「現時点で最も大事なのは、早急に誰もが公平に検査できるようにすることだ。そして、治療法の確立、ワクチンの開発へつなげていくことだろう」。先日ある方のブログで拝見した文章の一部である。正論であり、全く異論は無い。政府もそのように努力しているであろうことを期待したい。
さはさりながら、日本の現在の一日の検査可能件数は「誰もが公平に検査出来る状況」とはかけ離れた少数であるという。検査可能な場所、検査能力のある人員、検査のための機器すべてが全く足りない。拡充すべく努力して方法も改善されるだろうが、それには時間がかかる。
それなら現実に優先順位をつけざるを得ず、優先順位をつければその判断に不満を持つものも出て来る。物が足らないときには必ず起こることで、大まかな基準は示せてもすべての事例に適用するものなどあった例しはない。この世に運不運はつきまとう。なぜ韓国のように体制を整えておかなかったのか、と云う批判は正しいが、批判したからすぐに改善されるというものではない。その責任は事態が収束してから追求すれば好いことだ。いまは疾病対策に従事している人の邪魔をしないこと、不慮の不注意な行動で自分が社会に負荷をかける立場にならないことに努めるしかないであろう。
責任追及といえば、僅かな金を惜しんでその千倍万倍の損失を蒙るという事態が近年特に目につく。津波による原発の電源喪失対策の数億円を惜しんだために一企業(東京電力)に数兆円、国家に数十兆円ともいわれる損失を与えたように、今回の疫病対策のための予算をいままで削りに削ったことで得られたたかが数十億円は、いま日本の国に数兆円の損害を与えている。
過去に、つまり歴史に事例のないかのようであるが、それぞれ全く同じことがあるわけではなくて、似た事例があるからこそ再びそういうことが起きることが予測され、その対策が求められる。何を見誤ったのか、何を怠ったのか、徹底的な検証が行われるべきだと思うが、それが不十分だから繰り返し同じような失敗をする。
震災後にさまざまな検証らしきものが行われたが不徹底そのもので、だからその責任者が「そんなことが起こるとは思わなかった」という言葉で免罪されていく。地震や疫病が起こるか起こらないかは誰にも分からないが、起こるかも知れないから対策が必要なのだ。その対策を怠れば責任者は責任を取らねばならない。
原発事故の責任を問う裁判の論点が、「地震や津波を予測できたか否か」、にすり替えられて判決が行われているのを見ると、裁判所というのは神学論争の場所かと呆れ果てる。神ならぬ身の人間に「予測できたか」を問うのである。しからば予測できなかったと云う結論になり、無罪である。
今度の新型コロナウイルス終息後に為政者が責任を問われることが多々生ずるだろうが、またぞろ「予測できたか否か」が論点となるだろう。そうして経験は常に生かされず、また同じように国が傾くような事態が起こる。次は傾くだけでは終わらないほどのことが起きるかも知れないのに・・・。
火事場で騒ぐ野次馬のように、マスコミは連日新型コロナウイルスで人々の不安をあおっている。そのマスコミの担ぐ神輿の上で医学専門家と称する面々がわけの分からない能書きを垂れ流す。国民はいつまでたっても正しい対処法が分からないと嘆く。分からないわけである。医学専門家だって分からないのだから。テレビを観ていてだんだんうんざりしてきた。いまごろ、といわれるとお返しする言葉がない。
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