谷崎潤一郎『春琴抄』
この作品は若い時に読んだ記憶があるけれど、今度読み直していったい前回はなにを読んでいたのだろうかと思った。物語は作者が春琴の墓を訪ねる場面から始まる。
春琴の本名は鵙屋(もずや)琴、鵙屋とは大店の薬種商である。春琴は師匠から貰った号であり、明治十九年に行年五十八歳で没している。大阪下寺町にある鵙屋の菩提寺を訪ねた作者は、そこに春琴の墓を見ることができなかったが、その寺から坂を登り、生國魂神社へ至る途中の高台にある墓を教えてもらう。そこに春琴の墓、そして横に半分ほどの大きさの温井検校(佐助)の墓がひっそりと立っていた。本当に春琴の墓があるのか、作者の創作なのか、私には分からないし、分からないで特にかまわない。
昨年ちょうどこの生國魂神社から天王寺に至る寺町大地を歩いたので、書かれている風景に見覚えのある心地がした。こういうことが物語りを読む上でずいぶん大事な経験だと実感する。
春琴と佐助の物語は恋愛物語の極地のような話ともいえ、そのストーリーばかりを追って記憶していた。それはそれで間違いはないのだけれど、どうして佐助が自ら盲目になったのか、そして盲目になることで至福を得たということがどういうことなのか、それを今回読み直してようやく得心した。
盲人が出て来る話を読んでいるとつい自分も目が見えないような心地がするし、別の登場人物まで目が見えないかのように感じてしまう。その不自由さはいかほどかと思う。音曲という世界だから目が不自由でも、いや、不自由だから初めて感じられる世界があるのかも知れない。自分はこうして本を読んだり映画を観たり写真を撮りに旅に出たりするから、目が不自由になることなど怖ろしいことだと思う。
愛の究極の形は自己犠牲であり、その自己犠牲が相手に受け入れた時に至福が訪れる。その至福の境地は相手をも共に高みに導く。視力を失うことで新しいものが見えるようになるという寓意は、物語だからこそといえるけれど、この噺を聞いた天竜寺の和尚が、「転瞬の間に内外(ないげ)を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為に庶幾(ちか)し」と云ったというのが結びである。これも創作だろうか。
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