集して細部を飽きずに眺めてさまざまな発見を愉しんでいた池内紀が、実際に東海道の宿場を何度も歩き、何を見たのか。「ひとり旅」派の彼が、あえてする「ふたり旅」の同行者というのは、実は歌川広重なのである。

 

 旧東海道を歩くことに淫している人は数多くあることを以前テレビでも見たことがある。池内紀も一時そうだったようだ。この本を手にして実際に宿場を歩いてみたくなった。

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