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2020年3月

2020年3月31日 (火)

孤独

 孤独は生きている意味を見失わせるところがある。普通の人は他人との関係の中でしか生きている意味を見出せない。孤独と面と向かって生きることに慣れることは難しい。さびしいと思う気持ちに耐えられるかどうかが今の新型コロナウイルス感染蔓延の情況の中での精神の安定に大きく関係しそうである。

 

 もともと他人とのしがらみを面倒に感じる傾向のある私でも、独居老人の日々に寂しさを感じて親しい友人や子供や兄弟に会いに行くことがある。孤独にはたぶん人一倍強い私ですらそうなのであるから、普通の人は孤独がいつまでも続くことは辛いだろうと思う。しかしこの事態はそうそう収まりそうもないようだ。精神を病む人も、自暴自棄になる人もあるだろうけれど、今は耐えるしかない。

 

 報道で中国やヨーロッパでの様子を見ていると、感染死した人の死に目に立ち会えないばかりか、亡骸(なきがら)を眼にすることも出来ないようだ。いきなり関係を絶たれたままでは、親しい人の死を受け入れることが難しいだろう。気持を想像すると心が痛む。

 

 生きているということはどういうことか、根底から自分を見つめ直す機会であるし、それに耐えられないようでは大人とはいえないのだ、と覚悟しなければならない。出来ないことを、それでもしなければいけない日々がこれから当分続く。それでもいまのところ電気ガス水道は滞りなく使えて、食べるものも不自由しない。それを支えてくれている人たちがいる。有難いことである。
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自粛させられる

政府や自治体から、人込みを作らない、不要不急の外出は控えるように要請が出ている。そのことに若者にコメントを求めると、「自粛してやっているんだけど、いつまで我慢しなけりゃなんないの?」というような答えがやたらに多くて気に障る。若者はみんなこんな答えをしているのか、それともそういう答えばかりを選んでテレビで放送しているのか。

 

要請は「される」ものだけれど、自粛は「する」もので、させられるものではない。その辺の受け取り方が根本的に違う気がする。違わないのかなあ。
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2020年3月30日 (月)

気配

 午後、新しい抗生物質投与の効果を確認するための検診に、かかりつけの病院に行く。ほぼ菌は死滅したものと考えられるとの診立てであった。ただ、万一少しでも不調の兆候が見られたらすぐ来院するように、と注意を受ける。耐性菌はその名の通りしぶといのだそうだ。今はどこかに遠出することもないので、すぐに病院に駆けつけることは出来る。

 

 病院にやってくる患者の数が歴然と減っている。処方薬を貰う薬局も待ち人がほとんどいない。病院ほど感染の機会の多い場所はないのであるから、敬遠するのは当然であろう。私だってできれば来たくないのである。それにしても糖尿病の薬などは切らすわけに行かない。病院に何かあれば薬の入手も困難となり、持病の悪化が必至である。持病の危うさを実感する。

 

 志村けんが亡くなった。誰もがまさかと思ったことだろう。もちろん本人が最も驚いているかも知れない。「えっ、オレ?」といまごろ冥土への旅の途中でぼやいている気がする。

 

 志村けんが死んだことで、誰もがこの感染の深刻さが他人事でないことを実感したのではないだろうか。何か黒い影のようなものが世を覆いつつある気配がする。本格的な猖獗はこれからなのだという予感がする。

 

 それなのにミサイルをつぎつぎに打ち上げているバカがいる。それどころではないから誰も相手をするものはない。困っていることがあるなら、お隣の同胞の国を頼ればいいのである。そのほうが分かりやすい。
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『断韓 未来予想』(英和出版社)

 典型的な嫌韓本と言うべきか。先日別の本を購入するついでについ魔が差して買った。外観は雑誌ふうだが単行本のようだ。内容に明らかな虚偽捏造は見られない。どういう情報や事実を選択してどのように配列して提示してみせるか、というのがこういう本の腕の見せ所だろう。次第に韓国という国に腹が立ち、嫌気が差す。そもそもこういう本を手に取ること自体その傾向があるのだから、それが増幅されるわけである。

 

 大半がすでに知っていることの羅列なのであるが、韓国の財閥に関すること、そしてセウォル号事件の背景についてのまとめに私としては目新しいことがあった。

 

 日本の財閥は戦後進駐軍によって解体された。韓国は財閥によって国の経済が支えられていると言ってもいい国である。その財閥は戦後誕生した。昔からあればたぶんアメリカによって解体されたはずである。韓国の主な財閥のうち、日本が関係して誕生したものがかなりある。日本の政財界がともに韓国との関係が深かった(つまり癒着)のは当然のことだったことがよく分かる。文在寅は財閥解体をしたいだろうが、いまさら韓国は財閥解体は出来ないだろう。そのことがわかりやすく書かれている。

 

 セウォル号の沈没事件がどのような背景の元に起きたのか、そして助けられるはずの人がどうして多数死ぬことになったのか。事件後明らかになった人災としか言えない多くの事実があって、こちらが承知していたのはほんの一部だったことを知った。韓国の病根の深さをあらためて感じた。

 

 どんな本も読みようによってそれなりに読む値打ちがあるものだ。もちろん影響を受けることは避けられない。影響を受けたことを認識することを忘れないようにしなければならない。
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2020年3月29日 (日)

暗くて悲惨だけれど明るい未来予想図

 少々悲観的な気分のなかにいる。泌尿器系の不調は最悪のときに比べればほとんど問題ない程度であるけれど、完全に元通りにならない。膝はますます痛くて立ったり座ったりするときは何かにつかまらないといけないという情けない状態だ。日常の雑務がそれにともなって億劫になる。身の廻りが散らかったり薄汚れたりしはじめる。そのことに腹が立ったので、少し身体をいじめてやろうと膝の屈伸やスクワットを始めた。逆療法である。膝が悲鳴を上げるのでゆっくり少しずつしかできないが、その痛みが快感でないこともない。

 

 それより新型コロナウイルスである。

 

 あれよあれよという間もなく、誰も予想しなかった最悪の展開になっている。多少他人事とみていたけれど、とんでもない。顰蹙を買うことが明かなので、あまり大っぴらに言う人がいないような未来予想をあえて書いておく。

 

 この新型コロナウイルスは地球上すべてに蔓延して、抗体のある人が大多数になってようやく終息することになるのではないか。それまでに全面的な医療崩壊が起こり、持病のある高齢者の多くは重症化し、結果的にやむなく手当てが後回しにされてほとんど死に絶えてしまう。

 

 経済は大打撃をこうむるけれど、ダメージからの回復が進むのにあわせて経済も急激に改善していくことだろう。そのときに最も世界経済に寄与するのは、持病のある人、老人の多くが死に絶えたことによる社会福祉費の負担の大幅低減であろう。健康な人が生き残り、強化された医療にはゆとりが出来るから、生き残った人たちは新しい疫病に対する対策が万全になるよう努めるだろう。それだけ社会は身軽になる。明るい未来が待っている。そしてそのさきは・・・。私は持病もちの高齢者なので、そのときは存在しないからどうでもいい。
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内田樹『下流志向』(講談社文庫)

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 内田樹老師の本を店頭で見るようになったのは2000年代になってからだった。彼は私と同年の1950年生まれで、彼の本を読むごとに新しい視界が開かれるような心地がして、それ以来老師と尊称をつけることにしている。彼が世間で有名になったのは『日本辺境論』(2009年・新潮新書)がベストセラーになったあたりからだろうか。こちらは私はだいぶ後になってから読んだ。

 

 老師の本を手当たり次第に読んできたけれど、またか、とマンネリを感ずることはなかった。読むたびに、「なるほど」と思うのである。ただ政治的スタンスについてだけはまったく違うところがある。そしてその点については影響を受けることはない。最近はその色合いの強い本が多くなって、少し距離を置いている。たまたま押し入れの本を整理していて、押し込んであった老師の本の山の中から何冊か引っ張り出して来て、久しぶりにこの本を読んだ。

 

 この本の副題は『学ばない子どもたち 働かない若者たち』である。老師はこの本で教育問題についての新しい視点を提供している。教育や労働を、いわゆるビジネスモデル(等価交換モデル・「こんな勉強をして何の役に立つの?」という子供の質問に通じる)で論じることの不毛であることを論理的に説明している。子どもたちが積極的に無知であること、学ばない道を選ぶのはなぜなのか、それが明快に絵解きされていて「なるほど」とうならされる。2009年発行のこの本も、もともと2005年に発行された単行本の文庫化だから、15年以上前の文章であるのに、まさに今ますます『下流志向』が進行しているような気がする。

 

 いわゆる「ひきこもり」に対する処方についての提言は、逆説的ながら理にかなっている。今の教育界を見て何かおかしいと思うような、教育に少しでも関心がある方は是非一度この本を読んでみて欲しい。驚きながらも説得され、「なるほど」と思うはずである。それはある意味で快感でもあるはずだ。
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2020年3月28日 (土)

雑読

 しばらく雨が続くという予報だったので、木曜日(26日)には久しぶりに散歩をした。何だか身体の左右のバランスが悪くなっていて、歩き方がぶれる。今までになく疲れるし、早く歩けないことに愕然とする。歩き方が下手くそになっているのである。

 

 理由があって欲しい雑誌を買うため、今回は本屋へ立ち寄る周回コースを選ぶ。目的の雑誌のほかに新書などを何冊か購入。シンシアリー(韓国生まれの人の本)の本や高橋洋一の本、宮崎正弘の本その他などである。ある人にとっては嫌韓本や嫌中本に分類するだろうけれど、感情的な類書に比べて主張の根拠がちゃんと書かれているし、新しい情報も多少はあるので、私には面白い。

 

 シンシアリーは韓国の歯科医師で、匿名で反日の非を主張していたが、身の危険を感じて最近は日本に移住している。韓国を心から愛しているがゆえに歴史を歪曲している韓国の歴史認識の問題点を指摘し続けているのだが、日本の走狗と見做されて批判を浴びているのだ。シンシアリーの本をすでに十冊近く読んで、私は韓国の人全体が反日ではないこと、是々非々の思考の可能な人が少なからずいることを確認させて貰っている。読みかけの本も二冊ほどあるので、読まなければならない彼の本が三冊も手元にある。

 

 高橋洋一はテレビに出ることもある人だから知る人は知っているだろう。経済学者で、安倍内閣の経済ブレーンだったこともある。彼が経済面から韓国と日本を対比させてその近未来を予言しているようだ。帯から見るとかなり韓国の未来を暗く予言していると思われる。

 

 宮崎正弘は中国嫌いの中国学者・・・いや、学者というよりウオッチャーか。中国に友人も多く情報通で中国の歴史にも詳しいことを武器に中国を批判する本をたくさん書いている。分かりやすくて面白いけれど、かなり中国の未来を悲観的に眺める傾向が強いので、初心者は悪影響を受ける恐れがあるので注意が必要。石平などと馬が合うと言えば分かりやすいか。以前から何冊か読んできたが、その予言通りならすでに中国は崩壊しているはずで、安泰なのは不思議なことだ。

 

 そんな本を雑読しながら、安岡章太郎の『アメリカ感情旅行』や内田樹の教育論『下流志向』や奥野健男の文芸評論集、江藤淳の本などを並行して読んでいるから頭のなかはぐちゃぐちゃである。そういえば北方謙三の『楊令伝』もまだ途中であった。

 

 昨日から雨なので散歩にも出られない。音楽を聴きながら本を読んでいて、その音楽が聞こえなくなると本への集中が始まっていて、時間を跳躍する。
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今そこにある危機

 BS1スペシャル『ウイルスVS人類 未知なる敵と戦うために~』という番組を見て示唆を受けることが多かった。こういう専門家のこういう番組が見たかった。

 

 今回の新型コロナウイルス感染には厳密な意味での終息はない。今までの新型インフルエンザなどと同様、どこかで共生関係の折り合いをつけるしかないことを覚悟する必要があるようだ。とにかく特効薬の開発が完成するまでは医療崩壊をおこさないための手立てを取ることしか方策はないという。

 

 これは番組で直接言及したことではないが、分からないこと、不備であること、失敗したことを認めることを回避したまま解決策を求めても良い結果が得られないということが実感された。失敗を認めるとすぐその責任を問うのが得意な蓮舫女史のような面々がひしめいているのが世の中である。それでは問題点に直面することが出来ない。原発も「安全神話」のために自己崩壊するに至った。他責的で自分の問題として考えられないものほど失敗を激しく追及し、問題解決を困難にする。

 

 地球温暖化、エネルギー問題、環境問題、そして疫病、それらの事態を自分の問題として考え、他人のために自分の出来る負担を引き受ける、弱者を助けることを当然と考える、そのように意識変革をしないと乗り越えられない危機の時代が今そこに来ているようだ。
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2020年3月27日 (金)

蛙を見て帰る

下呂温泉・飛騨の里の中に小さな休憩室があって、そこに置いてある蛙の置物が私のお気に入りである。

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子供のときに蛙にはたいへん迷惑で残酷な形で親しんだ。すまなかったと今なら思うが、あの感触と臭いは懐かしい想い出でもある。

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国によって蛙の造形のイメージが違うようだ。分かるけど。

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狭い棚の間に並んでいたので暗かった。

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蛙は擬人化しやすいのだろうか。なんとなく小狡いような顔になってしまうところがある。アニメの「千と千尋の神隠し」でも蛙は姿も台詞もそういうイメージだった。

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蛙の面に何とやら、と言うようにとぼけたところもある。

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竹原文楽人形。詳しいことは知らないけれど表情が素晴らしい。人形の顔というのは不思議なもので、怖さを感じたりする。

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民俗資料館の土間に蹲る幸せのなで坊主。撫でられ続けてピカピカつるつるになった頭を私も撫でさせて貰った。

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駐車場の横にあるとちの実煎餅の製造直売所。とちの実煎餅を買うのがここへ来た目的の一つなのでもちろん購入。お店の人が試食に欠片ではなくて一つ丸ごとくれたので「大好きなんです」というと、さらに小さな袋をおまけにくれた。本当に大好きで、飛騨へ来ると必ず土産に買って帰る。

蛙も見たし、煎餅も買ったし、満足して帰る。

 

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福田和也編『江藤淳コレクション1史論』(ちくま学芸文庫)

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 若いころは、評論家は該博な知識があることは認めるものの(それすらない者がいたりするけれど論外である)他人の作品をほめたりけなしたり作者に代わって解説したりする気楽な商売だと思っていた。

 

 もちろんどんな商売でも、それで食べて行くにはそれなりの苦労もあるだろうと承知していたが、本物の評論家を知るごとにそのすごさも知り、考え違いだったことを思い知らされた。ごく一握りながら、その文章を作品として読ませる評論家というのがいるのである。私にとってその筆頭と言ってもいいのが江藤淳である。

 

 弟子である福田和也編集・全四巻の『江藤淳コレクション』の第四巻はすでに読み終えた。この第一巻は史論であるが、核になるのが『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』という労作である。この部分を読むのは二度目だが、日本をいまだに支配している見えない言論統制の原点を顕在化してくれている。詳しいことは本文を実際に読んで貰いたい。歯ごたえがあるが読む値打ちが高いものだと信ずる。

 

 参考までに、長くなるが占領軍の「検閲指針」の項目を以下にあげる。違反すると判定された記事、作品、論文等は削除もしくは全体の発行禁止を命じられ、違反者は日本の法の及ばない米軍の軍事法廷で訴追された。

 

1.連合国最高司令官(最高司令部)に対する批判
2.極東国際軍事裁判に対する批判
3.連合国最高司令官(最高司令部)が日本の憲法を起草したことに対する批判
4.検閲の存在に関する言及
5.アメリカ合衆国に対する批判
6.ソ連に対する批判
7.英国に対する批判
8.朝鮮人に対する批判
9.中国に対する批判
10.他の連合国に対する批判
11.連合国一般に対する批判
12.満州における日本人取り扱いについての批判
13.連合国の戦前の政策に対する批判
14.第三次世界大戦への言及
15.ソ連対西側諸国(冷戦)に対する批判
16.戦争擁護の宣伝
17.神国日本の宣伝
18.軍国主義の宣伝
19.ナショナリズムの宣伝
20.大東亜共栄圏の宣伝
21.その他の宣伝
22.戦争犯罪人の正当化または擁護
23.日本人との親睦
24.闇市の状況
25.占領軍に対する批判
26.飢餓の誇張
27.暴力と不穏の行動の煽動
28.虚偽の報道
29.連合国最高司令官(最高司令部)またはその指揮下にある部局に対する不適切な言及
30.解禁されていない報道の公表

 

 以上については『閉ざされた言語空間』ではなく、柳田國男などの文章が如何に改編させられたかを論じた『「氏神と氏子」の原型 占領軍の検閲と柳田國男』から引用した。こちらの文章は検閲前と検閲後の文章が比較されて詳しく論じられている。

 

 この指針を見れば、マスコミ、特に新聞がどれだけこの検閲に忠実だったか、各項目をよく読むとよく分かる。そしてその呪縛が進駐軍がなくなった現在でも亡霊のように彼らを呪縛しているのが見えるような気がする。

 

 ただ、某A新聞は反骨精神があるのか、第28番目については無視するという行動をとって、顰蹙を買った。それは考えようによってはほかの部分を尊重するあまりの止むに止まれぬ虚偽だったのかも知れない。ついに書かざるを得なくなった謝罪記事は開き直りとも取れる言い訳と反論に終始していた。たぶんその主旨はこの検閲指針に沿っているのだろう。
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2020年3月26日 (木)

円空館

下呂温泉の合掌村の奥に円空館があって円空仏が展示されている。大きなものはないけれど、丁寧に見ていくとその不思議な魅力を味わうことが出来る。もともと円空仏は好きである。円空は岐阜県の羽島の生まれで、この地方にはたくさんの円空仏があるのだが、寺に秘蔵されて見ることができないものが多い。それでも何カ所か公開しているところがあって、思い立つと見に行く。円空仏が大好きな友人がいて、私のところに泊まって二人で見て回った。彼の資料で新しく知ったところもある。

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屋根が輝いている白い建物が円空館。奥にあるのでこの飛騨の里に来ても気がつかない人もいるかもしれない。

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坂道を降りて行く途中に置いてある円空仏。レプリカである。

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背面。このように後ろ側には彫りはない。文字が書いてあるのは後期のものか。

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自分でも彫ってみたくなるような・・・。

このあと休憩所の蛙に会いに行く。こちらは焼きものである。

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名前

 先週、各地の学校の卒業式の様子をテレビで見た。新型コロナウイルスの影響で在校生は参加していない場合がほとんどのようである。保護者の席も卒業生の席も会場の許す限り離して設置してある。異様な光景であるが、それぞれの卒業生のこの式の記憶が、あとであの年はこんなことがあったね、と話題にして笑えるようになればいいなあと思う。

 

 そんなニュースの中に、先生が教室の黒板一面にそれぞれの生徒の似顔絵と名前を描いて卒業を祝しているという話題があった。絵心があってできることでどの先生にも出来ることではないが、生徒達は歓声を上げて喜んでいた。その生徒達を知る先生にしか出来ないことである。

 

 ところでそこに書かれた名前を見てその読み方の分かるものは半分以下であった。先生もたいへんだ。ふりがなをつけておかなければいけない。どんな名前をつけようが勝手である。しかし神代の時代ならいざ知らず、読みの分からない名前だらけというのはこちらの神経に障る。正直言って不愉快である。漢字の読みについては多少は自信があるのに読めないのはこちらのプライドを傷つけるのである。たぶんその読み方を教えられたら、そんな読み方はない、と腹が立つものが多いことだろう。

 

 これは流行り物であると私は感じているが、ほかに社会学的理由があるのだろうか。他のひとのすることだから自分も真似をする、というのは日本人の性向なのか。オリジナリティを意図しながら付和雷同することの安直さが見える。見ただけでは読めない名前をつけることは健全なことだとは思えない。漢字を使って特殊な読み方をさせることが流行るというのは、言葉を軽んずる世相に繋がっていないか。
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2020年3月25日 (水)

注意していること

 中国の新型コロナウイルスの感染数が激減し終息に向かっているという中国発の情報が信用できるかといえば私は疑っている。だからつい、実は感染者がいるのにカウントされていない、などというネット情報にそうだろうなあ、とうなずいてしまう。

 

 医療体制が不十分なアフリカで感染が拡大すると、イタリアどころではない事態になると心配していることは繰り返し述べている。

 

 そう書きながら、中国で再び感染が増加したり、アフリカで感染が拡大したりすることをひそかに期待したりしないように気をつけようと思っている。予言があたったことを自慢したい気持がないとはいえないからだ。

 

 ところで日本も爆発的な感染に移行する恐れがあるから注意して欲しい、と政府や感染症専門家の医療関係者が繰り返し警告を出しているのが気になる。日本は中国との関係が濃厚な割りには比較的に感染の進行が抑えられているが、それをいいことに、多少国民の気が緩みだしていることに対して注意を促さないとならないということだろうと思うが、実はパニックを懼れて公表していないけれど、急増する兆候が現実にあるのかも知れない。

 

 こういうときは無責任なマスコミの楽観論、多くは政府批判をしたいだけの根拠のないもの、に乗せられない方がいいだろう。当分のあいだは注意をしすぎるくらいでちょうどいいと思っている。何しろ持病持ちの高齢者なのであるから、万一の時後悔しても取り返しがつかない。自分だけでなく他人にも迷惑だ。
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今度は大丈夫かも知れない

 新しく処方された抗生物質はちゃんと効果が出ているようで、次第に尿の濁りも薄まり、排尿痛も軽減している。微熱は昨日から無くなったままで、身体のだるさもない。ただ、ひどく寝汗をかいたので、夜中に一度下着を替えた。今度は大丈夫かも知れない。菌が生き残って持病になりつつあるから、再び悪さをしないように徹底的に退治したいところだ。

 

 次は大丈夫そうではない話。

 

 WHOのペドロス氏はWHOの役割を何だと思っているのだろうか。たぶんWHOの人たちは今回の事態に対してそれなりにさまざまに努力されているのかも知れないが、彼のときどきの会見の様子からはそれがまったく見えず、可哀想である。ペドロス氏はただ傍観者的な後付けコメントをしているだけのように見える。それも中国におもねるものであることが誰にも分かるものばかりだ。

 

 彼をWHOの事務局長に押し上げたのは中国であることは公然たる事実だという。中国は国際的な組織に対してさまざまに関与を強めてきたが、そのことによってその組織の本来の役割が見失われている場合が少なくない。ペドロス氏の前の事務局長は中国人で、その役割はひたすらWHOからの台湾の排除であった。そしてペドロス氏はそれに輪をかけて極端に台湾排除を推進していたが、それに対しての世界の反撥が大きすぎて逆効果になり、本人よりも中国が驚いて今は控えざるを得ないようだ。

 

 中国は金を投入して勢力拡大に努力しているが、却って反発を受ける結果になることが少なくない。新型コロナウイルスに関係するさまざまな中国の言動は、世界に不快感を与えているように見える。ことが治まった場合、当然ペドロス氏に対してもかなり激しい批判が行われるだろう。

 

 中国は自国の感染は治まりつつあると強弁しているが、それをまともに信じている人は少ないだろう。そもそも感染が発覚してからの中国政府の隠蔽による不手際が感染拡大の大きな原因であることは世界の心ある人はみな分かっている。だから今医師団をヨーロッパに展開したりさまざまなところに支援したりしているが、それが免罪符になると中国が考えるとしたら甘いだろう。

 

 中国は今まで覇権のために大盤振る舞いをしてきたけれど、そのツケが巨額になった上にさらに大盤振る舞いを続けることは不可能だと思う。日本もアメリカも中国のサプライチェーンの役割を縮小していくことが予想される。そのとき中国は自国の消費だけで中国の巨大な人口を経済的に支えきれるかどうか。しかも中国はこれから労働人口の急激な縮小が始まる。

 

 ところでペドロス氏に非常事態に対してのリーダーシップが感じられないのと同様に、愛知県の大村知事にもその言葉の傍観者的なきれいごとの羅列に、これでは愛知県はたいへんだなあと感じて情けない思いがしている。これはあの愛知トリエンナーレのときに分かっていたことだけれど。
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2020年3月24日 (火)

新型コロナウイルス関連雑感

 WHOが遅まきながらパンデミックと認定した新型コロナウイルスの感染者数と死者数の増加の加速が続いている。今感染者が少ないとされている南半球でもこれから急増する恐れが高いと私は見ている。特にアフリカはヨーロッパや中国との関係が深くて人的交流も多いところである。このまま推移するとは考えにくい。

 

 そんな世界の情勢の中、東京五輪の延期が現実化しそうだ。安倍首相が国会質疑に「今、オリンピックが開催できるかと言えば、出来ないことは明らかだ」という主旨の答弁をしていた。ごく当然の言葉であろう。そして世界全体の事態はまだ悪化し続けていて、収束が見えないなら中止または延期を検討せざるを得ないのはわたしが言うまでもなく自明のことである。

 

 もちろんオリンピック開催という巨大プロジェクトのために巨額の経費と人的資源を投入してきたから、当事者たちはなんとか開催したいという思いが強いことも承知している。だからそれを変更するにはたいへんなエネルギーが必要で、たちまち結論を出すというわけにはいかないことも理解できる。だから金メダリストの選手たちが「IOCが直ちに延期を決定しないのは無責任だ!」と、要請ではなくて抗議非難しているのは気持ちは分からないこともないけれど、関係者に対しての斟酌のない主張にいささか不快感を感じる。

 

 ところで先週バラエテイニュースのコメンテーターのひとりが、無作為に500人を抽出して新型コロナウイルスの罹患検査をすれば、日本全国の大まかな感染状態が90%以上の確率で判明するのになぜそれをしないのか。たった500人かと言われるかもしれないが、この確率は科学的に検証されている」などとのたまわっていた。その場にはそれなりの学識のある人がたぶんいたと思えるのに誰もそれに反論していなかったが、私には首をかしげる話であった。

 

 確率論について知らないわけではない。しかしこの場合、ばらつきはあるけれど全体としては一定の均質性があるという前提の確率論ではないだろうか。人口が多い割りに感染者の数の少ないところ、まったく感染者のないところ、集中しているところがかなり偏っているように見えるものを、無作為抽出したら感染率が分かる、と断定していいものなのだろうか。そしてそのような感染率を調べることが今以上に感染対策にどれほどの意味があるというのか良く分からない。私が分からないだけか。

 

 国によって新型コロナウイルスによる致死率が大きく違う。検査数が多いほど致死率が下がるといわれていたが、それとは違う場合もあるようだ。その顕著な例はイタリアだろう。医療崩壊が起きていて、やむを得ざるトリアージ(医療処置の優先順位)を余儀なくされているという。高齢者、回復の見込みのないものは見捨てられるけれど、それを非難しても、ではどうすればいいのだと反論されれば答える言葉はないのだ。

 

 ウイルスは感染を続けるうちに変異する。今度のコロナウイルスもすでにたくさんの変異をおこしているというから、ヨーロッパのものはより毒性が高いのではないかと私などは感じてしまうのだが、まだそれは検証されていないという。ウイルスも存続のために寄生先の宿主との共生に向かうので、次第に毒性が強くなることは普通は無いはずらしい。無いことが起きているならなんとなく人工的なものかも知れないと想像したりする。毒性が強くなってから医療体制の貧弱な地域(アフリカなど)に蔓延したら・・・その惨禍は想像したくない。
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ブログの更新

 今は一日に二回ブログを更新している。昨年途中まではほぼ一日三回更新していた。何しろ頭に浮かぶ想念をみな書きとめていたし、本を読んだらその本のことを書くし、映画を観ればそれも書く(今は映画は一部だけ埋め草として書くだけで、実際はもっと観ている)。日本中走り回って写真を撮りまくっていて、それも載せていた。さすがに息切れしたので今は二回なのである。書きたくなったら、ときに二つも三つも下書きをしておく。一つも書くことがなくても多少の予備をいつも持っている。それを原則朝七時と夕方五時に掲載予約をいれてある。二三日分たまったと思っても、すぐ日は過ぎるから結構忙しい。

 

 ブログは新しい順に並んでいるので、それを古い順にアーカイブしてファイル化してある。Niftyがいつブログをやめてしまってもいいようにハードコピーしてバインダーに綴じてあるが、あんまり増えたので、昨年秋からサボっている。ファイル化は写真のコピーが手間なのである。いつか寝たきり老人になったらそのファイルを眺めて昔の自分を懐かしもうと思っている。

 

 子供達から私に連絡してくることはめったにない。たいていは私からする。ときどきはブログを見ることもあるらしく、ブログの更新がされていれば生きているわけで、独居老人の孤独死は今のところ心配ない。ただ何かあっても気がつくのがちょっと遅れるかも知れない。そんなことは独り暮らしでは覚悟の上だ。

 

 友人も私の消息をブログで確認していて、私が書いたことを忘れているようなことを、会ったときに話題に出されてこちらが面食らうこともある。何しろ思いつきで書いていて、過ぎ去るような想念を書きとめているだけなのだ。

 

 Niftyのブログであるココログの設定が改訂されて(私にはブログの趣旨を見失った改悪としか思えないが)、最近はココログをやめてしまったり、更新がほとんど無い方も多いようだ。読むのを楽しみにしていた人も多かったのに残念なことである。とはいえ面倒くさがりなので、いまのところこのブログをやめてほかへ移ることは考えていない。駄文ばかりで申し訳ないが、今後ともよろしくお願いしたい。

 新しく読んでくれる人が増えていることを意識しての番宣みたいになった。
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2020年3月23日 (月)

下呂温泉・合掌村

本日の泌尿器科の検診結果は思わしくなかった。それは身体がいちばん解っていることだが。

医師は前回の検診で採尿したものから強い耐性菌が検出されたので、心配していたという。たぶん飲んだ薬がほとんど効いていなかったと思われる、別の種類の少し強い薬を処方するのでもう一週間様子を見ましょう、とのこと。排尿痛と若干のだるさはつらくないこともない。何しろ一日何度もトイレに行くのだし、その間隔が病気のせいで短くなっているのである。ただ、土日と比べて今日は微熱もなくなって多少マシだ。これで薬が効いてくれれば好いのだが。

 

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高山からの帰り道に下呂温泉の合掌村に立ち寄る。

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下呂温泉は日本三代名泉という。自称だと思ったら江戸時代に林羅山が『紀行漢詩集』の中で下呂温泉をそう漢詩に詠み込んだのだという。左のおじさんが林羅山らしい。

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なかなかここも好い佇まいである。前のおじさんはカメラを構えたままいつまでたっても動かない。私はせっかちだし風景写真を撮るつもりでもないので、おじさんごと写真を撮った。

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甘酒でも飲みたいと思ったら本日休業。もともと甘酒は置いていないらしくもある。それならそれでみたらし団子を食べたかったのに。コロナウイルスの影響だろうか。

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昔の小さな芝居小屋があって、その舞台に土雛が勢ぞろいしていて壮観である。

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一体一体が面白い。

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別の建物の中にも雛壇があった。

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梅の花が山に映える。風はひんやりしているがもう春である。

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庖丁塚はいくつも見てきたけれど、ここのは特に立派である。料理人のための小さな神社のなかにある。

このあと今回ここに立ち寄った目的の「円空館」へ行く。

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意識のかなりの割合を占めているので

 どこが具合が悪いだのどこが痛いだのと言うことは同病相憐れむ人には共感できても、そんなことは知ったことか、と思う人もいるだろう。しかしながら日常の想念を綴ることにしている拙ブログなので、意識のかなりの割合を占めている病や痛みについてつい書いてしまう。御寛恕願いたい。

 

 泌尿器系のぐあいは一進一退で、先般処方された抗生物質で多少軽快化したのだが、それが切れた五日目、次第にまた調子が悪くなってきた。昨晩は微熱ながら全身がだるいしまた排尿痛が出て来た。尿の濁りもひどくなっている。今日はその経過報告のための検診で病院に行く。それとは別に、もともと膝を痛めているが、その膝の具合がいっそう悪くなってきていて、先日の高山行でも石段などを登るときにかなりつらかった。整形外科にかかるほどでもないと思っているが、それは整形外科にまで出掛けるとなると病院通いばかりになるのがかなわないからでもある。

 

 この頃、月に一度くらいふくらはぎがつる。いわゆるこむら返りである。その頻度が増えているようでもあり、つる時間が長くもなっている。先日はずいぶんしばらく激痛が続いて、筋肉が断裂するのかと思うほどだった。薬局に行ってコムンケアという漢方薬主体の薬を勧められた。飲んでみたけれど続けて起きることでもないから効いているのかどうか分からない。連用する薬ではなさそうなので、次に気配のあったときに残りを飲むことにする。

 

 何だか不具合が増えてきた。衰えを実感させられているが、運動不足が衰えに拍車をかけているのだろう。分かっているのだけれど、座椅子に治まったまま、本を読み、ブログを書き、読み、映画やテレビを観、音楽を聴いている時間がほとんどだ。散歩に好い陽気だなあ、などとぼんやりと外を眺めている。
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2020年3月22日 (日)

続・飛騨民族村

名古屋に移り住んで三十数年、少なくとも年に三回は高山にやってくるから、すでに百回以上来ていることになる。何度来ても好いところで、来るほどにさらに好きになる。今回は飛騨民族村だけで高山市内の散策の時間がないのが残念である。あらためて人手が少ない間にまた来ようと思う。

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珍しい車田。ぐるぐると回りながら田植えするのだろう。もちろん真ん中から。そうでないと真ん中で立ち往生する。

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一位一刀彫りの実演が見られる建物の前に、変わった切り株がある。見まわしたらいくつもあった。どれも持って帰りたいような好い形をしている。

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これが一刀彫りの実演の見られるところ。一位は木の種類で軽くて丈夫でやわらかい。以前娘のどん姫とやって来たときに集めている梟の彫り物があった。値段を見たら想定以上だったので逡巡したらどん姫が買ってくれた。そのことをおじさんに話したら、「から拭きをこまめにして下さい。好い艶が出て来ますよ」と言われた。写真右手の人が隣で話を聞いていた。トルコから来たらしい。片言の日本語を話す。

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北の方、富山方向かと思うが定かではない。東を向いているのかも知れない。北アルプスの一部であろうと思うが、山の名前を知らない。鳥の名前も知らない、花の名前も知らない、普通の人よりも多少知っているのは魚の名前くらいか。

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こんな春の陽と障子の様子が好い感じである。

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駐車場前の店は休業中。右奥、自動販売機のそばのベンチで西洋人の若者数人が坐って手持ち無沙汰にしていた。

二時を過ぎているので、このあと高山市内に寄らず下呂温泉にある合掌村に向かう。目的は円空仏を見ることと、とちの実煎餅を買うこと。

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北方謙三『楊令伝 九 遙光の章』(集英社)

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 童貫元帥率いる宋禁軍と梁山泊軍の死闘もついに終わりを告げる。一瞬の好機を逃さなかった梁山泊軍が童貫を討ち取ったのだ。宋の禁軍は開封府(宋の都)へ引き上げ、梁山泊軍は多くの死傷者を出しながら勝利した。

 

 趙安の死後、南下を画策する金を抑えていた禁軍の李明将軍は童貫軍に合流することが出来ずにいた。これも楊令が陰で金との連携を行ってきた結果であった。童貫亡き後の次期元帥と目されたその李明も開封府に引き揚げようとする途次、梁山泊の狄成の奇襲によって首をあげられてしまう。

 

 疲れ果てた梁山泊軍だったが、その疲れを癒やすとともに楊令の思い描いていた新しい国づくりに動き出す。

 

 宋は大木が内部で朽ち果てて倒れるように倒れるのが外部からは見えているのだが、開封府はまったくそれが分かっていない。喧噪の開封府でさまざまな権謀術数が渦巻く。宋と梁山泊の戦いのあとの空白を見た金軍十六万が一気に南下して開封府を取り囲む。

 

 しかし兵站が万全でない金軍には、衰えたりとは言え禁軍の守る開封府を一気に落とすことは出来ない。巨額の賠償金を宋が出すことで講和が成立し金軍は撤退する。しかし宋にはその金を出す余力などもちろん無い。早晩再度金は南下してくるであろう。宋の命運は風前の灯であるのに開封府は抗戦派が主流を占めている。

 

 この巻では宋と金と梁山泊の勢力関係が語られ、楊令の夢みる新しい国の姿がどういうものであるかが明らかにされていく。梁山泊の面々の想像を絶するその夢が次第に現実化していく。疲弊しきった人びとはそのための新しい役割を理解しだして動き出す。役割は生きる力なのである。楊令の夢みる世界には日本が、そして西域との交易が見えている。
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2020年3月21日 (土)

飛騨民族村の土雛

飛騨民族村の合掌造りの家それぞれの中に土雛が飾られていた。

キャプションなしで写真だけ掲載する。

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ほかにもあったけれどキリがないのでこれまでとする。民族村の写真はまだあるので次回に。

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明治の教養人

 江藤淳の『明治の一知識人』という文章で思うところがあった。長いけれども一部を引用する。

 

「人としての夏目漱石(1867-1916)は、すこぶる多彩な人であった。彼が正岡子規の友人で、俳人としても名が高かったことはよく知られている。その漢詩が、唐風に学びながらいたずらにその模倣におちいらず、多く見事な自己表現の域にたかめられていることは、心ある人のひとしく認めるところである。げんに私が在米中に交った東西の中国文学者たちは、漱石の希有な詩才に讃嘆を惜しまなかった。つけ加えれば、江戸中期から明治初期にかけては、ある意味で日本人が漢詩文についての自己表現に最も熟達した時代であり、漱石は、徂徠門下に端を発する江戸の漢詩人たちの、最後の、しかし最良のひとりだったのである。
 さらに漱石は、書を能くし、南画をたしなみ、一時は十八世紀英文学に造詣の深い学究として、東大で教鞭をとりさえした。実際、漱石は、和、漢、洋の三つの学に通じた明治の教養人の一典型といってもいいような人だったのである。しかし、彼は、そのなににもまして小説家であった。人は、現に小説家としての彼を記憶し、小説家としての彼について語る。そして教養人としての漱石を忘れている。この現象の背後にあるのは、明治から現代にかけて、読書人の教養がまったく変質したという事実である。今日の読書人は、もはや和、漢、洋の三つの教養に通じることなどは要求されない。いや、すでに教養人であることを要求されることすらないのである。理想を喪った社会の文化というものが、どの程度のものでしかないかということを、今日の無教養の跋扈ぶりほど、雄弁にものがたるものはない」

 

 中学生の終わり頃から、図書館などで日本や世界の文学全集を借りだして、大して分かりもせず、読みこなせもしないのに読みあさった。高校生になって現代国語の授業で中島敦の『山月記』について黒須重彦先生の講義を受けた。この短篇を何と三ヶ月以上かけてじっくりと読み込まされた。本を読むということ、そのために必要な知識がどれほど必要であるかを思い知らされた。先生は現役の作家でもあり、中国の詩人についての著作も何冊かあって、本格的な知識とは何か、持っていてあたりまえの知識とは何かを思い知らせてくれた。本の読み方ではなくて、本を読むためになにが必要かを教えてくれたのである。

 

 それから漢文を真剣に勉強した。森鴎外や夏目漱石、芥川龍之介の文章がそれまでとまったく違うレベルで面白く読めた。歴史にも興味が出た。先生にとっては大勢の生徒のひとりだったろうが、私には生涯で最初に出会った本物の師である。その後先生には文章について多少個人的に指導を受ける機会があったのは望外の喜びであった。

 

 ものを考えたり読み書きするための教養というものについて教えられたはずなのに、その後は娯楽に偏してちっとも勉強せず、酒ばかり飲んできた人生だったが、十年前に定年退職して時間がたっぷりあるなかで、次第にそのことを思いだして、遅まきながらさまざまな本を読み出している。

 

 テレビを観ていると、世は無教養を羞じるどころか誇示するほどになっている。情けないし如何ともしがたいがその任でもない。だからこのような文章に出会うと嬉しくなるのである。
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2020年3月20日 (金)

飛騨民族村

先日、泌尿器系の不調もやや治まり、ひきこもりにも飽きたので、高山の飛騨民族村に出掛けた。出掛けるのがいつもより遅めだったので、途中の小牧辺りで渋滞につかまる。この辺りは自動車部品や機械メーカーが多く、また大型の倉庫もたくさんあるのでトラックがひしめいている。渋滞を避けようと思えば郡上まわりの東海北陸道を行けば良いのだが、有料代が惜しいので国道41号線を行ったのである。この道は木曽川を越えて美濃加茂を過ぎると飛騨川沿いを走る景色の良い道である。下呂まで100キロ足らず、目的地の高山まで150キロの道のりで、三時間以上かかる。

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飛騨高山民族村に昼過ぎに到着。外気温11度、今日は暖かい日のはずだけれど、さすがに高山は寒い。

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雪が残っている。手が冷たい。ちょっとやかましい若いバカップルと、外国人数人のみしか人がいない。これも新型コロナウイルスの影響か。

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雪が新しいので汚れていない。

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六地蔵にご挨拶。

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合掌造りの威容。左手高台の神社の方へは雪があるので通行止めで行けない。

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こんな札が下がっているということは、茅を引き抜く輩がいるということだ。

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この雪もすぐ消えるのだろう。

それぞれの建物の中にたくさんの土雛が飾られていたので、次回はそれらを紹介する。

 

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毒の中和

 録画していたNHKの「英雄の選択・渋沢栄一」を観た。渋沢栄一は明治維新以後、日本の経済振興に重要な働きをした偉人であり、新しい一万円札の顔となるらしい。その渋沢栄一が経済振興ばかりではなく、社会福祉についても大きく貢献してきたことが取りあげられていた。

 

 明治以後の富国強兵・殖産振興優先の社会の中で、社会の弱者である貧窮者を救済しなければならないことを「論語と算盤」という著書で語っているのである。「自己責任」という言い方で弱者を切り捨てることは却って社会を富ませることに繋がらない。貧者を救済することこそが経済振興に繋がるのだという持論は傾聴に値する。

 

 詳しい説明は省くが、中島義道先生の著書を読んで回っていた毒がこの番組を観ることで中和された気がする。良かった良かった。

 

 社会は自分の気持ちだけを優先していては成り立たないことは先生自身も分かっているはずで、自分の気持ちを最優先に行動する人ばかりでは世の中はまわらない。一握りだったらいても仕方がなくても、みんながそうなっては社会は破綻し、結果的に生活がなり立たないことになるだろう。

 

 それにつけてもアメリカ的な富の極端な集中は却って社会資本の死蔵に繋がり、いつか破綻することになるだろう。トランプ流のアメリカファーストと渋沢栄一とは正反対のものの考え方であるようだ。日本はどのように社会を維持していくことになるのだろうか。国民健康保険や年金、社会福祉については日本は不十分(問題点は指摘しようとすればいくらでも或るものだが、論ずべきは優先順位の適正化であろう。非難だけしても何も解決しない)とはいえかなり良くやっていると思う。日本がアメリカや中国とは違う、節度のある社会が維持できたら喜ばしいし、私にとっても有難いのだけれど。
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2020年3月19日 (木)

言って良いことと悪いこと

 しばらく前のことだが、朝日新聞の論説委員の言葉が非難を浴びているというネットの記事を見た。どんなことを言ったのか気になっていたが、いつも拝見している方のブログにその論説委員のTwitterの文章が紹介されていた。

 

 引用ではなく、そのTwitterそのものが貼り付けてあったから伝聞ではない。ここではその文章のみ引用する。
 
小澤ちひろ(男性)という朝日新聞論説委員のTwitter

 

「あっという間に世界中を席巻し、戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新(原文のまま)コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かも知れない。」

 

 誰が何にどんな感想を持とうとかまわないようなものだが、ささいなことであっても、そういうものに敏感に反応して激しく批判するのが朝日新聞という新聞社であるように思うが、今回はこの論説委員にどのように対処したのだろうか。特に知りたいとは思わないが、私のように意図的に朝日新聞そのものの見解と取る人もいることだろう。

 

 下司の勘ぐりかも知れないが、超大国の大統領がうろたえるのを喜ばしいものと考えているように読める。悪者である権力者が困るのは正義の味方には嬉しいのだろう。ここで原因国の超大国の主席は言及されていないのは意図的か煩雑だったからか。準大国の日本の首相は揶揄の対象ではないから後者か。

 

 内心で思っても言って良いことと悪いことがあるのは世間の常識である。まさか中島義道先生的正直さの発露なのであろうか。この論説委員はたぶん朝日新聞的コスモポリタン(国家よりも国連重視)であろうと思われるが、世界市民的感覚から見たってこんな言葉を実名で堂々と書く人間が顰蹙を買うのは当然かと思われる。

*この件に関して、ネットのデイリー新潮が詳しく報じていた。関連のコメントも含め、分かりやすいし、その見解に同感する。やはりプロは違う。

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中島義道『私の嫌いな10の人びと』(新潮文庫)

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 先生の嫌いな人はたくさんあって、たとえば

 

 二枚舌を使う人、
 権威を笠に着ていばる人、
 目上のひとには這いつくばり目下の人を足蹴にする人、
   計算高く冷酷な人、
 だらしなく責任を全く取らない人、
 (根性が)貧乏ったらしい人、
 ずる賢い人、
 日和見主義が徹底していていつも違うことを言う人、

 

などはこの本の本文には取りあげられていない。なぜならたいていの人が嫌いな人であって説明の必要もなく、わざわざ先生が取りあげるまでもないからである。

 

 むしろ日本人が好きな人であろう以下の人をそれぞれ取りあげてその理由と存念を語り尽くしているのである。

 

1.笑顔の絶えない人
2.常に感謝の気持ちを忘れない人
3.みんなの喜ぶ顔が見たい人
4,いつも前向きに生きている人
5.自分の仕事に「誇り」を持っている人
6,「けじめ」を大切にする人
7.喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
8.物事をはっきり言わない人
9.「オレ、バカだから」と言う人
10.「わが人生に悔いはない」と思っている人

 

どうだろう。びっくりするはずだ。どうしてそれらの人が嫌いなのか、それは分かる人は読めば分かるし、先生の嫌いなタイプの人はこの本に吐き気を催して放り出すであろう。ただし、分かる人は先生の毒気に当てられて世の中が歪んで見えてしまう恐れがある。先生にとって世界は歪んでいる。たしかに世界は歪んでいるのだけれど、普通、人はそれを補整して生きている。それが先生には耐えられないのである。病的であるから『狂人三歩手前』などという本も書いたりしているのである。

 

 私もこの本を読んだあとにテレビを観ていたら、先生の視点で見ていて不快感がこみ上げて観るに堪えられなくなってしまった。平常(今まであたりまえだとして受け入れていた世界観)に戻るのに少し時間がかかりそうである。精神の弱い人は読まない方が良いけれど、私には面白かった。おもしろかったけれど、先生の別の本を読むのは毒が抜けるまで、あいだをおいてからにするつもりだ。
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2020年3月18日 (水)

やはり寿命が近いのか

 ブルーレイレコーダーが不調で、分解してファンを掃除し、大丈夫かと思ったら、またときどき電源を落とすと次に立ち上がったり立ち上がらなかったりする。だから電源を入れっぱなしにしている。いまのところ何とか録画の失敗はない。観たいと思った民放の番組は必ず録画したものを観る。CMのやかましさと時間の無駄に耐えられないのだ。このレコーダーもずいぶん酷使してきた。つまり精一杯使いこなしたといって良いから満足である。しかしながら買い換えるなら安いものでなくてより性能の高いものが欲しいので、先立つもののことが気になる。定年時の貯えもこの十年で半分以上を使ってしまい、臨時収入などない身であるから少々いじましくなる。

 

「いじましい」の意味を取り違えていないか不安なので岩波の国語辞典(第二版)を調べたら何と載っていない。広辞苑で引いてみたらちゃんとあって意味もだいたい間違いなかったのでほっとした。

 

 泌尿器科で処方された抗生物質を飲んで三日目、排尿痛はだいぶ軽快化し、尿の濁りもなくなりつつある。ただ、頻尿気味になって二時間おきにトイレに行く。以前は四五時間は大丈夫だったので、癖がつかないように少し我慢をするつもりだ。頻尿だと出掛けたときにいろいろ不自由である。こちらの寿命は先に延びるように願っているがどうだろうか。
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北方謙三『楊令伝 八 箭激の章』(集英社)

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 人間は必ず死ぬ。良く生きるということは良く死ぬことであり、良く死ぬということは良く生きるということである。などと分かったようなことを受け売りでいうのも恥ずかしいが、こういう全力で生き、全力で死んでいく英雄たちの生きざま死にざまの物語を読んでいると、受け売りが受け売りでなく実感になる。

 

 悔いなく生きるというけれど、悔いなく生きることなど出来るはずもなく、「わが人生に悔いなどない」と口にする人は思い込みで勘違いしているか、悔いたくないから「悔いがない」などと負け惜しみをいっているのだろう、などと悔いだらけの私には思えてしまう。しかし悔いても悔いなくても人はいつか死ぬ。それなら誰のためでもなく自分のためにみっともない生き方はしないように心掛けるだけだ。

 

 童貫元帥の率いる宋の禁軍と楊令麾下の梁山泊軍の戦いの火ぶたが切って落とされる。戦力で圧倒する禁軍と志をともにする結束力で立ち向かう梁山泊軍。臨機応変の全力の闘いが繰り広げられるのだが、広い戦場では戦力の粗密が生まれる。それが戦機でもあり危機でもある。互いに相手のすきを窺い、そこに戦力が投入され、兵士達の損耗が増えていく。

 

 あと一歩、その一歩が遠い。その一歩を踏みこえたとき、英雄が一人、またひとりと散っていく。この巻はその戦いの詳細が語られ、英雄一人一人の眼にする戦場の光景が、そしてその思いが心に響く物語になっている。

 

 北方謙三の『三国志』、『水滸伝』そしてこの『楊令伝』は正義とか悪とかという善悪の視点から登場人物を描いていない。宋の側も、梁山泊側も、遼や金の人物たちもみな一人一人が必死に生きているものばかりが詳細に語られ、みな魅力的に描かれる。そうでない人物はときに名前すら書かれない。ときの宋の皇帝は徽宗だが、『徽宗』という名前ではなく、今の帝という書き方である。

 

 次巻で遂に禁軍と梁山泊軍との雌雄が決するようだ。それまでにどれだけのなじみの英雄たちが死んでいくのだろうか。
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2020年3月17日 (火)

ニュース雑感

 世界中の株価暴落を見ていると新型コロナウイルスの影響の大きさに驚くが、そもそも投資経済(そんなことばがあるかどうか知らないが)というものの脆弱さを感じたりもする。実態経済ではないところで膨らみ続けてきた幻想がかき消えたかのようだ。これもある意味でバブルがはじけたと言って良いのだろう。

 

 さはさりながらそのことが国の経済の根幹に影響がおよぶとすれば、国民の生活にも影が射すことは必至で、暮らしが悪化することは間違いない。それを誰かのせいにしたところで悪化が止まるものではない(それが理解できていない人をしばしばテレビで見かける)から、いまは来たるべき事態に対して覚悟をするしかないのだろう。

 

 オリンピック開催に向けて努力してきた人たちは何とか開催に漕ぎつけたいと願い、中止の不安を念頭から振り払い振り祓いしながら出来ることを続けているようだ。普通に考えれば、世界中でコロナウイルスが終息に向かうことがはっきり見えてくるであろうときまではオリンピックの開催は残念ながら難しいと思う。画期的な治療薬や予防薬が今とつぜん開発されたとしてもその生産と配布普及には時間が必要で、間に合わないのではないか。それはもうみんな内心では分かっているのではないか。

 

 それなのにオリンピック開催に関わっている人にコメントを求めてマイクを向ける記者の鈍感さは、いつものこことはいえ彼らの仕事が醜業(一般論ではなく、私の認識)であることをあらためて実感させる。犠牲者の家族に向けて「今のお気持ちは」と聞く馬鹿が何の問題も無く生きられるのがマスコミの世界だと私は思っている。馬鹿以外もいることはもちろん私も承知で、全員が馬鹿だといっているのではない(いちいち注釈しなければならないのは面倒だなあ。注釈も面倒だが、注釈が必要な人が少なからずいる世の中も面倒だ。所詮世の中というのはそういうものだけれど・・・)。

 

 たまたま国会中継を見たらまた蓮舫氏が質問をしていた。質問の内容は尋常なものであるように思えたのだが、その質問の口調はいつものように尋常でないように私には見えた。「舌鋒鋭く」追求して大向こうから喝采を受ける、と云うものではなくて(そう感じる人もいるのだろう、人それぞれである)見ていて不快である。

 

 いつものように自分は正しく、相手は悪だと断じた上での質問に聞こえるからだ。質問ではなく詰問なのである。相手を睨みつけ、質問が終わるたびにあごを斜め上にあげて鼻息を荒くしているように見える。美しくもなく品もないが、そんなことを言うと女性差別だと怒られそうだ。それでも何もあそこまで憎々しげに質問せずにも良かろうと呆れて見ていた。お陰で質問内容が思い出せない。
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中島義道『狂人三歩手前』(新潮社)

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 新潮45という雑誌に連載されていた『明狂死酔』というコラムを編集して単行本にしたもの。新潮45はLGBT差別問題で2018年に休刊(事実上の廃刊)となっているが、このコラムはそれよりずっと前に連載を終えている。

 

 中島義道先生は普通の人ではない。普通の人とは何かというのも大いに論議の別れるところだが、世の中と折り合いをつけて我慢するところは我慢して生きるのが普通の人という意味で、我慢しない人である先生は普通ではない。どうして我慢しないのか。したくないからである。

 

 私も腹の立つこと、したくないことが山のようにあるけれど、ほとんどの場合妥協して黙っている。その方が生き易い。その妥協することが何より我慢できないというのが先生である。ほとんどまともではない。しかし我慢ばかりする日常に生きていると腹の膨れることがたまるもので、我慢しない先生の生きざまになんとなく痛快さを感じてしまう。だからこういう本を読むのであって、先生の真似をしようとは思わないし、出来ない。

 

 狂人とは何か。他人に理解不能の言動をする人のことである。これは双方向的で、狂人から見れば他人は理解不能である。しかし狂人一歩手前でなく、三歩手前である先生は、他人は理解できるのであって、他人が先生を理解できないのである。

 

 協調性というものや社会的なしがらみをすべて否定してもなんの痛痒も感じないという生きざまは、かなり異常である。常人には真似できるはずがないのである。

 

 ただ、世の中の嘘くささに対しての先生の敏感さは日頃のこちらの正義の味方やおためごかしに感じる不快感と通じるものがあって、だから先生の本はこれほど面白いのだろう。

 

 先日読んだ先生の本が面白かったのでAmazonで検索したら、たくさんの著作があり、二冊手配した一冊がこの本。もう一冊も近々読もうと思う。それで一度打ち切りにしないと片端から取り寄せかねない。あまり読み過ぎると先生の悪意の毒が回ってますますひきこもりになりかねないので要注意である。
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2020年3月16日 (月)

病院は空いていた

 泌尿器科の検診にかかりつけの病院に行く。病院の玄関で女性が待ち構えていて体温計を渡された。平熱である。ピピッと鳴ったらしいが、この頃耳が遠くてぼんやりしていたら、「鳴りましたよ」と教えてくれた。待合室は空いている。やはり感染を懼れてよほどでないとみな敬遠しているのだろう。

 

 早めに行ったので、午後の検診受付まで時間があったのと、予約ではない当日受付なので待つのを覚悟して腰を据える。お陰で読みかけの本を一冊読了できた。念のためもう一冊持って行っていて良かった。

 

 尿検査と問診で、昨年秋に痛みに苦しんだ前立腺炎になりかけの状態と診断され、抗生物質を処方される。来週もう一度尿検査である。病院前の薬局も空いていたので思った以上に早く帰ることができた。帰り道の風が冷たかった。

 

 飲酒をせずに、しばらく安静にするつもりである。尿意を催すと我慢が出来ない。日頃は決してないことである。頻尿の人のつらさを実感する。

 

 どこから菌がやってくるのか、それともしぶとく潜伏しつづけているのか。歯槽膿漏などの菌が身体の中をまわって悪さをすることもあるのだそうで、原因はいろいろあります、と医師は言った。
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体調不良

 先週水曜日に久しぶりに知多半島までドライブに出掛けた。海風は冷たいけれど心地よく、気持がリフレッシュした。豊浜漁港を覗いたらワタリガニが籠にあって美味しそうである。近くの魚ひろばに立ち寄り、そのワタリガニを一杯とシラスの釜揚げやえびせんを手土産に購入してその晩は美味しい酒を飲んだ。知多の海の写真をすぐにアップしようと思ったが事情があって後日掲載することにした。


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 出掛ける楽しさをさらに楽しもうと翌日は高山にまで出掛けるつもりで早起きしたら、なんとなく身体がだるい。まさかと思ったら排尿痛がある。尿を見るとやや濁っている。また泌尿器系の炎症を起こしているようだ。軽い朝食を摂ってまた寝床に戻りうつらうつらする。頻尿になり、そのたびに軽い排尿痛がある。熱を測ると37.3℃。近年の私の平熱が36.3℃くらいだから明らかに発熱している。私は熱に弱い。この状態で病院に行くのが億劫である。

 

 こんな状態で病院に行けば抵抗力の落ちている身体が思わぬ病気を拾いかねない。迷っているうちに出掛ける気がなくなった。翌朝起きたら気分がさわやかになって、熱も平熱に下がっている。しかし多少の排尿困難と排尿痛は消えていない。尿の濁りも消えていない。抗生物質を貰えば治癒するだろうことは承知しているが、金曜日は泌尿器科の先生は居らず、月曜日にはかかりつけの先生がいることが分かっているので、その日まで様子を見ることにした。

 

 と云うわけで本日は泌尿器科の先生の検診のある午後に合わせて病院に行くつもりだ。発熱して四日以上経過して、咳もないし呼吸器系には何の異常も見られないから、新型コロナウイルスによる不調でないことは確認した。泌尿器系の異常は自然治癒していない。いやな病気をずっと抱えて生きることになった。
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2020年3月15日 (日)

映画『マイル22』2018年アメリカ

監督ピーター・バーグ、出演マーク・ウオールバーグ、ジョン・マルコヴィッチほか

 

 マーク・ウオールバーグは好きな俳優である。スティーブ・マックィーン、ケビン・ベーコン、マット・デイモンと並んで猿顔のアメリカ男優だが、みな好きである。アメリカ人にしては知性を感じる。その見かけによらず結構感情的になることもあるらしい。以前暴力沙汰で検挙されたというようなニュースを見た記憶がある。薬をやるのはともかく、ああいう仕事なら腹の立つことも多いだろうと思うので、それで嫌いになることはない。

 

 この映画では特殊工作員という名の、存在が秘された者達の暗闘が描かれる。特殊工作員というと、人並み優れた戦闘能力と知能を持ち合わせているもので、ある意味で日本の忍者と同じである。いわゆるスパイというのはまさに日本の忍者であろう。それはふつうの人には超人のように見える。

 

 人は超人にあこがれる。だから映画では超人がしばしば描かれるけれど、ふつうの人間の能力が高いのと、スーパーマンやXマンなどのようにそもそも超人である存在とがあって、私はどちらも楽しんで観てきたが、最近マーベルコミック発祥の映画を見飽きたせいで人間ではない超人が面白いと思えなくなった。マイティ・ソーだって誰だってそういう超人はハンディがつかないと人間とは差がありすぎてつまらない。または敵が同様に超人であることになって、限界知らずにひたすらレベルが上がるばかりで荒唐無稽が過ぎて夢から醒めてしまうことになる。

 

 話が逸れてしまった。

 

 この映画の主人公はそういう超人ではなく、見落とすものは見落とすし、怪我もする。主人公に気持が乗り移って映画の世界にはまり込んで一喜一憂することが出来る。つまり楽しい映画だ。実はこの映画は復讐映画でもあって、その復讐のために巧妙に仕組まれた計画に主人公たちが翻弄されるという仕掛けになっている。そのためのある男の存在がラストで意外な一面を見せる。

 

 続編がありそうな気もする映画で、もしそれが出来たら是非観たい。 
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温泉の話

 読書に飽きてきた。普段ならこうなると数日は集中力がなくなって本があまり読めないのでどこかへ出掛ける。しかし新型コロナウイルス蔓延の中で遠くへ出掛けるのも如何かと考えてもいる。何しろ今年七十でリスクが高い高齢者であり、糖尿病であり、高血圧であるから極めてリスクが高い。控えるのが正しいかなとも思う。かわりに久しぶりに一時間余り散歩したら足が痛くなった。ひきこもりみたいな暮らしが少し続いただけでたちまち衰える。情けないことである。

 

 温泉に出掛けたいなあ。安い湯治宿でぼんやり日を過ごしたらさぞかし気分転換になるだろうなあと思いながら思うばかりでじっとしている。Kindleで文庫目録をチェックしていたら、ちくま文庫に『温泉百話』という本が見つかった。西日本編と東日本編との二冊がある。編者は種村季弘と池内紀。温泉に出掛ける代わりに温泉の話を読むのも良いかな、と考えて早速Amazonに注文した。

 

 いまその本をパラパラとめくって拾い読みしている。作家たちが、私の行ったことのある温泉、行きたいと思っている温泉、知らなかった温泉のことをそれぞれ書いている。それを百話集めて編集されているから『温泉百話』である。

 

 ああ、行きたいなあ。いまならどこへ行っても空いているから歓迎されるだろうなあ。
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2020年3月14日 (土)

映画『ブレイブ・マスター』2014年中国

監督ルー・ヤン、出演チャン・チェン、ワン・ユエンほか

 

 どうしてこんな題名をつけたのか分からない。客寄せに良いと考えたのだろうがお粗末だ。明末、明の皇帝を傀儡として私腹を肥やし、国家予算をはるかに超える私財を蓄えたといわれる魏忠賢は、東廠と呼ばれる秘密警察を駆使してあらゆる情報を収拾し、密告や誣告によって敵を捉えて拘束し、残虐に殺し尽くした。その拷問は酸鼻なものだったという。史上最も残虐な佞臣だったともいわれる。

 

 そんな魏忠賢も皇帝の死去にともない失脚する。その魏忠賢を殺すように指示された錦衣衛の義兄弟の三人が、その使命に隠された謀略に翻弄されていく。

 

 もともと歴史的背景と魏忠賢についての予備知識を持たずにこの映画を観ても楽しめないことはないが、分からないことが多いかもしれない。

 

 ラストに弁髪の男たちが現れる。これが明から清への交替の予兆であることは中国の人たちには自明なのだけれど、知らずに見ていてはどんな時代のどんな状況か分からないことだろう。そもそもそういう意味でこの『ブレイブ・マスター』というのはそれを見失わせるようなふざけた題名なのである。

 

 時代背景が分からないと、肝腎の主人公たちの空しさが分からないのだ。
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北方謙三『楊令伝 七 驍騰の章』(集英社)

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 童貫元帥麾下の宋禁軍は方臘との戦いによる兵の損耗と疲れを癒やし、回復に努めていた。来たるべき再生梁山泊軍との戦いに備えるためである。その梁山泊側も兵力の増強と兵站の確保に努め、満を持していた。

 

 ついに宋の禁軍と梁山泊軍の激突が開始される。兵力は禁軍側が多数で有利であるが、梁山泊軍側はその志の高さがまさり、勝敗の行方は予断を許さない。ささいなことで大きく情勢に差が生じるのは戦いの常である。

 

 楊令が黒騎兵をひきいて禁軍11万の中央を突破する。士気が上がる梁山泊側。禁軍側も直ちに猛攻に転ずる。岳飛(宋)と花飛麟(梁山泊)の華麗な騎兵の展開と交錯があったあと、穆凌(呼延灼の息子)が深追いしながらついに童貫の片腕である禁軍の趙安将軍を討ち取るが危機に陥る。それを見て呼延尺が単騎で禁軍に突入し、死域に至る。

 

 互いに大きく損害を出しながらもたちまち軍を立て直す。初戦の勝敗は、呼延灼を失った梁山泊側と、趙安と陳翥(ちんしょ)の二人の将軍を失った宋禁軍側のどちらが勝ちを収めたとも言えない。しかし損耗戦となれば梁山泊側の方が不利である。

 

 呼延灼を失ったことから楊令が単騎で宋軍に撃ってかかり、たちまち四十あまりを討ち取るが、追いついた仲間たちに引き戻される。我を失った楊令の気持は誰もが理解するが、いま総大将の楊令を失うわけにはいかない。

 

 北方、金に新たな動きが見られる。その影響が両軍の戦いにおおきく影響するであろう。次の戦いはどのような形で開始されるのか。宋の朝廷ではすでに高俅は失脚して廃人となり、新たに秦檜が策動を開始して次第に勢力を拡大していく。宋は内部からの崩壊を始めている。皇帝は実態を全く知らずに莫大な浪費をつづけている。このときの皇帝は徽宗。しかし北方謙三は徽宗の名を全く出さない。なぜなのだろう。徽宗はのちに金に拉致されてそこで没する。

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2020年3月13日 (金)

調査検証して欲しいささいなこと

 マスクと同じ原料で、しかも多くが中国で生産されているからトイレットペーパーが足りなくなる、と云うデマにより店頭からトイレットペーパーがなくなる状態になったとマスコミが繰り替えし報じていた。テレビの画面には空っぽの棚が映されている。トイレットペーパーはほとんどが国産であり、足りなくなることはない、と云う製紙メーカーの様子も同時に伝えてはいた。

 

 トイレットペーパーが足りなくなってしまう、などというのは常識のあるまともな人間なら信じることはないお粗末なデマである。勘ぐれば、昭和48年のパニックを思いだして、日本人を試すためにデマを流してみた人間がいたと言うことかもしれない。流した本人が信じる人が本当にいたことにびっくりしているのではないか。何しろ中国人がその話に呆れ果てて日本人を笑うほどだというから、ふつうはそんなものをまともに取る人間はいない。

 

 問題はもともとのデマでどれだけの場所でトイレットペーパーが棚からなくなったのか、である。わが家の近くのスーパーでは全くそんなことはなく、店が余分に手当てしたらしくて、いつもより山のようになっている日もあったくらいだった。試しにドラッグストアなども含めて何カ所か歩いてみたが、どこも棚にはたくさん積んであって、空っぽの棚などはまったく見られなかった。

 

 デマに振り回されたとおもわれる、棚のトイレットペーパーが払底した店がデマが流れた当初にどれだけの件数あったのか是非調査して欲しいものだ。そしてそういう店をわざわざ探し出してマスコミが繰り返し報じるようになった前とあとでその件数がどう変わったのか、詳しく調べて欲しいものだ。デマを拡散したのが誰か分かるかも知れない。

 

 デマを知ったマスコミは、そのデマに踊らされた場所を必死に探してようやく見つけ、「ほらここに棚からなくなった店がある」と報じて見せたと私は邪推している。今回のトイレットペーパー騒ぎはマスコミが拡散したと感じている。デマの拡散の調査は重要な社会学的テーマだろう。社会に有用である。それが私の勘違いかどうか知ることにも資する。そうでないといわれの無い私のマスコミ批判をただせない。

 

 デマと分かっているけれども、実際になくては困るものだから念のため余分に買っておこう、という人々を妄導したのは誰かを私は問題としているのだ。
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経験に学ばない

「現時点で最も大事なのは、早急に誰もが公平に検査できるようにすることだ。そして、治療法の確立、ワクチンの開発へつなげていくことだろう」。先日ある方のブログで拝見した文章の一部である。正論であり、全く異論は無い。政府もそのように努力しているであろうことを期待したい。

 

 さはさりながら、日本の現在の一日の検査可能件数は「誰もが公平に検査出来る状況」とはかけ離れた少数であるという。検査可能な場所、検査能力のある人員、検査のための機器すべてが全く足りない。拡充すべく努力して方法も改善されるだろうが、それには時間がかかる。

 

 それなら現実に優先順位をつけざるを得ず、優先順位をつければその判断に不満を持つものも出て来る。物が足らないときには必ず起こることで、大まかな基準は示せてもすべての事例に適用するものなどあった例しはない。この世に運不運はつきまとう。なぜ韓国のように体制を整えておかなかったのか、と云う批判は正しいが、批判したからすぐに改善されるというものではない。その責任は事態が収束してから追求すれば好いことだ。いまは疾病対策に従事している人の邪魔をしないこと、不慮の不注意な行動で自分が社会に負荷をかける立場にならないことに努めるしかないであろう。

 

 責任追及といえば、僅かな金を惜しんでその千倍万倍の損失を蒙るという事態が近年特に目につく。津波による原発の電源喪失対策の数億円を惜しんだために一企業(東京電力)に数兆円、国家に数十兆円ともいわれる損失を与えたように、今回の疫病対策のための予算をいままで削りに削ったことで得られたたかが数十億円は、いま日本の国に数兆円の損害を与えている。

 

 過去に、つまり歴史に事例のないかのようであるが、それぞれ全く同じことがあるわけではなくて、似た事例があるからこそ再びそういうことが起きることが予測され、その対策が求められる。何を見誤ったのか、何を怠ったのか、徹底的な検証が行われるべきだと思うが、それが不十分だから繰り返し同じような失敗をする。

 

 震災後にさまざまな検証らしきものが行われたが不徹底そのもので、だからその責任者が「そんなことが起こるとは思わなかった」という言葉で免罪されていく。地震や疫病が起こるか起こらないかは誰にも分からないが、起こるかも知れないから対策が必要なのだ。その対策を怠れば責任者は責任を取らねばならない。

 

 原発事故の責任を問う裁判の論点が、「地震や津波を予測できたか否か」、にすり替えられて判決が行われているのを見ると、裁判所というのは神学論争の場所かと呆れ果てる。神ならぬ身の人間に「予測できたか」を問うのである。しからば予測できなかったと云う結論になり、無罪である。

 

 今度の新型コロナウイルス終息後に為政者が責任を問われることが多々生ずるだろうが、またぞろ「予測できたか否か」が論点となるだろう。そうして経験は常に生かされず、また同じように国が傾くような事態が起こる。次は傾くだけでは終わらないほどのことが起きるかも知れないのに・・・。  

 

 火事場で騒ぐ野次馬のように、マスコミは連日新型コロナウイルスで人々の不安をあおっている。そのマスコミの担ぐ神輿の上で医学専門家と称する面々がわけの分からない能書きを垂れ流す。国民はいつまでたっても正しい対処法が分からないと嘆く。分からないわけである。医学専門家だって分からないのだから。テレビを観ていてだんだんうんざりしてきた。いまごろ、といわれるとお返しする言葉がない。
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2020年3月12日 (木)

ところであれはどうなった?

 韓国のいういわゆる徴用工問題で日本企業の資産が差し押さえられている。その差し押さえ資産が現金化して売却されると日韓関係は引き返しが困難な新しい局面に入るとされている。結論は昨年来先延ばしされつづけていたけれど、事態が回避されたという報道は一切無く、二月乃至三月には現金化が必至であると繰り返し報じられたのを私は忘れられない。

 

 いま新型ウイルスで大騒ぎの両国ではあるけれど、それとこれとは全く別の問題だから、連動するはずがない。しからば現金化はいつ行われるのか。そろそろである、と云う報道がないのは不審である。何しろ入国制限を報復であると云う(この点を指摘した日本のジャーナリストがわずかしかいないことに私は驚いている)国であるから、当然このどさくさにまぎれて現金化を実施して既成事実化しそうなものだと思うが、それをしないのは日本を懲らしめてやった、と云うアピールがこの騒動の中ではあまり有効でないと見ているからなのだろうか。

 

 新型コロナウイルス騒ぎで相手にしてもらえない韓国の反日活動家たちがいま一番この病気の終息を切望している人たちかも知れない。何しろ反日運動の支援金で生活を成り立り立たせているといわれる人たちで、反日が盛り上がらないと困るだろうけれど、反日活動は職業だと主張しにくいから、まさか政府に休業による生活支援を求めるわけにも行かないであろう。それとも実はひそかに文在寅から支援を受けているのか。
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北方謙三『楊令伝六 徂征の章』(集英社)

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 この巻では大きな戦いはない。梁山泊の面々の配置換えが進む。これは世代交代でもあり、適材適所の見直しでもある。そこには意外な役割交替も行われる。それぞれが自分の役割を次第に得心し、全力でその任務に邁進する。

 

 宋の秘密組織である青蓮寺は宋の政権争いにともない内部分裂をおこして、それがさまざまなところに波及していく。その青蓮寺の聞煥章が扈三娘の二人の息子を誘拐する。軍令を無視して単身奔った扈三娘は聞煥章にとらわれの身となる。

 

 公孫勝から致死軍の指揮を引き継いだ侯真が子供達を救出。扈三娘は聞煥章を殺して脱出する。

 

 童貫は単身で子午山を訪ね、王進と語らう。疲弊した童貫の心中に力が復活していく。宋はすでに死に体である。その宋と金との間はどうなるのか、あくまで敵は梁山泊と考える童貫との戦いはいつ始まるのか。花飛麟と岳飛の宿命の戦いが予感される。

 

 呉用がようやく自分を取り戻していく。その呉用を楊令は迎えに行く。すべてが再びの戦いに向けて盛り上がっていく。
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2020年3月11日 (水)

映画『インデペンデンスデイ リサージェンス』2016年アメリカ

監督ローランド・エメリッヒ、リアム・ヘムズワース、ジェフ・ゴールドブラムほか

 

 前作から20年、前回襲来した宇宙人の知識を取り入れて人類の科学は格段の進歩を遂げている。再度の襲来は必至であるとの想定で迎撃の準備も進んでいる中、さまざまな予兆があらわれる。そこへ突如月の防衛基地の前に現れた巨大な宇宙船。以前のものとは明らかに異質な宇宙船だが、アメリカ大統領は攻撃を決断し、撃墜に成功する。しかし・・・。

 

 前回活躍した人々は、ある人はすでに死んでいるし、ある人は病み、あのときのアメリカ大統領も老いているが、中にはいまだに意気軒昂なものも残っている。そして人類は世代交代して新たな戦士達が誕生していた。

 

 さらなる攻撃を予想して警戒を怠らなかった人類だったが、とつぜん土星の基地が連絡不能になるのを端緒として、とつぜん敵が出現する。今回の敵の母船は直径4800キロという想像を絶する巨大なもので、人類が想定していたものとは桁が違っていて、全く歯が立たず防衛ラインも軽々と破られ、なすすべがない。前回成功した突撃方法も、すでにそれを予測した敵によって罠の中に飛び込む状況となる。

 

 そんなとき、月で撃墜した最初の宇宙船の残骸から発見されたあるものが、反撃への意外な手がかりをもたらしてくれる。

 

 人類の戦いの体裁ながらアメリカ主導、アメリカ賛美になるのはアメリカ映画だし、インデペンデンスデイという冠称が突いているからしかたがないが、どうしてもそれが鼻についてしまう。英雄的な若者が脳天気であるのがリアリテイを損なうのはアメリカ映画お決まりのパターンで、昔の日本のSF映画との大きな違いだろう。娯楽映画だから好いか・・・。

 

 ジェフ・ゴールドブラムが歳を取ったなあ。こちらも同様だけれど。
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2011年

 今日は東日本大震災のあった3月11日である。あれは2011年のことで、それは父の死んだ年でもあり忘れられない。あの年の五月の連休に子供達を連れて実家に帰った。父母に会う機会は意識してつくらないと悔いが残ると考えていた。父はいつも以上に喜んでいた。

 

 父の誕生日は5月10日で、私が5月8日、そして娘のどん姫が5月6日である。まだ早いけれど、弟夫婦は五月の節句とあわせてお祝いみたいな席をつくってくれた。父はその年の誕生日で97歳になった。4月の終わりに弟夫婦とその子供や孫(父にとってはひ孫)と一緒に日帰り温泉に行ったという。もう泊まりでの旅行は無理だが、日帰りなら出掛けられるくらい元気だった。

 

 むかしから「俺は百歳まで生きる」、と云うのが口癖だったが、みなでこれなら百歳は楽勝だ、と言い合って本人もニコニコしていた。

 

 その父は二三日寝込んだだけで5月20日に逝ってしまった。朝、危篤の知らせで名古屋から千葉に向かったが、取りに戻るわけにもいかないから喪服も用意して出掛けた。いつかくる日と覚悟はしていたのだ。途中で訃報を聞いた。

 

 酒も煙草もやらず、曲がったことが大嫌いで融通の利かない頑固者だったが、ほとんど寝込まずに本人も死ぬことを意識しないうちにあちらに呼ばれて行った。その前に父の子どもや孫やひ孫たちが連休で一堂に会することが出来たのはさいわいだった。

 

 震災の日になると、震災の記憶とともに父の思い出がよみがえる。
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2020年3月10日 (火)

不快感と怨念

 蓮舫議員(辻元議員もだけど)の国会質問を見ていると不快感を感じる。はっきりいってこんな女性は(男でも)苦手だ。なぜ、そして何にあんなに腹を立てているのだろうか。国会とはあんな見幕でないと質問できない場なのだろうか。彼女が正しく、政府は悪の権化で、相手が土下座でもしない限り許さない、いや、そもそも存在そのものが許しがたいかのようである。安倍晋三は彼女の親の仇か。

 

 日本の女性政治家の数は世界でも最少クラスだという。その理由はさまざま考えられて、日本の政治の世界に大いに問題があることは誰にも想像はつくが、蓮舫女史や野党の一部(温和で理性的だったり、エレガントな人もいるにはいる)女性議員を見ていれば、あんなふうになりたくないと思う女性がふつうだろうと私には見える。それが日本の女性をあまり政治家を目指す気にさせない理由の一つではないか。

 

 政治の世界にいるとああいうふうになってしまうのは男がわるいからだ、と云われれば、たぶんその通りなのだろうけれど。

 

 昨晩のBSクライムニュースのゲストは元外務相の三人だった。外交官としての知見経験を元にした、新型コロナウイルスに揺れる世界についての見解を語っていた。

 

 その中で気になったのが、田中均氏が語っていた安倍政権の新型コロナウイルスに対する対応批判である。もちろん安倍総理の対処は問題だらけで批判される点も多い。感情的観念的なものでなければ辛口の批判があっても然るべきだからそれはいいのだが、問題は韓国についての見解である。田中均氏は「韓国を擁護するわけではないが」としたうえで、日本の渡航制限に感情的反撥をしている韓国政府の対抗処置は理解できる、と語っていた。

 

 韓国は大統領府も外交部長(外務大臣)も「日本の措置に対する報復である」と明言していた。つまりこの問題を政治問題化したのである。日本が事前に韓国と根回ししていないことが悪いのだ、と云うのが田中均氏の説明である。これは韓国の立場に立っての言葉にしか聞こえない。

 

 私はこの言葉の背景に、昨年外務省を蚊帳の外に置いて韓国に対して輸出規制を強化したことの怨念を感じた。あれ以降、田中均氏はことあるごとに安倍政権が日本の外務官僚をないがしろにしている、いままでの蓄積(多くの国民には譲歩の繰り返しに見えるが、彼らはそれによって何とか友好を維持したと考えているらしい)を無にしていると批判をつづけている。その延長としての言葉と聞こえたのである。

 

 それほど優秀な外務官僚なら、WHOのいう、「日韓はコロナウイルス対策を政治問題化するな」という見解に、「政治問題化しているのは韓国である」ことを強く主張して抗議するべきであろうと思うが、寡聞にしてまだそうしたとは聞いていない。黙って受け入れているなら阿呆である。
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北方謙三『楊令伝五 猩紅の章』(集英社)

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 信徒と正規軍あわせて百万の方臘軍と童貫元帥に率いられた地方軍と禁軍あわせて25万の宋軍が対峙して一年、少しずつ信徒を削いでいき、ついに江南に決戦のときは至る。趙仁こと呉用はその機に乾坤一擲の作戦を進言するが、方臘の配下に退けられる。そのことで方臘軍は大きな痛手を蒙ってしまう。

 

 童貫のもと、ますます輝きを増すのは岳飛の率いる騎馬軍、ついに最後の決戦の火ぶたが切って落とされる。

 

 その戦いを見とどけ、呉用を戦場から救い出すべく公孫勝率いる致死軍や武松が動く。

 

 鬼哭啾々、六十万の方臘軍を殺戮して戦いは終わる。方臘は死し、江南は廃墟と化す。勝利した童貫軍も多くを失い、戦いの凄惨さに兵士は精神的にも疲弊してしまう。結果的に梁山泊軍は宋の禁軍との戦いを先へ延ばすことになって余裕を持つことが出来た。

 

 北方は燕雲十六州を金が陥落させ、それを宋が買い戻す形となるが、宋にはその支払いをする余裕がない。金と宋との間がきな臭くなる。狭間の梁山泊軍はその中で次第に存在感を高めていく。

 

 楊令は幻王と呼ばれた血も涙もない鬼のような外見から次第に人間味を取り戻していく。過去の梁山泊敗北で多くの先人たちを失った精神的な痛手をようやく振り払ったのである。生死を超越し、成長したその姿に梁山泊はさらに結束を高めていく。死ぬ気でいた呉用は武松に救出されるが、廃人のような状態で梁山泊に朦朧とした日々を過ごす。再起はあるのか。
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2020年3月 9日 (月)

本当なら希望があるが

 新型コロナウイルスは世界に拡散しているが、テレビのニュースをただ見ているだけで、国によって違いがあるのが気になっている。特に違うのが致死率である。1%以下の国があるかと思うと、イタリアのように5%という高い致死率の国もある。医療レベルの違いでは説明のつかないこの事実はあたかも違う病気のようである。ウイルスが変異しているということはないのだろうか。

 

 中国の新しい感染者は連日減少しつづけていてついに一日あたり50人を切ったという。ベッドにも空きが出ているという映像が映されていた。本当なら終息の希望がある。武漢で最初の患者が発見されたのがたぶん12月であるから、凡そ三ヶ月で終息に向かっていることになる。病気が得体の知れないものであった状態から終息までがそれほど短期間で達成できるのなら、どんな病気かが次第に明らかになりつつある日本や韓国もあと一月か二月で終息するだろう。

 

 ただ、私はそれほど楽観的ではない。中国だけが終息し、他の国はいつまでも終息せずにますます感染が世界に拡がるという事態が続く気がする。どうして中国だけが終息したのか、それが世界の注目を集めることになるだろう。終息させたいから終息した、と云うことでなければ良いが。
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中島義道『醜い日本の私』(新潮選書)

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 行動する怒りの哲学者、中島義道先生の本。私は先生ほど極端ではないが、ふつうの人があたりまえに感じて見過ごしたり聞き逃していることを不快に感じることがしばしばある人間である。不快に感じても我慢しているが、先生は我慢せずに噛みつくので変人扱いされる。その先生も世の基準からすれば自分が過敏であることはよく承知しているから変人であっても狂人ではない。

 

 帯の「読んで頂かなくても結構です」というのは冗談ではなく本気の言葉で、ただし「『美しい国』が好きな人には」という条件がついている。

 

『醜い日本の私』という題名は『美しい日本の私』という、川端康成がノーベル賞受賞の際の講演の演題をもじっているのは明らかであろう。そのことが先生の言葉で裏表紙に以下のように書かれている。

 

 かつて『うるさい日本の私』(新潮文庫)を刊行したとき、多くの人から「あの『うるさい』は『日本』と『私』のどちらにかかるんですか?」と面白半分(冷笑的)に尋ねられたが、いつも「両方にかかるんです」と答えてきた。「うるさい日本のうるさい私」である。今回のタイトルを見て、さすがに、「この『醜い』はどっちにかかるんですか?」と問う勇気のある人もあまりいないだろうから、前もって答えておく。「両方にかかるんです。醜い日本の醜い私です」。

 

 コリン・ウイルソンという作家で思索家のイギリス人がいる。博覧強記の人で、若いころ、この人にはまって強く影響を受けた。この人の本を一冊上げろといわれれば文句なしに『アウトサイダー』という本だろう。この本で人は如何に無意識に生きているのかを教えられた。自らの行動を意識し、どれだけ覚醒するか。その覚醒した人のことをコリン・ウイルソンは「アウトサイダー」と呼んだのである(蛇足ながら、アウトサイダーはアウトローではない)。私も少しでもアウトサイダーたらんと心掛けたが常識人を脱することか出来なかった。

 

 中島義道先生が何に対して過敏に怒りを覚えるのか、この本を読んで貰いたい。どうしてこんなことにこだわるのだ、と先生の怒りが理解できない人が大半であろう。わずかなアウトサイダー(私の理解している意味で)のみがこの本を面白がれると思う。かならずいるはずだ。
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2020年3月 8日 (日)

映画『バンク・ジョブ』2008年イギリス

監督ロジャー・ドナルドソン、出演ジェーソン・ステイサムほか

 

 実話を元にした映画だという。実話を元にした映画というのはなんとなく後回しにしてしまう。実話をもとにしているのだからリアリティがあると考えるのは必ずしも妥当ではない。却ってリアリティがない作品になってしまうことが多いからだ。そういうことでいつか観ようと思いながら観ないでいた。

 

 この映画は実話をもとにしているものの、ジェイソン・ステイサムが主人公を演じていることで男のお伽噺みたいになっている。そういう意味でリアリティがある映画とは言いがたいが、その分だけけっこう面白い。

 

 近くの店の地下から銀行の地下金庫を狙うという、犯罪そのものの場面は緊張感がそこそこある。必ずしもプロ集団というわけではない彼らの犯行がスムーズに進行するのは理由があって、彼らはそのことを知らない。

 

 それに気がついた主人公(ジェイソン・ステイサム)たちは犯行成功後にそのことで窮地に陥る。逃亡、そして生き延びるために彼らがどんな手をうったのか、それがこの映画の見どころであり、事実の不思議な結末の解釈に繋がっている。この犯罪の詳細はいまだ明らかにされて居らず、しかも主犯はつかまっていないらしいのである。

 

 たいていこういう映画は因果応報を暗示して終わるが、この映画はどうだったのか、観て確認していただきたい。
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北方謙三『楊令伝4 雷霆の章』(集英社)

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 北方、遼は帝も失踪し、国としての体裁を失う。燕雲十六州に籠もるのはもと遼の禁軍と地方軍の耶律大石の軍あわせて十六万余。宋の禁軍20万余を率いるのは童貫の片腕である趙安である。燕京(北京)を攻める宋の禁軍と宋の地方軍、それを受ける遼軍は新しい国、燕として宋に立ち向かう。戦いは一進一退、それを横目で見る再生梁山泊軍。楊令はこの状況にどう介入していくのか。

 

 南方の方臘軍は信徒と正規軍と併せて百万という想像を絶する数で宋禁軍の童貫の25万と対峙する。死を厭わない信徒達を蹴散らし踏み殺していく禁軍だが、それは兵士の精神を破壊していく。そんな戦いを平然と進める方臘たち。童貫に付き添い、ときに麾下の騎兵を率いて戦うのは岳飛である。岳飛は実戦によって急激に成長していく。彼の視線の彼方には鎧袖一触された楊令の姿がある。

 

 このような状況を生み出したのは宋の腐敗した朝廷の大臣達だが、そこにも勢力図の大きな変化が生じていて、宋の禁軍にも影響していく。宋という国が次第に内部から崩壊し始めているのだ。

 

 童貫軍との戦いを経験して方臘軍は次第にレベルアップしていく。軍師として画策していた呉用は方臘の魅力に惹かれて取り込まれていく。童貫が苦戦するのは梁山泊の戦いの知識のある呉用の軍略であることを童貫は知らない。

 

 若い者たちが実戦をへて成長していく。年齢を経た旧梁山泊の生き残りたちは、生きるということ、全力で生きることがどういうことかを彼らに教えていく。無辜の死が累々と描かれていきながら、必死に生きる個の生きざまが輝く。戦いというのはそういうものであろう。
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2020年3月 7日 (土)

映画『ハミングバード』2012年イギリス

監督スティーヴン・ナイト、出演ジェイソン・ステイサム、アガタ・ブゼクほか

 

 ハミングバードとはハチドリのことだが、この映画では無人偵察機の名前。冒頭はその偵察機からのアフガニスタンの映像とその報告が流されるが、なにがどうなっているのかは説明されない。どうやらある兵士の行動が追跡されているようである。

 

 時間経過のテロップが出たあと、とつぜん場面はロンドンの貧民街の浮浪者たちの横たわる街路に変わる。そういう者達すら喰いモノにする者がいて、逆に彼らに救済の炊き出しをする者もいる。

 

 浮浪者は為されるままに暴力をふるわれ、収奪される。若い女と二人で段ボールの中に籠もっていた男があまりの暴力に抵抗するが、却ってならず者の暴力に火がついてしまう。殺されかけたそのとき、その男にスイッチが入る。

 

 主人公はあのハミングバードに追跡されていた兵士であり、そのときの行為で軍に追われて貧民窟に潜んでいたのである。アルコールでボロボロの彼はあるきっかけで次第に再生していき、それとともに彼の戦闘能力も復活していく。超人の復活である。主人公を演じるジェイソン・ステイサムはこの映画でも格好が良い。何しろ語るよりもじっと相手の目を見つめる姿がいい。そして語ればあの彼独特の声である。

 

 ヒロインの修道女役を演ずるアガタ・ブゼクが魅力的。この人は鼻が高い(やや高すぎる)ので、眼鏡をかけているときの方が魅力的だ。

 

 目的を持ったときの男の復活はこちらの気持にも響く。そしてその目的を達成したとき、男はどうなるのか。この映画、面白い。
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むくみが取れた

 ときどき下肢にむくみが出る。くるぶしがはっきりしなくなり、膝から下が太くなる。ひどいときは足がぶ厚くなって靴がきつくなる。まさにエコノミー症候群の状態が出て、しばらくそれが続く。なんとなく足がだるく感じられ、冷え性気味になる。水分や血液の流れが滞っているのを感じる。

 

 むくみは小便の出がわるいときに起きる。ひどいときは夜、友人とビールを何杯飲んでもその晩にはトイレに行かなかったりする。水分はどこかに滞留している理窟である。朝ようやく出るが、出切った感じがしたことはない。

 

 昨日朝からとつぜん貧尿から頻尿になった。どうしてか分からない。そうしたら今朝は足のむくみがすっかりなくなっているではないか。何か詰まっていたものがひとりでに流れ去った心地がする。水分摂取量はいつも通りだし、特別に変わった物を食べたり、薬を飲んだりしたわけではない。

 

 身体に滞っていた水分が抜けた分、当然のことながら体重が二キロほど落ちた。
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2020年3月 6日 (金)

リズムが狂って苛々する

 酒量を控え目にしているせいか、早めに寝ると夜中に目がさめてしまって眠れなくなる。眠れなければ眠くなるまで起きている。なかなか眠くならない。当然昼間眠くなるのだが、昼寝をしても昼間の眠りは夜の眠りとは違う。

 

 マンション暮らしなのだが、上の階で子供の運動会の足音が響いて苛々する。学校が休みだから仕方がないと分かっていても、少しはじっと静かに出来ないのか、と腹が立つ。普段はこんなことはないのだが、リズムが狂っているので神経が過敏になっているのだろう。ただ、私は中島義道先生(行動する怒りの哲学者)みたいに注意しにいったりしない。子供とはそういうものだと、子供を育てたから分かっている。

 

 さはさりながら、そうなると落ち着いて読書に集中できない。テレビのニュースばかりを見ている。NHKとNHKBSのニュースばかりでは間がもたないので民放にすると、CMの猛攻に猛烈に腹が立つ。どうしてこんなにCMだらけなのにみんな我慢できるのだろうか。

 

 いささか情緒不安定かも知れない。

 

 マスクの買い占めや転売、トイレットペーパーがなくなるというデマに振り回されて棚から商品がなくなっている、などという話を見聞きすると、さもしい輩やそれに振り回される哀しい人々の姿に、こちらまで哀しくなってくる。私の最も嫌いなのは、うまくやった人の話を知ると、みんながうまくやっていると思いこんで、うまいことやろうというよりも、自分だけ損をしないように真似する阿呆である。たいてい最後はそういう連中が損をするのをバブルがはじけたときに見てきた。

 

 遠からずマスクもトイレットペーパーも棚に載りきらないほど余るだろう。

 

 韓国はいま、世界百ヶ国くらいから入国制限を受けているのに、日本が入国制限をすると言ったら韓国政府は対抗措置を執ると息巻いているらしい。しかし百ヶ国すべてにそういっているわけではなさそうだ。日本にだけ言っているなら、呆れ果てた度しがたい国である。

 

 テレビに良く出る韓国人コメンテーターなら、文在寅大統領が協力しよう、と手を差し伸べたのに入国制限を発表したのだから悪いのは日本だ、と説明してくれるだろうなあ。日本人がそんな説明を聞いてなるほどと思うと考えているのだろうか。ただの韓国向けか。
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内山節『怯えの時代』(新潮選書)

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 2009年出版の本で、一度読んでいるものの再読だが、内容の記憶は例によってアイマイ。とはいえここに作者が明らかにしている悲観的な世界認識について共感するとともに、事態はさらにいっそう悲観的に進んでいるように思う。

 

 現代という時代に人はなぜ不安を感じてしまうのか。未来に対する希望のなさが、極端にいえば絶望が不安をもたらしていることは考えてみれば理解出来る。どうしてそうなってしまったのか。

 

 人々は家族や地域との関係を離れて個人に解体されている。それは各人が自由を、人間関係のしがらみから自由であろうとした結果であると言える。自由であることとは何か。自由とは何か。人が求めている自由とは幻想ではないのか。人間は関係を喪失したまま生きることは出来ない。

 

 どうしてその幻想を幻想でないものと錯覚しているのか。それが資本主義社会というものだ、と云う論理は意外に思われるかも知れないが、この本を読めばその理路は極めて納得のいくものである。自分の意志で個人に解体していると思いこんでいるが、それは資本主義の要請に応じた結果なのだ。集団が解体することが経済の拡大に繋がるという資本主義のもたらしたものなのだ。

 

 著者は哲学者だが、書かれている文章はとてもやさしい言葉で書かれていて、内容も極めてわかりやすい。

 

 不安の原因を理解し、自然との真の共生と社会との連帯を取り戻すこと、と云う処方箋は納得のいくものだろう。

 

 アメリカの不安は、トランプが演説の度に指で輪を描いて『金、金、金』と語りかけていることに象徴されるような社会が生みだしたものだ。資本主義は膨張拡大しなければ維持出来ない構造を持っている。資源や環境には限界があって、まさにその限界に至りつつあるとき、資本主義の膨張指向は同時に限界に来てしまったのだ。それがどういう世界を生み出していくのか、誰にも予測出来ない。それを無意識に感じて人間は怯えているのである。
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2020年3月 5日 (木)

不審

 昨夕のBSプライムニュースで櫻井よし子氏が、中国の新型コロナウイルスが終息しつつあるような統計報告に不審があると述べていたが、全く同感である。そもそも武漢で感染が報じられた当初からその数字に操作があるのではないかと疑いを持っていて、弟や友人にこれは爆発的に拡がる恐れがあると思うという私の意見を伝えていた。人から人への感染があるとの情報も、隠しきれなくなってとつぜん正式に発表されたことを忘れてはならない。

 

 春節の直前に武漢が封鎖されたが、それはWHOがまだ緊急事態ではないと宣言をするのを待っての措置であった。これが逆であると、緊急事態宣言をせざるを得なかったことが明らかだからである。そのために少なくとも500万人以上の武漢市民が封鎖直前に全国に散らばったといわれている。こういう工作が通用する(つまり対処可能)と中国当局は甘く見ていたのであろう。

 

 私が櫻井よし子氏の不審に賛同するのは、武漢と人的物的交流の盛んな広東省の感染者の数の異常な少なさであって、しかもある時点からとつぜん感染者の増加がゼロになったことである。櫻井よし子氏は検査そのものをしていなければ新しい感染者は出なくなるのは当然だ、と云っていたが、その通りであろう。

 広東省は人口も非常に多く、海外との経済交流も多い中国のドル箱地域である。新規感染者がほとんどなくなった、またはゼロであると報告されている地域がそのまま中国の経済活動の拠点と重なるのは偶然などであるはずがないのは分かっている人にはわかることであろう。

 

 ところでアフリカ諸国があれほど中国との交流が盛んで中国人もたくさん現地に滞在しているのに感染が報告されていないのは、感染を検査するシステムが存在しないからであることは誰にも分かることであろう。WHOは中国の顔色を見ながらコメントを出すより先に、アフリカに行って検査を進めるべきではないか。そうでないともともと医療体制が脆弱なのだから、爆発的な感染拡大に繋がりかねない。

 

 

 中国がそういう国であることは誰よりも中国人自身がよく分かっていることであるのに、厚労省は当初からその中国の情報をもとに対策を講じてきたのであるから、後手後手となり、しかも手抜かりだらけになるのは当然なのである。それなのにいまだに専門家と称する医学者たちはマスコミに問われて中国の報告を元にコメントを発しているのはおそろしい。

 

 予言としてではなく、予測として中国での感染者は再度増大するだろう。その根拠は習近平の情報統制が今月に入って信じ難いほど強化されているからだ。隠さなければならないから強化するのはもちろんである。それだけ報告と事実に乖離があって、隠しきれなくなったときは収拾がつかないことになっているかも知れない。本心ではこの予測が杞憂であることを願うが。
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99120151_20200305125801黄昏の中国

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うっかりする

 何か忘れている、と気がついたのは約束の時間になりかけたときだった。車の定期点検を予約していた時間になっていた。すぐ詫びの連絡をいれたら待っていてくれるという。30分遅れでディーラーに行くことが出来た。

 

 大事な予定は目の前にぶら下げてあるカレンダーに赤字で書き込んであって、二三日前にはそのことを確認していたのにうっかりした。こういう相手に迷惑をかける失念はめったにないことで、自分にひどくがっかりする。これからこういうことが増えるのだろうか。忘れないための確認をさらに強化しなければならない。

 

 今回は特に大きな部品交換などはなく、一括払いのメンテナンス料を支払い済みなので経費はかからなかったが、今年秋には七年目の車検である。最近はひところより走らなくなっているとはいえ、すでに走行距離は10万キロをかるく越えており、修理したり部品交換した方が好い場所がいくつかあると説明を受けた。車検のときに支払う金額がずいぶんかかることになりそうで、覚悟する。

 

 数年後にはこの車を乗りつぶして終わりにするか、次にもうひとまわり小さな車に買い換えるか決断しなければならない。経済的事情から考えれば終わりにする方が楽になるし、安全面から考えてもその方が好いのだが、旅に出る自由さは車があるのとないのとでは大きく違う。そのときの自分自身と相談するしかないが迷うことになりそうだ。
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2020年3月 4日 (水)

ようやくメンテナンスする

 ブルーレイディスクレコーダーが不調で、エラー表示を調べて冷却ファンの不具合が原因らしいことが分かっているのだが、つけっぱなしにしておくと問題ない。しかし放置していれば本格的に動かなくなるであろう。

 

 ようやくその気になったのですべての繋がっているコードを取り外し、中を開いてファンを外して見た。見た目は特にどこかがホコリでふさがっているようでもない。ところが綿棒でファンのフィンや周辺部など、掃除出来るところを叮嚀に拭ってみると黒い付着物が思った以上に取れた。フィンと周辺部の間で微妙に摩擦抵抗になっていた可能性が高い。

 

 完璧ではないがおおむねこんなものだろうというところまで掃除して元に戻したのだが、外したコードのいくつかが、どれがどこに繋がっていたのか分からなくなった。アンプへ繋がるものテレビに繋がるものアンテナに繋がるもの、それも衛星放送と地上波用と二種類あるのでややこしい。

 

 適当に繋いだら案の定テレビが映らない。テレビはこのレコーダー経由でアンテナと繋がっているので間違っていると映らないのだ。もちろんレコーダーがオフのときはスルーさせているのだが、繋ぎ方をまちがえていれば信号は立ち往生しているはずだ。

 

 試行錯誤して何とか復旧。すべての機器がリモコンで操作出来る。レコーダーのスイッチを入れたり切ったりしてもいままでときどき出ていたエラー表示は出ない。

 

 やってみればどうということのない作業なのに、ついいつも先送りしてしまう。直接動作させるボタンは接触のシリコンゴムが劣化したせいか動かなくなっているものの、何とかリモコンは使えるので、これでしばらくレコーダを新しく買わずにすみそうだ。いつまで保つかなあ。
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北方謙三『楊令伝3 盤紆の章』(集英社)

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 信仰によって自らの死を懼れぬものたちが巨大な集団になったら、それは想像を絶する怖ろしさであろう。自爆テロリストが何十万と蝟集するようなものだ。そのような狂信徒を改宗させることは不可能であり、その不可能であることこそおそろしい。

 

 江南の方臘の信徒集団は数十万、いや百万ともみられる数になって長江の南側の宋の地方軍の支配する地域を呑み込んでいく。智多星呉用は趙仁という名で方臘の軍師となって宋軍と対峙する。

 

 北では金が遼の蚕食を進めていき、遼はついに燕雲十六州に結集する。遼の主力はまだほとんど健在である。宋は金との密約で燕雲十六州の遼を伐たねばならない。そうでないと宋の皇帝の渇望する燕雲十六州を奪還することは出来ないのである。

 

 こうして宋の禁軍は北と南に軍を派遣せざるを得ない状況に追い込まれる。その禁軍をはじめとする全軍を指揮するのは童貫元帥。二正面を引き受けるためには軍を二分するしかない。そうして童貫は南に向かう。

 

 出会いがあり、別れがあり、ついに元梁山泊軍は楊令の元に梁山泊軍として真の再結集を果たす。北では宋と遼との戦い、南では方臘と宋との戦いが本格的に始まる。この巻はその戦いの前夜の話である。梁山泊軍はどのように宋と関わっていくのか。宋の禁軍との戦いはいつ本格的に始まるのか。童貫との決戦は如何に。
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2020年3月 3日 (火)

だから言ったじゃないか

 私は「だから言ったじゃないか」という言葉をなるべく言わないように注意している。昔はしばしばそれを言った。反省している。

 

 こうなるだろう、と予言しても未来はどうなるか分からない。もちろんエイズ禍のような、明らかに手をうたなければ害が発生することを放置したらどうなるか、そのような話は別である。それは歴然とした犯罪なのである。だから私は福島第一原発の電源喪失の責任は明らかに問題があったのを東京電力の幹部達が放置した犯罪であると考えているのであって、未来予測が不能であったなどという言い訳は認めない。

 

 「だから言ったじゃないか」という言葉を言わないように注意しているのは、そのまえの予言がしばしば呪いの言葉になるからである。そのような言葉はその予言の実現を期待することにつながるからである。こんな不幸が起きる、こんな事故が起きる、と云う言葉に明確な科学的根拠があれば良いが、根拠があればそれは予言ではない。科学的予測の結果である。もちろん予測出来ても対策が十分打てない場合もある。それを言っても起きたことはどうしようもない。起きる前にどれだけそれを注意喚起したのかが問われる。

 

 災厄を予言してそれがたまたま当たれば胸を張ることが出来る。人はその人に感心するだろう。それが期待されればその災厄が起きることをひそかに願うのが人間というものである。世の中にはそのような呪いの言葉が溢れていて、それに不安を掻き立てられる多くの人々がいる。それが呪いであるのか予測であるのか、識別出来るのを知性というのだと思う。

 

 言った者勝ちの世界をテレビの画面で嫌というほど見せられる。それでも見ているのだから我ながら馬鹿だなあと思うが、ときどきものを考えるのに必要な大事な情報も知ることが出来るのでやめられない。
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映画『THE GUILTY』2018年デンマーク

 傑作というのは言いすぎかもしれないけれど、最近観た映画としては出色だった。こんな映画の作り方もあるのか。

 

 ネタばらしをしてしまうと、これから見る人に迷惑をかけるので注意が必要だ。主人公は警察の緊急通報センターの係員。さまざまなトラブルの電話を受けて状況を聴き取り、関係部署に連絡して対処する。主人公は実はもともと捜査の刑事らしいのだが、ある問題について裁判を控えており、そのペナルティとしてこの仕事をしていることが、まわりの同僚や彼の電話のやりとりから分かって来る。その仕事も今晩でもうすぐ終わる。

 

 そこにかかってきた、切迫した声の女性の電話。脇には誰かがいるらしく、身の危険を感じながらの電話らしいことを察した主人公は、女性とやりとりしながら情報を聴き取り、対処法を考える。

 

 直ちに管轄の部署に連絡するが、その動きは彼から見ると不十分である。彼は考えを伝えるが越権行為として反発を受けてしまう。自ら捜査出来ないことの苛立ちが彼を感情的にさせていく。

 

 つぎつぎに分かっていく状況とその切迫性。それとともに彼自身の問題も少しずつ分かっていく。やがて驚愕の真実を彼は知る。ほとんどがアップになった彼の表情と電話の会話に終始しながら、観客の想像力を喚起させる巧みなストーリー展開。観終わったときにため息が出るだろう。好い映画を観たあとの快い疲労とともに。

 

 北欧映画にはほとんど外れがない。というより私の好みの映画が多いのである。
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2020年3月 2日 (月)

官僚は言い訳が上手いけれど

 BSプライムニュースを比較的にまめに見ている。官僚、そして官僚あがりの大臣、副大臣、政治家がゲストとして呼ばれたとき、質問に対する答えを聞いていると、たいていその頭脳明晰であることに感心する。その頭の良さについては、言い訳の巧みであるところに特に感じる。

 

 しかしその言葉をよく聴いていると、問いかけに対して微妙に論点をずらしていて、実は問題点をよく突いたとても大事な問いかけなのに、巧妙な言い訳に終始していて、その問題点から逃げているように見えることも多い。意識しているかしていないかにかかわらず、これは大事なことを見失うことにつながってしまい、問題解決が出来なかったり遅れることにつながっているように見える。

 

 頭がいいことが却って問題の本質を直視出来ないことにつながるというのは皮肉だ。官僚の頭の良さは、自分の頭がいいことを自覚している頭の良さで、つまり、他人が馬鹿だと考えてしまう傾向がある。だから他人がした質問の本質を自らに問うことをせず(つまりよく聴いて考えることをせず)、言い訳に走ってしまうのだろう。これが番組でのことだけなら良いが、本性だったら恐い。

 

 本当に賢い人というのは他人の話をよく聴いて考える能力のある人だと私は思うが、そういう意味では官僚的頭の良さというのは賢いというのとは違うようである。
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上林暁『薔薇盗人』

 上林暁(かんばやしあかつき 1902-1980)については名前だけは承知しているが、作品を読んだことはなかった。解説によれば叙情的な自然描写が巧みな私小説作家だという。全集になければ出あうこともなかっただろう。

 

 この短篇はごく初期のもので、自然主義的な色合いが強い。田舎の小学校の門前にただ一輪咲いていた赤い薔薇の花を盗み取った少年の家庭が描かれていく。母親が病死して一年、無気力な父親と幼い二人の妹、食べるものにも事欠く生活にはほとんど希望はない。

 

 盗まれた一輪の赤い薔薇は空腹で横たわる妹の胸に飾られる。やがて誰が花を盗んだのかが露見してそのことで教師に叱られ、父親にも折檻を受ける少年。家を追い出されて彷徨う少年は友人と隣町まで出掛けるが、金など無いから遊ぶことも出来ない。

 

 家へ帰るしかないと承知しながらの帰り道の空しさ、その少年の目に移る風景の描写は素晴らしい。この点を新感覚派の川端康成が評価したというのも頷ける。

 

 やはり全集に収められるほどの作家の作品はインパクトがある。記憶に残る。
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2020年3月 1日 (日)

アンニュイな午後

 ちょっと事情もあるのだが、本日はアンニュイな気分。何もする気がしないときはぼんやり音楽を聴く。普段はジャズやクラシックを聴くことが多いが、今日は久しぶりに朝からずっと日本の女性歌手を片端から聞いている。わるくない。

 

 ちあきなおみ、研ナオコ、西島三重子、ザ・ピーナッツ、石川ひとみ、麻生よう子、高田みずえ、渚ゆう子、西崎みどり等々(古いなあ)と並べてとっかえひっかえ聴きながら半分うつらうつら、昼寝るからこれでまた夜眠れなくなる。


 日曜の午後のアンニュイは現役のときの気分の名残もあるのだろうか。休みも間もなく終わり、明日から仕事なのである。

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織田作之助『夫婦善哉』

  私の精神はこういう男に堪えられない。主人公の蝶子は生活力もあってほかの生き方もあるのに、どうしてこんなダメ男の柳吉のような男にとことん尽くすのだろう。それなのに添い遂げるのは、柳吉にどんな善いところを感じているのだろうか。柳吉に愛があるとはとても思えないし、そもそも愛情などと言うものは彼の頭にはなにもない。いや、彼が唯一愛しているのは自分自身だ。

 

 それなら蝶子は不幸せなのか。延々と彼の不始末の尻ぬぐいをし続けながら、彼の帰りを待つのはなぜなのか。彼女には柳吉とそれ以外の男性を比べるという観念が最初からないようである。それはそれだけ愛していると言うことだろうか。かけがえのない存在が愛だというのなら、彼女は柳吉を心底合いしているということだろう。

 

 ラストの二人の姿に不思議な安らぎを感じて、柳吉に対する私の耐えがたい不快感が薄らいでいく。人生とは何だろう。生きるとは何なのだろう。二人がしあわせであることは間違いないと確信しながらも不思議な気持になる。

 

 織田作之助、すごいなあ。この小説は昭和15年、27歳の時に発表。昭和22年、33歳で死去。

 

 大阪天王寺近く、生國魂神社にある彼のブロンズ像。
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