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2020年2月

2020年2月29日 (土)

協力するときはしてもいいのに

 マスコミ、そして野党、特に立憲民主党は政府の新型コロナウイルス対策に批判を繰り返しているように見える。経験のない事態なのであるからどんな対策にも完璧というものはない。問題点を指摘しようと思えばいくらでも材料があるから面白くて仕様がないのだろう。

 

 しかし国民が困っているとき、不安を感じているときにその不安を増長させる言動を行ってどうしようというのだろう。こういうときにはすこしくらい協力してもいいのに、と私は思う。

 

 安倍政権は絶対悪の存在であるから、その問題点を指摘するのは正義だ、と云う信念の元の行動であろうと思う。その正義は「国民のため」という大義であるらしい。私は国民ではないのであろう、彼らのいう大義が、自分が政権を取りたいだけのものであるようにしか見えないのだが。とにかく立憲民主党の人々は二言目には「やめろ」という。

 

 自民党は野党の姿勢に実は内心で快哉を感じているのではないか。野党が積極的に政府に協力をすれば国民が彼らを見直して、野党の支持率は回復する可能性があるからだ。それすら考えがおよばない野党というのは国民のことなど考えていないし、考える能力がないのだと私はあらためて呆れて見ている。
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北方謙三『楊令伝二 辺烽の章』(集英社)

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 梁山泊の生き残りたちの集結と再起のための準備は着々と進んでいく。宿敵である宋の禁軍の童貫はその気配を察して対応に動く。金の尖兵隊として活動してきた楊令は金から離脱し、ついに梁山泊軍に合流してここに真の頭領としての行動が開始される。

 

 呉用は単独行動して方臘方の一員として南方での宋軍への牽制の画策をする。

 

 方臘は新興宗教集団の盟主、すなわち教祖である。中国の王朝が動揺し、倒れる最大要因は、宗教、疫病、飢饉の三つである。まさにその一つである新興宗教集団の方臘、のちに紅巾軍といわれる大勢力がここに誕生する。その勢いはアフリカのバッタの大発生の如く、想像を絶するのだが、その様子が描かれるのは第三巻となる。

 

 ちなみにいま流行している新型コロナウイルスを習近平がおそれて初動を誤ったのは、このような歴史を承知しているからである。気功集団の法輪功を邪教として弾圧したのも同じ理由による。新疆ウイグル地区でイスラムを弾圧するのももちろん同じ理由である。そして農民の貧困対策に熱を入れるのも人道的な理由ではなく、習近平王朝を維持するための方策と考えた方が妥当かも知れない。満足に食べさせ、邪教を排除し、疫病対策をすることは王朝の延命のためなのである。

 

 閑話休題。
 この第二巻では岳飛が初登場する。後半で宋の禁軍の総大将である童貫と合流する。岳飛は中国人にとっては日本人にとっての源義経のような存在で、たいへんな人気がある。北方から圧迫してきた異民族の遼や金と戦い、勝利を続けたのにその功績を認められずに憤死する。宋の佞臣の秦檜たちは遼や金との宥和策を採って岳飛の功績を無とし、結果的に宋は滅びて都を開封から杭州に移して南宋として生き延びることになる。その南宋も元に滅ぼされるのは御承知の通り。
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2020年2月28日 (金)

電子書籍デビュー

 いままで電子書籍には手を出さないと公言してきたのに、AmazonからKindleを導入した。これで電子書籍が読めるようになったのである。どうして考えを変えたのか。

 

 紙の本を愛し、紙の本にこだわるという考えが変わったわけではない。本を探すのに目録を手に入れようとして調べたら、みな電子書籍になっているのである。しかも¥0なのだ。目録は更新されるし、そのつど出版するのでは採算が合わない。電子書籍にするのは当然である。

 

 とりあえず気になっていたちくま文庫、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫、角川文庫の目録を入手した。操作性は良好とは言えないが、使えないことはない。暇なときに解説を読みながら本を選ぶのを楽しむとしよう。もちろん紙の本で入手するつもりである。

 

 これから各出版社の目録を探して追加する予定だが、心配なのは、本を買うのを控えていたのにまた読めないほど本を買ってしまうことである。自重しなければ。
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福田和也『平成批評』(角川新書)

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 ちくま文庫の江藤淳の全集の編集をしていたのは福田和也。彼が世に出たのは江藤淳の強い推挽によるものであるし、当然弟子であることを自認している。その福田和也が平成という時代を総括したこの本を昨年春に一度読んでいるが、あらためて江藤淳の世界観との関係を元に読み直してみた。

 

 帯に「我々はもう『国家』から逃げられない」などと書いてあるから誤解する人は誤解しかねない。たしかに江藤淳同様福田和也も左翼リベラルに批判的ではあるけれど、この帯の文句は強すぎる気がする。

 

 福田和也がいいたいのは、日本人が日本人であることの意味をますます見失っていった時代が平成という時代ではないかということである。日本語でものを考え、日本という国に暮らし、日本人であることのさまざまな恩恵を受けながら、それなのに日本人であるという意識が希薄であるということは、そもそものアイデンティティを喪失していることにつながらないか?と問うているのである。

 

 だから若者は自分探しをしなければならなくなるのだ。若者がアイデンティティを確立出来ないのは日本の教育が歪んでいるからであることは心ある人は解っているけれど、それを声高にいうことができないことが情けないのである。江戸時代までは日本人であること、と云う意識はなかった。国とは各藩であり、郷土だったからである。それが西洋列強との関係の中で、国家というものの認識が必要になり、人々は日本人であることの意味を模索して確立していったのである。

 

 日本の近代文学の作家たちの文語文から口語文への脱皮へのもがき、正岡子規の「写生」、リアリズム志向はそのようなものの流れの表れであろう。それをあろうことが高校生の教科書からそのような作家の作品をすべてなくしてしまうという暴挙は、つまり日本人としてのアイデンティティ確立の機会をなくすことにつながっているのだと思う。その機会をなくしながら小学校から英語教育を施してどうしようというのだろう。順番が違わないか。そんなことをあらためて考えた。
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2020年2月27日 (木)

せっせと食べたのでお土産がない

 毎年恒例の、親友たちとの城崎での蟹三昧に行ってきた。京都の山崎駅まで私が車で行き、ほかの三人と合流、歓談しながら城崎へ向かう。

 

 いままでは天橋立や出石や城崎の温泉街などをぶらぶらと散策してから宿に入ったが、何度も行ったので、少し遅めの集合にした。それでも時間に余裕がありそうなので、ちょっとだけどこかに、と思いたち、丹後半島の伊根の舟屋を眺めに行った。道の駅から伊根の湾内と舟屋群を見下ろし、ちょっと土産を買って出発。宿は温泉からは離れた、円山川を渡った親友の知り合いがご主人の民宿である。

 

 心身共万全ではなかったので心配したが、友人と会って酒を飲み出せばそんな心配は念頭から跳んでしまい、楽しい会食となった。風呂から上がっていつものように囲炉裏端で生ビールをのむ。美味い。ここでいつも飲み過ぎてしまうのだが、今回は到着が遅めな上に蟹を早めに出して貰ったので、二杯だけ。お陰でいつもよりもみなせっせと蟹を食べる。一升瓶の香住鶴があっという間に二本空く。四人でもう一本飲むのはやめにしてビールを再び飲み、部屋へ引き揚げる。

 

 与謝で立ち寄ったワイナリーで買った白葡萄酒を開ける。窓の外に出して冷やしておいたのだ。口直しとして最高。栓抜きがなかったので苦労した。トルコのときと同じ苦労である。学ばない。

 

 いつもなら食べ残しがたくさんあり、娘のどん姫への土産にちょうど好いのだが、今回はよく食べたのでほとんどないから、茹で蟹を宿から発送して貰った。どん姫は以前一度この集まりに参加している。土産をあてにしているはずなのだ。翌日は二日酔いなのでF君に山崎駅まで運転して貰う。お陰で無事に、そして楽に帰ることができた。楽しかったなあ。
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やり方がよく分からなかったので・・・

 記事の更新をつぶやきでお知らせする方法が良く分からなかったので、記事へのリンクが出来ないようでした。何とか試行錯誤して見ましたが、できるようになったでしょうか。

福田和也編『江藤淳コレクション4 文学論Ⅱ』(ちくま学芸文庫)

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 全四巻の最終巻。1~4まで並行して読んでいて、最初に読了したのが最終巻だったのが自分ながら面白い。

 

 すでに前半部については何回か取りあげた。明治以後の文語文から口語文への文学者たちの模索、藤原惺窩や林羅山について、小林秀雄論、正岡子規たちの『写生』提唱とリアリズムの限界について等々。後半は「日本読書新聞」に掲載された文芸批評、そして永井荷風について。永井荷風については江藤淳にはいくつか著作があり、これは『荷風散策 紅茶のあとさき』からの抜粋となっている。私は単行本でこの本を持っているので既読。

 

 どこをとっても日本文学の流れとその精神、作品についてのきびしい批評精神、作家に対する深い知識による理解と共感が読み取れて、繰り返し読むに価するものとなっている。小林秀雄が確立した、人に読ませてそれだけで食べていけるだけの評論というものの衣鉢を継いだ江藤淳の面目を知ることが出来る。彼の自死が心から悔やまれる。
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2020年2月26日 (水)

濁り

 濃くても薄くても好いけれど、濁るのはまずいという。ビールやスープではなくて、尿の話である。ときどき排尿痛があり、尿の濁りを注意するようにしている。すぐ医師の所へ行かなければならない。私の場合、排尿系に何らかの化膿が起きている可能性がある。そうなると小便がでにくくなって全身がだるくなり、熱が出ることもある。

 

 雑菌による炎症が起きているのである。この十年で三回経験していて、抗生物質で治まるのだが、完治しない。前回は前立腺炎との診断で、前立腺の薬を常用しているが、排尿がとても楽になって助かる。ところが久しぶりにその排尿痛が起き始めた。排尿を見ると少し濁っているようないないような。

 

 なんとなく身心が不調な気がしていたのはこれが原因かも知れない。不調を感じはじめたのが連休中で、週明けには友人達と城崎へバカ酒と蟹喰い旅行である。医者へ云っている暇がない。帰って来るまで悪化しないことを願うばかり。

 

 排尿、排尿とあまり口にし難いことを書き綴って申し訳ない。本人には深刻な問題である。ひどいときは死ぬかと思うほどつらいのである。たしかルソーも泌尿器系が持病だったと思う。むかし彼のぶ厚い『告白録』を読んで百科全書派との激しい争いはともかく、持病の話がいたく身につまされて記憶に残っている。そのときは他人事だったけれど、いまは実感で分かるのである。
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北方謙三『楊令伝一 玄旗の章』(集英社)

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 北方三国志と北方水滸伝を夢中で読んで、水滸伝続編にあたる『楊令伝』のシリーズもすべて購入して揃えているのだが、四巻だか五巻だかの途中で読むのを中断したらそのあとまったく読む気がしなくなっていた。この第一巻の奥付きを見ると2007年出版である。ずいぶん間が空いてしまって、さすがに途中からではつながらないのではじめから読むことにした。

 

 どうしてとつぜんまた読む気になったかと云えば、未読のために全十五巻のこれが本棚にずらりとならんで場所ふさぎなのである(『岳飛伝』全十七巻も未読)。ここらで片付けないと棚に列べたいものがたまってきているのである。

 

 読み始めたら一気に読めた。楊令の登場は巻末で、思わせぶりが甚だしいが、梁山泊陥落のあとの生き残りの面々の消息を明らかにするための準備である。宋を圧迫していた遼は後方の女真族の金に脅かされ始める。その金の尖兵が楊令ではないか、と云うところから話が展開していく。燕雲十六州を取り戻したい宋は密かに金と手を結ぶ。梁山泊の生き残りたちも次第に再結集を始める。時代は大きく動いていくが、宋の力は衰えたりといえど侮りがたいのである。

 

 さあ第二巻に移ろうか。とはいえ、ほかに読みかけが山ほどあるのにどうしようか。
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2020年2月25日 (火)

あきらめの冬に向かいながら(知性ある女性に寄せて)

 女の知性の輝きの中に邪心がないはずがあろうか。女の知性に魅せられる男の心に邪心のないはずがあろうか。邪心と邪心の遇うところ、めくるめく眩い白光があるやも知れぬと心ある人は夢みる。その一瞬の輝きに人はすべてを賭けられるか。

 

 瞬間は永遠だけれど、不思議なことに人生は瞬間よりも長い。
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脱力感

 朝食を食べ終わってしばらくしたら眠くなった。昨晩早めに寝たので二時過ぎに目がさめてしまい、しばらく起きていたせいだろうと思い、仮眠した。気がついたら十時になっていた。今までにない倦怠感と脱力感がある。地の底へ落ちて行くような気分だ。起きて何かをする気分にならない。

 

 どうしてしまったのかと心配になる。もしかしたら糖尿病の薬による低血糖症状かも知れない。そういうときのためのブドウ糖はあるけれど、たまたま買ってあった甘酒があったのでそれを温めて飲んでみた。

 

 効果があったようで、ようやく起き上がって雑用を片付ける元気が出て来た。以前にも多少そういうことはないでもなかったが、今回は精神的な面に来たので少し驚いた。もともと血圧も高めなのだけれど、どういうわけかこの頃は100~110くらいと、私としてはこれまでになく低めのことが多い。こちらの影響もあるのだろうか。
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2020年2月24日 (月)

正論

 正論はしばしば決まり文句になる。正しいことだから正論で、反対しにくい。

 

 私の高校時代は学生運動が盛んな時代で、高校三年生のときには安田講堂の闘争があったりして、いくつかの大学は受験がなかった。だからクラス討論のようなものがしばしば行われた。学生運動積極派とそれほどでもない者、反対する者とが意見を戦わせた。当時の若者は政治に強い関心があったのである。もちろん無関心な者もいた。無関心でも積極的な無関心で、無関心である理由をそれなりに語ることが出来た。

 

 議論が出尽くしたようなときに意見をいうA君という級友がいた。訥々としゃべるのでいままでの熱気のある語りとテンポが違うから、みんな「またか」という顔をする。彼は双方の議論について自分の意見を語るのだが、すでに誰かが云ったことの繰り返しで、あまり「なるほど」というようなことがない。

 

 何度かそういうことがあったあと、私はようやく気がついた。みなが語っていたことは、どこかの誰かの受け売りの正論を自分の意見のように語っているものばかりだったが、A君はそれらを聞き、彼なりに考えた上での彼の考えだったのである。結局同じことを言うことになるのだけれど、実は全く違うのだ。それから私はA君の意見に耳を傾けるようにして、親しくなった。彼の父親は読書家で、図書館になかった新しい井上靖の全集など色々な本を彼に頼んで借りて読ませてもらった。

 

 いま念頭にあるのは愛知県知事の大村氏である。彼は正論をいう。その正論は聞いていて苛々する。A君の正論は苛々しない。苛々する正論をテレビで嫌というほど見聞きする。そしてときになるほどという正論を語る人の意見になるほどそうだ、と頷く自分がいる。

 

 何が違うのだろう。自分と意見が同じだから頷き、違うと頷かないのか。決してそうではない。反対したい意見でも頷くここともあるし、その通りだと思っても苛々することも多い。

 

 正論の決まり文句を受け売りで語るものに苛々を感じ、自分で考えに考えた上の、自分の言葉で語っていると思えたものに頷いているのである。A君に教えられたことがまだ私の中に生きている。私がシュプレヒコールに和する人々を見て鳥肌が立つほど不快なのはそういう理由である。

 

 正論を書いてしまった。
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対談司馬遼太郎・海音寺潮五郎『日本歴史を点検する』(講談社文庫)

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 まえがきを海音寺潮五郎が、そしてあとがきを司馬遼太郎が書いていて、ともに昭和44年と明記されているからずいぶん古い本である。この本を私が読むのは何度目だろうか。何度でも読む価値があると思う。書かれている内容が歴史的に検証出来る事実であるかどうかは異論があるかも知れないが、それはどちらでもかまわない。

 

 高いところから見ると視界が広くなる。この二人の見ている世界はとても大きくて、さまざまな事柄の関係も見渡せていることに敬服するのである。ザル頭の私としては読んでもほとんど忘れるから、二読三読する度にこれは記憶しておこう、そこから歴史を見直そう、と思う部分がたくさんある。

 

 たかだか二百ページほどの文庫本なので、丁寧に読んでもそれほど時間はかからない。必ず啓発されるところがあるはずで、読んで時間の無駄には決してならないことをお約束する。日本という国はどういう国なのか、日本人とはどういう国民なのか、いまの日本はどうしてこういう国であるのかを考える手がかりを得られると思う。
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2020年2月23日 (日)

健在

 わが家ではタワー型のWindows-XPパソコンが健在である。もちろんセキュリティの点からネットワークには繋いでいない。32ビットのソフト(主にゲーム)が入っていて、エプソンの古いスキャナーが繋いである。このスキャナーからフィルムをデジタル化するのに使用した。

 

 いまは古い囲碁ソフトとシミュレーションゲームの大戦略シリーズのいくつかが入っていて、囲碁ソフトは二、三級のレベルである。パソコン側の定先(つまり相手に黒を常に持たせる)勝負でもまず負けることがないので、ストレス解消に手頃である。負けると頭が熱くなる。情けないことに、たまにまったをしたりする。

 

 大戦略は戦争ゲームだが、RPG的なキャンペーン版のものがお気に入りで楽しんでいる。どのマップへ進むかで展開が大きく変わるのだが、もう15年以上使い込んでいるので、相手の出方のパターンが読める。つまりこれもストレス解消用である。勝つか負けるかではなく、自分の側の被害を最小限にして、どう完璧に相手を叩きのめすかを楽しんでいるのである。

 

 最短で16~18枚のマップを戦わなければならないが、最後まで(つまり世界を転戦して平和に導くところまで)行くには一日では終わらない。一度やると二ヶ月くらい間をおく。いま敵の最後の抵抗を打ち砕くところまで来たところである。もうちょっとだけ強いWindows10用(つまり64ビット版)の新作があると楽しめるんだけれどなあ。

 

 むかしこどもたちとファイナルファンタジーのシリーズを競ったりしたけれど、彼らはどんどんレベルアップしてクリアするのに、私はなかなか前へ進めずに口惜しい思いをしたものだ。いまはああいう頭と反射神経を酷使するものはついていけなくなった。あのころは楽しかったなあ。
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田山花袋『重右衛門の最後』(新潮文庫)

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『蒲団』の文庫本に併載されていたもので、『蒲団』よりも数年早い明治35年に発表された作品。田山花袋は文学青年時代は鳴かず飛ばずで、尾崎紅葉の硯友社に転がり込み、文筆活動を続けていた。しかし彼の作家としての資質は硯友社の執筆者たちと肌合いが合うはずもなく、次第に独自の文体を確立していった。そういうものが確立され始めた頃の作品で、物語性が高く、案外面白かった。自然主義文学的な側面もある作品である。

 

 学生時代に親しく交遊してきた友人達も卒業とともにちりぢりとなる。「私」は急に思い立って、五年ぶりに特に親しかった友人を信州の山深い山村に訪ねる。山を越えてようやく村に辿り着いたとき、そこで見たものは消防ポンプの演習であった。村で放火が相次いでおり、みなで金を出し合って購入したのだという。

 

 村人達は犯人が誰であるか、おおよそ見当はついているらしいのである。

 

 その犯人と目される重右衛門という男の生い立ち、そしてその境遇、生きざまが、友人や村人達などからの話から次第に分かってくる。村は村人を何とか管理下に置いて少なくとも表向きは村を平和に維持しようと努めるものである。その枠を全く無視して傍若無人にふるまう重右衛門。次第にその存在は村の存続を脅かすものとなっていく。

 

 そうなった場合の村人の排除の論理の働き方がどのような結果をもたらすのか。それを「私」は目の当たりにする。重右衛門はある朝、青ぶくれした水死人として小さな池に浮かぶ。そして村に本当の災厄が襲いかかるのはそのあとのことであった。

 

 事件が済んでさらに年月を経た後、「私」は久しぶりに友人に会い、何ごともなかったような村を見る。意外な結末であるとともに村のしたたかな復元性、強靱性を見るような思いがする。
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2020年2月22日 (土)

残念な映画

『トロールハンター』(2010年ノルウエー)
 時間の無駄だった映画。進撃の巨人みたいなのがぞろぞろ出て来るのだが、それがゲームのトロールの顔で、恐くないどころか馬鹿馬鹿しい風貌をしていて危機感がまるで感じられない。俳優が大真面目に演じているところだけは救いだが、途中で寝てしまい、結末を知らない。

 

『名探偵ゴッド・アイ』(2013年香港)
 アンディ・ラウが主演するから期待したのにまったく観るに堪えない映画。途中で消去。どうしてこの頃アンディ・ラウはこんなへんてこりんな映画に出るようになったのだ。恥ずかしくないのか。

 

『チョン・ウチ 時空道士』(2009年韓国)
 ドタバタコメディ映画を作ったつもりらしいが、無駄金を使って登場人物たちがやたらにふざけるばかりで観ていて胸が悪くなってきたのでこれも途中で消去。シリアスの中におふざけがあったり、おふざけをやりながらシリアスがあるから面白いので、これでは馬鹿の文化祭か運動会だ。こういう映画を「面白い」と思う人もいるのだろうなあ。私には全く理解不能。題名から期待したのになあ。

 

 WOWOWももう少し放映する作品を選んで欲しい。繰り返すが時間の無駄である。そんなのを選んで録画した私の感の鈍さもあるにはあるが。
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良心を外に置く人

 江藤淳に深い敬意を抱いている。何冊か単行本で著書に接してきたが、弟子を自認する福田和也の編集でちくま文庫から『江藤淳コレクション』全四巻が出版されていて、感銘を受けつつ読み進めているところだ。

 

 江藤淳については機会があれば何度でも言及したいと思っているが、今回はその『江藤淳コレクション』の第四巻、『批評と私』の章の中の『ユダの季節』(「徒党」と(「私語」の構造)という文章を読んで感じたことを書き残しておきたい。

 

 誤解しないでいただきたいのは、江藤淳が「良心を外に置く人」ではないということだ。最初に河上徹太郎の『有愁日記』と云うエッセイ集の中の『ユダと現代風景』という文章の、河上氏が暖炉に火を起こそうとして、一本だけ燃えようとしない薪にうんざりして、「まるで左翼だ」と呟いたというエピソードから、「ユダ左翼説」を述べたことが紹介されている。

 

 ここから江藤淳の本論に入っていく。粕谷一希という評論家の『教祖の文学-小林秀雄と坂口安吾-』と云う評論を読んで、河上徹太郎の『ユダと現代風景』を連想したと説き起こし、徹底的な粕谷一希氏批判が展開されていくのだ。この粕谷一希氏に代表される人たちが「良心を外に置く人」として酷評される。

 

 その舌鋒は鋭く痛快である.こんなに興奮してのめり込めんで読めたのは久しぶりだ。すべてが堅牢な文章なので要約しようがないし、引用し始めるとすべて引用したくなってしまう。ただ共感して興奮したことだけを記しておく。決して採用されることはないだろうが、こういう文章を教科書に載せたら若者が文章の面白さを知ることが出来るのに残念だ。

 

「良心を外に置く人」については特に説明するまでもないだろう。私は内なる良心に生きたいと思っている。谷沢永一が『正義の味方の嘘八百』で断罪したのは「良心を外に置く人」であった。私はそういう朝日新聞的な正義が嫌いなことは繰り返しこのブログに書いている。

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2020年2月21日 (金)

映画『唐山大地震』(2010年中国)

 1976年7月28日、中国唐山市はマグニチュード7.8の直下型地震に見舞われた。建物の94%が倒壊、この地震で24万人が犠牲になるという大惨事となった。先日アルメリアの大地震を題材とした『グラウンドブレイク 都市壊滅』という映画を観て感銘を受けたので、いつか観るつもりで録画しておいたこの『唐山大地震』を観た。

 

 地震そのもののシーンは冒頭部のみである。題字にかぶせてAfter Shockと云う文字が添付されている。この映画は実は地震のあとの後日談がメインなのだ。

 

 男の子と女の子の双子、そして両親は地震の災禍に遭う。子供達を助けに走る母親を押しとどめて父親は崩れかけている建物に飛び込む。まさにそのとき彼らの住んでいた共同住宅は崩壊して父親は下敷きになって圧死する。半狂乱になる母親。

 

 やがて生き残った人々は瓦礫の下の遺体の処理と生き残った人々の救出を始める。累々と並ぶ遺体。父親の遺体も引き出され路上に並べられる。そんな中、奇跡的に瓦礫の下で子供が生きていることが分かる。余震でいつ崩壊が進むか分からない。そうすれば子供は助からない。二人の子供は上の瓦礫を動かせばどちらかが助かり、どちらかはその犠牲にならざるを得ない状況となる。究極の選択を迫られる母親。そんなもの、選べるわけがない。しかしこのままでは二人とも助からない。

 

 そして母親は一人を選ぶ。もう一人はそれを瓦礫の下で聞いている。

 

 そして長い時間が流れる。実は死んだはずのもう一人も生き延びていたのだが、母親たちはそれを知らない。それぞれの人生が描かれていき、32年後の四川大地震がきっかけとなってついに運命の邂逅がやってくる。そのラストは感動を呼ぶ。

 

 唐山大地震は1976年7月、その同じ1976年9月に毛沢東が死去する。映画にも描かれているが、これが契機で文化大革命も終わり、中国は大きくかわっていったのである。それらが中国側から描かれているのも興味深い。
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確定申告など

 年金しか収入がないので、税務署から来た用紙に納税額(ネットで国税局のホームページを見れば確定申告額は簡単に計算してくれる)を書き込んで納付を済ませた。今年度からは、入院中の戸籍上だけのつれあいが扶養者になるので、次回は還付があるはずである。亡くなった義母の遺産処理が済み次第、すべての彼女に関する手続きは私が引き受けることになるので少し忙しくなる。

 

 息子から鹿児島の黒酢とリンゴ酢が送られてきた。今月後半にシンガポールへ新婚旅行に行くはずだったが、取りやめて九州一周旅行をしているそうだ。あとで薩摩揚げも送るから、と云うことなので楽しみだ。なかなか仕事を持っていると長い旅行は行きにくい。その少ないチャンスが新婚旅行なのに残念だが仕方がない。

 

 身心の好不調の波が激しい。季節のせいだろう。今日は比較的に調子が良いので、たまっている雑用を一つずつ片付けている。ブルーレイレコーダーの調子が思わしくない。電源を落とすと立ち上がらなくなるのでつけっぱなしにしてある。冷却ファンが不調らしいので中を掃除して、駄目なら寿命とあきらめるしかないかも知れない。

 

 庖丁が切れにくくなっているので研がなくては。ステンレスの庖丁は研ぐのが難しい。以前は研いでもすぐ切れなくなったものだが、だんだん上手くなったらしく、結構切れ味が持つようになった。砥石も本当は二三種類用意すべきらしいが、一種類で間に合わせている。それほど酷使しているわけでもない。最近は釣りをしないので、出刃包丁を研ぐこともなくなっている。小魚を捌く小出刃も含めてすべて私の庖丁は左利き用である。ふつうの物と反対に刃がついている。
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2020年2月20日 (木)

映画『百日紅 Miss HOKUSAI』(2015年)

原作・杉浦日向子のアニメ映画。監督・原恵一。

 

 杉浦日向子さんが亡くなってもう十五年も経った。テレビで拝見していわゆる女優やタレントの美人とはまるで違うその知性と人柄、魅力に惹かれた。そういう女のひとこそ美しい人なのだと初めて気がついた。もっと早く気がついていたら、と慚愧に堪えない。

 

 このアニメ映画は葛飾北斎の娘、お栄が主人公である。お栄を描きながら北斎を描き、江戸時代後期の江戸の風俗を描いていく。NHKテレビの実写版でもお栄が主人公のドラマが放映されたけれど、この原作が元だったのだろうか。

 

 子供は親を乗り越えて一人前になる。しかし葛飾北斎という巨山を乗り越えることは不可能である。そのもがきのあとに、乗り越えるのではなく新しい自分自身という山をようやく確立したお栄の晩年の消息は不明だとこの映画は結んでいる。それは激動の時代のゆえか、それとも平穏の中に市井に埋もれたからか。
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田山花袋『蒲団』(新潮文庫)

 この中編小説は島崎藤村の『破戒』とともに日本の自然主義文学の代表作と呼ばれている。そもそも自然主義文学とはヨーロッパ、特にフランスで興った(ゾラなど)もので、本来は自然科学の理念と方法を文学に導入し、社会と人間の真実を検証することを目的とする文学思潮である。それが日露戦争後に日本で現実主義的風潮が興ったことで日本に移入されたものだという。

 

 それが自然主義文学ならば、どうしてこの『蒲団』という小説が日本の自然主義文学の代表作なのだろう、と私は疑問を感ずる。

 

 妻子のある作家が彼に心酔する若く美しい女弟子に恋い焦がれながらそれを秘匿して悶々とするという小説である。女弟子は京都の大学の学生である若い男と恋仲になってしまう。女弟子の親は許さず、もちろん主人公もそれを許さない。しかし堰かれて募る恋心である。若い二人は諫められるほど燃え上がる。

 

 かくて女弟子は主人公の元を去って行くのであるが、作家とその弟子であるという関係は見かけ上最後まで破綻しない。

 

 最後の、去った女弟子の使用していた蒲団に彼女の女の残り香を嗅ぎながら涙し、その蒲団で眠るという場面はあまりにも有名である。
 
 主人公の心理描写が延々と続くが、それを感情移入させながら読ませていくという田山花袋の筆力は尋常ではない。読んでいる私は読んでいる間は主人公になりきっている。社会的立場や家庭を崩壊させないための彼の自制は彼自身を大きく傷つける。自制しても自制を破って一歩踏み出しても彼は救われない。禁断の恋とはそういうものだろう。まして時代は明治時代なのである。

 

 この自然主義文学から距離を置いたり反撥しながら多くの作家が自らの文学を確立していった。夏目漱石が、森鴎外が、芥川龍之介が、そして志賀直哉などの白樺派が・・・。

 

 自然主義文学は数年で拡散消滅する。拡散したものは底流として私小説やプロレタリア文学に形を変えていくのは日本独特のものといえるらしい。なぜなら自然主義文学が消滅した真の原因は、幸徳秋水たちが刑死するに至った大逆事件だという見立があって、そのことは私には今すぐに得心がいかないけれど、念頭に置いて考えたいテーマである。
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2020年2月19日 (水)

映画『よなよなペンギン』(2009年)

りんたろう監督のアニメ映画。

 

 以前から観たかったこのファンタジーアニメをようやく観た。

 

 私はさまざまな宗教が描いてみせるあの世というのをあまり信じていないが、異世界は存在しても好いと思っている。現実世界からわずかに踏み出すだけのところにたぶん異世界はある。アニメに描かれる現実世界はすでにもう異世界である。その異世界を受け入れれば、更にその先の、全く想像の世界である別世界へは遠くない。

 

 このファンタジーアニメの異世界では飛べない鳥であるペンギンが空を飛ぶこともある。跳ぶことから飛ぶことへ、その思い切りの勇気とその先の楽しさを主人公と共に楽しまなくてどうしよう。

 

 異世界は常に悪によって崩壊に瀕している。異世界に行った主人公は仲間と共にその悪を倒して崩壊を食い止める。世界の秩序は保たれる。これは多くのファンタジーの定番のストーリーだが、この物語で面白いのは、悪の根源にエネルギーを与えるものの意外な存在だ。

 

 それは天の摂理の必然性か。ときに主人公が負けてしまえば異世界も現実世界もともに崩壊してしまうのかも知れない。それでは物語にならないけれど、実は語られない無数の崩壊があるのではないか、などと妄想する。

 

 期待通りの楽しいアニメであった。何しろ田中麗奈、太田光、田中裕二、柄本明等々の声の出演が楽しい。
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批判する権利

 テレビの番組で立憲民主党の福山氏が、新型コロナウイルスに対しての政府の対策は初動に遅れがあった、危機感が不足していたのではないか、と批判したらしい。それを伝えるネットニュースを読んだだけでその番組を観ていないので詳しいことは分からず、そのニュアンスは日頃の福山氏のものの言い方から想像するしかない。

 

 政府の新型ウイルスに対する初期の対応は当然専門家の意見を参考にして行われた。その専門家たちはWHO同様、中国の発表する情報をもとにして対策を提言していたことを私はテレビなどで観ていたから承知している。中国の情報を鵜呑みにしていては危ういかも知れないと思わないでもなかったが、ここまで深刻な事態になるとは私同様多くの人は想像していなかったのではないか。

 

 当然初動は遅れ、しかも不十分になったのは残念なことだったが、一般国民やマスコミならいざ知らず、それを政治家として非難出来るのは、そのときにいち早く徹底的な対策をすべきだと政府に提言し国民に警告した者だけであろう。では福山氏や立憲民主党がどれだけ事態を把握していたのか。どんな提言を政府に行ったのか。

 

 桜問題を新型コロナウイルスでごまかそうとしている、と云わんばかりで、彼らこそ事態への軽視をしていたように見えたと私は記憶している。そのことを批判されるのをおそれてのいまさらの後付け政府批判ならまことに残念なことで、あの東日本大震災のあとの福島第一原発のときの情報隠蔽や避難のミスリードを忘れたのか、と云いたくなる。もしいまの新型コロナウイルス問題の対策を彼らにまかせたらどうなるか、想像出来る人と出来ない人といるのだろうなあ。
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2020年2月18日 (火)

無限ループか上昇スパイラルか

 例によってやらなければならないこと、やりたいことがあるのにぼんやりしている。来週初めに糖尿病の定期検診で病院に行かなければならないから、今週はほとんど休酒していて夜が長い。

 

 この数年(少なくとも五年以上)本にあまり集中出来なかったけれど、しばらく前から若いときのように本が読めるようになってきたのはありがたい。ただ娯楽本、ミステリーや時代小説、SFなどは読まずに積んである本の山があるのに手が着かない。かわりに棚に並んでいる古い本を再読したり、古本を古書店やアマゾンで手に入れて読む。だから新刊をほとんど買わなくなってきたのは懐にありがたい。

 

 若いときに表面だけしか読めなかった本を再読すると、前よりは読み取れることが増えて、少し分かるようになっている気がしたりする。とはいえ、気が向くと(めったに向かなかったのだが)読書記録をメモしていたのでそれを見ると、けっこう昔もそれなりに読めていたことを知る。忘れていただけのことも多い。

 

 そうなると犬が自分の尻尾を追いかけているように堂々巡りをしているだけのような空しい気もする。そういう無限ループの状態なのか、それとも同じところに戻ったようでもスパイラル状に少しは高みに登りつつあるのか。登りつつあると自己満足したいところだけれど、どちらにしても本が読めて、少しでも何かが分かったような気持ちになれるのは嬉しいことである。
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山田利明『中国学の歩み』(大修館書店)

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副題は『二十世紀のシノロジー』。欧米では中国学をシノロジーという。

 

 日本では江戸時代まで漢学と呼んで、その思想面を重点的に研究し、統治や生き方のシステムへ応用する実学として発展した。中国そのものを全体として研究するという学問ではなかったのである。

 

 西洋ではシルクロードやマルコポーロなどからもたらされたわずかな情報があったが、本格的に知られるようになったのは宣教師たちが中国まで出掛けて得た知識による。ものの考え方が全く違う文化というものに強い興味を抱く人間というものはいるもので、次第にその情報は蓄積されていった。西域探検、敦煌の古文書の発見などにより、それらが本格的な東洋学として確立されていく。それがまさに十九世紀末から二十世紀初めのことであった。

 

 フランスが特にその先頭に立っていた。それをヨーロッパに留学した日本の学者達がいち早く学んで漢学から総合的な中国学に脱皮していったのだ。立ち後れたとはいえ、もともと日本には中国についての厖大な知見の蓄積があったから、たちまち西洋に伍するようになる。面白いことに中国には中国学がないから、日本の学者の発表するものを学んで中国の若い学生は中国のことを学んだ。当時の日本の中国学者は漢文で研究を発表していたのだ。その方が世界に通用する。

 

 その中国学の歴史はとても面白いので、興味のある人は是非この本を読んで欲しいところだ。ここにあげられている碩学、天才たちのさまざまな人生を知ることもたいへん大事なことである。戦争や文化大革命というものがどういうものであったのか、偉大な人たちがどれほどの苦労をしたのか、それを識ると粛然とする。

 

 取りあげたい日本や中国の中国学者の先達たちについては、ほんの少しだけ知っているので一々思いを語りたいが、たぶん私だけのひとりよがりになりそうなのでやめておく。すごい人たちがひしめいていたし、いまもそうである。たぶんそれはどんな学問でもそうなのだろうと思う。
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2020年2月17日 (月)

本日は定期検診日

 名古屋でも新型コロナウイルス感染者が出ていて、病院や薬局へ出掛けるのは多少気掛かりではあるけれど、持病の糖尿病は薬を飲み続けなければならない病気であるし、薬を飲まずに体調を崩せば二重の意味で危険でもある。

 

 血液検査の結果はLやらHやらがぞろぞろあって、気にする人なら不安になるところだろうが、美人の女医さんは「正月を跨いだにしては良い結果です」と合格をくれた。そう言うのだから何も心配ないのだろう。

 

 病院から帰ってすぐ買い出しにでる。酒も食糧もあまり残っていない。あると食べるし飲んでしまうから徹底的に備蓄を抑えていたのだ。今晩はたっぷりつくったおでんを食べながら一杯やるのだ。すでに鍋がぐつぐついっている。
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『安岡章太郎随筆集6』(岩波書店)

 寝床で少しずつ読み進めていたのがようやく読了した。この巻は旅の話。前半は国内の旅で後半は海外の旅。海外といえば、安岡章太郎はアメリカに留学しており、そのときのことを書いた『アメリカ感情旅行』という単行本がある。この全集では第二巻に独立して収められているけれど、以前読んだことがあるので後回しにしたが、次はその第二巻を読むつもりだ。

 

 少し前に書いたが、彼の旅先での風物や人を見る眼はやさしい。そのやさしさは生けとし生きるもの、風物などを過去からの長い時間の中で受けとめる懐の深さがあってこそのものである。彼にはそれが見えるのである。文章には詳しく書いていなくても分かるのである。旅とはそういうものだとあらためて教えられる。そうすると当然自分も真似して出掛けたくなる。懐具合ばかりではない諸種の事情で、いま少しおとなしくしているのだが、そこに新型コロナウイルスの流行などもあり、収まる気配が見えるまで長旅は控えようか、などと思っている。

 

 安岡章太郎の小説の方の全集もまだ一部しか読んでいない。随筆全集が終わったらそちらも読まなければ。
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2020年2月16日 (日)

芭蕉

『新日本風土記』と『英雄の選択』という番組が大好きで、必ず観る。以前のものの再放送があるとそれもたいてい観るから忙しい。

 

 その『英雄の選択』で今回は「『奥の細道』の神髄 芭蕉が到達した境地」という題名で芭蕉を取りあげた。もともと感性の鈍さに自分ながら情けない思いがしてきたが、特に詩に弱い。俳句なども詳しい註を頼りにようやく句意を理解することがしばしばである。

 

 それでも大学を山形で過ごし、第二の故郷と思っているので東北は頻繁に旅する。その途中に芭蕉に縁のある場所はたくさんあって、句碑を前に往時を偲ぶこともないではない。知ることは好きになることで、次第に興味も湧き、多少は知識もたまってくる。こういう番組を観ても、もう少し詳しく突っ込んでくれたら良いのになあ、などと思うようになった。

 

 芭蕉が『奥の細道』を終えて到達した境地は「軽み」であるという。しかしそれは俳諧時代の諧謔を元にした「軽さ」ではなく、人生の重み、永遠の時間の中の限られた時間を生きる生命についての思いを背景に持つ「軽み」なのだという。とても良く解る。そういうことを書いた文章をこの頃よく読んでいるからだ。

 

 ただ「軽み」について大衆は誤解した。俳句の大衆化が再び「軽さ」の中に落ちこみ、芭蕉の精神性が見失われた。明治に入って正岡子規が「俳句は滅びつつある」と警鐘をならし、「写生」を提唱した背景にはそのような俳句の状況があったのだと思う。これはいま読んでいる江藤淳の『リアリズムの源流』という文章につながる気がする。全ては関係しているのだ。
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坂口安吾『ふるさとに寄する讃歌』

 薬物中毒者が見る世界かシュールレアリストが書いた文章か、はたまた幻想的な詩か。短い文を連ねて私という一人称代名詞を繰り返し頻出させる。読者は次第にその幻覚の中に取り込まれていく。

 

 ふるさと(新潟)を長く離れていた「私」は危篤の姉を見舞いにやってくる。さまざまな記憶が断片化して頭の中を渦巻いている。感情がともなわない回想は時系列や印象の大小を無視して「私」に襲いかかる。

 

 こんな文章を読んだことがない。意味を捉えようとするとするりとすり抜けるのに最後まで一気に読ませてしまう。不思議な文章に魅入られた。もし大昔の若いころ出会っていたら、坂口安吾にのめり込んでいたかも知れない。畏るべし坂口安吾。

 

『ふるさとに寄する讃歌』が短かったので、もう一作『風博士』を読んだ。これはもっと短い。

 

 「風博士」と「蛸博士」の暗闘が寓意的に語られていくが、これは読めば分かるようにフアルスである。フアルスって何?などと聞かないで欲しい。知らなければ辞書を引いてくれ。私もようやく「蛸博士」の出現もなくなって平安が訪れている。その平安は男として哀しいものでもある。
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2020年2月15日 (土)

映画『グラウンドブレイク 都市壊滅』(2016年アルメニア・ロシア)

 見応えがあり、記憶に残る映画だった。最初に交通事故のシーンがあり、その八年後、その事故で両親を失って一人生き残った少年は若い青年になっていた。衝突の相手はその責任をとって刑務所に送られ、刑期を終えて出所してくる。彼が一方的に責任を負わされたことに違和感を感じる人もあるだろうが、そのことはいまは問わない。

 

 それが伏線となって、さまざまなひとのそれぞれの生活が断片的に描かれていく。やがてそれらが一つに収斂していく。

 

 アルメニアの大地震が勃発するのだ。街はほとんど壊滅し瓦礫と化す。日常が数多くの命と共に失われてしまう。英雄的な死、無慈悲な死、神は誰を生かし誰を死なせてしまうのか。神はそもそも存在するのか。

 

 呆然とした人々も瓦礫に埋められた人の救出に動き出す。死んだ人間を黙々と運び並べて行く人、負傷者を不眠不休で治療する医師、母の死が理解出来ずに彷徨う子供達。その映像のリアルさは私もその場にいるかのような気持にさせる。

 

 そんな状況でも悪は存在する。人間の愚かしさの発露がある。

 

 因縁の青年と、八年ぶりに帰って来た男は期せずしてともに救出作業をすることになる。やがてやってくる無意味な死と奇跡の生還との交錯。

 

 それを希望というのか・・・。希望がなければ人には救いがなく、生きられない。

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解るということ

 安岡章太郎という作家が好きで、いま彼の随筆集(全八巻のなかの第六巻)を読んでいる。読んでいるうちに、どうして彼が好きなのか少し解ってきた。あたりまえすぎる理由だが、彼の世界観が好きだからであって、その世界観はたぶん優れた作家、優れた芸術家が必ず具えているものらしい。つまりそれは、そのような世界観があるかどうかが優れた作家や芸術家であることの判別のものさしになるということでもある。

 

 自分探し、などという言葉が一時流行った。どう生きたらいいのか分からなかったり、生き方に迷ったとき、真実の自分を求める旅に出たくなるものらしい。自分の知らない「真実の自分」を見失っているのだから、それを見つければ自分の生きている意味が解るかのようだ。

 

 私はそういう考え方はしなかった。自分が未熟で不完全であることを誰よりも自分が一番知っているから、その自分を少しずつでも作り上げていくしか道はないと考えた。世間とのしがらみから自由になろうと夢想すればするほど自分は世界と関わっていることを思い知らされた。

 

 自分の観念の中では世界の中心は自分である。しかし自分が単独で世界に存在することはあり得ないのだ。そんな純粋な自分などあり得ないし、あったところで無意味である。

 

 草木悉皆成仏という。過去も自然も自分の生命も全て関係している。それらの関係に関係している。こういうことを考えるために使う言葉も、さまざまな過去の人々の思念によって彫琢されて変化しながらそこにさまざまな思いをまつわりつかせながらいま私によって使われている。そういうことを認識して世界を見ているか。

 

 そういう世界観を、ものの見方をして生きること、表現をすること、言葉を使うこと、そしてそれが人に伝えられる人を芸術家というのだと思う。思いだけあっても駄目なことはもちろんである。

 

 最近、評論をさまざまに読んでいて、優れた評論ほどそのような基準を芯においてものを評価しているらしいことに気がついた。同時に評論にも引用ばかりで芯のないものもあることにも気がついた次第である。本物を見分ける基準は応用が利くらしい。

 

 つまり安岡章太郎には、世界が全て関係しているという世界観が確固としてあって、ささいなことも含めてすべてにその世界観の目配りがあり、生きると言うことの意味を哀しさ醜さも含めてよく知り、それを私に伝えてくれる表現力もあるということで、だから好きなのである。

 

 ちなみに『安岡章太郎随筆集6』は旅がテーマである。前半は国内、後半は海外で、どうしてそれが上のような話になるのかを説明するのは難しい。
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2020年2月14日 (金)

リスペクトの欠片もない

 辻元清美議員の国会質問が終了した直後に、安倍首相が「無意味な質問だ」とマイクで聞こえるように呟いたので、問題になっている。回答を求められることもなく、延々と罵倒され続けた質問と云う名の大演説が終わって、安倍首相も本音をついもらしてしまったのだろう。

 

 それを安倍首相の立場に立って考える人と、野党の立場に立って考える人では、この事態に対する受け取り方は全く相反するはずで、互いは互いを理解することは難しいだろうと思う。

 

 新型コロナウイルスでそれでなくても混乱が生じている中、今月中に予算を通して国政を前に進めたい与党としては嵩にかかる野党にうんざりだろう。安倍首相も「しまった!」と後悔しているにちがいない。ここは隠忍自重、口を閉ざしておくべきだったし、無意味な質問は馬耳東風で聞き流すべきだった。その点で安倍首相は大いに反省すべきであろう。長期政権のおごりというよりも、見かけよりもこの人は血の気が多いということのようだ。分からないことはない。

 

 それにしても辻元議員の言葉には日本の国の長である首相に対してのリスペクトが欠片も感じられない。野党の面々で私が多少は聴く気になる人と不快しか感じない人とがあって、その違いはもちろん好き嫌いによるのだけれど、それは相手に対するリスペクトが感じられるかどうかによる。リスペクトとはもちろん敬意である。

 

 相手を絶対悪としてレッテルを貼って、腐った鯛の頭は消え去れ、と罵声を浴びせる人間に対して腹を立てるのは尋常な反応であろう。ひとはそれぞれその人なりに生きて一生懸命やっているものである。それが自分の考え方と違うものであるからと云って罵詈雑言を浴びせ続けるのは人間性を疑う行為である。私は他人に敬意をもてない人間は大嫌いであり、お近づきになりたくない。それが私が人を見る基準である。

 

 こう書けば私はどういう立ち位置か分かるだろうが、安倍首相を全面的に支持しているというわけでもない。問題点も多々あることは明白だし、次世代への引き継ぎを用意しないでいることに大いに不満である。

 

 国民は今回の泥仕合をどう見ているのだろうか。やはり安倍首相の失敗を引き出した辻元氏への喝采が多いのだろうか。
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尾崎一雄『暢気眼鏡』

 この短い小説のラスト部分を読んで、たしかに子どもの頃(中学生時代)にこの小説を読んだことを確認した。記憶していたのだ。

 

 志賀直哉に師事していた尾崎一雄はこの短編小説などで芥川賞を受賞している。この小説はまだ世に出ない同人時代の、ほとんど小説が書けないで精神的にも生活も苦難のどん底にあった時代を題材に描いた、いわゆる私小説である。

 

 どうしてこれが芥川賞に値するのか、私にはよく分からない。歌が大好きで人からも上手いといわれ歌手になりたい人、絵が好きで画家になりたい人、文章を書くことが好きで作家になりたい人、等々さまざまな分野で有名になりたい人たちがひしめいているが、それで名を成して生活のなり立つ人はほんの一握りである。苦難時代は自慢するほどのものでもないと思う。功成った人のみが語るから。

 

 この小説はそんなどん底の暮らしを苦にしない楽天的な若妻の芳枝が描かれていることで、鈍重にならずに軽みと明るさがあるのが値打ちと言えようか。このあとに書かれた『続・暢気眼鏡』や『芳兵衞・・・』の連作などはその系譜である。それらを題材に、テレビドラマになったのを見た覚えがある。大昔の話だが、主人公は緒形拳だっただろうか。芳枝を藤村志保が演じていたことは記憶している。私は原作小説よりもこのドラマの方を高く買う。 

 

 芥川賞を取ったこの短篇がそれほどこちらの琴線に響かなかったのは、こちらがこの作品の値打ちを理解する能力に欠けているからであろう。どうも私小説となると点が辛くなる。志賀直哉は別である。私は志賀直哉は私小説作家と思っていない。どうしてなのか、この全集にも私小説は山のようにあるはずで、それを読んだ上でそれをいつかとことん考えてみたいと思っている。
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2020年2月13日 (木)

雑感

 息子の結婚式から帰って以来、家でくすぶっている。すぐ近くの郵便局やスーパーに行くくらいで、散歩にもほとんど行かない。くすぶっていても読もうと思っている本や観たい映画は文字通り山のようにあるので、することがないわけではない。

 

 読書欲が昂進してよく読めているのは有難いのだが、少しテンションが上がりすぎて手当たり次第に手を広げてしまい、収拾がつかない状態になりつつある。

 

 奥野健夫の評論集で自然主義文学について書かれていれば、田山花袋の『蒲団』や島崎藤村の『破戒』が読みたくなる。どちらもわが家の本棚にはない。『蒲団』は中学生くらいのときに図書館にあった古い明治大正から戦前の文学全集、筑摩書房か中央公論の三段組にあったのを読んだ記憶があるが、子供が読んだって分かる代物ではない。『破戒』も読みかけてこちらは途中で放り出した気がする。小説を読んでおかなければ評論を読んでもあまり意味が無い。文庫本でも買いに行こうかなあ、などと考える。

 

 先日観た「ビブリオ古書堂事件帖」という映画や、福田恆存の評論で太宰治の作品が出て来れば、すこししか読んでいないからもっと読んで見たい気がする。たまに出掛ける鶴舞の古本屋の棚の一番高いところにちくま文庫版の全集(全10巻)があったのを思いだした。揃いで8千円かそこらだったと思う。アマゾンで調べると新刊本の揃いで1万円、古本なら8千円で手に入る。電車賃と運び賃を考えれば古本を買うのも好いかなあ、などと考える。

 

 本棚の昭和文学全集読破は遅々とではありながら進んでいないことはない。小林秀雄、井伏鱒二、と囓ったあと、尾崎一雄の『暢気眼鏡』を先ほど読み終えた。次は坂口安吾の短いのを読むつもりだ。

 

 先日NHKBSのアーカイブで石毛直道が麺のルーツを探る旅で黄土高原の村に滞在した少し昔のドキュメントを観た。そうすると棚の奥から彼の『鉄の胃袋中国漫遊』という本を引っ張り出して来て、まず中の写真を眺めてみる。本文も読みたくなってページを繰ってしまう。眺め飽きたら中国関係の棚から東洋大学教授の山田利明氏の『中国学の歩み』などという本を引っ張り出して読み始めている。シノロジーというものについていろいろ考えたりする。

 

 こうして頭の中は雑然と渦巻くばかりで何一つまとまらない。忙しいのだかバタバタ忙しい恰好をしているだけなのか、自分でもよく分からない。こういうときは何冊か抱えて(読む本が限定されて健康に良いのである)昼神辺りの安い温泉にでも数日しけ込むのが精神的にも好いのだけれど、どうもどこで新型コロナウイルスとはいわないまでもインフルエンザのウイルスなどに感染するかも知れず、出かけるのは控えるのが好いかなあなどと外をぼんやり眺めている。
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「軍学」について

 江戸時代に軍学というのが流行した。いわゆる兵法指南である。そのことについて海音寺潮五郎が面白いことを書いていた。軍学などというものは戦時には興るものではなく、平時に興るものだという。江戸時代に流行った軍学などというものは、いわば空論であると断定している。実証がないところでは空論が空論であるということが露見しない。

 

 当時名を知られた軍学者が残した兵法に関する本がなにをもとにしていたか。過去の戦争を研究して、その勝敗と作戦を論じているのだが、そのネタ本が軍記をもとにしているというのである。軍記は文学で、たとえば平家物語の戦の様子は史実をかなり脚色している。軍記を元に兵法を学び、戦時に役立てようとしても、ほとんど役に立たないという。『三国志』という史書ではなく、『三国志演義』を元に兵法を語ると云えば分かりやすいだろうか。

 

 軍学書を実際に読んだ上での海音寺潮五郎の言葉だからたしかであろう。

 

 幕末に軍学などは全く無視されて、西洋式の兵学が導入されたのは蓋し当然というべきであろう。解る人には自明のことだったのだ。日清日露の戦役まではみな解る人がトップにいた。ところが太平洋戦争で、亡霊のようによみがえった軍学者が、机上の空論で多くの兵士を無駄に死なせたことは記憶しておくべきことだろう。

 

 負けないための兵法は、負ける場合の想定が必ず前提にある。その想定を許さない作戦指揮者はただの軍学者に過ぎない。ノモンハンを見よ。
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2020年2月12日 (水)

映画『拝啓天皇陛下様』(1963年)

監督。野村芳太郎、出演・渥美清、長門裕之、左幸子、加藤嘉ほか

 

 子供のとき、この題名の連続テレビドラマを観た記憶がある。その主人公は無学だが純朴一途の好人物だったように覚えていて、好人物であることが彼のしあわせにつながったシーンを妙に鮮やかに思いだす。演じていたのは渥美清ではなかった。

 

 この映画では昭和五年から戦後の混乱期までの主人公(渥美清)の生きざまが描かれている。無学文盲で粗暴、他人の気持ちなど思いやることの出来ない男が、軍隊を天国と感じ、召集されることを喜びとし、古兵の虐めなど屁ともしない頑健さで生き抜いていく。しかしそんな男でも気の好いところがある。そもそも悪を悪として為そうとするほどの知性もないお人好しなのである。意外に可愛がられたりするのである。

 

 映画は最下層のこういう男も天皇陛下の赤子であったのだ、と語りかける。それは自然主義的、プロレタリア文学的な視点であろうか。天皇を純粋に崇拝し、戦争に何の問題意識もない人物を描くことで、軍隊の愚かしさをデフォルメして、実は戦争反対を主張したいのかと思う。

 

 しかし渥美清はそんな思惑をはるかに超えて、そんな時代をただ生き抜いた人間を活き活きと演じている。

 

 続編である『続・拝啓天皇陛下様』(1964年)も観た。これはキャラクターは一緒だが、全く違う人物が主人公で、同様のテーマが語られている。この時代、こんな映画がいくつも作られていたことを思いだした。
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海音寺潮五郎『歴史随談』(文春文庫)

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 前半部は中編小説が三篇、そのあと歴史のエピソードともいうべきものを拾い上げて短篇にしたものが並び、最後が歴史随談という表題で日本歴史の随筆のかたちで、司馬遼太郎の街道を行くに似たスタイルの文章が収められている。小説の卵、そしてそれを膨らませれば長編小説になりそうな短篇、そして作品らしい中編が逆に並べられているというわけである。

 

 歴史小説といい時代小説という。その違いは何か。人によりそれぞれの解釈があろうけれど、その境目は不明確だし、そもそも時代小説の中の史実を重点にしたものを歴史小説ということもできるのである。海音寺潮五郎はどちらかといえば歴史小説のジャンルの作家で、その作品はやや時代小説的な味付けが強めに加えられていると言えようか。作品によって色合いが違うのはもちろんであるが。

 

 彼は鹿児島の出身である。私が初めて読んだのは『二本の銀杏』という薩摩藩のお由羅騒動を題材にした小説で、強く印象に残った。これがその後の薩摩藩の藩内の権力争いに大きく影を落としていることは、歴史に詳しい人ならよく知っているだろう。この本の中に毒殺や呪殺とされている事件に、実は思いがけない原因があるかも知れないという示唆をしていて興味深い。

 

 又、朱子学と陽明学についての海音寺潮五郎なりの持論は、最近読んだ松本健一や江藤淳の解釈とは異なるもので、ものの見え方はさまざまであることを教えられる。再読だが、以前は知らなかったことを今回は少し知って読んだので、一層面白く読むことが出来た。私も多少はレベルアップしたのだろうか。それならいいが。
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2020年2月11日 (火)

映画『ビブリア古書堂の事件手帖』(2018年日本)

監督・三島有紀子、出演・黒木華、野村周平、成田凌、夏帆、東出昌大ほか

 

 本好きにはこたえられない映画である。夏目漱石や太宰治の作品の話題が飛び交う。特に漱石の『それから』や太宰治の『晩年』が物語に大きく関わっていく。

 

 死んだ祖母が大事にしていた漱石全集を、それを求めたはずの古書店であるビブリオ古書堂に持ち込んだ主人公(野村周平)は、若い女店主(黒木華)に心ひかれる。実は主人公は子供のときにこの全集に触れたことで、普段はやさしい祖母から烈しく叱られて活字だけの本が読めなくなっていた。それを女店主は鋭く見抜く。そしてなぜそれほど祖母がその全集に、とくにある一冊の本、『それから』の収められていた巻にこだわったのか、その秘密が解き明かされていく。

 

 祖母の過去が並行して描かれていく。さらにビブリア古書堂の宝ともいうべき太宰治の『晩年』の初版本、しかも著者の献呈本を奪おうと恐るべき魔の手が迫ってくる。主人公はビブリオ古書堂にアルバイトとして働き始める。そしてなんとすべてのことが一つに収斂していく。

 

 本に興味のない人にも面白いはずだが、本に執着のある人、その気持ちが分かる人ならよりいっそう楽しめる映画である。

 

 それにしても黒木華さんは本当に魅力的だなあ。
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井伏鱒二『山椒魚』

 私がこだわって読み続けている作家に安岡章太郎がいる。その安岡章太郎が師事していたのは佐藤春夫だが、井伏鱒二にも親しく薫陶を受けていて、しばしば言及している。

 

 この『山椒魚』という短篇は中学か高校のときの国語の教科書で読んだ記憶がある。面白く読んだけれどそれだけである。井伏鱒二は自分の作品にしばしば手を入れる。この『山椒魚』もずいぶん改変されたという。どのように変わっていったのか識らないけれど興味がないことはない。そこに井伏鱒二なりの理由があるはずで、それを通して井伏鱒二の文学観もうかがえるではずある。

 

 山椒魚が気がついたときには自分の棲処の岩屋入り口より身体が大きくなってしまって、外に出られなくなってしまう。「何たる失策であることか!」と狼狽するが、いろいろもがいたあげくにどうにもならないことを知る。「いよいよ出られないというならば、俺にも相当の考えがあるんだ」と呟くが、なにも考えなど浮かぶはずもない。

 

 狭い岩屋の中から外を眺めて目高や蛙を嘲笑し、馬鹿にするが、そのときには自分自身の境遇を忘れている。やがて岩屋に紛れ込んできた蛙を閉じこめてしまう。互いに相手をののしり合い、年月が経っていく。山椒魚と蛙では山椒魚の方が長生きだろう。蛙が死んだら山椒魚は悲しむだろうか。

 

 自分自身によって自分自身が囚われてしまう。人間もそのような岩屋に棲んでいる。
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2020年2月10日 (月)

映画「トカレフ」(2014年アメリカ)

 監督パコ・カペサス、主演ニコラス・ケイジ

 

 親の因果が子に報い・・・と云う映画。見応えのある映画だった。ニコラス・ケイジは大作からカルトまで出る映画を選ばないようで、さすがに彼が出ると作品が締まる。

 

 冒頭とラストが同じシーンと云うパターンの映画で、このタイプは下手をすると中身は冒頭のシーンの説明に終始することが多い。それがそれ以上の膨らみに成功すると観終わったあとに満足感がある。

 

 トカレフとはもちろんソ連製の拳銃の名前だが、その拳銃で主人公の愛娘が殺害される。そして主人公には思い当たることがある。彼の古い過去のロシアンマフィアとの因縁である。ここから彼の暴走が始まる。

 

 暴走の果てに知った事件の真相。それが「親の因果が子に報い」である。その救いのない絶望を冒頭のシーンは語っているのである。
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福田恆存『芥川龍之介と太宰治』(講談社学芸文庫)

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 芥川龍之介は中学生時代から愛読した。ずいぶん読んだつもりだったが、読んでいない作品も数多い。一度読み直したいと思うけれど、その時間があるかどうか。太宰治は一部の短篇しか読んでいない。『斜陽』や『人間失格』すら読んでいない。読みかけて、読み進めなかった。どうしてだろう。

 

 この本の三分の一が『芥川龍之介Ⅰ』で三分の一が『芥川龍之介Ⅱ』、残りが『太宰治』で、もともとその順に書かれている。『太宰治』も実は二回に分けて書かれていて、後半は前半を自己批判しながら書かれている。その間になにがあったのか。太宰治の自死である。

 

 芥川龍之介はなぜ自殺したのか。自分自身を題材にする私小説を書くことを拒否したのはどうしてか。自然主義文学の流行からの派生である私小説を芥川龍之介はどう捉えていたのか。その彼の目指したものは何だったのか。

 

 それをとことん解析した上で、彼が死に向かって突き進んでいった経緯が語られていく。解説者の浜崎洋介が紹介しているのだが、福田恆存自身が別のところで告白しているように、『Ⅰ』は「文章が晦渋で一人合点のところが多い」ので読み難い。読み難いけれども読者と共に考える姿勢も多少は感じられて、読んでいるうちに文意は理解出来ないことはない。「Ⅱ」になると俄然文章は平易になり、すらすら読めるが、レトリックも駆使されているのでうっかりすると逆説的な物言いの罠にはまる。なかなか一筋縄ではいかないのである。

 

 日本人には西洋人にとってのキリスト教のような絶対的な基準点がない。そのために西洋化を受け入れるに際しての近代的自我を確立するための激しい葛藤が必要になる。自然主義もプロレタリア文学もそれを外部に求めた。芥川龍之介はそれを拒否して自分自身の中に求めた。当然のことのようだし誰もがそうしたように思えるのだが、彼以外には自覚的にそれを求めたものはいないと福田恆存はいう。

 

 それが自殺へとどうしてつながっていくのか、それを知りたければこの評論を読まなければならない。全面的に賛同とは行かないが、福田恆存の言い分は了解した。

 

 そしてその芥川龍之介のたどった道を逆にたどったのが太宰治であるという。私は最初にあげたように太宰の作品をあまり読んでいないし、彼に感情移入もしていないので、そのへんの理路の可否を判断することは出来ない。

 

 出来ないけれど、無性に芥川龍之介や太宰治を一から系統立てて読みたくなった。しかしいまそちらに踏み込むと、すべてのやりかけのことが後回しになるので踏みとどまることにした。こうして読みたくさせるのは評論家としての福田恆存の手柄かと思う。彼は芥川龍之介も太宰治もとことん好きなのである。ときに、ほとんど同化しているかのようである。
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2020年2月 9日 (日)

しばらくぶりに映画を観る

 このところドラマやドキュメント、紀行ものなどを録画して丁寧に観ているので、映画をあまり観ていない。ドラマといってもCMの入る民放のものはまったく観ようと思わないから、WOWOWの海外ものやNHKのドラマばかりだ。

 

 若かりしころのモース刑事のシリーズを楽しんできたから、イギリスで大評判だったというオークスフォードのモース主任警部ものが放映されるというので楽しみにしていた。このモース主任警部のキャラクターを元にモース刑事シリーズが新しくつくられたのである。ところが先に若いころのモースで私のモースのイメージができあがってしまったので、その違いにどうしても釈然としない。同じエンデバー・モースという名前でも、違う人物として頭に収めることにして納得している。

 

 その主任刑事のモースも酒の飲み過ぎによる糖尿病で心臓と肝臓をやられて死んでしまった。糖尿病を持病に持っている私としては、モースのような昼酒は決してすまいとあらためて心に誓った。

 映画をあまり観ないのに面白そうな映画を録画しているから録画したものがたまるばかりである。消化するために何本か立て続けに観た。

 

 カルト映画好きとして、あの異相のダニー・トレホが怪演している「アイアン・スクワッド 甲鉄戦線」(2017年アメリカ・カナダ)という映画を観た。ダニー・トレホはインディアンかメキシコ系の人であろうと思うが、そのインディアンやメキシコの怨念が顔に凝縮されたような異相であって、一度観たら忘れられない。この映画でも近未来で無意味な殺人をめったやたらに行う男を演じていて、ストーリーはもちろん映画としては陳腐だけれど強烈な印象を残してくれた。

 

 次に「ラスト・コマンドー 女戦士と最強傭兵軍団」という如何にもそそられる映画を見始めたのだが、これが見るに堪えない知性のかけらも感じられない大根役者のオンパレードで、しばらく我慢したが見続けることが出来ずに消去した。

 

「薄氷の殺人」(2014年中国・香港)はバラバラ殺人を追う刑事が主人公だが、これがムチャクチャなキャラクターで、どうして香港がからむとこういう信じられない刑事がまかり通ることになるのかと恐れ入る。やりたい放題を繰り返しながら変に自己嫌悪に落ちこむのだから、その自己省察のなさにあきれ果てる。中国人とはそういう人種なのか。最後に見え見えの真犯人が明らかになって手口と動機も判明する。いちおうストーリーは筋が通っているのだ。

 

 デンマークの特捜部Qシリーズは北欧で人気があるらしい。「特捜部Q キジ殺し」(2014年デンマーク・ドイツ・スウェーデン)「特捜部Q Pからのメッセージ」(デンマーク・ドイツ・スウェーデン・ノルウエー)の二本を続けて観た。さらに新作もあって録画してあるはずだが見当たらない。北欧の犯罪小説や映画は大好きだから楽しめた。

 

 人間の心に裂け目が入ってしまうと、その深淵から闇がその人間をおおってしまう。そういう人間が起こす犯罪は当然常軌を逸したものになり、常識的な捜査では犯人が追いきれなくなる。主人公はその闇に取り憑かれたように犯人を追い続け、自分自身もぼろぼろになりながら追い詰めていく。まわりは犯人と主人公の両方に振り回されていく。そうしてラストになっても主人公がかろうじて正気を保ち続けられていることの中に観客はわずかな救いを与えられる。希望とはそういうものか。

 

 映画を集中して観ていると疲れる。そうすると本が読めなくなる。両方楽しみたいのになかなか両立しない。贅沢な悩みだと承知しているが、両方楽しみたい。
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小林秀雄『さまざまな意匠』

 文章が読みにくいとか難解だ、と云われる文筆家は何人もいるけれど、先日読んだ吉本隆明がそうだったし、福田恆存、花田清輝、そして今回読んだ小林秀雄もその一人だ。ただ、吉本隆明が悪文のために読み難いのと違って、福田恆存や小林秀雄が分かりにくいのは中身が濃すぎてその論旨の展開についていけないためらしいと私には感じられる。

 

 だから小林秀雄は嫌いではない。ほとんど解らないながらもいままでけっこう読んだ方だと思う。今回『さまざまな意匠』を読んで見て、何が言いたいのかまとめようとしたらやはりうまく説明出来ないので、二度読み直してみた。各部分の意味をおぼろげに理解出来るまで読んで見ると、それぞれについてなるほどと思うことがないではなかった。

 

 「意匠」とは外観を工夫することであり、デザインといっても好い。たとえば文学作品を論ずるのに写実派とか新感覚派とか、プロレタリア文学とかさまざまに名付けて分類して評論する。そのことの意味について、芸術とは何か、芸術家とはどういう存在が、芸術作品とはどういうものか、それらを批評したり評論したりするということはどういうことか、それを論じているようである。

 

 もちろんのこと作品は芸術家そのものではない。行動し続ける芸術家の里程標のようなものであって残されたものである。作品をどう解釈するのか、鑑賞するのかは鑑賞家に委ねられている。芸術家の意図と違ってもかまわないし、違う人間なのだから違うのは当然ともいえる。

 

 しかしその作品を生み出した芸術家の置かれた時代背景や状況を知ることは鑑賞の深さを深めることに寄与する。それを理解するために「意匠」を凝らす意味があるとも言える。評論とはそういうものでなければならない。

 

 小林秀雄は「ある意匠」について語りたいことがあるらしく感じられるが、それだけを取りあげるのは却って語りたいことが伝わらないと考えて「さまざまな意匠」を語ったように思えた。

 

 たぶん私の得意な誤読だろうけれど・・・。
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2020年2月 8日 (土)

新型コロナウイルス感染者の中国発表数字についての疑問

 中国が日々発表する新型コロナウイルスの感染者数と死者の数について、その真偽は外側からは分からない。しかしながら私がおかしいなと思うことがある。

 

 そもそも新型コロナウイルスかどうかの判定は、当初は確立していなかったであろうから、見逃されていたものが多数いて、患者がどれだけいるのか分からなかったであろうと推察出来る。だから時間と共に実際以上に感染患者数が急増するように見えることになる。

 

 しかし死者についてはひとりひとり原因をしっかりと確認するから、当初から当然見逃される場合は少なかったはずである。それならば感染者の判明数が増えれば増えるほど致死率は減るはずである。患者数という分母が増えるのだから。ところが不思議なことに感染者数の急増に対して致死率が誤差範囲の2%をずっと維持している。あたかも計算したかのようである。

 

 こういうものを見せられると、そもそも中国の統計数字というものは・・・という思いを新たにする。世界が中国の発表数字に首をかしげることになって、中国の信用を著しく毀損しているようだ。

 

 実は死者のカウントも恣意的だという情報を昨日のBSフジのプライムニュースで興梠氏が紹介していた。それに対しての、同席していた朱建栄氏の中国政府擁護の見苦しさには失笑するしかなかった。そのような見苦しい擁護は、却って中国という国は事実を見つめることの出来ない国だとして貶めるだけだということが当人には見えていない。
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プラスチックゴミについて

 独り暮らしでそれほどの消費活動をしていないのにゴミ袋がすぐ満杯になる。食品などの包装容器が多い。多くがプラスチックである。私の住んでいる地区はペットボトルなどの資源ゴミ以外はプラスチックでも燃えるゴミとして出してよいのでありがたい。

 

 そもそもプラスチックはポリエチレン、ポリプロピレン、スチロール、塩化ビニール等々種類がさまざまだから、分別して再生するのは極めて困難なのだ。だから単一であるペットボトルのようなものは別にして燃えるゴミとして焼却するのが合理的なのである。それを敢えて分別させていたのは、それらを資源として中国が引き受けていたからだ。つまり分別して中国に捨てていたのである。その中国もゴミ捨て場の役割をやめた。

 

 プラスチックの海洋汚染が深刻だとして大問題になっている。しかしそれが私には不思議でならない。もちろんプラスチックの海洋汚染は問題ではないなどと言いたいわけではない。どうしてそれほど大量のプラスチックゴミが海に捨てられたのかが不思議なのである。糞尿やゴミは捨ててはならず、きちんと社会の回収システムの中に戻すのが人間としてあたりまえのことで、そのあたりまえのことが出来ない人間が大量にいるからこのような事態になったことが信じられないのである。

 

 きちんと処理すれば海や道路脇にゴミが散乱するはずはないのである。

 

「ゴミを拾う人はゴミを捨てない」というのが私の大好きな言葉で、「開けたら閉める」と共に生きる基本と考えている。その基本が出来ない人のあまりに多いことに絶望的な気分になる。

 

 利便性のために大量生産によってほとんどただ同然に提供されることになったプラスチック製のレジ袋を廃止することに血道を上げざるを得ない社会というものに哀しい思いがする。問題の本質は各人がゴミを捨てずにきちんと処理することにあって、レジ袋の廃止にはないことが語られないのはどうしたことか。

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2020年2月 7日 (金)

淋しいから独りが好き

 在職していた会社は大会社ではないが、OBの会があって会報も出しているし、いろいろな懇親の催しがある。その会報を眺めて懐かしい人たちの消息を知る。毎年の会合もあってお誘いいただくのだが、一度も出たことはない。小学校や高校の同窓会の連絡も貰うけれど、最近は全く参加しない。

 

 気心の知れた人としか上手く話が出来ないたちなので、そういう会は苦手なのである。そういう性格なので、多くの人の集まる場では手持ち無沙汰の時間が必ず生ずる。そしてそういう時間は独りでいるときよりもずっと淋しい。喧噪の中の孤独は最も淋しい。

 

 私は人嫌いではないから、気持が通じ合える人とは楽しく時間を過ごすことが出来る。だから自ら積極的に友人や先輩を訪ねて会食するのは最も人生で楽しい時間である。ぜいたくでわがままだと思われるかもしれないが、喧噪の中の孤独よりは独りでいるほうが好い。
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裸の王様は裸に見えたのか

 裸の王様のお話は、王様が見えない衣装を見えないと言えなかったために、裸で国民の前を行進することになったという話しだ。国民は王様が裸に見えたが、「裸のはずがない、自分にだけ裸に見えているのだ」と思ったのか、「自分には裸に見えるけれども、裸だというとおそろしい目に遭うかも知れない」と考えたのか。

 

 子供が「王様は裸だ」と叫んだために魔法が解けてしまったと言うのがこの話のオチだ。

 

 しかし王様は裸などであるはずがないと思いこんでいる国民には、王様は豪華な衣装を身につけているように見えていたのではないか。

 

 習近平は、トランプは、プーチンは、裸の王様か。魔法とは何か。

 

 タレントを雲の上まで持ち上げておいて裸の衣装を着せて見せた上で、そこから叩き落としてみせるマスコミというのは悪い大臣そのものに見える。
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2020年2月 6日 (木)

吉本隆明『宮沢賢治の世界』について補足

 難しいことを解るように説明してくれる本と、やさしくいえば分かることを難しく書いてある本と、どちらがよい本か自明であるはずなのに、世の中には難しく書いてある本を自分だけが理解出来たような顔をしてありがたがる人は案外多いものである。

 

 私は、他人がすらすら読めているらしい本がちっとも解らないことがしばしばあって、自分が自分で思っているより頭が悪いのだろうと残念に思っていた。ところが先般も書いたが、呉智英が吉本隆明の悪文をこき下ろしている本を読んで、解らなくても恥ずかしくないのだと慰められた。そして、その悪文をふつうの読める文章に翻訳して見せてくれた呉智英に、本当に頭のいい人というのはいるのだ、ということも思い知らされた。

 

 そうして、難しい本にも本当に難しいけれども挑戦するに価する大事な本と、悪文で無理に読みこなしても苦労ばかりで得るところのあまりない本とがあることも知ることになった。その違いは読んでいるうちに分かるものだ。

 

 吉本隆明は団塊の世代にとっての流行だったのだといまならわかる。

 

 吉本隆明はさまざまなひとと論争をして、互いに高めあったときもないではないが、だいたい感情的な罵言の投げ合いに終わることが多かった。私の記憶では谷沢永一との論争では完膚なきまでに叩きのめされ、最後は感情的な負け犬の遠吠えに終わったことを思いだした。谷沢永一は吉本隆明を歯牙にもかけなかった。

 

 とはいえ、まるで中身がなければそれなりの評価がなされるはずもなく、そう言う意味で今回読んだこの本で、宮沢賢治が東北人であること、縄文文化を根底に持つ原日本人の自然観や宗教観を持っていたことを指摘している点は大いに同意する。どうして宮沢賢治が法華経信者でありながらあのような自然観を持ち、科学と宗教と芸術の共存を信じたのか、その鍵はそこにあるという指摘は鋭い。

 

 さらに柳田國男の視点との共通点があるのではないか、と云う問いかけも面白いと思うが、吉本隆明も認めているように同時代のはずなのに宮沢賢治は全く柳田國男には言及していない。知る機会がなかったのかも知れない。
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吉本隆明『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)

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 この本には吉本隆明が宮沢賢治について行った11の講演が収められている。若いときから宮沢賢治に傾倒して三十年以上にわたって評論を行い、考えたことを講演の形で語ったものである。そして一つ(『いじめと宮沢賢治』)を除いては講演録を文章化するにあたって本人が手を入れている(と編集者の小川哲生氏があとがきに書いている)。手を入れてこの文章か、と私は思う。

 

 同じ作品が繰り返し講演で取りあげられて語られている。それが宮沢賢治を理解するために必要な作品であるならば繰り返すのはあたりまえだが、その場合は次第にその考察が深化し、スパイラルのように上昇していくべきである。そうでなければいくつもの講演を並べる意味が無い。

 

 ところが残念ながらほとんど同じことの繰り返しである。しかも言葉がくどい。例に挙げたいところは山のようにあるが、そんなものを引き写してもしようがない。『銀河鉄道の夜』が繰り返し取りあげられるのは理解する。ところがもうひとつ、『マリヴロンと少女』という短い話がこれでもかとばかりに繰り返し繰り返し取りあげられて、そこで宮沢賢治の芸術と宗教についての考えを推察しているのである。

 

 この『マリヴロンと少女』という作品は文庫本なら三ページか四ページの本当に短いもので、これが宮沢賢治の理解のキーとなる作品だとは私にはとても思えない。私には吉本隆明のような理解力が無いのであろう。

 

 ごくたまに吉本隆明節が飛び出すと、むかし『共同幻想論』を読んでちんぷんかんぷんだったことを思いださせられる。こういう本は以前なら三分の一ほど読んで放り出したところだが、今回はチャレンジを自分に宣言したので最後まで読み切った。

 

 いやあ、この人の本は二度と読むまい。一々引っかかることばかりで、私とは相性が合いそうもない。とはいえ全く共感するところがなかったわけではない。そのことについては次回記す。

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2020年2月 5日 (水)

希望的楽観

 中国当局は武漢を発生源とする新型コロナウイルスの問題に対して当初、隠蔽しようとしたことは間違いないようである。このことは中国共産党という一党独裁政権、つまり全体主義の国の、問題に対する対処の仕方の典型的な行動パターンにもとづくものであることは明らかだ。SARSのときも同様だったし、新型高速鉄道の列車事故の時の初期の処理もそうだった。生存者がまだ残っていたかも知れない車両を、せっせと穴を掘って埋めてしまったのを世界が呆れて見ていた。

 

 隠蔽のための対処の遅れが事態を極めて悪化させた現時点で、国政府の対応、地元政府や指導部の対応のまずさを失敗として糾弾されることは致し方ないことであろう。

 

 しかし責任者たちは、このように感染が拡大してしまうとは想像していなかったのだろう。感染拡大がここまでになると分かっているのに隠蔽し、対処を遅れさせたら却って責任は重くなり、被害は甚大になるくらいのことは考えるはずだ。彼らは希望的楽観をしていたのだろう。

 

 大抵の場合は隠蔽して個別対処すればなかったことが出来るという成功体験を積み重ねてのし上がった責任者たちであろう。さすればことを騒ぎ立てるものの口を封じ、なんとかなるだろうと高をくくるのはあたりまえのことだったかも知れない。私が中国の責任者だったと考えると、あながち同じことをしないと言い切る自信はない。

 

 それで責任を免れるわけではないが、そもそもが情報統制で支配する全体主義国家というのはそうなってしまう構造になっているのだろう。それを個別の責任者の責任を問い、その想像力の欠如を糾弾することで正義と考えていては、このような問題は繰り返し繰り返し起こるだろう。中国政府はこの問題をそう捉えることはできない。そう捉えると自己否定になってしまうからである。

 

 中国国民の不幸だが、その体制を選び、その維持存続を許しているのも中国国民である。

 

 中国はお隣の国なのに、ますます遠い国になった気がする。私は中国を歩き回るのが好きなのに・・・。
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淡路島、伊弉諾神宮と北淡震災記念公園

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伊弉諾神宮は伊弉諾・伊弉冉の二神を祀った神社。国産みの神事を行い天照などの主神を産んだあと、余生をこの聖地に過ごしたという。

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放生の神池。鯉や亀を放つ場所。立派な鯉が泳ぐ。

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入り口の門。この日は節分で、何か催しがあるらしく、地元のおじさんおじいさんたちが黒いスーツを着てたくさん集まっていた。

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夫婦の大楠。日本の楠が途中で接合し癒着したまま大楠になっている。

由緒ある神社はたいていそうであるが、パワースポットでもある。神韻を感じるのは、そういう場所が選ばれているからでもあり、歴史と人の思いがこもっている場所でもあるからであろう。

北淡(ほくだん)震災記念公園へ向かう。阪神淡路大震災の断層を見ることができる。

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入り口を入ると倒壊した高速道路のイメージをパノラマで見ることができる。

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そのときに生じた野島断層。上下に50センチ、左右にⅠメートルずれた。長さは10キロを越えていたがこの場所の100メートル足らずの部分だけが残された。

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地震直後の台所の惨状。体験したらまず呆然として、片付ける気力を奮い起こすまで時間がかかるだろう。

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この部屋で実際の揺れを体験出来る。弟夫婦と三人で揺らして貰った。直下型の地震の衝撃を是非体験することをおすすめする。

このあと一路名古屋に向かい、今回の小旅行を終えた。

 

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2020年2月 4日 (火)

鳴門公園展望台

鳴門公園の駐車場から長い長いエスカレーター(有料)に乗って展望台へ登る。平衡感覚がおかしくなって、クラクラするエレベーターである。

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徳島から淡路島へ渡る大鳴門橋が眼下に見える。その下に渦潮が見える。潮は左から右へ流れているようだ。

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橋の途中まで歩いて行ける道があるらしい。そこから下の渦潮を見ることができるそうだ。あとで弟夫婦に行くことを勧めたけれど、道をまちがえたと行ってすぐ引き返してきた。

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精一杯カメラの望遠でアップしてみたが、綺麗な渦は見えず。ところが展望台備え付けの大きな望遠鏡が故障中なので無料で覗くことが出来た。つまり料金を受けとるところが故障しているが、見ることはできるのである。三人で思い切り渦のアップを楽しんだ。

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右手の方にこんな島が見えた。この島の左手にも渦のもとらしきものがときどき見えた。

このあと大鳴門橋を渡って淡路島の温泉ホテルでゆっくりと湯につかり、弟と風呂上がりのビールを楽しんだ。

 

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広島から徳島へ

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息子の結婚式のあった翌早朝、ホテルの部屋から広島駅を見下ろす。左手が広島駅。このときはくもっていたが、そのあと薄日が差してきた。ここからしまなみ海道を行き、四国・今治へ渡る。

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今治側の来島海峡サービスエリアで、来島海峡と渡ってきた橋を遠望する。実際はもっと霞んでいた。

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湖のように海面は静かだ。

このあと瀬戸内海を左手に東へ、徳島へ向かう。途中で讃岐うどんを食す。

引田(ひけた)から海岸沿いに走って四方見展望台に立ち寄る。

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よもみ、と読む。ここのすぐ手前の橋が足がすくむような橋で、見応えあり。

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展望台からの絶景。点々と見えるのは釣り用の桟橋だろうか。

このあと鳴門公園に向かう。

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2020年2月 3日 (月)

くたびれた

 一昨日広島での息子の結婚式を終えて、翌朝広島からしまなみ海道で四国・今治に渡り、瀬戸内海沿いに東へ走り、徳島の渦潮を遠望し、淡路島に宿泊。本日は伊弉諾神宮と阪神淡路大震災記念館を訪ねて、野島断層を見学し、実際に地震の揺れを体験した。そのあと帰路につき、夕方早くに自宅に帰着。同行の弟夫婦はわが家で一息入れてすぐ千葉に帰った。二人とも明日仕事があるのだ。

 

 昨晩も温泉に入ったあと早くから爆睡したのだけれど、疲れが多少残っており、いまわが家でぐったりしている。ずいぶん意気地が無くなった。歳だなあ。いくらか写真を撮ったけれど、整理するのは明日にして今日は早めに休むことにする。写真は明日以降に掲載します。
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吉備津神社と吉備津彦神社

先月末日、倉敷泊まりだったので、夕方、そこから近い吉備津神社と吉備津彦神社にお参りした。共に大吉備津彦神を祀っている。もともと岡山県、とくに吉備地方は古代には豪族の多かったところで、古墳もたくさんあるという。吉備真備の出身地である。

 

大吉備津彦神はこの地方の温羅(うら)という鬼を退治した。桃太郎の話はそれがもとになっているともいわれる。だから岡山が桃太郎伝説のふるさとなのだ。

 

吉備津神社は鳴釜神事でも知られる。

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吉備津神社本殿の屋根。遠くから見たときは夕陽にきらめいていた。

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平賊安民。賊を平らげて民を安んずるということだろう。

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きびだんごは吉備の団子という意味だろう。私はむかし黍(きび)の団子だと思っていた。どうして鳥の餌みたいな黍の団子を犬や猿やキジが欲しがるのか不思議に思っていた。たぶん黍の団子は美味しいにちがいない。店が閉まっていて買うことが出来ず、まだ食べたことはない。

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吉備津彦神社本殿。吉備津神社から裏道を行けば近い。

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拝殿奥を覗く。

両神社とも本殿は囲いで隠されて居らず、直接見ることができる。広くはないが好い神社で行って良かった。

このあと倉敷郊外のホテルに泊まり、近くの店で弟夫婦と刺身やもつ鍋を楽しんだ。

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2020年2月 2日 (日)

息子の結婚式

昨夕は息子の結婚式だった。
(最後の私の父親としての挨拶も含めて、)好い結婚式だったと思う。

何しろ息子のために珍しく私は社交的にふるまったのである。


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2020年2月 1日 (土)

野党批判に反論する野党擁護論について考える

このブログがアップされる時間は息子の結婚披露宴がたけなわになっている頃で、私は差された酒を断らずに飲んで酩酊しているかも知れない。

 

では本題

 

「野党が喫緊のコロナウイルス問題を差し置いて桜を見る会の問題ばかりを追求するのは如何か」という批判がある。それに対して「桜を見る会を批判するのは悪か」という、野党を擁護する論が呈示された。

 

 桜を見る会の問題について、それを是とする人はほとんどいないと思われる。安倍首相自身も問題があったとして謝罪し、今年はそれを中止することも決まっている。だから桜を見る会はあえて云えば「悪」であったといえる。だからこの擁護論の「悪か?」という問いは「批判は悪ではない」という答えが妥当であろう。

 

 この論では「桜を見る会ばかり」批判しているというのはあたらず、野党はコロナウイルス問題も追求している、マスコミなどは桜を見る会批判の部分だけを取りあげて国民の誤解を招いていると反論する。

 

 然し私の見た立憲民主党副党首の蓮舫議員は延々と桜問題を質問し、その他の問題についての質問はあたかも付けたりのように見えた。そうなったのは、蓮舫氏によれば「それは今回そういう私の役割だったから」と説明している。

 

 ところで立憲民主党や共産党が何より優先して桜問題を質問してみせるのはどういう目的か。それは最後に必ず「そういう問題を起こした安倍首相は即刻辞めるべきである」というのが決まり文句であることから推定出来る。安倍首相退陣のための質問なのである。悪は倒さなければならないといいながら、安倍政権を倒して自らに再び政権がまわってくることを目指していることは明らかだ。

 

 国民にもそれが分かっているから安倍政権の支持率はあまり下がったりしないし、桜問題を追及する野党の支持率が上がったりはしていない。安倍首相の支持は消極的支持といわれる。消極的に支持せざるを得ないのは野党がお粗末であること、自民党に安倍晋三以外にすぐ交替して欲しい人がいないことを国民が感じているからにほかならない。

 

 そんなときに喫緊の問題を差し置いて桜問題を追及することが国民にどう受けとられているのか、立憲民主党は思い至らないのだろうか。

 

「桜を見る会を批判するのは悪か」という問いかけは、「悪ではない」という答えを導き、だから桜を見る会批判は正義であって野党の質問偏重も正しい、と云う誘導の質問ということになるが、国民がそれに賛同するかどうか。

 

 このような設問は、悪の安倍政権を批判することを批判するのは悪に加担することである、などといいかねないような気がして気になる。
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藤原惺窩

 さまざまなことがさまざまに関連している。藤原惺窩が日本の朱子学の確立に関係している儒者であることは、高校時代の日本史で習ったことをおぼろげに記憶している。その藤原惺窩を江藤淳が『歌学から儒学へ』という文章で論じているのを読んだ。

 

 藤原惺窩がもともとは僧として仏教を学び、のちに仏教を離れて儒者になったことも意外だったが、それ以上にそもそも彼が冷泉家の正統の家門であることに驚いた。冷泉家といえば、現在唯一の公家屋敷を残していて、その蔵に所蔵されているさまざまな古文書や家具調度が悉く貴重なもので、かけがえのないものばかりであることは、テレビでたびたび紹介されている。もともと冷泉家は藤原定家などの歌学の家でもあるのだ。

 

 ただ藤原という名字が一致するだけだと思ったら藤原惺窩は本流だったのだ。

 

 そのような人がどうして日本朱子学の確立者になったのか、徳川政権の思想的基盤につながる朱子学を確立したのか。その生い立ちから冷泉家がその時代に置かれた難しい立場、二条家との激しい対立などが説明される。

 

 先般読んだ松本健一の『三島由紀夫と司馬遼太郎』という本で、三島由紀夫の依って立つ陽明学という思想の革命性と対比して朱子学が語られていた。体制維持の論理である朱子学と、革命的思想ともいわれ、維新の思想的背景となった陽明学が同じ儒学から発していることに興味がないことはない。

 

 しかし私にはいまさら朱子学や陽明学の思想を学ぶだけの能力も時間もない。ただ、藤原惺窩を論ずることで朱子学を、そしてそれが幕藩体制の維持に寄与し、それのアンチとして陽明学がさかんになって明治維新につながっていったことは最近ようやく知った。

 

 そういう思想的な背景が太平洋戦争にどうつながっていったのか、日本人の思想にどのように影響していったのか、西洋思想と日本思想とのせめぎ合いが明治時代の文化人の心的葛藤であったとすれば、それらの源流についての大まかな見通しくらいは知るべきであろうということを江藤淳や松本健一に教えらた次第である。歴史は現在の我々につながっている。その繋がりを知ることは大事なことだと思っている。
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