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2020年4月

2020年4月30日 (木)

心配していたことが

Dsc_0036_20200430102301ベランダでさえずっていた鳥

 色々なところにさまざまなものが収納されていて、何年も使わないでいるもの、手も触れていないものが詰まっている。時間が経ったことによって不用になるものもたくさんある。それらを捨てていくのが快感でないことはないが、生来の怠け者だからなかなか手が着かない。

 

 ひきこもりを機会に、ちょっとだけ整理を始めた。引き出しを三つほど引っ張りだし、一つずつ座卓の上に置いて中身を確認し、捨てる物を捨てていく。捨てるというのは気持ちが好いが、多少エネルギーも必要とする。終わってみれば、ゴミ以外は引き出しひとつ分だけになっていた。

 

 さらにもうひとつ、と思いながら我に返ると、なんだか馬鹿に疲れた気分である。節々がだるい感じがする。いやな感じだ。体温を測るとさいわい平熱である。もしやと思ってトイレに行くと、いつもの排尿痛が少しだけ見られ、尿に濁りが見られる。持病になってしまったらしい泌尿器科の炎症が起こり始めている気配である。

 

 困ったなあ。いまかかりつけの病院は、担ぎ込まれた救急の患者が新型コロナウイルス感染者だったために閉鎖中で、外来も救急も受け付けないのである。これ以上ひどくなって排尿困難まで行くと大変だ。これ以上悪化しそうなら、電話診療で抗生物質の処方をお願いすることができないだろうか、などと考えている。

 

 排尿時に全身の神経が、電気が走るように痺れるのはイヤなものである。自分の抵抗力だけでなんとか乗り越えられないのだろうか。水分をがんがん摂ったほうが好いのか控え目にしたほうが好いのかも分からない。いまはせっせと水分を摂取しているが・・・。いまのところさらなる悪化はしていない。
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ルーツ

 いま『江藤淳コレクション』全四巻を少しずつ読み進めていて、すでに第一巻と第四巻は読了して、このブログでも紹介している。いま第二巻(エセー)を読んでいる途中だ。最初の三分の一ほどが『一族再会』という表題で、「母」、「祖母(父方)」、そして「祖父(母方)」について詳述されている。特に祖母と祖父についてはその生まれた土地の歴史から説き起こされていて、明治という時代が複層的に語られて個人史を超えたものとなっている。

 

 江藤淳は幼くして母を亡くしているので、母の思い出は少ない。それは母が結核という病であったために、祖父母にあずけられて身近に接することができなかったからでもある。そのことがかえって母というものにたいして強い憧憬を形成した。彼が愛妻を失い、自らも大病のあと一年後に自死したのは、妻に母を重ねて幻視していたからだと感じたりする。そもそも江藤淳は自死とは最も縁のない人であると思えるのだから。

 

 その彼の母は、女学生時代は活発で明るい健康な女性だったと母の級友から聞いている。若くして嫁ぐような人とは思わなかったとも聞く。その母が海軍軍人の家に嫁ぎ、姑である祖母とどう折り合いをつけたのか、どんな葛藤があったのか。江藤淳は祖母を母以上に識る。その祖母の厳格な性格がどう形成されたのか、それをたどるうちに明治という時代、そして佐賀藩出身であることの意味に辿り着いていく。祖母をたどっているのに、ほとんど祖母の父親(つまり曾祖父)に関する話が主になっていく。開明的だった祖母が、時代に翻弄されてどんな人生を送ることになったのか、どんな性格形成をし、どんな価値観の持ち主になったのか。

 

 そして話は転じて母方の祖父に移る。母方の祖父は早くに亡くなっている。母も幼くして母を喪っているのだ。母とは早くに死別していたので、母方の祖父との縁は薄いのだが、学生時代に思い立ってその祖父の元を訪ねる。そこで祖父から受け継いだもの、語られたことば、祖父の生きざまと矜持が、彼におおきく影響していく。

 

 その祖父はやはり海軍軍人で、生まれ故郷である尾張地方、蜂須賀村(現三和町)を離れてのち、ほとんど戻ることはなかった。のちにその蜂須賀村を訪ねてそのルーツを識ることになる。なぜ祖父が故郷へ戻らなかったのか。それこそが彼の矜持だったことを識る。

 

 ここに出て来る江藤淳の係累たちの姿に、私の母方の祖父母の姿を連想する。明治生まれで厳格そのもの、孫たちがじゃれ合うのを「うるさい!」としかりつける祖父母だった。孫たちで祖父母に親しんだのは私だけだった。私は静かに本を読むのが好きであった(うるさくない)し、外孫ではあるが一番年長だったし、祖父母が両親と同じくらい好きだった。

 

 父方の祖父母は私が生まれるよりはるか前に亡くなっているので、まったく知らない。しかしそのルーツに興味がないことはない。多少人に聞いたことはあるのだが、まったく異なる話を聞かされて、そのイメージがまとまらないままである。父の生まれた家はすでにないが、伝え聞いたその跡地を数回訪ねている。しかし調べるために直接はなしを聞く人は、みなこの世の人ではない。

 

 色々なことを考えさせてくれた文章だった。そのほんの一部について書いてみた。
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2020年4月29日 (水)

嫌いなCM

 火曜日から土曜日まで、朝食後の片付けを終えたら録画しておいた前日の晩のBSプライムニュースを見る。土日は放送がないから火曜日から土曜日なのである。反町キャスターが好い。聴いて欲しいと思うところではしつこく突っ込み、納得できないときは独特のポーズで表現する。おかしなイデオロギー性もないし、なにより正義の味方を自認していない。

 

 一時期、何かの理由で半年くらい外されて、別のキャスターに替わったときには、この番組も見劣りがしてつまらなかった。最近はとうぜんのことに新型コロナウイルスに関連したさまざまなことを掘り下げているものが多い。この番組は、どれを見ても同じことしか言わないほかの番組とは違って参考になるし、考える手がかりが得られることも多い。

 

 ところでこの番組のCMの中で、「なんとか8」というのがあって、白黒の画面に、よく知らない人がボソボソしゃべっているだけの、いったいなにを訴えたいのか皆目わからないものがあって、分からないことが極めて不愉快である。腹を立ててもしょうがないのだが、金を使ってCMをつくりながら、こんなひとりよがりのものを見せられるのがイラつくのだ。こんなものなら地方局の芸の無いストレートなそして下手くそなタレントのCMの方がずっとましである。

 

 嫌いなCM、パチンコ屋のCM、健康食品や健康薬のCM(たいてい特別価格だけを声高に言い通常価格は決して言わない)、集団群舞のCM(やかましい)、人工毛髪のCM、形成外科のCM、等々。

 

 とはいえたいてい録画で見るからCMは飛ばしているけれど・・・。
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SARSと新型コロナウイルス

 新型コロナウイルスに関して、医療関係者のコメントはおおむね歯切れが悪いか、または歯切れが良すぎてあまりこちらの胸に響かないものが多いが、唯一これは、と思ったのは、東北大学大学院教授の押谷教授の見立てと説明だった。あとでNHKのSARSに関するドキュメント番組の再放送で、このひとがどんな役割を演じたのかを知ってなるほどと思った。

 

 SARSの時も今回同様中国は感染を過小評価し、隠蔽を謀った。このSARSがベトナムに飛び火して感染拡大しそうになったとき、その治療に従事して危険を察知し、世界に警鐘を鳴らしたのがイタリア人医師であるカルロ・ウルバニだった。中国で未知のウイルスらしきものが見つかっているという情報と突き合わせ、すぐ中国とWHOに報告したのである。しかし中国とベトナム政府はそれを無視した。そのとき動いたのがWHOから派遣されて北京に駐在していた押谷医師だった。早速ウルバニと連絡を取り合い、ベトナム政府を動かして拡大を食い止めることに成功した。

 

 ウルバニや押谷医師や多くの医師たちの働きがあって、WHOは世界に警鐘を鳴らし、中国政府も動き出した。そのときにはすでに韓国に飛び火していて死者も出ていたが、さいわい日本は波及を食い止めることができた。このときウルバニ医師はSARSに感染して命を落としている。ウルバニはベトナムでは救国の英雄である。ベトナムが中国に接しながら今回の感染拡大を比較的によく食い止めているのはSARSを経験しているからであろう。

 

 今回の新型コロナウイルスではSARSのときと同じ経緯をたどりながら、第二のウルバニは存在せず、押谷医師もいなかった。WHOは中国の言いなりのテドロスが総帥である。それらが今回のパンデミックに繋がったといえるかも知れない。このことは日本だって感染病の研究をしている人たちにとっては旧知であるはずである。韓国はそのSARSの教訓を生かしていざというときの準備もしていたし、初動に全力を尽くした。

 

 その結果は歴然としている。日本は何も学ばなかった。なにも準備をしていなかった。厚生労働省は今回も想定外だったと云うだろう。原発事故と同じく、想定外のことは想定できなかったのだから、という理由で責任者は無罪なのである。何でもかでも非常事態を想定することを拒否するという、戦後培われた日本特有の心性は怖ろしいほどである。だから百田尚樹に茹でガエルと揶揄されるわけである。野党やマスコミは非常事態を想定することを拒否しながら、非常事態になるとその責任を追及する。その脳天気さがまた甚大な被害につながる。
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2020年4月28日 (火)

ひきこもり

 定年以後、娘のどん姫を追いだして(自立するようにお願いして)からは、ずっと独り暮らしである。私の独り暮らしは誰とも会話することがなく、ずっとひきこもっている状態であって、だから新型コロナウイルスでやむなくひきこもっている人たちが、その暮らしを「大変だ大変だ」と言うのを聞くけれど、私自身ははどうということもないと感じている。

 

 ただ、それでもひきこもりに飽きれば車で遠出をして、知人友人と会ったり、見知らぬ人と話したりすることもあった。それすらも自粛しなければならないというのは、いわゆる個室の牢獄にいるようなもので、勝手気ままでいいとはいえ、いささかストレスがたまらないことはない。

 

 連休中はいっそう自粛圧力が高まる気配である。そういうときは散らかり放題の家の中を片付けることにしようか、その合間に録りためた映画やドラマを集中的に観ようか、本も読もう、などとぼんやり考えている。やりたいこと、やらなければならないことは山のようにあるのだ。怠け者の私は怠け者であることをちゃんと自覚しているので、計画を立てるのが好きである。そうして計画を立てると、ものごとが片付いた気になってしまうところがある。

 

 さあ、明日からの計画を立てることにしようか。
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北方謙三『楊令伝 十五 天穹の章』(集英社)

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 歴史に記録のないこの物語は、とつぜん暗転して終わりを告げる。滅びは最も意気盛んなときにこそ胚胎していて、盛んであることの興奮には本当にこれで良いのだろうか、と云う不安がつきまとい続けていた。幾多の夢がこのように夢で終わった。今の平安が疫病でたちまち崩れ去ったように、梁山泊をとつぜん百年に一度の大洪水が襲う。それをしのいだ上で南宋撃破が成ろうとするそのときに金の先々代皇帝と楊令の間で結ばれていた盟約が破られる。

 

 好漢たちはつぎつぎに散っていき、夢は儚く忘却の彼方に消えていった。

 

 九死に一生を得た岳飛が、たびたびの敗北から不死鳥のように立ち上がり続ける物語は、ここから引き継がれていくのだろう。『楊令伝』に続く物語、棚に列ぶ『岳飛伝』全十七巻をいますぐ続けて読むか、一息入れるか迷っている。

 

 岳飛は中国で最も人気のある実在の英雄である。日本で源義経が愛されるように愛されているのは、華々しい戦果を挙げながら悲劇の末路に終わるからである。敵役の秦檜は現代でも中国人に恨まれ、憎まれ続けている。杭州の西湖の畔には岳飛廟がある。その岳飛廟の前には縄をうたれ、ひざまずく秦噲夫婦の等身大の像がある。いまはまわりを鉄柵が頑丈に囲んでいるが、以前は柵がなかったので像に小便をかける不届き者もあったという。いまでも唾を吐きかける者はあとを絶たない。

 

 私の最も愛する中国の奇書である『水滸伝』を初めて読んだのは吉川英治の『水滸伝』だった。夢中で読んで時間を忘れた。この『水滸伝』という傑作には、梁山泊が滅亡したあと、生き残った者たちを描いた『後水滸伝』という物語がつくられている。未読だが、この『楊令伝』にはその物語が反映しているのだろうと思う。思えば水滸伝の時代と岳飛の時代は続いているのだ。そしてそのあとには蒙古の元の時代が、つまりジンギスカンの時代が続くのである。

 

 何度も(五回か六回か)行った杭州という街は、南宋の首都だった臨安である。西湖のあるこの街の、水と緑豊かな景色は中国人の最も愛するところであるし、日本人にとってもなじみやすい街だ。杭州では岳飛像をそこら中に見る。その時代を『楊令伝』でリアルに、まのあたりに感じさせて貰った。
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2020年4月27日 (月)

白い眼で見られる

 不要不急といえるかどうか悩ましいところだが、予約していたタイヤ交換に金沢まで行ってきた。いつもなら金沢で一泊し、若い友人達と美味しい酒と魚を楽しむのだが、さすがにそれはやめた。そもそもお店がやっているかどうかわからない。やっていない可能性が高いであろう。

 

 休憩のために駐めた途中のパーキングもガラガラであった。トイレ掃除やゴミ片付けをするおばさんたち二人がこちらの車を見てひそひそ話をしている(ように見える)。こちらのナンバーが県外であることを見て眉をひそめているのだろうか。なんとなく居心地が悪く、飲み終えたお茶のペットボトルを捨てるのがためらわれた。

 

 夏タイヤはやはり乗り心地、操縦性とも冬タイヤよりも良いようだ。燃費も少し良いように感じる。早く白い眼で見られずに好き勝手に走り回れるようになると好いなあ。
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北方謙三『楊令伝 十四 星歳の章』(集英社)

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 水滸伝の漢たちの多くは死んで英雄となった。その生き残りたちが楊令の元に新しい梁山泊として結集し、英雄たちの息子や娘たちもその元に参集した。生き残りの漢たちが物語の中で壮烈な死を遂げていく。

 

 戦争の犠牲者たちはしばしば数で語られる。その数で語られる無名の漢たちの思いは詳しく語られた英雄たちの姿として語り残されていく。

 

 南宋は国の姿を確かなものにした。確かな国となった南宋は、劉光世総帥の下に岳飛と張俊を従えて金を伐たねばならない。そんなときに梁山泊の自由市場、つまり国家の統制ではない経済、が国のかたちを損なうことになる。金を伐つためにはまず梁山泊を滅亡させるしかないという状態が生じていた。

 

 金の二代目皇帝死去により、金は服喪に入って軍を動かさないとみた南宋軍は一気に北上して梁山泊軍と対峙する。今回は局地戦ではなくほぼ全軍での全面戦となった。作戦を超えた極限の戦いが繰り広げられる。

 

 戦いを前にその戦いの意味を楊令が語る。

 

「南宋という国を潰せば、自ずと新しいものが姿を現す。だから、南宋を潰すための戦である。」

 

 それに対して呼延凌は思う。

 

「新しいものが、人にとって美しいものだ、とは信じていなかった。北京大名府で、のちに自由市場となるものと同じ市を守った時、欲と欲のぶつかり合い、利害による駆け引きなど、それこそのべつ起きていたものだ。
 人が美しくいられるとは、信ずるべきではない。しかし、そうなろうとすることは、必要だった。そういう状況をつくるために動かない限り、美しさの片鱗も見えはしないだろう。楊令も新しく現れるものが、夢のように美しいなどとは、信じていないはずだ。ただ、新しい、今までになかったものを、見たがっている。そうやって新しいものを求め続けることが、『替天行道』の志だと思い定めている。」

 

 ついに『楊令伝』全十五巻は次の巻で完結する。
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2020年4月26日 (日)

散歩

 散歩コースのひとつ、スポーツセンタへの周遊コースを歩く。のんびり歩くと田んぼのなかにあるスポーツセンターまで30分、できるだけ25分で歩きたいと思っているが、最近歩くのが遅くなっているし、身体のバランスが悪くて無駄にエネルギーを使っているらしく、なかなか25分では歩けない。

 

 いつもならスポーツセンターのラウンジで一休みして新聞を閲覧するのだが、今は閉鎖されているので中に入れない。外のベンチでちょっとだけ汗をかいた身体を春風にあてる。好い気持ちである。潮風の香りを感じたのだけれど、南風だとはいえ海から遠いここで潮風が感じられるはずはない。錯覚だろう。海風に当たりたい気分になった。

 

 運梯にぶら下がってみたが、一分と持たない。握力も腕力も信じられないほど衰えている。それでも身体の筋が少しは伸びただろうか。

 

 田んぼの横の用水路に澄んだ水が流れていて、よく見ると小さな魚の群れが素早く泳いでいるのが見える。蛙の啼く声がするけれど、こちらが近づくと啼きやみ、遠くへ移る。昔はすぐに蛙の姿を見つけることができたが、今は声だけである。以前はまわり中が田んぼだったが、今はどんどん埋め立てられている。その埋め立ての土の下にはたくさんの蛙が埋まったままになっている気がする。
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知多行

三月初めに海風を浴びるために知多へドライブに出掛けた。いまさらであるが、そのときの写真を掲載する。

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知多半島の中央部を縦断して知多道路が走っている。南知多で降りて、東岸南部の河和(こうわ)というところの南の小さな川の河口で海を見る。

河原にたくさん鴨がいたのだが、私の姿を見て一斉に沖へ逃げていった。もうすぐ北へ渡るのだろう。

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彼方に見えるのは加藤化学の工場らしい。加藤化学は水飴を作っている。水飴はさまざまな用途に使われている。鏡面に輝くタンクに赤い加藤化学の文字のタンクローリーを見かけることがたびたびある。

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河口に繋がれた小舟。この辺りは潮干狩りの場所でもあり、連休の頃は賑わうのだが、今年は無理だろう。

ここから知多半島の南端の幡豆岬に行く。

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羽豆岬からの遠望。船釣りの釣り宿から鯵釣りやカワハギ釣りなどに行くときは、向こうの島の周囲が釣り場となることが多い。友達と何度も釣行したものだ。今はほとんど釣りをしなくなってしまった。あれほど夢中だったのに、自分で信じられないが、子どもたちが独立して独り暮らしになると、釣って帰っても美味しく食べてくれる人間がいないので、張り合いがなくなったのだ。

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水は澄んで美しい。海を汚す工場や大きな街がここにはない。向こうは伊勢。

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幡豆岬の高台にある幡豆神社。

魚ひろばのある豊浜へ向かう。

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豊浜漁港前。釣り人がちらりほらりいた。なにも釣れている気配はない。

魚ひろばでえびせんとワタリガニを買ったことは以前書いた。海に近いところ(九十九里)で育って小魚を食べて成長したので、海へ行って海風を浴びると生き返る心地がする。また出掛けたい。

2020年4月25日 (土)

女性の代表、蓮舫女史たち

 松井大阪市長が「女性は買い物に時間がかかる」と述べたことに対して、さっそく蓮舫女史が「根底にある本音が出たのでしょうか。やめてよ。としか思えません」と反発したそうだ。江川紹子氏は「生活が分からない人が、あれこれ思いつきで言わないで欲しい」と切り捨てたそうだし、社民党の福島瑞穂氏は「人それぞれ、男性だって吟味する人がいるし、女性だってぱっぱと買うひともいる」と不快感をにじませたという。

 

 面白いなあ。こういうのを読むとついひとこと言いたくなる。

 

 男も女も買い物をてきぱきする人もいるし、なににそんなに迷っているのか首をかしげたくなるほど時間のかかる人もいるのは、日頃見かけて誰もが実感していることだから、反論は間違っているとはいえない。

 

 しかし松井市長の言葉尻だけを捉えての反論は如何なものかと思う。松井市長は買い物をてきぱきして滞在時間を短縮し、スーパーの密度を下げるように心掛けよう、と云いたかったはずであるのは誰にでも分かる。主旨はそこであろう。事前に買うものをある程度決めておけば時間も短くできるはずだ。女性がしばしば買い物に時間がかかる人の多いことは誰もが経験的に承知している。だからこそ福島瑞穂女史が「女性だってぱっぱと買うひともいる」と言ったのである。普通は買うのに時間のかかる女性が多いことを自ら認めているではないか。

 

 蓮舫女史はセンサーが壊れているのか被害妄想なのか、松井市長の言葉から「女性蔑視」しか聴き取れないらしい。これでは「てきぱきと買い物をしよう」、と云うメッセージが消されてしまう。その罪悪にはお気づきにならないらしい。

 

 江川紹子女史の「松井市長は生活が分からない人」という決めつけは、どういう根拠に基づくのか理解不能である。もし、松井市長の言葉からそれを決めつけたなら、ただの彼女の思い込みということでしかないであろう。失礼である。マスコミで泳いでいるとこういう噛みつき方で点数稼ぎをして商売にする癖がつくのだろうか。もう少しまともな人かと思っていたのだが。
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北方謙三『楊令伝十三 青冥の章』(集英社)

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 金、斉、梁山泊、岳飛軍閥、張俊軍閥、そして南宋、さらに耶律大石軍閥や西夏の勢力の緊張関係は徐々に変化していく。もともと金の傀儡国だった斉は次第に金との距離を持ち始め、梁山泊との戦いで損耗した張俊軍閥はその斉の禁軍として取り込まれる。

 

 岳飛は自分の勢力を維持するために支配地域に苛斂誅求の納税を強い、その結果大軍を擁することになる。その岳飛を金の将軍・蕭珪材が急襲する。勢力に勝る岳飛軍だったが、戦いは消耗戦に成り、共倒れの様相を呈していく。全滅を避けるため、岳飛と蕭珪材は一騎打ちで勝敗を決することになる。

 

 辛くも蕭珪材を倒し、根拠地へ帰陣した岳飛を待ち受けていたのは驚愕の事態だった。

 

 梁山泊軍を斉の禁軍である張俊将軍の十二万の大軍が襲う。しかし四万という数では劣る楊令麾下の梁山泊軍は張俊の軍を撃破する。その裏では梁山泊側の闇の部隊である致死軍が、宋の闇の部隊である青蓮寺と死闘を繰り広げていた。

 

 南宋は次第に国のかたちを調え、勢力を急速に盛り返しつつあった。襤褸のようになった岳飛はその南宋の禁軍の総帥である劉光世の再三の招請を受け入れて南宋に下る。岳飛が童貫に出会うことになったのは、そもそもこの劉光世を介してであった。

 

 こうして金、斉、梁山泊、南宋という勢力配置に変わった中で、金の背後を次第に蒙古が活動を活発化していく。金の身動きが取れないことは、斉の勢力拡張と金との離別を促進することに繋がっていく。そしてその斉の新たな将軍として、梁山泊のある男が切り崩されて取り込まれていく。

 

 梁山泊は交易による収益で富んでいくが、富の蓄積は夢に描いた理想の国のかたちをもたらすのかどうか、楊令の心は揺れ動く。歴史からみれば、これから北方は大きく変化していくのだが、それがどのようにそれぞれの国に影響を及ぼしていくのか。そして漢(おとこ)たちはどう生き、どう死んで行くのか。
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2020年4月24日 (金)

映画『ダークサイド』2018年カナダ・アメリカ

監督ティム・ハンター、出演ニコラス・ケイジ、ロビン・タネイほか

 

 題名からオカルト的な映画を想像するではないか。ところがオカルトでもサイコパスの話でもない。犯罪は起こるのだがその犯人は意外であるもののどんでん返しがあるわけでもない。などと書くとこの映画がつまらなかったのかと思われるが、ストーリーが単純なのに意外と面白かったのである。

 

 やはりニコラス・ケイジはただ者ではない。

 

 娘を事故で喪い、それが自分の責任であり相手の責任でもあると自覚している夫婦が心機一転して、遠く離れた田舎のモーテルを居抜きで買い取り、経営者として再出発しようとする。そこで感じる微妙な違和感が次第に不安を増幅させていく。以前の経営者は行方不明になり、そのモーテルで過去に事件があったらしいことも分かってくる。

 

 近所の人びとも田舎特有の猜疑心にみちた目で彼らを見ているような気がする。やがて亭主(ニコラス・ケイジ)はそのモーテルに秘密の地下通路があることを発見する。そしてそこで見たものは・・・。

 

 物語は中途半端な形で終わってしまうが、そういう形でしか終わりようがない話であるとも言える。その日常の隙間の宙ぶらりんの感じがなかなか気持から消えない映画である。スカッとしないその嫌らしさを感じるのも映画の楽しみか。意外な掘り出し物ともいえる。
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自由と民主主義、そして社会主義

 安岡章太郎の『対談 僕の昭和史』の中に、書きとめたい部分があったので残しておく。

 

 ビスマルクの子孫が戦後日本に来たときに、「私の中には先祖代々自由の血が流れている」とインタビューに答えたことについて、

 

 僕にはショックでした。確かにビスマルクの中には自由の血が流れているというふうに考え直していかなければいけないんだよね。
 近代というものをどう考えるか。西洋史なんというものまったく知らないわけだけれども、というのはユンケルは日本語に翻訳すれば郷士なんだな。そういう地侍の自分たちが、武器を持って、土地を持って、自分たちを守っている。そういうものが自由なのかという気もする。そうだとすると民主主義と自由とはどうも相反するものではないかと思わざるを得なかったね。
 民主主義と自由というものをバランスを取って両方結びつけることができたのは、やっぱりアメリカらしいな。けれども、僕らがアメリカ人と同じようにできるかというと、それはきっとできないだろうね。

 

 安岡章太郎の先祖は土佐の郷士である。吉田東洋暗殺に直接関係し、土佐勤王党に関わり、さらに維新の戦い参戦してに彼の係累の多くが死んでいった話は、彼の『流離譚』に詳細に書かれている。郷士というものに格別の思いがある彼だからこその言葉であり、また彼はアメリカに留学経験があるし、そのあとも何度もアメリカを訪ねてアメリカについて詳しく見たし、考え続けてきたから、上記の言葉には深い思いがあるのだと思う。

 

 別のところでは、アランの『裁かれた戦争--マルス』の中の言葉を引用しながら、

 

 アランは、第一次大戦のときに砲兵軍曹なんだ。その経験から徹底的に彼は軍隊に反発して平和論を唱えるわけだけれども、最後の方でこういっているんだ。諸君は社会主義というものに期待してはいけない。社会主義はやはり組織を前提とするものであって、組織がなければ成り立たないものだ。組織があれば、必ず権力機構ができる。権力機構があれば、それは軍隊と同じであるといっているわけ。それで一人一人の人間が平和を本当に欲して主張し続ける以外にはなんの方法もないんだといっているんです。つまり、非武装中立を彼はそういう言葉でいっている。そんなことではおよそ平和運動というものはできないんだし、実に困るなと僕は思った。けれども、僕はそれ以後、年をとるにつれてだんだん自分はそれに共感してきたといえるな。確かに、社会主義に期待することは本当に間違いであって、期待できるものを自分の中でつくろうとする以外に方法はないだろうと思うね。

 

 正しいかどうかではない。考え尽くしたうえで自分なりに出した答えを彼は語っている。
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2020年4月23日 (木)

火事場泥棒

 火事場泥棒は最も唾棄すべき犯罪である。大震災のときの避難先の人のいない住宅に泥棒に入るのも同様である。徹底的に防止し、捕まえた場合は通常の刑罰を越えたものを科すべきだといえば同調する人は多いだろう。その行為の卑劣であることを憎む人が多いはずだからである。

 

 新型コロナウイルスの不安につけ込んだ詐欺なども同様の行為だ。そういうずる賢さは許せない。それと同じにしか見えないのが中国のどさくさ紛れの軍事行動であり、挑発である。まともな国のすることではない。勝手に埋め立てた場所を自国領土と強弁し、多くの国の反撥や顰蹙を買っているが、平然としている。

 

 一帯一路などと、他国と協調するが如き提唱をしながら、同時に火事場泥棒的な行為を平然と行う国が他国に真に信頼されるはずがない。黙って協力しているように見えている国々も、ただ中国の金を当てにしているからであり、当てにせざるを得ないように追い込まれているからであろう。その金が尽きたときにはどの国もてのひらをかえすだろうと確信する。

 

 火事場泥棒の行為を憎む心情が昂じているから、中国が経済的に窮することを望んでしまう。中国が傾くことを期待してしまうのだ。嫌中国になるのは故がないわけではない。中国がなにをしても、火事場泥棒をする国だから、と云う汚名はついて回ることの損失を、中国政府は気がつくことが出来ないようだ。
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同感

 デイリー新潮の「リベラルこそ『国家』を信頼していたのかも」という古市憲寿氏の記事に同感である。歴史を多少は知っているなら、なにをいまさらと云う気もするが、その通りだと思うことには「同感」というしかない。

 

「国家さえ動けばすべて解決する(はずだ)」と云う楽観論から「だから国家よ、さっさと何とかしろ」となるという見立ては、日本のリベラルの本質の一端を鋭く指摘している。これがエスカレートすると国家が独走するという図式はすでに経験済みだ。それは極端にしても、それに対して抑制的なのは政府の側であるという指摘はその通りで、抑制的であるがために「政府の対策は生ぬるい」とあちこちで声が上がっている。政府に強権をあたえるべしと言う声は、保守ばかりかリベラルにも多いし、ときにリベラルのほうが大声なことがあって、やはりなあとおもう。

 

 抑制的である政府を、保守的である私は理性的であると見て支持する。 古市氏が政府を支持しているかどうか知らないが、少なくとも抑制的であることを評価しているらしいことに同感するのである。
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安岡章太郎『対談 僕の昭和史』(講談社)

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 随筆集に関連してこの本を読み直した。著者の『僕の昭和史』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲが刊行されたあとで、七人の人たちと昭和史について語り合ったものを本にした。初出を見ると、それぞれ別の月刊誌での対談をまとめたようだ。

 

 一人目が井伏鱒二で、とうぜん話は押しかけ弟子で、井伏鱒二に迷惑をかけ続けた太宰治に言及することになる。それは想像を絶するもので、井伏鱒二はそのために経済面だけではなく、精神的にもずいぶん苦労している。たしか鈴木健二(気配りのすすめの人)が太宰治にずいぶん金を無心されたと書いていたけれど、それなら金田一京助の方がはるかにむしられた。しかしそれについてついに生前一言もグチを言わなかった(金田一京助の夫人が太宰治という名前を聞くだけで怒りに震えたらしいから、よほどすさまじかったようだ)。それにひきかえ鈴木健二が自慢そうに何度もぼやいて見せたのが私には鼻についた。太宰治にやった金の元を取ったのではないか。ところで井伏鱒二は最後まで太宰治を見捨てなかった。

 

 戦前から戦後すぐにかけての文学界にスポットを当てれば、太宰治を語らずにすませるわけには行かない。いま読んでいる文芸評論家の奥野健男も太宰治を論じた文章で世に評価されることになった。そんな人は多い。ますます太宰治を読まなければならない気がしてきている。

 

 私も昭和25年から64年までを生きたから、昭和が最も長いことになるのは確かだ(まさか平成で40年以上生きることはないだろう)。物心ついてからの最初の記憶は、父親の肩車で、電気屋の前の群衆とともにテレビでプロレスを見たことである。東京タワー、新幹線、東京オリンピックなどなどそれぞれに思いだすことはあるし、個人としてさまざまな思い出もある。思えば私の経験した昭和はもののない時代からありあまる時代への、右肩上がりの時代だった。
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2020年4月22日 (水)

疲れた

 手作りマスクをして千葉中南部の病院二つを訪ね、人に会い、色々な引き継ぎをした。ある人をこれからずっと面倒見ることになる。一つの病院に入院し、別の病気でもう一つの病院にもかかっているので、両方で今後は私がすべての窓口になるための手続きをした。

 

 東京湾を跨ぐアクアラインを通るからショートカットになるとはいえ、名古屋から現地まで一日で往復約900キロを走った。引き継ぎの要件の多さに頭が眩み、走り抜いた疲れでぐったりした。夜十時頃には帰着したので興奮する頭を鎮めるため、豆腐と鶏肉で水炊きをしながら酒を少し余分に飲んだ。

 

 持ち帰ったたくさんの書類と資料にあとで目を通さなければならないが、今日はなにもせずに静養している。役所の手続きはあらかた済んでいるが、確認が必要なことが残っている。今日はまだ呆然としている状態で頭は回っていない。

 

 何より病院巡りをし、人に会ったので高い感染リスクを抱えた。この先二週間くらいは極力人に会わないようにするつもりだ。とはいえ来週は冬タイヤから夏タイヤへの交換の予約をしているので、金沢へ行く。いつもならそのついでに金沢の若い友人達と飲み屋で大いに歓談する(そのためにタイヤを金沢にあずけてある)ところだが、今回はとうぜんのことながら声はかけていない。代わりに少し能登へ足をのばして気分転換するつもりでいる。車で走り回るだけなので許して欲しい。
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北方謙三『楊令伝十二 九天の章』(集英社)

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 交易で国を成り立たせるという楊令の描く夢を理解する者と理解できない者とがある。それが梁山泊全体の世代交代の中で、古い世代にとっての微妙な違和感になっていく。人の生き甲斐は豊かであることと見切るのは、ある人々にとっては納得できないことだというのは分かる気がする。

 

 金の内部の権力抗争は続く。金の西側に傀儡政権の斉という国が立てられる。もちろん金そのものだが、住むのは主に漢民族であり、皇帝も漢族の劉豫である。そのほうが支配しやすいのである。さらに西、もと遼の耶律大石は各小部族を従えて西遼という国を建国。梁山泊の交易路の途中の西夏も内部の権力抗争が激しくなり、交易路を維持するために駐在する梁山泊の面々も翻弄される。

 

 金の先代皇帝の息子のひとりがその交易の隊商を襲う。辛くも荷は守り抜かれるが、犠牲も出る。金と梁山泊の間にも軋みが生じ始める。軍族の張俊、そして岳飛はそれぞれ兵力を貯え、勢力拡張を虎視眈々と狙う。その要にいるのが梁山泊であり、次第に戦雲は急となる。

 

 南へ落ち延びた宋の一部は江南に依り、次第に南宋という国のかたちを調えてくる。それを背後で動かし支えるのは青蓮寺の李富であり、そこには遠大なたくらみがひそめられている。

 

 金は中国全土を支配する力を持たず、あらゆる勢力が割拠支配する構図が続き、やがてその抗争が全体に及ぼうという気配が見えてくる。その先にあるのは希望的なものというよりも悲劇的なもののようである。
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2020年4月21日 (火)

ついに・・・

 ついに私の通院している病院が外来の受付を停止することになった。先週末(土)に緊急搬送された人が新型コロナウイルス感染していたことが判明したのだそうだ。私はその週の月曜日に診療を受けている。クロスしていなかったことはたしかなはずなのだが、きわどいことだった。糖尿病の検診予約はだいぶ先だから良いが、泌尿器科、前立腺炎は完治しているかどうか危うい状態で、もしまた炎症を起こしたらどうしたらいいのか不安である。

 

 自分の力だけでは如何ともしがたいものがこの世にはある。可能な限りの手を尽くしても万一と言うことはあり得る。何かがひしひしと迫りつつあるのを感じる。パチンコにうつつを抜かしているときではない。もちろん私はギャンブルは苦手(つまり人一倍弱い)だからしないけれど。
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『安岡章太郎随筆集7』(岩波書店)

 この巻の多くが『僕の昭和史』という文章である。昭和という時代を安岡章太郎自身の個人史に重ねて、そのときそのときに感じたことをベースに書いている。しばしばそのときのことをそのときの認識で書いているつもりが、実はあとから身についた現代の価値観で過去を見てしまっているものが多いものであるが、安岡章太郎はそれが峻別できる希有な人である。

 

 安岡章太郎は1920年(大正九年)生まれだから、物心ついたのがちょうど大正から昭和にかわるときだった。元号が昭和に変わったとき、彼は軍人だった父の赴任地であった京城(ソウル)にいて、幼稚園生だった。『僕の昭和史』はⅠ、Ⅱ、Ⅲとあって、この巻に収められているのは、昭和が始まり、そして太平洋戦争が終わった昭和二十年までのⅠのみである。

 

 彼の共通体験について書いた文章のほんの一部を引用する

 

「ところで、共通体験というのは、大震災とか空襲とか集団疎開とか、要するに大きな不幸を共にすることであって、幸福の共通体験というものはないらしい。しかも、トルストイのいうように、『幸福な家はみな一様に似通ったものだが、不幸な家はいずれもとりどりに不幸』なのである。つまり、幸福という『みな一様に似通ったもの』を僕らは共有することは出来ず、家によって個人によって『いずれもとりどり』であるところの不幸によって、僕らは共通の体験・・・歴史というもの・・・に、参画することになるわけだ。ここに個人史による現代史というもののムツかしさがある。僕らが、個人的に自分のこうむった時代の不幸を熱心に振りかえれば振りかえるほど、ますます『共通体験』の共通項からはずれて、何かしら特殊な、偏見にみちた、自分個人の不幸のグチをくどくどと語ることになりがちだからである。」

 

 一体今回の新型コロナウイルスの体験をわれわれはあとでそれぞれどう語るのだろうか。

 

 この巻の後ろ部分にいくつかの歴史に関する彼の文章が収められていて、その多くが土佐郷士であった彼の幕末前後の先祖の個人史を書いた『流離譚』に関連している。すでに長大なこの物語は読んでいたので、書いていることは良く分かった。

 

 さあ全八巻の随筆集の第七巻まで読了した。あと一巻のみ。だが、実は私は『僕の昭和史』の別巻となる『対談 僕の昭和史』という本も持っているのだ。『僕の昭和史』に関連させてさまざまな人たちと対談している。引っ張り出して来たので、それを先に読もうと思っている。そうすると『流離譚』から派生して山口瞳の『血族』などという本まで読みたくなるから困ったものである。
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2020年4月20日 (月)

すべきことと出来ること

 「すべきこと」がすべて「出来る」ことなら世の中はずいぶん簡単で、「出来ないのはすべきことをしようとしないからだ」と非難するのは正しい。新型コロナウイルス対策でさまざまな問題が生じているけれど、さまざまな人びとが「したくても出来ないこと」と「しなければならないのにしようとしないこと」を検証なし、区別なしに論じるからわけが分からなくなる。

 

 自分の存在を顕示したいがためだけに大声で無責任なことを言う輩が幅を利かせているのをみているとうんざりする。たいて言いいっぱなしで、風向きが変わるとまったく違うことを言ったりしているのだが、ほとんどの人は前の言葉を忘れているから大過なくのさばっている。そもそもその言葉の軽さを知っているから、みなそれをとがめない。日本人は優しいというか、いい加減というか、最初からあきらめているようなふしがある。

 

 朝三暮四に怒る人びとが多いが、朝令暮改の為政者を見せられれば仕方のないことだと思う。朝令暮改にならないための、素早い的確な判断が必要なのに出来ないのは、前にも書いたが官僚に判断を仰いだりするからだ。彼らは命令を実行するための存在で、判断をすることになれていない。判断を求められれば責任を取らないために「出来ない理由」を整然と述べる者たちである。そのために対策は遅れに遅れ、あちこちで出来ない理由が飛び交い、現場はますます混乱の中に置き去りにされてしまう。

 

 小企業の救済補助金の申請に必要な書類が七枚だか十一枚だか必要で、しかも面倒きわまりないものだという。五枚目くらいで嫌気が差して、こんなものを書くくらいならあきらめた方がまし、と云う気分にさせられる、と嘆いている人をテレビで観た。それが役所の目的なのだろう。年金手続きの時の腹立ちを思いだした。申請書類という名の書類の嫌がらせにしか思えない思いはあんな程度のものではないらしいが。

 

 この危機的状況はとうぶん終息しないと覚悟するしかないようだ。
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消息交換

 息子から、千葉へ行くのはやめられないか?とメールが来た。やめるわけにはいきにくい詳しい事情を説明した。嫁さんの御母さん手作りのマスクをお裾分けするので郵送した、と云う。有難いことである。

 

 弟と、私にしては長電話(15分ほど)をした。弟も子どもたちとの行き来をしないように我慢しているという。弟の家族(孫六人)はとても仲良しで、いつでも家族連れで誰かが家にやって来ているから、さびしいことだろう。互いの状況を話したあと、とにかく今は出来るだけ人との接触をしないようにするしかないだろうと励まし合った。千葉へ行くことは伝えたが、弟のところには寄らない。一番迷惑をかけたくないのが弟のところだから当然なのだ。
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2020年4月19日 (日)

銀河英雄伝説

 NHKのEテレで『銀河英雄伝説』が始まった。今日第一回と第二回の再放送があるのを発見してそれに気がついた。毎週月曜の晩の連続放送ということらしい。明日の晩が第三回目である。録画予約をした。

 

 この『銀河英雄伝説』は田中芳樹原作の壮大なSFスペースオペラで、原作をすべて夢中で読んだものだ。

 

 そのあとアニメ二なって、そちらはビデオ屋で借り出して全て観た。

 

 今回もアニメで、以前も美しい映像だったが、それ以上に美しく迫力がある。第一回と第二回はアスターテ会戦である。昔の記憶が蘇り、興奮して観た。この物語は群像ドラマでもあり、また権謀術数も描かれるという、まことに盛りだくさんで奥が深いドラマなのである。登場人物の名前もたいてい記憶していた。それほど夢中で読み、また観た物語なのだ。
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佐藤雅彦『新しい分かり方』(中央公論新社)

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 最後の三分の一くらいは随筆という名の著者の考えが書かれた文章が収められているが、全体としては大人の絵本といっていい本だ。イラストと写真がふんだんに、しかもスペースだらけの中にあって、そこに何気なく見過ごしていると気がつかないようなことを、分かりやすく単純化して「あれ、何だろう」とか「どういうことだろう」と考えさせてくれる仕組みになっている・・・、はずの本である。

 

 それを素直に面白がって楽しめばいいのだけれど、そしてそれを期待してこの本を購入して眺めた(読んだとまでいいにくい)のだけれど、なんだかたいていのものが私の頭を素通りしてしまい、だから何なの、と云う感想しか残っていない。

 

 著者は日本のクリエイティブディレクターなのだそうだ。新しい視点を得るためのヒントでもないかと期待したけれど、ちょっと私とは肌合いが合わない仕事をする人のようだ。たぶんもてはやす人も多いのだろうなあ。私は頭の固い、分かれない人なのだろう。
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2020年4月18日 (土)

本日の雑感

 照惠夫人の行動を野党議員が問題視することが多い。たしかに自分の行動が亭主の足を引っ張るかも知れないという斟酌が欠けていると私は感じるし、そう思う人も多いだろう。しかし夫人が独自にしている行動について首相の責任を問うというのも何だかなあ、とも思う。これでは照惠夫人という立派な大人が、あたかも未成年者で安倍首相が保護者であり、責任を取れない照惠夫人の責任をその保護者である安倍首相が負うべきだといっているようであり、なんとなく時代錯誤を感じる。

 

 与党圧勝に終わった韓国総選挙について、新型コロナウイルスが流れを変えた、「文政権は本当に運が強い」という文春オンラインの見出しがあった。経済面の低下に対する批判や、例のタマネギ男の問題などで人気が落ちつつあり、与党の敗北もあり得るという見方もあったのにこの結果となったのは、新型コロナウイルスに対して韓国政府の対処がいまのところ奏功していることの結果であることはその通りなのだろう。

 

 しかし文在寅政権がこれでレイムダック化の危機を乗り越え、逆にその政策が支持されたとして従来以上に親北化を推し進め、反日を強化定常化していき、財閥への圧力を強め、労組がますます先鋭化していくとすると、韓国国民にとっては運が良かったことになるのだろうか。世界が新型コロナウイルス禍で疲弊している中、韓国だけが回復しても輸出が回復することはおぼつかない。企業は疲弊し、失業は増大し、株価は下がり、通貨も下がり続け、外貨は激減するだろう。それに対して文在寅がいままでどおりの政策をとれば経済対策としては逆効果でしかない。

 

 文在寅はその批判を受けないために検察に対してとことん反撃を推し進め、保身のための独裁化を謀るだろう。それが成功すれば引退しても歴代大統領のように哀れな末路を迎えずに済むからである。韓国国民は苦しんでも文在寅だけは「運がいい」ことになるのか。
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ちょっと無常感

 相変わらず夜中に目が醒めてしまう。そのまま我慢して眠ってしまえるときはいいのだが、どうしても眠れずに輾転反側して、ついにあきらめて起き出す。起きて何かを始めても中途半端で、昼間その反動で眠くなる。おかしな夢を見る。

 

 睡眠の質が低下すると心身共に不調である。医師から睡眠薬(軽いもので、精神安定剤のようなもの)を処方されているが、意地になって飲まないで我慢している。そのための薬なのに。

 

 何もしたくなくなる。食慾も低下し、酒も美味くない。部屋が散らかる。

 

 こういう時は遠出して景色をぼんやり眺め、安い湯治宿で温泉に浸かって読書三昧するか、友達に声をかけてバカ酒を飲みながら歓談すればもう一度スイッチが入ることは分かっているのだが、今は我慢している。

 

 来週、人生に関わる懸案事項に対処する必要があって、それが気持におおきく影響している。それが済むまで何も片付かない。金銭的にも生活面も現在から大きく変わることになるだろう。その話は今は詳しく書きたくないが。

 

 来月、誕生日が来たら七十になる。それを機にさまざまなことを切り替えるかも知れない。ブログを一日二度書くよう自分にノルマを課しているが、それもどうしようか迷っている。それにしてもココログの記事を更新しなくなった人の何と多いことか。ブログの記事のアクセス数が増えていて、大いに励みであるものの、そのことにもときどき意味が見えなくなることもある。

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2020年4月17日 (金)

北方謙三『楊令伝 十一傾暉の章』(集英社)

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 金による宋の滅亡後、金に連れ去られた宋の皇帝一族の遠戚を皇帝として南宋が樹立されたが、金に対する抵抗軍に守られただけの、国家と言えるほどの体裁はまだ整っていない。宋から離脱した岳飛や張俊はそれぞれ軍閥を形成して南宋に合流しようとはしない。それらの軍閥と梁山泊、そして金は互いに牽制し合いながら不安定な関係にある。

 

 その間隙を縫って楊令は西域と日本を繋ぐ壮大な交易路の構築を進めていく。西夏や、すでに滅びた遼のもと北方軍閥の耶律大石との交渉により、ついに交易路が指導する。その護衛に楊令自らが出動する。順調に推移すれば楊令の思い描く梁山泊という国家が現実化していくはずだ。

 

 この楊令の思い描く国家は、あのハンニバルで有名なカルタゴのようではないか。交易によって小さいけれど豊かな国だった。それがどういう末路を迎えたのか。ローマ帝国によってほとんどすりつぶされるようにして地上から消滅した。このカルタゴについて森本哲郎が、日本と対比して本を書いていて忘れがたい。梁山泊には果たしてどのような未来があるのだろうか。

 

 岳飛がついに動き出し、金と戦い、さらに梁山泊と戦う。事態は大きく動き出した。さらに金も国内の勢力争いが新しい展開を迎えている。その背後ではのちに元となるモンゴルが胎動しているはずだが、この巻ではまだ表に出てこない。
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主導できずに振り回されているように見える

 このところの安倍首相の迷走ぶりが気になる。官僚や専門家の意見に振り回されているように見える。他の国のリーダー達と較べて今回ほど見劣りして見えたことはない。どうしてしまったのか、それとももともとその程度の人物だったのか。

 

 官僚というのは、特に日本の官僚というものは、責任を取らずに前例主義であり、非常事態に無能であることは歴史が教えてくれているところである。官僚というのは出来ない理由を言う名人ばかりなのだと見切ったほうがいい。現にそう言う話がたくさん報じられている。そういうときこそ政治家が責任を引き受けて断固とした決断をするしかないのに、ころころと言うことが変わっているのはまわりに意見を聞きすぎているからとしか思えない。これでは歴史に汚名を残しかねないと気がついているのだろうか。 

 

 残念なことだが、それ以上に残念なのは彼のまわりの西村氏、加藤氏などがちっとも生彩がないことである。非常時にその実力を発揮する人と、ぱっとしない人がいて、今自民党には誰も危機を背負って立てそうな顔が見えないのは日本の国にとって不幸であると嘆いても始まらないが、情けないことである。ずるずると危機が長引きそうな、いやな予感がする。
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2020年4月16日 (木)

映画『チーム・バチスタFinal ケルベロスの肖像』2014年日本

監督・星野和成、出演・伊藤淳史、仲村トオル、桐谷美玲、松坂桃李、西島秀俊、栗山千明、生瀬勝久ほか

 

 主演級の出演者の錚々たる顔ぶれに感心する。シリーズの三作目だったかと思うが確かではない。Finalと言うことだが、伊藤淳史と仲村トオルは死ぬわけではないから続編が出てもおかしくないし、その期待がないわけではない。

 

 医療に関わる事件が起きてそれが解決されるというパターンは同じだが、その事件が大がかりなので毎回迫力がある。しかし大がかりすぎるので現実離れがしてしまうのは否めない。リアリティが弱くなるのだ。この事件の犯人は途中から明らかになってしまうし、思わせぶりな展開が如何にもミスリードを誘いかけるものの、犯人の意外性はいささか弱い。意外性になれすぎて、意外な人こそが犯人にちがいないなどと最初から観ている自分がいる。

 

 しかしストーリーの主眼は今まで同様そこにないので、それによるパニックをどうやって最小限に収めるか、主人公たちや医療スタッフたちの奔走と協力による活躍が描きたいということであろう。世のなかには正義感と使命感を持つ賢い人がいてわれわれを守っていてくれるのだというメッセージを素直に受け取ればいいのだ。

 

 新型コロナウイルスについても、多くの医療従事者やそれを支える人々が、今も日夜頑張ってくれていることを思う。心からの感謝を捧げたい。
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『安岡章太郎随筆集2』(岩波書店)

 読めば読むほど安岡章太郎が好きになる。

 

 この随筆集は全八巻、第一巻、第三~六巻はすでに読了している。第二巻を後回しにしていたのは、この本に収められている『アメリカ感情旅行』(半分以上を占める)を読んだ記憶があるからだ。『アメリカ感情旅行』は1960年に彼が夫婦でアメリカのテネシー州のナッシュビルという南部の街の大学に半年ほど留学して滞在したときのことが書かれたものである。日記形式であるが、日記を元にそのとき考えたこと、さらに帰国後に考えたことを書き加えたものと思われる。

 

 後半はそのあとも何度か数年おきにアメリカを訪ねたときの紀行文がいくつか収められているが、そちらは初読である。

 

 彼がわざわざ南部の小都市に留学したのはなぜか、アメリカを、そしてアメリカ人を知るためであることは明らかだが、いつもの彼のパターンで、成り行きに従ったようでもある。ただ彼の場合、必然性があってもそれを成り行きのように語るところがあるから分からない。

 

 彼は物事をありのままに書く。観念が先に立つことがないのが彼の長所だ。ありのままのことを記しながらその経験から個別の人と街の様子を自分にどう見えたのか、そしてどうしてそう見えたのかを考え、そこからアメリカとは、アメリカ人とは何かを考える。そしてそれは彼のわずかな経験からの話であるのだ、と念を押すことを忘れない。

 

 文章を読んでいれば彼の眼で彼の経験を感じることが出来る。その経験から彼が連想することは豊富で、彼の柔軟さ、ふところの深さが感じられる。まだ黒人差別があたりまえだった時代の南部で彼がどのような目に合ったのかは想像に難くないが、それが次第に親和的になっていくのは不思議なほどである。人びとと次第になじみ、挨拶を交わすようになっていく。そして彼を偏見で見ていると思っていた人たちの心情について、彼のほうも理解していく。

 

 ある時代に安岡章太郎がアメリカ南部に滞在することで経験したことを追体験することで新しいアメリカについての認識を得ることができる。そして年月の経過と共にそのアメリカも激変していく。何事も変わる。変わることの意味が基点を持つことで感じられるようになる。何がかわり何が変わらないのか、それを考えさせられる。

 

 読んでよかった。
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2020年4月15日 (水)

女性に叱られる

 スーパーのレジの前で列んでいたときだった。前の女性が不意に振り向いて「近寄らないで下さい」とやや甲高い声を出した。大声ではないが、私もギョッとしたし、まわりの人も一斉にこちらを向いた。怒りの目を向けたその女性の言った言葉の意味が一瞬理解できなかったのだが、私が彼女の考える安全圏の内側に踏み込んだと感じて非難したようだ。

 

 一メートルほど間を空けていたが、前が進んだので無意識に少し詰めたのが彼女のセンサーに反応したらしい。と云っても、彼女の耳元に息を吹きかけられるほど近寄ったわけでもなく、過剰反応であると私には感じられた。みんなの視線を感じたし、私がびっくりしたのを見て気まずかったのだろう、少し涙目になったように見えた。「大丈夫ですか?」と声をかければ良かった、と思わせるほどうろたえている。

 

 あんなに神経質になっているというのは精神的に負担であろう。ああこんなふうにつらい思いをしている人もいるのだなあ、と思うとともに、女性に「近づくな」、と云われたのが生まれて初めて(忘れているだけかも知れない)なので、しばしこちらも傷ついた気持がした。理由は分かっているのだけれど。
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住野よる『麦本三歩の好きなもの』(幻冬舎)

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左・表カバー 中・ 中カバー 右・表紙

 

 住野よるの本はすでに数冊読んでいる。一度新しい作家の本を読んでその作品が気に入るとつぎつぎにその作家の新作や旧作を読むようになるので、最近はあまり手を広げないようにしている。そのつもりだったのだが表紙(正確にはカバー)が眼に入ってつい手に取ってしまった。すらすら読める本なのだけれど何だかけっこうじっくりと読んでしまった。

 

 大学図書館の新米司書の若い女性が主人公の物語で、若い女性がどんな思考回路でどんなことを考えているのか、それが描かれていて興味深く読めた。これも心理小説といっていいのだろうか。如何にもとりとめのないフワフワした思考なのだけれど、よく考えると案外一つひとつに本人なりのこだわりがあって可愛い。

 

 主人公の麦本三歩はおっちょこちょいでよく失敗をするが、「三歩だから仕方がない」と許されるところがある。ひとりでに甘えが許される女の子だ。それが巧まざる計算になっているという見方も出来ないことはない。先輩のひとりに厳しくそれを指摘されるシーンもある。無意識だが本人にもまったく自覚がないわけではない。それを自覚してしまうとすべてがぎこちなくなるのは彼女の長所でもある。でもくよくよするのは一時で、美味しい物を食べればすぐ機嫌が直る。

 

 男性から見れば、こういう女性はこちらが気配りする必要があるけれど、一緒にいても案外気楽で悪くないと思ったりする。気配りは必要だが気を遣わなくていい。つまり本人が思う以上に魅力的な女性と言える。分かる人にはわかるだろうか。

 

 そういう女の子の日常が詳細にくどいくらいに叮嚀に描かれていて、普段私の知らない思考世界なのでそれなりにいろいろ考えさせて貰った。つまり面白かったのである。若い女の子も異星人というわけではないのだ。
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2020年4月14日 (火)

信用スコア

 中国では個人情報をもとにそれぞれの人の格付けを行うことが定常化しているという。アリババなどに集められたビッグデータを元に個人の信用度を点数化して信用スコアをつけ、それがさまざまな場面で活用されだしているのだ。婚活でもその点数が重視されるというのには笑ってしまった。

 

 すべての個人情報が把握されつつある中国だからこそ出来ることであろう。たしかに誰かの信用度というのは外観からは分からない。それを標準化して顕在化できれば便利なことは多いだろう。社会のルールを犯したりすればそれがすべて記録に残る。それがマイナスになるのだからおのずからルールを守る方向に人びとが行動することが期待され、実際に中国ではその効果が現れているという。

 

 例として、共用のリース電動自転車の扱いが改善されたことが映像で報告されていた。借りてもぞんざいに扱い、きちんと指定の場所に置かないのがあたりまえだったのが、見違えるように変わったという。しばしば借金を繰り返したり返済が遅延する、などもマイナス点になるという。分かりやすい。

 

 もともと中国には日本の戸籍に似ているがもっと徹底した档案(ダンアン)というものがあって、個人の出自、学歴、職歴などの経歴、思想信条の傾向までが詳細に記載された文書が役所に保管され、入試や就職、パスポート発行の時などにはすべて参照される。だから個人情報を把握されることにいまさらの抵抗はないのである。

 

 日本では他人の目を意識することで自分を律するのがあたりまえだが、中国にはそんなヤワな習慣はないから、人がみていても自己中心的な行動があたり前だったものだが、もしかするとこの信用スコアによって様変わりするかも知れない。列にきちんと列ぶのも監視され評価されるようになったら、中国人もきちんと列ぶようになるかも知れず、画期的である。監視社会も悪い面ばかりでもないのかも知れない。

 

 信用の価値付けもさまざまだ。日本も他人の目など気にしない輩が増えて、のさばりだしている。腹を立ててもみなおとなしいからじっと我慢している。いっそ中国式の信用スコアを導入した方が暮らし易いかも知れない。そんな世界は嫌だといっても、みなが自発的に出来なければどうしようもないではないか。さしずめ新型コロナウイルスで夜間外出を控えろというのに、それを無視したらマイナス点などというのはいいかも知れない。
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宮崎正弘『さよなら、習近平』(ビジネス社)

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 宮崎正弘の言う通りなら中国は十年前に崩壊していた。「ピーターと狼」ではないけれど、繰り返し「もうすぐ崩壊する」といわれすぎて、もうそれは空念仏にしか聞こえないで素通りする。それなのになぜこのひとの本をときどき読むのか。

 

 面白いからである。なぜ面白いと思うのか。ほかの本やニュースからは得られないような話が読めるからである。彼は世界中を歩き回って情報を取る。中国ばかりではなく、中近東や西アジア、東ヨーロッパなどにも自ら出掛けて世界全体に目配りしている。その結果としての彼の読みが少し行きすぎているから予想がなかなか当たらないだけで、どうしてそう予想したのかはちゃんと根拠があるのである。

 

 机上で楽をして妄言を吐く某古市氏などとは違うのである。宮崎正弘は中国はもちろんのこと、中近東や東ヨーロッパ、西アジアの歴史と現状についてしっかりとした知識を持っているし、世界観も明確である。中国以外のそのへんは私の最も苦手とするところなので、参考になり、面白いというわけである。

 

 さて、この本は三月までの情勢を元に書いているので、中国が新型コロナウイルスを抑え込むに至っていない時点での分析となっている。果たして彼の言う通り習近平政権は倒れるや否や。ただ、中国は投機マネーとサプライチェーンとしての経済活動で国営企業という共産党政権であるための最大の弱点を糊塗してきた。それが巨大な負債を抱えて身動きできない状態になりつつあるという分析は理解できる。さて中国は危機にあるのだろうか。アメリカのさまざまな攻撃という最大の危機もある。習近平独裁政権はこの危機をどう乗り切るのか。

 

 親亀の中国がこけたら韓国はいちころだろう。日本も世界も無傷では済まない。それでもこのまま中国の世界制覇の夢が実現するよりいいのではないか、などと私も妄想する。
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2020年4月13日 (月)

予備として

 本日は糖尿病の定期検診日であった。本降りの雨の中、二十分近くの道を歩いてかかりつけの病院に行く。途中に少したんぼ道があり、風が強かったらかなわないなあと心配したが、それほどの風ではなかったから助かった。それにしても雨天の中を歩くと好天の時よりも遠く感じる。

 

 美人でやさしい女医先生は声が小さい。私は耳が遠いから膝がつくほど近くで先生とやりとりする。表情がよく読み取れて嬉しい時間なのであるが、今日はいつも坐る椅子が遠く離されている。理由は分かるが残念なことである。先生はいつもより声を張り上げて問診し、血液検査の結果を伝えてほめてくれた。「よく節制しているようですね」。このひと月以上、暴飲暴食の日がまったくなかったから当然のこと血糖値は比較的に良好な結果だったのだ。本音をいえば、これだけ節制したのだからもっと劇的に良くならないのが不満であるが。

 

 こちらからお願いしようと思ったら、先生のほうから、「次の検診は六月初めの予定にしますが、なにがあるか分かりませんから、三ヶ月分の薬を出すようにしましょう」といわれた。

 

 実は数日前に私の住む街の広報が配達され、そこには「緊急事態」の赤文字とともに「現在市内に六人の新型コロナウイルスの感染者が発生しています。不要不急の外出を控えて下さい」とあった。当然病院にその感染者が診察に訪れていないとは言えず、身近に感染のリスクが急増しているという実感があるのだ。だから病院がとつぜん診察不能にならないとは言えない。そうなると薬が途絶えてしまう。糖尿病は薬を停めるわけにはいかない病気だから予備を貰おうと思っていたのだ。

 

 三ヶ月で安心かどうか分からないが、安心であって欲しいものである。それにしても四万人あまりのわが街に六人というのはちょっと多いようである。さらに増加していなければいいのだが。
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『奥野健男文学論集 Ⅰ』(泰流社)

 著者の初期の文学論の論文が収められている。特に難しい言い回しが使われているわけではないが、論旨が素直に頭に入るまで、つまり著者の文章そのものに慣れるまで時間がかかった。ときどき10~30ページを読むペースだったので読了に二ヶ月ほどかかってしまった。我ながら粘り強くなったものである。それなりに興味深く、面白く読めたからでもあるが。

 

 去年秋に古本屋で奥野健夫の全集五巻本が安価で棚に列んでいるのを見つけた。過去に太宰治に関する短いものを読んだ記憶があるだけだったが、評論文に興味が向いていたところだったし、懐に響かないほど安かったので即購入した。箱は傷んでかび臭いが、中の本は問題なし、ちゃんと付録の月報も完備している。奥野健夫のこのシリーズは三回に別れていて、第一集が三巻、第二集が五巻、第三集まであるらしいが第三集については不明。私が手に入れたのは第二集の作家論集であった。このあとAmazonなどで第一集の三巻を手に入れ、今回読了したのはその第一巻である。

 

 本巻で興味深かったのは、自然主義文学論、それからの派生であるプロレタリアート文学、また私小説小説についての論文だ。明治末からの日本の小説の動向を奥野健夫の視点から照明を当ててくれていて、だからそれに引かれて田山花袋の『蒲団』を読み直したりした。

 

 著者の視点は私と相容れない点が多々ある。しかしそれはこれらが書かれたのは戦後すぐの頃で、世の中の風潮が左翼的であったことを受けているからだろうと思われる。二巻以降、時代とともに視点が変わることを期待している。戦後のさまざまなタイプの作家が輩出した時代を明快に切り分けていて、なじみの作家が論じられているのも楽しい。白樺派が老醜の復活のように断じられているのは、志賀直哉好きの私としてはいささか不満であるが。  

 

 ひとつだけ読み難いものがあった。本家フランスの自然主義文学について論じた『フローベール・ゾラ・モーパッサンの印象』という論文で、フローベールについては『ボヴァリー夫人』、ゾラについては『酒場』、モーパッサンについては『女の一生』を題材にして論じている。この中で私が若いころまともに読んだのは『女の一生』だけで、『ボヴァリー夫人』は図書館で借りたことはあるがさっぱり面白みを感じることが出来ずに放り出した。ゾラは『ナナ』という娼婦(?)の話を読んだことがある。暗い話しだった。これが私の自然主義文学の印象に影を落としている。

 

 この論文が読みにくいこと甚だしい。くどいし、論旨が伝わりにくい。なんだか素人臭いなあ、と思って読み終わったら、文末に、著者自身の注釈があり、大学生時代21歳の時に書いた論文の草稿を編集者が強引に全集に入れたのだという。うーん、何だかなあ。それにしても21歳かあ。
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2020年4月12日 (日)

自明のこと

 テレビやネットを見ていると、自粛要請によってさまざまな業種の人が生活の危機に瀕していると窮状を訴えている。まことになんの罪もないのになぜこんな不幸な目に会うのか、その怒りをぶつける先のない焦燥に同情する。

 

 自粛要請するなら補償せよと主張するのは自然の願いであろうが、出来ることと出来ないことがあってそのできる範囲のことから順番に対応するしかないだろう。何しろ今は感染拡大の真っ最中で、何がどう展開していくのかまだ見通せていない。政府だって経験の無いことだから不手際もあるだろう。提案はいいが無用の批判は混乱を助長するばかりだ。

 

 いまは当然のことながら感染拡大を食い止めことが最優先だ。お店を、ライブ会場を、その他のさまざまな業種や設備を生き延びるために開かせて欲しいという強い願いはよく分かる。要請だからうちは要請に応じないというところもあって、罰則を設けるべきだという声も上がっているという。

 

 しかし感染拡大を止めなければ今の状況は続いていくばかりで、それならいつまでたっても元通りの再開など望むべくもない。抜け駆けをして感染拡大に協力しなければ、もとどおりに営業できないのは自明のことである。どんなに苦しくても今はとにかく感染拡大を止めることに国民が一致強力するしかないであろう。

 

 こういう時に困っている人の声を必要以上に取りあげて政府の対策を批判したり、反対に経済対策のことばかりをいう一部政治家や経済人というのは愚かに見える。批判は事態が終息してからゆっくりしたら良い。(サラ・ブライトマンを聴きながら記す)
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一冊だけ

 何かの理由で拘束されて、本は一冊だけしか持つことが許されないといわれたらどの本を選ぼうかと思案した。

 

 張岱(ちょうたい)の『陶庵夢憶』にしようか。張岱は明末、江南の大金持ちで博覧強記の人。陶庵は彼の号のひとつ。明が滅んですべての資産と厖大な著書すべてを失った。貧窮に隠遁して昔を偲んで書いた随筆がこの『陶庵夢憶』である。岩波文庫に収められていて、私はワイド版で二冊持っている。一冊は風呂場で読みながら居眠りして浴中に落下させ、それでも何とか修復した。なんとか普通に読めるが念のためもう一冊買ってある。すでに三回読んだが、何度読んでも面白い。

 

 その本がかなわなければ桑原隲蔵(くわばらじつぞう)の『考史遊記』(これも岩波文庫)にしようか。桑原隲蔵は桑原武夫のお父さんで中国学者。この本は明治の末、太平天国のあとの荒廃した中国国内を苦労しながら古跡を訪ね歩いた紀行文である。自分で撮った写真なのであまり鮮明ではないが、写真が豊富に収められていて、淡々としながらも深い知識に裏打ちされた文章は、そこにいるような気にさせる名著である。この本は何と三冊もある。一冊は線をひいても好いための本。一冊は保存用。そして一冊は父のために買った。父の死後誰も読む可能性がないので引き取ったので、三冊あるのだ。この本も三回読んだ。

 

 どちらの本も何回でも読めるからいいのだ。少し昔なら森本哲郎の本を一冊選んでいたかもしれない。たいていの本は数回読んでいる。選ぶ本はすぐ変わる。本当は一冊だけなんて選べるはずがないのだ。そんな境遇にならないことを願う。あの世にまで持っていきたい本はたくさんあるのだけれどなあ。

 ところで人一番不器用で手際の悪い私は本箱の組み立てに悪戦苦闘。思ったより重くて大きかった本箱がようやく完成したときには疲れ果てて本を選んで並べるという楽しみは後にせざるを得なかった。まあそれも今日明日は雨らしいからゆっくり楽しめる。

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2020年4月11日 (土)

本箱

 月に15冊から20册の本を読む。そして月に15冊から20冊の本を買う。それなら本は増えない道理だが、増えるのである。不思議でも何でもなくて、読む本の半分以上がすでに棚にある本で、未読だったり一度以上読んでいる本なのだ。つまり買った本の半分は未読としてたまっていく。

 

 本を並べ替えたり整理したりするのは楽しい。時間を忘れるほどである。しかしスペースが限られていればただ本は移動するだけのことで、すべてが収まることは永遠にない。そんな中で暇にまかせて部屋を眺め倒していたら、旨く工夫すれば60センチ幅の本箱を置くスペースを捻出できることに気がついた。早速文庫本向きの本箱をAmazonで物色した。

 

 一昨日手配したので本日到着。すでに文庫本主体の本箱はひとつあるのだが、そこは講談社学術文庫主体で岩波や中公文庫の中国関係の本がぎっしりである。新しい本箱にはちくま文庫主体に文芸関係の文庫と内田百閒の文庫全集(50册以上ある)などを並べるつもりである。

 

 楽しいなあ。わくわくする。早く組み立てよう。
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会いたい

 大阪の友人に会いたい。いつものように天王寺で酌み交わしたい。大阪の兄貴分の人に会いたい。世の中の憤懣を語り合いたい。春の飛鳥や斑鳩を歩きたい。そして奈良の友達二人を呼び出して八木で酌み交わしたい。群馬に行きたい。群馬の老神温泉に何日か滞在して、そのあと桐生で友人と歓談したい。千葉の弟のところに行きたい。日頃たまったものを弟と話しながら痛飲したい。そして出来れば兄貴分の人と船橋で落ち合って泣き言を言いながら飲みたい。

 

 二月末から三月はほとんど毎週乃至隔週で病院に通院していた。来週もまた検診に行く。病院は最も感染リスクの高い場所で、自分では気がつかないうちに感染しているかも知れない。だから会いたい人に会いに行くことは、私にとってかけがえのない人たちに迷惑をかける恐れがないとは言えない。

 

 だから我慢している。
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2020年4月10日 (金)

韓国についてちょっとだけ思ったこと

 韓国には二度行った。ソウル周辺と済州島である。それぞれ数日だし、しばらく前のことで、そのときにはガイドの知的なおねえさんの言葉の端にわずかに感じただけで、反日は気になるようなものではなかった。それはこちらが観光客であるから当然でもあろう。実際のことは長期滞在するか、移り住んでみなければ分からないことだ。だから韓国のことはニュースや本からの情報からしか分からないので私の韓国についてのイメージはだいぶ歪んでいることと思う。

 

 そういう私の目には、韓国はまだ日本から独立していないのではないかと感じられることがある。そういう日本だって敗戦後進駐軍に占領され、サンフランシスコ条約締結後に独立したことになっているが、アメリカとの紐帯(臍の緒が繋がっているというイメージか)は切れて居らず、真に独立しているといいがたいところがないとは言えないから目糞、鼻糞を嗤うの感は否めないが。

 

 韓国は4月15日に総選挙を実施するという。占拠が可能なほど新型コロナウイルスの感染が沈静化しているということだろう。今その対策が奏功したことを功績として、文在寅大統領の支持が上昇している勢いを活かしたいという思いも多いにあるともいわれる。日本なら批判が出るだろうが、韓国での実施に対しての批判は日本には伝えられていないようだ。

 

 与党が争点として武器にしているのが、保守派最大野党を親日と断じることであるようだ。親日は韓国では絶対的な悪であり、それを非難するのは正義であるというのが韓国か、と感じることがしばしばある。魔女狩りのようなこの「親日」という言葉の前には韓国の人びとの多くは沈黙させられるらしい。

 

 国政選挙が親日であるかどうかを争点とするなどというニュースをみると、一体韓国は日本を常に意識しなければならないという呪縛からまだ脱していないどころかますますそれにとらわれているような気がする。反日は安直な政治的武器ではあるけれど、それは韓国国民の真の心理的独立を遠くするだけではないかと思えてしまう。

 

 そういえば韓国の独立した日はいつか、いまだに明確ではない。文在寅は日本が韓国を併合したことに抵抗する亡命政府(有名無実とされているが韓国では実体があったと幻想されている)が成立した日にしたいらしく、教科書も書き換えたらしい。従来は日本が敗戦した8月15日を以て朝鮮として独立したと考えるか、韓国という国が国際的に認知された日を以てするのが妥当に思える。または朝鮮が神話的に国家として成立したとして五千年だろうが一万年前だろうが、日本の紀元節のようなものを設定したらいいだろうに、と思う。何より朝鮮民族の国家は離合集散しながらも歴史的には続いてきたことは間違いないのだから。

 

 それを敢えて亡命政府成立を独立日、つまり建国日とするというのはまさに日本を基準にしないと独立日を決められないという呪縛そのものではないか。だから国政選挙に「親日」が論点になったりするので、いまだ韓国は心理的には日本から独立していないのではないかと私が揶揄する所以である。
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高橋洋一『韓国、ウソの代償』(扶桑社新書)

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副題は『沈みゆく隣人と日本の選択』。

 

 表題や帯は如何にも嫌韓本の体裁である。扶桑社新書だからこのような体裁で売ろうとしているのであろう。もともと本格的な経済学者であり海外経験も豊富で、第一次安倍内閣ではブレーンのひとりでもあった著者であるから、妄想的扇情的なことを書いたりしない。ただしこの人は持論に絶対の確信を持っているので、右も左も情け容赦なくばっさり切り捨てる。それが痛快でもあるがちょっと明快すぎる気もしている。

 

 この本が発行されたのは昨年9月であり、主な内容は5月から8月にかけての日韓関係に関連したことなので、現在の新型コロナウイルスの影響は当然言及されていない。しかしここに書かれた状況が変化しているかと言えば更に悪化しただけで基本的なものは同じである。

 

 この本を読んでよかったところは、いわゆる俗論を切って捨てているところで、その俗論を正しいと思っていたところもあった。ただし、俗論とばかりは言えないのではないかと思うものもある。

 

 俗論として取りあげたものは全部で14件、そのうちのいくつかをあげれば

 

○韓国の財政は破綻寸前である
 韓国の財政は意外と悪くないので破綻する可能性は日本(5年以内に破綻する可能性は1%程度)の二倍程度と試算している。理由は本を読んで欲しい。

 

○韓国の人口減少は今後日本より急激となるので、それが原因で韓国は経済崩壊する
 人口減少は経済破綻の原因とならない。破綻するなら政権の愚策による。

 

○日本が韓国への資本財の輸出を制限すれば、韓国メーカーは生産が滞り、窮地に立たされる
 それよりも中国に傾斜しすぎていることが原因で韓国は窮地に立つ。

 

○日韓スワップは韓国だけに利があり、日本には得るものが無いから締結すべきではない
 実態はお金を貸すというだけのことで貸した金は踏み倒せないから、一方的にどちらかが得をするということはない。正しい間の日韓関係には信頼関係がないからスワップを結ぶのは無理であろう。(ちなみについ最近アメリカは韓国と半年の通貨スワップを結んだ。アメリカは韓国を強く紐付きにする戦略だという)

 

○造船業をはじめ韓国企業は赤字でも平気で受注を取りに行き、自ら破綻へ突き進んでいる
 造船業はそもそも世界的に競争が激しくて赤字にならざるを得ない業種となっている.企業の存続のために無理な受注をする傾向があるから日本はすでに撤退をしつつある。韓国も同様だろう。いつまでも続けることは出来ないし意味がない。

 

 その他いろいろと明快に俗論を切っている。著者の診立てと実際の韓国の経済推移を較べて今後を楽しむことにしよう。
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2020年4月 9日 (木)

ときどき引っかかる

 テレビやネットを見ていてときどき引っかかることがある。たいていその場限りですぐ忘れてしまうのだが、今朝気になったことと、そこから考えたことなどを記してみる。

 

 古市憲寿氏の言葉として「コロナで『理想の福祉国家ヨーロッパ』が瓦解」というのがデイリー新潮の記事として目についた。「理想の福祉国家ヨーロッパ」という言い方に違和感がある(ヨーロッパは国家ではないことはいうまでもない)が、それは措いておくとして、記事は今回の新型コロナウイルスの蔓延のためにヨーロッパの主要国がたやすく強権発動をしていることをとりあげて、中国と違わないではないかと言いたいようである。

 

 それがヨーロッパの瓦解だというのは理解しにくいが、福祉のヨーロッパが泣くぞ、と云う意味ででもあろうか。ヨーロッパでは福祉予算が縮小されつつあったことが今回の蔓延防止に不十分な対応しか出来なかったのだ、と云いたいようである。

 

 平常時と緊急時の価値観は違う。それに福祉を切り詰めざるを得ない経済状態がヨーロッパに進行していたのは、いわゆる中国をはじめとする後進国(遅れている国というよりも遅れて発展した国)の経済成長によってヨーロッパがその優位性を失ったことによるもので、過去の栄華を夢みても詮ないという必然的なものであろう。

 

 今の緊急事態は永遠に続くものでなし、ヨーロッパが長い年月を経て獲得した自由が、そして福祉が大事であるという価値観は今回のことで簡単に崩壊してしまうとは思えない。逆に今回の危機によって何よりも福祉や自由が大事であることに気がつくような気がする。だから古市氏のいうことが私には浅薄に思えた。

 

 トランプ大統領が「WHOは中国寄りで問題だ」と公言し、WHOへの出資金の中断を検討すると語っている。たしかにトランプ大統領のように私にもテドロス氏は明らかに中国配慮が過ぎるように見える。それに一体WHOは今回の新型ウイルスに対してどのような役割を果たしていると言えるのか。マスコミと同レベルの、事態に対する論評は聞こえてくるものの、具体的感染対策に対する指導力を発揮しているというニュースは一切聞こえてこない。これでは出資金を中止する気になるのは当然であろう。仕事をしないで台湾排除ばかりに注力するような組織に存在意味はない。

 

 そのテドロス氏がトランプ大統領に「政治問題化するべきではない」と反論したそうだ。新型コロナウイルスの問題を政治問題化するのはたしかに良くないが、それよりもそもそもトランプ大統領の「WHOは中国寄りだ」という非難に対する反論になっていないのではないか。こういうのは反論とはいわない。

 

 韓国は過去のSARSやMARSでの貴重な経験をもとに疫病に対する体制を強化したことが新型コロナウイルスの押さえ込みに一定の効果をあげていることは学ぶべきであると思う。備えあれば憂えなしは真実なのだ。その韓国では韓国製の診断キットの増産で余力が生じており、輸出が可能なのだという。今20ヶ国から支援要請があるそうだ。それはいいのだが、その診断キットに「独島」と名付けるようにという要請が大統領府に寄せられており、その数は20万を超えたのだという。

 

 私には愚かなことだと思うが、反日が正義の国だからこういうことがまかり通るのであろう。4月15日の総選挙に向けて文在寅政権は反日を強化していると報じられている。何しろ日本品不買運動は急激にさめて、激減していた日本のビールの急回復を始め、日本品の売り上げが急増しているそうだ。だから今回の「独島」命名要請も大統領府のマッチポンプか大統領支持派のやらせではないか、などと勘ぐってしまう。それに乗るのも愚かというべきか。こういうのを政治利用というのだ。
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禁酒・休酒

 来週初めに糖尿病の定期検診があるので、先日の日曜日あたりから休酒している。たいてい糖尿病の検診前には一週間から十日の休酒をしているが、それでは検診の意味がないではないか、などと友人たちは笑う。しかし血糖値はそれなり基準近くで収まっているから、休酒の効果はあるのだと自認している。

 

 その前、先月初めから泌尿器系の不調でしばしば酒を飲まない日があったから、このひと月で飲んだのは十日ほどしかないことになる。二十過ぎてからこんなことはなかったなあと感慨に耽っていたら、もっと長く禁酒したことを思いだした。

 

 四十の終わり頃、胃の定期検診でヒドラ状になった大きなポリープが見つかった。食道から胃に至る胃の屈曲部で、ちょうど天井になるので分かりにくい場所である。バリウムでどうもおかしいといわれ、胃カメラを飲まされ、それでもなかなか見つからず、ようやく見つかったときは医師が嬉しそうに「ありました」、と言ったものである。食物による刺激の多い場所で、下手をすると食べものでポリープと胃壁の間が裂けて大出血するところだったという。たぶん胃カメラも危険だったのかも知れない。

 

 即入院させられ除去手術、五日間の絶飲食、合わせて11日間の入院生活を送った。ポリープごと胃壁を取り除いた。大穴が空いていたので一ヶ月は禁酒を言い渡された。お陰でその間はずいぶん暇で、ひたすら本を読んだ。友人知人は酒が飲めないのはつらいだろう、などと言ったけれど、案外どうということはなかった。今でも休酒はそんなにつらくない。永遠にやめるのは辛かろうと思うが、休むくらいなら寝付きが悪くなることを除いて一週間でも十日でも大丈夫である。

 

 最近やたらに甘い物が食べたくなってかなわない。酒好きなのに父親譲りの甘党でもあるのだ。下手に甘いものを買うと気がつくとすぐ全部食べてしまう。酒を飲まないことで身体が代用品を欲しがっているのかも知れない。今は買わないに如くはないと我慢している。ブログで甘いものの美味しそうな記事を拝見すると切ない気持になる。
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2020年4月 8日 (水)

ハイレゾ音楽はやはり好い

 ハイレゾ音楽ソフトをe-onkyoで購入してNASに落としてネットワークで聴いているが、ソフト購入にはあたりまえだけれど金がかかる。最近はAmazonのストリーミングのほうを聴くことが増えている。よりどりみどりだし、知らないものはソフトで購入できないが、Amazonのストリーミングなら未知の曲をいくらでも試しに聴くことが出来るのがありがたい。ネットで本を買うことが増えた(古本でAmazonの在庫がなくほかから購入する場合は別にして送料無料である)のでアマゾンプライムの会員になっている。会費のもとを取ってそれ以上に利用しているのでストリーミングは実質無料である。

 

 最近ハイレゾに新しい曲を加えたくて久しぶりにe-onkyoからアルバムをいくつか購入した。ジャズとクラシックの名曲集のようなものなので、一枚千円かそこらであるしそれでCDよりも長時間で音質も良い。

 

 ハイレゾとストリーミングを聴き較べれば、わが家のポンコツシステムでもその違いは歴然としていることをあらためて実感した。専門雑誌によれば、海外からのハイレゾのストリーミングもあるらしいし音質も素晴らしいというけれど、それなりの金もかかる。そのうえセッティングは横文字なのでそれを繋ぐための面倒を考えると今のところチャレンジする気にならない。何よりそれほど音楽嗜好が高いわけでもない。

 

 ところでダウンロードしたハイレゾ音楽がNASへ落ちない。入っている音楽はいくらでも聴けるのに新たに入れることが出来ないのだ。仕方がないから今はUSBに入れて直接アンプに差し込んで聴いている。ネットワークの共有に問題が生じているのではないかと思うが、一から設定を確認するのも面倒でいまのところ放ってある。まだまだ空きの方が多いのに・・・。
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桜を見に散歩に出掛ける

 リタイアして間もなく丸十年、日本中あちこちに出掛けた。気に入って二度三度訪ねた宿も少なくない。そういう宿からまいとし丁重な年賀葉書を頂くし、親しくなればアドレスも伝えるのでときどき案内のメールを頂くこともある。そういうメールの頻度がこの頃増えている。客が少ないのだろうと推察される。出掛けたい気分はますます高まるが、まだまだと我慢している。再来週にはよんどころない事情で千葉(弟のところには寄らないつもりである)まで出掛けなければならないので、場合によってその足で更に遠出するかも知れない。

 

 そんな気分の中、冷たい風の吹く日曜日(5日)に散歩がてら散策コースのひとつコッツ山コースを歩いた。合瀬川(旧木津用水)沿いの桜を見るためである。

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 冷たい風にまだ吹き飛ばされずに満開の桜が迎えてくれた。

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女の子たちがにぎやかに自転車ではし抜ける。ここは自転車で走っては行けなかったのではなかったか?まあいいか。

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日曜日だからけっこう人がいる。

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青空に映える桜。

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 コッツ山公園で一休みして、来た道と別の道を帰る。細い初めての露地をたどるのも面白い。

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 ハナモモだろうか。とにかく植物の名前に疎い。

 冷たい風が吹いていたので汗かきの私がほとんど汗をかかず、快適な散歩であった。膝は相変わらず痛いが登り降りがなければあまりつらくない。
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2020年4月 7日 (火)

映画『幻影師 アイゼンハイム』2006年アメリカ・チェコ

監督ニール・バーガー、出演エドワード・ノートンほか

 

 希代の奇術師を、くせ者エドワード・ノートンが演ずるのであるから、オチはこうなるだろうと想像していた通りの結末だ。それなのにたいへん満足して観終えることが出来た。彼を追う警部のラストの哄笑がいい。観ている人たちが予想する(同時に期待する)結末にむけて予想通りに展開しながら面白いと思わせるのは、この作品が優れている証拠だ。

 

 ドイツロマン派の幻想小説作家のホフマンの短編小説に『砂男』(岩波文庫の『ホフマン短編集』に収められている)という話があって、もちろんこの映画とはまったくストーリーは違うけれど、同じ味わいを感じる。なかなか楽しめる。
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北方謙三『楊令伝十 坡陀の章』(集英社)

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 宋という国は皇帝以下が連れ去られてしまって実質上金に滅ぼされてしまったが、金も宋の全土を支配する力はない。金に支配されている開封府から南京応天府へ逃れた宋の旧政府は新たな皇帝を擁立して宋の存続を主張している。童貫亡き後の宋禁軍は四分五裂して軍閥化してしまった。岳飛もそのひとつとして賊徒を討伐しながら力を蓄えている。

 

 梁山泊は小康状態の情況の中で、受けた傷を癒やしながら国としての体裁を整えるべく各員がその役割を果たし始めていた。高齢化した者たちは身をひき、若者たちが成長し、世代交代が進んでいく。国力を維持し、民を生かしていくために楊令はかねてからの交易の道の確保に傾注する。西域と日本を繋ぐ道、それはシルクロードの復活である。遠大なその計画を真に理解するものは少ないが、夢は次第に現実化していく。

 

 今回は各地の勢力図とその力の均衡が詳しく語られている。来たるべく風雲の前の静けさが描かれている。そもそも金は遼をなし崩しに打ち倒して出来た国で、内部に遼を抱え込んでいるとも言える。そんな中、北方にはモンゴル民族の台頭と集合の兆しがみられ・・・。

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2020年4月 6日 (月)

続・素人だから感覚で言う

 泌尿器科の疾患が持病になりかかっていることは繰り返し書いた。炎症が起こると排尿痛があり排尿困難になり発熱する。一度に出にくいので頻尿気味になりその都度苦しむ。問題なく排尿できることの幸せは疾患を経験して初めてわかることだ。人生苦難を知らないと幸せも理解できないし、人の苦しみも解らない。

 

 さいわい細菌性なので抗生物質が良く効く。三度目か四度目の今回は耐性菌によるものでそのため違う強い薬に替えたりして少し長引いた。その結果、不思議なことに慢性的な軟便が治まっている。下痢に近いこの症状は糖尿病その他で処方されている薬の副作用であり、医師からは我慢できるのなら我慢するようにいわれているもので、旅に出るときにはつらいけれど、仕方がないと諦めていた。

 

 それがとつぜんほぼ正常に戻ったのである。下痢は腸で共生している大腸菌が過剰に増えているときに起こることがあるという。たぶんその大腸菌が今回服用した少し強い抗生物質によってダメージを受けて減少したのではないのだろうか、というのが私の診立てである。

 

 ところで腸内細菌と人間の病気に対する抵抗力は大きく関係しているというのはためしてガッテンでも繰り返し観た。私の抵抗力は低下したのだろうか。それとも抗生物質の服用を終えたいま、私のための新しい腸内細菌が再生しつつあって、それが私に最適化したものになりつつあるのであればありがたいのだが。

 

 抵抗力といえば、病気になると発熱するのは身体が熱に弱い細菌やウイルスに対して抵抗するために起こる現象だという。暑い時期にはそのような菌は活動が弱まるのが期待されるのもその理由だという。アフリカなどでの爆発的な蔓延がみられないのはそのためか。

 

 そこで思うのは体温と抵抗力の関係である。平熱の低い人と高い人とで抵抗力に差があるというような調査はないのだろうか。感覚的には平熱の低い人が罹患しやすいのではないかと想像している。

 

 なにより老人ほど平熱は下がる傾向がある。私も若いときは平熱が36.5℃を超えていたが、今は36.2~3℃である。測り方でもっと低いこともある。だから老人のほうが今回の新型コロナウイルスにかかりやすく、しかも重症化しやすいということも説明できるのではないだろうか。
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素人だから感覚で言う

 専門家は根拠のある話をしなければならない。それが専門家に課せられた責任というものである。テレビで専門家たちがしばしば自分の感覚でものを言っているのをみると、その無責任さに不快感を持つ。その言葉がマスコミに取りあげられて拡散していくからその影響はおおきいのである。視聴者はしばしば誤解するものである。過去にもほんの一部の誤解が事実として定着してしまったことは山のようにある。意図的に誤解を取りあげる、悪意のある者たちがいるのがこの世である。

 

 ちょっと大げさな出だしになったが、自分の身体で感じていることを元に無責任な思いつきを書いてみる。私は専門家ではないしそれを取りあげて拡散する人もいると思えないからいいのだ。

 

 口腔衛生と慢性病疾患とは関係があると言われている。歯槽膿漏が糖尿病と関係がありそうだと言うことは統計的にも論文で示されているという。私は親譲りで虫歯になりにくい体質らしく、四十過ぎまで虫歯になったことがない。それが親知らずを放置したことで歯並びが悪くなり噛み合わせが狂ってしまい、噛む力が異常に強い(歯医者が何度も言うので事実であろう)せいで歯が欠けてしまうことが続き、その割れ目から菌が侵入して虫歯というものを生まれて初めて経験した。菌の入り口が出来れば虫歯やら歯槽膿漏やらが跳梁跋扈する。それからときどき歯医者というものにお世話になるようになった。

 

 それでも自分の歯の丈夫さには過信があって、口腔衛生というものに無神経であった。そうして歯磨きはしたりしなかったり、磨いてもいい加減だったりが続いていた。六十を過ぎてリタイアしてから歯医者に行く余裕が出来て、歯医者にもこまめに行くようになり、長年蓄積した歯石も取り、ごく初期の歯槽膿漏の手当ても叮嚀にして貰った。歯磨きの仕方も教わり、以前からみればずっと口腔内は清潔になった。

 

 糖尿病の血糖値が歴然と改善したのはそれと前後している。もちろん現役中よりも鯨飲馬食することが減っていたこともあるが、それだけではないような気がする。明らかに口腔内の菌の減少と糖尿病は関係していると私は確信している。

 

 更に書きたいことがいくつかあるけれど長くなるので今日はここまで。続きは次回。
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2020年4月 5日 (日)

ようやく芽が出た

 ベランダに大小の鉢が五つほどあって、今年はニラとパセリと紫蘇、オクラの種を蒔くことにした。ところがニラの種が近場の種売り場に見当たらない。培養土の袋を買い、土と混合用の肥料も加えてパセリと紫蘇の種だけ蒔いたのが三月半ばである。オクラはもう少し気温が高くなってからの方が良いらしい。ニラの鉢は種が手に入ったときのために空けてある。

 

 毎日水をやり続けているのになかなか芽が出ない。紫蘇の鉢だけようやく芽が出たのは三月末で、昨日パセリを蒔いた鉢にもやっとちらほらと芽が出始めた。種の袋には、二週間くらいかかると書いてあったがその通りであった。

 

 こんな小さなものがやがてしっかりと成長するのが不思議だ。いつもはまとまって家を空けることがあって水やりが出来ずに、可哀想なことになったりするけれど、今年はとうぶんの間遠出はしないつもりなので、ちゃんと育つことであろう。苗で買えば早いけれど、種から育てるのも楽しいものだ。
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紙パックワイン

 主に飲む酒は日本酒とビールだが、現在大好きなビールを控えている。泌尿器系の不調に関わっているような気がするし、そう感じる分だけいつもより美味しく感じられない。日本酒は紙パックの菊正宗を飲む。遠出をすればそこの地酒の吟醸酒などを買い込んでその味わいを楽しむのだが、この頃あまり出掛けていないのでその在庫も尽きた。

 

 基本的に醸造酒しか飲まない。ときどきつくる料理によってワインや紹興酒を飲む。ワインはほとんど白ワインである。今は海外のワインが安く手に入るのでいろいろ飲み比べてお気に入りも出来た。気分によってちょっと張り込むこともある。

 

 最近料理に手抜きが増えた分、総菜で買うことも増えたせいかエンゲル係数が増えている。スーパーでの買い物の金額が明らかに高くなっている。物価が上がっているのかも知れないがそれだけではない。だからお酒のほうにかける金額を減らしている。飲む量、買うお酒のレベルを下げる。だからワインは最近紙パックである。

 

 紙パックワインもさまざまな種類があり、アルコール度数も違うし味もずいぶん違う。安いものは甘いものが多い。そんな中で無添加のものでアルコール度数が14%の、そこそこ飲める紙パックの白ワインが見つかったので、今は常に冷蔵庫に常備している。

 

 添加物といえば思いだしたことがある。大学時代は化学を専攻していた。文化祭で日本酒の添加物の質と量を分析して展示したことがある。銘柄による差は驚くほど大きいことが分かった。どうしてそんな分析をしようと思ったのかといえば、悪酔いする酒とそうでもない酒、それと飲んだときに感じる違和感のようなものが自分の味覚にはっきりと感じられていたからで、その感覚と分析結果が歴然と相関していることに納得したものである。酒造メーカーにとっては迷惑なことであったろうが、仲間内以外はほとんど注目されなかった。

 

 当時は結構味覚も優れていたのである。

 

 今は味覚も衰えたが、昔の記憶を元に酒を味わって楽しんでいる。いまのところ選定した紙パックの白ワインは後味も悪くなくて満足している。昔は日本酒を飲み過ぎたからといって自宅に帰ってから中和するためにワインを一本飲み直すなどという馬鹿なことをやったが、今はそんなに飲まない。中和というのは、日本酒は酸性でワインはアルカリ性という程度のバカな理屈である。それでも二日酔いにならないという効果はあった(と思いこんでいた)。
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2020年4月 4日 (土)

映画『ザ・フォーリナー 復讐者』2017年イギリス・中国・アメリカ

監督マーティン・キャンベル、出演ジャッキー・チェン、ピアース・ブロスナンほか

 

 ロンドン在住の初老の中国出身の男が一人娘と買い物に出た先で銀行爆破事件に遭遇し、その娘を喪ってしまう。犯人の情報を知ろうと執拗に警察に赴くが次第に相手にされなくなる。犯行は元IRAの誰かの仕業と推定されているのだが、なかなか捜査ははかどらない。

 

 そんなとき、元IRAの闘士でその後恩赦により今は北アイルランドと英国政府の橋渡し役となっている有力政治家(ピアース・ブロスナン)をテレビで観た男は、この政治家なら何か情報があるはずだとして断られても断られても電話をかけ続け、ついには直接議員の事務所に押しかけてくる。

 

 背をかがめ、とぼとぼ歩く初老のこの男を演じているのがあのジャッキー・チェンなのである。ジャッキー・チェンだと分かっているのにとてもジャッキー・チェンに見えない。

 

 むりやり議員と面談した男の執拗さに、ついに議員は本性むき出しに怒りを露わにして男を追い出す。男は不気味な捨て台詞を残して去って行くのだが、そのあとどうみても弱々しい平凡なこの男の恐るべき復讐が開始される。

 

 復讐譚というのはとにかく面白い。正当な怒りが理不尽にねじ伏せられたとき、人はそれを撥ねのける力を持たないが、意外な人物がその力を持っていて強力で理不尽な相手に反撃するのを観るのは痛快きわまりないものである。そうしてそういう意味で次第に隠された能力を全開にして闘うジャッキー・チェンと一緒に手に汗握ってしまう映画である。

 

 私はコミカルなものが苦手なので、ジャッキー・チェンのふざけているとしか思えないカンフー映画があまり好きではないが、子の映画に関してはそんなところはまったくなくシリアスそのものである。期待以上の面白さであった。それは結果的に仇役となっているピアーズ・ブロスナンの演技が光っているからでもある。
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文芸評論がなぜ面白いのか

 最近、文芸評論をいろいろ読み比べてその面白さにはまっている。評論を読むには知識を必要とする。書かれていることを読み解くにはベースになる知識がないと読めないし、文章もときにくどい上に、解りやすいものは少ない。だから少し前まではどうしても必要な時以外は敬遠していた。それがいま、作品ではなく評論になぜ面白さを感じるのだろうか。

 

 もちろん急に知識が備わったということではない。知らないことをその都度調べることが以前ほど苦でなくなったのである。調べるための辞書や本は結構揃えたし、ネットで調べて補足することも簡単になった。本を量でなく中身で読むようになったので、急がないのである。そうして新しい知見からものを考えると、違う世界がチラリと見えたりすることが楽しいのだ。人生の残り時間が少なくなったら却ってゆっくりとした本の読み方が出来るというのは不思議なことで、もう焦っても仕方がないという諦念がなせる贈り物かも知れない。

 

 わたしがいう評論とは主に文芸評論のことで、それは大きく二つに大別される。たとえていえば、ガイドブックと紀行文との違いだろうか。作品の作者や読みどころを懇切丁寧に教えてくれるものと、評論者がその作品と向き合い、自分自身を賭けて作品と格闘して獲得したものを提示するものとの違いといおうか。

 

 私は紀行文を読むのも昔から好きである。優れた紀行文は何より読んでいる自分もまさに著者と同じ時、同じ場所に行った気分にさせてくれる。没入すると、著者が見上げた月、そこに吹く風が感じられたりすることが希にあって、本を置いて我に返ると時空を超えてきた心地がする。めったにないけれど。

 

 ガイドブックは文字通りそこへ行くための手引きである。情報である。情報は無時間のもので、ガイドブックで時空を超えることは出来ない。ガイドブック的評論はそういうもので、私が面白く感じるものは紀行文的評論であることはもちろんである。

 

 たぶん文芸評論ばかりではなく、映画評論も音楽評論もさまざまな評論とはそんなものかと思う。

 

 ほんのチラリと見えた世界の向こう側を想像して、少し大げさに書いているけれど、それは私にとって確信でもある。そういう評論をある程度読んだら、次に夏目漱石をはじめとする文豪たちの作品を一から読み直すことにしたいと思っている。時間があるかなあ。
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2020年4月 3日 (金)

君子危うきに近寄らず

Dsc_3825マンション中庭の桜・記事と関係ありません。

 二月初めの息子の結婚式のついでに弟夫婦と岡山の吉備路と四国、淡路島などを訪ねたことはブログに書いた。そのときに、中国で発生している新型コロナウイルス感染は尋常でない事態であると弟たちと話した。何より中国の情報は操作されていることが前提であることを考慮に入れなければならない。それでもあれほどの報道がなされていることは、その数倍数十倍の規模である可能性が大きく、今後中国人の移動先となっている場所での感染が必ず起こるだろうと予測した。事態はその予測を超えていたが。

 

 息子夫婦は新婚旅行での海外旅行を取りやめ、国内旅行に切り替えた。これは私がアドバイスしたわけではなく、息子たちの判断である。二月の時点でこの判断が出来た息子たちをほめたいと思う。

 

 感染した人たちは災難であり、大いに同情するが、ダイヤモンドプリンセスでの集団感染のニュースが連日報道されている中で、三月に入ってから海外旅行を取りやめずに出掛けて行った人達にはいささか油断があったと思わずにはいられない。君子危うきに近寄らずで、たとえ君子でなくても、危ないところには近づかないのが智恵というものだろう。

 

 生物には危険や危機に対するセンサーが備わっている、と云うのが内田樹老師の言葉である。私もそれに同意する。そのセンサーを磨き上げるのが武道というものであると老師がいう。現代はそのセンサーを鈍磨させてしまっても生きることに何の不都合もない時代である。センサーを働かせることを臆病と捉えるのは間違っている。生命を守るために生物に備わった能力なのである。

 

 非常事態の時にこそそのセンサーを働かせないとならず、そのセンサーが働くことで危機が回避できることもあるのだ。

 

 マスコミは想像力を欠いた言説に満ちているように見える。平常時の価値観で非常時を語っている。人はそれに惑わされてセンサーを働かせることが出来ない。それこそ危ういことである。敏感であるはずの若い人ほど鈍感に見えるのはどうしたことか。もともと若い者は経験不足で過つというが、安楽の経験を重ねすぎた老人のほうが経験に学びすぎて危機を見失うのではないか。若い人がより鈍感なのは戦後教育の成果か。
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暇つぶし

 二ヶ月以上床屋に行っていないので襟足がむさ苦しい。しかし床屋は不特定多数の人が密接する場所である。髪が伸びたところで薄くなった頭ではなにほどもないとあきらめることにした。

 

 温泉に行きたい。せめてドライブがてら日帰り温泉にでも行こうかと思いながら、我慢している。代わりに温泉の名を冠した入浴剤をいれて家の風呂にゆっくり浸かればいい。深夜電力の温水器で追い炊きできないから毎回湯を落としてしまうが、温泉のつもりで一日二度入ったところでぜいたくな気分が味わえて無駄遣いというほどのこともない。風呂でゆっくり本を読むのも好きだ。

 

 気分転換にゲームをする。対戦型の囲碁ソフトか、なじみの「大戦略」でシュミレーションを楽しむ。膝をいじめ続けて数日たった。膝の痛みは相変わらずだけれど、歩く足が軽くなってきた。固まっていた筋肉や筋が少し伸びはじめた気がする。逆療法もときには必要なのだ。

 

 一時間で二、三十ページしか読めない評論などを読む。これも頭に対する負荷をかけるためだが、書いている意味を読み取ろうと思って格闘していると、以前なら睡眠薬がわりだったのに、案外集中できたりして意外と面白い。たくさん読むことにこだわって読み飛ばしてきたことが、実は大事なことを読み損なっていたことだと思い知る。考えることも必要だし、呆け防止に何よりだ。ただ、この頃眼がかすむし、視野も少し狭くなっているのが鬱陶しい。いつまで読書三昧、映画三昧が出来るだろうか。
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2020年4月 2日 (木)

サル化する日本人という言葉の意味を得心する

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 今回の新型コロナウイルスの危機に対しての日本人の受け止め方について、内田樹老師が「サル化している」と表現したと伝え聞いた。老師は「朝三暮四」の意味であると補足していたのでその意味は理解できたつもりである。

 

 録画していた昨晩のプライムニュースを観ていたら、櫻井よし子氏が今回の危機について「経済と新型コロナウイルス対策は相反するものです」とはっきり言ったとき、「サル化」の意味をいっそう良く得心した。

 

 老師は櫻井よし子氏とはまったく正反対の政治的スタンス(たぶん大嫌いであろう)であろうことから考えて、危機に対しての問題点の捉え方が一致していることをおも白いと感じた。

 

 経済とウイルス対策が相反していて、「朝三暮四」である、という意味はわざわざ説明するまでもないことだが蛇足を承知で説明する。今は経済を我慢して対策を優先するというあたりまえのことを政府が主導しているのに、マスコミは「経済が大変だ」ということばかりを繰り返し騒ぎ立てている。経済が回復するためにはまずウイルス対策が一定の効果をあげて終息しなければならないのは自明のことである。そうでなければいつまでも自粛は続いてしまうので経済回復など不可能である。自粛を早く解除するためにこそ、いまみなが協力して自粛をして我慢することが必要なのである。そのことが理解できないから、サル化しているといわれるのである。今「朝四暮三」でサルを満足させることは出来ないのだ。
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情けない話であるが・・・

 安倍首相が各戸にマスクを二枚ずつ配ると表明し、それをこき下ろす言葉があちこちで語られている。たった二枚では焼け石に水であり、批判したいのはよく分かる。情けない話である。情けない話であるが、それが今の日本の実情なのだと考えるととてつもなくおそろしいことであって、嘲笑するどころではないはずなのである。

 

 安倍首相だってもっとたくさん配りたいにちがいない。誰か女性アナが「そんなマスクを配る金があるならその分をマスクの増産に向けて下さい、我慢しますから」とおっしゃったらしいが、美しいことである。しかし政府は増産のために必至に働きかけをしているにちがいないし、生産可能な企業もそのために努力していると確信する。そうでないはずがない。

 

 日本は(日本だけではないが)中国を低コストの生産工場としてさまざまなものを全面的に生産依託してきた。だから今とつぜん自国で生産しようにもそのために時間も設備も人手も原料も必要なのである。今日始めて明日出来るというわけにはいかないことはまともな頭のある人間なら分かるはずである。だからこそのたった二枚なのである。二枚だけであることの深刻さを想像できないであざ笑うことは浅はかなことで、情けない思いがする。バラエテイニュースのコメンテーターの、生産に関わらない人間の自覚のなさ、恥知らずさ、無知さに吐き気がする。
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不自由

 先月初めに庖丁を研いだ。ステンレスの庖丁は硬いので研ぎにくい。最近ようやく刃を丸めずに研げるようになった。気持ちよく食材が切れるようになったのはいいのだが、うっかりして右手の親指の先に触ってしまった。指の先端の皮一枚下から綺麗に削いだように切れてしまった。それほど血はでなかったし、痛みもひどくないからほとんど皮だけだったのは幸いであった。庖丁で指を切るなどというのはずいぶん久しぶりのことである。

 

 よく水洗いしてから指用の絆創膏を貼って大事無かったのだが、困るのは食事のあとの食器洗いである。一人分で使う食器など数が知れているから食洗機など必要が無いので持っていない。しかし洗剤を使えばたちまち絆創膏は濡れてしまうのである。それがいやで、そのまま食べられる総菜や弁当、パック詰めの鮨などをスーパーで買って食べている。

 

 ところでどうして右手の親指を切るのかというと、私が左利きだからである。だいぶむかし、日本橋の木屋で左利き用の庖丁を買って愛用している。右手では庖丁は使えない。お茶の急須も左利き用である。今欲しいのは左利き用の缶切りだが、あまり缶切りで開ける必要かなくなったのはありがたい。

 

 一番困るのはガスレンジのボックス式のロースターで焼き魚を焼くのを控えていることだ。焼き魚や干物を焼いて食べるのが好きなのだが、焼けば当然ロースターを洗わなければならない。これがそもそも面倒であるし、洗剤も少し余分に使うから絆創膏に水か浸透する。しかしいい加減に洗うと臭いが残る。それはもっといやである。普通に焼き網で焼けばよいのだけれど、マンションは密閉性がことのほか高いから、いくら換気を強くしても烟や臭いが籠もる。しばらくその臭いの中で過ごさなければならないこともきらいなのである。

 

 どうでも良いことながら不自由である。もう絆創膏を剥がそうかな。皮の再生は出来ているかな。
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2020年4月 1日 (水)

映画『ブラック・スワン』2010年アメリカ

監督ダーレン・アロノフスキー、出演ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセルほか

 

 録画してあって、いつか見ようと思っている映画が山のようにあるが、この『ブラック・スワン』もそのひとつだった。息子がリアルタイムで劇場で観て「気持ち悪かった」と感想を語っていたことを思い出した。どういう意味でいったのか、観て良く分かった。

 

 私はスティーヴン・キングの『キャリー』を原作とした同名映画を連想した。この『ブラック・スワン』という映画の副主人公は主人公の母親である。母親との関係が主人公を追い込み、現実と幻覚の異世界の狭間に落ちこんでいくという物語であると私には感じられた。そういう母親との葛藤をテーマにした映画はたくさんあるが、これはその中でもよく出来た作品だと思う。

 

 彼女が妄想の世界に入りこむことをほのめかすシーンがところどころでにある。地下鉄から降り立つ、よく顔の見えない黒づくめの女性は彼女の目指すプリマドンナであるとともに彼女自身である。そのようなシーンがいくつかある。観終わってすぐに、彼女の母親には娘の姿がどう見えていたのだろうか、と想像した。すべてを支配してきた母親の枠から逃げられずにいた主人公は、妄想の世界へ逃避することで母親の呪縛から脱皮し、ブラック・スワンとして飛翔した。その飛翔の先にあったものは・・・。

 

 ナタリー・ポートマンが絶品。
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意味の深さを感じる言葉

 江藤淳の『一族再会 母』という文章を読んでいたら、以下のような部分に感じるところがあった。

 

「われわれはいい加減に生きている人間に劣等感をそそられることはないが、あまりに真剣に生きている人間をなぜか許しがたいと感じることがある。それがその人間にとっていかに必然的な生き方であるかを理解したところで、この不安と不快は消えない。われわれはそのとき自分がその他大勢であることを、栄光も破滅もともにあたえられていない「幸福な」人間であることを、いやでも意識させられるからだ。皮肉なことに、こうして嫌われる真剣な生活者のほうは、おそらく「幸福」で凡庸な多数の仲間入りすることを唯一の目標として生きているのである。その努力そのものが自分を発光させ、他人からへだててしまうとも知らずに」

 

 江藤淳が幼いときに、若くして結核で亡くなった母について書いた文章のなかで、近代と女性について語る文脈の中の言葉である。それはその意味としてばかりではなく、人間そのものを考えるための言葉にもなっていて考えさせられたのである。

 

 思えば私は「いい加減」で「幸福」な生き方を選んで生きてきたその他大勢だなあと思う。せめて「真剣に」生きている人を妬まないようにしなければ。
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