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いよいよ今年最後の日が来てしまった。これでこの世が終わるわけではなくて、明日から新しい年の日々が始まる。ものごとには区切りがあるようで実はないのだけれど、茫漠とした時間の流れに気持の上で区切りをつけるというのは座標の目盛りのようなもので、過去を振り返り、現在の立ち位置を確認し、未来を見通す上で必要な作業なのだろう。
今年はニフティのブログコーナーが大きく変更された。これはブログとしては改悪としかいいようのないもので、その証拠に私が楽しみに拝見していた多くの方がニフティから離れてしまった。別のブログに移られた方については出来るだけ追いかけているけれど、拝見できても、登録しないとコメントやいいねもできないから眺めるだけになっている。
ブログそのものもやめてしまわれたり、更新をやめてしまった人もたくさんおられる。まことに残念なことであった。そのような方々もブログを完全に閉鎖していなければこちらのブログを見ていただいていることはポチッとを戴いているので分かっている。有難いことである。極力お返しはしている。
人間には承認欲求というのがあると脳科学者の中野信子女史がテレビで言っていた。その欲求は時に性欲よりも強いのだという。人に認めて貰いたいという願いはたしかにとても強い欲求なのかも知れない。ブログを書いて、それが誰かに読んで貰えるというのはその欲求を満たす一つの方法なのだろう。ニフティは改悪することでその手段を毀損した。多くの人が怒りを表明し、離れたのはそれが理由だろうと思う。
私も不愉快だったが、移るのも面倒なのでそのままにしている。実は撮りためた写真を中心にした別のブログを試しに開設して見たが、なじめなくてひと月ほどで放置したままである。いまは考えていないけれど、場合によってはいつかそちらに移るかも知れない。
大晦日の紅白は観ないことにして50年以上になるが、昨年は娘のどん姫が来ていて紅白を観ていた。わざわざ逃げ出すほどのこともないので隣で雑誌などを読みながら聞いていた。ほとんど知らない人ばかり。だんだん浮き世離れしている気がした。
今年もお粗末な私の文章を読んで下さって、まことにありがとうございました。来年も雑文を書き続けますのでよろしくお願いします。
30日になってようやく台所まわりを重点に掃除をした。細部にこだわると、やることがつぎつぎに出て来る。狭い台所を綺麗にするだけで大汗をかいた。日頃どれだけサボっているかよく分かったが、だからといって明日からこまめに、ということにならないのが横着者の横着者たるところである。
床に展開しているものを少し片付けてみたら、何とか正月を迎える気分になった。本も片付けるというよりも移動してなんとなく収まりをつけた。やろうと思っていたことの十分の一くらい片付いた。明日また十分の一くらい片付けて歳収めとなりそうだ。くたびれたので夕方の仕度をする元気がなくなった。買い物ついでに鮨とつまみでも買ってきて、自分へのご褒美の独り忘年会でもするとしよう。
昨晩NHKBSで竹内マリアの特番をやっていて、大感激して観ていた。子育てからカムバックする前から大好きで、カムバックしてからはさらに好きでよく聴いた。
いまはドライブ中に聴くのは平原綾香が多いけれど、その前は竹内マリアが多かった。CDアルバムも何枚か持っている。この特番は曲を主体に置いていて、彼女への思い入れの多いこちらにはとても好かった。ともするとインタビュー主体で曲をおろそかにする番組に出会うと怒りさえおぼえることがあるものだ。たぶんファンならそうだろう。
彼女の音楽世界の豊かさと素晴らしさを堪能させてくれる番組で、録画するのを忘れていたので再放送を待ちたいと思う。特に坂本九とデュエットしたシーンなどはお宝であろう。
私が最も好きな曲は昔もブログに書いたけれど、「駅」という曲だ。私は不倫などしたことは残念ながらないけれど、この歌の女性から見た昔の不倫相手の男性の姿に自分自身を感じて私の仮想体験に収められている。
むかしたまたま知り合った女性にカラオケでこの歌が好きだから一緒に歌って欲しいといったら「わたしも好きです」といわれてともに歌ったことが忘れられない。もちろん彼女とはなにもないけれど、ささやかな気持の交流を感じたのは私の甘い記憶である。
テレビが好きだがCMは大嫌いである。本当のテレビ好きはCMも好きらしいから、私のテレビ好きは知れているのだろう。それで結構。
年末年始は特別番組だらけで、タレントや芸人が喚き倒すやかましい番組とスポーツ番組がほとんどとなる。私の苦手なものばかりなので、観るものがない。それでもテレビが観たい。だからいつか観ようと録画してあったものを手当たり次第に観ていく。やはり私はテレビ好きだ。番組ではなくて、好きな映像を観るのが快感なのだ。
いま大画面の2Kテレビを使用しているが、結構高精細で、特に不満は無い。具合が悪くなったら息子に補助して貰って4Kに買い換えようともくろんでいるが、何しろ4Kの解像度に衰えつつある眼の解像度が追いつかないから、その値打ちが味わえないかも知れない。
あと年末まで二日しかないのに、家のなかはほとんど片付いていない。なんとなく、まあいいや、という気分でいる。いかんなあ。しかしこたつを出たくないし。
29日にお飾りを飾るのは避けるべきだと子どもの頃、母に云われた。31日に飾るのは一夜飾りでよくないともいわれた。あまり早くから飾るのもなんだか間が抜けている。末広がりの八の日である28日がもっとも適当であるというのが母の教えである。
昨日、そのお飾りと、日持ちのしそうな正月用の食糧の買い出しをした。残りは31日に買い出しである。お飾りといってもマンションの玄関の扉にぶら下げるささやかなものである。それでも、いつもの一番小さいものよりは少しだけ見栄えのしそうな、ちょっとだけ大きなものを買ってきてぶら下げた。
スーパーは大混雑で、レジは行列である。師走のせわしなさを感じたとともにお飾りを用意したことで、なんとなく正月を迎える気分が湧いてきた。
事情があって、25年以上別れて暮らしている、いまでは他人でしかない戸籍上の妻の面倒をみなければならなくなった。いまのところ命に別状はないが、入院中である。彼女の住んでいた家も出なければならなくなっているので、現住所をこちらに移さなければならない。それにともなって、来年早々にさまざまな手続きが待っている。理不尽に思う気持ちもあるが、放っておく訳にはいかないのだ。
南京で日本軍が市民30万人を虐殺したとされている。殺されたとされる人数は報じられる度に増え続けたけれど、さすがに当時の南京の人口30万人を超えることは無理があるから、これが最大値だろう。日本軍が侵攻して来ると知って逃げた市民が多数いたから、そもそも30万人を殺すことに無理があるという反論は合理的である。
国民党の兵士が軍服を脱ぎ捨てて市民にまぎれたので、彼らを見つけ出して処刑したのが一般市民を処刑したと喧伝されたという説明も一理ある。国際法でも兵士が軍服を脱いで市民にまぎれた場合の処刑は合法だと聞いたことがある。それがエスカレートして、疑わしいものまで多数処刑したという可能性も大いにあるだろう。何しろ兵士にとって戦地は敵国なのであるから疑心暗鬼にもなるだろう。
それらをすべて考量した上で、私は南京虐殺、市民の殺傷が少なからずあったのではないかと思っている。それが30万人ではないから事実ではないというのは無理があると思っている。少なくとも数百人、数千人は殺されたのではないかと思っている。兵士の一部暴発による殺害とはレベルの違う暴走があっただろうと思っている。それは許されるべきことではなくて謝罪に価する。ただ、同時にそれが政治的プロパガンダに利用されることには激しい違和感を感じる。
中国はチベットで多数の民間人を殺し、僧侶を殺し、僧院を破壊し、人民を解放するという名目で思想教育を強要し、「改善」を強要してきた。お陰で一部のチベット人民は豊かになるだろう。そしてチベット人という民族は地上から消滅していくだろう。いまウィグルで何が進められてるのか、詳細は覆い隠されていてわずかに洩れたことしか分からないが、過去中国共産党政権がチベットに行ってきたことから容易に推察されることである。
その洩れてきたわずかな情報が、わずかであるという理由でフェイクであるとする主張がネット上に飛び交っている。誰が何のためにそんなことをしているのか明らかなことだろう。
韓国の文在寅大統領は弁護士だった若いころ、軍政だった韓国を民主化するために命をかけて闘争し、投獄までされている。人権派弁護士であることが彼のステイタスである。韓国を民主化することに貢献したというのが彼の勲章である。その信念のもとに日本の朝鮮併合を糾弾し、それにつながるいまの日本を非難し、謝罪を求め続け、反日を煽り続けているのであろう。
その文在寅大統領が、ウィグルで起きていることも香港の民主化運動も「中国の内政問題である」と習近平に語ったと中国外交部が報道した。青瓦台は、習近平が「内政問題だ」といったことに対して「そのように中国側が主張していることは伺いました」と答えただけだと釈明している。
韓国民主化の旗手を自認し、人権派弁護士として命がけで闘ったことが勲章であるはずの文在寅はそのような中国の報道に「激怒」して当然だと思うが、「そんなことは言っていない」と否定しないのは中国の報道が正しいからではないのか。
奇っ怪なのは、それに対して韓国のマスコミがそれほど問題視していないように見えることである。韓国国民もそれを非難しているという話が聞こえてこない。何なのだろう。不思議なことである。
あけがた前から冷たい風が吹き荒れた。岐阜県北部は雪らしい。
本の数を少しずつでも減らそうとしてきた。購入するよりも処分する本の方が多くなければ減らない。ようやくその均衡が減少に傾いている。日本の国債よりも前進である。大事にしてきた池波正太郎や葉室麟、宮城谷昌光の本も、未読のものとどうしても残したいものだけを残して処分する。
年末に部屋を片付けようとすればオーバーフローしている本をどうにかしないとスペースが確保できない。次に標的にしているのが曽野綾子と山口瞳である。その曽野綾子の本をまとめていたら、つい開いて読み始めてしまう。そこでたまたま手に取ったのがこの『人間の基本』だった。
帯には「恐るべきは『精神の貧困』である」とある。人間は、白か黒かで分けられるほど単純なものではない。善の部分も悪の部分も併せもつのが人間で、そんな当たり前のことを考えることができずに正義を振りかざすことの愚かさ、「精神の貧困」について、彼女の経験したこと、そこから考えたことを語りながら考えさせてくれる。
たとえばこんな一文
インドの不可触賤民の村に教育関係者を連れていった時も、ありのままのヒンドゥ社会の強固な階級差別の実態を見てくれればいいと思っていたら、報告書に書かれていたのは「インドでは差別もなく、みんな仲良く暮らしていた」という内容でした。わざわざ差別を見せるために外国へ連れて行ったのに、それが全く通じていない。日本では優秀とされる人たちのそんな有様を見て、いささか気味が悪くなったものです。
これならば学校で暴行や恐喝が起きていても「みんな仲良く勉強していた」と報告するだろう。いじめによる自殺が明るみに出たりした時の彼ら(不思議な言い訳をする教育関係者)は保身ではなく、あって欲しくないことはそもそも見えないのだろう。曽野綾子ではなくても気味の悪いことである。
この本は2012年3月に出版された。東日本大震災からちょうど一年後くらいである。震災について、さまざまなことを私も考えた。その時のことを思いだした。自分の弱さ、臆病さを自覚させられる。この本は処分しにくいような気がしている。そんなことでは何も処分できなくなる。どうしよう。
NHKドキュメント番組「改善か信仰か 激動チベット3年の記録」と「激動の世界を行く 巨龍中国と向き合う」の録画を観た。チベットの方は再放送で一度観ている。
両方の番組を観ながら考えたのは、中国という国の抱える問題の本質は何かということだった。共産党一党独裁というのが外面的な姿だが、素朴に考えればいまの拝金主義的な中国が共産主義思想の国とはとはとても思えない。
しかし本質的に共産主義とはすべてのことを経済の問題として考えるという思想であるともいえるので、拝金主義と案外相性が良いのかも知れない。
チベットに対する中国の覇権主義は、チベット人民を宗教などの迷妄から解放して改善するという大義の下に行われている。そこには文化や宗教いう心の問題は一切考慮されていない。豊かさとは物質の量で量るしかないという考えで推進されている。
物質的な豊かさは大事なことで、生活が楽であることは否定することではない。しかし、だから心の豊かさは考慮する必要が無いというのも間違っている。「チベットの連中は金を儲けようという意欲がなくて困ったものだ」と中国政府からチベットに派遣されている改善委員という男が語っていたのが印象的だった。まだ三十そこそこに見える若い男である。彼らは自分の信じる正しいことを推進しているが、自分が何を推進しているのか疑念を抱かない。そこに中国の傲慢と危うさを感じた。
そのことはそのまま香港問題や台湾問題にも言えることであろう。いまもっとも傲慢と危うさを体現して見せているのが習近平という人物だろう。
中国は大きすぎる。大きすぎることで強大すぎる力を持つことになったけれど、天体が大きすぎるために自分の重力でつぶれるように中国も自壊するような気がする。ただしそれがいつ頃になるのか分からない。そしてつぶれる前もつぶれてからも周りに災厄をもたらし続けることだろう。それはアメリカも同様で、嫌な世界を見せられている思いがする。
若い時よりもこだわりが強くなっている。粘着性が増しているのだろうか。安岡章太郎を読み始めたら、棚にある本をつぎつぎに引っ張り出して読んでしまう。他にも読みかけがあるのだがそちらに手が回らない。
これも随筆集の再読で、他の本でも読んだことのあるものもいくつかあるが、飛ばし読みする気にならないくらい面白い。他のひとにとっても面白いかどうかは分からない。團伊玖磨や伊丹十三の随筆なら誰にでも面白いだろうが、内田百閒、奥野信太郎あたりになるとかなり好みが分かれるだろう。安岡章太郎はその中間あたりというところか。
師事した佐藤春夫や井伏鱒二に関するものや、吉行淳之介、阿川弘之、遠藤周作などとの交遊録はたぶん誰にも面白いだろうと思う。この本はそういう文章が多い。同時にそこから発展して文学評論に至ると、とたんにそこで論じられている作品に多少の知識がないと読めなくなるかも知れない。
しかしそこに挙げられている作品をことごとく、しかもしっかりと読み込むことは物理的にむずかしい。ザル頭としては、繰り返し読むことでしか深度を上げることはできない。若いときに戻りたい気がする。それはただ時間がたくさん与えられることを望むという意味でだが。
この本に河盛好蔵や芥川龍之介、幸田文、内田百閒も語られているが、取りあげられている文章がたいてい私の読んだものだったのが妙に嬉しかった。佐藤春夫と井伏鱒二はいままであまり読んだことがないので、あらためて読んで見たいと思っている。来年あたり、古本屋を物色してみようと思う。
食い物屋の前で列んでいる人を見ると、何で列んでまでその店にこだわるのかと思う。列ぶのは大嫌いだけれど、列ぶことを余儀なくされることもある。どうしても列ばなければならないときにばかに間隔を空けている人が気になる。一人分どころではなく二人分くらい開いていることもしばしばだ。そのために行列が無意味に長くなってまわりに迷惑をかけることになることも多い。そんな人が何人かに一人必ずいる。
待合室で人の座っている前に立ちふさがって動かない人がいる。列んでいるわけでもなく、ただそこに立っている。立つなら立つで立つ場所は他にいくらでもありそうなのに、坐っている私の眼の前に向こう向きに立ちふさがっている。私が立とうとすればその人を押しのけないとならないようなところに立っている。周りが見えていないのかと思ったら、私の隣の人が立ち上がったのを見てすぐとなりに坐ったから周りは見えていたのだ。ただ、立ち上がった二人分の席のちょうど真ん中に坐ったのには驚いた。
カジノを前提としたリゾート施設をIRというらしい。国家公認の博打場である。こういう言い方をすることから分かるように、私は反対である。賭博そのものを否定しようとは思わない。競馬もパチンコも楽しんだことはあるし、ささやかな仲間内での賭けマージャンくらいは経験している。
今回IRを巡って、参画意向の中国の企業からの献金をうけた疑いで、自民党の秋元議員に逮捕状が出されそうな気配だ。こういうことがあろうかと想像していた。こういう話は之だけに限らず、裾野が広いのではないかと思う。今回秋元議員の関係する案件が暴かれたのは、たぶん競合会社の情報リークではないか、などと想像している。
こういう案件に関わる組織は巧妙で、事実を明かされないような手立てに万全を期しているはずで、そういう点で中国企業はそのへんが甘かったのだろう。どうして中国企業が甘かったかといえば、中国ではこういうことが当たり前に横行していてそれが露見するという危機意識がなかったのだと思う。金ですべてが片付くのが中国だ、とまではいわないが、それに近いのが常識になっていて、日本がそうでないことに思いが至らなかったのではないか。
之が端緒となって、IRそのものの論議が進んでそういうものはとりあえず棚上げ、という事態になればよいと思う。中国企業の情報リークで競合相手を叩き落とした組織が結果的に自分も損をする、という図式は痛快でないことはない。
余談だが、IRといえばINFRARED RAYS、つまり赤外線のことだというのがいままでの常識で、化学屋にとってはその赤外線を使って分析をする赤外線分光分析器のことをいう。
全集や単行本に未収録のエッセイを集めたものの第一集。第二集はこの前に読んだ『観自在』。この『雁行集』には彼の読んだ本や映画、交遊録などが収められている。
大病して療養中に中里介山の『大菩薩峠』を読了したことが書かれている。この大部の本をすべて読んだ人は少ないと思う。祖父母(母方)の家にこの『大菩薩峠』が全巻揃っておかれていたので、私も中学生か高校生になってから挑戦したけれど、第三巻の途中で挫折した。いつか全部読みたいと思ったけれど、あの全集はどうなったのだろうか。
そこから中里介山自身のことについて彼が調べたことが書かれている。中里介山が水平社との関わりから大逆事件に連座しそうになったことを初めて知った。ある行き違いから幸徳秋水と仲違いしたために彼らと離れたことで命拾いしたともいえる。中里介山に社会主義思想があったとはとても思えないが、当局はそんなことは斟酌なしに多数の無実としか思えない人たちを拘束し獄に送り込んでいる。中里介山も身内もずいぶん嫌がらせをうけたようだ。
幸徳秋水というと住井すゑの『橋のない川』を思いだす。「こうとくしゅうすい、なはでんじろう」と子供時代の畑中孝二がお経のように、呪文のように唱えていたのが忘れられない。部落民のことが書かれているから当然水平社も関係している。中里介山がそれに関わっていたとは意外なことだった。こういう繋がりや巡り合わせに出会うから読書は面白い。
安岡章太郎はシャンソンが好きでフランス映画が好きだった。もちろん戦前のシャンソンであり、戦前のフランス映画である。その手放しの憧れのまなざしが羨ましいような気がする。私も映画に淫した時代があったし、いまでもずいぶん観ている方だけれど、若い時の、映画音楽を聴くだけでそのシーンがまざまざと浮かぶほどの集中力は無くなった。題名や監督や俳優の名がすらすら出なくなったことがなにより悲しい。
交遊録を綴りながら、いまは亡き友人達の名をあげていく。そして自分だけが生き残っていることに愕然とする。その寂寥がいまなら少し分かる。一つひとつの文章が心に沁みて切ない思いがした。
泉鏡花の随筆集の『北国空』という文章の中から一つ。
鰤(ぶり)は冬籠(ふゆごもり)の間の佳肴にとて家々に二三尾を購ひつ。久しき貯蓄に堪ゆるため強き塩を施したれば烘(あぶ)りてその肉を食ふさえ鼻頭に汗するばかりなり。汁は温きが取柄とて、多量の酒の糟をとかして濃きこと宛然(さながら)とろろの如きに件(くだん)の塩鰤の肉の残物を取交ぜて汁鍋の中(うち)に刻(きざみ)入れ、煮立の湯気の濛々たるをそのまま大なる塗椀に装出(もりいだ)し、一家打寄りて之を啜る晩食の一室には時ならぬ霞棚引きて朧月(おぼろづきよ)の趣あり。されば、三椀の熱羹(あつもの)に春風忽ち腸胃に入りて、一夜の春を占むるを得べく、酒量なき婦女たちはこれにも酔(え)ひて面を染むるもいと可笑(おかし)。
泉鏡花は金沢の生まれ。ここに書かれているのは彼のよく知る金沢の冬の光景である。『北国空』は思いだすふるさとの様子をさまざまに書き記したもの。
単身赴任で金沢に暮らしたとき、近くに泉鏡花記念館があって、何度か訪ねている。もともと日本のものも海外のものも幻想的な話が好きだから、鏡花は嫌いではない。記念館は東茶屋街からも遠くない。ただ、裏通りなので知らないと迷うかも知れない。機会があれば訪ねることをおすすめする。
本日は定期検診日。年末で忙しいから病院など行く暇がないのであろうか、いつもよりもすいていた。いつもの検尿がない。別の日に泌尿器科の検診があるので、不要とされたようだ。予約時間より早く検診が始まったのはありがたい。美人の女医さんはマスクをして咳とくしゃみをしている。どうやら風邪をお召しのようだ。
血液検査の結果は27項目におよぶ。そのうち基準値オーバー、つまりHが5つで、基準値以下の外れ、つまりLが2つであった。それでも美人の(今日は顔がマスクでよく見えないが)女医さんは「まあ合格ということにしましょうか。」とおっしゃる。「γ-GPTの価がちょっと高いですねえ」と首をかしげるので、「私は現役時代200~400でしたから100以下は正常だと思っています」と答えると、「前にもそういってましたね。正月は飲みすぎないように」ということで放免された。飲みすぎない正月など正月ではない、などと本音を云うわけにはいかないので「はい」とだけ答えておいた。
ところで病院で風邪をうつされる可能性は高い。何しろ独り暮らしであまり人に会うことがないから風邪のうつりようがないのだ。帰ったらうがいをして注意することにしよう。医者がかかるくらいの風邪は強烈かも知れない。
病院の現金支払機が故障していて、看護士さんたちが総出で支払いの受付をしてい。思わぬ時間を食った。お陰で本がそれだけ読めたけれど、本に夢中になると呼ばれている声が聞こえなくなる。二度三度呼ばれたらしい。申し訳ないことであった。
朝は検査のために絶食しているので空腹である。帰ってすぐに食事をつくる。買いたいものがあるので一息入れてから再び外出。年末はなんとなく気ぜわしい。
鏡花の随筆集(岩波文庫)を読んでいる(私はいつも少なくとも10冊くらい並行して読んでいる。数ページずつよむ本もあり、途中で読みかけのままものもあり、一気に読むものありで、気の多いことは昔から変わらない)が、その中にどうということもないのに妙に気にいったものがあったので記しておく。
『飛花落葉』(明治三十一年)という随筆集から抜粋された短文。やむなく表記を書き換えているところあり。
十銭の値
金子(かね)といふものは、なかなかに費やしにくきものなりとて、知れるもの語りていふ。窮を極めて数々(しばしば)身に一銭をだも着けざりし折から、三月花咲きて、友より十銭の金子を恵まれぬ。よりて本郷より向島まで花見にとて出掛けたり。思ふさまこの金子つかはむものと、まづ枕橋まで渡(わたし)に乗りて、土堤につき、長堤を、おされおされ歩行(ある)きしが、鮨の値もよくは知らず、ゆで卵子を三ツ囓るにもあらず、言(こと)とひに入る働はなし、持合わせたる価にて得らるるほどのものは、折からの人のすることを見るにつけ、不満足にて欲しからず。船に妓を乗せ三絃ひきたる、するめを裂いて樽を傾くる、羨しとおもふことは、得べくもあらで、半日にして十銭の内わづかに三厘、渡賃に払ひしのみ、余は懐にして帰りしとよ。
本にはあたりまえだけれど中身があって、そこにたとえば百のことが書かれていても、私が読み取れるのは二つか三つであることがふつうで、それは悲しいことながら事実である。だから自分をザル頭と自嘲するのである。
それでも同じ本を読みなおすと、一度目に気がつかなかったことに気がつくことが少なからずある。さまざまに読み散らした他の本が手がかりになり、そして前回かろうじて読み取れた部分が足がかりになって隠れていた宝箱が見つかることがある。それらが自分の中で互いに関係し合うと、世界がほんのわずかに拡がる気がする。おおわれて見えなかった世界がちょっとだけめくれて見えた気がする。
ちくま学芸文庫の『江藤淳コレクション』全四冊を時々開いている。第三巻文学論Ⅰ冒頭の『マンスフィールド覚書 「園遊会」を巡って』などを読んで見ても、以前ならなぜこんなイギリスの女流作家についての評論を自分が読んでいるのか意味が掴めなかった。いまだってほとんど解らないけれど、そこに意味がたしかにあることだけは感じられるようになった。
副題は『東プロシアの旅』。東プロシアというのは過去存在して、いまはない国である。
テーマを持った旅とは何か、それをこれほど高濃度で体験するにはそれだけの語学力と事前の入念な下調べが必要であろう。池内紀といえば目的を持たず、予定もあまり立てずにふらりとひとり旅をすることが多い。その自由さこそが旅の楽しさであることを体現してみせる。
しかしそこにはそれなりに目指すものがあり、それがあってこそ旅に彩りと輝き、充実感が記憶されるのであって、池内紀はわざわざ準備しなくても、それだけの知識がふんだんにあって、見るべきものに出会うこともできるのだ。私にそれを真似ることができるものではない。
この本での旅はその普段のスタイルとは異なっている。いまはなき国、東プロシアの痕跡をひたすら訪ね歩く。その旅は都合三度におよんでいるようだが、文中ではそれを区切ったりしていない。東プロシアとはどういう国だったか、私はまだひとに説明できるほど理解できていないので、この本を読んでもらわないとうまく説明できない。
東プロシアは多くドイツ人が棲みついて発展させた独立国であるが、第二次大戦でドイツが敗戦したあとにドイツ人は追われ、殺され、国は分断されて消滅した。ドイツ人は第二次世界大戦では加害者として指弾されるのが通例だが、実は東プロシアをはじめ1200万人もの人間が国を追われ、殺された被害者でもあるのだ。
その痛切な記憶が封じられて何十年もの月日が経った。哲学者のカントや私の好きなロマン派のホフマンの生きたケーニヒスブルク(現在名はカリーニングラード)をはじめ、さまざまな場所を訪ねてなにがあっていまどうなっているのかが池内紀の目を通して語られる。淡々と語られるからこそ、その感情の内圧を強く感じる。
池内紀はドイツ文学者であるからドイツ語が話せる。だからこそさまざまなひとと出会いながら過去と現在を実体験できる。目的を持った旅とはこうでなければならない。うらやましいと思いながら、それでもこの本に出会うことで彼の追体験をさせてもらえただけさいわいと思ったりする。この本は、できれば誰にも読んでもらいたい旅の本の名作というべきか。
帯にあるように、この本は安岡章太郎の全集や単行本に未収録のエッセイ集第二弾である。第一弾は『雁行集』といい、次に読むつもりで用意してある。落ち穂拾いのようなエッセイ集だから、時代もバラバラだしジャンルもさまざまである。
さまざまなものを見聞きしてなにを感じ、考えるのか。同じことからすくい取れるものが自分の状態によってずいぶん違うものであることは、長い人生を経ると身に沁みてよく分かる。この本は再読である。
今年になって安岡章太郎を断続的に読み続けていて、彼に教えられることがずいぶん多かった。それを手がかりにむかし読んだものを読み直すと、見えなかったものが見えてくる。又、彼が評論した作家の作品を読み直すと、その作品の重さが初めて理解できたりする。夏目漱石の『三四郎』『それから』『門』の三部作がそうだったし、志賀直哉の『暗夜行路』がそうだった。読む楽しさ、その喜びを得られたことがありがたかった。
安岡章太郎は私の道案内人のようである。彼が評論したり言及している作品ばたくさんある。すべてを読むわけにはいかないが、心掛けて読んで見たいし、彼の作品も読み直したいとあらためて思っている。
たぶん誰にもそのような道案内人は必ずあるはずだし、他の人にとってその道案内人は安岡章太郎ではないだろう。師とも先達ともいえるそのような存在は、実は私がそう思うからそうなのであって、そこにあらかじめ案内人として待ち受けているわけではないのである。
いままでもさまざまな道案内人に導かれてきた。そのお陰でいままで見えなかったものが見えるときもある。来年は昭和時代の文芸作品を中心に読む一年にしようかと考えている。先達のものの見方が少しでも身についていれば、それは有意義なものになるにちがいない。
漱石初期三部作(『三四郎』、『それから』、『門』)をようやく読了した。『それから』で友達の妻である三千代と不倫した上で結婚を決意した代助は、父や兄からの経済的支援を絶たれて高等遊民の立場を失う。
この『門』では主人公は野中宗助。宗助は友人安井をうらぎり、その妻御米(およね)と結ばれてひっそりと暮らしている。宗助の父親はそれなりの資産を有していたが死んでしまい、その資産をあずかった叔父にその財産を私されてしまったので、薄給の役所勤めで生活は苦しい。その叔父も死に、自らの取り分の主張も強く言い出せず、叔母や従兄弟に苦情をいうこともしない。
設定は異なっていても、この『門』が『それから』のそれからであることは明らかだ。その前に『それから』が『三四郎』のそれからであるとはあまり思えなかった。だから私は若い時にこれを読んで、この『門』の内容が『それから』だと思いこんでいた。そしてこの『門』の主人公宗助の葛藤は若い私にはよく理解できなかった。理解できなかったが心に深く残るものがあった。
今回読み直して、というより初めて読んだに等しいが、宗助の葛藤、御米の心持ちがずいぶん分かった気がしている。巻末に柄谷行人が解説で、宗助と御米の心のすれ違いを指摘している。男と女の違いということもあるだろうという。もちろん違いがあるのはあたりまえだが、二人が互いに相手をかけがえのないものと考える点において、少しもすきま風のないことを強く感じた。二人には毛筋ほどの後悔も見えないと感じた。
柄谷行人は『それから』に多少の明るさを、そして『門』に暗さを読んだようだが、私には『それから』に代助の利己主義的な考えばかりが見え、宗助にある、諦めのなかの希望を見たような気がする。その希望は御米の存在による。もちろん不安は決して払拭できないから、二人の上に蔽いかぶさる黒い雲のようなものは晴れることはない。それでも二人の間には暖かさ、心の交流があると思う。少なくとも互いに対して不信はない。
宗助が禅寺にこもるラストは、なにものももたらさないように見えるが、逃避ではなく現実を直視する勇気と心の強さを少しだけもたらしたのではないか。柄谷行人は、最後のシーンの御米の春の到来を喜ぶ姿と「うん、しかし又じき冬になるよ」と答える宗助の言葉にすれ違いを見るけれど、宗助は投げやりや諦めでこのことばを吐いたわけではないはずだ。
三部作表紙。絵はすべて安野光雅。
ひとは自分が一番大事である。自分より大事なものがある、と云うひともいないではないだろうが、その自分より大事なものは自分にとって大事なものであるはずで、つまりは自分が大事であることにかわりはない。
社会生活が正常に営めないほどの精神疾患にかかっている人の話をテレビで観ることがしばしばある。いまは正常に社会生活を営むことが困難なひとにそれぞれ精神疾患の病名をつけるから、初めて聞くような病名も多い。多くのひとが他人に理解されない苦しみを抱えて苦しんでいる。
その苦しんでいるひとの言葉を見聞きしていると、自分にとらわれているように感じられる。ひとは自分が大事だとしても、社会的に生きる上では外部とある程度の折り合いをつける必要があるのだが、生き難くなっているひとはその外部が見えにくくなっているか、又は全く見えなくなっているのではないか。そのことを非難しようというのではない。気がつけていないのかも知れないし、分かってもどうしようもないようである。
蟻地獄の底にいるように、もがいても抜け出せないからこそ苦しんでいることは見て取れる。しかし見て取れたとしてもそのとらわれを真に理解するのはほとんど不可能だ。
クレーマーやストーカーなどを見ても、やはり自己中心で他人が見えていないことは同様である。自分の作り上げた世界で自分にとらわれていて、それが社会的害におよんでいることに気がつけない。ネットなどの言葉の暴力も同じような構造かもしれない。
気配りや思いやりといった、社会を生きる作法のようなものが軽んじられて久しい。人権を盾に自己主張を賛美し、欲望を解放することを勧めてきたことが、このような自己にとらわれる人々を拡大再生産しているような気がする。
社会をどうすべきか、などということは私に分かるはずもないが、生きにくい世をさらに生きにくく生きる生き方をあえて選ぶ勁さを自らに持つよう努めるしかないと思っている。何も問題なく生きられていることこそが幸福だ、などというのがこの世の中というものらしい。
もちろん報道されていることしか知らないから、そこから考えるしかないのだけれど、とても非難する気になれない。元農水次官の息子殺しの事件のことである。私は情状酌量でもっと軽い罰だと思っていたので、6年では重すぎる気がする。
殺された息子の姉も自殺に追い込まれているし、母親は鬱病となった。近所の子供や周辺の人にいつ危害がおよぶか分からないおそれもあったという。犯人にすれば、息子が他人に見えた時、その男は妻を病気に追いやり、娘を殺した男としか思えないだろう。さらに被害が外部におよべば、その責任は自分に問われる可能性が高い。
息子は病人で、病人を看護するのが身内のつとめであるというのか世間の見方である。だから事件のあとで「もう少し誰かに頼ったりすべきで、方策があっただろう」という非難を平気でする。自分をこの元農水次官の立場において考えることをしない、またはできない人たちだろう。
私が彼の立場に置かれたら、どうして同じことをしないと断言できるだろう。息子を殺すか自分が死んでしまうか悩むだろう。どちらも同じことである。それなら息子を手にかける方が世の中のためだと考えないことがあろうか。
この息子のような人間を収容することを本当に考えないと、第二第三、つぎつぎに同様の事件が起こり続けるだろう。素人にこのような病者を看護することは不可能なのは分かっているのにその責任をそこまで問うのか。
「いくたまさん」と愛称される生國魂神社は地下鉄の千日前線谷町九丁目の駅から近い。先日、天王寺で友人と会う前にこの神社から天王寺までの周辺を散策した。
初めて訪れる。
初詣の準備もできているようだ。
境内には天満宮をはじめとしてたくさんの社がある。若い女性たちが連れ立って一つひとつ叮嚀にお参りしていた。写真は鞴(ふいご)神社の絵馬。珍しい。
これは浄瑠璃神社。これも珍しい。一つひとつあげていくときりがない。
織田作之助の像が立っていた。
こちらは坐った井原西鶴。
生きているかのような写実的な顔。落語家のようだ。
このあと南へ歩こうとして西に向かって歩いてしまった。私は方向音痴なのである。気をつけようと思うほど、とんでもない間違いをする。
正式の題名は知らないけれど、「この世で一番肝腎なーのはすてきなタイミング、タイミング」というフレーズのある歌があった。ずいぶん昔の歌だけれど、頭に残っていて忘れられない。
どんな条件下でも、目を瞑れば即座に眠れた私が、寝るタイミングを失して眠れなくなることが多くなって久しい。ときどき睡眠薬を服用するようになっていることは以前書いた。
最近、晩の八時か九時頃急激に眠くなる。すぐに布団を敷いて横になるのだが、そのタイミングを上手く捉えられないと、横になったとたんに眠気が霧散して今度は眠ろうと思っても眠れなくなる。そのへんのタイミングの摑み方になれてきた。それに眠くなるのを見越して風呂上がりにすぐ布団を敷いておくようにしている。だから入眠に成功することが増えている。
しかしそんなに早く眠りに入れば早く目覚めるのは道理で、たいてい夜中の二時か三時には目が醒める。そんな時に考えごとをするとストレスになるので、音楽を低くかけながら本を読む。二時間余り本を読んでいると、また眠くなるので再び眠る。
こうして私のあまり好きではない朝寝坊をすることがしばしばになっている。朝寝坊をすると生活のリズムが狂うのである。
タイミングとリズムと、どちらも大事だと思うが、「一番肝腎なーのはすてきなタイミング」だというのだから、いまはタイミングを優先している。
鳴子温泉街の西方、山の上に潟沼という湖がある。鳴子温泉、または東鳴子温泉から狭い山道を登る。
前夜降った雪が、温泉街はほとんど溶けてしまったのに、ここにはまだ残っていた。雪に触るのは今シーズン初めて。
左手奥に白く煙を噴いている場所がある。あそこまでいくつもり。
右岸奥には源泉の湯煙が立ち上る。このすぐ上にクレー射撃場があり、普段は断続的に射撃音が響くが、冬は閉鎖されているから静かである。
この先立ち入り禁止の立て札。硫化水素の臭気が立ちこめている。今日はほとんど風がない。向かい風だと注意が必要である。
こんなふうに噴気孔がいくつもあり、黄色い硫黄の結晶が見られる。
正面に立つ。長居は無用。
沼の岸辺の帰り道。
峠の下り道のところに斎藤茂吉の歌碑がある。
みづうみの岸にせまりて硫黄吹く
けむりの立つは一ところならず
昨日は大阪の友人達と会食した。年末ということもあったし、土曜日ということもあって、どこも人が多かった。会食前に半日、天王寺界隈を歩き回ったので、待ち合わせ場所に着いた時には足が棒のようになっていた。なんだか身体のバランスが悪くなっていて、それが歩き方に影響し、疲れ方が大きくなっている気がする。
友人達と歓談しているとあっという間に時間が過ぎた。同じような話を繰り返しているのにどうしてこんなに楽しいのだろう。友達というのはありがたいものだ。
帰りはずいぶん遅くなった。それでも近鉄の車内で爆睡したので酔いは少し醒めていた。たぶんいびきをかいて寝ていたと思う。回りの人に迷惑だっただろうが当人は寝ているから分からない。
酔い覚ましにお茶を飲んでぼんやりしていたらさまざまなことを考えた。考えたくない懸案があるが、考えたら解決する話でもないのでそれは置いておいて、来年には七十の大台になるので、区切りとして経済的なことなどを考える。
いま残されたわずかの貯えと年金だけでどう生きていくのか。今年使った金は想定をかなり超えてしまった。こんなペースでは貯えはたちまち底をついてしまう。こういう生活ができるのは、たぶんあと三、四年というところか。遠方への海外旅行に行けるのは、経済的にも体力的にもそんなところまでだろう。その経験を精一杯味わって人生の思い出にしたい。
部屋を見まわすと、気の緩みもあるのだろう、ずいぶん散らかりはじめている。一気に片付けるのは無理である。手順を決めて、そろそろ大掃除を始めなければならない。来週には病院に行かねばならないし、年賀状もまだこれからだ。さまざまなことを片付ける日常から踏みはずして転落しないように、なんとか踏みとどまらなければ、などとぼんやり考えている。
すでに結婚して入籍している息子が来年結婚式を挙げることになって(式は挙げないということだったが気が変わったのだろう)、その式で使うために自分の子どもの頃の写真が欲しいという。
その頃はまだデジタルカメラはなかったから、すべてフィルムで撮った写真ばかりである。さいわい多くがスキャナーでデジタル化してある。適当にセレクトしてDVDにした上で郵送した。デジタル化しておいてよかった。
ところで以前繰り返しブログに書いたことだが、DPE屋のいい加減さにあらためて腹を立てている。フィルムに傷があったり水洗が不十分で著しく劣化したものが少なからずあり、補整しても修復が不可能だったことを思い出したのである。黄色く変色したり残った薬品の結晶がこびりついていたものもある。もう一度叮嚀に水に浸けておいて水洗してみたけれど年月を経ていて、ほとんど効果は無かった。
特によく撮れているものにそういう劣化が見られると、取り返しのつかなさに怒りがこみ上げる。自分なりにちゃんと撮れたと思っているのに全体にピントが合っていないような写真や、色目が薄かったりざらついた写真の仕上がりのことがしばしばあって、あちらこちらDPE屋を替えてみたりした。あまり改善しないから、カメラが悪いのと腕が悪いのが不出来の理由だと思った。最後にはプロも使うラボにふつうの倍以上の料金で依頼したが、そのラボもプロのみの依頼しか受けなくなって頼めなくなった。
フィルムスキャナーが出始めてまだ高価だった頃、購入してデジタル化し、プリンターで印刷して驚いた。とてもきれいに撮れているのである。腕が悪いのは仕方がないが、カメラか悪いわけではなかったのである。
学生時代、寮に引き伸ばし機があったので、自分で現像と焼き付けをしていたからどうしたらひどい写真になるのか、フィルムはどう手抜きしたら劣化するのかよく分かっている。当時は白黒だったけれど、カラーフィルムは特にデリケートだ。
DPE屋は薬品をけちって、疲労した液を使い、水洗も叮嚀にせず、ピント合わせもいい加減にやっていたのだ。そのことの結果がどれほどの被害となるのか彼らは分かっていなかった。街に乱立していたDPE屋の多くがデジタルカメラの普及で消滅した。自業自得である。デフレの結果がDPE屋の退廃に繋がり、デジタル化を促進することになったともいえる。
その取り返しのつかない被害の結果をあらためて眺めて怒りを感じているのである。つぶれたDPE屋は自分の仕事を手抜きしておいて仕事を失い、デジタル化やデフレを恨んでいるだろうが、自らその事態を招いたことに気がついていないだろう。すべての仕事について同じことがいえる。安かろう悪かろうは悪である。
旧有備館の庭園は私の最も好きな庭園で、その有備館のある岩出山は仙台伊達藩の支藩があった場所。
以前このブログで伊達政宗がここで生まれたようなことを書いたが、私の間違いで、伊達政宗は出羽・米沢で生まれている。豊臣秀吉にこの岩出山に移封された。のち仙台に居城を建ててそちらを本拠地とし、岩出山に支藩を置いて四男の宗泰をこの岩出山の藩主とした。
有備館は十代藩主のときに、その岩出山伊達藩の学問所として建てられた。
有備館入り口。このすぐ近く(写真を撮っている私の後ろ)にJRの陸羽東線・有備館駅があるのでとても便利である。駐車場も広い。
玄関から邸内を撮る。
庭園を望む中の間。
中の間から上の間を撮る。
欄間は決まり文句でいえば、モダンで瀟洒。
今回床の間に下がっていたのは、松島・瑞巌寺の「奥の細道」の石碑の拓本。
上の間から庭園を望む。
透かし彫りが外の光を受けてシルエットになる。
廊下に立って庭園を見る。この廊下に座り込み、ぼんやり時を過ごすのが至福の時間。ほんのひとときながら煩わしいことを忘れる。
芭蕉像。
平泉・中尊寺の青忳の句 人も旅人 われも旅人 春惜しむ
の句はこの
旅人と わが名呼ばれん 初しぐれ
を念頭に置いているのだろう。
有備館の建物が真新しいのは、東日本大震災で完全倒壊してしまい、一から再建されたため。
鳴子で私が滞在した湯治宿の主は、ちょうど用事でその地震のときに有備館にいたという。「藁葺き家根に重い春の雪が乗っていたので耐えられなかったのだろう、目の前でメリメリと音を立ててつぶれてしまった」、と語った。
昨夕は九時前に眠くなってそのまま寝んだ。この頃はなかなか眠れない日が多いのに、珍しくそのまま熟睡した。夜中一時過ぎに寝汗をかいて目が醒めた。おぼえていないけれど、なんだか嫌な夢を見ていた気がする。下着を着替えて、すぐ眠れそうもないのでコーヒーを飲む。そういえば最後の満月が見られるはずだとベランダに出てみた。
廂のふちから沖天に冴え冴えとした月を見た。いつものように黄色みや赤みを帯びた月ではなく、青白い月で、なるほどこれがコールとムーンかと思った。
四時前になって再び就寝し、朝寝をした。テレビでイギリスの総選挙のニュースを見た。保守党の圧勝のようである。イギリスはついにEUを離脱することになりそうだ。ところで労働党のコービン代表はもともと離脱派だったように記憶するが、わたしの勘違いだろうか。
藤原二代基衡、三代秀衡が造営した毛越寺は世界遺産である。中尊寺から近い。むかしはたくさんの伽藍があったが、ほとんどが焼失して、いまは小さなお堂のいくつかが残るのみ。庭園が素晴らしい。その庭園を歩くたびに過去の藤原三代の栄耀栄華を夢想する。大好きな場所である。
復元図の看板も色褪せ、絵の具も剥げかけている。私が幻視する毛越寺はこの復元図を元にしている。
大きな池はいつもより水が多く、風がないので鏡面のように景色を写している。
むかしここにも伽藍堂宇があった。
ここも堂宇の跡。礎石だけが残っている。
常行堂の前にあるお地蔵様。やさしい顔をしている。
堂の外から阿弥陀如来像を撮らせていただいた。実際はもっと暗い。
池に置かれた石をいれて常行堂を遠望する。
左奥は開山堂。慈覚大師像が安置されている。
東日本大震災のとき、これらの石も倒れてしまった。一度池を干し上げ、すべてが修復された。
いま抱えている懸案について考え続けている。そのことについて、観念的で抽象的だが、考えの基準について記しておきたい。
ものごとの出発点、前提になっていると思っていることが、実は本当に前提なのだろうかと考えることも必要だ。別の出発点を考えることは、すでに事態が進んでしまった場合に意味が無いように見えるが、これからのことを考えるための判断におおきく影響することであって、無意味ではない。
そのことを、前提を疑うことのできない相手に理解させるのは、極めて難しい。交渉ごとでは理解しようとしない相手ほど厄介なものはない。自分が正しいと確信しているからこちらの言い分が理解できない。それを論理的に説得して論破したとしても、怨みだけが残る。なんだか某隣国との話のように読めるが、実は私のことである。
だからそういう交渉ごとはしないに越したことはないのだが、避けて通れない場合というのが或るもので、いま私はそういう状況にある。
先週のNHKは、連日首都直下型の巨大地震の特集を大々的に放映していた。大きな地震が遠くない将来に必ず起こるだろうと私も考えているので、ほとんどの番組は録画したりリアルタイムで観た。合わせて南海地震や東南海地震のシミュレーションも放映されたので、他人事とはとても思えない気持になった。
日本全国でこの特集を観てあらためて地震について考えた人はたくさんいたことと思う。少しでも多くの人がいざというときに備えをすることになれば幸いである。
沢尻エリカが麻薬所持で逮捕された時は、安倍政権に対する桜を見る会への非難から眼を逸らさせるために、タイミングを計って逮捕したなどと言っていた人がいた。
今回の地震特集についても同様の指摘が出るかと思ったら、いまのところそういう言い立てをする人はいないようである。
これほどリアルに、かつ詳細に地震のシミュレーションを行って対策を国民に喚起するのはどうしてなのだろうか。番組では最悪の事態が起きた想定であるから、多少はこれより被害が軽微であるかも知れない。とはいえかなり深刻な事態になることが確実である。もしかしたらそのような地震が迫っていることが何らかの兆候により、実は専門家たちにはすでに分かっているのではないのだろうか、などと勘ぐってしまう。
ところでこの地震特集を真剣に観た人は、すでにその備えをしているような人が多くて、いざというときについても色々家族で話し合い、覚悟も決めている人だろう。そして地震のときにパニックを起こし、デマに振り回されて拡散するような人は、実はこのような地震についての特集番組を観ないのではないか、などと想像している。自ら学ばないもの、学ぶ機会を与えられてもそれを無視するものこそが、群衆として軽挙妄動するものたちである。
世の中というのはそういうものだと承知しているけれど、その人たちのせいで死ななくていい人がたくさん死ぬことのないことを願う。
漱石前期三部作『三四郎』、『それから』、『門』を読みかけて、この『それから』だけに一週間以上かかってしまった。『それから』は続編という意味の「三四郎のそれから」ではない。三四郎は熊本出身であり、大学進学で上京してきた青年であるし、『それから』の主人公の長井代助は東京生まれの、やや生活にゆとりのある中産階級の、父親の資産や働いている兄の金で、働かずに庭のある家で一人で暮らす高等遊民である。
この小説では『三四郎』にふんだんにあったユーモアは、全くといっていいほど見られない。代助の自己中心的な世界観による心理描写に終始している。ある意味で堂々巡りの、出口のない世界がそこにある。高等遊民である自分という者に対する代助の不安とは何なのか。それは実社会、現実社会を傍観者的に見る男の、逃避と矜持の矛盾ではないか。安岡章太郎が『暗夜行路』の時任謙作を『それから』の長井代助に比定させたことにようやく得心がいった。
この小説は「姦通小説」だとされるが、不倫は実際の形、つまり肉体関係としてはまだ成立しないまま物語は終了する。それと同時に彼、長井代助の高等遊民としての特権は剥奪される。だから解説の柄谷行人も書いているように、この小説は『三四郎』のそれからであるとともに、この『それから』は、『門』につながっていくという意味でのそれからでもあるのだ。
三部作のうち、『三四郎』と『それから』だけを読んで、『門』は読んでいないと記憶していたが、実は総て読んでいたようだ。そして、私がある意味でもっとも頭に引っかかっていたのは『門』であり、『それから』の中のシーンではなかったことが分かった。それをこれから読んで今の自分がどう解釈することになるのか楽しむことにしよう。それは高等遊民がその経済的基盤を失って現実生活とどう向き合うことになるのかという物語となるだろう。
昭和16年(1941)78年前の今日、12月8日にハワイの真珠湾を日本が奇襲攻撃して太平洋戦争がはじまった。
そのことを意識して今日を迎えた人がどれほどいるだろうか。口では戦争反対を声高に叫びながら、いつどうして戦争が起きたのか、よく知らない人も多いだろうし、そもそも戦争ははるかなむかしの話で、自分とは関係ないと思っている人のほうがさらに多いことだろう。
私は母から空襲をうけて焼け出された体験や、実際に艦載機から銃撃を受けた体験の話を子供のときから繰り返し聞かされて、自分の体験のように疑似記憶ができている。だからこのブログで繰り返し書いているように、どうして日本は勝てるはずのない戦争を欧米に対して始めてしまったのか、を大学に入ってからの自分なりのテーマのひとつとした。もうひとつ大きなテーマとして、中国文化大革命とは何だったのか(調べはじめた時はまだ終わっていないどころか真っ最中だった)をリアルタイムで調べて考えた。
ともに歴史に関わることだが、中学生時代は明治の初めまでで歴史の授業は終わってしまい、大正以後の授業はなかった。近現代史はふれるのが面倒で、教師は「どうせ高校受験には出ないから必要ない」と公言していた。高校でも軽く流す程度で、私は太平洋戦争より以前に日本が中国と戦争していた、という知識すらない状態だった(そもそも教科書には「事変」であって戦争では無いかの如くに記載されていた)。
「近現代史にふれるのが面倒」なのは、事実としての歴史を語ることと、イデオロギー的に語ることのせめぎ合いが教育界にあって、当時の歴史教育や歴史学者が近現代史をイデオロギー的な正義を元に評価するのが主流で(今もそうかも知れない)、過去を現在の価値観で批判するのが歴史だ、という日教組的な教師が幅を利かせていたからだ。戦前の歴史教育とまさに裏返しの、しかしだからこそ、よく似た観念的な歴史教育が行われていたとも言える。これこそが却って戦後の教育をうけた人たちから近現代史を奪うことに繋がり、中国や韓国から「日本人は歴史を直視していない」と非難されることにつながっている。知らないものは直視もできないのだ。そういう彼らも、自分がそのような観念的な歴史教育をうけたことを自覚できていないことは同様なのだが。
自分なりにさまざまな立場に立った近現代史や戦史などを読んだ。やがて太平洋戦争の前の日中戦争について、そして明治時代、さらに明治維新にいたる幕末に関する本へと時代を遡り、派生してついには中国へと興味が移ってしまったが、近現代史についてはまだ不勉強だと自覚している。
思えば、いま明治を生きた人たちの文学を読み始めているのもその精神と、時代をどう見ていたのか、その作家や作品の登場人物の眼を通して感じたいという思いがあることに、このブログを書きながら気がついた。
日常を維持するための自分の状態を確認するためのバロメーターをいくつかきめている。布団を毎日必ずたたむか(万年床にしない)。朝晩の歯磨きを欠かさずしているか。食後の食器を流しに放置していないか。下着を一日一度は交換しているか。朝食を欠かさず摂っているか。
ほかにもあるけれど、してあたりまえのことがおろそかになることは由々しきことだと思っている。人一倍横着者の自分は、一度歯止めを失えば立て直すのが難しいだろう。
なぜこんなことをあらためて書きとめるかといえば、このごろやや危うい気配があるからだ。今はそれに気がつくことができる。十年後も自分をきちんと律していけるのかどうか。いつか自分をコントロールしきれないような破綻が来るかもしれない。意識し続けることがその破綻を少しでも先送りすることにつながるのではないかと思ったりしている。
野党合流の新党名について、いささか冗談めかした提案を書いたが、そのなかに「政権を目指す党と、批判するだけの党は全く違うはずだ」と記した。その理路について説明をしていない。ちかよさんにいただいたコメントに返事として答えたものを下に再録する。
「今回面白いなと思ったのは、あの社民党を取り込もうとしていることです。
社民党はすでに役割を終えて消滅しかかっている党であり、その主張は時代錯誤そのものです。
自民党に対抗するには疑似自民党的な党を打ち立てないと、国民の多数の支持を受けることはできないと思います。
それについて最も抵抗勢力になるのは旧社会党勢力で、そもそも民主党がなにも決められなかったのは旧社会党左派勢力の協調性のなさによるものでした。
それなのに最も左派的な生き残りの(ほとんど廃人に近いお年寄りばかりですが)社民党を取り込むというのは、癌細胞を取り込むに似た愚かなことで、政権を再び取ると言うことの意味が理解できていない証拠だと思います。」
国民はいま大きな変革を望んでいない。現実に立脚した政党として、不満があっても自民党を選ぶ人が結果的に多数なのはその故であろう。それなら自民党に換わりうるのは自民党であって、本来なら自民党の中に現安倍政権に換わりうる勢力が出て来ることが望ましいが、どうもそれが具体的に見えていないことが今の日本の問題だろう。もし野党大合流が成立して(かなり難しそうだが)その新党が目指す姿は、自民党とそれほど大きく違わないことがあるべき姿ではないだろうか。私は、そうでないと国民の多数の支持は得られないと思う。
そういう意味で最も疑似自民党と相容れないのは社民党であり、旧社会党左派出身の議員たちであり、枝野氏であり、福山氏であろう。私の印象では安住氏などは本当はそれに対応できるはずの能力と知性があるようであるのに、社民党的な言動に終始して、みていて哀れであり残念である。安定よりも政権批判を優先する人たちにとっては新党は希望かも知れないが、いまのままでは旧民主党以上に危うく見えてしまう。多くの国民にとってもそうなのではないか。
同じ話に出会って、ただ素直にすごいと思うか、その話を理屈に合うように解釈して納得するのか、それによって人生のたのしみ方はずいぶん違ってくる。
これは泉鏡花の随筆集に収められていた話の断片。
「或時四五人が集って、これまでに一番凄いと思ったのは、箱根の山を朝早く越した時だった、と一人がいった。
それは何(ど)うして、というと、霧が晴れて行く中から、足許に見える山松が底も知れない深い谷へ、橋になって生えて居る、その一枝、凡そ七八間もあるだろうと思う、長く伸びて然も細いのが谷の上へ蔦かずらの一条(ひとすじ)もからまず、何にもない処まで差出て居た、その突さきと思う所に、新しい草鞋(わらじ)が一足、二ツ並べてあった」
湯治のつもりで泊まっている湯宿の部屋は二階である。二階の窓から見えるのは、田んぼとそのずっと向こうに白い大きな建物と左からと右から連なる山々である。左手奥は川が流れているが窓辺からは見えない。
宿では朝飯しか出ない。昼は外へ出るついでにどこかで食べる。晩はコンビニや煮出し屋で買った総菜をつまみにビールや酒を飲む。酒は宮城の地酒、好きな「浦霞」を飲む。晩というより日が傾きだしたら飲み始めるというところか。
窓は東向きなので朝日が眩しいが、夕方は背から日が射して田んぼの向こうの白い建物の壁が眩しく光る。そうしてその白い壁の光が輝きを失いはじめると景色全体の光度が一気に落ちていく。左右の山の上に光が残る。山に明暗の光の横線がくっきりと見えて、その線がゆっくりと登って行く。それを見ながら、酒に酩酊していく。これが私の湯治である。
ブログではまだ東北にいるけれど、リアルタイムでは一昨日の晩に名古屋に帰着している。鳴子温泉から自宅まで750キロ前後あるので、ふつうならどこかで一泊したいところだ。行けるところまで行こうと走っていたら案外疲れもしないで帰ることができた。しかしながらハンドルを握り続けた手が、いつまでも微妙に痺れたような震えたような感触が残っていた。
帰るコースは東北道を南下するものと、日本海回りとがあって距離はほぼ同じくらいである。今回は日本海回りを選んだ。
日本海へ向かう途中で出羽三山が見えた。右の白いのが月山である。
思い切り月山をアップしてみる。月山は全くの冬景色。月山は夏スキーができるくらいだから雪が多いのである。あたりは雪雲が蔽いかぶさり、夕暮れのように暗い。
この辺りの山の向こうに羽黒山や湯殿山があるのだろうか。羽黒山には登ったことがあるのだが、よく分からない。
昨日のニュースで見たら北海道や東北北部の日本海側は大雪らしい。一日遅れだったら、雪の中を走ることになったかも知れない。
山形県の新庄から山越えすると途中に瀬見温泉というひなびた温泉がある。義経一行が平泉に落ち延びる時に立ち寄ったという。一度は立ち寄りたいと思いながら道が狭そうなのでまだ寄っていない。車を手放して列車旅をするようになったら、ゆっくり立ち寄ろうと思っている。その瀬見温泉からすぐ先に瀬見峡という川の景色の好いところがある。ドライブインもあり、鮎の塩焼きや蕎麦も楽しめる。夏は河原で鮎の梁(やな)も仕掛けている。
上流側、つまり宮城県方向。
下流側。この川は最上川と合流して日本海に注ぐ。
ここが梁を仕掛けるところ。
母と何度かここに立ち寄った。ここで撮った母の写真が遺影に使われた。とてもおだやかな優しい顔で写っている。
山は冬景色。この翌日、雪が降った。今は雪を戴いているだろう。
鶴岡のビジネスホテルの朝のバイキングはそこそこ美味しかった。朝飲まなければならない糖尿病や高血圧や前立腺の薬、六種類は、どういうわけか腹に来る。だから腹が治まるのにしばしかかる。医者に相談しているが、今の薬がいちばん身体に合っているようなので、できれば我慢するようにいわれている。仕方がないので朝はゆとりを持つようにせざるを得ない。一度治まればたいていその日は大丈夫である。海外旅行でつらいのは、その治まりの余裕を持てないことが多いことで、その不安が反復していささかつらいこともある。
この日、時間的に余裕があるので鳥海山を見に行こうと鶴岡から北上する道を走り出した。ところがナビは「通行止めの区間があります」と繰り返す。鳥海山の登山口の広い駐車場のよこの展望台から見る崖は絶景で、そこへ行きたかったが、すでにそこへ行く道は閉鎖されているようだ。あとで、でんでんとっちさんから、鳥海山への道は11月はじめに閉鎖されます、と教えていただいた。またの機会に行くことにする。
酒田から東に向きを変えて走る。これが鳴子へ向かう国道47号線で、ほとんどロスなしである。自動車専用道路がずいぶんつながっていて、信号なしの道を快適に走る。
空は黒い雪雲がどんよりとおおっている。酒田から余目(あまるめ)に到る道の向こうに左からの山並みと右からの山並みが切れて、逆三角形に空が輝いて見えるところがある。如何にも冬景色の象徴に見えて写真を撮りたいと思ったが、車を駐めるところがない。47号線が最上川に合流するあたりにきたころ、その輝く逆三角形が崩れてやがて消え去ってしまった。
清川村を過ぎる、もうすぐ古口だ。ここは父のふるさとの角川村に近い。角川(つのがわ)という川は古口で最上川と合流する。古口は最上川船下りの乗船場のあるところだ。本合海(もとあいかい:芭蕉が船下りに乗ったのはこの本合海)を過ぎて新庄へ、ここから奥羽山脈を越えれば分水嶺の向こうは宮城県で、峠を下れば鳴子温泉である。その途中の瀬見峡に立ち寄る。
夏目漱石の前期三部作『三四郎』『それから』『門』を読み直しすことにした。きっかけは志賀直哉の『暗夜行路』で、そのいきさつはすでに書いた。だから『それから』と『門』だけ読みなおせばいいのだが、せっかくだから全部読むことにした。
『三四郎』を読むのは少なくとも三回目だが、初めて読むように面白く読めて、しかも感ずるところ、考えさせるところがたくさんあった。いったい前回前々回は何を読んでいたのだろうかと思ったりした。然し前回前々回もたぶん色々なことを感じたり考えたにちがいない。そのことを忘れているだけかも知れない。
明らかに『それから』と『門』の二作と、『三四郎』は小説としての雰囲気が違う。違いながらどうして三部作と呼ばれるのか。近代的意識を違和感なく身につけた青年が、次第にその近代と明治以前との矛盾との相克に悩みはじめ、屈折していく物語がこの三部作であろうかと思う。そしてすでにこの『三四郎』にその矛盾が呈示されているといっていい。
物語の中で、美禰子を「イプセン流の女」という者が少なからずいる。つまり『人形の家』のノラであり、自立する女性である。明治時代とはそういう時代なのだと実感されるところだ。その美禰子も三四郎に残り香を残して嫁に行く。迷える羊(ストレイシープ)という言葉が三四郎の心の中でリフレインする。
西洋化する日本、激変する社会(養老孟司流に言えば「都市化」する社会)、日本人としての立ち位置にとまどう知識人、まさにストレイシープである。そしてその迷いの自覚すら持てなくなった現代の日本人は、いったい自己の確立を達成できているのだろうか。
金沢から最終目的地の鳴子温泉(宮城県北部)までは800キロほどあるので、若い時はいざ知らず今は一気に行くのはつらい。そこで、いつも通過するばかりの鶴岡に泊まることにした。鶴岡といえば湯野浜温泉に二度ほど泊まったことはある。今回は街中のビジネスホテルに泊まって、鶴岡の街で一杯やりたかった。
夕刻、そろそろ出かけようとしていたら、夕陽が山の端に落ちたところで、あたりが黄金色に染まった。
日が落ちきると街の灯が輝き出す。星もちらほらと輝きだした。
鶴岡には山形大学の農学部がある。学生時代、農学部の男と一年間同室に暮らした。山形大学は教養部時代は山形市で、そのあと工学部は米沢に、農学部はこの鶴岡に移る。彼と別れてから暫く年賀状のやりとりをしていたが、それも途絶えた。今どうしているだろうか。
副題は『脳化社会の生き方』。いくつかの講演集で話したことを記者が記録して文章にした。それを一度本として出版した(『脳と自然と日本』白水社)。それを養老孟司自身がもう一度補筆改定してまとめ直したものがこの本である。都市と自然、自然としての身体、都市と脳については今まで繰り返し彼が考えてきたテーマで、それに就いての彼の考えが色々な切り取り方で説明されている。
語られているこれらのテーマについて読み取るには、少しレベルの高い思考が必要であり、彼の他の本よりも読み難いかも知れない。すらすら読めるような彼の本でも、本当に彼の言いたいことを理解するためには結構知識や思考が必要なのだが、あまりそれを意識せずに読み飛ばして、さて何が書かれていたのか、などととまどうこともある。そういう意味では、歯ごたえの少しあるこの本などはいい試金石だろう。そこから読み飛ばした本を読み直すと新しいものの見方を知ることができるかも知れない。
こういう本の善し悪しは、その本で新しい視点を得られるかどうか、今までと違うものの見方を獲得できるかどうかにかかっている。意見が違ってもそういう新しい視点に目覚めるきっかけになるのならば、その本は自分にとって善い本である。自分の意見と同じで、読むと快感だからその本を読むというだけでは何冊読んでもあまり意味は無い。ただの娯楽であり気晴らしである。
自然を見る眼、そのことを志賀直哉にあらためて教えられ、いままた養老孟司に教えられる。自然を見る眼がいままでと少しは変わっているだろうか。
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