意味の深さを感じる言葉
江藤淳の『一族再会 母』という文章を読んでいたら、以下のような部分に感じるところがあった。
「われわれはいい加減に生きている人間に劣等感をそそられることはないが、あまりに真剣に生きている人間をなぜか許しがたいと感じることがある。それがその人間にとっていかに必然的な生き方であるかを理解したところで、この不安と不快は消えない。われわれはそのとき自分がその他大勢であることを、栄光も破滅もともにあたえられていない「幸福な」人間であることを、いやでも意識させられるからだ。皮肉なことに、こうして嫌われる真剣な生活者のほうは、おそらく「幸福」で凡庸な多数の仲間入りすることを唯一の目標として生きているのである。その努力そのものが自分を発光させ、他人からへだててしまうとも知らずに」
江藤淳が幼いときに、若くして結核で亡くなった母について書いた文章のなかで、近代と女性について語る文脈の中の言葉である。それはその意味としてばかりではなく、人間そのものを考えるための言葉にもなっていて考えさせられたのである。
思えば私は「いい加減」で「幸福」な生き方を選んで生きてきたその他大勢だなあと思う。せめて「真剣に」生きている人を妬まないようにしなければ。
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