自由と民主主義、そして社会主義
安岡章太郎の『対談 僕の昭和史』の中に、書きとめたい部分があったので残しておく。
ビスマルクの子孫が戦後日本に来たときに、「私の中には先祖代々自由の血が流れている」とインタビューに答えたことについて、
僕にはショックでした。確かにビスマルクの中には自由の血が流れているというふうに考え直していかなければいけないんだよね。
近代というものをどう考えるか。西洋史なんというものまったく知らないわけだけれども、というのはユンケルは日本語に翻訳すれば郷士なんだな。そういう地侍の自分たちが、武器を持って、土地を持って、自分たちを守っている。そういうものが自由なのかという気もする。そうだとすると民主主義と自由とはどうも相反するものではないかと思わざるを得なかったね。
民主主義と自由というものをバランスを取って両方結びつけることができたのは、やっぱりアメリカらしいな。けれども、僕らがアメリカ人と同じようにできるかというと、それはきっとできないだろうね。
安岡章太郎の先祖は土佐の郷士である。吉田東洋暗殺に直接関係し、土佐勤王党に関わり、さらに維新の戦い参戦してに彼の係累の多くが死んでいった話は、彼の『流離譚』に詳細に書かれている。郷士というものに格別の思いがある彼だからこその言葉であり、また彼はアメリカに留学経験があるし、そのあとも何度もアメリカを訪ねてアメリカについて詳しく見たし、考え続けてきたから、上記の言葉には深い思いがあるのだと思う。
別のところでは、アランの『裁かれた戦争--マルス』の中の言葉を引用しながら、
アランは、第一次大戦のときに砲兵軍曹なんだ。その経験から徹底的に彼は軍隊に反発して平和論を唱えるわけだけれども、最後の方でこういっているんだ。諸君は社会主義というものに期待してはいけない。社会主義はやはり組織を前提とするものであって、組織がなければ成り立たないものだ。組織があれば、必ず権力機構ができる。権力機構があれば、それは軍隊と同じであるといっているわけ。それで一人一人の人間が平和を本当に欲して主張し続ける以外にはなんの方法もないんだといっているんです。つまり、非武装中立を彼はそういう言葉でいっている。そんなことではおよそ平和運動というものはできないんだし、実に困るなと僕は思った。けれども、僕はそれ以後、年をとるにつれてだんだん自分はそれに共感してきたといえるな。確かに、社会主義に期待することは本当に間違いであって、期待できるものを自分の中でつくろうとする以外に方法はないだろうと思うね。
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